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2006年7月

ヒルズ族盛衰期03  3 日本人の常識と「ムラ社会」の形成

3 日本人の常識と「ムラ社会」の形成

 日本人は常識という言葉をよく使う。入社した手のころ、簡単な失敗をすると「そんなこと常識だろ」と起こられたことも少なくない。しかし、この「常識」こそマヤカシに過ぎない。
 そもそも、常識とは読んで字のごとく「一般人が通常持ちうる知識」のことをいう。しかし、ここには「一般人」と「通常」という二つの不確定要素がある。
 一般人とは何か。何を持って一般とされ何を持って一般とされないのか、その基準はあいまいである。極端な事例はわかる。精神の病気を重度に患っている方が一般でないことはわかる。しかし、その境目は見えない。だれも定義できない。
 同じことは、「通常」という単語もある。何が通常で何が非常なのかはあいまいである。
 常識とは、要するにわけがわからないが、その特定小集団において共通する認識でしかなく、その小集団を出てしまえば「常識」などというものは一切通用しない。そして、大多数の日本人はそのことをわからず、自分の、または自分の属している小集団(家族やカップルという最小集団を含めて)の常識が、世界中、下手をすれば宇宙全体の普遍の真理のように思っているのである。
 たとえば、正月のお雑煮などは、地域によって持ちの形や汁の色が異なる。しかし、地域によってはそれが常識であり、その地域にあっていないものは常識がい、ようするに異端とされてしまう。
 正月で、多くの家庭は門松を飾る。家の玄関の横に竹と松をあしらった飾りをするのである。しかし愛知県豊田市にはその風習(常識)がない。門松の代わりに松明をともすのである。この地域ではそれが常識であり、門松を飾るのは非常識なのである。
 なぜ、このように常識にとらわれるのであろうか。これは、日本人特有の「ムラ社会」の形成とそのムラへの帰属意識がそうさせていると考えられる。そして、もう一つは日本人に宗教感がないので、その代わりに説明のつかないことを「常識」として片づけてしまうようになっているところもある。詳細なとことは、社会学や民俗学などの教授に任せればよいが、日本人の根本的な部分にそのような意識が流れていて、その説明のつかない部分に無理が出ている状態であることは感じ取れる。
 その「ムラ社会と帰属意識」が大きく作用しているのが日本人のグローバリズム、要するに国際化である。
 日本人が国際化というとき、まずは英語ということになる。日本語は世界でも特殊な膠着語に属する言語で、最終の意思表示を、文章の末になるまでわからない言語である。膠着とは膠でつけるという意味で、助詞または助動詞、それだけでなく、動詞や形容詞の末尾活用(五段活用など)によって、後ろに言語をつけるということのできる言語である。「~でなくて」というように、後ろの言語によって文脈全体を180度反対側の結論にすることができるのである。これに対して、英語そのほかの多くの言語は屈折語、つまり、最初に意思表示をしてあとで、理由を説明するタイプの言語である。正反対のことをいうにはHoweverなどの接続詞を使うのが一般的であり、動詞の活用も過去形ぐらいしかない。
 どちらが優れているというものではない。言語である以上一長一短があるばかりか、その国の風土や国民性、文化などに大きく左右する問題であり、優劣を語る問題ではない。ただ、いえることは、この言語体系が文化や思考を大きく左右しているということである。
 要するに、英語的発想の人は、割と白黒をはっきりつけたがるし、その結論に関して先に決める部分が少なくない。周りに関係なく自分の意見を先に述べる、または先に結論づけて話す傾向がある。
 一方日本人には、中庸を最良とする文化があり、折衷案がでやすい。結論を先延ばしにして、なかなか結論をださない。また、優柔不断と思われるほど周りの意見をよく聞く。 
 このどちらがよいということはない。しかし、言語と同様にこれほど大きく違う国民性を持つのである。
 さて、国際化、グローバル化といい、英語を習得している人々も、このような思考法や思考体系まで踏襲するわけではない。日本人的な発想、日本人的な思考のうえに技術、伝達手段として英語という道具を使っているに過ぎない。よって、英語的な会話ではなく、日本語的な会話を英語でしているだけになってしまい、結論のない会話をしてしまうことが少なくない。
 先ほど、言語や文化に優劣はつけられないといった。しかし、ことビジネスの世界では英語的発想、英語的思考法の方が、物事スムーズに進むようである。結局は前に進まなければならず、同時に結論を出さなければならない。そのようなときに、結論が後に来る思考法は、あまりよろしくない場合が少なくない。とうぜんに、「怪我の功名」というようなばあいもあるが、時間の空費があることは明白である。
 せっかくであるから、日本語はその特徴を生かし、芸術などの分野では最高と思われる。結論を出す前に修飾語をつけることができる。たとえば「白」と決定する前に「雪のような白」ということが可能である。それだけでなく、折衷案を出したいときには最高の言語であろう。まだ結論が決まっていないことを話すのに最高な言語なのである。
 そのような話はこの辺にして、言語から来る国民性は、もう一つ重要な特性を日本人に与えている。それは、結論をいわなくても通じる社会の形成である。それは、同じ社会状況で暮らす人間における共通認識を重要視し、本人の自覚を即して本人以外のものは最終の結論をいわない社会を形成したのである。このことは、「自主的に処理した」要するに「第三者からの圧力を受けなかった」または「他人の強制に従わなかった」ということを外形上つくり、外形上の台頭関係を維持できるシステムを構成する。
 しかし、実質的に上下関係が出来上がるということができるばかりではなく、同じ環境でなければ話が通じないために、同じ環境、同じ共通認識を持ったものだけが集まるという「ムラ社会の形成」を促進することになる。
 「ムラ社会の形成」は、共通認識のものだけが集まるという特徴を有する。このことによって、ムラの中だけで通用する知識が横行する。これが「常識」といわれるものである。
 そして、最も問題なのは「常識」にないことが発生した場合は、それを排除してしまうことである。このことにより「日本」という「ムラ社会」は、そのムラの外で起きている「常識」から取り残されてしまい、自分たちの独善的な知識だけで世界に進出しようとする。そして、その世界(ムラ社会の外部)進出で自分たちの常識が通用しないことを知り、大損をして、ムラに帰ってきてより閉鎖的な社会を形成するのである。
 そのような、日本ムラ社会の構成員は、逆に外の世界であるムラの外部の常識をそれまで拒み続けてきたのであり、そのために、外部の情報に対する対処の仕方を知らない。つまり、真偽の検査をすることなく猛進してしまうか、ハナから拒絶するかの対応となってしまい、裏をとるとか検証するということができないのである。
 そのうえ、何か事件があれば国という自分の所属する最大のムラ社会に補償を求める。ようするに自己責任の意識はまったくないのである。
 このような日本人ムラ構成員をだますのは簡単である。ムラの共通認識を持ちながら新たな知識を出し、不安をあおり、そして盲信させればよい。一人だ加入させることができれば、 ほか全体もみな引き込んでくれるのである。
 人間が集団をつくる動物である以上、ムラ社会の形成は仕方がないことかもしれない。また、そのことに関する利点も少なくない。しかし、そのことに関する欠点も認識し、その欠点を補う活動をしなければならないであろう。

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