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2006年9月

安倍新自民党総裁の顔ぶれ決まる

安倍新自民党総裁の顔ぶれ決まる

 この文章を読まれる頃には、安倍晋三氏が内閣総理大臣になり、組閣に注目が言っていると考えられる。そこをあえて、自民党の役員が決まり、あす26日に内閣総理大臣が指名される日に、本文書をきさいしたい。
 なぜならば、非常に特徴的であり、あすの組閣でバランスが取れるかが一つの焦点になるからである。

 2006年9月25日安倍晋三自民党新総裁は、自民党の役員人事を午前11時に発表した。幹事長は、官房長官や国会対策委員長を歴任した中川秀直前自民党政調会長。総務会長には丹羽文雄元厚生大臣。そして、政調会長には中川昭一前農林水産大臣が就任した。また、焦点の国会対策委員長に二階俊博前経済産業大臣が就任。二階氏が選挙対策に関する責任者に就任し、三役に準じた権限を持つという。
 さて、問題は、前の選挙まで最大派閥であった津島派、旧橋本派が執行部に入っていないとのことである。もちろん、組閣大臣ポストでの処遇があるが、少なくとも、自民党の執行部から、現在の自民党第二派閥の出身者がいなくなるという状況になる。また山崎派からも執行部は出ていない。自民党内に森派を中心とする主流派と津島派・山崎派の反主流派ができてしまうことになる。
 ちなみに、中川秀直氏は同じ森派であるし、丹羽文雄氏は丹羽・古賀派の領袖。中川昭一氏は息吹派であるが、以前安倍晋三氏とは、森派が三塚派であった時代に一緒の派閥であり、政策も似通っている。
 
 一方の民主党は、渡部恒三国会対策委員長が最高顧問に格上げされたほかは、特に執行部人事に変わりはない。一応、元前原代表をはじめとする松下政経塾出身者以外は挙党体制の体系をとっている。
 
 さて、自民党対民主党の来援の参議院選挙に対する陣容が固まったが、挙党体制の民主党と、主流派・反主流派で党内の議論を出させる自民党の二つのタイプになった。
 
 津島派と山崎派の去就は、当然に明日(今日)の組閣しだいということになるが、大宏池会としては、麻生太郎外務大臣が留任を含めて重要ポスト入閣が期待されており、結局は津島派の処遇が焦点となる。
 大臣ポストは省庁の再編で少なくなった。その上、公明党との連立内閣のために冬柴公明党幹事長の国土交通大臣就任が濃厚となっている。また、青木参議院会長との調整で参議院から二名、その上に女性閣僚を入れるとなると、残っているポスト大臣は5くらいしかない。そのポストのうち、いくつを挙党体制の犠牲にできるのか。安倍内閣の挙党体制化、官邸主導の政策重視なのか、両立の「のりしろ」はここにしかない。
 
 国会対策委員長の二階氏は、自民党でも数少ない「出戻議員」であり、一時は小沢一郎民主党代表や鳩山由紀夫幹事長と同席をしていたこともある。お互い手の内を知っているもの同士の駆け引きになるために、今後の国会対策の駆け引きは面白いかもしれない。しかし、そのときに、自民党内から不協和音が聞かれるようになってしまっては、安倍内閣は短命内閣になりかねない。
 来年の参議院選挙に向けて、統一補欠選挙や沖縄県知事選など、見るべきものは多くある。
 安倍新総裁は小泉内閣のように官邸主導で、自民党内部の対立を招いても、政策を重視することができるのであろうか。または、同じ自民党に氏を引っ張られるようになるのか。
 何度も繰り返すが、組閣と、そして安倍新総裁の手腕が試される人事となった。

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安倍自民党総裁選出 

安倍自民党総裁選出 
初めての戦後生まれの首相へ 

 9月20日、午後3時頃より自民党総裁選挙の投票が行われ、703票のうち464票と過半数を取得した安倍晋三官房長官が決戦投票になることなく選出された。
 自民党総裁選挙に関する記事は、松橋主幹の担当なので、この記事ははじめから未掲載記事になる予定で書かれている。そこで、報道よりも観測や噂を中心にした記事を書いてみたい。もちろん、外れもあるかもしれないが、今回はお許しいただきたい。
 さて、総裁選挙は安倍晋三官房長官、麻生太郎外務大臣、谷垣禎一財務大臣と、すべて小泉第三次内閣の閣僚で争われた。過去の総裁選挙で、元職や自民党の役職と閣僚で争われたのは三つが、すべて現職閣僚で争われたのは稀である。
 第1位は464票の安倍氏、第2位は136票の麻生氏、谷垣氏は102票となった(無効票1票)。
 我々の注目は、安倍氏の得票数とだれが2位になるかということであり、安倍総裁選出は規定の事実であった。それによって、次の組閣や政策運営が異なってくるからだ。
 安倍内閣の基本路線は、アメリカ大統領府のまねである。大統領府主導ですべての政策を行うものである。しかし、その大統領府型の政策運営を行う方策は、日本のような議院内閣制の場合、国会の協力がなければできないことである。
 先月、棒象徴のセミナーで自民党三役クラスの代議士は「霞ヶ関はすでにシンクタンク足り得ない」ということを発言し、また、各官庁の局長人事にまで、首相官邸が口を出すようになってきている。また、各種独立法人や財団法人民営化によって、官僚の天下り先は次々と亡くなっている現状である。当然に、ノンキャリ官僚は、定年後65歳までの期間行く場所がない、無職になってしまうということになる。
 要するに、三権分立を明記している現行憲法下において、あくまでも国権の最高機関は国会であり、同時に内閣は行政府でしかありえないのである。その国会の協力を得るためには、当然に最大与党、連立与党の協力が不可欠である。
 では、与党の協力のためには、当然に安倍内閣は自民党と公明党の連立内閣であり、基本的には安倍内閣を与党は後押しするのであるが、しかし、小泉内閣時の郵政民営化の時のように多数の造反議員を出す場合が少なくない。
 今までの政治は、霞ヶ関の官僚をシンクタンクとし、政策を担当させながら、逆に国会の中では、立法などの面で霞ヶ関の官僚の権益を守るという相互依存の関係にあった。この関係は、国会と官僚という関係ができてから、要するに、明治維新時に大久保利通が官僚制を作り、一般民衆と隔離した特権階級化し、伊藤博文が国会を作り初代の内閣総理大臣になり、政党はなかったものの薩長土肥の派閥争いがあった時代から、軍部が政治を握っていた時代まで含め、延々と100年以上続けられた依存関係である。
 戦後、現在の憲法下でこれらの依存関係は続けられてきた。これら依存関係の中に組されている議員を「族議員」という。「族」とは厚生省に近ければ「厚生族」建設でも道路に近い場合は「道路族」などと言える。
 小泉内閣の継承と行政改革を公約に掲げ、首相官邸を行政の中心にする小泉手法を行うのであれば、当然に、族議員との対決、強いては霞ヶ関の官僚との対立が出てくることになる。そのときに族議員が多い自民党内において安倍内閣、安倍執行部の支持を取り付けることができるのか、または求心力を得ることができるのか、といったようなことが心配される。
 その意味からは、安倍氏の得票が500を超えなかった、つまり70%に満たなかったということは、安倍内閣や安倍自民党執行部において麻生・谷垣陣営に配慮を行う必要がある。
 それだけでなく、郵政民営化において造反議員として自民党を離れた議員に関して、其れを取り込むかということが重要な課題になる。特にキーマンとなるのが平沼赳夫元通産大臣と野田聖子元郵政大臣ということになる。
 郵政民営化で造反議員とされた議員は、二つに分かれる。亀井静香氏や綿貫民輔氏などほかの政党に属した(ほかの政党を作った)者と、無所属でいる者である。ほかの政党に属しているものは別にし、無所属議員は、無所属でいても選挙に勝てるし、それなりの基盤を持っている、要するに政界の中でも支持基盤がしっかりしている。
 平沼赳夫議員は「それなりの礼節(処遇)をしてくれないと」と戻ることに関して注文をつけた。逆に言えば、条件を満たせば復党してもかまわない、安倍内閣を支持するという態度である。平沼議員は、拉致議連会長を務めるなど、安倍内閣のひとつの公約である北朝鮮拉致問題解決のもうひとつの中心人物であり、安倍内閣の公約に必要である。また、平沼議員の地盤である岡山県は、片山虎之助参議院会長の地盤でもあり、反対に回られることは、元総務大臣をみすみす下野させることにつながる。
 野田聖子議員に関しても同じ。佐藤ゆかり議員は、小選挙区で野田議員に負けている。岐阜自民党県連は、いまだに中央に反し野田議員の指示を打ち出しており、参議院選挙での影響は必須だ。
 これら造反議員と党内の議員の調整を、安倍氏または安倍執行部主導でできるか、自民党の各領袖との調整が必要なのか、その音が500票という数字に期待が込められていた。
 今回の結果により、安倍氏は、安倍支持層だけでなく、政策の近い麻生陣営を組み込まねばならず、また、拉致匿名大臣であっても、大臣閣僚クラスで平沼議員などの造反組みも取りこまなければならない。その点では小泉純一郎執行部の負の遺産を背負ってしまった感が否めない。
 では、政策的にはどうであろうか。
 特に、小沢一郎民主党代表との党首討論に関しては問題がないものと考えられる。当然にそのことに関しては準備も党をあげて行う出あろう。自民党内において安倍氏支持と関係なく、来年の参議院選挙という意味で、問題が出てくることになる。
 しかし、政策はいかがであろうか。
 問題は山積している。まず公約であげた憲法改正、これは9条の集団的自衛権に関するものだけなのか、あるいは、三権分立や上記にあげたアメリカ大統領的な行政の部分まで波及するのかということまで考えられる。
 教育基本法改正に関しても、問題がある。國會新聞で記載(6月15日号)したが、安倍氏はイギリスサッチャー首相の教育改革と、大学教育学部教授の人事権や教育学部開設の許可まで含めた教育改革を理想としている。そのようにして被虐史観を否定してゆくことを考えている。それも正しいが、現在の日教組グループ要するに、今まで被虐史観を教育し続け、自民党政府に反対をし続け、しいては日の丸君が代や天皇制まで否定する集団の強硬な反対が予想される。
 拉致問題は、別途一度書かなければならないが、一主権国家に対して、今まで土下座外交しかしていなかった外務省が金やお土産で「犯罪行為」を認めさせることはかなり困難である。とはいえ、中国など支援国家があるにもかかわらず、日本だけが制裁を言っても仕方がない。それらの八方塞をどのようにするのか。
 年金問題や郵政民営化決定後の運営、米軍の基地問題、それに経済政策。特に安倍氏は経済政策が苦手といわれているが、その経済政策にいかに対応するのか。
 このように見てゆくと安倍内閣の問題に対し、八方美人的に、年功序列で閣僚人事を行うことはできない。とはいえ、挙党一致内閣で官邸主導の政治を行うための国会運営基盤を持つためには派閥間調整型の内閣にせざるを得ず、その調整が問題になる。
 いずれにせよ9月26日に首班指名があり、その後組閣が行われる。安倍氏は自民党三役(幹事長・政調会長・総務会長)も役員人事もそのときに行うと発表している。
 以上のことを踏まえて、個人的には幹事長と、官房長官人事に注目している。この二つのポストにより、安倍内閣の寿命がある程度占えるのではないか。安倍内閣が圧倒的な国民の支持率と、その支持率に支えられた与党の牽引を強行に行う力を持つのかどうか。安倍内閣の今後を占う問題である。

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飲酒運転と危険運転致死傷

飲酒運転と危険運転致死傷

 先日、夏休みの終わりに痛ましい事故が福岡県で発生した。家族で無視を取に行っていた車に、飲酒運転の車が追突し、追突された車は橋から墜落。乗車していた幼い子供三人が犠牲となった。
 被害者の夫婦が、何度も沈んでゆく車の中に潜り、水の中から子供たちを救出するという努力もむなしく、子供三人を殺してしまったのと対象に、加害者側は現場から逃走し、同時に水を飲むなどして飲酒の証拠隠滅を図ったという劣悪さが、対象的に報道された。また、この加害者が福岡市の職員であったことから、行政の管理や規範意識の甘さが指摘されている。
 この事件を契機に、危険運転致死傷という罪を増設した改正道路交通法以降、一時的に飲酒運転が少なくなったが、その後、ひき逃げが多くなるという皮肉な結果を報道し、法の不備を指摘する声が多くなっている。
 そもそも、危険運転致死傷という罪の追加も、東名高速道路での事故により子供二人が自動車事故とそれに伴って発生した火災によって犠牲となったことから、全国的な要望と不公平感が高まり、道路交通法の改正に至ったという経緯がある。
 この事故は、加害者のトラック運転手がほぼ常習的に飲酒をしながら運転を行い、トラック輸送に従事していた。この事故のときも、アルコールを接種したうえで高速道路を運転し、前方の渋滞に気づかず、または居眠りを行い、渋滞のために停止していた被害者の車に追突した。運悪く被害者車の燃料に引火したために、後部座席にいた子供二人が犠牲になったというものである。
 日本、殊に地方の場合に飲酒運転を容認する風土があり。このことは、居酒屋やバーなどに駐車場があることでわかる。店側とすれば、ただでさえ少ない売上に対し、車であろうと来店客を増やそうという考えがある・同時に、帰りは運転代行などを雇えばよいことであり、そこから先は責任がないという意識が働いている。
 責任がないという意識から、顧客が車できているのか、運転するのかなどの確認をせずにアルコール類を出し、また、次も来てほしいために、客が「大丈夫」といえば、泥酔状態であっても運転代行を呼ぶなどの制止行為をせずに客を送り出す。そのような飲酒運転の悪の循環が存在するのである。そればかりか、これら行為または不作為が売上という自己都合に起因していることから、店内にいるときは当然に酒を勧めるということになる。その態様が強引かどうかは別にしても「すこしくらいはいいのではないか」という雰囲気を作り出し、アルコールの消費を促すのである。そうでなければ店の売上は伸びない。
 しかし、そもそも地方の経済は社会で成立している。県庁所在地などはよいが、外れてしまえばバスしかない状態であり、それも夕方には終バスになってしまう。アルコール販売を行うにしても、車での来店が前提になっているのである。東京や大阪などの大都市に限っての話をしても通じない。なぜならば、大都市にいる人も、そのような地方の車社会の環境で育った人が少なくないからだ。
 
 日常であれば、その日常を否定するのは難しい。いかにその行為が法律に違反していたとしても、それが日常であり、それがその人を取り巻く社会環境であるならば、その行為は犯罪になりえない。刑法を勉強していると、刑罰は、なぜ行われるのかという議論がされる。大きく分けて報復刑論と教育刑論の二種類が存在する。
 報復刑論とは、「目には目を」「人殺しには死刑を」という、被害者の被った痛みをそのまま加害者に行うというものである。基本的に、どの国であっても刑事事件の被害者や遺族の感情は報復刑ということになる。
 これに対して教育刑論とは、犯罪を犯したのは、個人の資質だけでなく、その加害者の育った環境が犯罪を作り出している。よって、加害者に対し、一定機関教育を施せば、加害者の犯罪行為はなくなるというものである。多くの国の刑罰はこの論拠に立脚している。懲役刑や初犯は刑罰が軽くなるという法廷の仕組みは、犯罪者に対する教育ということが念頭におかれているからにほかならない。特に、自動車事故の場合によく用いられる業務上過失致死と殺人罪が財形が異なるのは、同じに人を殺したとしても、過失で殺した場合と故意に殺した場合は、教育する期間が異なるというものである。
 上記の二つの事件も、加害者への教育と、刑罰による犯罪の抑止効果を狙った危険運転致死傷は、業務上過失致死と殺人罪の間に当たると位置されるものの、その内容はかなりあいまいになっている。
 
 道路交通法上、アルコールに対する規定は処罰が軽い酒気帯びと酩酊の二種類ある。呼気1リットルあたり0.15ミリリットル以上を総じて飲酒運転とし、1メートルの白線のうえを正常に歩けるか否かで酒気帯びと酩酊が判断される。
 ここに最大の問題がある。要するに歩けるかどうか、という主観的事象が混在しているのである。日本の場合、法体系で主幹事象を判断材料に入れることは少なくない。人を殺した場合も、殺すつもりであったのか、少し傷をるケルつもりであったのか、まったく危害を加えるつもりでなかったのかという主観(内心)の違いにより、殺人罪、傷害致死、過失致死の三種類に分かれ、量刑も最高刑で死刑、懲役15年、懲役5年とわかれる。
 要するに、それなりの客観的事実をそろえて、内心を取り繕えば、量刑が甘くなる可能性があるというものである。しかし、これは故意と過失の問題であり、なかなか取り繕えるものではない。
 危険運転致死傷と通常の交通事故、つまり業務上過失致死と問題は、いずれも過失であり、過失の態様を飲酒の関連並びに主観で判断するというもの。同時に、飲酒の内容は時間とともにアルコールが体内で分解されることより、時間を王ごとにその判断は難しくなり、量刑が軽くなる。

 では、どのようにするのがよいのか。当然い法律や政治的な解決は難しい。このような飲酒運転の自己が発生することをもって、政府を批判するのは間違いであろう。もちろん、福岡の事件の福岡市は別である。結局、人間個人の行動とモラルを法律や政治で帰ることは不可能である。たとえば、飲酒運転を死刑としても、死刑覚悟で飲酒運転をする人間が出てくれば、または、取り締まりが100%でなければ、要するに見つかる(罰せられる)可能性が少なければ、抑止力にならない。
 では、酒を禁止するとしても、アルカポネであるマイし、闇での飲酒が増えるだけである。機械的に飲酒を検知して車が動かなくなるとしても、何らかのほかの方法が発見されるであろう。飲酒させる店、居酒屋やスナック、バーなどを罰するというてもあるが、過失犯罪の報助というのも法体系的にいかがかと考える。
 結局は飲酒運転の免許再発行禁止や免許失効というものと合わせることと、危険運転致死罪の判断基準を下げる、つまり、主観による判断で分けるのではなく、客観的事実、たとえば、数時間前までに飲酒の事実があるなど、時間をおいた捜査でも判断可能な判断材料によって適用できることにすること、そして、ひき逃げが増えないように、救助活動を行った場合の減刑ということを検討すべきであろう。

 地方自治体は、この事件を契機に飲酒運転で検挙された場合の懲戒免職を相次いで発表している。神奈川県などは、同乗者に対しても戒告または免職という、共犯性を認める処罰規定を発表している。これら処罰規定は、客観的な基準によって、例外なく運用されるべきものである。今までの地方自治体は、例外規定が多かったが、今回の飲酒運転に関する事項は例外なく運用できるのであろうか。
 一つの裁判が別に行われている。小学校教諭が、飲酒運転で懲戒免職になった。市の教育委員会では、飲酒運転で検挙された場合は免職という規定があり、それを運用したものである。当該教諭の主張は、自分の1カ月前のほかの教諭は免職になっていないためv自分への処罰は重すぎるというもの。教育委員会は、この教諭、複数回の飲酒検挙があるといい、戒告処分の直後であったために厳格に規定を適用したという。
 人の範となる教諭がこのような裁判をしているのである。地方自治体の飲酒運転免職免職規定の運用はどのようになるのであろうか。

 いずれにせよ、道路交通法、及び運転のモラルについて、再度考え直さなければならない時期かもしれない。

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祝 秋篠宮紀子妃殿下男子新宮ご出産

 9月6日、今上陛下のご二男で皇位継承第2位にあらせられる秋篠宮紀子妃殿下が男子新宮をご出産された。皇室においては秋篠宮殿下以来41年ぶりの男子のご出産に、祝福ムードが高まった。

 皇室に男子が生まれたことは、現在の皇太子殿下の次の世代に皇位継承者ができたということであり、神武天皇以来の天皇家が存続することを意味する。

 もちろん、今上陛下の弟君にあらせられる常陸宮殿下はこれで皇位継承が遠くなるという一部報道がなされたが、基本的に殿下が現段階で皇位継承を望んでいたかどうか、そのことをことさらにいうのはおかしい。

 そのおかしいことがいわれるのは、今年春に皇室典範改正の論議が上がったことに由来する。

  皇室典範改正論議とは、小泉純一郎内閣が「聖域なき構造改革」をあげていたこと、同時に、現在の皇太子御夫妻には女性の敬宮愛子殿下お一人しか子供がなく、また皇太子妃雅子妃殿下は、その後長く御病気を患われて、長きにわたり公務をご欠席されていた。また御年齢も40を超えておりかなりの高齢出産となる。このことから、現在の皇太子ご夫妻に愛子殿下ほかのお子様のご出産は難しいものと判断される。

 ご二男の秋篠宮殿下は、これはこれで眞子様・佳子様の女子お二人となる。

 そうなると、今上陛下の直系のお子様が皇室を継がないことになり、将来的には皇位継承者がいなくなるという心配が出てきた。

 そこで、皇室典範を改正し、女性の天皇を認めるべきではないかという議論がなされたのである。

 この議論は、今までの小泉改革と同様に、電撃的に行われ、有識者会議が開催されるに至った。もちろん、発表されたのが電撃的であり、その懸念や改正の火種は政府与党内にあったのであろう。しかし、有識者会議は、何の前触れもなく突然に発起され、これもまた電撃的な速さ、というよりははじめから結論が用意されていた会議のように「女系天皇を認めるべき」という結論を出した。

 しかし、この有識者会議に皇族から反論がなされた。有識者会議に皇族の出席者メンバーがいなかったこと、非公式に「他人」の家系について議論するのは失礼というものである。第三者の私が聞いてごもっともな御意見である。

 その御意見がだされ、皇室典範論議がサイド活発化されてきたところで、秋篠宮紀子妃殿下の御懐妊が発表された。

 このことにより、皇室典範改正論議は一時下火になり、秋篠宮の新宮のご出産を見守ることとなった。

 

 このようなことがあったために、今回の新宮の性別は、そのまま、皇室典範改正論議、しいては皇室について書かれている憲法改正論議にまで発展し、戦後最大級の政局を迎え、なおかつ、戦後政治の転換期の一つの標となるところであった。

 ときあたかも自民党総裁選二週間前。安倍晋三官房長官の就任が濃厚とされ、またその安倍氏は時期総裁への立候補の所信表明演説に、次期内閣は憲法を改正するだけの強力なリーダーシップが必要と発言している。当然に皇室も聖域ではなくなっている。

 今回のご出産は、そのような天皇家に関する聖域性を守り、天皇家を政争の具に供しないに十分であった。

 

 皇室典範の議論は必要である。今回のニュースであるように、イギリスの国民などは、自国が女王陛下を頂いていることから、女系天皇を認めるべきという意見が多数挙げられている。今の時代「男女同権」が近代国家としてふさわしいというものである。

 男女同権が日本の天皇家において必要であるか、伝統に従って男子優先とするか、それは日本の歴史の問題であり、様々な意見が出るであろうことは予想される。その中には共産主義者が主張している皇室廃止論から、右翼系政治団体が主張する天皇主権制まで出てくるであろう。

 いずれも、一理ある話であるが、すべて皇室不在の議論に過ぎない。

 今回の新宮ご出産はそれらの議論をさせないのではなく、その問題を少なくとも数十年引き延ばすには十分である。

 小泉首相のインタビューで、「将来的には議論は必要であるが、来年皇室典範の改正を国会で議論すべき問題とは考えない」という。

 男子新宮が御生誕した以上、その議論をし、女系天皇を強硬に主張することは、新宮に対して失礼である。少し前のいい方をすれば「不敬」にあたる。現行の皇位継承者を配してほかの候補を立てるという解釈につながりかねない。現代であるからよいものの、奈良時代や平安時代ならば、そのまま戦争になる問題である。

 そのような大混乱、国論を二分する事態を避け、現行のまま皇位継承者ができた今回の事案は、単なるご出産という慶賀だけでなく、日本の危機を救った奇跡かもしれない。

 もちろん、その結果を目指して、「生みわけをした」などのうわさは絶えないが、祝賀ムードによりそのような声はかき消されてしまう可能性が高い。

 

 いずれにせよ、将来に不安があろうとも、今回のご出産は、素直にお祝いしたい。

 

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ライブドア事件初公判について思うこと

 9月4日、今年の10大ニュースには必ず入るであろうライブドア事件の初公判が行われた。
 この事件に関して私の思うところは、同じブログの「ヒルズ族盛衰記」に記載しているので読んでもらうとうれしいかもしれない。
 ライブドア事件とは、それまでITバブルといわれた、インターネット業界の隆盛の象徴の一人で「時代の風雲児」といわれたライブドア前社長の堀江貴文氏が今年の一月、証券取引法違反容疑(風説の流布、偽計取引、粉飾決算)で逮捕された事件である。
 堀江氏と同時に、宮内氏、熊沢氏など計4名の主要経営陣が逮捕される事態になり、同時にライブドア株が上場廃止になるという事態になって、その社会的影響は非常に大きなものになった。
 その事件の初公判が行われたのである。傍聴席60に対し2000名を超える傍聴希望者が東京地裁の前に並ぶという、法律家からみると近年稀にみる傍聴行列であった。テレビ各社も、公判開始からずっと関連番組を放送した。公判を中継できないのに、である。

 しかし、どうしてここまで騒がれるのであろう。

 この事件、それほどの大きな事件ではない。まず、取締法規そのものが有価証券法違反であり、刑法違反ではない。もちろん粉飾決算は大きな罪であるが、ほかの粉飾決算事件、たとえば倒産した三田工業など、それほど騒がれてはいない。少なくとも、その企業の代表取締役の公判がここまで注目されるほどのものではなかった。
 第一にいえるのは、堀江という人物がマスコミで有名であり、同時に「マスコミ受けするキャラクター」であるということがいえる。拝金主義で「人の心を金で買える」と豪語する態度は、一方で強烈なカリスマ性と、宗教的な支持を取り付けながら、逆に一方では完全なアンチを製造する。みなが心のどこかで金もうけは大事だと思いながら、日本人の美意識と慣習に基づいて、金を持つことや金にこだわることは美徳とされなかったというなかで、この堀江氏は完全に金にこだわった発言とその心情に沿った会社経営をしてきた。その拝金主義が司法の場で白日の元にさらされるという興味がある。
 もう一つには、ライブドアの株主がかなり多くいたということである。株式の分割と第三社割当増資を行うことによるキャピタルゲインで資金を集め、子会社や買収会社に同じ手法をとって会社資産として計上した。この、子会社の株式の売買を売上に計上したことと、子会社株の売買のときに、事実と異なることを表示したことによる有価証券法違反が、堀江の罪状となるわけだが、少なくともそのことによって、会社の時価総額は世界一に到達しようとしていたことは間違いがない。
 そして、そのことにつられてライブドアの株を買った人は少なくない。株式を分割するときに、かなり低額な株価で購入した人が少なくないのであり、それは、昨今はやっているインターネット株取引のえさになった。そのような株主が多いから、興味を持つ人が少なくないという。

 しかし、それだけでこれだけ多くの注目を集めるだろうか。それも判決ではなく、初公判で、である。

 ライブドアの事件や裁判そのもには別にして、今回の報道はマスコミの自己防衛が隠れているとみる。
 まず、堀江というキャラクターをここまで有名にしたのはマスコミである。もちろん、そのきっかけはITばぶるであり、または、2004年の近鉄バッファローズの買収である。野球のオーナーたち、特に渡辺恒雄読売新聞会長や堤義明西武グループ代表によって画策されたとする、1リーグ制に対抗し、当時経営が破たんしていた近鉄球団を買収すると名乗りを挙げた、とくに、選手会会長の古田敦也ヤクルト捕手と一緒に出てきた姿は、プロ野球を愛する、またにリーグ制を守る救世主というよりも、ナベツネを代表とする旧体制に対抗する新興勢力のような取り上げ方をしていた。当時の悪者、悪の独裁者はナベツネであったのだ。
 その後、フジテレビ、日本放送の買収に関しては、日本で数少ない敵対的買収のさきがけとなった。このころから、マスコミの風あたりは非常に強くなってくる。マスコミに敵対的買収をかけたのだからとうぜんである。そして、この買収が失敗したあたりからライブドアに影がさしてくる。
 しかし、この逆風を避けるように、2005年の総選挙で、広島三区(尾道など)、郵政造反組の亀井静香議員の選挙区で無所属、自民党推薦で立候補する。このときに武部自民党幹事長や竹中総務大臣が応援演説に行った。当然にそのように予定を組んだのは二階総務局長である。(いずれも当時に肩書)
 そして、落選後、完全にライブドアに影がさす。そのころから、特捜はライブドアの不透明資金に関して事件制があると判断して捜査を開始し、また、そのことに気づいた外資ファンドなどは次々と離れてゆくことになる。
 このような事実関係を追っていてよくわかるのは、堀江というキャラクターをつくったのはマスコミであり、マスコミは自分のつくった虚像に振り回され、その虚像に集まった金で敵対的に買収をかけられる。
 今回の報道は、まるで堀江という自分たちで作り上げた虚像を払しょくするためのセレモニーのようにしか思えないのである。いかにも堀江の作り出した虚像に自分たちがだまされたか、のようなかんじである。
 いずれにせよ、訴訟になっている以上、何らかの結論が出るであろう。今回の裁判は、訴訟の新制度である訴訟前準備手続きという方法を行い、事前に争点を明らかにしたうえでの集中審議という点でも注目されるが、この点については、長くなったので、別に書きましょう。

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冥王星がなくなった?

冥王星がなくなった

 8月の話題というのは基本的に少ない。世界でも有数の勤勉集団の日本であっても、お盆休みというのがある。学校も夏休みでまるまる一カ月ない状態。
 海外をみてみると、「サマーホリデイ」なる話で、日本の学校と一緒にほとんど休みになってしまうし、中東の国では、そのような制度がなくても、法律で気温が40度を超えると自動的に休みになるシステムである。
 このKOKKAI PRESSのブログも、7月まではとにかく、8月はネタがなくて困っている次第。結局堀江村上の件の連載をだらだら続けてしまった。本紙国会新聞は、基本的に政治関連以外の内容は掲載しないので、結局は経済記事や社会記事はココのブログに来てしまう。どうせブログならば、長編にしてしまえ!というのがコンセプト。

 そのように悩んでいたら、何やら大きなニュースが飛び込んできた。

 「冥王星がなくなる」

 何でもコペンハーゲンで世界中の天文学者が会議をして、太陽系の惑星の定義を確認したところ、冥王星は星の大きさからその定義にはいらないおおきさであったという。
 冥王星は、1930年にアメリカで発見された太陽系の惑星で、当時は光学望遠鏡で計測したことから地球とほぼ同じ大きさの惑星として認識されていた。しかし、近年の研究と精密な検査によりかなり小さい惑星というようなことがわかったとのこと。
 結局冥王星を惑星と数えれば、太陽系の惑星はあと3つも増やさなければならないし、そうでなければ冥王星を太陽系の「惑星」ではないとしなければ「不公平」であるらしい。

 この問題は、我々の生活には直接かかわることは何もない。冥王星が物理的に消滅または爆発したわけではない。よって、冥王星のかけらである隕石が地球に落ちてきたり、引力の問題で以上気象が予想されるわけではない。そもそも冥王星が関係なくても地球の環境問題はかなり深刻である。
 しかし、そのような問題になっているわけではない。地球に住んでいる学者という人種が、勝手に冥王星は太陽性の惑星ではないと決めただけである。
 
迷惑な話だ!

 いままで太陽系の惑星といえば水金地日木土天海冥と決まっていた。しかし、これが今度から一つ消えるという。生活には関係ないが、それまで習ってきたことが、急に、それもどっかの会議で間違いにされてしまうのである。
 もちろん私は天文マニアではない。間違いなく文系の出身で理数系は完全に赤点ぎりぎりで、先生方のお情けでなんとか卒業している始末。そんな私でも記憶していることが、急になくなるというのは、いかがなものかと思う
 私個人は、小さいころにみた宇宙戦艦ヤマトの敵ガミラスの前線基地が冥王星にあったと記憶している。もちろん漫画の中の世界だ。最近深夜のテレビでみて久しぶりに昔を思い出した。あの冥王星が惑星でなくなるというのも悲しいものである。
 また、冥王星は、太陽系で唯一研究が進んでいない「惑星」であった。子供じみた話だが、冥王星には冥王星人がいないとも限らない。人のような地的生命体でないにしても、氷で覆われている、つまり水分があり、地殻の方で温度があれば何らかの生命体や微生物がいてもおかしくないのである。
 もちろん、有人で冥王星まで行く技術がないので、というよりは、いまだに火星などもいけていないので、到底先の話になると思われるが、冥王星の生命体がいれば、自分たちの意向を無視して勝手に惑星でないとするなどもってのほかとおもうであろう。もちろん冥王星というネーミングそのものが気に食わないかもしれない。
 
 今回のことで私が最も気にするのは、完全に「机上の空論」で定義もなにも決めているという事実。
 日本人が常識と思っている太陽系の惑星も、あいまいな定義と不完全な計測のうえで成り立つものであり、そのうえで、実際に現場に行かないことを前提で「専門家」が決めてしまうという事実である。
 歴史に関しても同じであろう。当事者は、近現代史ならいるが、それ以外は事実を語ろうとしない。のちの歴史家と称する専門家が、自己都合で決めてゆくものである。
 訴訟の格言で「真実と事実は別」というものがある。それは、人為的に決めるものは、真実に近くてもそのものではない、レプリカであり、後で近似値認定するものだ、というものであるが、理数系の世界でもあるのかと、かなりおどろいてしまう。

 まあ、冥王星が惑星でなくなっても、普段の生活には何のかかわりもないのですが、何となく悲しくなったので。

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