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2007年4月

長崎市長選の悲劇とテレビ朝日の報道

長崎市長選の悲劇とテレビ朝日の報道

 4月18日、長崎市長選挙において、長崎市長で選挙候補の伊藤一長氏が、選挙遊説から事務所への帰りに、事務所前で山口組系水心会会長代行城尾容疑者に襲撃され憤死するという事件が発生した。
 背景には様々はことがいわれているようである。一応報道では公共事業の不正や、容疑者周辺への融資拒否、容疑者本人の自動車事故の保障不成立などが挙げられている。
 これら動機がすぎに報道されたのは、テレビ朝日番組の「報道ステーション」に対し、容疑者本人から告発文(犯行当日は、テレビ朝日は犯行声明文と呼称していた)文書が送付されていたことによる。その文書並びに同封されたテープから、犯人本人の動機となりうる、または、そのように自称している部分をとって報道しているのである。
 さて、この事件をとって民主主義の暴力による弾圧とか、拳銃に対する規制の強化をいうのは簡単である。しかし、暴力団組員の暴力に対して、結果論で様々言うのは簡単であるが、具体的に予防措置をどのように講じるか、評論する人はいない。具体的にできないからである。一部でこの事件に対する安部首相の発言を取りざたする向きもあるが、基本的に犯罪に対するコメントを様々いうのは、安部首相に犯罪の情報がどれほど入っているかという尺度がなければ、図れない話であろう。
 こんな、月並みな話をするために、今回の文章をつくっているわけではない。
 今回は、この事件に関連し、もっと大きな問題を包含した報道の姿勢が見えたのである。
 城尾容疑者からの文書(告発文または犯行声明文)が届けられたのは、テレビ朝日の報道ステーションだけである。まず、テレビ朝日はこの事件発生まで当該文書を放置していた。そのうえで、当該文書をよく読みもせずに犯行当日の番組で「犯行声明文」と呼称して報道し、翌日に謝罪しながら「告発文」と変更している。
 そして、もっと重要な話は、警察から捜査目的での任意提出を拒否し、裁判所からの令状でやっとしぶしぶ提出したという話である。
 問題点を整理すれば、
 1 告発文を入手しながら放置した。犯罪予防または情報の取り扱いが乱雑であること。
 2 文書を読みもせずに報道を行った。報道そのものの信ぴょう性を疑われる行為をおこなった。
 3 警察の捜査への非協力。自分の報道のために事件の解決再発防止を無視した行為をしたこと。
 
 これらの行為に対し、だれも苦情または問題視した発言をしていないこと。これは一種異様である。
 まず、情報の取り扱い。
 本来マスコミは情報の取り扱いに関して慎重かつ迅速でなければならない。当然にその情報に関してウラをとって確実にしなければ報道できないということもある。また、報道を行っていれば全国から多数の情報が寄せられ、その情報の収集がつかないこともすくなくない。その点では、今回の「告発」があったにせよ見落としてしまう可能性は少なくないことはわかる。
 しかし、例えばこの情報を伊藤市長の関係者に充てていたり、市役所に問い合わせをしていれば、市長周辺ももう少し警戒をしていたであろう。今回の事件を未然に防げたかもしれない(可能性はかなり低いが)。
 情報は、そのように報道するしないではなく、それ以前に取材活動や報道姿勢を通しての社会の健全化を図るべきであり、自分の番組だけがスクープ記事を得られるような「我田引水」の考え方だけではどうにもならないということを考えるべきである。
 その意味で、今回のテレビ朝日の事件前の情報の取り扱いは残念である。しかし、ここだけに関しては(ほかの二つの問題点を除いて考えれば)はある意味で同情もする。そもそも統一地方選挙で告発は多数寄せられている。結果論で長崎市長選挙の内容だけを大きくクローズアップできない事情もわかる。そもそもこのような事件を予想できたかどうかということは、犯行生命のような文書が書かれていたとしても難しいであろう。
 しかし、ほかの二つの問題点はこのような同情の余地はない。
 二つ目の問題点は、よく読まずに報道を行ったこと。報道の信頼性の問題。まず、犯行当日には「容疑者本人から犯行声明文が届けられていました」と報道され、翌日には「犯行の実行を示す文書はなく、告発文とすべきでした。このことを持って犯行の事前抑止などができない」と謝罪をしている。
 では、犯行当日の報道はなんだったのか。
 ついでにいえば容疑者の個人住所なども黒塗することなく、そのまま報道した。容疑者の個人住所などは全国に知れ渡った。対象が暴力団幹部であるとしても、今日の個人情報保護法による保護の中で何たる失態であろうか。このほかにも固有名詞などかなり報道されていた。翌日NHKで同じ文書を報道したが、数カ所の黒塗部分があり、しっかり吟味して画面に映し出している姿勢がうかがえる。多局も同じである。
 結局、このことが示すのは、テレビ朝日の報道がその場その場の場あたり的で、あまり内容を吟味していないものでも報道してしまう姿勢があるということが明らかになった。
 テレビ朝日のすべての報道がそうだといっているのではない。しかし、一つこのような例を出してしまえば、ほかも同一視されてもし方がないのが今日のはなしである。関西テレビは、「あるある大事典」のねつ造報道で社長辞任という状況になっている。今回の失態は、いかに緊急、かつ予期できなかったにせよ、
問題のある行動であることに変わりはない。まったく議論していない資料であれば、届いていた事実のみを伝え、詳細は読んでから報道すればよい。それだけ四件可能性の低い事件であったと謝罪すればよいことで、事実でない「犯行声明」を言ってみたり、固有名詞をそのまま報道するなどは、報道機関としてあってはならないことである。
 第三の問題点は、捜査への非協力である。
 刑事事件が発生した。そして、その事件に関する資料があり、また関連している認識もある。もちろん被害者または加害者と関係がない。たとえば刑事事件の目撃者などは、「国民の義務」として、事件解決のために捜査に協力するのがとうぜんである。もちろん、一般の国民の場合、ほかの仕事や自分の予定などにより、任意の同行をできない場合があるが、それでも資料提出などできる範囲で捜査協力をする。
 テレビ朝日はその捜査協力を拒否した。その拒否理由はわからないが、自身の報道の「特ダネ」を持っていかれることを拒否したと考えられる。
 しかし、それは良いことであろうか。まず、国民であれば、刑事事件、それも重大事件に関してその解決に協力するのが当然であり、任意の提出請求がなくてもコピーの送付などを行うべきではないのか。
 これでは、テレビ朝日が北朝鮮の拉致被害者を発見しても、自分の番組で取り上げるだけで拉致被害者を救済しないのと変わらない。火事で死にそうな人がいても、または目の前で北朝鮮人に拉致されている現場にいても、そして、自分たちしか助けられる人がいない場合でも、捜査に協力せず、救出せず、自分の番組のために報道に徹するというのと同じである。
 テレビ朝日にご出演のコメンテーター諸氏は、いかに思っているのか、あるいは、自分の収入を少なくすることを恐れて口を貝にするのであろうか。彼らに他人の事件をコメントする資格もないし、この拒否した人々に事件を報道する資格もない。私は、この発言は言いすぎではないと考える。
 これらの問題に関し、第1の問題についてのみ謝罪で済ませている。数カ月前、柳沢厚生労働大臣の「生む機械」発言のときは「謝罪だけでなく辞任で誠意を見せるべき」といっていた人たちのとる態度がこれである。
 今回の事件に関し、他のことも書かなければならないことは多い。政治家と金の問題に暴力団が関与している例として、そしてその結末として長崎市長が殺害されるという事件に発展するということ。そもそも、公共工事や公的融資が長崎市だけの決済で終わっていたのか。県や国会は関連がないのか。それらの縮図が長崎に、最も過激な形で出てきたのではないか。すでに我々の間では、元衆議院議員で佐賀県選出のS氏の残党や、九州選出のK衆議院議員などの名前も上がっているが、その真相は明らかでないし、彼らの名前をここで出せるほどの資料は存在していない。
 しかし、そのようなことに関しては、今回の事件だけに適用されるものではなく、日本の制度の問題として、または、国際的に恥をさらしているODAなどの制度にまで発展して書かなければならないし、何よりも、以前にも書いたかもしれないが、日本人の非国際化と閉鎖性に関して国民一人一人が自覚しなければ治るものでない。談合事件が何回も起きていてもなくならないのは、真の意味で競争原理を日本人がわかっていないからであろう。
 今回の事件特有のことでいえば、ここで書いたテレビ朝日の問題行動の方が重要なのかもしれない。

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東京石原都知事三選。現職9人が当選。

東京石原都知事三選。現職9人が当選。

 あれだけ騒がれた都知事選が4月8日に投開票され、投票の過半数を超える得票数で石原都知事が三選目の当選となった。
 当初、親友といわれた黒川候補の出馬、民主党が推薦する浅野前宮城県知事の立候補などを受け、また、石原都知事の出張費などにかかわるスキャンダルが出るなどして、混戦の様相であった。また13名も立候補者が出るなど、話題性もあった。
 しかし、選挙戦中盤からほぼ石原三選が見えてくるにつれ、選挙戦そのものが興味がなくなり、各候補の露出が少なくなった。
 さて、統一地方選挙ということで、この選挙は東京都だけでなく、ほかの地方自治体も首長選挙が行われた。北海道や岩手、神奈川、福岡などがそうである。
 今回の統一地方選挙の最大の特徴は「争点なき選挙」ではないだろうか。
 テレビやマスコミなどの報道では、「マニュフェスト(政権公約)選挙」といわれ、これに先駆けて行われた、宮城県知事選挙での東国原知事(芸名そのまんま東)の選挙戦に似せた、詳細なマニュフェストとそこに対する実行性が争われる選挙であったとされている。しかし、本当にそうであろうか。
 都知事選挙でもほかの知事選挙でもマニュフェストで戦われた形跡はない。マニュフェストそのものは配布しているが、実際にそれらが選挙演説などで出てきたこともなければ、その実行性を検証したこともない。
 では、何で争われたのか。
 結局、マニュフェストの有無にかかわらず、何か基軸になるものと、その基軸に対してアンチの勢力という対立になってきてしまっている。あとは、「アンチ」勢力のアンチの方法だけで細分化されているのであり、その受け皿の争いでしかない。
 宮崎県知事選挙と都知事選挙を例に挙げてみてみよう。
 宮崎県知事選挙の場合、現職の県知事が汚職事件の逮捕によって辞任した。このことはすべての候補が新人知事であることを示している。
 そこで、与党推薦知事と野党推薦知事のそれぞれの候補と、無所属で支持母体を持たない(とされている)知事候補が出馬。その中で無所属候補が詳細なマニュフェストを作成して配布するに至った。
 ほかの候補は、支持政党頼みであったこともあり、組織票固めに走ったのに対して、東国原候補(現知事)はマニュフェストの説明と浸透に終始した。この結果、政策、政権公約の浸透とその実行力、そしてその期待感といったことから、現代の選挙で最も多いとされる無党派層がすべて流れるという現象に至った。その後のことはマスコミ報道、ことにワイドショーで見てわかる通り。
 この選挙からは、無党派層はイメージでなく政策をきっちり見ている。政党の看板ではなく、候補者一人一人の個性で判断しているということである。もちろん、「そのまんま東」という芸名とそれまでのマスコミ露出がそれに拍車をかけているものの、まったく根幹のない候補に投票するほどの話ではない。結局は、ある程度の知名度と、しっかりしたマニュフェスト、そしてその中に記載された政策の実行力のアピールに、候補者個人のキャラクターや知名度が得票数に影響するということがわかった。
 一方、都知事選挙の場合。これはどの候補も争点をつくることができなかった。この「争点なき選挙」でマニュフェストといっても、対立軸がない議論しかなかった。
 もともと石原都知事及びその陣営は、争点なき選挙にすることを戦略として持っていたようである。以前に書いたが、オリンピックといっても8年以上先の話であるし、首都移転や福祉、教育などは国政の問題であり、都政固有の争点ではない。都民の生活のために何をするのかという議論が何一つされなかった。
 本来であれば、反現職候補がそれら争点を作り出し、石原都政に対して議論を挑まなければならない。しかし、最も有力な対抗馬とされた浅野候補は、それらの政策を打ち出したり、議論を出すことができなかった。吉田候補や黒川候補に関して言えば、しっかりと反論をしていたが、その実行力という意味での期待感がなかった。一つには石原都政の問題点(彼らが問題点と考えているところ)をしっかりと伝えることができなかったということ、もう一つはその改革の実行のぐ対策が出てこなかったことだ。たとえば黒川候補の霞が関官庁街一部移転と都民住宅構想であるが、移転先にめどがついていない以上、その計画は計画でしかない。東京都だけでなんとか対処できる話ではなく、国やほかの道府県を巻き込まなければならない話である。それでは有権者を説得できない。
 結局は、これらのことから、というよりは都政の課題を現職である石原候補に突き付け、そして改革案とそのぐ対策を都民に示すことができなかった。このことはそのまま過去8年間の石原都政に否がなかったということを意味してしまい、そのまま石原都政の信任投票になってしまうのである。課題を出すことも改革案を出すこともない信任投票の結果がどうなるかは火をみるよりも明らかである。また、その通りの結果になった。
 民主党推薦の浅野候補は、石原氏の対抗馬として戦い、注目を浴びたが、石原候補に勝っている部分(年齢や宮城での改革の実績)を打ち出すこともできず、また結局は政党頼みになり、また政党は、都政であるのに自民党批判、国政題材、そして石原候補の個人攻撃(金銭スキャンダルなど)を取り上げたに過ぎない。7月に行われる参議院選挙の前哨戦かもしれないが、都政で国政を持ち出したり、イメージでの個人批判をしたりでは勝てるはずがない。というよりは、都民を馬鹿にしているとしか言いようがない。
 このように、単にイメージや批判非難だけでは無党派層が動かなくなってしまっている。ちゃんと地元とその選挙に見合った政策(国政ならば国、地方自治地帯ならばその地方の政策)を出し、そしてその実行力、具体的な内容を示さなければ浮動票を動かすことはできない。
 各政党、これは与党も野党も同じであるが、そこまでの選挙公約や地域に根差した政策を打ち出すことができるであろうか。選挙のときと陳情だけ受けて、有権者の声を無視し続けてはいないだろうか。各県連本部に任せたままで何も手当をしていなかったり、国会議員なのに地域への利益誘導ばかりで、国政を無視したり、国全体や国際社会でのバランスを見ないふりはしないだろうか。
 今回の統一地方選挙、首長選挙では与党が勝っているが、議会選挙(地方議会議員選挙)では与党が数を減らし、民主党が躍進している。この現実を踏まえて、参議院選挙の内容を議論し、もう一度有権者の声に耳を傾けるべきではないだろうか。奇抜な政策でなく、またドラスティックな改革でもなく、有権者が望んでいる「変化」を実現するのが政治家、代議士の役目ではないだろうか。原点に帰って考えてほしいと思われる結果が、今回の統一地方選挙であったと思う。

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天下りの禁止と人材バンク構想

天下りの禁止と人材バンク構想

 政府は、今国会において各省庁における退職者の天下り、直接の再就職斡旋の禁止を打ち出した。これは、いつまでもなくならない談合や不正需給などの対策として、省庁から企業への職業斡旋をなくすことにより、省庁と民間企業の直接の関係を断ち切ることを目的としている。
 これに対し、実際に退職者の職業斡旋を官僚専門の人材バンクを創設し、そこが、省庁と関係を断ち切ったうえで就職あっせんをするという案である。
 佐田行革担当相が辞任し、渡辺喜美行革担当相が就任したのちに提案された内容で、官僚不正禁止の切り札とされている。
 さて、この「人材バンク構想」は、その渡辺行革担当相が突然の思いつきのように発表したこと、そして、当事者の完了の意見を聞かず、また根回しもせずに発表したことで物議をかもしている。
 そもそも「天下り」制度はなぜ起きたのか。
 国家公務員の場合、退職金制度などは手厚いように見えるが、実際公務員としての勤務時代は、以外と給与が安い。また国家公務員(地方公務員も含めてよいと思うが、すべての地方公務員に関して確認をしていない)の場合、一般のサラリーマンのような失業保険制度が存在しない。そのうえ「肩叩き」と俗に言われる、早期退職の不文律がある。名目は後進に道を譲るというが、用は体の良い早期退職である。
 要するに、早期退職をさせながら、年金需給までの機関は収入がないことになる。このことにより、年金需給までの期間の収入先を斡旋するということが必要になる。これは、国家公務員の世代後退を促進し、組織を硬直化させない内容として、非常に有用な手段であるとされている。
 問題は斡旋された職員が、昔の肩書を使って、出身省庁に圧力をかける行為が問題となっている。
 しかし、今度は天下りを受け入れる企業にしてみれば、何らかのメリットがなければ受け入れる必要がない。組織硬直化を恐れるのは、国家公務員、官庁に限ったことではなく民間企業も同じことである。
 とはいえ、官僚出身で民間企業の風土も、自社の社風もわからない「老人」が入ってきても、何の意味もない。官庁との関係を悪化させたくないので、従業員や営業担当として使うこともできないし、とはいえ、会社のことをわかっていない人に社員を預けて管理職にすることもできない。
 官僚としての実績と、出身官庁の人脈だけがその人の価値であり、それ以上の期待はしなくなってしまう。また、期待をすることそのものが、不可能である。
 天下りでいった人本人も問題である。いままでは各官庁でキャリアでやっていたにかかわらず、天下りをした瞬間に、給料はもらえても仕事のない「閑職」に左遷された感じになる。それではやりきれない。そこで、出身官庁に行って自分の存在価値を求めるようになる。
 このような循環で、結局管制談合が成立してしまうのである。
 では、この循環を人材バンクで断ち切ることができるであろうか。
 基本的には難しいと考えられる。
 安倍政権が官僚機構改革に乗り出したことは評価に値するが、今回の内容はその効果があまり大きく期待できない。なぜならば、上記に記載したような今回の問題の本質の解決になっていないために、解決のための議論ができていないと考える。いたずらに安倍政権が官僚組織を敵に回すだけの結果になってしまう可能性がある。
 まず、問題はマスコミほかの姿勢である。公務員の待遇を報道するときに、一般サラリーマンとの違い、特に優待された話ばかりを報道し、逆に公務員の不利な部分を報道していない。上記のように公務員に失業保険がないということを知っている人は、国民のどれくらいいるのであろうか。先日、さるマスコミの記者にこの話をしたとき、その人も失業保険がないことを知らなかった。要するに、知っている人がプロデュースした内容でなく、いたずらに一般より公務員が優遇されているという偏向した報道になっていることも少なくない。
 また、その報道に関して、国民「有権者」の票がほしい各政党が、その意見に従うこともわかる。これが選挙システムである。
 そのようになれば、結局は「自分のみがかわいい」公務員は団結して抵抗し、そして「ザル法」要するに抜け道が大きい法案を提出することになる。
 公務員改革は、そもそも公務員の実態をよいところも悪いところもあわせて把握し、そのうえで、明治4年に大久保利通がつくった官僚制度を改革しなければならない。結局戦前どころか明治維新時代の「エリート」意識に固まった公務員意識の改革をし、ほかのサラリーマンと同じ「サービス業」であることの認識が必要であろう。1980年代に旧ソ連、ゴルバチョフ書記長時代に行われた「ペレストロイカ」的改革が現代の公務員に必要であり、その市中は意識改革とエリート意識の打破、そして手厚い保護の解除である。同時に、それらの原因となった公務員の不利な状況、言うなれば国家に対する「滅私奉公」意識と、それに伴う制度の改革が必要であろう。
 具体的には滅私奉公とエリート意識が前提であるがゆえに、中途退職が規定されてなく、そのために失業保険などの中途退職制度が確立されていない。そのことは、天下りの原因であり、また、それをやめないことの公務員の大きな言い訳の一つになる。
 公務員改革は、政治家が公務員を頼って法案を作成し、情報を集めている、依存関係にある状況では難しい。小泉政権以降、官邸主導の政治が進められ、その政治の動きがアメリカ大統領的になっている。このことは安倍政権になっても、目指しているところは同じであり、完全ではないにせよ、官僚と総理官邸の依存関係は弱まっている。公務員改革をするには、最もよいチャンスである。ここで、「人材バンク構想」というような小手先の改革ではなく、根本的な改革を提唱推進すべきではないだろうか。

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