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2007年5月

国民投票法案可決。憲法改正へ一歩前進と各党の党利党略

国民投票法案可決。憲法改正へ一歩前進と各党の党利党略

 5月14日。国会参議院本会議において憲法改正へ向けて国民投票法案が可決された。憲法には、憲法を改正できることが規定されており、その改正の要件として国民の過半数の意思によると記載されている。しかし、新憲法(戦後制定された憲法)制定60年になる今日まで、その改正のための手続きを決める準備が整っていなかった。今回、憲法改正のために必要な国民投票に関する法律が可決された。
 この可決には18項目の付帯決議があり、その付帯決議の中に争点の多くが挙げられている。その意味では不完全といえるかもしれないが、憲法改正に関して今までに比べて前進したことは代わりがない。これは初の戦後生まれ総理大臣である安倍首相に三次を送るべきであろう。
 しかし、マスコミ各社及び一部国会議員にこの手続きを喜ばない勢力がある。
 まず、その主張的対立の前に、付帯決議に残された争点の代表的な争点を挙げてみる。第一に投票権者は18歳以上とされていること。これは今まで民法で20歳と規定された成人規定を覆すものである。第二に最低投票率を設定しないということ。そして、投票前報道の規制。
 18歳以上という投票規定は、憲法を決めるに当たり、成人前でも、その施行時期に成人になる国民に意思表示の機会を与えた。もともとは民主党案に記載された内容であり、それを与党が受け入れた形だ。そもそも20歳という成人規定もいかがなものかと考えられる。同じ民法では女性は親の承諾があれば16歳から、男性は18歳から婚姻関係になることができる。要するに親になることができる。学校ということであれば、通常大学は18歳から22歳までであり、就学者の間に成人と未成年が混在する。本来、数字で切ることが適当なのか、という議論もある。ましてや大学などに行けば、未成年が平気で政治活動をしている光景を目にする。実際私の母校である中央大学など、年中反政府と思われる横断幕が張ってあった。逆に成年であっても成年としての自覚のない人は少なくない。これは最近のニートに関する報道をみれば一目瞭然である。問題は憲法だけ18歳でよいのかという部分があるが、逆にこれから徐々に成人規定を変えてゆくのもよい。「未成年だから」といって犯罪をする人は少なくないのが現状である。野党諸氏は少年法や刑法の改正のときには何も言っていないのに、憲法改正になると声を荒げるのは、選挙対策や政党のアピール以外考えられない。根拠のない反対は国民に受け入れられないということを、そろそろ学ばなければならない。
 次の論点は、最低投票率を設定していないということ。野党書す、反対派の皆様の意見は、憲法を変えるのに30%前後の国民の意思表示で決めてよいのかという議論。しかし、よく考えてみて、それほど重要な憲法の改正に関して投票を棄権するという行為そのものが問題である。それならば、野党諸氏を含めて、まず賛成反対を語る前に投票にゆくということを呼び掛けるべきである。そればかりか、各地で行われているイベントやレジャー施設などもすべて休演にすればよい。権利だけを言っているが、実際には義務に近い規定を行使しない国民を正当化することはできない。国民は選挙のときに白票でもよいから投票にゆくべきであろう。そして、投票にゆかないという行為を正当化することは絶対にしてはいけない。数字のトリックになるような説明はいくらでもできるが、最低投票率を定めるということは、投票にゆかないという行為を正当化するものであり、認められるものではない。この設定を声高に主張している人は、そもそも、投票にゆかなければならないという義務間を欠如している人であり、また、投票のボイコットという行動を正当化する。もっと言えば、物理的に監禁したり、ほかの誘因作業を行って投票に行けないようにするということまで考えられ、それを正当化すると推定されてもしかたがないであろう。実際には、白票であっても投票にゆくべきであるということ、そのほかの誘因を行わないようにすることを決めるべきで、投票に行かない人の、権利を行使しない人のことを考える必要はない。宝くじに当たった人でも、期限がすぎればその権利を失うのと同じである。
 最後の大きな争点は、投票前の報道規制。そもそも報道は公正でなければならず、また個人的な意見であっても公共の電波を使っているのであるから、その番組構成は考慮すべきである。昨今のテレビ、殊に固有名刺を挙げれば数名のジャーナリストは「批判精神」と「言論の自由」を謳い、それがなくなれば日本は軍国主義になるといわんばかりのことをいうが、実際に反対意見のみを聞かされるのは不快にほかならない。報道は公正に行われるべきであり、言論の自由も批判精神もその大原則の内側で行われるべきである。不当に政府の意見だけを擁護する報道もよくないが、いたずらに、そして感傷的に政府を批判罵倒する番組もおかしい。「批判精神」と「言論の自由」は権力に対して言う言葉ではなく、報道の姿勢として片方(賛成であっても反対であっても、または政府側であっても反政府側であっても)の意見に偏ること、または個人的意見に固まることを注意すべきであり、決して反政府活動を擁護するものではない。片方の意見に集約して話をすることは、その時点で主権在民の精神を汚す行為でしかない。ましてや個人的意見を公共の電波に乗せて、さも自分が正しい意見を言っているかのような顔をしているのは、問題がある。今日の報道姿勢は、その根本的な原則をはき違え、反政府の論陣を立てることが価値と思っている人が少なくない。日曜日の朝に番組を持つT氏や夜11時からのニュースを長年続けているT 氏、夜10時からの看板キャスターを務めるF氏、関西で番組を持つS氏、お笑いでありながら社会風刺の番組をもつO氏など、勘違いジャーナリストは少なくない。一つ言えるのは、彼らはインテリではない。彼らこそ主権者である国民の自由意思を阻害する害悪であり、「言論の自由」「思想の自由」を犯す最悪な勢力であろう。
 個人的な意見をいう場と、公正に報道をしなければならない場面の使い分けができていないということも言えるが、そうであったとしても、公共の電波を使っているという意識が足りないのは「不作為の作為」的な問題であろう。公共の電波を使う者が、公平な報道を義務付けられ、それに苦情をいうこと事態、「公平な報道をしない」と宣言しているようで、不快でならない。
 さて、この法律の可決をみるに当たって、各党の党利党略と矛盾点が見える。まず、この法案成立に向けた動きを復習してみよう。
 安部内閣発足時、安部内閣は憲法改正を自分の内閣での最大の改革として掲げた。小泉内閣が構造改革を挙げたのと同じで、それが憲法の改正であった。そして内閣発足と同時に、国民投票法案の起草、提案が行われる。
 これに対して最大野党の民主党は、独自の国民投票法案を提出する。ほかの野党は、憲法で改正の規定があるのにかかわらず、「護憲」といって、国民投票法案作成そのものを反対する。
 与党は、民主党の案をすべて採用し、国民投票法案の成立を急いだ。実際のところ、手続法は同であれ、憲法改正案の議論を慎重に行う必要があり、その手続きに関する規定は、現行法と逸脱していない限りにおいていかようにでもなるという考え方であろう。
 民主党は、本来であれば自分の提出した法案が採用されたのであるから、こぞって賛成にまわり、そして憲法改正の議論を進めるべきであった。しかし、党首の小沢一郎氏の掲げる「対立路線」という党利党略のために、自分の出した法案に反対するという不思議な構図が生まれた。これにより、民主党内において、憲法改正を行っていた枝野幸男議員は、憲法改正委員会の会長職を辞任。「安倍と小沢がいなくならなければ、憲法改正の議論はできない」と、民主党内において小沢代表批判を行った。
 小沢代表は、民主党案を提出するに当たって「党内で議論をしつくして、自信を持って提出する」といいながら、「審議時間が不十分」と矛盾する発言をし、いかにも選挙対策、殊に7月の参議院選挙を意識した対応をした。しかし、小手先でそのようなことをしても、結局国民はその対応の矛盾を意識してしまうのであり、民主党は「自分で責任持って提出した法案に反対する政党」つまり「党利党略のために二枚舌を使う信用できない政党」、しいては「うそつき政党」となってしまう。
 ほかの野党、殊に日本共産党は「憲法改正すれば日本は戦争をする国になる」と、国民投票法案成立そのもに反対を唱えた。そして「憲法を護ろう」とでも更新まで行った。しかし、考えなければならないのは、憲法に規定されている国民投票法案を作成成立させることは、憲法を護って正確に運用することになるはずである。その手続法をつくることが憲法の破壊にならない。ついでにいえば、憲法改正はイコールで戦争をする国になるものではない。世界の日本以外のすべての国が軍隊を持っているが、戦争をしている国は数が少ない。憲法9条を改正することは、そのまま戦争をすることにつながるものではない。要するに、共産党の主張には、護憲といいながら憲法の規定を護らない矛盾と、憲法の改正と戦争を結び付ける馬鹿げているほどかけ離れた論理の飛躍がある。もちろん、共産党は、何を言っても反対という以外に脳のない政党であるから、まともに取り合う方がどうかしているといわれることもあるが、一つの会派を持っている政党であるために、当然にその意見を尊重する必要がある。この論理の飛躍と矛盾したロジックの護憲を掲げたでも更新に参加する人がいるのであるから、この人々の憲法、それも9条以外天皇制から国家公務員規定まで規定されている憲法について、それが完ぺきであり、改正の必要がないと確信を持って言えるのか、うかがってみたいものである。
 この手続法の成立を反対する(上記争点での争いとは異なり、手続法そのものを否定する動き)ことは、憲法の規定を無視しているだけでなく、国民の憲法を改正する権利を奪う行為であり、主権者たる国民不在の議論でしかない。国民の権利は憲法を改正する権利があり、それを実行するための準備や手続きを定めることは、国民の権利や憲法を護ることにほかならない。それを党利党略で反対し、さも自分たちが憲法を護っているような主張をすることは、偽善でしかなく、国民を欺く行為であろう。
 議論のすり替えが行われている。手続法をつくるのに憲法9条の話をする。憲法の改正案のときに議論をすべきであり、憲法を改正することができるという権利と、その改正内容とは異なる。何でも反対すればよいという者ではない。逆にこの議論を長く行うことは、そのまま憲法そのものの改正の議論の時間や争点を少なくする行為にほかならない。手続法は早く審議し、憲法の内容で長い時間審議をするべきであると思う。もちろん、その審議、議論は憲法改正の是非や改正個所、改正の内容など多岐にわたる国家国民全体の議論であるし、近隣各国にも影響がある場合も想定される。手続法の議論二時間を費やす無駄を省くべきではなかったか。
 そもそも、憲法に記載された手続法をつくるということで反対をする(何度も言うが争点になっている内容に関する審議は別)ほど、憲法を知らない人々に、いくら選挙で勝った代議員といえども、憲法を語ってほしくはない。それどころか、憲法で決まっている代議員として、憲法の記載による国権の最高府である国会に出入りしてほしくはない。党利党略で自分の主張を曲げるなどもってのほか。そのようなことで主権者たる国民を欺く人に野党とはいえ、一つの会派の長に就任してほしくもない。そもそも一部の人(野党の代議士)の利益のためだけに、国の基本となる憲法の論議をしてほしくはない。国そのものの姿を決める議論に私利私欲、党利党略で語ってほしくない。
 今回の憲法改正論議は、憲法の予定する手続法の制定であったがために、逆に建前論でなく各党の党利党略で動くのか、国民のために尽くすのか、その真意はどこにあるのか見えた気がする。マスコミ各社の対応も、ジャーナリスト個人の資質もそうである。やはり、基本、大原則に戻った議論をするとき、本当の姿が見えるものである。
 ここで挙げなかった自民党や公明党、与党の諸氏も国民の目がみている、それは自分の支持層や支持団体の人ばかりでないということを肝に命じてほしい。
 今回は野党各党があまりにもひどすぎ、私個人としては国会に限らず、主権在民の中での代議員としての資格資質にもとると思われるとことがあまりにも目についた。あとは、このような理性的な判断を国民が下すかどうか。選挙の結果が待たれる。
 

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DCマダム騒動、アメリカVIPの下半身事情

DCマダム騒動、アメリカVIPの下半身事情

 今回は衝撃的なタイトルをつけてみました。いかがわしいアダルトサイトのようなかんじです。今回のネタは、どうしてもセクシャルハラスメントに近い記述が多くなる可能性があるので、あらかじめご容赦ください。
 アメリカですでに売春、売春管理で前科のあるDCマダムが検挙された。この女性、DCマダムことデボラ・パルフリー被告は、1993年から06年までの13年間、「大学教育を2年以上受けた23歳以上の女性」の派遣を売り物に、約200万ドル(約2億4,000万円)以上を売り上げたとされ、組織売春の罪に問わわている。DCマダム側は容疑を否定した上、顧客の電話リストの一部をABCテレビに渡した。
 リストをもとに同局は売春、人心売買の監視やエイズ撲滅を担当しているランドール・トビアス国際援助庁(USAID)長官に取材、同氏は被告が運営する組織を数回利用したことを認めた。同氏は「マッサージを受けただけで、性行為はなかった」と主張してたが、「一身上の都合」を理由に、会見直後に辞任している。
 さて、この事件はあまり報道されていないので、少し事件の経緯を詳しく書いてみた。
 戦前は、政治家といえども人間であり妾がいるのは男の甲斐性であるといっていた。戦後、といっても30年くらい前までは、日本では下半身で政治家を攻撃してはならないという不文律があった。当然に政治家たるもの、政治や政局判断、または金銭スキャンダルは問題であるが、プライベートの域にある問題である女性関係で役職を失うのは、日本国家といえども、有能な人を仕事のミス以外で失うことは損失であるということである。
 この不文律が大きく覆されたのが宇野元総理大臣の辞任事件。総理大臣になりながら神楽坂の芸者を「買った」ということから、総理大臣の辞任という事件にまで達したのである。選挙における女性票の得票の問題や、党のイメージの問題そこに男女同権の嵐に巻き込まれた形だ。以後、男女のスキャンダルに関する報道は少なくない。
 特に男女同権が叫ばれてからは、かなり言われるようになった。このうー風潮が民間にまで達したのがセクシャルハラスメント裁判であろう。
 このような女性スキャンダル問題が、セクハラ裁判の本場アメリカでも発生しホワイトハウスを窮地に追い込んだという。
 しかし、ABCテレビは、やはり理性的なのか、名簿を受けながらもその名簿を公表したり、いたずらに政治不安をあおったりしない。トビアス氏は担当大臣であったことから標的になったが、それ以外の名簿記載事項に言及しないのは、マスコミとしての自覚と自立、要するに日本のマスコミと異なり、いたずらに政治スキャンダルを大げさにして政治不安を書きたてるような、国の損失になる行為をしないのである。
 これが日本のマスコミならば、特に今安部首相に訴状を出されている朝日新聞などではどうなっていただろうか。
 この事件について、今述べたようにマスコミの報道姿勢の日米の差と、やはり各国男女関係に関する内容は変わりがないということを勉強させられた。
 途中で分を挟んだが、マスコミはマスコミとしての使命を持っていなければならない。前回記載したバイオ燃料の項でも記載したが、地球レベル、世界レベルということを考えながら日本の国家ということをまず第一に考えなければならない。いたずらに政府を擁護する必要もないが、逆に政治不信や無関心をあおるような行為をしてはならない。与党だけを非難、攻撃したり、印象や感覚的な政策批判をしてもよくない。もちろん批判をしてはならないというのではなく、根拠のある批判と論評をあいなければならない。当然にそのときには反対側の意見も紹介するという中立性が必要になる。
 今回の事件のような、政策と関係のない事態での閣僚の辞任、当然にそれを防止する担当大臣は別にして、それ以外の政治家や閣僚をいたずらに辞任に追い込むのは、政治不振や政治的混乱を招く結果になる。当然に、そのことは政治的な空白を招くことになるのであるから、国家としては損失になる。
 ABCテレビは、これら名簿を入手し、また入手していることを公知の事実としながら、その詳細な内容を伝えていないのは、別な理由があるかもしれないが、この政治的空白をつくらなかったということで評価されるべきことである。
 もちろん、今後もずっと公表しないというわけではないと思う。マスコミである以上、国民の情報開示の声が大きければ公開する場合もあるであろう。しかし、そのタイミングを図る目があれば、国家的損失にならないのはいうまでもない。日本のマスコミはこれができるのか。ただ読者に迎合し、求められる限りの過激な記載をしていないだろうか。ABCテレビの姿勢に学ぶべきところは少なくないのではないだろうか。
 それにしても、男女のスキャンダルは後を耐えない。これは、日本でいえば古事記の記載から、世界史でいえばクレオパトラとシーザーの情事から変わらない。
 個人的な意見で申し訳ないが、人間には動物的本能の部分と、社会的な生き物の理性の部分とがある。私が男性なので男性を例に挙げれば、きれいな女性をみて「綺麗だな」と思う気持ちを止めることはできない。その後、頭の中で理性が働き動物的な本能を抑えて社会的に活動する、つまり、その女性を力づくでどうかしたり、無理やり自分のものにしたりという行為をしない。ごく当たり前の話であるが、それガス赤井的な行動である。サカリのついた動物でないのだから、そのような行動をすることは、このように文字で書けば当たり前のこととして受け入れられる。
 しかし、昨今の日本ではそうでないことが少なくない。特に報道では公職、教員や公務員による猥褻行為が新聞紙上をにぎやかしている。
 さて、日本の例でいえば、この新聞紙上をにぎやかしている内容には二種類の体系がある。一つは強制猥褻や強姦罪といった内容。一部痴漢行為も入るが、男性側が体力的な優位性で本能的な行為を行う体制である。当然に、この流れは男女間の合意がなされていないパターンである。
 もう一つは売春、買春といった犯罪である。特に未成年者に関する金銭を媒介にした性的関係で、金銭を媒介にしているとはいえ男女間での性的行為の合意がなされているパターンである。この場合、女性側も本来であれば売春防止法違反であるが、騒がれるのは男性側ばかりである。
 さて、男女平等、男女同権といった場合に、このような溶媒を男女ともに行うという方になるのではなく、基本的にこのような売買をやめる方向に話が進む。しかし、実際は男女の関係を求める人は少なくない。結局のところ、売春行為を隠れて行うということになる。
 さて、売春の定義であるが、実際に性行為を行うことをいう。それ以前の猥褻行為は売春には当たらない。そこで、実際に売春行為を行ったかどうかは実際の本人しかわからない。
 さて、今回のアメリカのDCマダム事件も巷で流れている報道の半分、要するに痴漢行為や強姦罪を除く犯罪体系に関しても、結局のところ本人の同意の下で行った行為に関してそれが犯罪行為に当たるかどうかを報道している。
 この価値観の中には、一夫一婦制や男女平等が入っていることは明らかである。その価値観自体人間が作り出したものであるし、イスラム社会などでは夫婦関係にある女性を四人まで持つことができるのであるから、婚姻を前提とした付き合いの場合はある程度許容される。そもそも、今回のようなスキャンダルになるものではない。結局は、アメリカ(日本もそうであるが)自分でつくったルールに縛られて足を救われている。
 さて、ではなぜこのような商売が成立するのであろうか。
 一つには男性及び女性の欲求であり、その欲求を充足するという内容は普遍であるから。このことについて述べるのはもう十分であろう。
 第二に、その欲求を満たしてあげることが最大の接待になるということ。接待とは自分が要求する内容を得るために、相手方の別な欲求を充足すること。主に歓待することである。
 その接待において最も自分の力を誇示できるのが、違法なことを特別に許可することである。これは、政府や官憲に力があるということを誇示しながら、またほかの同業ではできないことを行うという意味で最高の接待となる。
 ましてや、それは人間の女性が介在しているのであるから、気を許して秘密の情報を得られる可能性も少なくない。女性に関する接待はそう言う意味で接待する側にとっても無駄な投資ばかりでない部分がある。
 ところで、その接待を受けた人が、再度同じサービスを受けたいと思えば、今度は自分でそのサービス提供会社と連絡をしなければならない。DCマダムに関しては、そのようにして顧客名簿を着実に増やしたものと考えられる。どんなに政治的にえらい人も、高名な学者も、ステータスのある王族も、結局は人間という「動物」でしかないということであろう。
 その意味で、今回の件は人間の動物としての一面と理性や建前の部分とのはざまで起きた事件であり、アメリカだけのことではない。もちろん具体的に知っているわけではないが、日本でも中国でも人間が人間である限り存在する問題であり、同時に、女性の顧客もいたというから、男性に限った問題でもないのである。
 私個人的には、このような問題には、特に両社の合意がある場合には、多めにみてもよいと思うのであるが、いかがなものであろうか。政治家は政治と政策で判断すべきであり「性事」で消えてしまうのはいかがなものかと思う。昔の政治家(戦前という意味でも江戸時代や戦国時代、はては世界史市場でもローマから今日まで)は豪傑が多かったという。実際に「一般」と枠が違うから偉大なことをできる人がいると思うのである。一般と同じ聖人君主などはいないということがわかりながら、民衆は聖人君主を求めてしまう。また指導者、為政者も聖人君主を気取る。しかし、実態的には聖人でない。聖人でないから為政者になっている部分も少なくないといえる。欲があるから人を統べることができる。当然にその本性が出てくる。それがスキャンダルになることは少なくない。
 結局この問題は、突き詰めて言えば為政者や指導者を一般人とどうかして考える風習のうちから生まれたものであるし、同時に為政者や指導者もそれをはねかえすだけの度量がない。世界的な「指導者の小粒化」の一環と思われる。
 そう言う意味でアメリカホワイトハウスも、一時の隆盛が終わり、小粒化したのであろう。

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バイオガソリンの出荷始まる

バイオガソリンの出荷始まる

 日本ではゴールデンウィークとして連休となるこの時期に、かなり豊富に話題があるようになった。4月は選挙だったので、なかなか表に出ないで封印された内容が一気に噴出した形である。
 まずは安倍首相の初めての訪米と日米首脳会談。毎年連休の恒例事項となった外遊が、今回はアメリカとなった。この件に関しては安倍首相の帰国後に評価をした方がよいであろう。中国の温家宝首相との会談を先に行ってアメリカという異例の順序を含めて、話題があると考えられる。。
 一方趣味の話では、プロ野球の契約金裏金問題などが出てきている。このことから、高校野球の野球特待生制度が問題となっている。実際、高等学校は義務教育でもないし、野球という一芸に秀でた人が特待生になっても問題はないと思うが、野球と金という問題から神経質になってのことであろう。野球界は自分で自分の首を絞めて、野球のすそ野を狭めているようにしか思えない。
 さて、そんな中、バイオエネルギーの販売というものが4月27日から始まった。
 2000年の京都議定書を受けて、先進国は温暖化防止のため二酸化炭素の排出を制限されるに至った。そもそも、地球の温暖化は地球規模の問題で、南極の氷が溶けたり、異常気象が続いたりというように我々の身近な問題にもなってきている。日本だけでなく、オーストラリアの干ばつや、アメリカでの異常寒気、アジアでの暖冬などは、そのほとんどが環境の破壊によるものであるとされる。そのうえで、地球温暖化は、二酸化炭素の過剰排出による温室効果が原因とされ、この件に関して環境を題材にした多国間会議が開かれた。経済優先ばかりではなく、環境に関しても目を向けようという試みである。このような会議のなかに2000年に京都で開催された会議がある。この中で参加国間で、二酸化炭素の排出を制限することや、砂漠化の防止、海洋浄化、森林伐採の禁止などを挙げた内容で決められた。これを「京都議定書」という。
 さて、二酸化炭素の排出はどうして増えたのか。結果としていることは二つ。二酸化炭素が減るというのは 、化学的に行う場合を除き、植物による光合成で二酸化炭素が酸素に変化することが最も一般的である。しかし、世界各国どの国もその植物の光合成以上に二酸化炭素を排出しているのである。その理由の一つには、森林の伐採。要するに、二酸化炭素を減らす植物が減れば、それだけに酸化炭素が増える。森林の伐採は、都市化だけでなく発展途上国の農耕地開拓によるところも少なくない。そして、もう一つが化石燃料の燃焼である。
 化石燃料、要するに石炭や石油は、近代社会産業革命から現代に至るまでエネルギーの主役として100年間燃やされ続けた。この化石燃料は、工業用から自家用車までかなり広範囲に使われている。
 さて、前置きが長くなったが、森林の伐採と化石燃料の燃焼が、地球温暖化の元となる二酸化炭素の排出の主役である。
 そこで、化石燃料の代わりにバイオ燃料、要するに植物油による燃料化を考える、これがバイオ燃料である。バイオ燃料は、その原材料となる植物が生育の過程で光合成を行っているために、二酸化炭素が増えないと考えられている。厳密にはわからないが、化石燃料よりはよいというのは、何となく感覚的にわかる。
 このバイオ燃料に関しては、欧米ではかなり進んでいた。現在バイオ燃料に関しては、オランダやイギリスといった各国が推進しているし、オーストラリアでは10%以上はバイオ燃料を混ぜなければならないという規制があるくらいである。日本が模範とするアメリカでも、バイオ燃料80%のスタンドがあるくらいだ。車社会における燃料と環境の問題がかなり進んでいることがわかる。
 さて、4月27日から日本でもこのバイオガソリンの出荷がスタートした。実際にはこの報道は正しくない。今から20年ほど前、日本では「アルコール代替燃料のガイアックス」というアルコールによるガソリン代替燃料が販売されたことがある。日本のバイオ燃料の話をするときに、この「ガイアックス」に軽く触れる必要があるだろう。
 日本のガソリン、または軽油に関しては、仕入れ価格のほかにガソリン税、軽油税というものがふくまれている。軽油税で1リットルあたり約32円、ガソリンで約58円がその税額となる。しかし、これは道路目的税、最近改革がいわれている特別目的税であって一般会計ではない。いま125円前後するガソリンの半分はこのガソリン税と消費税ということになる。これら税金は、すべて日本国内にガソリンや軽油が輸入されたときに発生する。そしてこれは、小泉改革で道路公団が民営化されたのちも、公社の収入減になっている。
 この税金をめぐる攻防はすごいものである。これが道路目的税であって、環境や、一般に還元される関税でないということは、すなわち。ほかの石油製品、たとえば重油であったり、または灯油、ナフサ(石油化学製品の原料)などには反映されない。このことを使った事件が、「違法軽油」というもので、一つは重油を精製し直して軽油として出荷する。環境に悪い硫酸ピッチがたれ流しされて、環境問題になる事件も、多くは「脱税」で検挙されるものであり、それ以外の罪になっていないのが現状である。もう一つの違法軽油は、軽油に混ぜ物をするやり方である。実際、自動車は灯油などを混ぜても動いてしまう(エンジンなどの劣化は激しくなる)。そこで、軽油に灯油やそのほかの油を混ぜて販売する。当然に販売量100に対して混ぜ物をした分量たとえば50%灯油を混ぜていれば50%は軽油税を払っていないということになり、それだけコストが安く入ることになる。
 当然に、これらのことが行われるのは、軽油税が非常に大きいからである。あるガソリンスタンドチェーン店の社長は「実際にガソリンを売ってるんではなく、税金を売っているのに近い」というが、まさにその通りである。
 先に挙げた「ガイアックス」も、この税金に着目した代替燃料であった。アルコールはサトウキビからつくられるものであり、今回のバイオ燃料と何ら代わりはないが、このときの販売の動機は「ガソリン税の節税」であった。当時の税制は、軽油およびガソリンに関して税金をかけると限定的に記載されていたために、代替燃料に関しては特に規定がなかった。これを行った会社は、当時アルコールで車が動くという内容から、アルコールには軽油税やガソリン税という特別目的税がかからないと解釈し、その分安く提供するというコンセプトで販売を実現した。当時テレビなどでも話題になったが、結局は国税局の通達で、「車を動かす揮発油で、炭素を含むものは、その炭素地に従って分類して課税する」という内容が決定し、ガイアックス取り扱い者内部でも分裂があったことから、この計画は頓挫した。もちろん、アルコールからの代替燃料が、化石燃料よりも安ければそれほどの問題にはならなかったが、コストはかえって高くついたので、経済、経営面でも頓挫したといわざるを得ない。
 さて、今回のバイオ燃料は、2001年から資源エネルギー庁と環境庁が推進した環境燃料に関する研究会の答申と京都議定書からできたないようである。
 当然に、3%といえども植物油を入れることによって環境に配慮するということと、同時に入れすぎれば車そのものの性能に影響するという、自動車業界や運輸業界に配慮した内容となっている。
 3%はバイオガソリンを推進しているという国際的アピールと、今までの化石燃料を扱っている既得権業者の調整を扱ったものである。
 では、まずバイオ燃料に関して。日本以外の国々と日本とでは、当然に環境が異なる。植物油を使った燃料といえども、結局は輸入品である。日本の場合、現在の食糧自給率は40%でしかなく、植物油の原材料もすべて輸入品である。ましてや、ガイアックスのタイミングでやっていれば他に先んじていたが、上記のようにすでに後手に回っており、どちらかといえば高値買いをさせられている。あげくのはてに税制である。軽油税と化ガソリン税などの優遇措置がなければ、ただでさえ石油相場に翻弄されている石油業界が、植物油の相場も加味しなければならないという状況になる。国内の相場に円ドルの為替も含めると、四種類、五種類の相場によって動くことになる。
 ましてや、食料品の原材料である。1970年代の石油ショックのときにも、砂糖の値段が上がるという状況になったが、今回はトウモロコシや砂糖、菜種油などの高騰の原因になる可能性は少なくない。
 日本は、業界と役所の対応により、今回のバイオ燃料に関しては完全に立ち遅れた。もっと言えば、世界的に取り残されたといえる。燃料輸入国で、環境に関してもうるさい日本が、石油業界と自動車業界、運輸業界などによって、経済的にも燃料エネルギーの面からみても不利に取り扱われるという状況になっているのである。そのうえ、自動車燃料のみであり、ほかの燃料、たとえばボイラーを動かしたり、輸入のための船の燃料になる重油などはまったくのノーマークになってしまう。これは違法軽油の犯罪の温床を残してしまい、バイオ燃料と違法燃料の線引きが難しくなる。結局は大手の既得権業者だけがバイオ燃料の恩恵に預かるということになりかねない。
 この問題解決は、一つは石油事業の自由化であろう。もう一つは、燃料電池など、日本で自給できる燃料への転換。そして、税制と道路行政の改革ということの三点に尽きる。
 第一に、石油の自由化である。日本は石油輸入に関しても石油の販売に関しても許可制である。現在輸入業者は37社であり、一昨年お48社から10社以上減少している。これは、輸入に欠かせない備蓄タンクを占有していることが必須となっているが、石油タンクを新規に借りても、許可がなければ輸入できないので、結局単独で行えばカラ家賃を払うということになる。実質的な新規参入妨害を官庁が行っているという形式になる。
 それだけでなく、系列店の自由化も必要になってくるであろう。ガソリンスタンドも、そのほかの燃料も、すべての燃料が大手石油輸入業者かあるいは大手商社の参加に入っている。この解決としては、自由化、特にエネルギーに関するカルテル的な独占にかんし、独占禁止法を適用するなどの方的措置が必要かもしれない。または、逆にすべて官営にして食料品の米のようにすべて政府買い上げという手もある。結局は、新規参入者が少ないということは、当然に競争の原理が少なくなってしまい、価格の安定を欠くという現状である。
 石油業界は、完全に閉鎖的である。当然にエネルギー問題は政府の懸案事項であるが、日本の場合、中途半端に自由化。民間化され、中途半端に政府が介入している。この現状、つまり中途半端さをなくす必要がある。
 このことは税制などに関しても同じである。特に軽油税、ガソリン税に関して、特別税として扱われている状況に、いかに対処するかということである。今後導入が検討されている環境税に関しても同じで、それらに関していかに環境庁、資源エネルギー庁、経済産業省、国税庁が連携をとることができる化が問題となる。特に、道路公団民営化に当たって、その民営化会社の収入減が特別「税」ということに関して、改革の終盤になった安部政権では検討されなければならない課題であろう。
 道路行政でいえば、そもそも、道路の資産価値というのはいくらであるのかもまったく考えられていない。不動産としての価値が民間、民営化されているので割れば検討されなければならないはなしである。この点に関しては、後日機会があれば検討することにする。
 前後したが、最後の点として日本での自給燃料の研究である。食糧に関しても同じであるが、日本は資源やインフラに関しての自給率が低い。そればかりか、産業も空洞化している。各企業の経済合理性を考えればし方のない話であるが、逆に危機管理ということに関しては、最悪の国家といわざるを得ない。エネルギーも食糧もすべて輸入、つまり他国に依存しているのである。同時にシンガポールのような地形的な利益や金融的なそちもなく、企業は閉鎖的で、唯一誇れる技術は、経済合理化の掛け声の下で海外に放出している。今や海外に誇れる『資産』は、幻影でしかないということである。
 まずないと思うが、第三次世界大戦のようなことがあったら、それ以前のブロック経済のような金融制限が起きたら、日本は電気も食糧も、車による物流もない貧しい国になってしまう。
 バイオ燃料は、地球規模の環境という面では有効な手段の一つである。しかし、日本でバイオ燃料を推進するに当たっては、世界的な食糧需要との関係や相場に気にしながら行うか、あるいは日本で自給できる、せめて食品以外の素材植物からの原材料でバイオ燃料を作り出さなければならない。
 日本は外交は失敗している。特にエネルギー外交はまったくできていない。諸外国はエネルギーを求めて戦争までしているのにである。しかし日本には、まだまだ要求されるバイオ燃料を完成させるだけの技術力や資産は、日本に存在するはずである。バイオ燃料が日本という国家の枠を超えて地球レベルの問題で必要なことは明白である。しかし、やはり日本という国家の立場、国民の立場を考え、経済合理性だけを考えることもなく、当然に、日本の企業や業界の利益に翻弄されることなく、この課題を遂行しなければならない。
 政治、経済、学者、そして国民レベルでも、地球環境と、国家の問題のバランスを考えながら、これらの問題に目を向けて取り組まなければならない。特に、ガイアックスのけんを考えれば法整備や税制の問題を早急に処理しなければならないだろう。企業利益や自分の懐具合だけを考えている諸氏には、耳の痛い話かもしれないが、結局そのような諸氏がこのエネルギー後進国で、危機管理ができていない国家にしてしまったのである。これらの責任を感じ、改革に向けて率先した活動を期待する。

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