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2007年9月

安倍首相電撃辞任とその影響

安倍首相電撃辞任

 9月12日、国会に衝撃が走った。安倍内閣において最大にして最後のサプライズが発表された。安倍首相の辞任表明である。
 安倍首相の辞任表明に関して言えば、さまざまなことがいわれている。辞任会見では、9日に「職を賭して」といって取り組んだテロ特措法の党首会談に民主党小沢代表が断ったからであるとした。そのうえで、重要法案と改革を進めるために、自分が首相の座にいることが邪魔であると判断して辞意を固めたとしている。こののち、与謝野官房長官は安倍首相の健康上の問題を発表した。8月下旬のアジア歴訪から健康を害していたという。
 政府または自民党が公式に出したもの以外に、麻生幹事長に裏切られた、というものもいわれている。また、相続に関するスキャンダルもあるといわれている。しかし、これらはうわさのレベルである。
 安倍首相の総辞職がある、ということはだれもが予想していた。健康も悪いようだし、応対に覇気がなかったという。また健康問題がなくても、衆参ねじれ国会での運営でうなく行かないまたは法案が通らない、しいては不信任決議が参議院でされるというかんてんから、総辞職または解散総選挙がなされるということは考えられていた。しかし、なぜ12日、つまり10日に所信表明演説をした直後であったのかということに焦点が絞られる。
 12日(あるいは9月10日から始まった国会の序盤)での辞任表明は、さすがに例がない。国会期間中の首相の辞任は、細川内閣と竹下内閣、村山内閣で行われている。
 諸説言われているし、また、わかっていても報道、公表できないことがある。よって、この文面でその内容を記載するのはやめよう。ただ、ヒントになる内容を記載しておくことにする。安倍首相が健康を害したのは参議院選挙後ではなく、外遊しインドネシア、タイ、インドなどを歴訪している最中である。また、今回の辞任表明も、APECという国際会議ののちである。何らかの外圧または国際公約の実現が不能になり、行き詰まったと考えるのが普通ではないのか。テレビや週刊誌の報道は憶測が多く、また近視眼的なものの見方しかしない。事実のみをつなぎあわせて、物事を判断することを習慣づけなければならない。
 さて、安倍首相辞任理由はとにかく、これに関する影響をみてみよう。
 まず、自民党総裁選が23日に行われる。立候補したのは福田康夫元官房長官と麻生太郎幹事長である。
 せっかくなので、今後の内容を「政局」ではなく「政策」の面でみてみよう。
 まず、年金問題。年金問題というよりは、国家公務員改革というべきかもしれない。安倍内閣倒壊の直接的な影響を与えた内容がこれであろう。
 年金問題は、以前にも記載したが、安倍内閣によって引き起こされたものではない。過去11年以上にわたって慣習として行われた公務員の不正であり、同時に、それをかばいあう公務員の隠蔽体質の話である。安倍内閣はその公務員と戦っていた。一方、その安倍内閣に対立した小沢民主党は、自治労といわれる国家公務員の労働組合をバックに、今回の参議院選挙も勝利を収めている。結局、公務員とその労働組合保護の民主党と、不正追及の自民党の争いであろう。安倍内閣は小泉内閣のように国家公務員に対する締め付けを自分の指導力と首相官邸主導で押し切ろうとした。しかし、そのためには、多少強引な官邸職員(官房長官、官房副長官、首相補佐官、首相秘書官など)が必要であり、またその政策を支持する国民の圧倒的多数の声が必要である。安倍内閣にはその両方がかけていたかもしれない。スタッフの能力の欠如は安倍首相の任命責任によるところが大きい。また、国民の声という点では、安倍首相の説明が「わかりにくい」という点に尽きるであろう。
 国家公務員改革と同時に大きな懸案は外交問題であろう。安倍内閣は外交問題に関し、中東からのエネルギールートの安全の確保に全力を注ぎ、そのうえでの協調外交路線をとってきた。今までの「タカ派」のイメージは北朝鮮関連のみであり、それ以外の部分では、発言は別にしても強調路線を貫いてきた。このことは、今回の総裁候補の一人である麻生太郎氏が最も詳しいであろう。しかし、問題は日本の外交も公務員制度の枠の中である。当然にその内容から公務員制度と内閣主導外交のひずみが出てくる。
 最も大きな点は、外交でいえば外交官制度であろう。政治の方も問題で、外交のような継続案件であっても、政権や外務大臣の変更により政策が中断してしまう。
 テロ特措法などはその最たるものであり、日米同盟を掲げ、エネルギールートの確保を外交の軸におきながら、近視眼的な国家公務員の権益の保護と特権の享受ということで、その外交が中断するということになれば、当然に継続している官僚の支配になってしまう。そのようにして、継続した行政を行うことのできない政治家に変わり、官僚が特権と支配権を持つようになる。コムスンの事件など、官僚が舞台になった事件は少なくない。
 次の内閣が、どのような内容で外交を展開するのかは非常に大きな問題になる。麻生幹事長であればやはりタカ派外交になるであろうし、福田元官房長官であれば協調外交になるであろう。いずれにせよ、ほとんど何もしていなかった安倍内閣とことなり、何らかの実績を残すことを期待する。
 最後に政局論。
 政局論とすれば、当然にねじれ国会と解散総選挙ということになる。ねじれ国会は、解散総選挙を行っても治るものではない。最低でも3年、基本的には6年はこの状況が続く。同時に、その間に総選挙がある。民主党は今の内閣が民意を反映したものではないといっているが、「議員内閣制」というものはそう言う制度であり、内閣が変わるたびに総選挙を行うのであれば、民主党が毛嫌いする憲法改正を公約に挙げなければならない。憲法改正を行うのであれば、当然に国家公務員の規定や第9条にも及ぶことになる。そのときに今の民主党は今の結束を保てるのかははなはだ疑問である。
 要するに、新内閣は民主党の主張に合わせて憲法改正を出しながら、その中で9条のことや自治労の政治活動制限を明確化することを出し、そして民主党に揺さぶりをかけ、その統一性を書いた時点、それが国民に明らかになった時点で解散総選挙ということになろう。一度解散総選挙で勝利すれば、ねじれは解消される結果になる。
 政局論で安倍を退陣に持ち込んだのは見事であるが、同じ言葉が自分のみに降りかかることを忘れてはならない。政界再編は、自民より民主分裂が先かもしれない。ねじれ国会の間の数年間が注目になる。
 

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山口県光市母子殺害事件公判と死刑廃止論の是非

山口県光市母子殺害事件公判と死刑廃止論の是非

 光市母子殺害事件について。既知の通り、山口県で当時18歳であった少年が、トイレ点検業者を装い、被害者宅に無差別に家宅侵入し、そのうえで母子を殺害、押入れの中に隠蔽遺棄した事件である。訴訟は第一審山口地裁で無期懲役、第二審広島高裁でも無期懲役であったが、最高裁では審議不十分により第二審へ差し戻されるという経緯に至っている。
 事件の特異性よりは、最高裁以降の訴訟振興の特異性が話題だ。加害当時未成年であった少年に対して死刑判決を求めることの是非をめぐり、21人もの弁護士が弁護を行うという状況になった。そのうえ、最高裁までの供述を覆し、無罪の主張を行ったのだ。殺害の事実、その根拠や殺害に至る経緯など、全てを覆した。この弁護活動に関する異論は多い。
 ここで、今回の事件と訴訟について、法律的観点から触れていきたい。
 まず、犯罪者とは何か。犯罪者とは、構成要件該当性と違法性、そして責任が合わせて加害者に存在する場合に、認定された刑罰の対象者である。難しい法律用語を使ったが、簡単に解説しよう。構成要件該当性とは刑罰が付加される犯罪は事前に刑法や商法などの法律によって記載されていることを要する。日本国民は憲法上の権利として事前に法律で禁止されていること以外の行為で突然処罰されることはない。次に違法性。よく言われるのは正当防衛である。要するに、結果として人を殺してしまったが、もともとは相手が襲ってきたものを防衛抵抗し、その結果、相手を殺した場合。この場合、そもそも殺された人の襲撃がなければ加害者の殺害行為もなかったことになる上、抵抗しなければ自らが危険にさらされていたことになる。よって、この抵抗行為には正当性があって違法性がないといわれるのである。最後に責任。犯罪者に責任のない事項は、その人に罪を問えない。責任がない事項とは数種類考えられる。一つは、人質をとられていたなどの抗拒不能状態。あるいは、その人以外の第三者が行った場合。そして、精神病などで責任を追うだけの能力がない場合である。殺人事件などで、すぐに精神鑑定になるのはこの責任に関する事項であり、精神病であることを理由に「事件は仕方がなかった」として無罪を主張する弁護手法が多い。
 今回の事件でいえば「人を殺してはならない」という刑法194条の規定が存在しているのであり、その刑法の規定の「構成要件」である、人を殺すという行為を行ったことに基づいて裁判が行われているのである。最高裁まではこの事実について争われていないが、差し戻しになってから「死んでしまった」要するに過失致死であって、殺人ではないことを主張している。過失致死と、殺人の違いは、殺すつもりがあったかなかったかという主観に基づくものであり、それらは状況などから類推される。今回の件では、そもそも業者でないのに「トイレ業者を装い侵入し」たという点から、家宅侵入に関しては計画性があると判断され、トイレに関する点検をせずに暴行に至ったと言える。その暴行に至るきっかけは本人でないとわからないが、少なくとも「ほかの行為を行おうとした結果、誤って」、要するに過失で殺害に至ったとは考えにくい面を持っている。また、違法性の有無についてはどうであろうか。加害者少年が正当防衛による殺害であったという可能性があるか。殺害に違法性がないという可能性があるか。今回の事件の場合、そのようなことも考えられない。とくに乳児殺害が明確な証拠である。最後の責任についてはどうか。今回の事件では、最高裁まで責任能力を争われていなかったが、「ドラエモンが直してくれる」など幼稚性のある発言から、幼少期の家庭環境に問題があったことを主張し、そのうえで「被害者に母性を感じて甘えたかったのに抵抗されたので殺害に至った」などと犯罪の計画性(故意性)を打ち消すようにしている。
 犯罪で有罪が確定すれば、刑罰が課される。刑罰にも解釈の争いがある。ハンムラピ法典のように「目には目を」という感覚で刑罰を貸すものを「報復刑」といい、いや、環境が悪いから悪い行為をしたんだという「罪を憎んで人を憎まず」という刑罰の課し方を「教育刑」という。いま、加害者少年の弁護を行い「死刑廃止」を訴えているのは、「教育刑」の論者である。教育刑は、「環境と社会が犯罪を作り出した」という観点から、刑罰を教育の一環として考える。この背景には裁判や刑事捜査の信頼性の欠如と社会批判とが挙げられている。冤罪で死刑になった場合、取り返しがつかないということがその大きな論拠である。冤罪を作り出す警察司法組織は完全でなく、また訴訟制度も完全ではないということだ。つまり、犯罪者を作り出す社会がつくった司法制度と警察であっては、死刑は妥当でないという考え方なのだ。この死刑廃止に関しては、欧米で広く用いられている。アメリカでも30に迫る州で死刑廃止を掲げている。一方、報復刑の考え方から殺人には死刑という考え方が存在する。これは、多くの刑事裁判で被害者(被害者遺族)側が望む判決であり、その行為に関して、結果に対して与える刑罰だといえる。これは、自立した犯罪者に対して、刑罰は反省と贖罪の意味を表すと同時に、一罰百戒的に同一の犯罪を企図している者への警告も意味している。
 日本は、教育刑の立場を持ちながら死刑を廃止していない国家である。要するに、教育による更生の見込みがなく、かつ社会的な影響が大きな場合、具体的には、理由なく無差別に複数の人を殺害した場合、死刑になるということが一種の基準になっていた。無差別殺人は、殺人に至る経緯がはっきりしていないために、再発防止のための手段や教育を施すことが困難であることから、死刑に至るケースが大きい。逆に教育刑であるということが「懲役」要するに、収監中に職業訓練を行い、社会復帰につながる教育を施す刑が多く、禁固という贖罪反省につながる刑が少ない。報復刑を標榜している国は、禁固刑が主流であり、放免直前に再販防止のための社会復帰訓練を施す。その意味で日本は、教育刑・報復刑の両面性を有していると考えるのが妥当である。これは江戸時代までの刑罰は報復刑であったが、時代劇でおなじみの遠山金四郎が南町奉行のときに石川島人足寄場を設置し、社会復帰と教育をおこなうという刑罰を開始し、教育刑の文化が根付いたことに由来する。現在の日本において死刑が残っているのは、更正不能な状況を考えていることと、無期懲役が、実質「終身懲役」でないことによる。現在の懲役は、模範囚であれば言い渡された刑罰の6割程度で放免され、保護観察がつくようになっている。現在の有期刑は、刑法規定からは15年、複数の罪を犯した場合でも理論上22年6カ月が最高有期刑となる。無期懲役の場合もこの有期の最高22年六カ月を超える場合、平均で30年弱で放免されるケースが多い。これら実質的な刑罰ということを考えれば死刑廃止はできないというのが死刑存続論の論拠だ。
 ここで、私個人の立場を明確にしよう。私は死刑存続論である。同時に教育刑論者でもある。現行の日本の刑罰と運用方式が、今の日本には適合していると考えているが、犯罪抑止の観点から、現在の運用方式を廃し、条文と判決に合わせてきちんと刑を執行するべきだ。訴訟手続きとは三件分立における司法の権限で行い、それを具現化する刑法と刑事訴訟法及び関連法規によって運用されるものである。それを看守や官僚法務大臣の考え方だけで、執行を延期したり、景気を短縮することには反対であるのだ。官僚にそこまでの権限を与えれば、そこに特権が生まれ、また不正が生まれる。なおかつ、犯罪者の中でそのようなことを行えば、その特権と温床が世に出にくい、見つかりにくい不正ができてしまう。名古屋刑務所の収賄や、逆に特定囚人に対するいじめ問題など、昨今で明らかになった刑務所の不正は少なくない。
 教育刑という考え方には一理ある。しかし、それは昔の社会環境と異なる社会状況を踏まえたものでなければならない。都会における社会地域コミュニティの崩壊は著しく、逆に地域コミュニティの残っている田舎の高齢化や過疎化も問題になっている。凶悪犯罪や無差別犯罪が都会に多いのは、この地域社会コミュニティの崩壊と無関係ではない。特に、日本のように宗教感がない国民性においては、コミュニティは宗教に近い犯罪抑止力を持っていた。戒律などの明文化される物はなかったが慣習と「社会の目」という規範意識は、犯罪抑止に十分役立っていた。コミュニティの中にあれば、理由のある犯罪以外は起きなかったであろう。しかし、都会は違う。集合住宅において、となり十人の顔がわからないということは少なくない事例である。すでに都会では「匿名性」社会が振興していると考えるのが普通であろう。「匿名社会における犯罪」はなにもインターネットなどの通信技術革命によって発生したのではなく、すでに都会化の中で問題にされるべきであった。その都会化と人間関係の希薄さは、権利意識の増長と義務意識の低下を招く。同時に集団の中の自分を示すために人間の係数化が行われることになり、優劣が明確化する。そこにコンプレックスとストレスが発生し、権利意識の増長と相まって犯罪の原因となる事件は少なくない。
 今回、光市の母子殺害事件で弁護側が主張する「家庭環境の劣悪による生育不良」は、言い並べて権利意識の増長と数値化コンプレックスが親によって植えつけられたということにほかならない。しかし、弁護側が詭弁であることは、それを主張しているだけで、加害者少年の承認として親が出てこないという証拠性の薄さと、無罪を勝ち取るための方策農地の一つではないかという疑惑に明らかだ。同じ環境にいる子供が、同じように犯罪者になるのではない。犯罪者になるのはごく一部である。それは、死刑という極刑による抑止力が働いていることも否めない事実だ。この加害者少年は、私個人の見解では、この死刑という極刑の抑止力が通用しなかったということそのものが通常の人、弁護側の主張するような環境で育ちながら犯罪を起こさない普通の人との差ではないかと考えられる。
 死刑という極刑の抑止力がない。つまりは死刑そのものを意識していない、あるいは、生死を意識していない。そのような生命の根源を意識できない人は、たとえ社会的な教育を受けても更生の見込みは薄いといえよう。その更生の可能性を奪うことは人道的に許されないかもしれないが、同時にそういった人間を生かしておくことから国民の安全を守る手段があるのかということも考えなければならない。そのような論証を行ったとき、一人の犠牲によるほか多数の安全という考え方(これはルソーの社会契約説に記載されている契約論であるが)に基づいて、死刑は必要な社会悪であると考えることが妥当ではないか。死刑廃止論者は、死刑に該当する犯罪者を生かしながら社会を守る、再犯可能性をゼロにするという手段が考えられていない現実を直視すべきであろう。
 さて、今回の事件は、面白いことに場外乱闘が行われている。本件とテレビ番組で開設した弁護士が、懲戒申し立てを現在の弁護士に対して行うように呼びかけたところ、加害者少年の弁護団が業務妨害と指摘して裁判を起こしたのである。現行法規で死刑という刑罰がありながら、その刑罰を否定することは、政治活動的にはありえても法律行動としてはあり得ない。そのような法曹手段に対して懲戒の対象たる「懲戒申し立て」を行うことは問題がない。問題はそれを第三者に勧誘する行為が認められるか否かであろう。光市の弁護士たちは、懲戒申し立ての審議が終わっていない状態で業務妨害を指摘し、取り下げを図った。懲戒申し立ての弁論を終えて懲戒処分がなかった場合に、その行為が業務妨害であったとしない時点で、懲戒申し立てに対して勝つ自信がないのではと考えられても仕方がない。逆にいえば、現在の弁護士自身が、現在の訴訟進行と加害者少年の供述内容を疑問に思い、問題であることを認めているのではないだろうか。
 いずれにせよ、裁判という場を持って政治的主張を行うのはいかがなものであろうか。あまり品位のある弁護活動とは思えない。そもそも、どのような事件にも精神鑑定を持ち込み、いたずらに訴訟期間を長くする現在の制度や、それを戦略として無罪にする弁護士の手法は、一度検討されるべきではないだろうか。裁判員制度が研究される状況である。それら弁護士の行動や司法の現場に関して、どのようなきっかけであるにせよ世に開かれ、そして研究されることは重要であろう。

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安倍第二次内閣組閣

安倍第二次内閣組閣

 8月27日、安倍内閣が組閣した。安倍首相が自民党総裁選で選出された昨年9月から11カ月ぶりの組閣である。
 第二次内閣の組閣に関しては、第一に第一次内閣の反省が必要である。第一次内閣不支持の結果は、7月の参議院選挙の「歴史的惨敗」で明らかである。しかし、なぜそうなったか、という分析が非常に少ない。自民党は参議院選挙敗戦の総括を行ったが、内閣としての反省がなされているかが、今回の組閣に現れる。
 内閣としては、まず、「お友達内閣」「論考考証人事」といわれたものから大きく脱皮したものである。派閥の領袖クラスを複数名入れ、また、ベテラン中堅をうまく取り入れ、また難しいところに官僚出身を充てている。
 この組閣人事からみれば、安倍内閣が第一次内閣の反省として何を考えているかある程度予想ができる。
 第一に、首相主導、官邸主導で周りがついてくると思ったこと。第二に、お友達で固めたために専門家を適材に配置できなかったこと。第三に、お友達で固めたために発言などをコントロールしながら主導権を握れなかったこと。第四に、イエスマンばかりであったために、閣内で案件に関する検証がしつくされなかったこと。そして、最後に政治と金の問題でスキャンダルが多かったこと。
 簡単にこの四つの反省点と思われる人事を触れてみよう。
 まず、首相(官邸)主導で何でもできると過信したこと。第一次内閣では、首相補佐官を5名おき、各々文章を決めて権限を持たせた。官房長官を主導として、補佐官による政治を行おうとしたが、官僚は今まで通りに大臣の意向に従って業務を推進したか、あるいは、これ幸いと勝手気ままな行動を行った。
 官邸主導が悪いわけではない。しかし、不用意な官邸主導と大臣との式や権限の調整が行われない状況では、命令系統に支障が出てくる状況が生まれ、そのことにより、官僚組織内の無法状態が発生した。なおかつ、その調整役である官房長官、官房副長官、あるいは首相秘書官がその調整を行うことができなかった。この理由は様々あるが、結局のところ、調整を任せてもらえるだけの力と人望と強引さがなかったということであろう。
 この反省に基づいて、第二次内閣では大臣経験があり、また党の重職を務めた経験のある与謝野馨氏が官房長官の任についた。官房長官は単なるスポークスマン、アメリカでいう報道官ではない。官僚を束ねる役職にある人物であり、行政府の実務者のトップである。その意味で「総理大臣の女房役」といわれる。首相の意思を汲んで官僚を調整しなければならない。調整するだけでなく、それを実行させなければならない。与謝野官房長官に対する、その期待感は意外と大きい。今回の第二次内閣の支持と不支持に両論するといわれているが、支持している人の多くは与謝野官房長官への期待感がいわれている。もちろん、自民党税務調査会の会長などの経済経験、通産大臣としての経験などから、経済界からの期待が大きいことも事実だ。アメリカサブプライムローンの問題で株価が下がっているが、それらの問題がなければ意外と反転していたかもしれない。
 第二と第三に、「お友達内閣への批判」が入る。お友達内閣は、実力や実行力を無視したお友達人事になってしまうことと、そのために専門的な行政運営ができないことが批判店となる。当然に失敗が発生するが、その失敗のときも、「かばいあい」が発生するだけで、是正措置や支持徹底ができない。専門家でなかったことは柳沢前厚生労働大臣の「生む機械発言」問題などがいわれ、「かばいあい」では久間元防衛大臣の「原爆は仕方がない」発言の対応などに現れる。
 多分、推測の域を脱しないが、安倍首相は官邸主導政治と首相補佐官による行政によって、これら「専門家でない大臣」や「お友達内閣」をフォローしようと考えたのではないだろうか。その首相補佐官がまったく機能しないために、そして官房長官が調整をしないために、各大臣が矢面に立たされ、そのうえ専門でない内容に関して発言し、その発言が不適切になってしまうという悪循環が生まれる。
 小泉内閣のときとの比較をすれば、小泉内閣は何かあってもすべて主張または官房長官が前に出て対処していた。しかし、安倍内閣になってからは、不祥事において、各大臣が独自に記者会見を開くケースが少なくなかった。安倍首相または塩崎官房長官がそれら事件を「拾って」対処する場面がまったくなかったといってよい。そればかりか、辞任なども認めず、長期間にわたり批判のなかに大臣を孤立させてしまったのである。
 首相の頭の中に、「行政は補佐官が行うからかまわない」という考え方があったならば、そこに大きな間違いがあった。その結果が、内閣支持率の低下と参議院選挙の惨敗であったといわざるを得ない。そして、それらの政治の停滞と、専門家不在の大臣は、3名の大臣の辞任と1名の現職大臣の自殺者を出してしまった。そして、それらを合わせて「安倍首相の指導力不足」という印象をつけてしまった。
 この反省に立って、今回の内閣には官僚出身者を3名出しているし、総務大臣に増田前岩手県知事というように民間人を排出している。このほかにも、派閥領袖を3名(麻生幹事長を入れれば4名)入閣させ、党本部との調整もつけられるような状況を作り出した。
 今まで、安倍首相一人ですべてを行おうとしていたが、今回の第二次内閣では党本部を交えた政治を行うように考えられ、そのためにお友達内閣を脱却したといえる。
 第四の反省点。イエスマンばかりの閣僚ということ。内閣に関しては、お友達内閣であれば当然に首相の意向を重視して話を行うことになる。同時に、専門部署の大臣でないために、官僚からの報告をそのまま発言することになる。日本の官僚組織が一般社会から乖離した存在であることは、数々の完成談合や官僚汚職で明らかである。ステレオタイプ的な同一視はよくないが、逆に完全に理解しているという官僚がないのも否めない事実であろう。
 その官僚の報告を閣議で挙げて話をするのであれば、内閣そのものが「一般人の生活をわかっていない」という話になってしまう。政治家は、もっと選挙民、つまり国民の声を聞かなければならないし、業界の意見や新規参入者の意見を政治に取り入れなければならない。しかし、専門分野でない大臣や、式命令系統がしっかりしていない首相補佐官がばっこする状況で、なおかつ、官房長官がその調整を行えないのであれば、当然に、内閣が国民から中にういてしまうようになる。
 また、お友達内閣であり専門会見をいえる人がいないということは、当然にイエスマンになりやすい。事故保身と責任転嫁のためである。そのような各政治家の心理状況から言っても、その弊害が出たということができるであろう。
 その反省を踏まえ、専門家が多いということばかりでなく、調整型の政治家が多いことと、安倍首相よりも年上の大臣ばかりになったという特徴が挙げられる。安倍首相よりも年下は、沖縄北方担当大臣だけである。小泉内閣でも第一次内閣では塩川正十郎財務大臣をいれ、内閣全体の調整と御意見番的な客観性の維持に務めた。安倍内閣では、その存在がいなかったといわざるを得ない。今回は、その存在ばかりになったといえる。
 最後に、スキャンダル。このスキャンダルに関して、私は個人的に少しあっても仕方がないと思う。一般と違う仕事をしているのだから、一般と違う経費があって仕方がない。しかし、それを一般の基準で審査をしては、かえって仕事ができなくなる。
 スキャンダルの中には三種類ある。一つは金の件、一つは異性関係(最近は女性議員も多い)、最後に犯罪である。
 犯罪には類型があり、一つは身体犯一つは経済犯である。さて、身体犯に関しては言語道断である。暴行、障害や、一部セクハラ、これに関してはどうしようもない。
 一方、経済犯でも窃盗や詐欺などは身体犯に近い。逆に贈収賄などは、政治家の職業病かもしれない。
 異性関係に関しては、ある程度仕方がない部分もあると思う。特に政治は情報が必要であり、多数の接客を行っている女性に近づくことは彼らにとってある意味で有用である。もちろんそれ以上の関係を公定はしないが、昔「男の甲斐性」といっていた時代もあるので、何とも言えない。
 異性関係に関して言えることは、その別れ際にうまく決着をつけることができる人はうまい人である。別れ際が下手な人は、スキャンダルになりやすい。その辺に、仕事ぶりも現れるといってよい。
 最後に金のスキャンダル。これは上記のようにやはり、政治家である以上金がかかる。私はある意味、政治家には特権を与えてよいと思う。しかし、その特権の範囲からはみ出したときには厳罰ということがよいのではないか。一般と同じでは一般と同じ仕事しかできず、結局国の代表を任せられる逸材を排出しない。会社の中で、社長は給料も高く交際費も認められているのと同じで、国という組織の中で、代表「代議士という意味で」を務める人は、それなりの特権があってしかるべきである。
 現在はそう言う意味では、特権は存在しない。しかし、その前提で閣僚選びが行われたということができるのである。
 さて、反省点からできた内閣ではあるが、賛否両論があるようだ。もちろん、支持政党などがあるから評論の立場で様々な反応が変わる。しかし、内閣支持率は44%まで上がったことは事実である。前の「お友達内閣」に比べて実行力があるということが期待されていることは間違いがない。
 逆に50%を超えなかったのは、やはり、安倍首相の参議院選挙に関する総括のつけ方と、そして、明確な今後の方向性を示せていないことであろう。
 靖国神社参拝問題のように、「中途半端」「八方美人」的な内閣にみられてしまい、そして、外圧などですぐに路線が変更されそうなイメージがある。これら安倍首相本人の言動(というよりは個人の話し方)のわかりやすさと行動の明確性が疑われている。これを払しょくするのが今後の課題となる。
一度崩れた信頼を取り戻すのはかなり困難である。この内閣でそれが可能なのか9月10日からの国会に注目が集まるところである

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