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2007年10月

揺れる国技

揺れる国技

 昨今、相撲界に関する記事が紙面を彩っている。
 相撲は国技であり、その国技に関していろいろといわれている。まず、言われているのは朝青龍問題。これは、地方巡業を前にして、朝青龍が腰の披露骨折として診察所を提出、6週間の治療を要するとして、モンゴルに帰国し、地方巡業は欠席していたが、その治療期間中にモンゴルでサッカーをしていた映像が流れた。これは明らかに「仮病」での地方巡業「サボり」であるとして、日本相撲協会は二場所の出場停止にした。これに対し、朝青龍はまったく公の場に姿を表さずモンゴルに帰国しているという状況である。
 もう一つは時津風部屋での怪死事件。三カ月前に、稽古中の時太山が、マスコミ報道によると身体中あざだらけで、歯がすべて折れた状況で亡くなった。この件に関し、部屋全体で隠ぺいしていたものの、愛知県警によって現在傷害致死で捜査が進んでいる。時津風親方は相撲協会から除名されるという事件である。
 この問題は二つの日本人体質を深く反映した事件であると考える。一つは相撲(格闘技)は強ければよいのか、それとも人格などほかの要素が必要になるのかという、格闘技に対する考え方である。そしてもう一つは、「ムラ社会の隠ぺい体質」に関する問題である。
 強ければよいのか、という単語に関して、多くの人は「NO」という。では、究極の問題として「人格者であるが大関より弱い横綱の存在を認めるのか」、という話が存在する。そしてもう一つ「人格者が人を殴るのか」。
 現在日本では、暴力は軍事力と同じように敬遠されている。学校教育などで体罰を挙げられれば、すぐに教師は辞職に追い込まれる。しかし、その一方で人間は強いものにあこがれる。ボクシングやプロレス、K-1、プライドなど、放映されている格闘技は非常に多く、またその中の強い者たちは、力道山の時代からいままでヒーロー(ヒロイン)である。相撲も当然にそれらの中に入っており、昔は大鵬、最近では千代の富士や若乃花貴乃花兄弟などもてはやされたヒーローは少なくなかった。しかし、彼らがしているのはあくまでも「暴力」であることに変わりはない。張り手も上手投げも、上記のように教師が生徒にすれば、相撲部の指導以外では「暴力教師」となってしまう。この境目はなんだろうか。単純に職業(専門家)であること、競技であること(同等の体力の者が戦っていること)、そしてルールがあること。
 横綱審議委員会が、横綱の要件として挙げている人格は、この「暴力」を「競技」として、そのプレーヤーを「乱暴者」から「ヒーロー」へ変える要件であると考えられる。それはルールを守る、弱い者に対して暴力は振るわない(稽古と競技を除く)、そしてそれらが守れるであろう「人格」を兼ね備えること。朝青龍の問題でいえば、「嘘をつかないこと」「サボらないこと」「プレーヤーとしての義務と責務を果たすこと」が当然に求められていながら、それを破ったということになるのではないだろうか。
 この文書を書いている間にちょうど世間の話題になっているのが、ボクシングの亀田大毅選手が、世界選手権でチャンピオンに対し6回にわたる反則をし、試合を台無しにした事件。せのセコンドを務めた父亀田史郎氏と合わせてボクシング協会から1年間(亀田史郎氏は無期限)の資格停止処分が下されたという事件がある。これに関しても、朝青龍と根は同じ。強ければいいのか、マナーがなくても人格が悪くてもチャンピオンになれるのか、という疑問を投げかけている。
 さて、もう一つの要件「隠ぺい体質」について。
 日本人はどうしても隠ぺい体質から抜け出せない。隠すことで情報を操作することを望んでいるようである。しかし、世の中はすでに進んでいて、情報は隠すことでなく公開することで操作する時代になっている。日本人はそのことをまだ体でわかっていないようである。情報に関しては1990年代にアメリカの研究者アルビン・トフラーが「第三の波」という所の中で「21世紀は情報の波が来る」とし、情報の波による世界の変化を予測研究した書が話題になった。それから10年以上立ちながら、日本はいまだにアナログ的情報管理を行っている。
 隠ぺい体質があるのは、日本の古くからある団体すべてであるといってよい。役所(国・地方を問わず)、業界団体、大手企業などもそうである。財団法人日本相撲協会もその中に入っている。しかし、「情報の波」はインターネットなどの情報機関を使って、簡単に多くの人「マス」の中に流れるようになってきている。せっかく隠した情報も、いつの間にか漏えい、流出している状況になる。
 日本は先進国、それどころか世界に先駆けて軍隊のない国である。皇族皇室を含め、情報にタブーがない。一方、国の期間としての情報部がない。もしあったとしても、日本ほど情報漏えいが激しい国の情報部に重要情報をくれる人も少ない。一応日本には内閣調査室。公安調査庁などがあるが、私の個人的な感想からいえば連携が取れていないこと、情報が少ないこと、そして情報の利用ができていないことの三点から、基本的に国家情報部的な内容にはならない。もちろん、映画の007みたいなことを期待しているのではないが、たとえば、イラクでの日本人拉致などの事件や、現在発生しているイランでの日本人拉致事件などに関し、情報を独自に集められる期間が存在しないのは大きな問題である。日本は国家単位で情報の扱い方(集め方を含む)を考えなければならないであろう。
 話を戻せば、その古い体質の日本をそのまま背負ってしまったのが日本相撲協会であり、時津風部屋であると考えられる。
 この問題は、上記の人格の問題と、人格が欠落した集団の情報隠ぺいの二つの問題をはらんでいる。そして、それらを容認する部屋全体の雰囲気と、相撲界の密室化ということに問題があると考えられる。
 誤解がないように、この問題に関し相撲界全体に責任があるという意見はない。時津風部屋の事件は、かなり得意な例であり、また限度をはるかに超えた者であろう。しかし、上記の通り、最近の若者は体罰を受けずに育っているために、体罰の限度を守ることができない。江戸時代の拷問であっても、「指先が紫になったら拷問を中止する」など、各拷問の種類に限度を決めて行っていた。ましてや、相撲部屋で行われているのは稽古であり拷問ではない。少々制裁的な意味合いがあったとしても、稽古の枠を超えてはならない。しかし、体罰を受けていない若者にその限界を超えないようにするには、しっかりした指導が必要である。
 ではその指導とはどのようにするのか。そもそも、事件を起こした(前)親方と時太山とでは親子ほどの年齢差が存在する。当然に時代も違えば食糧事情も、育ち方、環境、いわゆるハングリー精神も異なると考えられる。それら世代を大きく超えた間であっても、教育は教育を受ける側の成長を目指さなければならない。実際、周りとの比較や昔との比較をするというのはあまりよいことではない。しかし、教育その者に関するモティベーションがないときに、そのような比較による競争原理を使用することはある。しかし、それ以上に比較を使う必要はない。万有引力を発見したニュートンも子供のころはあまり勉強ができなかった。人間も個体差があるのだから、当然に成長の速度も異なる。
 しかし、教育はある時期に、他者との比較の結果を求めるようになる。それも教育を受ける本人の能力や事情をこえてそうなる場合がある。東京都足立区の学力テストの事前問題配布不正などもそも一つで、学校でいえば学校の進学率や平均偏差値の他行との比較、今話題にしている相撲部屋では相撲部屋間での幕内力士の数の比較などである。そうなると指導に行き過ぎが出てくることもあれば、教育に歪みが出てくることになる。そして、今回のような事件に発展することになるのである。
 この相撲界の二つの問題は、このほかにも外国人や外国文化受け入れなど、日本という国が抱えている文化の大きな問題をはらんでいる。「他山の石」ではなく、自分のこととして、または身近なこととして今回の事件を見直すべきであるし、また、情報の取り扱い方や教育に関する内容の一つとして、本件を考えてみてはどうであろうか。
 ワイドショーをみてただ話題として、興味本位でみていると、次は自分にその同じ内容が降りかかってくる可能性があるのではないか。

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新首相に福田康夫氏、親子二代で首相に

 9月12日の安倍首相の電撃辞任を受けて、9月23日自民党総裁選が行われた。その中で麻生太郎候補と、福田康夫候補が立候補し、197票対330票で福田康夫氏が第22代自民党総裁に選出された。 そして9月25日に国会で福田内閣総理大臣が指名された。 いわゆるねじれ国会、衆参の野党が異なる中、衆議院では福田康夫氏、参議院では小沢一郎氏が首班指名され、両院協議会が開催され、協議決裂をもって、25日夕方、憲法の規定に従って衆議院で指名された、福田康夫氏が内閣総理大臣に指名された。 この両院協議会は戦後4回目で、古くは芦田社会党委員長(首相)と吉田茂自由党総裁、といういわゆる55年体制以前のものも記録に残っている。 さて、25日夕刻に、そのまま福田新内閣が登場する。しかし、それは安倍第2時内閣のほとんどを引き継ぐという手法となった。一方、自民党役員はほとんどを入れ替え「派閥領袖」をそろえるという内容となる。 新聞各社が27日に支持率アンケートをとったところ、野党各党が「古い自民党に戻った」「派閥均衡内閣」などと揶揄しているのに対し、おおむね50%台の後半という高支持率を維持している。 さて、この安倍内閣と変わらない顔ぶれでの支持率の高揚ということを、一つ考えてみよう。 まず、国民のほとんどが「内閣」でなく「内閣総理大臣」という「個」のキャラクターで判断しているという点が挙げられるだろう。もちろんそれはマスコミによって拡販するものであるが、しかし、完全にゼロのキャラクターを作り出すことは、いかにマスコミといってもできない。マスコミ、殊にテレビが行っているのは、伽らの一部分を取り上げて、デフォルメし、それを大きなキャラクターとして拡大することである。そのデフォルメを行うことによって、ほかの実績や主張の真意が隠されてしまい、本質を見誤ることがある。しかし、逆につくられたキャラクターでいということも重要である。小泉前首相がわかりやすい、安倍前首相がわかりにくいという感情は、期待感などとことなり、デフォルメされる前のキャラクターとして存在していることになる。 さて、そう言う意味で福田新首相に関しては、お友達内閣でもない、安倍内閣の内容を引きついた首相であると同時に、過去に大臣などを行わずに、小泉政権時代に官房長官になったのみであまり表舞台に立たなかった政治家という印象が強い。先ほどのマスコミのつくるデフォルメされたキャラクターの元は、当然に官房長官時代の受け答えということになり、福田首相の本質とは違うキャラクターになる可能性が強い。 要するに内閣の顔ぶれが同じで、安倍内閣と異なる支持率というのは、福田首相の官房長官時代の印象が強く影響していることになる。 印象の違いは、自民党役員人事に関しても同じである。派閥の領袖を据えた人事に野党各党は「古い自民党」と一斉に批判したが、実際にどうであろうか。まず派閥談合であれば、麻生太郎氏が197票になるはずがない。8派閥が福田氏を推薦したにかかわらず、思いのほか接戦であった。私の予想は麻生氏180票と読んでいただけに、200に届く数字はかなり意外であった。それだけ派閥の締め付けが弱くなっているということであろう。 小泉チルドレンといわれる中で、麻生に票を投じた人も少なくない。実際のところはわからないが、杉村議員と武部元幹事長との総裁選をめぐる言い争いは広くマスコミで伝わるところとなった。 また、福田氏の所属派閥である町村派(清和会)の一人中川昭一元政調会長は、夕刊紙のコラムで公然と派閥談合を批判し、麻生氏への投票を記載している。 派閥談合という割には、派閥が集団としての結束を得ていないのが現状である。小泉元首相が「ブッ壊す」自民党は、今回の派閥に関しても、緩やかな結束の政治集団となっているのである。 このことにより、自民党ないで自由な議論を行う雰囲気ができ、そのうえで、自由な総裁選が行われた。その結果として、各政治集団の長が党の役員になったところで、「古い自民党」になったという批判が当たるのであろうか。国民はそう見てはいない。そもそも、党の役員人事だから、ほかの人がないを言う必要もない。民主党でも、小沢、鳩山、菅と派閥の長で固めている。野党だから目立たないだけで、民主党内でも一心会など政治集団をつくった小沢氏が、派閥だどうだと他党を批判できる立場にはない。そのことを国民はしっかりみている。 さて、福田新首相、自民党総裁のスタンスは、安倍内閣発足時と違い、党内融和と閣内調整であることがわかる。各政策集団の長を入れることにより、より多くの偽委員、党員、党友にたいする伝達がスムーズに行き、各意見の調整をもって当然対の意見とする。安倍内閣の官邸主導と党の政策の乖離を求めない方策と大きく異なるものである。  同時に、内閣は、安倍二次内閣で均衡と安定感を重視しているものを踏襲している。これにより、自民党と内閣の調整を図るという役割になる。小泉、安倍型官邸主導、国民支持率依存型から政党調整型内閣になったといえよう。逆に、国民に対するパフォーマンスでなく、実利のある政策が期待される。 さて、そのような調整型内閣となって問題なのは改革の続行と重要法案の審議である。 まず改革。小泉内閣以来の改革は、「痛みを伴う改革」として認識されていた。安倍内閣ではその改革に関する矛盾の是正がいわれるようになったが、それ以前に改革を行う行政に対する信頼が揺らいだ時期でもある。改革に対する不満が行政不振と相まって大きくなったといえる。 福田内閣は、これに対して「信頼がなければ改革はない」としている。内閣の信頼は相次ぐ問題でなくなってきている。これは小泉改革の格差社会の中、政治家だけが優遇されているということと、雇用保険や年金などの相次ぐ官僚不祥事(需給、年金記録問題だけでなく地方職員の横領なども含む)などによる信頼の崩壊が得られた。信頼なければ改革なしとは、内閣に対する支持と信頼がなければ、当然に改革など断行できないという意味、というよりは、改革は可能でも改革に伴う痛みを供用することはできないということになる。この項でいうには、福田内閣では、改革の断行を継続する前に、格差是正や社会保証など国民の理解を得られる内容を優先するという意思表示であると考えられる。こう言った意味でも調整型内閣である内容を発揮しているといえるのではないだろうか。 福田内閣でもう一つ変わるのは、外交問題であろう。福田首相は、首相になる以前、昨年2006年の6月に財団法人日本インドネシア協会の会長としてインドネシアに外遊し、アジア、殊に東南アジア外交を重視する政策を発表している。この内容は、当時「新福田ドクトリン」といわれ、アジア外交重視、欧米大国協調外交ということで歓迎された。 この「新福田ドクトリン」は、昨年9月に行われた総裁選に出るための政策であると注目されたが、こののち、福田康夫氏は総裁選の出馬をしないという意思表明を行う。これにより、当時の森派(清和会)は安倍支持に一本化することになる。 さて、対米、対中協調外交を当初から表明しながらシーレーン重視(中東から日本までのタンカー航路外交)の一貫した姿勢を持っている。彼の経歴は53歳要するに18年前まで、丸善石油(現JOMO)で石油の輸入に携わっており、当然に日本における資源の重要性が体にしみついている。このことは、場合によって政治的外交よりもエネルギー外交を重視するということを意味しており、そのためにはナショナリズムの高揚よりも協調外交を軸にする政策である。 このことは、北朝鮮外交でも同じで、問題の解決だけでなく、国交正常化という目的を目指すための問題の解決ということを表明している。拉致問題の解決は重要であるが、それだけでなく非核化問題や北朝鮮国民への人道援助など、北朝鮮との問題は拉致問題に限られるものではない。国交正常化を目指すところで、相手は主権国家であり、日本の意思や希望通りになるものではない。ほかの国のように外交官が大使館などに常駐し、日々情報を収集したり内閣が訪問するときの調整を行うものでもない。いわば、相手の状態がわからない外交を行っている中で、問題を双方の国、関係諸国がすべて納得する形で解決し、そのうえで国交を正常化することは、一朝一夕に行われるものではなく、また、福田内閣の在任期間に行われると保証できるものではない。しかし、拉致問題の解決が、単に問題の解決にとどまらず、国交の正常化に言及するのは、与野党を含め始めてである(依然拉致はなかったと語っていた政党の主張を除く)。 さて、この福田内閣に関し、「崖プチ内閣」「安倍引き継ぎ内閣」と揶揄されている。一方、本人も「背水の陣内閣」とやや自嘲気味に言っている。しかし、これは完全に与野党協調型内閣であり、与野党意見吸収内閣である。その意味では、大臣ではなく、自民党の意見を調整するための党役員人事に腐心したこともわかる。 それだけでなく、この内閣は民主党の攻撃をすべて吸収してしまう。民主党の提出法案を一部修正で通してしまえば、それはすべて福田内閣の功績となる。第三者の力を使って最大限の効果を発揮する体制ができている。安倍首相のような「我を通す」政策では対立が明確化するが、吸収調整型内閣では対立点が明確化しない。それだけでなく、民主党が福田内閣の受け入れられない法案を提出すれば、そのまま国民に国益を害するということを顕在化し、そのことによる、民主党支持の減少、下手をすれば民主党分党、解体を狙うことができる。 民主党の弱点は、基本方針が統一されていないこと、憲法などに関する内容が一致していないことである。民主党は旧自民党田中派と旧社会党左派の連合体であり、自衛隊や憲法改正、国家公務員政策などに関して路線が違う者連合体である。その連合体が独自に法案提出を続ければ、その矛盾が顕在化することになる。小沢党首は、そのぎりぎりの線を通らなければならない。 こう言う意味でいえば、福田内閣は、現時点で「スポンジ内閣」要するに洗わなければならない汚れにいろいろな形に自らの形を変え、そして、水も湯も潜在もすべてを吸収し目的を達成する。特に小泉、安倍内閣の汚れ掃除(格差是正などの弊害除去)が福田内閣の当面の仕事となる。私は、スポンジ内閣であるように見えるし、そうあるべきであると考える。 これに対して、小沢民主党は吸収されないように注意しなければならない。 今までの小泉、安倍内閣と違った形の与野党論戦が国会でみることができるであろう。

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