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2007年12月

政府がUFO論議・いるかいないかで論争

政府がUFO論議・いるかいないかで論争

 12月19日、内閣は民主党山中議員の質問に回答するに当たり、政府として初めてUFO、未確認飛行物体に関する公式見解を採択した。その内容は、現在までの期間、日本国政府としてUFOを確認した事実もなく、同時に確認していないものに対して何ら対策をとっているものではないというものである。
 政府が、このようなオカルトの内容に関して公式見解をするのは異例であり、同時にそれを閣議で採択するというのは、実質上の政治とは関係なく、興味深いニュースとして取り上げられた。これを発表した町村官房長官は、「政府の公式見解はこう言うことです。私は個人的には、こう言うものはあると信じています。なすかの地上絵など説明つかないでしょ。でもこれはあくまでも個人の見解で、政府の公式見解としてはこう言うことです」として、当該見解を発表した。
 これは、最近年金問題や薬害肝炎などでギスギスしたニュースの多い中、いかにも福田内閣らしい感じのニュースとなった。
 さて、まじめにこの内閣決定に関して話をすると、日本政府の危機管理として、UFO、つまり完全に未確認の物体が来たときにどのように対処するのか、同時に、その対策は普段から準備されているのか、ということになる。
 当然に、この議論をするに当たり、UFOが存在するのかという議論と、その対策をしなければならないほどの緊迫性を持った問題なのかという二つのことを議論しなければならない。
 そもそもUFOが存在しないのであれば、それに対する対策は議論する時間だけ無駄である。また、存在するとしても、頻繁または近未来的に確実に来るというのであれば、その対策は必要であるが、確立が低いのであれば、やはり無駄といわざるを得ない。政府は、当然に限られた予算内でその対策を講じなければならない。危機管理として必要であったとしても、逼迫している事柄や、確実性の高いことから先に対処しなければならず、予算配分なども、それに合わせて行わなければならない。UFOに関しても、当然にそれらの基準に合わせて議論されるべき問題であり、外国、たとえばフランスが準備期間をおいているからといって、まねて準備すればよいというものではない。
 さて、以上の状況から、政府見解はUFOを確認もしていないし、その対策もしていない。要するに「何もしていない」という見解を発表したのであり、翻って言えば「それほど確実・逼迫した問題として認識していない」と回答したのである。
 さて、もしも対策を行うとしたらとシュミレーションしてみよう。ここからはあくまでも「趣味レーション」(おやじギャグ)である。普段固いことを書いているが、年末だし、たまにはこのような話題もよいであろう。
 まず、UFOの確認と情報収集ということが挙げられる。UFOの確認は、電波望遠鏡や高性能なカメラなどの準備と、レーダーが必要になってくる。そして、それらをどこに配置するかという問題になる。関し体制も24時間365日ということになろう。宇宙人に正月も日曜日もない。これらの配置は、当然にUFOが高確立で来るところに配置しなければならない。当然にそのためには広く国民から情報を収集しなければならない。しかし、当然その情報には「ガセネタ」や「つくりもの」が多く含まれる。その真贋を判断できるスタッフをそろえて情報を精査するという必要が出てくる。しかし、そのスタッフが真贋を判断できたり、情報を精査することができると、何を基準に判断するのであろうか。何しろ、日本で起きている事件と違って、本物のUFOに関してまったく認知されていないのであるから、それらに対して判断をするのはかなり難しいし確実性が高いものではない。
 さて、これらができたとして、UFOはなぜ地球(日本)に来るのであろうか。火星や月から来るのであれば、宇宙飛行の実験中に間違って来たと考えられる。地球人が火星や月に探査に行くように、探査で来るということが考えられるのである。
 しかし、それほどの近距離でなかった場合、その目的は、事故による不時着、探査や調査、友好親善、敵対的占領の四種類が挙げられる。もちろん、交易などはそののちに出てくることであり、第一回目はその四種類となるであろう。これは、大航海時代にスペインやオランダの軍船がアメリカ大陸や東南アジアの国々に対して行って来た内容からおおよそ想像できる。
 では、日本政府として、それらの対策として何を準備したらよいのであろうか。
 まず不時着や事故であった場合、何が来るのかわからない。宇宙人を治療するといっても体の構造が地球上の生命体と同じとは限らないし、UFOを修理するなど、現在の日本の科学力では不可能であろう。可能であるならば、すでに日本人の多くは宇宙旅行を楽しんでいるはずである。そもそも、不時着した宇宙人と会話ができるのか、それ事態はなはだ疑問である。
 敵対的占領であってもなおさら同じ。宇宙に行くことができない、H2ロケットも失敗続きの日本が、その技術力で宇宙を旅してきたUFOの搭載兵器に対抗できるとは考えられない。
 よって、対策を講じることができるとして、せいぜい探査調査の協力と、友好親善での対話程度である。しかし、調査も、戦争を前提としたものであれば協力することはできないであろう。その判断がつくのであろうか。先にも挙げたが、そもそも言語が通じるのか。
 という内容で、結局、どのような対策をとるのかということそのものが不明である。UFOは「未確認飛行物体」であり、その内容も姿も未確認である。相手がわからない以上、何かあった場合の主幹部署や担当大臣を決める程度で、それ以上の具体的な方策は議論することそのものに対し、不確定要素が多すぎるので議論に値しないのである。
 かなりまじめに文章にしたが、私自身、町村官房長官と同じ意見である。しかし、これだけ不確定な要素が多いことに関し、国民の税金を使って対策を準備するのはナンセンスであろう。しかし、日本でもH2ロケット、アメリカでスペースシャトルができたように地球人も宇宙に進出している。広い宇宙で地球と同じくらい科学が発展している惑星があってもおかしくない。そう考えれば、こないという確率も0%ではないのである。かなり余裕があれば、議論や準備、対策をしても悪いものではない。これは、かなり余裕があればという限定であり、優先順位はかなり低くてよい。危機管理という点でいえば、UFO対策よりは、地震対策や、北朝鮮のテポドン対策、テロ対策の方が、優先されるべきであろう。
 ただ、そんな堅苦しいことでなく、国会という場であっても、今回のようなオカルト話をしてよいのではないだろうか?麻生太郎前自民党幹事長がアニメやマンガが好きということで、秋葉原で絶大な人気がある。秋葉原オタク文化といえど、現在では4兆円市場といわれるほどの大きな文化であり、福田康夫首相を知らない外国人でも日本のアニメーションのキャラクターを知っている子供は少なくない。これは、外国ではなおさらであろう。戦後から現在まで、アメリカ大統領の名前をいえない日本人の子供も、ミッキーマウスを知らないことはなかった。それは、現代でも同じで、ディズニーランドの人気は、いかなる政治的イベントよりも人気がある。日本の文化はアメリカのディズニーに匹敵する影響力がありながら、国会やそのほかの場で、アニメーションを始めとする文化とその影響力の議論をしてはいない。議論すれば、規制することばかり。アニメが青少年の発育に影響があるとか、殺人事件の原因にゲームがなっているなど。そのようなことよりも、アニメやゲームの子供に対する影響力の大きさをもっと議論すべきではないのであろうか。何年も前の「くさい」ドラマのような選挙CMばかりを作っていては、政治離れが深刻になっているというのをもう少し真面目に考えなければならないのではないだろうか。
 今回のUFOの答弁は、国会答弁としてはそれでよいと思う。しかし、アニメなどの影響力を無視し、規制ばかりではなく、それらの影響力をもとにした内容を少し考えるべきではないか。それで、国民の政治離れを少しでも防ぐのが、政党などを超えた政治関係者全員の使命であると考える。

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薬害肝炎訴訟和解決裂、あえて原告団にもの申す

薬害肝炎訴訟和解決裂、あえて原告団にもの申す

 薬害肝炎訴訟が和解交渉を行っていた。大阪口頭裁判所は和解勧告を行い、和解案を提出した。政府は和解案に関し、大幅に譲歩し和解金を挙げるということを行った。かなり異例の措置である。これに対し、原告団は被害者の一律全員救済を求め、和解に応じなかった。
 まず、薬害肝炎の被害者の方々はお気の毒である。実際治療のつもりで使った薬品で病気になるというのはいかがなものかとも思う。体をいたわって治療しながら頑張って生きてほしい。
 しかし、あえて、ここでは原告団の方々とその弁護士、そして原告団に肩入れし、一方的な報道を続けるマスコミ各社にもの申す。
 薬害に関して言えば、まずいくつかの問題を考えなければならない。過去に薬害訴訟はいくつか存在しているが、その中に疑問符がつくものも少なくない。
 薬害という単語には二つの意味がある。一つは薬が原因で病気になったというもの。もう一つは、その投薬以外の選択肢が存在するかという問題である。薬には必ず副作用がある。自然体の身体に対して化学薬品を投与し、体の調子を変えるのであるから、当然に副作用があって当然である。たとえば抗がん剤の場合髪が抜けるなどその副作用はかなり有名である。
 患者は副作用に関してその副作用を甘受しながら、それでも副作用以上に大きな問題である病気と戦うために薬の投与を行うのが普通である。
 タミフルというインフルエンザ特効薬がある。この薬は確かに効果がある。しかし、一部子供がタミフル投薬後幻覚症状などで自殺?しているのである。これを受けて、厚生労働省はタミフルの全面的な使用制限を行ったのである。困ったのはインフルエンザの患者である。タミフル以外の効果のある治療法と投薬がない段階で「薬害」を原因に使用が制限されてしまえば、結局インフルエンザによる被害が拡大する。タミフルの薬害に匹敵する、それ以上かもしれないインフルエンザの被害、たとえばインフルエンザ脳症などで命を起こす人が出てくる。彼らに関し補償のすべはない。
 薬害肝炎問題の場合、当該薬害発生時点において、投薬当時に薬害が確認、そしてその因果関係が解明されていたのか、それ以外の治療法が存在したのにその投薬を行ったのか、そして、それらのリスクが告知されていたのかということが問題となる。
 日本は法治国家である。当然に裁判ではそれらの法的根拠に基づいた基準が必要になる。これらの基準を無視して「薬害患者全員の一律救済」を求め、司法の場で議論するのは、日本の司法制度を根本から揺るがし、「判官贔屓」で法的基準や法的な因果関係をマスコミなどで覆す内容になりかねない。もっと言えば、今の原告のようにマスコミで騒ぎ、政治的な結論を求め、話題になれば、司法の基準を逃れ、自分に誘致名結論を導き出すことができる世の中になってしまう。それは、日本の司法制度が危機であると同時に、三権分立を説き、正常な国家運営を前提とした日本国憲法の根底を揺るがす行為であると考える。
 マスコミ諸兄は、最近民主党の口車に乗って、さも大統領制であるかのごとき「民意を受けていない内閣」と福田内閣を批判した。このときも憲法の規定である議員内閣制を完全に無視した物議をしていたが、今回も司法での内容に政治的な決着を求めるという暴挙で国民を誘導しているのではないか。
 話が、薬害から彼らの戦い方になったので、あえて物申す。12月に入って薬害肝炎原告団は「政治的泣けて団を迫る」として福田首相を鑑定に訪れた。当然にアポイントなしである。福田首相は当然に事前の予定を優先した。
 その後、大阪高等裁判所の出した和解案によって和解を進める方針を出した。
 これに対し原告団は「政治的決断」を求めて、原告に限らない(訴訟を提起していない)全員の一律救済の主張を繰り返している。
 そもそも「司法」で議論しているものを「行政」に持ち込み政治的決断を求めることはいかがなものか。完全に三権分立を無視した行動ではないか。司法と行政と立法は完全に分立し、相互に監査補完する立場にある。その司法の判断(和解案)が気に食わないから行政に話を持ち込むというのはどうなのであろうか。違和感を感じるのは私だけであろうか。一時の感情論でこれらを無視するのはどうであろうか。
 そもそも、原告に加わらなかった「薬害被害者」はどのように考えているのであろうか。補償を求める行為をどうしてしなかったのであろうか。
 結局基準の問題である。日本には法律という基準があり、その基準を満たさないで救済を求めたり要求をするのは、法治国家を逸脱した行為といわざるを得ない。
 明治時代に「大津事件」という事件があった。明治時代、日露戦争直前に、ロシア皇太子が来日した。そして東京や京都を観光している最中に、警備に当たっている警官がロシア皇太子を襲撃した事件である。この事件では幸いロシア皇太子は軽傷で済んだが、これによりロシアと日本の関係の悪化が一層促進した。
 日本政府及び世論はこの警官「大津」に対して死刑を求めた。しかし、当時の司法は、政治的な影響を気にせず、厳粛に法律を執行し、当時の刑法である存続傷害罪による無期懲役を判決した。当然ロシアは抗議してきたが、それ以外の国々、イギリスやアメリカなどは「日本は正常な法治国家に成熟した。政治に影響されて司法が揺るがない国になった」として信用を得た。この信用がのちに日英同盟につながり、海軍国イギリスを敵に回したロシアは、バルティック艦隊の太平洋回航においてその補給に苦労し、壊血病などが発生する原因となる。それらは日本海海戦での日本の勝利につながることになる。また、アメリカは日露戦争の終結における仲介の労をとり、ポーツマスにおける条約交渉に深く関与し、戦争終結を実現した。このほかにも、戦費調達などで欧米各国が日本に協力的であった。
 これらは、日本が「法治国家である」ということと、「司法が政治圧力により左右されない」ということ、そして、それらにより基本的人権が守られているということが、諸外国の信用につながり、それが近代日本の発展に深く寄与してきたということの一つのエピソードである。
 基本的人権は、法によって守られ、その方は司法の独立によって維持されるものである。今回の薬害肝炎訴訟の原告団は、自分たちの被害者意識から、これら基本的なことを忘れ、自己の主張する要求の実現のために世論を動かしている。
 これは現代社会にける憲法の危機である。もしも、政治的な決断を求めるならば、司法での審議を取り下げるべきであるし、司法に判断をゆだねるのであれば、行政や世論を誘導するのはおかしい。法廷内で主張を尽くすべきであるし、司法の判断を求め、それに従うべきである。当然にそれに乗って政府批判を繰り返すマスコミは何を考えているのかわからない。
 今回の事件は、政府批判というにとどまらず、憲法否定であり、法治国家の否定であると考える。ちゃんとした手続きを経て、正当に主張を尽くすべきである。
 今回の原告団に関しては、その肝炎になったということは同情するが、この和解をめぐる行動は、理解できるものではないし、みていて不快である。これを報道するマスコミや、支援する野党の政治家は、自分が何をしているのか、その行動の意味をよく考えるべきである。

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東京版ミシュラン発表される。

東京版ミシュラン発表される。

 フランスのパリに、レストランの各付け本であるミシュランという本がある。フランス料理などで「三ツ星シェフ」などというのは、みな、この本で評価された最高ランクである「三ツ星」の厨房で腕を振るったということであり、ある意味で、その技術や素材を選ぶ目を「利用者の代表」であるミシュランという本が評価しているということを示している。
 11月19日に、このミシュランの東京版が発表された。報道によれば、ミシュランのフランス人三名と日本人二名が覆面調査を行って得られた評価であるという。彼ら審査員は、ミシュランの基準に従い、一年半で約千五百のレストランを回り、そして厳正なる審査を行ったという。なお、審査基準は料理の味ばかりでなく、盛り付けやサービス、店全体の雰囲気、外国人の対応などまで挙げられるという。
 19日の発表では、評価されたのが百五十の店舗で、その中で最高ランクの「三ツ星」になったのは八店舗であった。
 残念ながら、ここで三ツ星のレストランには一つも言ったことがない。何でも、ランチで13000円以上も出さなければならないレストランなど、私のポケットマネーではとてもとてもいけるものではない。もちろん、それだけの金銭を持っていたとしても、行かないかもしれないが。ましてや、ディナータイムでは三万円程度の予算。家族四人で十二万円は、年に一回でも期が遠くなる。下手をすれば韓国やグアムに旅行できる金額である。
 個人的な愚痴はさておき、ミシュランの東京版は話題になっている。やはり、最高ランクの店には、一度でも行ってみたいと思うものである。
 ところで、この審査基準に関してであるが、店のサービスや雰囲気、外国人対応などは一定の基準があってしかるべきであるし、それがあって話になるのもわかる。しかし、味、素材に関して、フランス料理と日本料理を同じ基準で語ることができるのであろうか、と少し疑問に思いたい。
 ここから下の記述は、「三ツ星」レストランに、経済的な都合で行くことのできない、筆者の「嫉妬心」と思って読んでもらいたい。
 まず、食事は文化である。日本においては、食事は儀式であったという。動物であり、植物であっても他の命を犠牲にして自分の寿命をつなぐ、そのために「儀式」たりうるものである。
 フランスにはフランスの、中国には中国の、イタリアにはイタリアの、そして日本には日本の食文化が根付いている。その文化を単純に比較することができるのか、という疑問は大きい。今回もミシュランの三ツ星レストラン八件はこれら料理店が混在している。
 同じ日本料理であっても、日本料理の最高峰である四条司家の第41代当代の四条隆彦氏によれば、懐石料理などは日本の料理といえるが、寿司は江戸時代に開発された「ファーストフード」でしかないという。サンドウィッチがビリヤード(であったと記憶する)の最中に食事ができるようにパンに具を挟んだのがきっかけというが、江戸時代にご飯のうえに具を直接乗せる料理が開発された。単品で一食になりうるものが「どんぶり」で、一口で入るものが寿司となった。
 三ツ星の中に寿司店が2件入っているが、今でこそ再高級料理であるものの、その歴史は意外と浅い。約300年後、ファーストフードの伝統といって、マクドナルドやケンタッキーフライドチキンなどが、ミシュランの三ツ星に選ばれたようなものである。
 それでも、寿司と懐石が同列はまだ納得がいく。同じ日本料理であるから、同じ文化を共有しているからである。ハンバーグ定食とハンバーガーが同列というのと同じ考え方であろう。
 食事が文化といっている以上、フランス料理、中華料理と日本料理は根本的に異なる。
 フランス料理は、素材よりもソースの文化である。ひれステーキを頼んだところでヒレ肉そのものよりもソースの方が高いということは、高級料理店では当たり前のことである。日本におけるフランス料理で、ソースを宣伝するところは少ない。しかし、たとえばデミグラスソース一つつくるのに、食材をいかに使用しているか、ワインをどれほど入れているか、その材料費は確かにヒレ肉塊の値段を凌駕するであろう。しかし、日本の場合「肉」のブランドを重視するものの、ソースのブランドを重視することはない。ソース(たれ)が重視されるのは、焼き鳥とウナギとラーメンだけである。
 やはり、そこが日本文化なのであると思う。日本文化は、素材の味を大事にする料理である。調味料はなるべく使わない。素材そのものをいかにおいしく、そして素材に失礼でなく食するかということが重視される。素材をそのまま食することができるというのは、それだけ水がきれいであるということの証明である。これは、国土的に山岳地と海が近接しており、川の勾配が急であることと、同時にやはり、水を神聖化しているために水を汚さない文化になっていることが挙げられる。もちろん、山に森林があるために、汚染された土壌が流出しにくいということもあるだろう。
 日本料理が水が美しく素材の味を重視するということについて、先にコメントをいただいた四条隆彦氏が面白いエピソードと語ってくれた。
 魚にランクがあるという。もちろん日本料理の世界である。当然「山の神・海の神」というように、海の魚が高級とされていた。しかし、鯉だけは別格であるとされている。鯉は「滝昇り」でそのまま「竜」になると信じられていたようで、竜の子供は、海や山のような地上ではなく天界の生き物であるとされ、その子供は当然に基調とされたのである。儀式などに鯉が使われるのは、そう言うことである。そう言えば、鯉の口には髭があり、竜とよく似ている。
 さて、魚一つ、食材一つとってもこれだけの差がある。その料理法は、上記で記載した水の話と同じようにより一層奥深い文化を持っていることになる。それを比較しランクをつけるのはいかがなものかと思う。やるならば、料理毎、つまり寿司・和食・フランス料理というように分けてランク付けをしてもらいたい。
 ところでミシュランの効用も存在する。まずはサーブ椅子に関すること。我々、外国人が来たときにどのような店で接待するかかなり困ることがある。このときにこのような本があると重宝する。ミシュランで三ツ星のレストランを予約しました。といえば、悪い期がする外国人は少なくない。
 レストランの品格とは、基本的に味だけではない。上記のように料理には風土や文化が詰まっている。同様に食べる雰囲気や食器などにも最高の気配りがある。それらをあわせ、そして店主や店員の心遣いをあわせて全体がレストランの品格となる。その品格に関して、日本にはじめてきた外国人や初めて大切ない人を接待する人にとっての指針となるのは非常に有用である。そういう意味でランク付けをすればいいかもしれない。
 三ツ星であることが「おいしい」ということではない。また、三ツ星のフランス両氏が一つ星の和食より「良い」というものではない。やはり本当の味、本当の自分のお気に入りのレストランは、自分で見つけなければならない。
 最後に一つのエピソード。
 私の友人である「世界の歌姫」と言われる歌手がいる。彼女は、日本に来ると新橋の居酒屋を好んで指定する。一階などその中で歌い始めて大変な騒ぎになったことがある。彼女いわく、「居酒屋が最もおいしい和食レストラン」とのことだ。もちろん、その居酒屋はミシュランに名前は出ていない。

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