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2008年4月

オリンピックとチベット

オリンピックとチベット

 最近一カ月で最も大きな国際的な話題といえば、やはりチベット問題とオリンピックの問題であろう。
 チベットは中華人民共和国において自治区として編入されているが、チベットの国民は民族の独立を歌っている。この中で、ダライ・ラマ14世が精神的な市中・省庁都市、僧侶を中心としたチベット人民に対して、中国は武力鎮圧を含む鎮圧、弾圧を加えてきた。このたび、今年の8月からオリンピックを開催するに当たり、チベット人民がデモを行い、それに対して中国が弾圧を行うが、それは徹底した情報統制と憶測により、中国の人権抑圧を印象づける結果になった。
 昨今、中東でのイスラエルとパレスチナ、コソボ、旧ユーゴスラビアなど、民族や宗教による独立が話題になることが多い。話題にならなくても、アフリカなど内戦が発生している国は少なくない。日本は島国で、民族もほぼ単一(琉球やアイヌなど厳密に言えば単一民族ではないが)で宗教も大きな問題にならないという特徴を持っているために、あまり関心がないかもしれない。しかし、外国に行けば、民族や宗教は、ややもすると、生きていることよりも価値を持つことがある。ちょうど戦前の「国体の維持」ということに通じるものがあるであろう。
 さて、今回の問題。中国が抱える異民族当地とその独立問題と考えれば、ほかの国々と変わらない。しかし、これにオリンピックという国際的なイベントと、中国のメンツが絡んでいることに最も大きな関心がある。
 オリンピックは、言わずとしれた平和の象徴であり、スポーツの祭典である。建前では、平和とスポーツの祭典に政治やイデオロギーを持ち込んではならないことになっている。しかし、いままで、オリンピックを政治的に利用しなかった国はなかった。いずれにせよ、オリンピックの招致が、そのまま経済効果や都市の国際化につながり、いやがおうでも、全世界の注目を浴びる以上、そこに何らかの効果を求めることは不思議ではないし、それが政治やイデオロギー的なメッセージが含まれないことも難しいであろう。そもそも、「戦争反対」「平和維持」ということだって、見方を変えれば、またがクラウゼビッツの戦争論の主題を借りれば、政治的なメッセージの一種と考えられるではないか。
 さて、そのような空論をここで述べるつもりではない。もう少し掘り下げた中国独特の課題に関して話をしてみよう。
 中国が抱えている反政府運動は、実はチベットだけではない。シンチャンウイグル自治区の独立もあるし、そもそも台湾問題も片付いているとはいえない。また、そのような自治区のものだけではない。世界地図をよく見てもらえばわかるが、じつは中国とロシア・中国とインドはまだ国境が確定していない。中国の一部の友人に聞けば「交戦中である」という。朝鮮半島の「38度線」とかわらないというのである。
 またそのような国境や独立というものばかりではない。中国国内には、二つの大きな火種がある。一つには「資本家と政治局員の格差」、もう一つは「退役軍人の扱い」である。
 「資本家の台頭」は、そのまま共産主義を否定する問題となり、それが貧富の差として日々の生活のレベルとしてあらわれている。資本家企業と国営企業の平均給与の差は10倍までは言わないまでも歴然としており、とくに外資系になればそれだけ大きな差が生まれてくる。毛沢東革命以来中国共産党の名の下に共産党と国営企業を信じた人たちが、中国共産党方針に従わず、アメリカを中心とした資本主義「帝国」のやり方をまねた資本家たちの下に立たされるということが発生しているのである。これが「改革解放宣言」以降行われていることである。
 中国は改革解放宣言以来、経済は資本主義、政治は一党独裁というギャップに苦しめられてきている。
 はじめのうちはものめずらしさで何とかなったかもしれないが、天安門事件からそのギャップに関する矛盾は海外企業にも押し付けられるようになった。中国を語るときに、日本の評論家は「中華思想」ということをいうが、そればかりで、現在の中国のこの矛盾を説明できるものではない。中国は一党独裁の共産党政権という政治機構を基礎とした土台のうえに、至極不安定な資本主義を形成した。ちょうど勢いよく回るコマのうえに堅牢な建物を建てるような感じである。中国に関しては、その不安定さを露呈しないために、毎年のような計画経済上の経済発展と、それに対する海外投資の受け入れ、そして、その矛盾を指摘されたいために去勢を張ったり、嘘をついたりする。そのように考える方が、自然ではないだろうか。
 政治的に力のある人々が、資本家よりも悪い生活をする。経済と政治が別であるということでよいのかもしれないが、感情的に納得できるものではないであろう。それが国務院政府重鎮となればよいが、地方の共産党員では生活ができないということも考えられる。
 私が大連にいた時分の話。マイカルの部長クラスは日本円で30万円の給与であった。これに対して、大連の税関長の給与は約5000円実に60倍の給与であった。マイカルが払いすぎかもしれないが、当時の大連市の平均月給は4万5000円程度。税関長は住むところと食事が支給されるにしても、給与が少ない状況であることは代わりがない。これでは賄賂が横行するのも無理はないのである。
 とはいえ、給与を増やすことはできない。なぜならば税収が決まっているからだ。そこに不公平感が生まれる。
 その不公平感は、税収を生活の糧にしているすべての共産党員・元共産党員の共通となる。これがもう一つの火種の「退役軍人」である。
 中国人民解放軍の一般の定年は55歳。人民解放軍は、中国共産党とともに中華人民共和国のただ二つの全国組織であり、中国国内の物流の大半をになっている組織である。軍が物流しなければならないというのは、それだけ治安が悪い(または悪かった時代があった)ということであり、海外と戦争していることや国民党との戦争だけでなく、中華人民共和国の根幹を任せられていた組織であるといえる。
 組織はそれでも、退役すればただの人。日本でいう年金で生活しなければならないのである。55歳から年金生活は長い。ほかの資本家企業が70まで働いているのに、55で引退するのである。
 中国では、チベットの暴動と同じように、よく退役軍人の待遇改善のデモが行われる。それが一部暴徒化することは特に変わったことではない。特にチベットだけが特別であるという感覚はないのかもしれない。
 そのような「火種」を抱えた中国で「平和の祭典であるオリンピック」を開くのである。そもそも大きな矛盾ではないのか。退役軍人のデモなど、世界に知られていない中国の暗部は少なくないし、それに対する弾圧に関し、中国はそれこそ「国体維持」の観点から、武力を使うことをいとわない。その中でのオリンピックの是非を考えなければならないであろう。
 私の友人で、日本の大学を卒業した弁護士がいる。普段日本と中国の関係や文化的な差について、それなりに納得できる開設をくれる貴重な友人だ。その友人が、天安門事件について興味深い話をしてくれた。
「私がアメリカにいったとき、ホワイトハウスの前で反政府の歌を歌っている人がいた。数名その歌を聞いていた。アメリカ人は、その光景を見てこれが民主主義だという。天安門事件を非難する。しかし、数万人のデモ隊が暴徒化して国の中心に押し寄せてくれば、それを抑えるのが国の使命である。たった数万人のために13億の国民の相違を変えることはできないのだ。そのため、治安維持のために軍隊を出動させるのは軍の役目だ。不幸にも死者が出たことは悲しむべきことだが、その死者がなければ何万人もの共産党支持者が餓死するかもしれない。」
 かなり日本人に感覚が近いと思っていた友人の発言である。また、言わんとしていることをまったく理解できないものではない。安保騒動では民主主義の国日本であっても死者が出ているのである。
 オリンピックもそうであるが、そろそろ建前だけで話をすることにほころびが出ているのではないだろうか。チベットの独立(または人権の保護)とオリンピック。本来関係のない二つが、中国という国家の中でクロスする。これがオリンピックの開会式や本大会にどのような影響を及ぼすのであろうか。政治とオリンピックは別という建前がいつまで通用するのか。世界各国の反応に注目である。

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