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硫化水素自殺に関する一考

硫化水素自殺に関する一考

 最近硫化水素による自殺が増えている。流行というと誤解を招くが、どうも自殺には流行があるようで、その時その時の自殺の方法に何らかの共通性があるように感じる。
 今回は、政治とはまったく関係がない話をしようと思う。何でも政治に関係があるといえばそれまでで、政治が悪いから自殺者が増えるなどとこじつけて話す人もいないではない。しかし、基本的には、同一の状況におかれた人がすべて自殺を「強要」されたわけではないので、実際に自殺と政治は関係がないと考える。
 政治と関係がないことをあまり書くのはどうかと、この一連の私の文書を読む人にいわれるのであるが、社会現象にかかる問題は、一考する必要があると考える。
 さて、ここに関して言えば、「自殺」ということと、「手段の選択」ということ、そしてその手段による「社会的な影響」ということの三種類の話から考えなければならない。
 まず「自殺」について。
 自殺に関しては、最近自殺の報道が増えたような期がする。実際に自殺の件数も増えているという。新聞報道などによると、最近の硫化水素自殺に関しては、その自殺に至る動機などが報道されることは少ない。報道の多くは、硫化水素が発生したことによって周囲住民が避難した、というような周辺の影響に関する記事が多い。しかし、実際その人が自殺という手段を選ばなければ、周辺への影響もないので、そのような報道にもならないはずである。
 自殺の件数と同じように増えているのが、あまり同期のはっきりしない殺人事件である。「そんなことで人を殺してしまうのですか」というような殺人事件が少なくない。昨年起きた横浜の裏サイト殺人事件のように、単に裏サイトで集まって、見ず知らずの人を強盗目的で殺してしまうという事件や、裏サイトでアルバイト感覚で関係のない人を殺してしまうということが多発している。無差別殺人または無差別とまでは行かないまでもサイトによる依頼殺人といった「個人的」そして「ゲーム感覚」の殺人が増えている。
 殺人と自殺は「人を殺すという意思」が他人に向かっているか自分に向かっているかということにほかならない。いずれにせよ「人を殺す」という意思が存在することに変わりはない。
 動機があるう場合は、その人の行動に理解ができる場合がある。人殺しを理解するといえばおかしいかもしれないが、自殺の遺書などを読んで、その人の自殺までの経緯を理解することは可能である。もちろん、奨励するわけでもないが、その人の自殺または殺人という行為に至った思考の順序をたどることは可能であり、同時にどこで「間違った」のか、振り返ることは可能であろう。
 しかし、動機がない場合はそれを理解できない場合が少なくない。いわゆる自殺サイトによる集団煉炭自殺などは、「自分をいらないと思った」など、まだ自殺を選択する必要がない状態で自殺をしているので、その行動は理解が難しい。
 いずれにせよ、人の命を奪うということは、完全に究極の選択肢であるといえる。いくつかの場合で理解できる場合が存在する。それでも賛否両論があり、避難されることを覚悟でいえば、死刑執行人や戦争の最前線にいる兵士、そして終末医療の医師などがそれに当たる。それ意外の場合で死を選ぶというのは、個人的にわからないでもないが安易なものではない。
 ではどうして「何となく自殺」「動機なき殺人」ができるのであろうか。私は単純に教育の問題と考える。現在の教育は「学歴」が重視するものの「社会性」があまり重視されていない。そもそも「学力」でなく「学歴」が重視される教育というのはいかがなものであろうか。学力があるから良い学校に入れるのではなく、良い学校に入るためのテクニックを学ばせる学校が少なくないという事実がある。
 そもそも学校は「社会性」「人間性」を学ぶところではないだろうか。では、その「社会性」「人間性」を教育できる教師はどれくらいいるのであろうか。これは学校だけではない。家庭でも同じ。過保護に育てば、物の大切さがわからなくなるという状態。社会性・人間性が育たなくなるし、知恵が出なくなる。
 また、社会での役割がわからなければ、自分の存在意義がわからなければ、その存在自体に疑問が出てくることが少なくない。人の大切さもわかるものではない。
 殺人事件などが起きれば、すぐにゲームなどというが、そうではない。ゲームをゲームとしてとらえることができないような教育をしている現状を考えるべきではないだろうか。やたらと、ほかのものに責任を転嫁しているが、実際日本の教育の問題が最大の問題であろう。

 次に、「手段」「自殺の方法」である。どうも連鎖するようである。心霊マニアでは「前に自殺した人が呼ぶ」などというが、はたしてそうであろうか。
 人は、単純に死に対して漠然とした恐怖を持っている。また、死に至るプロセスでの苦しみに対しても、漠然と恐怖を持っているものである。そして、その恐怖をなるべく少なく「死」という結果を得たいのである。「死んでも良い」は「苦しくて良い」ではない。自殺者はわがままである。概して、周囲が見えなくなってしまっているので、自殺という選択肢以外がなくなっている人が少なくない。客観的にみれば「死ななくていいのに」「やり直しができるのに」ということが、いつの間にかそれで終わりになってしまう人が少なくないのである。
 そのわがままな意思を持った人が「手軽で苦しまずに死ねる」となれば、それに飛びつくことは少なくない。
 硫化水素自殺は「手軽」であることは否めない。「まぜるなきけん」と書いた洗剤を混ぜたら良いだけである。苦しむかどうかは、私は知らない。いずれにせよ、その方法で死ぬことができるとわかって、なおかつ、かなり手軽に死ぬことができるとなれば、簡単にそれに手を出してしまう可能性は少なくない。
 しかし、自殺の方法はどうしても連鎖してしまうことが否めない。これは、手軽などの事情だけでなく、単純に「報道が次の自殺の引き金になっている」ということを考えなければならないであろう。報道の影響は、いわゆる犯罪の二次現象である「愉快犯」などでいうことができるが、自殺に関しても同じ効果が現れているといわざるを得ない。
 そしてその内容は自殺に関する方法まで影響を及ぼしているのである。報道に関しては、その辺の影響を考える義務があるのではないだろうか。

 最後に、その自殺による影響である。しかし、これは二つの観点が必要である。一つは「自殺」によって直接影響を受ける友人や親族などの関係。もう一つはまねして自殺するとか、硫化水素発生により関係ない人が中毒症状になるという影響である。前者を「直接的影響」とし、後者を「間接的影響・社会的影響」としよう。
 直接的影響に関しては、まさにそれまで存在していたものがなくなるのであるから、その影響は計り知れないであろう。特に心的影響まで含めれば、かなりの大きさになることは想像できる。このことについては、それ以上言う必要はないであろう。
 問題は社会的な影響である。自殺の方法によっては、その社会的な影響が少なくないものも多い。電車への飛び込み自殺などは、数万人に及ぶ影響を考えなければならないし、硫化水素でも同じである。
 また、自殺ということがでる社会的な影響に関しても、少なくないのは同じである。ことに「自殺の名所」などとなってしまっては、目も充てられない。
 それらを防止する手段が必要であるが、なかなか難しいであろう。一つには、日本に宗教館がないことが、不文律・道徳率の欠如を招き、その結果が今日の結果の一つになっていることは間違いがない。とはいえ、宗教に盲信して良いことはない。
 結論として「いいかげん」を勧める意外にはないのではないだろうか。そのことに関しては、今度ゆっくり開設するが、日本人は「責任あるいいかげん」が下手である。それを学ぶことがこの問題の解決につながるのではないだろうか。
 いずれにせよ、この事件を持って、強力な洗剤がなくなるのも困るし、ゲームなどが規制されるのも困る。根本的な問題を解決せずに、小手先だけの話をするのはいかがなものであろうか。
 

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