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2008年6月

惨劇・秋葉原通り魔無差別殺人事件と社会病巣

惨劇・秋葉原通り魔無差別殺人事件と社会病巣

 6月8日、午後1時過ぎ。東京都内でも観光地、そして有数のショッピングの場である秋葉原で、無差別殺人事件が発生した。青森出身の静岡県在住派遣社員である容疑者は、レンタカーの2トントラックで歩行者天国付近の通行人を3名をなぎ倒し、停車後奇声を挙げてナイフを持ち、その通行人と救助に当たった人、その後走りながら次々と通行人を刺し、そして5分後に逮捕されるまで死者7名を含む17名の死傷者を出した。
 日曜日の昼は、秋葉原の中央通りは歩行者天国で、多くの買い物客、観光客だけでなく、路上のパフォーマー(大道芸ではないらしい)、コスプレ(メイドを含む)などがいるだけでなく、外国人観光客も多くいる一大観光地といえる。外国人観光客も、日本の優秀な家電製品を買い物しながら、路上パフォーマンスやコスプレ、そして最近話題の「オタク文化」を堪能して、変えるのが常であるが、実際、安全なはずの日本のそれも観光地化している上、歩行者天国で警察官が多数配置されている秋葉原で、一種「テロ行為」(ニューヨークタイムスの記述による)とされる恐慌が行われるとは思わなかったであろう。韓国・アメリカを始め、今回の事件は世界各国の報道機関が写真入りで報道しているのが目につく。今回の事件はそれだけ異様でそして衝撃的であったといえる。

 今回、この文章はアメリカ大統領選挙における民主党候補がオバマ氏に決まったことを書こうと思っていたが、実際、この事件の衝撃の大きさと、最近増加傾向にあるこの手の事件、たとえば数カ月前の茨城県土浦市荒川沖駅前通り魔事件など、無差別・無軌道な凶行が多いことから、この事件や類似する事件について書いてみたい。

 最近の事件の共通項として挙げられるのが「まさかあの人が」という以外性と「でも、そう言えば不自然」という日常の中に潜む不自然さである。そして、内面的には、あまりえらそうにかけるような専門家ではないが、自己の世界観と近親者(親など)の世界観、そして、社会におかれている自分の立場とのギャップに耐えられなくなった個人が存在する。
 この種の事件を、たとえば暴力団やテロリスト(特にイスラムとは限らず、テロリストは存在する)であれば、以外性がないのかもしれない。今回の容疑者(あえてこの文中では固有名詞は避ける)は、基本的に一般人である。もちろん、暴力団やテロリストも人間である。と言うことは、一般人であってもいつ暴徒化するかわからない。よって、そのような枠組で語ることはできない。テロリストや暴力団、そして彼らが狙うような場所に行かなければ被害を防げるという、単純な問題ではない。
 問題は、今回の事件を分析することによって、誰が、いつ、被害者になるかわからないのと同時に、誰がいつ加害者になるかわからないということである。
 今回の問題は、そのような恐ろしさを包含している。現代人に潜む病巣が現れた事件ではないだろうか。

 今回の事件、キーワードがいくつかある。いつものようにそのことについて考えてみよう。私が考えるキーワードは「教育熱心な親と学歴社会」「派遣社員と格差社会」「インターネットのヴァーチャル社会とコミュニケーション」の三種類、そして、この三種類がすべてマイナスに向かったときにこのような事件が起きるのではないだろうか。
 
 「教育熱心な親と学歴社会」について。この問題だけで一つの話題になるくらいである。ここの問題は、日本における教育は、実は社会に出てから役に立たないということである。
 こう言ってしまうと、語弊がある。しかし、単純に勉強している内容がそのまま役に立つことは少ない。専門の業種を除き、小学校で我々が習った「円周率」を、この文章を読む一年以内に使った人はいるであろうか。微分積分や三角関数を、歴史の年号や漢文の「レ点」、習って、試験で使って、それっきりまったく使わなくなったことのなんと多いことか。
 しかし、これらのこと、要するにカリキュラムは日本の教育が間違えていることにはならないと考える。問題は「それら実際の社会生活では使わないこと」と通して「何を学ぶことができるか」ということ「何を教えることができるか」ということである。それらで数学や漢文に興味が出る子供がいるというだけでなく、それらを集団で学ぶこと、おとなしく授業を受けること、など集団行動や、数学的な考えるプロセス、漢文(中国)的な発想、歴史的な循環の思想など、実際に頭をどのように使うかを学ぶことが必要である。
 日本の教育で間違えているのは、高校野球などでは、努力や練習などプロセスを大事にするのに、学業になると急に偏差値や点数といった結果主義に陥ることである。そして、それが教育熱心な親によって引き起こされている。多少カンの良い子供であれば、自分の親がそれら学校で習う知識を使わずに毎日生活ができていることを見抜いている。その子供が「勉強すること」でなく「勉強の結果を残すこと」を、それらの結果が無意味な生活をしている親に強要され、それを、唯一の価値観であるかのように育てられるのである。
 この事件の容疑者というのではなく、この教育に関する矛盾は日本全国いたるところで行われており、また、学校という教育の場でも行われている現状がある。そして、この学力結果主義(と勝手に名称をつけるが)は、プロセスを教え、そして子供の考えるプロセスを評価することのできない教育者、俗にいう(先生)という存在と、それが正しいというようにインプリントされた親によって形成されているのである。
 このことを変えるには、教育を改革しなければならない。しかし、上記のように、結果だけを評価し、点数でしか子供をみることができない教育者が多い中では、どのような改革をしても無駄である。「ゆとり教育」の失敗はそこに由来する。教育改革の前に、教育者改革、その次に最も身近な教育者である親、家族の教育意識改革を行うべきであり、そのためには、社会全体を直さなければならない。2007年は空前の「おばか」ブームであったが、人の馬鹿を笑っていられない。普遍な価値観はない。知識があっても知恵がなければ生きていけない。そのことを誰が教えるのであろうか。

 「派遣社員と格差社会」についてである。格差社会は存在する。日本は、橋本内閣の金融ビッグバン以来、間違えた方向に進んでいるのかもしれない。もともと、「護送船団方式」といわれた金融の協調融資姿勢と、そこにぶらさがった企業の系列化が、一つの大きな問題になっていた。金融そのものが財閥化し、金融により、企業や技術が滅ぼされる時代ができてきていた。
 バブル経済に踊り、その後ショック的な不景気になった。この際に、経済合理化を旗印に終身雇用制度や国内の製造業は壊滅し、工場は海外に、そして雇用は派遣短期雇用となった。
 この姿が正しいかどうかは歴史が語ってくれるであろう。問題は、金融ビッグバンも、その後の小泉改革も、一つのこと、一つの部署に関しての改革は行えても、そこから派生する現象にまでフォローをしていない。その歪みが出てきていることは間違いがない。
 多くの改革により、企業は企業としての存続と維持を目指した。それにより経費を節減した。始めはタクシー券や接待交際費の節減になった。しかし、それで足りる量ではない。バブル期の金利で多額の借入を起こしているのであるから、よほどのことがなければならない。次は、生産コストなどの削減、そして最後に人件費の削減になる。
 人件費の削減には二種類あり、一つは製造部門の海外転出、もう一つは事務職の派遣社員登用である。
 この派遣は、人件費削減という項目で行われている。あまり意識している人は少ないが、派遣社員には退職金積立がない。そして、労働時間や条件によっては、保険や社会保障費なども必要がなくなっていたのである。これらがなくなることによって、企業としては総支出人件費の2割前後をカットすることができるのである。
 人件費のカットだけでなく、解雇の自由も保証されている。契約派遣社員は契約を更新しなければそれで終わりである。企業が最も嫌がる人的なつながりを、契約書という文書そのもので解決できるのである。その気軽さは、合わせて雇用だけでなく人間関係での希薄さや雑な関係を増長する。
 そして、雇用関係や人間関係の希薄さは、企業における「買い手市場」を形成する。これにより従業員というよりは派遣社員は社会的な弱者に追い込まれるだけでなく、最低賃金を軸にした雇用における価格競争が発生する。17世紀のイギリス産業革命における労働者と産業資本家の関係が、なんと200年もの月日を経ながら、歴史学習を拒否した日本という国で発生しているのである。
 解決策は、歴史にある。そこから産業革命を成功させた国、後発で急速な改革を支度に、そして二回の世界大戦が、その答えだ。その中から何を学ぶかが、現代の日本に必要である。しかし、必要以上の戦争アレルギーと歴史教育の拒否、自国自虐史観、そして、タブーの多い日本において、その答えを見つけ出し、現代の格差社会に当てはめ、日本独自の風習や習慣にカスタマイズして問題を解決する能力は、現代日本に存在しない。
 何よりも、格差社会が雇用「だけ」の問題であり、産業構造や金融機関の圧力を無視し、厚生労働省だけが縦割りで考えていること、そのこと自体が、日本学にとして、社会全体でこの問題を解決する能力に欠如していることが明らかである。

 第三に「インターネットのヴァーチャル社会とコミュニケーション」である。
 今回の秋葉原無差別殺人事件の特徴として、容疑者が携帯電話を経由したインターネット掲示板にこと細かに記載していることが挙げられる。事件当日、犯行直前まで書き込みがされていることに、違和感を感じる人が少なくないかもしれない。
 今から10年くらい前、あまり重要でないので細かい年月日は忘れたが、当時の森首相は、インターネットにおける革命を「IT革命」として、茂木担当大臣を任命した。これを「イット革命」とよんで、森首相を揶揄する言葉が多くあった。
 「IT」とは「インフォメーション・テクノロジー」の略語である。今までにもIT革命はあった。郵便でなくファクシミリで文章を送付することができることは画期的であった。そもそも飛脚が、前島初代逓信大臣により郵便制度が確立したのは、すばらしいことである。日露戦争の日本海海戦も、まずロシアの通信線を切断することから始まっている。
 情報の伝達の速度とその形式に関して、その重要性は多くの人が認識している。しかし、今回のIT革命はその意味とは少し異なる。
 今回のIT革命は、一つには「匿名性」と「仮想世界」の二つの特徴が存在するのである。
 匿名性は完全なものではない。表面上のものであり、これを過信して秋葉原事件以来威力業務妨害で無益な書き込みにより逮捕された人は少なくない。しかし、多くの人は、この仮想世界で「匿名」であると考えている。
 ではその仮想世界とは何か。実際、サーバー内部での人口的に作り上げた社会で、その中で、実際の人格と異なる人格が形成される。匿名であることは、この世界観の中で別人格の重要な要件の一つとなっている。
 実際のコミュニケーションができず、仮想社会の中でコミュニケーションを取れる人が少なくない。実際の世界と仮想社会の相互関係がうまく行かない人も少なくない。しかし、これは仮想世界の存在の問題ではなく実際世界の中における人格の問題である。
 なぜ、仮想社会ではコミュニケーションが取れ、実際世界では話ができないという人が多いのであろうか。様々な理由があると思うが、基本的には「傷つきたくない」という要求が大きすぎるのではないかと思う。と言うよりは、教育されてきた過程(仮想社会を使える人は、ある程度年齢が言っている人がほとんどであり、幼児などは少ない)で、傷つくことになれていない人、コミュニケーションの中で自分を律することが不得意な人が多いということである。
 誤解があるといけないので、あえて書くと、仮想社会になれてしまい、実際のコミュニケーションができない人ばかりではない。一部そのような存在がいるということである。しかし、逆に、一部にはその用名人が存在することは間違いがない。
 そして、仮想社会においていきいきと活動している人にもかかわらず、実際世界においてコミュニケーション不足になっている人に、コミュニケーションや人間関係を教育する機関は少ない。

 このように考えてゆくと、この事件は、教育の問題が大きく、同時に社会的背景が少なくない。上記に書いた通り、「誰が、いつ、被害者になるかわからないのと同時に、誰がいつ加害者になるかわからないということである。今回の問題は、そのような恐ろしさを包含している。現代人に潜む病巣が現れた事件」ということができる。容疑者をかばうつもりはもないし、社会的、刑事罰的制裁は望むが、同時に、このような犯罪を作り出した現代の日本社会を考えるべきである。
 刑法、刑罰について「教育刑論」というものがある。語弊や説明不足になることを恐れずに書けば、犯罪は個人が起こすものではなく、その犯罪者の育った環境やおかれた立場によって発生するものであるため、刑罰は、その犯罪者を是正構成させるために、一種の強制的教育をして執行されるというものである。これに対応する考え方は「報復刑論」というものである。
 私自身は、普段「報復刑」を主張しており、日本の刑罰そのものに不満があることもある。しかし、今回の事件をみるに、この犯罪者が教育刑としての刑罰が妥当なのではないかと考える要素は非常に多い。
 とはいえ、犯罪が許されるものではない。同じ境遇同じような環境であって、犯罪を犯さない人は少なくない。自分の境遇や環境に責任を転嫁して、自己の犯罪行為を正当化するなどはもってのほかだし、弁護人もそのような論拠で弁護をしてほしくはない。
 しかし、次の犯罪者を作り出さないために、社会の改善や、同じ境遇の人への保護策を考えるのは、重要なことであろう。そのことを縦割り行政で、場あたり的な規制で対応策を講じたようなつもりになるのは、政治の無作為外には言い訳はできない。このようなじ犯罪には複合的な事情があり、その政治的な解決を望む民衆は少なくないことを、政治に携わる人間は認識しなければならない。

 最後に、今回の事件の犠牲者の方々と、ご遺族の方々に深く哀悼の意を評し、このような他人事の文書を長々と書き連ねたことをおわび申し上げたい。 

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食糧自給率と農業政策

食糧自給率と農業政策

 今年になってから様々な食品が値上げされている。輸入商品とわかっている食品は当然のこと、チーズ、バターなどの乳製品に醤油や味噌などの調味料など、「こんなものまで」と思うものが値上げされている。
 最近では、福田首相がヨーロッパで行われている世界食糧サミットに出席し、食糧の安定供給や環境問題に言及するなど、その関心は日増しに高まっている。食糧サミットでは、バイオ燃料への食料品の転用を制限する提案など食品の確保に向けた世界的な潮流とバイオ燃料や環境という他分野への調整ということで会議が行われている。
 日本の食糧自給率は39%といわれている。しかし、これは総合であって、分野によっては100%に近い輸入食品もある。南国の果物などではない、うどんや醤油など、日本の固有の食材と思っていたもので、原材料を海外に頼っている、食材は少なくないのである。
 食糧危機が世界的に迫っているといえる。危機の原因は主に三種類に起因する。一つは異常気象による旱魃や冷害、一つは、バイオ燃料や都市化などによる農地転用、そして原油高騰による関連コストの値上げである。これらの複合で環境問題が出てくる、そして新規工作地を増やすためのジャングルの開墾を禁止しているのである。総合的に言えば先進国の身勝手と、一部の投資家の気まぐれによるところが大きいといえる。
 一つ一つ原因を検証してゆこう。そして、日本として何ができるか考えてみよう。

 まず、異常気象に関して。「地球温暖化」ということがいわれて久しい。そもそもこの単語が日本国内で急激に広まったのは2000年の京都サミットとそれによって採択された京都議定書である。それまで「エルニーニョ現象」など異常気象のときにお天気コーナーでいわれていた単語が、一気に環境問題ということと地球温暖化に変化したのである。
 ここで日本の報道の悪い癖が出る。センセーショナルな過大報道と絶滅や貧困の涙物語を中心にした番組づくり、そして結論を出さない不確定報道が横行している。ややもすれば、グリーンピースなどの過激な自然保護団体を擁護するような論調を展開するのはいかがなものであろうか。
 一部の報道番組の解説を除き、環境破壊と経済行動や消費行動が密接にかかわっていること、そして、根底には「南北問題」要するに発展途上国の未開発と、先進国の搾取の問題が絡んでいること。そして、その世界的な環境は会社の一つの当事国が日本であることをしっかりと報道しなければならないであろう。自分たちは第三者であるかのごとき無責任な報道を行うのはいかがなものであろうか。
 冷静に環境破壊と地球温暖化を議論する土壌をつくらなければならず、そのための正しい情報、過大表現のない情報を伝達するという仕事を放棄して、ただセンセーショナルに事実を課題報道することに関し、日本は慢性の死に通じる病を持っているかのごときであり、また、悪性腫瘍のように日本の報道全体に転移して、手がつけられなくなっているのではないか。
 さて、報道に関しては別にして、環境の悪化は、温暖化だけでなく、海洋や土壌汚染なども深く関与しているし、動物などの乱獲が一つ挙げられている。それらの生態系の破壊が環境の破壊、たとえば砂漠化などを進めている遠因となっているとのことも挙げられる。温暖化によってだけでなく、汚染などによる生態系の破壊が、単純に人間、要するにすべての生態系の頂点である人間に襲いかかっている状態であろう。餌を食べ過ぎて食物連鎖が成立せず、それにより連鎖の頂点にいる動物の数が減少するということ。ここの「餌を食べ過ぎて」が、人間の場合「化石燃料の燃焼による地球温暖化」「乱獲による生態系破壊」「環境汚染(土壌汚染や海洋汚染)または環境破壊(森林伐採や都市化)による生態系の破壊」というように変わっているだけで、結局生態系の大きな環から外れることは許されていない。
 では、この観点からすればどうしたら良いか。二つの方法がある。一つは、便利な生活をやめること。要するに乱獲をやめ、土壌汚染の物質を使わず、なるべく昔の便利でないころの生活に戻すということになる。しかし、これは世界全体の人にコンセンサスが必要な話で、なかなか実現は難しい。
 そこでもう一つ、要するに新規技術の開発である。難しいことではない、養殖などがそれに当たる。しかし、今の養殖は餌を天然に頼っている部分が少なくない。食物連鎖に従って、たとえば魚でいえばプランクトン、家畜でいえば農産物の受粉に使う虫まで養殖・保持する感覚がなければならないであろう。そこまでの経済性があるのか、ということになるであろうが、 世界的な食糧危機を目前にして経済危機だけで話を論じることができるのかということも議論の余地があると考えられる。

 さて、第二の視点、バイオ燃料などへの農産物の転化または都市化による農地の転化である。
 まず転化ということに関して考えてみよう。日本では、当然に農地の転用に関しては法律で規制されている。しかし、逆にそのことは農地の監禁性を低くしていることになり、農地における耕作放棄地を増やす結果にしかなっていない。
 これは、日本の法律において、法制度が現象を禁止する法律でしかなく、根本的な問題の解決を目指したことになっていないことに起因する。
 そもそも転化はなぜ起きるのか。これは農地転用も海外におけるバイオ燃料原材料への転化も同じ理由である。農民にとって「高く売れるから」。要するに農民の経済性の問題である。食品として高く売れるのであれば、または、一次産業で十分に暮らしてゆくことができ、都会と同じまたは同程度の便利さであるならば、転化が起こるはずがない。逆に、都市化やバイオ燃料から一次産業への逆転化(ここではそう表現する)が発生するはずである。要するに、最も良いのは「食品としての販売額以上の値段でバイオ燃料原材料を購入してはならない」と決めれば、よいこと。または、日本の生産者売価のように、政府が買い上げ、そのうえ保証をするということなどをすればよい。
 日本の農業政策は米に編重している。しかし、それは農業に関することだけで、土地にまつわる税制などほかの省庁分野において連携して農業を守る体制になっていない。これは、他国でも同じことといえる。
 農業の経済効率化によりバイオ燃料などへの転化が起こる。これに対して縦割り行政はやりたい放題の資本家を、ただ見ているだけということになっている。 転化に関して問題を感じるのであれば、農業の経済性を挙げ、また各国が縦割り行政をなくし、農業に対する経済効率を高める総合的政策を進めるべきである。また同時に、農業に関する、貿易を考えなければならない。
 農業産品の貿易は活発に行われている。資本投資の少ない(機械工業の比較で)農業は、発展途上国において中核産業となり得る産業である。そして、農業産品の関連加工工業は、先進国が発展途上国に投資しやすい項目であるといえる。そして、その投資に対して、現在ルールが存在しない。食品を無視してバイオ燃料にしてみたり、工場にするなど、先進国資本が発展途上国に物価の違いを盾に投資をするときのルールが存在せず、その内容が食糧不足に直結している事実を是正しなければならない。
 さて、あえて話をほかに回す。
 農耕民族にとって、農業は文化である。日本に限らず、農業と耕作に関する儀式や祭りは世界各地で確認されている。各地で豊作祈願の祭りがあり、また収穫祭があり、田植えの儀式や日を選ぶ暦がある。また、農産品は太陽と大地と水の産物であり、古くは(今でもそうかもしれないが)太陽や大地や水は神の恵みで、信仰の対象であった。宗教の始まりは農耕にともなった地母神信仰であり、それがシャーマニズムとして地縁による「ムラ」の発展につながり、その連合体が「クニ」になる。国の連合体の頂点であるから、日本の頂点は「天皇(英語でエンペラー)」になる。「王(英語でキング)」とならないのはこのことによる。
 このことは狩猟や漁業に関しても同じ発展を遂げる。たとえば世界的に禁止の波が強くなっている捕鯨も、日本では高知や岩手で捕鯨の文化があり、その捕鯨に関して、ひげをぜんまいに使い、骨を彫刻に使うなど、クジラ全体を余すところなく使って文化として成立させる。死んだ命に対して敬意を払い、「余すところなくすべてを使う」ということを文化として定着させているのである。産業革命時代のアメリカやヨーロッパと異なり、捕鯨をして油だけを絞り、捨ててしまうというないようではない。そのように乱獲し死者に敬意を払わず、環境を破壊してきた国々が、自己の国の歴史の反省をせず、他国の文化を否定し、捕鯨という現象を禁止する運動を行い、一部犯罪行為を行うなど、信じられない行為である。
 このことは、現在の「転化」も同じである。食品にまつわる文化、それは日本だけでない。各地に祭りがあるように発展途上国にも祭りは存在する。それを発展途上国のエゴと、経済的な理由だけで、そのようなカッコ・各地域固有の文化を滅ぼすようなことをしてはいけないのである。
 文化の保護と農業の保護は、生活習慣の維持ということで合致しているばかりでなく、伝統や歴史を保護するために、自由な経済活動を制限するということを意味する。このことに関して、歴史的以降や建物に関しては理解が多いが、生活習慣や儀式に関しては、世界各国が存外に理解度が低い。環境問題や食糧問題は、この文化の保護ということからも重要な問題である。

 第三の焦点。原油の高騰である。原油高騰に関しては、すでに前にも何度かこの場で記載している。私個人の感想は、原油の高騰が食品に関する値上げまで波及したということにしか感じられない。
 日本に限らず、農業と農業産品の関連産業においての石油または化石燃料の果たす役割は非常に大きい。野菜の栽培を例にとれば、苗・発芽段階での温度管理に暖房・要するにボイラーを焚く燃焼用燃料が必要である。灌漑用水タンクにも電力は必要だし、灌漑用水の治水工事ではセメントを多く使う。ビニールハウスのビニールは石油製品であるし、大農場を少人数で管理するためのトラクターなどの機械も軽油で動く。農産品を加工する機械も電力で、それを包装するビニールやプラスティックトレイも石油製品。輸送交通機関も化石燃料で動く。
 このように考えれば、原油の相場が上がれば、農業産品の値段も当然に高騰する。なぜならば経費原価が高騰するからである。
 ここに対する対策は無に等しい。原油や化石燃料に関する相場に対して対策を整えることは非常に困難であるといえるからだ。世界各国で統一の価格などということを決められるはずもない。そもそも限られた地下資源を、各国がいかに分配するかで、過去にどれくらいの戦争が起きてきたであろうか。イラク戦争や湾岸戦争だけでない。たとえば日本が敗戦した太平洋戦争も、真珠湾攻撃をした後すぐに、南方資源地帯の制圧を行っている。スラバヤ沖海戦や、イギリスのチャーチル首相が「この戦争中最も衝撃的な一日であった」と回想録に記載している、マレー海戦(日本航空機によるイギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、レパルスの二隻の撃沈)などは、すべて欧米列強によるブロック経済と資源禁輸に対抗する措置として日本海軍が行った「資源確保」ではないか。そのように考えれば、近現代戦争は資源確保の戦争といっても過言ではない。日清日露戦争も、中国東北部と朝鮮半島の石炭資源の問題であると考えれば、日本の経験した外国との戦争は資源をめぐる戦争であるといえる。
 何が言いたいかといえば、戦争をやめさせる力がなければ、地下資源の相場をやめさせる力がないということである。これは現実的に不可能といわざるを得ない。国連があるといえど、今日もアフリカや中東などで内戦やテロが実際に発生しているのである。
 では、この三つ目の焦点、要するに原油高騰に由来する食糧の高騰は打つ手がないのか。
 そうではない。農業は有史以来ずっと行われている人類固有の産業である。漁業も狩猟もそうだ。石油が発見され、産業革命が起きる前から農業も狩猟も行われている。これは何を意味するのか。
 簡単である。「旬のものを食べる」というようにすれば良いのである。
 茄子やトマトは、いまスーパーマーケットに行けば365日毎日売っている。しかし、もともとは夏の食品である。夏、旬の食材を行えば、最もおいしいそしてコストがかからない食材を手にすることができる。「無理をすればコストがかかる」の原則の通り、季節にあわないものを栽培するために、燃料やコストを使い、設備を整えなければならないのである。もともと、そのようなコストをかけなくても、旬の野菜を食べていればコストはかからない(最小限に済む)のである。また、そのような食生活で問題がないことは、人類が今までいること、絶滅していないことで明らかである。逆に便利にいつでもおいしいものを食べたいという「ぜいたく」が、そのまま人類をそして地球を滅亡の危機に追いやっているのである。
 単純なことである。いま「当たり前」と思っている「便利さ」を捨てることができるか。それだけのことである。そのことが、できないので問題となっているのだ。
 できないということの一つの例を挙げてみう。2007年の統計であるが、パーティーなどを含む外食産業の食べ残しは、全体の22%に達する。結婚式などで手もつけずに残してしまい、捨てられてゆく食材が、日本全体の外食産業の提供する食料品の22%になるという。「もったいない」という文化を持つ日本でも、このような数字が出るのである。そのような文化がなく、逆に食品を余らせることが最高の接待であると感じているとなりの国中国などでは、大変な話になるであろう。このような数字をみれば「食糧危機」といいながら「そうでもない」「まだまだ節約できる」というものである。
 今では「旬のものを食べる」とは「贅沢」と思われるかもしれない。それはそれだけ、流通機構・生産体制が人工化されていることの表れではないだろうか。食の安全とかを気にする前に、そもそも食べているものが「自然の摂理」かなっているものであるのかを検証すべきではないだろうか。

 さて、最後にこれら三つの焦点の分析から、日本が何ができるかを考えてみよう。
 注意してもらいたい。私は「日本として何ができるか考えてみよう。」と書いている。私はことさらに意識してここに書いている。要するに「日本政府」「福田政権」「民主党」といっているのではない。主体は日本と言う国家として、そしてその構成員である日本人一人一人が何ができるか考えるべきであるし、また、それに対して、初めて政府がどのように「後押し」できるかを検討すべきである。
 さて、ここで地球環境を言っても笑われるだけである。日本だけで地球全体・世界の環境を変えることは難しい。それは個人が環境に対するアプローチをしなくて良いというものではない。しかし、「日本だけ」で足りるものでもないのは明らかである。日本として環境に関する先進的な活動を行い、そのうえでそれを提唱し、そして世界に訴えることはできる。しかし、それ、要するに「環境に関する先進的な活動」とはなんなのか、そのことを考えなければならない。
 そのヒントは、上記の三つの焦点の分析に記載してある通りである。環境破壊を行わず、食品産業・一次産業を優先し、そして原油などほかの資源を使わない食生活を送ることである。 
 現在の日本の食糧自給率を上げるには、米食を行い、魚、それも日本近海で取れる魚を多くとり、旬の野菜を食す。そのうえで野菜や米における耕作地を増やせば良い。耕作地を増やすのは、耕作放棄地を活用すると同時に、都市部の屋上農園を活用し、温暖化にも対応をする。などの提案が挙げられる。
 これはこれで良いのかもしれない。しかし、この方法が日本以外の国ですべてできる話ではない。日本は環境先進国となるためには、そして食料自給100%を目指すのであれば、それだけでは話にならないのであろう。私の個人的な意見を展開する。日本が世界に誇る食品に関する文化がある。それは「もったいない」と「風流」である。
 「もったいない」は日本が誇る文化と考えられる。日本は、奈良時代や平安時代、いや、江戸時代でも何回も飢饉が発生しているのである。決して裕福な国ではなかったはずだ。その時代まで生活水準を戻せとは言うつもりはない。人間は生活水準を上げることは簡単でも、生活水準を下げることは非常に難しい。便利な生活を完全に捨てることは非常に難しいであろう。しかし、一部をあきらめて我慢することは難しいことではない。「もったいない」と「風流」は、その「我慢」を「楽しむ」ことを教えてくれる日本固有の文化である。
 「もったいない」は、言わずもなが、「ものを大事にする」ということである。ものを捨てないことと、はじめから使わないこと、繰り返し使うこと、そして節約すること。日々の生活でできることはたくさんある。「新しいものを自慢」ではなく「長い期間使っていることを自慢」する文化にすればよい。一つのものをいくつもカスタマイズして使えるようにすればよい。日本は「加工技術」の粋を極めた国である。戦時中は、鉄がないことから、陶磁器で鉄の代わりを作っていた。この技術から現代のセラミックが生まれている。トランジスタという電子集約回路をラジオのコンパクト化に使用し、車に積むことを可能にしたのは、SONYであることは有名である。それまでの真空管を使わないラジオがいかに画期的であったかは、その後の「世界のソニー」という単語からもわかるであろう。一つのものから、多くのものを発展させることは日本のお家芸である。最近では、日本海の漁業の敵であった「エチゼンクラゲ」を砂漠の緑化に使うなど、誰もがゴミとしか思わないものから利用価値の高いものを作ることが、一つの感覚である。当然にゴミを出さない技術、そして、どうしても出てしまう廃棄物を「資源」とする技術を作ってもらいたい。
 一方「風流」とは、「ものがないことを楽しむ」心のゆとりである。解釈は違うかもしれないが、「我慢を楽しむ」ことが「風流」につながる。我慢には二種類ある。しなければならない我慢としなくてもよい我慢である。しなくてもよい我慢を続けることを「修行」という。そしてしなければならない我慢は単に「我慢」である、しかしそれらを楽しむ心が「風流」といえる。今回の我慢は、「風流」である。「旬のものを食し」「緑を愛でて」「古いものを大事にする」ということは、完全に風流であろう。そして、その内容を楽しみそして心にゆとりを持つことが最も重要である。「食品の欠如による暴動」ではなく、その無いことを楽しむ心のゆとりを持つことが最も重要である。
 
 一方、これらに対して、政府が行うことはたくさんある。まず、「風流」が「風流」ですむように、要するに「生命の危機になるほどの我慢」でなく「便利さを一部我慢する程度の我慢」ですむように、様々な手を尽くさなければならない。そのためには食料自給率を上げなければならないであろう。そして、そのためには、上記の三つの焦点を何とかしなければならない。そして、その内容を実現するために「縦割り行政」や「中央と地方の壁」を排除し、国家的にそして横串的に農業や食の安全を推進し、そのための政策を推し進めなければならないであろう。「消費者庁の創設」などの話ではなく、食の安全と食の確保が最も重要な話であろう。ましてや「政局」や「政権奪取」など世界や地球規模の話をしているときに、日本どころか国会の中の世界観だけで政治や行政を停滞させるなどもってのほかである。
 また、福田修首相が悪いわけではないが、世界各国に米や金をばらまけばよいものではない。ばらまき行政は、次のばらまきを期待するだけでどうにもならない。童謡の「まちぼうけ」ではないが、努力しないでもらえる金は、人を怠惰に導き、次のばらまきを期待するだけで、何の解決にもならない。それよりは、世界各国に平和と、もったいないと風流を教え、そして産業を伝達し、新規の技術リサイクルやリユースの新技術を伝え、各国の産業を興すことがいかに大事か。そのための資本投下を行うのであれば、日本は真に世界の中で注目される環境先進国になるであろう。そしてその時に食糧問題は解決しているに違いない。
 日本は縦割り行政が激しいので、結局のところ、食糧問題とほかの問題を考え併せることができない。世界平和でなければ心にゆとりができず、当然に、産業の振興も環境の改善もありえない。自衛隊の派遣、テロの防止、環境の改善、温暖化防止、そして食料問題の解決と食料自給率の改善、国内的には農業政策、土地政策、税制、そして経済性、すべてを考え併せて政策を考えなければならない。また、そのことを教える教育改革も考えなければならない。
 国民一人一人も変わらなければならないが、政治家も今こそリーダーシップを発揮すべき時ではないのではないだろうか。歴史、そんな大げさなものではなく「おじいちゃん・おばあちゃんの知恵」という身近なところから学ぶものは多いのではないだろうか。機械化・西洋化・便利さだけの追及でなく、昔から学ぶ「粋で風流」な生活を考えるべきではないだろうか。

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