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2008年7月

医療危機と象牙の塔

医療危機と象牙の塔

 昔、といっても大概昔であるが、「白い巨塔」というテレビドラマが人気を博していた時代がある。初代のクイズタイムショックの司会者で二枚目俳優として有名な故、田宮二郎さんが主演のドラマで、その当時あまりテレビカメラが入ることがなかった病院の中をドラマ化したもので、なかなか人気のあったドラマである。その後、リバイバルでドラマ化されたが、そのときはあまり話題にならなかったが、それでも記憶にある人も少なくないであろう。
 ドラマは。巨大病院の院長の椅子を争う派閥争いと、その派閥争いにかかわる医者や業者たちの攻防、そこに運び込まれる患者たちを描いたものだ。原作の本もあるのだが、私は残念ながら古い再放送のドラマしか記憶にない。
 最近、医療関係のドラマがかなり存在する。しかし、最近のドラマは、二時間もののサスペンスを除き、救命救急に関するものが多いようだ。現在山下智仁さんや新垣結衣さん(芸能人に詳しくないので間違えていたらごめんなさい)が主演の「コードブルー」というドラマもそうである。また「Tomorrow」という、菅野美穂さん主演の病院再建ドラマもある。予想推測で申し訳ないが、アメリカのドラマで「ER・救命救急」という連続ドラマが人気を博しているが、それにあやかっているのかとも思う。または医療危機が叫ばれているのが原因か、医療ドラマは人気が高い。
 病院と警察と消防と裁判所、いずれもなくては困るが普段の生活で「あまり世話になりたくない」場所である。随筆家の北社夫氏の文書の中で「病気になりたがる人々」というものがあるが、基本的に健康でいたいという願いに変わりはないし、犯罪に巻き込まれたくもない、火事にあいたくないし、紛争もしたくない。しかし、もしも必要になったときにこれらがないと困るというのも、その通りである。もちろんこの四種類の機関だけではないが、逆に四種類の機関が生活に密着しているのではないだろうか。
 さて「あまり世話になりたくない」が「いざとなったときないと困る」という四種類の機関の中で、病院だけが「公務員」でないことにお気づきだろうか。警察も消防も裁判官もみな国家公務員である。医者は許可制の民間人でしかない。そのことが、現在の医療危機の一つの要因であることは否めない。
 現在公営病院が倒産の危機である、それと同時に勤務医が不足して、病院経営が成り立たなくなっている現場もある。
 逆に、医療に関しては診療報酬が高く、国民健康保険が破綻してしまうという現実にも直面している。政府非難の元となっている後期高齢者医療制度は、その打開策の一つとして始められたものであるが、それも廃止法案が提出され、国民健康保険制度そのものが存亡の危機になっている。

 要するに、日本の医療制度がすべて破綻しかけている。

 「象牙の塔」といわれた金満体質の病院のイメージから、現在の保険制度の破綻は、あまりにもかけ離れている。一体現場ではどのようなことが起きているのであろうか。

 まず言えることは、「すべての医者・すべての医療機関が危機に瀕しているわけではない」ということであろう。大学病院の大手などは、ちゃんと経営が成り立っている。地方に行けば行くほど経営危機の病院ができてくるのである。漫画「Dr.コトー」のような離島医療などは、その最たるものであろう。逆に、固有名詞は出さないが、東京などにある大学病院は、いまだに象牙の塔である。
 
 要するに、医者の中にも「格差社会」が発生しているのだ。そして、医療の世界にも構造改革が迫られている。

 橋本龍太郎内閣の「金融ビッグバン」、小泉純一郎内閣の「聖域なき構造改革」という大きな二つの改革が行われた。
 この二つの改革は、日本の高度経済成長以来の慣習をすべて破壊しようとしている。「土地神話」などは完全に破壊された慣習の中の一つであることに間違いはない。この破壊されつつある慣習の中に「非競争社会」「終身雇用」「護送船団方式」などの慣習も含まれている。
 日本の会社社会の中に「非競争社会」「終身雇用」「護送船団方式」はすっかりと根付いていた。私はこれらを総称して「日本型社会主義経済」と名付けている。
 金融ビッグバンと聖域なき構造改革は、この「日本型社会主義経済」を完全に破壊したといっても過言ではないであろう。
 金融ビッグバンによって、土地神話は完全に崩壊しただけでなく、銀行や証券会社が倒産するという事実を我々は知った。そして、土地担保から業績担保の証券化社会へと移行したのである。キャッシュオンデリバリーがしみついた日本の消費社会に、キャッシュ以外の価値を創造して言った時代だ。そしてその価値の創造に不可欠な「経済合理性」がいわれるようになってきたのもこの時期であろう。
 次に聖域なき構造改革。小泉改革といえば、道路公団民営化と郵政民営化ばかりが目立つ。しかし当時の竹中平蔵金融大臣による外国為替法の改正による外国金融、当時の言い方で「ハゲタカファンド」の上陸もその一つである。これにより金融ビッグバンで始まった経済合理性の追及が、より先鋭化されることになる。
 経済合理性の追及は、そのまま成果主義と競争社会の現実を生む。本来であれば病院のような「社会福祉」的な事業・インフラ的な事業は競争社会から除外されて、保護されるべき存在であるはずが、これも「聖域なき」改革により競争社会と経済合理性の論理の中に放り込まれることになる。
 医師の中には、当然経営感覚に優れた人がいて、競争原理になった方がよくなった病院もある。大病院などは医療・病院経営の専門家を雇い入れて、経営の安定を企画る人もいる。一方、経営などとはかけ離れた医師も少なくない。医療の内容に関してのみすばらしく、ほかの感覚が少ない人もいるのである。
 「聖域なき改革」は、ただ単に競争原理にすべてを入れたわけではない。そのためにさまざまな規制緩和をしている。規制緩和とは、許認可が必要なものをなくすということであり、その許認可に関して、事故責任で行うということである。
 この結果、それだけでなく、少子化などが進んだ結果、日本の国民健康保険制度は完全に崩壊状態である。その中で許認可を少なくし、医療・製薬などの分野も自由化することによって競争原理を取り入れたのである。
 「親方日の丸」という考え方が崩壊してゆくといって良い。その中で医療制度も例外ではなくなった。例外は、警察・消防などの公務員であるが、たとえば刑務所も民間が運営するなど、徐々に規制緩和が進んで、競争原理が進んでいる。これは医療に限ったことではない。
 終身雇用などを含めた「日本型社会主義経済」の崩壊は医療現場であっても例外ではない。そこに規制緩和と保険制度の崩壊が襲ってきた。これに耐え切れない病院が音を挙げているのが現状である。
 同時に「経済合理性」の意識改革は医学部の学生にも波及している。医学部の学生は「もうからない医者よりも開業医」「開業医よりも医療系外資への就職」というように話が行ってしまう。結局、地方の「日本型社会主義経済」の恩恵をこうむっていた病院には就職しないということが発生する。
 そのうえで、医師には派閥がある。医療危機、とか医師不足が叫ばれるならば、派閥などは関係がなく、一致団結しなければならないが、どうも日本人、そして医者という種族は派閥争いが好きなようで、「白い巨頭」のようにドラマ化されてしまう。
 現実問題としても「慶応派」「日大派」「東大派」などの派閥があり、その系列でなければ医師を派遣しないとか、薬剤師を派遣しない、医療危機メーカーの取引を停止させるなど有形無形の妨害が行われる。2007年に東京の病院で派閥に入らなかったための医師の派遣停止とその医師不足により、廃業に追い込まれたものがある。この派閥の中には、医者というせまう業界内での「競争原理」が働いているものの、医師や日本の医療制度全体に関する何らかの考え方がある話でもない。
 
 医療危機といっても、実は競争原理と派閥の問題である。とはいえ、庶民の生活には「世話になりたくないがなくては困る」という代物であることに間違いはない。
 とはいえ、これは医療全体が地盤沈下しているのではなく、医師の業界内で格差が生じており、そのあおりを庶民が受けているというのと変わりはない。近所に大きなショッピングセンターができたために商店街が壊滅して、商店街の近くに住む人が迷惑しているという話とあまり変わらないのである。なくなったときの困る度合いが違うということであろうか。
 医療関係だけ経済合理性と競争原理をなくすというわけにも行かない。医師だけでなく薬剤師や看護士、製薬メーカーや医療危機メーカーまでとなれば大変である。医師を国家公務員にすることもできないであろう。 ましてや、一時的な保証金や補助金で対処する問題でもない。金をばらまいても経済巧者がかすめとって、結局は同じ結果が生まれる。
 結局は偏重している富を平均化させなければならないが、研究機関などのこともあり、なかなかうまく行かない。ただ、国民は正確にこのことを理解して問題解決に当たらなければならないであろう。
 7月に医師の学会に参加した。ホテル3棟と大きなホールを貸切し、ホテル間を無料の循環バスまで出し、そして飲み物やお茶席まで無料で楽しめるイベントである。その日の夜にニュース番組で医療危機について行っていたが、かなりのギャップと違和感があるのは否めない。片方はホテル貸切で片方は倒産の危機。
 テレビでは国の対応を求められていたが、まず、医療業界内での平均化をいかに行うかが先ではないだろうか。その方策を考えるべきであり、利用者も正確に本質をつかむ必要がある。

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北海道洞爺湖サミット

北海道洞爺湖サミット

 北海道の洞爺湖で主要先進国首脳会議、いわゆるG8サミットが開催された。
 主要八カ国で行われる会議であり、様々な世界的な話し合いがなされる場である。
 ここで当然の前提になるのは、あくまでも会議であり、またその構成員がすべて国であるということ。つまり、各国とも各国に強制力を持たせるための主権を別々に持っている国家である。ここに強制的な枠組を行うには、条約を締結し、各国国内での議会で批准されなければならない。
 その前提に基づいて言えば、ここでいうサミットは、大きな方向性と努力目標を決めるものであり、各国に強制力を持たせる決議ではない。同時に、国際連合の議決のように何らかの議会体があるわけでもない。あくまでも、親睦と協調の目標を掲げることが目的で、それ以上の強制力を先進各国に課すものではない。

 その前提からいえば、今回、サミットで多くの課題が挙げられたのは議長国日本としても大変であったと思う。今までの懇親会のようなものではなく、それなりに期待されたものであるから、何らかの進展や方向性を出さなければならない。しかし、その合意を取り付けるためには、各国の事情を加味するうえに、各国の将来像や方針から導き出される近未来の政策を含めて検討し、その中において最大公約数的な結論を出して共同声明として採決しなければならない。かなりの困難な話である。
 もちろん、政府としてそれくらいの情報を持っていなければならないし、その情報に関し分析もされていなければならない。それだけ、普段からのパイプや分析機関としてのシンクタンクが稼働していなければ、一夜漬でできる話ではない。何が大変なのか、といえば、当然に、現在の日本の省庁はそれができていないので、今回のサミットにおいてそれだけの蓄積された結果に近い結果を出さなければならないのは、政府として大問題であろう。
 国交のない国のことを言っているのではない。先進八カ国の合意できる範囲を、普段の話の中で行わなければならないのであるから、それは大変なことである。
  
 外務省の怠慢の話は、べっと国家公務員改革のときに行うとして、そのようなサミットの前提と、日本の前提の中で、福田政権はよくサミットをまとめたと考えるべきであろう。

 今回のサミットに関しては、その大きな課題が「3F」といわれた。属に金融経済(finanncial)、食糧問題(food)そして、原油・燃料問題(fuel)である。
 金融に関しては、サブプライム問題とそれに伴うドル安傾向、そこにアメリカ大統領選挙が重なったために、アメリカドルの信用がこれまでにないほど失墜している。その国際金融資本、これをユダヤ資本とか、フリーメイソンとか、あるいは中東オイルマネーとか、様々な憶測を出している。それらの審議は別にして、そのような問題でなく、この、またはこれらの投資資本が原油などの商品相場に流れていることが、金融問題と燃料問題の根幹に流れている。
 一方、燃料問題のもう一つの議論として、地球環境の問題が挙げられている。地球環境問題で最も大きなものが地球の温暖化である、とされている。これは、化石燃料を燃やすことが最大の温暖化の原因であるとされ、なるべく植物由来の油を使うようにして、排出二酸化炭素を削減するという話である。しかし、植物由来の油は、ほとんどトウモロコシやサトウキビ、パーム椰子というように食品であり、その主な生産国は赤道下の熱帯・亜熱帯地方、経済的には発展途上国とされている地域がほとんどである。これにより農業が圧迫され、同時に、食糧となるものがエネルギー原料として買い占められてしまうために、食品が高騰し、また供給量が極端に少なくなるという結果になっている。
 
 要するに、「3F」といわれる今回のサミットの主な議題は、相互に連関している話なのである。そして、それはエネルギーという最も国家政策の中で、そして庶民生活のインフラとして重要な部分に関連する問題なのだ。
 そのことに関して、一定の合意を取り付けなければならないということに関して、今回のサミットは大変であったと思う。

 私は、今回のサミットは良い評価をされるべきものであり、日本国内の単なる罵詈雑言は無視して良いものと考えられる。

 トロント大学のサミットを評価するチームは、78店と評価している。地球温暖化における2000年京都議定書から進んだ枠組を示したこと、環境問題や食糧問題の討議においてアフリカに注目し、アフリカの主だった国の首脳を招いたことなどが、高評価の主な形と思う。

 個別の問題に関しては、別に文章をつくるとして、今回はサミットという一つのイベントに関して考えてみよう。そうすれば、日本のマスコミや何もしないで外野席でやじを飛ばす民主党と違う結論となる。
 
 環境問題とエネルギー問題、そして食糧と金融は、各国の経済問題と、将来的発展、国民の生活や企業の経理財務の問題、しいて言えば国全体の発展と国民生活に直接的に影響する問題である。極端な話、環境のために、あすから1週間自動車を使うのをやめましょう、または電気を使うのをやめましょうというとどうなるであろうか。簡単にマイカーが規制されるのとは違い、物流は完全に麻痺し、バスなどの通勤交通機関がなくなり、コンビニやスーパーで商品棚がカラになるという事態が起きる。当然に介護などもできなくなり、消防・救急・警察の車も動かなくなる。
 現代社会は、それほど、今回規制される二酸化炭素や石油に依存している。電気に至ってはより密接である。オール電化などは電気がなければ成立しないし、構想住宅の水は、電動ポンプで屋上にくみ上げることによって水圧を保っている。
 他人事のように「環境」「二酸化炭素」といっていても意味がない。実行性がある合意をするということは、そこまで極端でないにしても、現代社会の便利さが規制されるということである。
 数カ月前、いや現在も「ガソリンが高騰した」といって騒いでいるが、ガソリンや燃料の高騰ということと、二酸化炭素排出ということに関する環境問題は相反する問題である。環境と二酸化炭素排出ということだけを考えれば、ガソリンはもっと高騰し、だれも使わなくなれば二酸化炭素は減ることになる。逆に安くなれば、自動車の数が増えて地球温暖化が進む。
 この二つのバランスに関しては、日本だけでなく、世界各国が重要な課題として考えている。せんしんこくであれば、なおさら便利な生活になれているのであり、その生活の維持がそのまま現在の各国首脳の選挙基盤になっているのである。そこには自分の便利な生活は続けたい、それでいて地球温暖化は避けたい、食糧は安く安全なものを供給してほしい、というわがままというよりは不可能な要求を言ってきているのである。
 
 これらの環境と先進国のエゴの中において、環境問題で京都議定書より進んだ別な枠組合意が取れたことは、かなり評価して良い。特に京都議定書を批准しないアメリカに対して、サミットで共同宣言を出したことは、正当に世界各国から評価されるべきものである。結果論からいえば、それ以上の効果を期待するとはいえ、その内容によって国民の便利な生活と国の経済発展を規制されるという状況で、交渉決裂せず、合意を取れたというのはすばらしいことである。
 また、食糧問題やアフリカ問題(南北問題)などに関しても同様に、各国のエゴの中でいかに利権や利益を調整することができたのか。すべての問題が複雑に絡み合っている中で、かなりの調整が必要であったと考えられる。
 そう考えれば、各国、特に先進国という最もエゴイズムの強い国々の中での各種の合意、共同声明への参加は評価されるべきであろう。

 さて、このサミットに関して、マスコミ各社並びに民主党、そして拉致被害者の会、様々な反応を出している。

 まず、民主党。鳩山幹事長は「洞爺湖がないている」と成果がないと日本政府を批判した。要するに、サミットの共同生命に「意味がない」と否定の見解を述べた。
 何か間違えていないか。民主党ならば調整できたのか。昨年参議院選挙後、小沢民主党代表はシーファーアメリカ大使との会談を、会談の相手の了承なくマスコミに公開し、同時に、国際治安という観点からのテロ特措法を否定した。自説以外の意見を聞く耳を持たない民主党に、今回の難しい調整が可能であっただろうか。
 そもそも、何をどのように合意するというのであろうか。上記のようにすべてが絡み合っており、複雑に国際関係が存在するエゴイズムの中で、今の国会運営のように、自分の意見が通らなければ話をしない(審議拒否)というのであれば、外交など成立しないばかりか、国際社会で日本は完全に孤立してしまい、日本バッシングが始まり、エコロジーではなく、貿易摩擦ということで石油や資源・食料品の輸入が難しくなる。
 日本の審議拒否は日本国内のことというかもしれない。う条件で民主党を支持する人はそのように言うであろう。では、鳩山氏の主張が正しかったとして、なぜ日本の国益のために国会議員全員がサミット成功のために協力をしないのか。単純に党離党略、政府批判をするためだけでなく、本当に日本や地球全体のことを考えているのであれば、なぜそれを事前に公開であろうとなんであろうと申し入れしないのであろうか。得意の野党外交でサミット参加国に呼び掛けないのであろうか。この一点をみても、民主党が国益を考えた「日本のための政党」ではなく、「反政府・反自民の党利党略の塊」であることにならないであろうか。このことが最大の問題であると考えられる。そして、日本国民に巣食う「似非インテリ」諸君が、反対することがカッコいいかのごとくふるまうのは、諸外国、殊にサミットの本質や国際関係を知る人から、幼稚な国民性を笑われることになるであろう。
 次にマスコミ。これは民主党よりひどい。上記のように、ガソリンの値上げと環境問題を別々な議論として論じる人々の集団である。市場経済で原油が高騰していることを政府の責任にしているジャーナリストの集まりである。彼らは、私がここで批判すること事態はばかられる。というよりは、その内容が支離滅裂で何を批判し何を評論して良いかわからない。官僚の縦割り行政を批判する前に、自らの縦割り個別論点を改めるべきであろう。
 最後に拉致被害者の会。私自身、拉致被害者の家族には、同情の念と支援の気持ちがある。しかし、その内容は政府の活動において節度と優先順位を守るべきと考える。
 六カ国協議であっても、拉致問題解決のための会議ではない。サミットのように北朝鮮と関係のない、隣接もしていない国々がほとんどの会議において、そして3Fのような地球規模の重大な話題と国益との調整をしている場面で、拉致問題に言及しないのは当然。その中で多くの国が支援と憂慮の念を表明しただけで十分ではないのか。そのような会議において、拉致に関することが少なかったとして「失望した」「政府と行動をともにしない」というのは、わがまま、身勝手であろう。
 何度も言うが、拉致の被害者に対しては同情する。しかし、どのような場面であっても「拉致問題」を話題にできるものではない。それならば拉致問題の解決の国際会議を開き、そのための運動をすべきであるし、そのために、北朝鮮との国交の問題を解決しなければならないであろう。そのような順序や、外交をわからずに、ただ自分の主張だけが通らなければならないというのでは、話が前に進まないし、各国の協力を得ることも難しいであろう。
 他人の協力を得るためには、協力してくれる人の立場を考えて、協力を要請するのが普通である。これで「拉致はなかった」と発言していた政党と組むのでは、政治利用や利権目当て以外の、純粋な支援者の心を動かすことは難しいであろう。

 日本では、何かというと政府批判である。しかし、評価するべきことは評価すること。そのことの大事さがとわれる。トロント大学の評価で、福田首相のリーダーシップは「A」評価である。そのことに異論を挟んでいる国際関係者は少ない。日本だけなぜか論点が異なるのは、日本国民と日本マスコミが国際社会から取り残されていることを意味している。
 

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コンビニエンスストアの24時間営業自粛に関する考察

コンビニエンスストアの24時間営業自粛に関する考察

 環境問題が騒がれている。7月7日から北海道で行われている、先進国首脳会議、いわゆる「洞爺湖サミット」でも、環境と食糧問題と原油高騰の三種類が主な議題になる。地域的にはアフリカとアジアが産油、発展途上産業における二酸化炭素の排出、そして食糧生産などの第一次産業の産業化で中心になっている。
 洞爺湖サミットに関しては、別な機会にまとめてみたいと思う。過去、これだけ地球規模の話をしたサミットもないであろうと考えるからだ。

 さて、日本のような国では、産業的に地球環境に関して考えなければならないことは少なくない。まず、食糧問題に関しては、食糧自給率を上げるということがいえるであろうし、原油の高騰に関しては、国家としての安定供給先の確保を行うのか、それとも、相場に介入するのかということになる。
 そして環境に関しては、エネルギー問題と連携することになるが、「代替エネルギーの開発」と「エネルギーを使わない工夫」ということが挙げられる。
 「代替エネルギー」に関して、食料品由来の油を代替エネルギーとすることが食糧危機の一つの形になっているために、トウモロコシやサトウキビからつくるアルコール燃料をいかに規制してゆくか、食糧でないもので代替エネルギーをつくれないかということが開発の原点になってくる。
 そのようにして、最も簡単に得練るg-問題、環境問題を解決するのは「使わない」「節約」という技術である。
 日本では、今から約25年前の大平正芳内閣で「省エネルギー政策」を行い、「省エネルック」なるものがはやった。まだ女性の社会進出があまり多くなかったために、主な内容は、半袖半ズボンのスーツなど、なかな今から考えれば感慨深い話が出てきていた。この考え方はバブル期に一時崩壊し、経済優先という形になったものの、小泉内閣のときに「クールビズ」という形で復活している。
 「省エネルギー」のころは、テレビも12時に全局終了するなど、その内容はかなり徹底したものであった。
 省エネルギーは、とにかく使わないということをメインに、使う場合も節約するということに重点をおいた。この生活習慣がいつの間にかなし崩し的にバブル経済に陥っていく日本国民は、高度経済成長的な考え方と、個人主義的な経済感覚、そして、石油ショックから学ばないというか、いつの間にかすべてのことを歴史と忘却のかなたにおいてしまう国民性に由来している。
 さて、そのなし崩しの一例として、今回挙げられているのが「コンビニエンスストアの24時間営業自粛要請」である。
 
 私は、これに関しては功罪半ばすると考えているが、どの店も24時間営業にするのではなく、地域に24時間の店の数を決めるなど、調整が必要であろうと考える。

 まず、このような問題になるに至り、日本人は象徴性が好きである。実際に目に見える形で省エネルギーを実践すれば良いと考えている部分は少なくない。
 この意味では、「コンビニエンスストア」はだれも顧客がいないのに24時間電気を使っている店である。見た目からいえば電気を無駄遣いしているようにしか見えない。基本的に六本木や歌舞伎町のオールないとの店も同じであると思うが、コンビニエンスストアは解放的な外から見える店づくりから、その電気の無駄遣いが目立つ存在である。
 目立つから規制する。法的根拠がないから自粛を求める。一方、今まで24時間営業を行うことに意味があるとしてきたコンビニエンスストア側では、突然環境ということで自粛を求められても困る。このことから、一つには営業時間を短くしても節約にならないこと。もう一つには、夜あけていることから、地域の防犯に役立っているという有用論を出している。
 
 さて、この議論。そもそも論からしておかしい。

 そもそも、営業をやめれば電気は節約できるのか。「風が吹けば桶屋がもうかる」てきな発想ならば、その結論を導き出すことは可能であろう。
 要するに、コンビニが24時間でなくなる。--深夜に起きていても飲み物や食べ物を調達することができない。--夜起きて話をしていても避けも肴もなくて盛り上がらない。--夜起きている人口が減る。--町全体が早く寝るようになって地域全体の電気の使用料が減る。と言った具合だ。
 しかし、実際に風が吹いても桶屋がもうからない。直接的な影響力がなければ実行性がない。
 では、直接的に必要なのは何か。それは証明の消灯ではなく、冷蔵庫など大型モーターとエアコンの方がはるかに大きい。営業をやめれば、エアコンは切ることができるかもしれないが、冷蔵庫や冷凍庫は、商品の都合上電源を切るわけには行かない。これにより、結局のところ、24時間営業をやめても、あまり消費電力は変わらないという試算になる。

 しかし、そもそも、そんなにコンビニエンスストアは必要なのであろうか。防犯とか言っているが、全国のコンビニエンスストア約8万店あるとされている(個人経営なども含む)が、その中で年間13000件駆け込みがあったとしても、それほど大きなものであろうか。その中で「本当に必要」かは不明である。交差点を挟んで隣同士にコンビニエンスストアが並ぶ光景などは、都会ではまったく珍しくない状態であり、一般人からして、その両方が必要というものではないと考えられる。
 コンビニエンスストアでの訴訟も少なくない。特にフランチャイズ契約における、フランチャイザーとフランチャイジー、ようするに大手コンビニエンス元会社と個人経営者における訴訟が少なくないのが現状だ。それだけでなくフランチャイズ経営者の生活苦による自殺なども少なくない。この原因は、大手同士の過当競争と、それに基づく一店舗あたりの売上・利益の減少、そのうえに家賃やリース料の負担などが原因である。これらに関しては週刊誌などの雑誌に多くの記載が出ている。
 そこまで過当競争になっているコンビニエンスストアは、地域の防犯などの話ではなく、その存在自体が無駄である。
 では、大手コンビニエンスチェーンはなぜ、「防犯」などを理由に24時間営業を継続しようとしているのか。ただ単に、フランチャイズ経営者からの収入、単純に、24時間で契約しているがために、その契約の変更とそれに基づくコミッションの変更、要するに、大手会社での収入減を気にしている。

 先に、環境問題は便利さとの調整の問題といったが、それだけでなく企業収入や会社経営などの経済発展の問題との調整になる。というよりは企業収益との問題である。
 電気の使用料と設置台数でいえば、自動販売機の方がずっと大きな問題であろう。しかし、自動販売機に関しては上記のようなドミナントなどの訴訟は皆無に等しい。これに対して、フランチャイズ契約に関しては、雑誌などが取り上げるくらい、訴訟などが起きている。これらの県があり、なおかつ象徴的な節約が好きな日本国民は、コンビニエンスストアの深夜営業の自粛ということに結論がつけられるであろう。
 
 この問題に関しては継続的な話と、基準的な話が必要であろう。サミット初日の午後八時に日本の主な装飾的ライトアップが消された。東京タワーや大阪上などのライトアップが一斉に消えたのである。その証明がどれほど温暖化がスト関係があるのかということと関係なく「無駄を省く」ということと「目に見える省庁的な活動」ということでアピールをする効果がある。
 同時に、24時間、深夜営業を行わなければ経営が成り立たないというのではない。逆にそれでフランチャイズ経営者の負担が増えているのが現状である。そのようなことの声も行政に上がっているということをみなければならない。決して某コンビニエンスストアチェーンの社長がいったような「魔女狩り」ではないのである。
 
 自主的な出店調整が行われるのが最も望ましい姿である。深夜営業が必要な場所とそうでない場所の棲み分けができず、狸や狐しか来ないようなところや、都会にいくらでもほかがあるところに、四つ角ごとに出店しているから無駄になるのである。
 24時間営業の店は、ガソリンスタンドも同じ。スタンドは言われずに、コンビニエンスストアがいわれるのはなぜか、考えなければならない。
 
 この件に関しては私も何とも言えない。私自身、便利さになれてしまっている。しかし、必要ないと思える店舗が少なくないし、その売上や利益で不協和音が流れていることも聞こえてきている。
 環境に関するアピールといって、木を植えたりしているようではあるが、実際に無駄と思われていることは否めない事実。
 昔は「セブン・イレブン」つまり7時から11時までが標準であり、それがコンビニエンスストアの名前にもなっている。いつの間にか24時間が標準になった。テレビも同じ、昔はどの局も12時で終わっていた。萩本欽一氏がその中でチャリティーのために24時間テレビをしたのは30年以上昔の話だ。その時代に不自由は感じていなかった。電車も終電があるようにコンビニエンスストアも閉店時間があって良いのかもしれない。様々な理由での便利さの制限は仕方がないのかもしれないし、消費者も受け入れる必要があるのではないだろうか。
 業界団体の自主的な規制により、環境問題だけでなく、無意味な摩擦を避けることが望ましいのではないだろうか。

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死刑執行許可の法務大臣に「死に神」という朝日

死刑執行許可の法務大臣に「死に神」という朝日

 あさひ新聞が、新聞内の論説の中で鳩山法務大臣に対して「死に神」と評したことが問題になっている。ちょうど秋葉原の無差別殺人通り魔事件が発生したときと前後して、幼女誘拐殺人事件での加害者で死刑が確定している宮崎勤元死刑囚に対して死刑が執行された。これに対し、朝日新聞が死刑囚を次々と執行してゆく鳩山邦夫法務大臣に対して「死に神」としてこき下したことがことの始まりである。
 これに対し、鳩山法務大臣は「法律で決められた刑の執行を、担当大臣が執行することを非難するのは問題がある」として抗議をした。そして6月25日になって、犯罪被害者の会が「犯罪加害者の重罰と刑の執行を望んでいる我々も死に神なのか」として。公開質問と抗議分を司法記者クラブから送付している。

 さて、私の立場をまずはっきりさせよう。私は死刑廃止論じゃではない。このたびの秋葉原の事件での文書では、教育刑という考え方に理解を示した。しかし、基本は刑罰は報復刑で良いと思っている。そのうえで、朝日新聞の論説は非常に問題のある論説であると考える。そして、根底に現在のマスコミの抱える問題が存在していると推定されるのである。

 では、その問題点とは。
 第一に「法律の執行と死刑廃止議論」という観点からの問題である。護憲だの法律違反だのいろいろと社会を否定しているかもしれないが、法律を法律通りに執行した政府を批判することを許してはならない。
 第二に、「税金面の問題」である。小さい話かもしれないが、死刑囚にかかる費用は税金である。確定した死刑囚を、被害者の遺族も払っている税金で長期間生活させることの是非を語らなければなるまい。
 第三に、これがマスコミの根底にある問題点であるが、「安易な政府批判・安易な反自民記事」ということである。物事の根底や問題を考えることなく、安易にセンセーショナルな単語を使い、反政府記事を書けば読者受けをすると考えている。マスコミが真実を伝えないで国民を先導すれば、政府も変わるかもしれないが、戦争に導く例を経験していることを忘れてはならない。

 一つ一つもう少し詳しくみてみよう。
 まず、「法律の執行と死刑廃止議論」ということである。基本的人権を盾に、死刑廃止の議論があることは間違いがない。それも高名な刑法学者がその大きな役割を持っている。
 さて、法律、特に刑法や民法という基本法は、憲法を元に、憲法の規定を具体化するためにつくられた法律であり、その法律に関しては、順守することが義務付けられている。刑法は、片方で「罪刑法定主義」といい、国民を刑罰で罰するためには、法律により事前に決定していなければ罰することができないとした、規定が存在する一方、そこに記載されている罪刑に関しては、基本的人権と刑事訴訟法によって規定された正当な手続きに従って捜査され、訴訟手続きを行い、その内容を、執行することが期待され国民にも告知されたものである。
 その内容は「朝日新聞」といえども、法律が変更されなければ犯してはならないことであり、その法律の執行を妨害することは、被害者と加害者のバランスを著しく害する行為である。それは、法治国家としての価値を否定するものにほかならない。
 「死刑廃止論」は、あくまでも「刑法改正」という論議のなかで行われるものである。そこで議論されていることは、刑法を改正する動きのときに反映されるものであり、現在の法執行に反映されるものではないはずだ。同時に、「死刑存続論」も存在する。上記のように、あるいは今まで何度か解説しているように、刑法には「教育刑」という考え方と「報復刑」という考え方がある。もちろん折衷した考え方も存在する。これらの論拠それぞれに理があり、一概にどれが正しいといえるものではない。
 死刑そのものは、公権力が人の命を奪う行為だ。この現象は間違いがない。しかし、死刑囚は、それ以前に公権力に命を奪われるほどのことをしているという事実が存在することを忘れてはならない。今回の宮崎元死刑囚でいえば、複数の未来ある幼女・少女を自己の目的(目的という表現が適切でないかもしれないがのために、殺害、つまりその命を奪ったことには代わりがない。
 同時に、彼は日本国憲法と刑事訴訟法に基づき、三回の裁判を受ける権利が保証され、その権利を履行し、裁判によって謝罪または構成の可能性を、罪刑と合わせて長期間審議され、そのうえで、慎重に判断された結果が、刑法の規定にある死刑という刑罰であったのだ。
 そして、死刑が確定してから執行されるまでの期間、謝罪または贖罪の意思の表明なかったことも事実として存在する。
 社会的な事情と環境により犯罪が行われたとしても、犯罪とその後の裁判などの手続きによって、更正・贖罪のの可能性がない場合、その刑の執行者は「死に神」となるのであろうか。本来、死刑囚が「死に神」であり、死刑執行者である法務大臣などは、社会における反社会的存在とその存在による不安を取り除いた存在といえるのではないだろうか。
 翻って、「法律を執行すること」を「改正の議論がある」ということで、執行をしたことを非難できるとする。では「懲役刑無用論」などが出てきた場合どのようになるのか。朝日新聞はマスコミである。新聞紙面に「そのような議論がある」とすれば、議論が存在することを演出することができる。そうすれば、「懲役刑」に対しても「監禁魔」などと法務大臣を非難するのであろうか。「極端な例を上げるな」「人の命にかかわることは基本的人権に照らして特別である」と反論をいう人がいるかもしれない。しかし、法の執行という意味では同じである。では「憲法9条の改正をすべきである」という議論が起きれば、自衛隊を軍隊に改変して良いのか。これならば基本的人権ともかかわらないし、自衛権の問題になる。それらの反論の論拠と異なる視点でなければ反論はできない。片方で「憲法を守れ」といいながら、片方で「法律を執行するな」というのは、朝日新聞が「法律」ということに関し、一環性のない手前勝手な議論を、多くの国民にばらまいていることにほかならないであろう。
 日本国憲法は9条だけでなく、法律に関して国会で議論して立法することになっている。三権分立という原則が貫かれたすばらしい憲法である。国会は立法府とされ、その執行を行政府が行うことになっている。朝日新聞の今回の論説は、この憲法の三権分立の考え方を否定し、それを規定した憲法の真理を破壊し、そして、混乱を招くものと評価されてし方がないものであろう。
 二度と朝日新聞には憲法や法律の論説をしてほしくはない。

 さて、次に「税金面の問題」である。単にもったいないという話ではない。逆にもったいないという議論もあると思う。
 刑務所での1食の経費は540円(2001年当時)が平均とされている。一日の食費が1620円。1年で591300円支出されている計算になる。死刑囚100人で年間6000万円の食費の支出になる。このほかに警務官などの人件費を含めるとどうなるのか。
 この税金がもったいないというのではない。ここで言いたいのは、この負担を、被害者やその遺族も負担しているという事実である。殺人犯の被害者遺族は、かけがえのない家族を殺されて、なおかつ、長期間裁判に一喜一憂し、そのうえ、厳罰が決定したのち、何年も自分の親族を殺したものの生活費を払い続けなければならないのである。
 犯人の捜査に、自白しかないとか、決定的な証拠が存在しないとか、直接的に言えば冤罪の可能性があるというのであれば執行しないこともわかる。三審制といえど、人がやっている裁判であり、間違いが連続することも考えられる。被害者やその遺族も、冤罪の可能性がある死刑囚の執行を急ぐよりは、真実の犯人を探してほしいと願うことはわかる。
 しかし、証拠もあり、自白も強要せずにあり(たとえば現行犯逮捕などは良い例である)、死刑が正当な手続きによって確定している場合、なおかつ、贖罪、反省の意識が欠如していると判断される場合。その刑の執行はこのなわれてしかるべきではないのか。その死刑囚にかかる国民の税負担はどのように考えるのであろうか。支援者が独自に払うならば良いのであるが、日本にはそのような法律は存在しないのである。
 死刑囚とその執行を考えるときに、死刑囚の命を奪うという行為だけを考える人が少なくない。その死刑囚に命を奪われた被害者やその遺族の勘定を考えたことはあるのだろうか。もっと言えば、この「死に神」とかいた論説委員の親族が殺され、そして、犯人の死刑が確定された場合、死刑執行が行われてなおも「死に神」とそのときの法務大臣を揶揄するのであろうか。
 この論説委員及びこれを掲載した朝日新聞の携わった人々にとっては、殺人事件も死刑囚も「他人事」でしかないのであろう。

 最後に「安易な政府批判・安易な反自民記事」ということ。
 何度も書いているが、マスコミというよりはジャーナリストを気取る反権力主義者は、権力者にかみつくことで存在意義を感じている。
 今回の論説に関しても、上記のように死刑廃止は「議論」でしかなく、死刑執行は強制法規執行である。また被害者は命を奪われているのである。その遺族は、事件が風化しないまま時間が止まったようになっているのである。その法律の執行を非難するのは、法律解釈的にもにもおかしいし、被害者感情的にみてもおかしい。では、そのようなことがなぜできるのか。これは、朝日新聞が(またはその一部の人々がとしても良いが)反政府に固まっていて、ほかの事情などが見えていないことが一因であると推測する。あくまでも一因でしかない。もちろんこの論説委員が死刑廃止論者であることなど、要因はたくさんあるが、その中に、ほかの自称を考慮せずに、また三権分立などの原理原則を考える間もなく、ただ政府を批判したということ、そして鳩山大臣個人にいわれなき誹謗中傷を浴びせ、反権力ジャーナリストを気取っているに過ぎない。
 これは危険な風潮である。
 要するに、根拠のない内容で、「反権力」というイデオロギーを押し付けられ、それを真実または国民という実態のない集合体に帰属させ、そして国民を先導する。これでは「鬼畜米英」といっていた戦前の日本と変わらないではないか。
 歴史研究科で特に日本の海軍史に強い半藤一利氏の書籍の中でこのような一節がある。私が考えていることと同じか、半藤先生に直接お会いしたことがないのでわからないが、私は深く共感したことなので、ここに抜粋させていただきたい。
「『歴史に学ぶ』という言葉がある。きちんと読めば、歴史は将来に対して大きな教訓を投げかけてくれる。〈中略〉第一は『国民的熱狂』を作ってはならず、『国民的熱狂』に流されてはならない、ということである。つまりときの勢いにかり立てられてはならない。熱狂は理性的なものではなく、感情的産物であり、マスコミなどに煽られ、いったん燃え上がると権威を持ち、不動のもののごとく人々に威圧する。〈中略〉第二は、危機における日本人は抽象的な観念論を好み、具体的な方法論を検討しようとしない、ということである。自分にとって望ましい目標を設定し、上手な作文で壮大な空中楼閣を描き出すのを常とする。そして、物事は自分の希望するように動くと考える。〈中略〉真珠湾までの昭和は愚かな歴史であった、と極めつけて忘れてしまうには、もったいないほど教訓に満ちた時代であった。にもかかわらず、今の日本人は歴史を忘れた国民になっている。情けないことである。」(PHP文庫「日本海軍の興亡」、半藤一利著、終章より抜粋)
 要するに、日本人は思惑と勝手な希望的観測で、真実を見失ってしまう傾向が強く、そのために国民的な根拠のないブームを勝手に作り出して、時の流れで間違った方向に進みやすいということと、私は読んだ。そして、太平洋戦争の敗戦から、それを戒める教訓を学ぶべきと考えている。
 何度も言うが、直接お会いして真意を聞いていないので、私の解釈が正しいかどうかは不明である。私こそ、勝手な思惑と希望的観測で解釈をゆがめているのかもしれない。
 ただ、ジャーナリズムは、正しい判断基準を主観を交えずに伝えなければならないし、また、論説など主管を交えて良い場所は、その論説に関する出所と、根拠を示し、周辺すべてへの影響を考え、そのうえで自らの発言に責任を持たなければならない。要するに、そのことたとえば死刑を廃止したのちの法制度や刑法制度の提案まで、しっかりと行わなければならない。当然に被害者遺族感情まで含めて、である。
 現在の朝日新聞はそれができているであろうか。答えはノーである。そればかりか、どちらかといえば、無責任な発言ばかりではないだろうか。今回、犯罪被害者遺族会から抗議が来ることを予想していたのであろうか。そしてそれの回答をしっかりと論理だてて行えているのであろうか。そもそも、この件に関し、朝日新聞は何らかの広告で自らの立場を明らかにしたのであろうか。
 
 今回の事件は、憲法から日本の法制度及びその執行全体のバランスに関し「死に神」という単語で破壊を試みた新聞とそれに対する非難である。これに関しては、「後期高齢者医療」などの報道でも同じである。保険制度が崩壊したので、一つの提案をしたのにかかわらず「廃止」だけでことが済むのか。民主党が廃止法案を提出したことを取り上げるのではなく、廃止だけで国民健康保険制度の崩壊を招いて良いのか。そこの将来の日本のビジョンを示せるのか。今回の事件と同じだ。
 マスコミ各社の無責任な記述と、国民をあおる根拠のない誹謗中傷は行わず、しっかりとした根拠と、それに基づいた結論の提案ができ、そして日本と国民の生活の将来像を見せることができなければ、何もならないのである。今のマスコミのやっていることは「批判精神」というものではない。当然ジャーナリズムとして認められるものではない。
 また、その風に乗って「政権奪取」などといっている政党は、ただ、ブームに乗っているだけで、ベルギーワッフルや餃子ドッグ、ルーズソックスと変わらない運命にある。
 
 朝日新聞社のグループは、過去にも沖縄のサンゴに落書きをしたり、ダイオキシン報道で農業関係者から問題視されている。いずれもしっかりした対応をせず、適当な謝罪をしてことを済ませている。今回の、論説に関し、朝日新聞が責任ある批判精神を持ったジャーナリズムとして、どのような対応を行うのか、それとも、ただうやむやに時間が経過して矛先がそれるのを待つのか。新聞社の姿勢がとわれることになる。

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