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2008年11月

大麻汚染広がる。身近な麻薬をどのように対処するのか

大麻汚染広がる。身近な麻薬をどのように対処するのか。

 最近、年末に書けて余りよい話題が少ない。大阪で発生したひき逃げ事件などは、政治などと無関係であるが、発生して欲しくない事件である。交通事故は非常に多くある。過失は誰にでもあると思うが、事故が起きたときの対処方法で、事故が事件に発展してしまうことがある。マスコミが報道するのは事件であるが、その事件でも、このような事件は避けられたのではないかと思う。被害者の冥福を祈ります。

 事件として、おもしろい事件もあった。ストリップ劇場で、露出しすぎるとして踊り子と経営者が逮捕されたという。私自身、ストリップ劇場はいったことがない。ストリップ劇場でなくても手軽にいろいろの物があるので間に合っている。しかし、ドラマなどでだいたい話を聞いて雰囲気はつかめる。しかし、ストリップのショーの最中に、露出しすぎるとして逮捕されたのはどうであろうか。ストリップ劇場は、女性の裸を見せる場所で、顧客もそれが目当てで入場している。ある意味自己の仕事をしていて逮捕されたのであるから、被疑者は納得行かないのではないだろうか。猥褻の度合いがひどすぎるという理由だそうだ。顧客との会いだで何らかの行為(書き方が難しいのですが)をさせていたとなれば、売春などの犯罪が成立するのでしょうが、ストリップ劇場で「猥褻罪」はなかなか。そもそも、閉鎖された空間内での「猥褻」行為で、なおかつ、顧客はそれを目当てに来ているという事で、被害者が存在しないような気がするのです。秋葉原のネットアイドルが公然猥褻罪で逮捕されたのとは違うような気がしますね。もちろん、程度のほどはわかりませんが、正直なところ、私は個人的に、ストリップ劇場側に同情します。

 被害者がある事件と、私の考えるところ、あまり被害者がいない事件。表題と異なる二つの事件を、あえて二つ挙げました。さて、最近大きく取り上げられているのが大麻の吸引または栽培と言う事件である。
 まずは、ロシア人力士が大麻吸引で相撲協会からの解雇処分になる、その次に二人のロシア人力士。次に白金台の主婦層に対する売買現場がテレビで大きく取り上げられ、イラン人11名が逮捕された。その後は、慶応大学や早稲田大学の学生が次々と、大麻栽培吸引で逮捕されている。ロシア人力士は別にして、白金台の主婦や慶応・早稲田と言った超一流大学の生徒、という知識人というか、一種のエリートにこれら麻薬が蔓延している事実に、ある意味驚愕する。
 以前、麻薬取締法違反で逮捕された人と話す機会を得た。「別に他人に迷惑をかけたわけではないから、犯罪とは知っているが、問題とは思っていない」覚醒剤の所持と使用で逮捕された彼はそういった。上記のストリップ劇場の論理だ。彼の場合、友人数人と覚醒剤を使用したという。友人を誘うと言う状況であったという。しかし、麻薬による幻覚作用は、時に他人を害する可能性を多く有しており、この件に関して彼の意見に同調するわけには行かない。
 ただ、私の場合、もう一つの疑問があがる。「よく買う金があったな」。要するに違法品の売買は、暴力団組織や外国人などが介入しているため、少量でかなりの金額になる。「いや、バイトで稼いだよ」。かれは、この覚醒剤により、会社を辞めホストになったという。絵に描いたような転落人生だ。
 
 この大麻の事件。栽培も吸引も含めて、結局のところ 
「麻薬と言われる物の常習性と幻覚による犯罪をどこまで認識しているか」
「麻薬購入に関しての資金源や、その購入資金の拠出」
「麻薬犯罪に対する国の対応」
 の点に凝縮される。
 ここは、一応国会新聞の文書なので、「麻薬は怖いものだ」「麻薬に手を出して悲惨な結果になった」などの犯罪抑止に関することを延々と続けるつもりはない。ただ、それらに関しては、前提にあると考えていただきたい。

 まず、麻薬について。
 私は、厳密に言うと違法なのかもしれないが、外国で経験したことがある。中国の奥地、少数民族の村において接待を受けたとき。鍋物が出てきた。民族の長は、もっとも高級な鍋であるという。名を桃源郷鍋だそうだ。やり方をここで詳細に書くと、犯罪の誘因になるので辞めておこう。いずれにせよ、その鍋を囲んだ人全員が麻薬を体内に入れる状況であった。
 薬が効いている間は、確かに「桃源郷」だったかもしれない。しかし、翌朝の吐き気と頭痛と倦怠感はさすがに閉口する。私の経験上、この苦しさを感じる人は終わるであろうし、薬が効いている間の「桃源郷」がある間を敏感に感じる人は中毒になるのであると感じたものである。
 そのときに、数名切り傷ややけどなどをしている人がいる。また幻覚で動けなくなる人もいたと記憶する。幻覚や正常な感覚でない状況におけるその人の感覚は、まさに制御不能であろう。

 麻薬が元で戦争が発生したことがある。いわゆる「阿片戦争」である。中国では、欧米列強が入国したときに東南アジアで入手した阿片を持ち込み、至る所に阿片窟と言われる阿片の吸引場を作った。阿片中毒を引き起こさせることにより、植民地支配を徹底しようとしたのだと言われる。その取引に日本が介在したとかしないとかはこの際問題はない。中国は、これに対して抵抗し(または余分に阿片が欲しくて輸送船を襲ったという説もある)、結局そのことが原因で戦争が発生した。欧米列強は、この戦争で勝利し、中国、当時の清王朝と条約を締結するにいたったのである。
 中国はこの歴史をふまえ、現代でも麻薬の使用(栽培・販売・吸引を問わず)や所持は極刑に処される。これは政府要人でも、その家族、親族でも変わらないのである。日本のような懲役とかではなく、国家を戦争に導く反逆罪の一種と考えられているからだ。
 
 逆に、大麻・麻薬に関しては使用に制限がない国があることも事実である。使用制限がない国は、使用場所を決めるなど、間接吸引を行わないような状況を意識することと、幻覚などにより犯罪を犯した場合の系が重くなるのである。

 麻薬に関しては、麻薬そのものの使用ではなく、幻覚や常習性と言った事から派生する犯罪および、麻薬購入資金に関する犯罪・または逃走(戦争)の抑止が最大のポイントといえるようだ。法律で規制すると言うことは、それだけ常習性などの依存度が強いと言うことで、使用そのものを規制する国が多い。
 なお、麻薬を使用することによる身体への影響は、事故責任の範疇と考える。

 さて、違法性の可能性の原因がはっきりしたところで、その資金である。昔から違法性の高い資金源は、そのままマフィアに流れるのが筋だ。「アンタッチャブル」という映画が好きである。アメリカで禁酒法が思考されていた時代に、アル・カポネ率いるマフィアと、捜査官エリオット・ネスの戦いを描いた作品だ。途中、ネスの仲間が殺されるなど、そうさという範囲ではなく、また現代の刑事物のドラマなどと違い、かなり動きがある映画だ。まだ白黒の時代、テレビドラマとして有名になったが、1990年代に映画としてリバイバルされた。見た人も多いのではないかと思う。
 映画の宣伝はこの辺にして、この話でわかるように、違法性の高い物は、マフィアの資金源になる。日本では広域暴力団か外国人であろう。違法性が高いと言うことは、違法であるという認識と、それだけでなくそこからしか購入することができないという、一種閉鎖商圏が成立する。閉鎖商圏とは、たとえば映画館の中やディズニーランドのように、入場して、その中で購入するばあい、高いと感じても買ってしまう心理商圏事を言う。閉鎖商圏になった場合、顧客は値段などの価値選択ではなく、買うか買わないかという選択肢しか存在しなくなる。完全な売り手市場だ。選択肢がそれしかないので、結局高い値段で購入する事になる。映画館の場内で高いと思いながらジュースとポップコーンを買ってしまう経験は誰でもあるだろう。
 違法性の高い商品は、まさにこの閉鎖商圏を使っている。物理的に入場券などが必要なわけではない。しかし、その人からしか購入することができないという心理的閉鎖商圏が発生する。このことは、ある程度の相場があるにせよ、麻薬などが高く、そしてマフィアの資金源に利用される大きな要因だ。
 上記の麻薬などを解禁している国の理論は、まさに、このことを心配し、違法とする方が、社会的にマフィアの資金源を作ることになるので危険性が高いという判断であろう。規制する物を最小限にして、資金源を少なくすると言う政策もある。その一事を見て、国の比較を行うことはおかしいという話になる。
 さて、そのように高騰する商品を資金源とするには、当然に常習性が必要になる。「あったらいい」から「なければならない」に購入側の心理が変化するという話になる。麻薬はその常習性・依存性が強い。また辞めるときの苦痛はかなりの物である。私の上記の経験でもそうだが、かなりの苦しみであるといえる。苦痛を和らげるために苦痛の原因となる薬を常用するという悪循環がここで発生することになる。そこに閉鎖商圏である。結局のところ、借金や犯罪をしても購入するという欲望が発生する。苦痛から逃れると言うことがそれを誘引する。 
 それだけでなく、違法行為をしていると言うことが、他の選択肢を狭めてしまう。違法行為を隠したいがために、第三者への相談機会を奪う結果になる。そのことが、より一層閉鎖商圏としての閉鎖の度合いを強める。マフィアからそのことを指摘されれば、他の違法行為も辞さないことになりうる状況なのである。
 マフィアの商売や資金源に、閉鎖商圏の理論を使うのかどうかと言うことは、異論があるかもしれない。しかし、実際に心理的閉鎖商圏が麻薬類の高額を招き、その価格の資金源としての役割を持たせてしまうことになる。

 さて、これらに対する政策である。と言っても、取り締まりはすでにしている。私もさすがに、今の日本で大麻や麻薬の合法化に踏み切れと言うほど過激な意見は持っていない。今の大麻の問題と暴力団の資金源としての機能を奪うには最も有効である。しかし、大麻で逮捕されたのは未成年も含まれている。たばこですら吸えない人が、麻薬というのはさすがにどうかと思う。
 解禁という手段はないとして、では、取り締まりの強化と言うことになる。しかし、警察の人員の都合上、そういうわけにも行かない。そもそも、大学の学校内で取引をしているなどとしては、通常の見回りなどで見つかるものではない。
 日本のように海で囲まれた国は、逆に漁船など小さい単位ではどこからでも荷物が入る可能性があることを示す。そのことは150年前の吉田松陰が、鎖国などと言っていても何の役にも立たないことを説き、そのまま、ペリーの黒船4艘で証明されている。
 さて、どうしたらよいか。
 私の私案では、取り締まりを緩くすればよい。いわゆる「アメとムチ」である。
 上記のように、きっかけはともかく。閉鎖商圏に陥って抜け出せない人が少なくない。この人たちをいかに閉鎖から抜け出し、麻薬を辞めさせるかと言うことが最も重要であろう。そのときに、違法性と犯罪者の汚名というもう一つの閉鎖商圏があることを指摘した。その閉鎖商圏をいかに取り払って、楽にさせることができるかという事が最も重要である。そのためには、単なるユーザーと販売者とでの取り締まりを変えてゆき、ユーザーを救出する手段を講じなければならない。このことは立法ではなく、刑事訴訟での情状酌量などをすればよい。もっと言えば、このような民間に浸透した犯罪に関しては、ある程度の司法取引も必要であると考える。日本の場合、権利意識が強いために、これらの方法はあまり使われない市禁止されている場合もある。それをいかに行うか、と言うことが最大の課題になる。そうさ協力をしても有罪は有罪。しかし、その罪に関して酌量があるとすれば、閉鎖商圏から抜け出せる人は少なくない。
 
 あくまでも暫定である。しかし、この暫定は、常習者ではなく大学生などが興味で吸引したという部分で、使えば効果的になるであろう。
 また、本来であれば、そのような条件になる前に、しっかりと道徳教育をすれば良いという考え方もある。だいたい、どんな教育をしても犯罪者という物は出てくるが、今回は、高学歴の大学生や有閑夫人。いずれも高い教育を受けたり、またはそれなりの生活水準を保っている人に汚染が広まっているという話である。ある程度ステータスがあれば、それだけ閉鎖商圏が効果を増す。また、今の高学歴教育とこれら道徳観念があまり関係がないということもいえる。戦後教育で道徳教育を行わなかったツケが、このようなところで出てきてしまっているのである。
 日本の教育に関しては、様々言うべき事がある。しかし、この大麻の問題と、教育を絡めるのは辞めたい。ただ、今の日本の教育では、高学歴と言うことが道徳や人格に結びついていないという事が明らかになったことは事実だ。教育改革の中心はこのようなところにあるのかもしれない。
 いずれにせよ、たぶんこの種の犯罪がなくなることはないと思うが、根絶を目指すと言うことで、政府も国民も心して考えるべきではないだろうか。

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「日本が侵略国家であるとは濡れ衣」航空自衛隊幕僚長更迭

「日本が侵略国家であるとは濡れ衣」航空自衛隊幕僚長更迭

 10月も末になり、何となく年末の空気が押し寄せてきた。東京にも平年より早めの木枯らしが吹き、いよいよ秋が終わる時期。航空自衛隊が火種となった事件が発生した。航空自衛隊の田母神幕僚長が、個人的な意見としながらも、「日本が侵略国家であるとは濡れ衣」という論文を発表したのだ。 
 この件に関し、政府は同氏を更迭、幕僚町としての役職を停止した。その三日後である11月3日、役職により延びていた定年が役職更迭によりなくなったために、定年退職の扱いとなる。自衛隊は幕僚長の定年が62歳であるが、それ以外の空将は60歳が定年。幕僚長でなくなった田母神氏は、通常の空将の定年となって、退職をした。
 なお、更迭の理由は、政府見解と異なる内容の見解を個人的とはいえ幕僚長が行うのは道義的に妥当ではないという事である。

 さて、この問題点は、例によって3点挙げてみよう。
 1 まず日本は侵略国家であったのか。そのことにより現在の社会にどのような影響があるのか。
 2 政府見解と自衛隊幕僚長が異なる歴史認識を持ってはいけないのか。
 3 そもそも憲法9条と自衛隊と、そして先の戦争についてどのような認識が必要なのか。
 今回はよく私の意見を読んで誤解なく理解して欲しいので、論点の考察の後に結論を言うことにしよう。そして、今回の文章に関しては、かなりきわどい内容であるので、私の個人的な考察と結論であることを念を押して伝えたい。それを了解の上で読み進んで欲しい。

 第一の論点。「日本は侵略国家であったのか」ということである。この問題から、話を行うにあたり、まず、「侵略」と言う単語の定義の問題をはっきりしなければなるまい。侵略とは、簡単な国語辞典で調べると、「他国に攻め入って土地や財物を奪い取ること・武力によって他国の主権を侵害すること」(ヤフージャパンのインターネット辞書より)とある。実際に、日清戦争・太平洋戦争に関わらず、戦争という名前を付ける現象はすべて「侵略」のイメージがある。完全なる防衛、たとえばスパルタの戦いにおけるスパルタ国や十字軍におけるイスラム国のように、何の言われもないと考えているのにいきなり攻め入られた場合に、侵略となる。しかし、逆もまた真なりである。戦争という現象が、クラウゼビッツの戦争論のように外交交渉の一つであると言えば、侵略戦争という現象そのものがあり得なくなってしまう。すべては外交交渉なのである。
 侵略という単語の意味がはっきりしない。では「戦争」はどうして起こるのか。そもそもその問題を考えなければならないであろう。
 戦争は、一部の狂信的な指導者によって引き起こされる。そういう考え方もあるし、人類の歴史上そのような戦争もなかったとはいえない。しかし、そればかりですべての戦争を定義づけることは難しい。
 私の意見では、権利の主張が重なったときで、その権利権益が譲れないときに武力による決着がはかられる。「譲れないとき」ということを重視すれば、当然に「戦争論」のような外交交渉の延長と言うことになるし、一方で、「武力による決着」と言うことを重視すれば、「相手の譲れない権益を奪う」事になるのだから侵略となる。しかし、だいたいの場合侵略を行った側も、何らかの理由により大義名分をつけているのであるから、必ずしも侵略だけとは限らない。そもそも、「権利の主張が重なった状態」であるから、その主張が通れば、自己の権利の実現でしかなく、第三者の権利の侵害には当たらないのである。要するに侵略ではないのだ。
 「歴史は勝者によって作られる」これが歴史の常識。日本のことわざでは、「勝てば官軍」という表現がある。要するに「弱者・敗者のための歴史は存在しない」というのが現状である。負けた者を美化する傾向は、中国や日本の一部に存在する。三国志演義などはまさにそのものであろうし、源義経にかかる「判官贔屓」ということわざも、まさにそのものであろう。しかし正史はそうならない。小学校で習う歴史に「魏史倭人伝」はあるが、三国志の蜀に関する記述を正史として取り扱うことはない。後史の時代になって、反権力を謳う戯曲家たちが歴史の題材を挙げて、物語で現代の風刺することはあっても、それ以外は存在しないのが現状である。
 これから考えれば、日本は第二次世界大戦及び太平洋戦争に敗戦したのであるから、日本の主張が通る歴史は日本を含めて世界中に存在しないのが現状である。 
 では、日本は侵略国家であったのか。もっと端的に言えば、明治政府以来の近代日本、つまり大日本帝国は、明確に侵略の意図を持って他国に攻め入ったのか。答えは「必ずしもイエスではない」と言うのも事実であろう。このことは東京裁判でも取り上げられた「ハル・ノート」でも明らかであるとおり、ブロック経済という世界経済の中においては、欧米各国からの石油と鉄の禁輸と言う状況で主権国家・近代国家として成立させることは難しかったという評価もある。そもそも、それ以前の明治時代、植民地主義を持っていた欧米列強の中において、植民地を持つことと植民地にされることの二者択一を迫られ、植民地を持つことを選んだ日本。その状況下で「日本だけが侵略国家か」という質問に、「植民地をもつくには全て侵略国家である」と言う定義を適用すれば日本は侵略国家であったことになる。しかし、そうしなければ日本が植民地になっていたという状況を判断すれば、今で言う正当防衛に似た考え方ができるであろう。
 「日本が」という主語の場合、いかにこの話を歴史的に評価するかという事は、かなり難しい。ただ、敗戦国の軍(自衛隊)関係者がその話しに入るべきではない。歴史は勝者が作るものなのだから。
 その上で、これが現代社会に及ぼす影響である。太平洋戦争が終戦して60年以上の年月が経っている。日本は、この年月をずっと「敗戦国」として過ごしてきた。現代に至っても、日本の法曹界では戦時賠償の一部と考えられる従軍慰安婦の補償や残留孤児に関する支出を余儀なくされ、また南方への遺骨収集を行っている。在外原爆被爆補償などは、日本も「被害者」であるが、なぜか、日本国政府が保証を行うことになる。
 問題は、いつまで「敗戦国」として日本は出費を続けなければならないのか。日本国内にこのことに疑問を持つ人は少なくない。件の「濡れ衣」論文も根本ではそのことをとらえている。
 日本人はけじめを付けるのが下手だ。結論を確定するのも下手。何となく雰囲気で流されるのをもっとも得意とする。私が諸外国にいったとき、「日本人は玉虫色が大好き」と皮肉を言われる。玉虫色が違う単語になることは少なくないが、だいたい意味は同じだ。そして、外交交渉や契約交渉では、日本人の「玉虫色」の結論を容赦なく突いてくる。
 敗戦国と言うよりは戦争の処理も同じ。そもそも太平洋戦争は、それ以前の日露戦争のような結論を見越して行った戦争ではない。歴史的に落とし所のない戦争をしてしまったというのが現状であろう。
 その状態において、このような論文がでてしまうのは、感情的な謝罪をしても、それら賠償問題が解決していない現状の政府の外交の失敗が現れていると言わざるを得ない。私は、外務省の問題と考えている。村山談話が話題になっているが、そういう談話を受けて外務省がしっかりと諸外国との調製を行わなかった。今回の歪みもその枠の中ではないのであろうか。いずれにせよ、今回の田母神論文は、現代の日本に影響と行うよりは、日本の外交姿勢と自衛隊のあり方に一石を投じる効果はあったと思う。

 次の論点として「政府見解と自衛隊幕僚長が異なる歴史認識を持ってはいけないのか。」と言うことである。
 個人のレベルでの言論や思想の自由は、少なくとも日本の場合憲法で保証されている。当然に個人のレベルで靖国神社に参拝しようと、戦争に関する発言をしようと、それは一切問題にならない。
 では立場のある人間ではどうであろうか。人間は立場で発言を左右される。当然にその人の発言が周りに及ぼす影響を考えなければならないという事である。航空自衛隊幕僚長という、いわゆる武装組織を指揮する人は、一旦有事になれば日本政府を代表して自衛隊を動かす立場である。その人は当然、現代のシビリアンコントロールの原則から、政府に任命されたポストに就いていることは間違いではない。任命権者と全く異なる見解をその立場のままで発言、論文化することは、ある意味で問題があるといえる。よって、内心や、個人的な会合での発言ならばまだしも、懸賞論文など、公の場で、肩書きをつけて発する意思表示の場合は、これを気をつけなければならない。論点としては、政府見解と異なる意志を持つことは悪くないが、その表現する場所や方法、影響力などを注意して行うべき」と思い、今回はやはりその点で配慮が欠ける行為であったと考える。

 「そもそも憲法9条と自衛隊と、そして先の戦争についてどのような認識が必要なのか。」という論点に移る。
 上記にも書いたが日本人は玉虫色が好きだ。膠着語で会話を日常行っている日本人は、結論を最後まで引き延ばす癖がある。特に立場的に微妙な問題は、そうなってしまう。日本人の悪い癖だ。その見解が統一していないという事が、問題だ。政府与党でも、細かい部分に関しては統一性がとれていない部分もあるが、野党民主党にいたっては、もっとひどい。未だに存在も認めない風潮が残っているが、一方で武力行使も辞さないとする派閥がある。
 今回の問題は、田母神という個人の問題であるが、それで騒ぎすぎれば自衛隊の存在や憲法の改正、下手をすればそれを元にした政界再編まであり得る話になる。憲法9条改正か自衛隊廃止かという論点で選挙になる可能性もある。そのとき民主党はどんな公約を掲げるのであろうか。
 日本人の玉虫色は、時間軸に関しても同じだ。歴史という過去の事件と、防衛という現在または未来のことを混同して話す癖がある。憲法改正論議は、その時間軸の混同した議論に、戦争は悲惨だとか、空襲や原爆と言った日本国土をおそった初めての外国からの侵略、そこにおける経験談と、その経験談を誇大化した感情論により、現在と未来に必要な国防や国家権益という考え方を完全に無視した議論が行われている。具体的に言えば、軍備を持つことと戦争を起こすことは違うと思うが、日本人の憲法改正反対の議論には、軍備は「あれば使う」という感覚を捨て切れていないらしい。軍備による抑止力の存在を無視した議論がそこに存在し、その中において日米安保の傘に隠れながら、アメリカを言論で否定する矛盾を平気で犯してしまっている。インド洋の給油法案の議論がいい例だ。
 憲法改正の論議と、自衛隊の存在は現在の国防と日本の権益に関すること。平和がなければ貿易は成立しないが、貿易がなければ食料もエネルギーも自給率の低い日本は餓死者や凍死者が出てくることになる。日本人の生活を守るために、世界平和は必要であるし、個人的には違和感があるが「テロとの戦い」により、平和運行を保証されるべき海路の安全を守る必要がある。
 そもそも、憲法改正論議の中に、または国防論議の中において、守るべき「日本国」とは何であるのか。日本人なのか、国土、領土なのか。戦前は「国体」と言う単語を使った。天皇がその中心を担っていた。しかし、今の世の中、日本人において国は何であろうか。「君が代・日の丸」を否定する人は、国家そのものをどのように校正するのであろうか。それとも「地球人」といって、国家そのものの存在も否定するのであろうか。
 このように考えると、日本人はその存在も「玉虫色」でしっかりした定義を持たないのかもしれない。 
 このようなことを長々書いたのは、今回の田母神論文は、その認識が国民や政府の中で決まっていないことが、このような事件を呼ぶのではないかという事である。決まっていても、個人的な意見を述べる人はいるであろう。しかし、そこにおいて解釈などの争いは存在しないはずだ。そして、安倍内閣以外、ずっとそのことを避けて通ってきている。それでよいのであろうか。

 最後に、ここまで来て私の意見。
 彼の個人的な信条は別にして、歴史認識は間違えている。歴史は勝者が作るものであり、今なにをいっても、先の大戦は「侵略戦争をした日本が敗戦した」と言うことに変わりはない。問題は、その戦争に至るプロセスにおいて、日本を戦争に駆り立てる時代的背景があったと考えられるという事だ。ただし、その解釈によって、現在の自衛隊がその存在や活動を制限されるものではない。自衛隊の存在は、過去の反省の元、現代と未来のために、そして日本国の為に存在するべきである。その上で、その統括する役職の者が、政府見解と異なることを「言論の自由」として、自分の立場も考えずに発言するのは考え違いである。日本国政府は、このような事件が起きないように、自衛隊のあり方や歴史認識に関して、日本政府の方針を示さなければならない。またその内容を教育に反映させなければならないであろう。
 すでに、幕僚長も「戦争を知らない」世代。まだ戦前戦中世代の常識を引きずるのではなく、しっかりと戦後世代の歴史認識と国家とその防衛に関する認識を持つべきである。そして、そのときに政局論などではなく、国家の根幹を決める作業を国を挙げてすべきであろう。
 今回は、珍しく、私自身の意見を多く入れてしまいました。

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百年に一度の暴風雨、追加経済対策について思うこと

百年に一度の暴風雨、追加経済対策について思うこと

 二回連続で経済関連になる。国会で吹いていた解散風は、10月28日の株価日経平均6000円台というバブル以降の最安値更新という「百年に一度の暴風雨と言った感じの金融災害」でどこかへ吹き飛んでしまった。
 麻生総理大臣は10月30日に当面の経済政策として、総額2兆円の経済支援と、高速道路の土日祝祭日の1000円均一、住宅ローン減税の延長などの経済政策を打ち出した。これに対し、麻生内閣は3年後をめどとした税制改革と消費税の値上げを言明した。
 これにより、30日は終値で日経平均株価が9000円台となり、円高も98円程度まで沈静化した。
 この経済政策に野党は一斉に反発した。選挙対策のばらまきという物と、消費税増税という批判である。逆にそれ以外の批判がなかったのが印象的である。
 
 例によって結論から。この経済政策は妥当であると考える。ただ、2兆円の家計支援などに関しては、貯蓄に回らないように工夫が必要であり、運用まで含めて与党の指導力が必要になる。その件に関し与党が主導権をとることができるかが焦点となる。実際野党の言うような批判は、当たらないし的外れでしかない。そのような雑音に気を取られることなく、景気対策に専念できるかが問題であろう。
 
 この結論に至った経緯と論点は、以下の通りである。
 まず、家計支援とバラマキの批判について、結局はその効果と実効性の問題であるという事。第二に実行5兆円、最大26兆円という財源。第三に、消費税増税の是非。そして最後に現在の政治状況と経済対策優先の優劣である。

 第一の論点。家計支援2兆円のばらまきと言う批判についてである。実際バラマキであろう。ついでに言えば貯蓄に回る可能性が高いと言わざるを得ない。一方で、批判するのは勝手だが、それ以外にどのような対策があるのか。それともなにもしないでよいのか。現在の株価対策に対して、以上を感じるのか感じないのか。そういったところであろう。
 前回の文書で、負のスパイラルを断ち切るための方策を記載したと思う。金融機関への支援や消費の下支えという具体策を記載したが、いずれも金銭を市場(株式市場という意味ではない)に流通させるという方法以外にはない。市場というと誤解があると困るので、社会と言うことにしよう。社会のなかに金銭が流動することによって、価値が生まれるのが資本主義経済と言って良いだろう。その流通原資を政府が国民に給付すると言うことは、そんなに悪い子とではない。
 今回の経済政策は、金融機関に対して会計基準の変更というかなりマイナーではあるが効果のある方策を示した。これにより、完全な時価会計ではなく、資産評価に対してある程度の簿価会計が可能になる。これにより、相場による会計上の赤字を計上しなくて良いことになり、金融機関の債務超過は起こしにくくなった。しかし、これによって不良債権がなくなったものではない。サブプライムローンそのものに出資していなくても、関連企業や今回サブプライムの被害にあった金融機関と資本や融資で提携している金融機関は少なくない。アメリカ金融機関の不振による連鎖倒産の煽りを空場合もある。これらを考えると、金融機関の会計基準変更は、直接的な相場変動に対応した対策ではあっても、それ以外の不良債権問題や、サブプライムローンの連鎖倒産に対応したものではない。要するに、金融の会計基準変更だけでは景気対策として不十分であるといえる。
 そこで消費下支えとして2兆円の給付金、1000円利用し放題の高速道路、そして、住宅ローン減税などがあげられる。いずれも企業ではなく家庭消費増加を期待した政策である。
 現在企業は疲弊していると言える。企業といえども資金運用をしたり、株価の乱高下にかかる被害を受けている。企業に資金融資することに比べ、家庭の方が貯蓄に回る可能性は遙かに低い。 
 前回の文書で岸明日とおりに、社会における金融の主体者は三者いる。一人は金融機関、一人は企業、そして一人は消費者たる家庭である。この三者に対してすべて補助金を差し出すわけには行かない。その中において、金融機関に対しては、会計基準の変更というkとが行われた。残りは企業と消費者であるが、企業は完全に疲弊してしまっているという状況であると、消費者である家庭に消費の下支えをするのが最も有効であるといえる。
 選挙を控えた現在のこの時期として「選挙前のバラマキである」という批判はあるかもしれない。しかし、「選挙・選挙」といってさわいでいるのは、野党民主党であり、現段階において麻生政権は公式に選挙を前提とした話をしているわけではない。詭弁かもしれないが、基本的に解散の権利は総理大臣の大権であり、その他の人がいろいろというべきではない。そのことにかかわらず、いろいろと解散を煽るのはいかがかと思う。
 ましてや、現在の社会情勢や国際情勢から、景気対策をせずに、解散総選挙を行うというのはいかがなものかと思う。
 さて、この景気対策、私個人的にはバラマキと批判されてもこれ以上の消費の下支え政策を見つけることはできない。結局、消費を誘引するには、私の小売業の経験からして「値下げ」「収入の増加」「閉鎖商圏」「限定商品」「新商品」などしか存在しない。このうち、「閉鎖商圏」を作り出すことは政府では不可能である。「限定商品」「新商品」は企業が行うことで晴雨hが行うことではない。何度もいうが、私のスタンスは、政府は最小限でしか経済界に関与すべきではないという感覚を持っている。よって、政府がこれら企業活動に関与するのはいかがかと思う。新商品などは政府の研究機関などでも行っていることではあるが、それらを商品化するというのは、あまりにもナンセンスである。
 その結論から考えて、「値下げ」「収入の増加」の二種類が政府のできる経済政策(消費の下支え)ということになるだろう。
 では、その中において、「値下げ」とは「減税」ということを意味する。「減税」といってもに種類存在する。ひとつは、「所得税」などの直接税の減税。もうひとつは「消費税」などの間接税の減税である。しかし、所得税などの減税は、年末調整において現金が返金されるということを意味しており、そのことがそのまま消費につながるというものではない。そもそも「値下げ」などの感覚ではなく、「収入の増加」のイメージが強い。今回のしょうひのしたざさえは、それがなるべくダイレクトに消費に結びつかなければならないということであるから、「収入の増加」それも「金融機関へ尾一般家庭の還付金の振込み」ということではあまり意味をなさない。結局貯蓄に回ってしまうということにある。
 減税対策として、最も有効なのは「消費税の廃止(または値下げ)」であろう。期間限定で消費税を無くすと、すべての商品が5%値下がりする。このことは、期間限定で「買いだめ」を誘引することになる。
 しかし、そのことによる消費市場の混乱はかなりのものになる。24時間営業の店など、どの時点から消費税を変更するのかわからないし、自動販売機などはその対応がかなり難しいことになる。後になって還付といっても消費家庭がどのように消費税を払っているかは不明である。結局は、消費税をいじれば市場の混乱が大きくなり、かえって企業コスト(会計処理など)がかかることになる。
 政治的にも大きな問題である。本年4月、ガソリンが25円値下がりした。このことによるガソリン価格の混乱は、いまだに大きな問題になっているといわざるを得ない。結局のところ、25円下がったとしても、市場が混乱し、またそれをもとにした国会の混乱を招いただけでしかなかった。政治的には、このような混乱を招くということは、あまり得策ではない。ひとつは与党として、政治的に非常に大きな禍根を残すことになる。また、最値上げがしづらいし、最値上げをすることによって、支持率の低下が懸念される。
 国会として・政府としても問題だ。このことを元に、まず歳入計画を変更しなければならない。歳入計画の変更は年末にかけて来年度予算の編成に直接的な打撃を与えることになる。それだけでなく、その分で歳入の減少があるということは、単に景気問題を先送りしたということになりかねない。それだけでなく、全体として国会の紛糾が予想される。国会における審議時間が長いという景気対策の空白期間は、そのまま景気対策の失敗を意味しかねない。時期遅れの対策は、何の意味もないということになってしまう。特に現在の「ねじれ国会」の中においては、その時間の問題を解決しなければ、どんなによい政策も愚策に変更されてしまう。
 結局、これらの理由から、「減税」という政策、つまり「物価の値下げ」ということに関しては非常に問題が多いということになる。
 そこで、「収入の増加」ということを考えざるを得ない。「所得倍増計画」ではないが、各家庭が一時的に所得を増加させる必要があるということになる。そのために「給付金」党言う政策になる。
 さて、この給付金が貯蓄に回らないために、要するに社会的に還流するためには、「預金には使えない」という制限を行う以外にはない。結局のところ、現金の至急ではなく、小渕内閣のときに行っていた「地方振興券」のような金券の配布ということになる。その金券を消費市場以外では使用できないということを行わなければ、結局のところ、ほとんどが貯蓄に回ってしまい、社会にお金が回らなくなってしまう。もちろん、金券が優先的に使用されて、それ以外の現金が銀行口座から引き出されなくなってしまうので、結果としては変わらないという批判もある。そのような家庭も少なくない。しかし、収入が増加したという心理的な消費感覚はかなり大きなものとしてなるであろう。
 同時に、高速道路などの、減額がなされれば、行楽などの消費が増える。つまり、都市部だけで中う地方にまで消費が還流することになるということを意味しており、その内容は特に少なくない効果を持つことになる。
 結局のところ、それら金券が著知己に回らないという保証が取れるか否かとういうことが最大の問題になるであろう。この券に関して政府は今のところ何の見解も示していない。2兆円という数字における消費効用効果と景気対策の効果を待っている状況である。これら政策には、企業の協力なども非常に多く必要になってくる。地域振興などを考えれば、これら金券は地方商店街などを限定に使用できるようにすればよいが、なかなか難しいと考えるし、それを検討している時間がないというのが現状であろう。
 以上の理由から、私は2兆円の消費下支えによる家計支援給付金には賛成である。また、これは一定の条件のもと景気対策として有効であると考えられる。野党各党は、これを「バラマキ」と批判するのであれば、それ以上効果のあるバラマキにならない景気対策を国民に示すべきであろう。

 第二に財源問題である。直接的に5兆円の資金が必要ということになる。問題は「赤字国債の発行の有無」ということになるであろう。
 政府はこの件に関し、何もいっていない。自民党内部からは、赤字国債発行もありうるということがいわれている。実際「霞ヶ関埋蔵金」といわれる資金の拠出がひつ容易なる場面と考えられ、中川秀直元幹事長はその要請をしている。
 さて、総額26兆円、直接拠出5兆円といわれる資金が「霞ヶ関埋蔵金」として存在するのかといわれれば、非常に難しいであろう。「霞ヶ関埋蔵金」といわれるものは、要するに税制上「特別会計」となっているものであるといわざるを得ない。特別目的税はその目的においてのみ使用が可能とされている財源である。これらの財源に関して、昨今、年金問題や雇用保険問題、道路特別目的税などにおいて議論が進められている。民主津王は自分で議論をはじめたような顔をしているが、実際は小泉構造改革によって表面化したものがほとんどであろう。さて、これらの中において、その金額は「4年で50兆円」(民主党マニュフェストより)「96兆円」(大手新聞社報道)などさまざまな金額を言われていることも事実である。これら金額に対して、メスを入れて、今回の景気対策に限り、5兆円の拠出を行うということを考えなければならない情況にあるのではないだろうか。
 特別目的税といえども、実際に景気がよくなければ入ってこない。また税金である以上霞ヶ関官庁の特権ではありえない。国家の資産であることには代わりがない。国会における審議の結果、議員立法で、これらの使用目的を限定したに過ぎないのである。これらに関して実際に使用しなければならない部分を除いて、どれくらいの金額あまっているのか、ということに関しては、実際経理に携わっていなければ縄からないことであろう。今までに金額を発表しているだけでも、さまざまな数字の違いが出てきているのであり、そのことからわかるように、確定的な数字はわかっていないのが現状である。野党のような無責任な数字のられるをするのはよろしくないということから考えて、数字を確定させなければならないであろう。同時に政府はそれら確認をした上で政策を出したと考えたい。
 さて、これらの財源がない場合、結局は「支出を切り詰める」か「収入を増やす」以外にはない。支出を切り詰めて5兆円という数字が出るかといえばそのようなことはありえない。1兆円も難しいであろう。ということは結局のところ、収入を増やすという方策以外にはこの政策の実現が危ぶまれるということになる。では、収入を増やすのはどのように行うのか。結局のところ、国・政府は営利目的の会社とは異なるので「何かの売上を増やす」ということはできない・「増税」「国有資産の売却」という二つの方法の次に出てくるのは「赤字国債の発行」要するに借金である。すでに国の借金はかなりの額に達しており、赤字国債を発行することも難しくなっている。当然に赤字国債の発行は、多くの国民の非難を受けることになる。結局のところ、赤字国債を行うことと、景気対策を行うことの二つの是非の問題となる。景気対策優先といえど、結局のところ、「問題の先送り」にしかならないということには変わらない。
 結局のところ、特別会計の余剰資金、いわゆる「霞ヶ関埋蔵金」がわからなければこの内容に関して問題を論じることはできないが、赤字国債は、「市場の問題を市場に債権を出すことで解決する」というむじゅんをはらむことになるので、あまり得策ではないということがわかる。これらの財源問題を明らかにして国民の理解を求めるb期であろう。
 なお、蛇足ながら、野党民主党は、これらに関してすでに埋蔵金に関してのことを言っているのである。ということは、「霞ヶ関埋蔵金」を使う政策に関して、非難をすれば自分で自分の批判をしていることになってしまう。小沢一郎代表もそこまで矛盾したことをするとは思えないが、今の民主党は「政局」しか頭にないので、その対応に関してはよくわからない。自己矛盾を起こすような話にはならないでもらいたいものだ。

 最後に、消費税増税の問題。麻生首相は記者会見の中で「三年後をめどに消費税の増税をお願いしたい」としている。これに対して社会民主党の福島代表は、「左手でなぜなぜしながら、右手でほっぺたをたたく」と評したが、いかがなものであろうか。
 私の個人的な意見からいえば、現在の税制に関して、そろそろ直間比率や特別・一般の比率分配に関して考え名こさなければならない時期になっているのではないだろうか。小泉純一郎内閣が構造改革を行った。道路公団と郵政事業を民営化をしたのは記憶に新しいことであるが、その内容に関して、税制などの審議が尽くされていないのが現状であろう。民営化したのに、道路目的税がそのままであったり、郵政事業に多額の税金が支払われているのでは意味がないのである。
 構造改革を行ったのはよい。構造改革後の将来のせいふのすがたをみせなければならないのは、何度も私が主張しているところである。しかし、その政策や将来の政府の姿を示すためには「収入と支出」という資金面(財政面)の話も必要になってくるのである。残念ながら構造改革を行うにあたって、それらの議論がし尽くされたと見える事はない。野党も、それら根本的な論議をせずに、盛況論の人気取りの答弁しかしていないのであるから、まったく仕方がないし、国民を失望と混乱の淵に落としたといわざるを得ない。構造改革の必要性は、そもそも財政問題や許認可体質に由来するところであり、財政問題を語らない構造改革はいくら話をしてもあまり意味がないのは事実である。
 結局のところ、小泉内閣は、それらの内容を行わないまま安倍内閣に変わり、その後の政治の停滞は見てのとおりである。ねじれ国会で国民が期待したのは、現在のような停滞した国会や政策が決まらない政府ではなく、それら根本的に何かを変える「変革」であったはずだ。しかし、政局しか頭にない民主党に国民もあきれているであろう。善悪や優先順位を考えて審議を行うという態度のない野党は、結局政権をとっても何もできないのではないかとかんがえる。
 政府にとって「何もできない」というのは罪である。安倍内閣にしても福田内角にしても、結局「何もできない」ということに関して責任を取らされた結果になるのではないだろうか。現在の民主党は政策も日本の将来像も何も話していない。政府与党に対する誹謗中傷だけが現在の支持基盤であるようでは非常に大きな問題であろう。政策論と政策論を戦わせなければならない。
 話がそれたが、その意味において「消費税の増税」のみを語るのは麻生内閣において片手落ちといわざるを得ない。本来であれば、将来の日本の姿や税制の姿を示し、そのために直間比率の変更や消費税の税率の引き上げを含む根本的な税制改革を語ってもらいたいのである。
 景気対策と簡単にいっても、「直近の問題」としての「緊急対策」と、永続的につながる国家の根本に関する問題に関して、分けて考えてもらいたいと思うものである。その上で、今しなければならないものを、緊急に、そしてそのために発生したしわ寄せを、どのように行うのか。そして、それを含めた抜本的な改革を、政府の構造改革を含めて考えてゆかなければならない。結局は、不況に強い経済と政府を作らなければならない。国民は安定した政策を望んでいる。その中で政府ができることを考えて行わなければならないであろう。

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