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2009年1月

渡辺喜美議員の自民党離党と政局

渡辺喜美議員の自民党離党と政局

 昨年末、臨時国会の最終から今年初めの通常国会の開始早々、渡辺喜美元行政改革担当大臣の去就が話題になっている。ことの起こりは、野党各党が発議した「解散決議」に対して、自民党からタダ一人賛成し、また、給付金の反対を主張して自民党執行部に対して意見書を出すなど、自民党執行部に対する批判を明確にしている。1月13日に離党届を提出した。
 渡辺議員のこれらの動きに対して、野党はおおむね歓迎ムードである。実際、解散を早期にすべしと言うことと、補正予算案から給付金を分離すべしと言う二つの主張は、野党各党と大同小異ながら同じ主張であるために、その歓迎ムードは理解できる。
 これに呼応して稼働かはわからないが、第二次補正予算の衆議院本会議での決議に際し、内閣府政務官の松波健太議員が採決を棄権した。
 さて、本件において、今後の政局を見る上で大きな課題が画されていることに気づくべきであろう。
 一つは自民党議員の動揺という点である。糸が解れるように少しずつこぼれていくことの原因だ。これは、麻生自民党執行部の求心力の問題となる。もう一つは選挙を目指した議員の行動と言うことになろうか。
 もう一つは、野党各党の動き。ことに政権奪取に向けた合従連衡がどのようになるのかということ。
 最後に、次の選挙の焦点はなにか。争点はなにか。そして、選挙後の日本の姿は誰がいえるのかということである。

 まず、順序を変えて、「次の選挙の焦点はなにか」という論点から見てみよう。どの議論をするにしても、選挙と言うことが機軸になることは間違いがないからである。
 民主党は、次の総選挙で政権選択の選挙という。しかし、果たしてそうだろうか。そもそも、政権選択を口にするのであれば、批判反対、誹謗中傷ではなく政策論争をすべきである。18日の党大会でも、結局民主党の目指す政策は見えてこない。「自民党のアンチテーゼ」でしかない。要するに、誰かが担当した内容を第三者的に批判評論することはできても、実際に自分たちが政権担当できるかということになると、はなはだ疑問である。そのことは支持率にも現れている。自民党の支持率が低下したのはわかるが、民主党の支持率はあがっていないことが着目される。要するに自民党批判票が民主党支持につながっていないことを示す。このことは、「一度民主党にやらせてみても、ダメならばまた自民党に戻せばいい」という、日本人特有の玉虫色解決法の心理が大きく働いていることは言うまでもない。よって、民主党の言う「政権選択の選挙」にはならず、強いて言うならば「自民党政権の信任選挙」となるのであろう。しかし、それは政策があってこそであり、なにもなく「信任選挙」というのはあり得ない。
 では、結局どのような論点が選挙になるのか。
 渡辺議員は、「脱公務員」を挙げた。実際昨今の公務員不正は目に余る物がある。特に話題になった社会保険庁の年金問題や雇用保険問題などは、政府が国民の反感を買い、参議院選挙で自民党が惨敗するほどの事件に発展した。農水省も職の安全を守ることもできない。近年は、不正が目立つと言うよりは、国民の生活を脅かされる事件が多発している。しかし、公務員は公務員法に守られた存在であり、その改革を行うと言うことは法案を通さなければならない。では、現在の日本において法案を作るのは誰か。これこそ官僚・つまり公務員である。ましてや、民主党の支持基盤である自治労所属者が、その中に多数はいるという結果になるのだ。そもそも、公務員は国家における奉仕者である。その身分が保障されている代わりにさまざまな労働条件などが制限されている存在だ。制限慣れている分、手厚く処遇されている部分があることも納得できる。しかし、「自治労」などとして、本来制限されている政治活動を行うことは、そもそも憲法に違反している行為だ。その憲法違反者の「支持」を受けている民主党が「護憲」をいうのは、そもそも民主党の政治姿勢に二律背反行為が存在することが明らかである。また、その「支持基盤」の公務員を改革することは疑問である。
 政権与党である自民党も、公務員改革を行うと言うことは、官僚を頼らずに官僚の仕事を変える法案を、現在存在する全ての法律や政令に照らして矛盾がないように、また矛盾があれば解消するように法案を作らなければならない。地方分権に関する会議の座長を務めている丹羽宇一郎氏は、地方分権に関し、大学生などの協力を得ている。それくらいの指導力と、官僚を頼らない姿勢を貫くことができるのか。残念ながら渡辺氏を含めて難しいと言わざるを得ない。
 渡辺議員や民主党が主張する、政府批判のうち、公務員改革がこのように砂上の楼閣であることが予想される。では、他の選挙の論点はなにか。民主と自民は全ての項目で対立しているので、実は争点論点が一致していない。政府がやることに、子供のように全て反対する。これでは感情論しかあり得ない。細かい論点はある。テロ特別措置法などの国際貢献、定額給付金を初めとする景気対策など、その内容は多岐にわたる。後期高齢者医療制度にいたっては、民主党は元に戻すとした。もともと、健康保険制度で破綻しているから高じた策を、破綻する方策に戻すとした主張は、常軌を逸していると言わざるを得ない。これ全て、民主党の選挙政策で「自民党は頼りない」というイメージ戦略でしかない。
 要するに、上記に示したように、「自民党政権の信任選挙」となる。また、それ以外にはない。結局のところ、イメージと、現状の政府批判、それは自治労を含めた公務員への不満を自民党に重ねた選挙でしかない。また、その不満は民主党の支持団体が作り出した物である可能性もある。いわばマッチポンプ選挙の可能性があるのだ。本来であれば政策を戦わさなければならない選挙で、いわば人気投票を行うようなものだ。
 さて、渡辺議員の離党と言うことを考えれば、選挙に向けたないようであると言わざるを得ない。その選挙の争点がこれである。そもそも争点そのものが議論されず、スキャンダルや空論で埋められている。渡辺議員はそのことをわかっての離党であったのか。はなはだ疑問である。どちらかというと、「選挙風」という雰囲気と、マスコミと民主党の煽る、政策なきイメージ選挙に惑わされたのであろうか。

 さて、では、何故そのような「惑わし」があるのであろうか。ここが、第一の論点である「自民党議員の動揺」という点にある。
 政治とはなにか。これは時代によって異なる。もともとは「政(まつりごと)」という。これは、昔の政治が神からの神託を聞くことが中心であったため、神を祀ることそのものが国民に対する政治であったことから由来する。科学的に話ができない時代は、政務のほとんどがマツリゴトであった。しかし、今はそうではない。神の存在を否定するわけではないが、少なくとも日本国憲法においては、国民一人一人に主権があり、その主権に従って、政治が行われる。国民は、過去の盛時の実績と、これからの政策、それらを示した公約とその実現可能性を判断して、投票を行うのだ。その代表が代議士と言われる国会議員であり、議員内閣制によって、その国会議員の過半数を占める正当から行政府の長である内閣総理大臣が指名される天皇陛下より任命される。他の大臣に関しては、指名が内閣総理大臣であり、任命が天皇陛下である。これら大臣と公務員が行政府を構成し、司法の独立をもって、議員内閣制に基づく三権分立が成立する。何も難しいことはいっていない、小学生が習う公民の授業だ。しかし、大人になるとそのことを忘れてしまう人が少なくないらしく、憲法があるに関わらず、内閣総理大臣を直接選挙にするとか、野党の党首が安易に解散の時期を口にすることが往々にしてまかり通っている。
 また、与党自民党の議員も、なぜかそのことがわかっていない人が少なくない。内閣支持率や、マスコミの評判で一喜一憂する姿は滑稽でしかない。
 自民党の衆議院は、その中に小泉チルドレンと言われる議員がたくさんいる。前回の俗に言う郵政選挙で当選した一年生議員である。この議員たちの多くは、郵政選挙の時の造反組の「刺客」として送り込まれた議員だ。その中でも、とりわけ造反組が復党した場合の一年生議員は、強固な地盤も固定した支持勢力も存在しない。一概に言うことはできないが、これら地盤がしっかりしていない議員は小泉チルドレンと言われる議員だけではない。彼らは、小泉元首相の人気と圧倒的な支持率を背景に、マスコミ報道など雰囲気に押されて当選した場合が少なくない。現実はそうでなくても、そのように見られてしまうことも少なくない。この「見られる」というのはたいそうやっかいで、その雰囲気が、併せて本当にそのようになってしまう。
 彼らにおいてそうであれば、結局自民党の顔を「国民的人気(支持率)をとれる人」に名ってもらわなければならない。そうでなければ、次の選挙で自分たちは議員バッチをはずさなければならないのだ。そこで、執行部に対して「評判の良い政策を打ち出せ」というようになる。そのときは、国家のため・国民のためでなく、自分の国会議員という仕事のためにそれを主張する。
 それを受けた自民党執行部も、議員の主張であるから真摯に受け止める物の、国民のために行う政策と、議員バッチのために行う政策の二律背反が起きてしまうのだ。
 最近の話題で言えば、派遣労働者対策を行い、セーフティーネットを拡充せよ、という。その中にはすむところと食料を安定的に供給せよと言う。一方で、赤字国債をなくし、借金を減らせと言う。セーフティーネットの財源もなく、それらを拡充するというのは、結局誰がどの財源で行うのか。そもそも資本主義、自由主義経済国の中で、働かない人(働けない人ではない)の生活の安定を守るというのはどういうことか。派遣村に集まった人の中で「働かない人」と「働けない人」をどうやって分けるのか。それら具体的議論もなく、財源的な裏付けもない議論が繰り広げられている。それらを解消するために、一律で給付金をいうが、評判が悪いという。政府が2兆円もの資金を消費市場に直接投じることに、景気対策にならないとはどういうことか。
 要するに、その内容に関する本質的な議論をすることなく、また現在の状況で、政策的な見地から物事を判断することでもなく、選挙対策用で、民主党が用意した土俵にのって政局論で発言するあまり頭の良くない議員が出てくる。マスコミはそれをとらえて、自民党の中にも反対派がいる、自民分裂と無責任にはやし立てる。物事の本質を見せないようにしてしまい、また政局をセンセーショナルに書き立てて対立を煽る。
 このような雰囲気に乗せられたと言うのも、渡辺議員の離党の一因であると想像できる。つまり、選挙対策として、自分の地元の有権者に物事の本質を説明できる議員が少なく、またその教育もなされていない。そのことを民主党とマスコミにうまく利用されたということであろう。

 「野党各党の動き。ことに政権奪取に向けた合従連衡」という観点に移る選挙の論点とリンクする話になると予想される。
 選挙の論点が「自民党政権の信任選挙になる」ということはすでに書いた。しかし、自民党内部においては、これを「自民党執行部の信任選挙」と考える人も少なくない。自民党の信任選挙と考えれば、自民党に所属している議員そのものが大同小異を認識しながらも一致団結して政策に対処する。しかし、執行部、または麻生総理の信任選挙となれば、昨年9月の総裁選挙でも他の候補に推薦投票した議員もいることだし、また、上記のように国民の人気や支持率に頼らなければならない議員も少なくない。当然に、「反対派」という多数派に身を寄せて、我が身の安泰をはかることを考える議員も少なくないのではないか。
 そのようなことは政治の世界だけではない。会社そのものの存続が危うく、倒産の危機であるのに対して、社内で内部抗争や派閥抗争をしている役員・従業員などは少なくない。身近で体験し手いる人も少なくないであろう。私が前にいたマイカルは、倒産法(会社更生法)適用時にクーデターが起きると言うことで話題を呼んだ。四方修社長(当時)が警察出身であるのに関わらず、足下のクーデターを事前に察知できなかったという、ある意味で情けない経営能力と同時に、倒産した会社の中でも、内部抗争があり、山下幸三取締役の、内部抗争の異常さが際だち、「マイカル倒産やむなし」という印象を広く植え付けた。マイカルはそれらが表にでてしまい、広く醜態をさらした事例としてもっともわかりやすいが、実際のところ、倒産会社やその寸前と目されている会社での内部抗争はよく聞かれる。実際、内部抗争の力を外に向ければ会社は立ち直るであろうに、内部抗争に明け暮れた上で、結局会社ごと倒産させてしまう事例は、後を絶たない。
 自民党とて同じこと。今は野党という共通の敵に政権奪取される可能性があるに関わらず、未だに内部抗争を継続する。派閥争いを行う始末だ。その理由の中には、総裁ポストということもあるだろうし、上記のような、議員個人の身分の問題と言うこともあるだろう。民主党は、特に小沢氏は「数の論理」で話を進めるタイプである。当然に、それら自民党内部の構想に目を付けないはずがない。特に元々自民党の幹事長を歴任しているのだから、その人脈もないことはない。外部からそれら内部抗争と、議員という身分に対する不安感をあおり、自民党が頼りないとして、切り崩しを行うことは間違いがない。渡辺議員に関して言えば、政策論なども交えたかもしれない。
 麻生総理の言う「政局よりも政策」は大賛成である。国民は国会内での権力争いはあまり興味がない。しかし、上記のような混乱や内部抗争が起きるのは、現在の政権があまり政策を示していないことに問題がある。この表現はあまり適切ではない。「国民とのコミュニケーションが不足している」というのが最も重要な問題だ。何をしようとしているのか、将来の日本のためにどのような政策をとっているのか、そのことの説明がなされていない。説明しているつもりになって、結局伝わっていない。その伝わっていないことをマスコミの変更報道に責任転嫁している。小泉純一郎内閣の時はそれが伝わっていたのだ。それは個人の人気の問題もあるし、注目度合に問題もあるが、安部首相の時代から、わかりやすい短い簡潔な表現を使わなくなる。誤解を招かないように長々説明することによって誰も見なくなってしまっている。そして、その揚げ足を取られて窮地に追い込まれる。
漢字が読めないなどといわれるのだ。
 何度もここで繰り返しているように、現在の国会に必要なものは政策論争である政局論やスキャンダル争いは必要がない。しかしそれだけではない。その内容を正確にわかりやすく、簡潔に説明しうるコミュニケーション能力が必要なのだ。それが欠けた政権が三代続いている。政府が何をしようとしているか、国民が理解しなくなってしまっている。
 渡辺議員による反乱が、あまり大きな政局にならないと考える。それは、民主党の設定した選挙の争点が破たんしていることを意味する。そして政策論争を気取っても結局政局論でしかないということが国民が気付いている。その雰囲気を読み違えた渡辺議員は、今後よほど政策論をきっちりと国民に示さなければ支持を得ることはないだろう。元の地盤があるので、議員としての活動は可能であろうが、多くお議員の中で埋没してしまう存在になるかもしれない。逆に、分離された自民党も、しっかりとした政策を示し国民に説明しなければ、あまり良い状況にはならないであろう。

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平成21年 年初放談

平成21年 年初放談

 毎年、と言っても数年しか経っていないが、年初初めは勝手なことを言わせてもらっている。もちろん、誰かに許可を得ると言うものではないが、何となく、解説と言うことで、あまり勝手なことを書いていない。特に、将来のことを書くことは基本的に避けている。新聞は、やはり「発生したこと」を書くものであり、予想や推測を並べるものではない。しかし、どうも日本の場合、この時期、年初だけに限って言えば、予想を記載して良いことになる。テレビ新聞雑誌、どこを見ても今年はこうなるという予想が挙げられている。
 そこで、この文書でも、せっかくであるのでやってみたいと考えている。
 昨年は「変革という名の懐古」という予想をしている。

 今年は政治の世界では、「懐古への変革の挫折と混沌」という感じになるのではないだろうか。もう一歩踏み出して、政治の世界で見てみると、「社会保障と言う名の社会主義と格差是正という名の共産主義が世界を覆う」そして「金融自由主義と、社会主義・共産主義とのつばぜり合い」が経済の世界では繰り広げられる。と予想する。

 国会新聞社は、あまり経済に関して記載しない。特に産業個別の件について記載したり、企業の宣伝記事や、スキャンダル記事を記載するつもりもない。業界団体となるとまだ話ができないでもないが、基本的に政治と関わり合う話以外はしないようにしている。
 しかし、最近では経済と政治のリンクが少なからず入れられてしまっている。今までは中国やロシア・中東各国がそうであったが、昨年のリーマンショックから状態は一変し、日米も経済活動や景気対策に政治が深く関与するようになったのである。経済や金融活動の自由化は、当然に勝者と敗者を産みだし、その勝者と敗者は、勝ち続けること、負け続けることで差が開いてしまう。完全な自由化であるならば、それでおしまいの話である。しかし、実際の社会では荘は行かない。社会がそれら脱落者を保護しなければならないという。憲法13条にもそのように記載されており「すべての国民は、個人として尊重される。生命、自由および幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と記載されており、その内容は「幸福追求権」として、生活保護制度やその他の社会保障制度の基本理念となっている。ところが、これら憲法の話は、「どこまで」という制限を入れていない。基本的には「最低限に生活ができる程度」とされ、数年前には、エアコン付の部屋に住んでいたので生活保障を受けることができなくなったというようなことがニュースになったりしている。本来「どこまで」ということを法律で定めなければならないのであるが、年末から続いている派遣労働者の雇用不安など、新しい雇用形態や新しい社会制度に、法律が間に合っていない状況が生まれている。
 日本は、高度経済成長まで、いやバブル崩壊後も一種の鎖国状態にあった。今年は横浜開港150周年で、横浜ではさまざまなイベントが催される。実質に開国して150年の時を経ていながら、実際に、単一民族で島国の日本の状況を脱しきれていないのが現状である。前にも何度か書いているが、結局「外国かぶれ」と「国際派」を完全に混同してしまったままで、ちょっと海外にいれば外国通という評価になってしまう。単に島国根性が根付いてしまっているということは、日本が諸外国の情報を取り入れるのが下手というだけでなく、そのまま「国内の対立を激化させる」要因の一つとなってしまう。ナポレオンの政策でいう「排外主義」ではないが、「外国」とか「国難」、「世界的な危機」という共通の敵や共通の問題を見出せない鎖国二とらわれた人々は、結局その矛先を日本という狭い国の中で振るうしかない状況になってしまう。企業でも、海外の会社や金融と団結するという話もなければ日本国内で団結して対処するというものもない。政治の世界が最も顕著であるが、民間の企業も似たようなものである。
 要するに「ムラ社会」がそのまま息づいている。そのような国に、国際金融という最も難しい対処の仕方の「津波」が襲ってきたのであるから、本来は、それを最も最優先で対処しなければならない。しかし、「ムラ社会」の日本は、そのようなことを気づかずに、いまだに「ムラ社会間」での内戦を繰り広げている。ちょうど、宮崎駿監督の「もののけ姫」のラストシーンのように、大きな危機に飲み込まれる寸前まで、内戦を続けてしまうのではないだろうか。もしかしたら、危機に飲み込まれていることも気づかずに、大混乱の中、内戦を続けるのではないだろうか。
 太平洋を隔てたアメリカは、政権交代後の政治的な対立はないが、しかし、リーマンショックを演出した震源地だけあって、その対処方法に苦慮している。実際、自由主義経済と社会保障の間に立たされて最も苦悩している国である。日本は、戦後アメリカの影響をそのまま受けてしまっている。アメリカ至上主義が完全に国内においてインプリントされており、また反体制派も「アメリカ追従を止めろ」というコールを行うようになっている。小泉政権のときの批判文句はまさにそれである。「ブッシュのポチ(犬)小泉」という書き方は、何度も目にした表現である。
 年が変ったからといって、完全に昨年の内容が切り替わるわけではない。歴史は年を経ても通常どおりにつながってゆく。
 昨年の問題で積み残したことはすべてそのまま残ってしまう。金融危機や雇用不安、派遣労働問題に解散総選挙。どれも簡単に解決する問題ではない。現状に不満をもっている人が増加しているが、その人たちも、現状ではダメと思っていても、どうしたらよいかを提案できる人はいない。誰がやってもダメなことに対する、八つ当たりに近い状況だ。それを「民意」と言えばそうかもしれないが、当てのない(政策や実行力の伴わない)政権交代をしても、何の解決にもならない。「現状ではダメだ」という民意が、新しい政権に降り注ぐだけである。
 光のまだ見えないトンネルの中で、内輪もめをして前への歩みを止めてしまっている。それが現状である。争いは、本来、複数の光が見えるトンネルの中で行われるべきであり、暗中模索の時に行っても意味がない。
 そういう意味では「懐古への変革の挫折と混沌」となってしまう可能性が高いのではないかと思う。日本の政治で言えば、結局のとこ政権交代をしても、トンネルの中で出口は見えないまま、結局政権交代や新党結成・政界再編という変革と、それでも出口の見えない挫折、それでも争いを続ける混沌という時代が到来する。政権だけでなく、企業も経済の混乱と先の見えない金融危機で変革を迫られ、または、外資便りだった資本関係や国際金融にかげりが見えて、変革せざるを得なくなり、うまく行かなくなって挫折し、今回の派遣切りだけでなく、正社員なども解雇が相次ぐという混沌が訪れる。
 この予想は、はずれてくれた方がよい。しかし、急激な国際金融の変化と、世界市場の変化、そして原油や食料という生活必需品の相場の変化は、今の安穏とした、危機感のない日本政府・企業・国民に黄色信号を発し、昨年後半から赤信号に変わりつつある。原油も食料も金融相場も外国任せの日本は、その独自性を活かした技術力ですら、人件費カットという名目で中国や東南アジアに移転してしまい、このようになると、結局なにも残らない国になってしまっている。
 アメリカも同じ、先の文章で記載したが、すでにアメリカ製のカラーテレビがない状態になっており、車と軍需産業と金融の国になってしまっている。あとは農業産品であろうか。コアとなる産業が軍需産業であるのに、戦争否定、イラク撤退を公約にした大統領を選んだ。政策の変更か、コアとなる産業の転換を迫られることになるであろう。
 アメリカはよい。日本はどうか。 
 日本はもともと技術力を活かした加工貿易で有名な国である。日本にはクリエイティブな仕事はできないと言う人も少なくないが、実際、ゲームやアニメーションなど、日本発の文化は世界中を席巻している。家庭用ゲーム機の多くは、日本製である。任天堂もソニーもその業界では世界規模のメーカーであろう。しかし、ゲーム機の部品やプラスティックの原材料は、ほとんどが外国産であることは言うまでもない。日本は石炭は鉄などは豊富であるが、それ以外はとても。
 その工場も多くは外国に転出している状態である。残念ながら、アメリカと同じ状況に陥っているようだ。
 
 もう一つ、「懐古への変革の挫折と混沌」というには、この状況だけではない。百年に一度の不景気と言われる金融危機でかすんでしまった感があるが、環境問題が挙げられる。環境問題は、極端に言えば産業革命以前に戻せと言うことである。しかし、今の文明社会でそんなことがいえるわけではない。いま、日本でそれをすれば、食料自給率40%という現実を突きつけられてしまう。そこで、環境と文明の共存を目指すと言うことになる。 
 問題になるのは、それを共存させるための技術が存在していない、または、その技術が存在している状態においても、コストという経済的な問題で採用できないでいる。結局は環境の悪化を止められない状況が続いているのにかかわらず、現状において、その内容を認識しながら継続している。
 本来であれば環境に対する新規事業が、「雇用の創設」「景気対策」になりうるひとつの公共事業であると考えられるが、その方向に進まないのが現実である。アメリカは2000年の京都議定書も批准せずにいる。主たる産業が軍需産業と自動車という状況であれば、環境を破壊する代表格の二台産業だ。環境を配慮した戦争などありえない。その産業国が、環境において前向きに行うことは、基本的にありえないといって過言ではないであろう。日本とて半分は似た産業構造であろう。しかし、逆に資源輸入国である日本においては環境に配慮した「地球上誰も、すべての動物が享受できる資源」を使っての産業を作れるはずだ。その部分において、日本のコアのt口調である技術力を活かす必要があるのではないだろうか。
 提言はともかく、やはり自動車工場での派遣切りの話などを見ていれば、当然に、日本の産業構造もアメリカに近い状況になっており、「解雇への変革」要するに環境事業への一歩の踏み出しが掛け声だけで終わってしまう恐れがあり挫折と混乱が予想されるものである。

 問題は、この挫折と混乱がいつまで続くのかということであろう。実際、麻生首相の発言ではないが、今年など短辺急に解決できるものではない。産業構造の改革は長期間かかるのが現状である。イギリスの産業革命は百年かかったのだ。決して大げさではない数字であろう。しかし、現代社会において、また日本においてそれだけの時間的な猶予があるわけではない。また地球の環境もそれだけ舞ってくれるとは限らない。実際のところ、政治に関しては今年の負う範囲は落ち着いた形が見えるであろう。それに対して、景気に関しては、もう少しかかってしまうのではないだろうか。経済はそのまま生活と直結するので、構造の改革に関しては、なかなかうまく進まない状況になっている。
 そこで、経済のほうのもうひとつの内容が出てくる。
 「社会保障と言う名の社会主義と格差是正という名の共産主義が世界を覆う」そして「金融自由主義と、社会主義・共産主義とのつばぜり合い」である。
 社会主義・共産主義で国家運営がうまくいかないことは、ロシアのペレストロイカや中国の改革開放で証明されている。しかし、完全なる自由主義経済・資本主義経済がよいのかといわれると、昨年から「投資」「投機」という問題で試練に立たされている。中間的な概念が必要なのかもしれないが、どうもその限度と内容がはっきりしない。概念的・総論的に「社会保障」「福祉」と言ってもうまくは行かない。しかし、一定以上民度があがり、権利意識が先行するようになり、その保証と実行を国家に求めたり制度を確立したりとなると、社会主義・共産主義に移行する。
 たとえば、昨年から話題の派遣切りなどは、派遣と言う雇用形態と正社員という雇用形態で全く異なる。派遣はその分責任がない。社会的な責任を果たさないという義務が免除されている。その派遣を正社員雇用と同じように保護するというのは、結局、社会的責任を負わなくて良いという結論につながる可能性を示唆する。
 共産主義国家・社会主義国家は、そのように結局政治と経済が連携した階級社会と、各国民のモティベーション維持に失敗している。がんばった人もがんばらない人も、同じ保証を受ける。それならばがんばらない方がよい。サービスなんてすると損をする。そんな考え方が、商業上の競争力を失う結果になった。その雰囲気の蔓延と、政治的な階級による差別を回避するための、国内での接待が、急激に国力を低下させた。ロシアがペレストロイカを実行したとき、アメリカから進出したマクドナルドが大人気になった。「スマイル0円」マクドナルドのメニューには今もそう書いてあるが、そのなにもしないのに笑顔を見ることができるという満足度を味わうために、ロシア人は列を作った。逆に言えば、それまでの社会主義国家では、買ってくれた顧客に笑顔を作ることさえ「サービスなんてすると損をする」という感覚であったことがわかる。
 派遣の人が職がないことには同情するが、保証を篤くすれば、結局働かなくても生活できると言う感覚が身についてしまい、労働意欲のない人を作り出す結果になる。現在マスコミがかわいそうと言って求めているのは、その姿なのだろうか。派遣が職がないと言いながら「アルバイト募集」「パート募集」が目立つのはなぜだろうか。結局派遣社員側にも業種を限定してしまうような、権利意識があり、何でも良いから働くという労働意欲がなくなりつつある可能性もあるのではないか。もちろん、逆に働いても儲からない、稼げないというワーキングプアの現状もある。同じことになる。結局は雇用需給調整と、最低賃金と、一方で社会保障の金額や内容の調整になる。働いたらすむところはないが、生活保障や派遣村では暖かい物が食べれるというのであれば、結局労働意欲を失う結果になる。社会保障と自由主義経済の境目は労使双方とそれを調整する制度の問題であるが、同時に権利と義務の関係をしっかりと考えておく必要があるのではないか。解雇され、働いていないのにすむところがあり、食べ物があるのは何故か。そのことを考えながら、派遣村にいる人は何人いるのであろうか。自己の不幸を嘆いて、権利意識だけに固まっている人ばかりではないだろうか。
 自由主義と社会主義・共産主義の戦いは、結局のところ権利意識と義務意識の問題になる。その中における義務や権利の内容はバランスがとれていなければならないが、今の日本はそのバランスが著しく欠けているのではないか。その違いが、与野党の争いにもきている。
 「懐古への変革の挫折と混沌」と「金融自由主義と、社会主義・共産主義とのつばぜり合い」を並べて書いたのは、結局のところ、バランスを欠いた権利意識と義務意識が、政治と経済の双方に影響を及ぼし、現状を変えるために上を変えても、国民の意識がついて行かないので、結局バランスを欠いたままの社会ができあがり挫折を味わうと言うことになるのではないか。

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