« 2009年3月 | トップページ | 2009年5月 »

2009年4月

ヒ素カレー事件最高裁判決でる。裁判員制度と死刑判決について。

ヒ素カレー事件最高裁判決でる。裁判員制度と死刑判決について。

 4月21日。午後3時からの最高裁で、今から11年前の8月に起きたヒ素カレー無差別殺人・殺人未遂事件に関する判決がでた。被告人林真須美に対して二審の死刑判決に対する上告が棄却され、死刑が確定した。
 ヒ素カレー事件とはどんな事件だったか。
 11年前和歌山県の夏祭りにおいて、地域住民が皆で当番制で作っていた無料で出されるカレーに、林被告が砒素を混入し、その砒素中毒により、小学生・高校生を含む4人が死亡、17名が砒素中毒で入院加療となった事件である。その後の捜査で、林被告の自宅から発見された砒素と、混入された砒素の化学的な特徴が類似していること、林被告がカレーの鍋に一人で近づき鍋のふたを開けたと言う目撃証言があることなどがあがった。しかし、捜査から昨日の判決まで、状況証拠しかあげられず、客観的な証拠がなかったこと、そして、林被告が一貫して無罪を主張し、自供が得られなかったこと。それにより動機が不明であることなどが争点となり、また死刑という量刑が妥当であるのかということが注目された。特に、来月から始まる裁判員制度との関係で、様々なことが言われている。
 さて、ニュースや新聞を見ていると、様々な論点が整理せずに出されている。十数分の尺で様々なことを言わなければならないし、なにもわからないコメンテーターが目立ちたいばかりに新視点かのようにいろいろというので、まとまりがないのも仕方がないのかもしれないが、結局視聴者にわかりにくい報道になってしまっている。
 そんなことで、論点を整理しよう。
 まず、個別事件の死刑判決について、状況証拠と動機の解明なしでの有罪確定は妥当かと言うことである。
 第二に、状況証拠と動機の解明内情強での死刑という量刑は妥当かということであろう。
 二つの論点は似通っているかもしれないが、一つ目は罪刑論・刑法各論であるのに対して、二つ目は量刑論である。二つ目の論点には死刑廃止論という論点もあるのかもしれない。
 最後に、裁判員制度についての是非。すでに決まったことに関して、是非を問う必要はないが、運用と、そして裁判員として国民一人一人が考えなければならないことを、そして、その裁判員に影響を与える報道の公平性や責任と言うことも言及しなければ成るまい。
 恒例により、といっても最近ではあまりしていなかったが、私の個人的な意見から。まず、罪刑論に関しても量刑論に関しても妥当と思う。理由は後に記載する。裁判員制度に関しては、いろいろと言っているが、実際皆心の中で「無責任な」裁判の批評は行っている。法律の根拠などが無くても、マスコミの報道を元に様々な批評をしている。今、求められているのは無責任な発言の可否であろう。裁判員として、資料を見、捜査の報告を受けながら、責任ある自分の意見を言うことができるかということであろう。と言うことで、裁判員制度に関しても、影響のあるものではないと考える。
 一つ一つ論点を考えてみよう。
 まず罪刑論。つまりは死刑という刑が妥当かということである。
 日本は法治国家である。過去にも何度か書いてきたが、日本国民が刑に服さなければならないときには、それなりの手続きが必要だ。刑法上、その罪刑言い渡しが認められるのは、「罪刑法定主義」「違法性」「責任」が全て被告人において認められる場合でなければならない。
 「罪刑法定主義」とは、予告なしに逮捕されて有罪が決まることはないということだ。逆説的に言えば、法律としてあらかじめ、どのような行為をしたら罪になるのかと言うことが決められている。刑法ばかりではない。商法や有価証券に関する法規にも刑罰規定は存在するし、麻薬取締法・道路交通法など、刑法のように思われていても、そうでない法律も存在する。これら法律は、国会で審議され、少なくとも官報で公開されている。関係省庁に行けば、説明を受けることも可能だ。基本的に公開された情報であるということができる。公開された情報を「知らなかった」と言うことは許されない。要するに、法律で罪刑に値するという行為をすれば、罪刑が問われる。
 「違法性」とは、その行為が違法に行われたことかどうかと言うことである。同じ行為をしても、罪が問われない場合があるのだ。たとえばスピード違反。通常スピード違反をすれば免許取消などの処分を受けることになる。しかし、警察や消防・救急車・ガス水道電気の緊急車両は、緊急時に限って、赤色灯を点灯しサイレンを鳴らすことによって違反でなくなる。当然にスピード違反をしても、それが違法ではないからだ。電気・ガスなどの民間会社にも認められている。このほかにも、正当防衛も違法性がないと判断される。人を殴れば暴行・または傷害罪になる。しかし、相手がナイフなどをもってきていて抵抗しなければ自分が殺されるという時には、有る程度の抵抗権は認められる。同じ、人を殴ると言う行為をしても、違法性がないとして、罪にならない。このように公共の利益または、その行為を行わなければならない緊迫制の事由が存在する場合は、違法性がないと判断される。
 最後に「責任」である。その人に責任のない行為は、罰せられない。心神喪失状態で行った場合、精神病患者などは犯罪を犯しても責任能力がないとされる。ニュースなどでよく見るのは、重大犯罪などの報道の時に、精神鑑定を求めるのはこのことである。この場合、その犯罪者には責任がないということになり、刑法上は無罪となる。当然に、次に精神上の問題で、また犯罪になっては困るので、精神病院において加療され、その後も観察が付くようになるのであるが、前科が付かないなど犯罪者としては扱われなくなる。
 さて、今回のヒ素カレー事件に関して、検証してみれば、まず罪刑法定主義における財形に当たる。「砒素をカレーに混ぜて不特定多数に食べさせれば、人が死ぬかもしれない」という故意が存在する。ヒ素は間違いなくカレーの調理において過失ではいるものではない。ということは何らかの故意が働いたことは間違いがない。要するに「人が死ぬかもしれない」と思いながら「故意にヒ素を混入した」ということになる。これは、「殺意を持って人を殺した」ということで、殺人罪が適用される。
 なお、このときに、「故意を立証するために動機の解明が必要である」という考え方もある。動機がない場合は、過失である可能性もあるからだ。今回の訴訟においては「人を殺す意思」または「人が死ぬかもしれない」という認識が存在することを持って、そのための動機の解明がないことは殺人罪と断定するのに妨げにならないという判断を下した。通常、人を殺すという重大犯罪を行うには、それなりの動機があるものと考えられている。しかし、今回の裁判では、それだけの動機でなく、認識の身で足りるとしたのである。
 動機とは、当然に犯罪者(被告人)の個人の主観である。犯罪当時の主観の解明がなければ殺人罪を適用できないのでは、殺人罪などなくなってしまう。一つは、砒素を混入したという原因行為があり、もうひとつで、砒素を入れれば人が死ぬ可能性があるという認識があれば殺人罪を適用できるという判断である。私の個人的な考え方では、動機は、殺人罪における減刑事由に当たるが、逆に構成要件に含まれないと解釈している。要するに、動機がはっきりしていて、その動機に情状酌量の余地があり、同時に、第三者に殺人の被害者を出す可能性がない場合、殺人における量刑が減刑される場合があるという考えである。今回の場合、動機がはっきりしないということは、逆にいえば、林被告の場合、同一の環境になれば動機がなくても第三者を殺してしまう可能性があるという考え方も成立するのである。
 違法性については、申し分ない。少なくとも違法性阻却事由はどこにもないのである。また、責任能力に関しては、複数回の判断で能力があるとされている氏、また、第一審では黙秘を、第二審以降は無罪を主張できるだけの、能力が存在すれば、責任能力も当然に存在する。
 最後に、物的証拠がなく、状況証拠のみしか存在しないという論点が存在する。しかし、まず、カレーの中にまんべんなく、砒素を混入できるのは、カレーを製造した人の中にしか存在しない。その中において、一人で鍋の前にいた、また、目撃証言において林被告が鍋の前にいた時に湯気が立ったということは、ふたを開けたということを示す。物証に近いものとして、自宅から混入されたものと同じ化学成分のヒ素が発見されている。この犯罪の場合、混入できる人は限られている。その限られた中において、ほかの可能性を排除し、また、砒素の特性などの状況が特定できれば、犯罪被告人として問題がないという判断を行った。これは、通り魔殺人のように、不特定多数の人が犯罪を犯した可能性がある事件とは異なる。ある程度特定された犯罪可能性卸数の中における状況証拠は、当然に一般の状況とは異なり、その証拠性にも重要性を増すことになる。そして、それは、被告人を犯罪者とするに断定するだけの証拠性を有すると判断したものである。刑法の裁判の場合「疑わしきは犯罪者の利益」という原則がある。しかし、この犯罪の場合、千以上の状況証拠は、「疑わしき」ではなく、断定するに足る証拠であったと解するとのことである。
 すべての事件において、「状況証拠だけで犯罪が成立する」というものではない。今回の事件の特性がそのようにさせたのであろう。

 さて、次の論点で量刑論である。これは無期懲役ではなく死刑で良かったのかということである。
 日本の裁判の場合、殺人罪での死刑は、「複数人の殺人」「無差別殺人」「猟奇殺人」の場合に限られる。他の犯罪、たとえば強盗殺人など、ほかの要素と一緒になっていない殺人の場合は、そのような要件になっている。今回の事件の場合、林被告において殺人罪が適用されることが明らかである場合、当然に「複数人(四名)殺人及び複数人(二十一名)殺人未遂」ということ。地域の祭りに来た人にふるまわれるカレーであるということから「無差別殺人」であること。そして、釈放した場合に今後も同様の犯罪を犯す可能性が消えていないこと(謝罪の有無)(動機の未解明)。以上の状況から、死刑という量刑は、過去の殺人事件の裁判判例からみても妥当といえるのであろう。

 さて、最後に、この事件から裁判員制度を考えるということになる。
 裁判員制度とは、一般から選ばれた裁判員が、罪刑論及び量刑論の判断に関与するものである。今回の事件の場合であれば、その裁判員は死刑を宣告しなければならない。
 しかし、だれもが、いままでの裁判の判例に関して「打倒」とか「不当」といった意見を持っていた。テレビのコメンテーターなどは、裁判所をさばくかのごとく、自信を持って行っていたはずだ。
 そもそも、裁判になる前に、犯罪者扱いをして、社会的にさばくようなことも少なくない。松本サリン事件などはその最たる例である。そのような悲惨な事件があったにもかかわらず、いまだに無責任な論評を、刑事事件において垂れ流していし、それを受けて新聞の投稿欄などに、無責任に意見を投じている国民も少なくない。
 裁判員制度で最も考えなければならないことは、マスコミや国民一人一人の意見が「無責任であ会ってはならない」ということ。そして「責任を持って判断した人を、周囲が無責任に批判してはならない」という二つの原則ではないだろうか。
 マスコミそのほかの報道や国民の声、最近では、インターネット掲示板の意見など、無責任な論評が少なくない。それにたいして、左右された、判断をしてよいのか。また左右されないで法律に従った裁判を批判してよいのか。そもそも、そのような判断をした人を無責任に批評して良いのか。それまでに、判断を左右するような恣意的な報道を行ってよいのか。
 そもそも、刑事事件をワイドショー的に煽ることそのものが不謹慎でなはないのか。そこにおける無責任な発言を許してきた国民にたいして、裁判員という立場を充てることは、自分の意見ということに関して考えなければならない状況を作ったのではないだろうか。
 同時に、この文書でも過去に何度も言ってきたように、常識と法律を食い違っている人が少なくない。日本は法治国家であるのに、法律を無視した「常識論」が少なくない。正論が虐げられるようじゃ世の中では困るのである。憲法を無視して野党の党首が解散を軽々しく口にし、それを煽るマスコミに乗せられて、野党への政権交代を望むようでは、困るものである。
 そのような状況において、常に法律的にhんだんし、責任のある発言を求めるということは重要である。裁判員制度そのものに関しては、まだ初回であるし、国民やマスコミにそれだけの、インフラ、要するに法律に対する意識が全くかけている状態であるために、さまざまな試行錯誤も加えなけえばならないし、うまくいくとは限らない。しかし、そのような内容において、無責任な発言を許さない国民的な風潮が形成されるのはよいことではないだろうか。問題は、その国民的なインフラや法律に関する認識が形成される前に裁かれる犯罪者にえん罪が出ないようにしなければならない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

謹賀、天皇陛下・皇后陛下ご成婚50年

謹賀、天皇陛下・皇后陛下ご成婚50年

 1959年4月10日、今上天皇陛下(当時皇太子殿下)が御成婚された。午前10時から皇太子殿下と美智子妃殿下の結婚の儀がとりおこなわれ、午後2時30分からのパレードには沿道を埋め尽くした観衆、なんと53万人という。このパレードの模様はラジオ・テレビで実況中継され、沿道で祝った観衆以外でも、日本の全国民がこれを祝った。
 1959年といえば、ちょうど60年安保騒動のあったときで、有名な安保反対デモが国会執念を埋め尽くした年と同じである。当時の岸信介首相の「声なき声」という演説が行われたときである。このデモの最中、デモ参加していた樺美智子さんが警察隊との衝突で亡くなったことと、美智子妃殿下のご成婚により、「安保騒動は二人の美智子で終わった」とされる。
 おめでたい日に恐縮であるが、敢えて安保騒動の話をさせてもらった。私自身は体験していないが、あの国会を取り囲んだ人の波は、かなりインパクトがある。当時国会に勤務していた人に話を聞けば、衆議院議員面会所にはデモ隊・警察隊双方のけが人が多数運び込まれ、その手当に追われていたという。さながら戦争は・大災害の被災地の仮設病院のようであったという。話を聞いた人は、昭和一桁生まれで、戦争も東京代空襲も体験しているので、そのような表現になったのであろうと思われる。当日の国会職員に対しては「安全の保証ができないので、帰宅は許可しない」と事務局から通知があったという。その日は、皆がけが人の手当をしながら、国会の建物の中に泊まり込みであった。国会の外からの映像などはよく見るが、国会、取り囲まれた籠城側の話を聞くことは滅多にないので、少々興味深い話であると思う。
 かなり話はそれたが、それほどの大事件、安保騒動という大きな動きですらなくしてしまい、平和な日本を取り戻すほど、当時の皇太子殿下と美智子妃殿下のご成婚はインパクトがあったといえる。残念と言えばかなり不謹慎であるが、秋篠宮殿下と紀子妃殿下、浩宮皇太子殿下と雅子妃殿下のご成婚の時は、そのような大きな事件もなかったために、それだけ、インパクトが小さく感じられる。もちろん、社会や国民の雰囲気も異なるのであろう。
 それほどのご成婚から50年が経過する。現在の東京マラソンと同じように、東京都内のほとんどを通行止めにして、馬車でパレードをした映像は有名であるが、それから50年である。
 それまで、天皇家は後続または旧宮家華族との婚儀が非常に多かった。昭和天皇の皇后陛下は宮家である久爾家のご出身である。これに対して当時の美智子妃殿下(皇后陛下)は正田家という、由緒正しく家柄のよいが、宮家ではない平民(臣下)からの皇太子妃殿下誕生と言うことで、「開かれた皇室」という感じをもたれた。当然に、このことによって、国民の多くは皇室に親近感を持ち、また、美智子妃殿下に対するあこがれをもったものである。
 まず、少し遅れましたが、謹んで祝賀申し上げるとともに、天皇陛下・皇后陛下の末永いご多幸とご健康を祈念いたします。
 さて、昨今は、安保騒動ほどではないにしても大きな事件が新聞紙上をにぎわしている。まず至近では北朝鮮のミサイル問題。これに関しては4月10日現在(ご成婚の記念日)においてミサイルは発射されても、国連安保理の決議などは行われていない。このことに関しては、前回かなりしっかり書いたつもりであるが、ニュースは生き物であり、数日すれば状況が変わる。
 状況が変わると言えば、現在の政局も「猫の目」状態である。数ヶ月前までは、自民党の不甲斐なさが目立っていたが、3月3日に小沢一郎民主党代表の第一公設秘書が違法献金事件で逮捕されると、完全に政局も混乱の様相を呈してきた。このことに関しても、本来であれば、政策で政党を判断すべきであるのに関わらず、個人のスキャンダルで支持率が変わるというのもどうかと思う。「政策無きアンチ政府集団」「烏合の衆」と揶揄されてきた政党であり、その状態から脱皮できるかどうかが最大の問題である。逆に政策が主で有る政党であれば、代表のスキャンダルで、代表を交代しているであろうし、また政策で勝負することができるであろう。今日の、公設秘書の起訴を受けながら、任命責任も管理責任も問えない民主党という政党は、小沢個人の独裁政党に成りかねない状況を包含し、それを広く国民に示してしまった形になっている。同時に、それを受けながら指示を回復できない自民党も、相変わらず不甲斐ない。「政治家」といわれる集団が与野党関係なく、政局などに明け暮れて、全体や国の将来を見据えた政策を打ち出すことがない現状が、今日の政局の混乱を招いている。そもそも、総選挙は人気投票ではない。
 今回は、そのような中での祝賀である。実際にこれら「下々の民衆の諸問題」ではなく、やはり皇室の慶事としてとらえなければならない。今回は、今山積している問題全てについて、書かず、この慶事についてのみ記載したい。
 天皇家は、4月9日の会見でも天皇陛下ご自身が申されたとおり、「日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。」(憲法第1条より)である。そして、「国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しない」(憲法第4条より)とある。
 天皇家は国事に関することを行う日本国民統合の象徴である。そして、政治に関することは一切行わない存在である。そこで、天皇家を通して、「日本国」と「日本国民の統合」ということを考えてみたい。
 日本国は、右翼的なものの考え方をすれば、神武天皇が統治した日本国から数えて皇紀2667年目に当たる。有名な「ゼロセン」、零式艦上戦闘機は1941年、皇紀2600年に開発されたことから、その後ろ二桁をとって零式といっているのである。この「皇紀」という年の数え方が妥当かどうかは別にして、少なくとも、文献ではそれくらいの歴史を持つ国である。現在の日本の形がいつからできたのか、という話は別にしても、少なくとも1500年に近い「大和朝廷」の歴史は存在するのである。
 「継続は力なり」という諺があるが、基本的に1000年を越える王家(天皇家)が続いているのは世界ひろしといえども日本だけである。歴史があるということはそれだけで強い。この件だけではアメリカに比べて完全に優位に立っているし、歴史は有っても、中国には皇帝はいない。ヨーロッパも同じ王朝がローマ帝国の昔から継続しているのではないのだ。当然に、日本が島国であり、単一民族でありといった条件が整っているものの、それでもこれだけの歴史の変遷を維持してきたのは歴史上奇跡に近い。
 一つの王政が継続すると言うことは、支配関係や統治機構が安定しており、同時にそれを受け入れる日本人の国民性が安定しているということになる。これこそ「日本国民の統合の象徴」と言ってよい。日本司を紐解けば、天皇親政賭言う期間はあまりないかもしれない。平安時代でも、藤原摂関家が政務を執っていたり、平清盛が専横していた。その後鎌倉幕府・室町幕府・戦国時代を経て江戸幕府になる。その間後醍醐天皇による建武の親政が有ったが、それ以外に親政はない。しかし、摂関家も、幕府としての地位を確立する征夷大将軍も、全て天皇が任命しているのである。その意味では、天皇家そのものの制度に基づき、政治が行われているのである。弓削道鏡や、一部の説では織田信長など、天皇になり変わろうとした人もいるが、いずれも成功した事例はない。もちろん、南北朝のように血筋が分かれたことがあっても、基本的に天皇家が継続していることには代わりはない。
 現代の政治もそうである。天皇は「国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しない」とあるが、逆に国事は天皇が行うのだ。国事とは、内閣総理大臣の任命や国務大臣の認証。法律の公布や国会召集・衆議院の解散・各国の大使公使などの接受などがこれに当たる。歴史上の征夷大将軍の任命と同じように、行政府の長の任命は天皇が行う。実際国政には関与しないとは言っても、かなり重要な仕事をしているのだ。まさに日本国の象徴である。
 国政に関与しないながらも国事を行うとは、どれほどの重労働であろうか。肉体的にもさることながら、精神的な気苦労は計り知れない。象徴としてそれら国事を行うに関わらず、国政では意見も言うことはできないのである。また、国民の象徴として、気分が優れなくても何でも、感情を表に出すことなく、象徴としてあり続けることは、言い方は不謹慎であるが、並大抵の人物でできることではない。
 さて、歴史があると言うことは、それだけ成功も失敗もあったと言わざるを得ない。上記のように、全て「大和朝廷依頼の天皇制下の統治機構」で有る以上、直接的な責任はなくても、やはり何らかの責任はあるのかもしれない。任命責任とか道義的とか、適当なことを言う人は少なくない。また、外国の人がそれを言うのは、何となくわからないでもない。団体に対する批判は、その団体の長に集中する。会社であれば社長がそうなる。しかし、日本人がそれをするのはどうか。天皇家は「日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。」とあるとおり、国民の総意で有る存在だ。天皇を批判する日本人は、「国民の総意」を無視すると言うことであろう。そもそも、まず自分で、国民として批判に対する回答、たとえば食材の行動を起こさなければならない。自分はなにもせず、天皇や国家に責任を転嫁して、自分は批判側に回ることで責任はないかのような顔をしている。
 日の丸君が代問題も同じ。日本が伝統と歴史のある国であればこそ、国旗・国歌にはよい歴史も悪い歴史も存在する。戦争という一事をもって、全体を否定することのナンセンスを考えるべきである。自分たちの歴史に誇りと責任を持ち、その上で現在の自分のあり方、将来の国の姿を考えるべきであり、自分たちの歴史を否定することはできない。ましてや、国歌や国旗を否定しても何の解決にも成らない。今年の民主党党大会には国旗掲揚がなかったが、彼ら民主党は憲法も歴史も否定するつもりであろうか。本当に反省の意を考えるのであれば、国歌斉唱・国旗掲揚を行い、その上で日本の歴史上の様々な失敗を思い起こし、反省を促すべきである。彼らには責任転嫁の意識はあっても、真に歴史と向き合い成功したことをほめたたえ、悪かったことを反省する態度が掛けていると意わざるを得ない。現在の民主党の政治そのものが、それら考え方の通りになっているのは、私の考え違いであろうか。
 話はそれたが、長い歴史であれば、当然に他者他国から批判を受けることはある。天皇陛下ご自身にもそのことを考え、何らかのご意見があると思うが、国民の象徴として個人の意見を控え、ずっと耐えられている。
 国民は無責任だ。そのような歴史のことならばまだしも、昨今では天皇家の家庭内のスキャンダルまで取りざたしている。報道はいろいろあるが、真相は分からない。報道以外でも話を聞くことはあっても、確かめようがない。しかし、特に女性誌であるが、有名人のスキャンダルを昼のメロドラマ的に脚色し大騒ぎする。自分のことは人に見せたくないが、他人の内側には遠慮会釈無く入り込んでくる、日本人のもっとも嫌らしい部分がここに入ってくる。天皇陛下ご自身、これにはかなりご心痛とのことで、昨年12月のお誕生日の会見を体調不良で中止されたくらいである。このことに関しても、どうにか成らないものかと思う。歴史の件もスキャンダルの件も、何故日本人は自分で自分の国の象徴を汚すのか。理解不能である。
 ひとえに、憲法での記載とか、上下関係とか、そういった学歴とは関係のない、礼儀と言った部分が決定的に掛けてしまったのではないだろうか。
 天皇陛下ご成婚50周年。これは、間違いなく祝うべきことで有ろ、喜ばしいことだ。そして、それを素直にお祝いするという雰囲気を日本人は持たなければならない。しかし、そのようになっていない。これは、教育やマスコミ報道に大きな誤りがあったからではないか。そして、憲法というと9条しかないかのごとく大騒ぎをする頭の悪い政治家が少なくないからではないだろうか。歴史に関する考え方も同じ。伝統を持つことの重要性をまず認識すべき。当然に長い歴史の中にはいろいろと有り、その歴史をふまえ伝統を守り、またよいことを尊重し、悪しきことを反省して将来よい国にするために今なにをすべきか考え行動することが重要である。その意味で、世界でもっともな外報にはいるにほんの天皇家とその歴史・伝統を尊重すべき教育をすべきであろう。
 日本人は、なにか負の方向に行くと、それを否定し、それをさげすみ、責任を転嫁し、自分は関係ないかのような逃げを行う。私が世界各国に出張しいろいろな人と話をすると、そのような日本の行動そのものに疑問を持つ人が少なくない。もっと言えば、そのような行動、たとえば国歌国旗を尊重しない人々や、南京大虐殺・従軍慰安婦の報道(事実だけでなく感想などを混ぜた変更報道を指す)、天皇家のスキャンダルの報道など、それら、自分の国を尊重し自分の国の歴史に誇りと反省をもてない国民性が、もっとも信用を失う原因となっている。先の戦争での行為よりも、それら現代の報道などがもっとも信用できない行動となっている。特に、国歌国旗を尊重しない行為は、教員が行っているという事実をもって、「日本人は一人一人が反省することを教えず、他人(天皇)に責任転嫁して、臭いものに蓋をしておしまいにする汚い国民であり、その態度や精神を教えている。」と批判を受ける。彼ら教員は、これら批判に対してどのように答えるつもりだろうか。
 天皇家と日本の歴史について、本来であれば祝賀の意を示すだけであまり様々なことを書く必要は無いのかもしれない。このように歴史にふれることそのものが、祝賀に関する記事において不謹慎であるならば、謝罪をしたい。しかし、現在の天皇陛下は、それらの批判を一身に浴び、それに対処されながら家庭を守り、暖かい一家の繁栄を守る。その姿の中で、皇后陛下とともに、決して平坦ではない50年を一緒に支え合い、歩まれてきたお姿は、普通の金婚式と違う大きな意味合いがあるのではないだろうか。
 記者会見で両陛下がお互いに感謝状を出したという。ほほえましく、また、祝賀の意を示すとともに、伝統と歴史を守り、そして、その上にしっかりと立脚して、将来の日本国と国民の統合を、我々国民一人一人が認識し。世界に恥じぬ行動を心がけなければならない。また、いかなる時も、感謝の心を忘れては成らない。そのように身が引き締まる思いがする。
 改めて、天皇家のご発展を祈りながら、ご成婚50年をお祝いしたい。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

北朝鮮「人工衛星」打ち上げ通告の脅威

北朝鮮「人工衛星」打ち上げ通告の脅威
その中、金英日北朝鮮首相中国訪問、温家宝首相と会談へ

 3月12日。北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)は4月初旬に「人工衛星」の打ち上げを発表した。これに対して、六カ国協議参加国を初めとする関係各国は、自制・自重と打ち上げを強行した場合の対応策を打ち出した。
 そもそも、問題は朝鮮半島非核化とそれによる周辺各国の安全と言うことが絶対定義になる。世界各国で非核化と核不拡散条約があげられており、そこに違反して核兵器や核施設の建設・研究をしているところは少なくない。北朝鮮以外は、イランが最近話題にななっているくらいであろうか。
 北朝鮮は、ここでは何度も記載しているが、「戦時中」である。韓国、北朝鮮国境は停戦ライン、または軍事協定線と言われており、国境ではない。当該ラインを無許可で超えれば、当然に銃殺される可能性がある。これは通常の国境違反と異なり、戦時中であるために、国境侵犯は戦闘行為と見なされるためである。
 核兵器は、1945年のヒロシマ・ナガサキの原爆投下とその被害を見れば明らかなように、その破壊力が大きいばかりでなく、戦闘員以外の一般人の被害が非常に大きい。誇大表現ではなく、都市機能を一つ完全に喪失するだけの威力では存在する。
 戦時中の国家が、長期間にわたり戦闘行為が行われていないにせよ、戦争中に核を持てば、当然に核の兵器転用が促進され、同時に、周囲に脅威を与えることになる。
 そもそも、核兵器は「使われることのない兵器」である。核兵器は「使用するぞ」という脅しにして外交交渉を有利に導く道具である。実際に核兵器を使用すれば、当然に国際社会からのバッシングも大きくなるし、相手国は壊滅状況になるので、意志決定などができなくなるだけでなく、その後の国民感情は押さえられない状況に成るであろう。戦争という行為において、戦闘に勝つということだけを目的としているのであればそれでも使用することができるであろう。地下資源だけで、全国民を全滅させるというのでもよいかもしれない。しかし、実際は政治交渉上における交渉手段の一つとして戦争は行われる。主に政治体制を変更することによって、自国の主張を通りやすくすることが戦争の目的であろう。「自国の主張」が、宗教や民族優位、経済、領土領海、地下資源など様々な内容になってくる。古くヨーロッパや中国での三国志などでは女性を原因とした戦争もあったようであるが、現代社会ではなかなか考えづらいものである。当然に相手国の占領と植民地統治と言うこともあるが、そこまでの想定も現代社会ではなかなか存在しない。

 中朝有効60周年記念式典に出席のために金英日首相は、17日に北京を訪れた。なにが話されたかは全く公開されていないが、今後のアメリカ外交に関して話し合われたと聞く。
 中国にとっても北朝鮮が核兵器を保有することは望ましいことではない。当然のことながら、中国は自分の核の傘にはいる保護課の国が一つでも欲しいのだ。言い方は悪いが属国という感覚である。紀元前、卑弥呼の時代から中国は朝貢貿易の風習が抜けていない。国家百年の計というが二千年で培われた国民性は、なかなか抜けるものではない。北朝鮮は、地下にウランという放射性鉱石と、マンガンやチタンといったいわゆるレアメタル、カロリーは低いが石炭などの地下資源が豊富に存在している国である。経済的に貧困であるが、それらをうまく活用すれば眠れる秘宝の国である。中国がこれらに反応しないはずはない。
 しかし、北朝鮮が核兵器をもったら、「朝貢貿易」ではなく、対等貿易になってしまうのである。多分、北朝鮮が核兵器をもったとしても、中国と戦争をすることはないであろう。また、「戦の勝敗は水物」とはいえ、双方が核兵器をもった戦争でも、中国が北朝鮮と戦争して負けることはあるまい。しかし、核兵器がひとたび発射されれば、中国といえども無傷ではいられない。結局その心理的な圧力により、一方的な支配関係は維持できなく成るであろう。そうなることは、中国といえども望んではいない。あくまでも自分の都合のよい属国でいてもらわなければならないのだ。 
 チベットが似たような感じであるし、シンチャン・ウイグル自治区や内モンゴル自治区も同じであろう。これをもって中国が身勝手というのはいかがかと思う。いずれの国でも為政者は、他国に制限を強いても、自国民の有利な生活を維持する。後は考え方で、日本のように、有効関係と経済関係で結びつきを深めるという方法と、アメリカのように軍事と軍需産業という機軸で考えるか、中国のように自治区など形を変えながらも、同じ中国として支配をするのかという違いであろう。

 さて、今回問題になっているのは、北朝鮮のロケットの発射である。北朝鮮は公式には人工衛星の打ち上げを主張している。人工衛星の打ち上げロケットと、核兵器はなにが違うのか。結果は一緒である。俗に三段ロケットというが、一段目で推進得て大気圏外に打ち上げ、二段目で大気圏内に再突入し、三段目で推進して目標座標に当たる。その三段目の「弾頭」に人工衛星が乗っているのか、または核爆弾が乗っているのかの差でしかない。
 要するに、核を放棄していない、なおかつ休戦とは言え戦争中の北朝鮮という国家が、大陸間弾道弾でいつでも核ミサイルに転用できるミサイルの発射を行うと言うものである。その上、そのミサイルの射程距離はアメリカのアラスカ州を覆うほどの距離といえる。どう考えても関係諸国、射程内の諸国は安閑としていられない状況になっているのだ。

 これに対して、日本は・・・と書きたいところだが、私は、この件を主題にまず韓国に出張してみた。アメリカに行くべきとの批判もあるかもしれない。しかし、この問題を契機に戦争などの軍事行動に発展する場合、もっとも大きな影響を受けるのは韓国である。日本やアメリカは、戦争になっても、ミサイル・飛行機・船などを使用し、海を越えなければ直接的な被害は存在しない。しかし、韓国の場合は、現在休戦中と戦争状態が継続していること、そして陸続きで、徒歩で戦争が可能であることなど、もっとも大きな影響が出てくることになるからだ。
 韓国の北朝鮮に関する態度は、なかなか微妙である。金大中政権依頼「太陽政策」として、北朝鮮との有効と国交回復、それに伴う北朝鮮要求の甘受を基本路線としていた。昨年1月に、李明博大統領になって、北朝鮮に対する強硬政策に転換する。これに伴い、北朝鮮の金剛山観光の共同開発や、経済交流などが全て中止となりった。折しも韓国人観光客が北朝鮮内で観光中に射殺される事件もあり、李政権に関しては、それらが追い風となった。当然に自分たちの要求が受け入れられなくなった北朝鮮は、韓国李明博政権への反発を強め、本年3月に行われた米韓共同軍事演習の時は、両国の通信を行わないというような状況にまで成ったのである。
 このような政治的な流れで有りながら、韓国人は北朝鮮に対する反感が強まっているものではない。基本的に同一民族であるという感覚が有ることや、北朝鮮に親戚がいる韓国人も少なくない。言語が同じであることも他国に対する感情と異なる部分であろう。
 同時に、戦時中・休戦中とは言え、現代社会の中で戦争が起きると言うことを現実的に受け止めている韓国国民は少ない。韓国国民において、徴兵制と軍事教育は必須であり、義務であるが、それが北朝鮮との戦争と言うことで結びつく人も少ないのだ。その辺の「平和ボケ」は、日本の若者と代わりはない。日本と違うのは、国会議員の中に平和ボケがあまり浸透してないために、これらの対策と情報収集は全く怠らないし、そのことに対しては国益を重視する立場から政局論にならず、国民も一致して国家の利益を議論することである。この、国家に対する感覚は日本とは異なる。
 そのような韓国において、今言われているのは、太陽政策を推進した金大中元大統領へのバッシングである。金大中政権の行った太陽政策に関する考え方を「南北協調によって、北朝鮮の地下資源と工業力を南北朝鮮のために利用し、また戦争の脅威をなくすことによって、軍事費などをなくして南北の経済発展に寄与する」という洋に理解されている。その上でまず北朝鮮に対する支援を行い、その支援に呼応して北朝鮮からのメリットを享受すると言うものである。しかし、結果は金銭や支援物資をとられただけで、そのうえまだ足りないとして、結局韓国として利益はなかった。地下資源は中国が格安の値段ですでに押さえており、韓国は支援をさせられただけで、何のメリットもなかったのである。同時に、その支援の金銭でミサイルを作られたのである。韓国国民は、金大中元大統領へのバッシングを強め、ノーベル平和賞も返還すべきだとして大きな声になっている。現在時点で太陽政策を支持する政党は韓国では肩身が狭いようだ。それどころか、ハンナラ党関係者は「あのとき北朝鮮に渡した資金が有れば、現在の経済危機を脱出する資金となり得たはずだ」という。それは、現在の与党のいいわけにしか聞こえないが、それでも韓国国民と韓国経済に、太陽政策を推進した年月と資金の影響は計り知れないものである。
 その韓国において、今回の北朝鮮のミサイルに関しては、当然のことながら大きな事件として扱われている。アメリカのマスコミ記者が拉致拘束された事件と一緒に、連日韓国のニュースではトップニュースである。26日の韓国のニュースでは、北朝鮮のミサイルは組立が終わっており、その弾頭部分は覆われていてなにが入っているのかわからない、というものである。人工衛星なのか、核弾頭なのか、模擬弾が入っているのかは全く不明だという。現時点で燃料が積み込まれたものでもないが、燃料さえ積めばいつでもミサイルは発射できる状態であるという。また、この件に関して、38度線周辺での軍備増強は表面的に増加された形跡がないということも併せて報道されていた。しかし、米韓軍事演習の時に38度線の軍備が増強されているので、平時の体制では無く、警戒態勢が続いているといえなくはない。
 韓国国内では、40代前半までの男性は、戦争(戦闘状態)が始まれば、すぐに予備役召集が行われる。そして、女性と老人と子供は、優先して南方(プサンなど)への避難(この場合は疎開というのであろうか)が支持される。それでも足りない場合は、船で国外(地理的に日本がメインとなるが)へ一時避難するように言われており、そのことが日本で言う官報のような政府系広報誌で言われている。この場合、飛行機はねらわれるし、空港もしようが難しいと考えられるので、船を使用するように具体的な指示があるようだ。今回のような危機になれば、当然に他のマスコミ手段でも同じような報道がされるであろう。ミサイルが飛んでくるかもしれないとか、迎撃できないかもしれないなどと行っている日本とは大違いの具体的な避難指示が平時から出されているのである。危機管理に関する考え方は、韓国の方が進んでいると言わざるを得ない。 
 町ゆく人の多くに同じ質問をしても、やはり戦争になった場合などきちんと答えられる。「平和ボケ」は仕方がないにしても、自分たちや祖国に関する考え方がしっかりしている。個人個人で考え方の違いはあるものの、それなりの備えもしているようだ。中には戦争を行えば焼け野原になるので、その場合の復興をどうするかという議論をする者までいる。
 韓国政府は、現在支持率が低いが、その支持率低迷の原因は、主に経済政策であり、危機管理や安全保障に関することでは、国民はきっちりと政府を評価している。海賊問題や北朝鮮のミサイル問題などで意見が割れる日本の国会とは大違いだ。何でも反対する日本の野党は、真剣に国家の安全保障を考えているのか、このように韓国など諸外国の危機管理状況を見ると不安に刈られる。

 その不安に刈られる日本の対応である。
 日本は、拉致問題など北朝鮮との間に横たわる問題はいくつか存在するものの、韓国と決定的に違うのは「戦争状態にはない」ということである。もう一ついえることは、先にも挙げたが、北朝鮮とは海を越えなければ戦争も被害も発生しないという点である。この分、日本の問題はミサイルなどの着弾地点以外での避難指示までは、危機管理上必要がない。逆に、海と空の防衛をしっかりすることが最も重要である。その点、数年前ではあるがPAC3というミサイル防衛システムを、野党の反対を押し切りながらも導入した。今の報道によれば、27日の安全保障会議で正式にミサイル撃墜の指示を出して、このシステムを稼働するという。アメリカ海軍も最新鋭のイージス艦を5隻、日本近海に派遣して軽快に当たっている。個人的には、自国の警戒ぐらいはアメリカに頼らずに日本の自衛隊でできて欲しいが、逆に安全保障条約の趣旨に照らして、アメリカ軍に実行してもらうこと、協力を仰ぐことも重要であろう。このミサイル防衛システムが、完全に作動するかは不明であるし、当然に不安な面もある。導入時の実験では、100%の結果を残せていない。しかし、なにもしないよりは行動を起こすべきである。戦争に100%はない。その防衛、または戦勝という目標達成を100%にするために努力や訓練が必要であり、危機を前に使用しないという選択肢ならば、装備しない方がましである。
 この防衛に関しては、今のところ野党各党から、反対の意思表示はされていない。国防という国家的危機の前で、政局論は不要である。もちろん、小沢代表の西松建設不正献金事件で、野党各党はそれどころではないという事情もあるのだろう。しかし、なにか一つの事件が出てきたら、他の国難が置き去りになってしまうというのであれば、とても政権など担当できる者ではない。早くけじめとつけて、政局論を捨て、国難に対処する態度が必要であろう。
 もう一つ、在日朝鮮人問題がある。このように書くと、すぐに在日批判と受け取られるが、逆にそのような目からの保護と言うことも考えなければならない。大正時代の話になるが、関東大震災の時にデマで殺害された在日朝鮮人が非常に多くいた。現在もそうならないとは限らない。差別とはそういうものである。日本人に在日朝鮮人に対する差別が全くないとは言わない。また、完全に払拭することも難しいであろう。私が考えるところ、差別とは差別する側にもされる側にも問題がある。初めはとにかく、現代になれば、差別する側もされる側も「差別視ありき」という認識からスタートする。「どうせ迫害されているから」「自分たちが正当に扱われるはずがない」「どうせ最後には裏切られる」など、差別視から生まれる認識の弊害は非常に大きくある。 
 日本は、この問題を長く放置しすぎてきた。民主党の議員の中には、在日外国人にも参政権を与えるという主張もあるが、「在日外国人」の定義をしっかりしなければ、外国から大量に流入者がでた場合の歯止め、もっと言えば外国が日本政府をコントロール下におくために、そのような手段を使うこともできてしまう。今回は参政権の問題を議論するのではないので、この辺にするが、基本的には定義と資格の問題であると考える。
 これらの問題が、もしものことがあった場合に、一気に膿となって出てきてしまう。そして、今回のミサイル発射は、十分に「もしものこと」に成りうる危険性をはらんでいると認識できる。

 最後に中国とアメリカの対応を考えて、その後にこの文書の結論を見てみよう。
 中国は、表面上ミサイルの発射に対して自制を求めている立場だ。しかし、石油のとれない北朝鮮がミサイルをとばすためには、どこからか、ロケットをとばす燃料を得なければならない。先に挙げたように属国と思っている北朝鮮が、力を付けて対等になるのも好ましくない。しかし、中国がウランやマンガンといった北朝鮮の地下資源を入手するためには、何らかの貿易を行わなければならない。そのためには石油資源や石油製品がもっとも有用である。中国にしてみれば、地下資源と引き替えにロケット燃料を売ることと。その売った後の燃料が使われることは別であるという解釈になる。
 同時に、中国には二つの問題を抱えている。退役軍人問題と人口の増加である。中国は国家体系から、基本的に全人口の2割にあたる都市生活者からの税金で全てをまかなっている。残りの収入は「増値税」といわれる間接税。日本で言うところの消費税である。これは例外なく全ての取引が対象となる。日本のような老人はなしとか食品は少なくして欲しいという議論さえもない。国家公務員は全て三食の食費と住居、制服が支給され、少ないながらも小遣いも国からの支給になる。中国は、当然のごとく一党独裁の国家である。中国全土に広がる組織は二つしかない。あとは省毎に全てが分断され、その省の中でも市町村ごとに人と情報の隔離政策が採られている。その中で中華人民共和国全土に広がる組織は、中国共産党と人民解放軍の二つの組織しかない。
 軍事や物流に関しては、中国は人民解放軍が一手に行う。これに反する動きをすると、完全にバッシングを受ける。佐川急便事件などはその影響であるといえるし、法輪講も、共産党に変わる全国組織を作ったことが原因とささやかれる所以である。物品の輸送制限と情報の規制によって、中国という巨大な他民族国家が維持されていると考えられている向きは少なくない。その、人民解放軍の定年は55歳。退役軍人は当然退役軍人の年金で養われているものの、よほど次の資金がなければ、生活には困窮する状態だ。中国では、貧農と退役軍人のデモは日常よく見ることのできるニュースの一つだ。その上、都市部・農村部に限らず人口の増加が認められる。結局、富の集中と言うこともあるが、これらを含む十億人以上の国民(人民)を、飢えさせない(餓死させない)ことにはよほど注意が必要である。しかし、インターネットの時代になり、また改革解放で外国の情報が入るに至り、その押さえも徐々に聞かなくなってきているのだ。
 中国の政府関係者と電話で話をした。
 「一般論として、世界の食糧問題を解決する為の、もっとも近道は、戦争である」まず、大きな部分から入った。
 「たとえば、中国とインドが核戦争をすれば、少なくとも世界の60億人の人口のうち5分の1である12億人程度が死ぬ。そうすれば、現在の世界の食糧自給で十分にまかなえる」という。
 かなり過激は発言だ。
 「しかし、そこまで大きな戦争をするほど、中国インドもバカではない」とのこと。
 「戦争は自国を有利に導くためにするのだから、世界の食糧自給率のために二つの国が戦争をすることはあり得ない」当然の帰結だ。
 しかし、彼の意見は、ここからが日本人とは完全に異なる主張である。
 「そこまで大きくない、たとえば朝鮮戦争のような小競り合いは、人口の調整にとって最も有効な手段である」
 彼の意見を集約するとこうだ。
 中国が中国政府として戦争を行った場合、その被害は面子を含めて大きなものになる。現在中国も改革解放が続いており、経済上も情報の上でも、もちろん外交上も管理が難しくなってきている。このような状況を打開するには、国外にて気が行ることがもっとも有用である。しかし、インドとの戦争の話のように、政府主体ではなく、義勇軍のような非正規軍が第三国の戦争に大量に出かけてくれるのがもっともよい。そこに退役軍人や貧農が、一時金目当てに参加してくれれば、中国の統治上最も有効な人口管理になる。その意味では、朝鮮半島や台湾での緊張状態は非常にありがたい。
 台湾に関しては、馬総統になってから緊張が緩和したので、今は北朝鮮に期待している。北朝鮮に原材料(燃料)を出しながら、政府としてはミサイル発射や核の保有に関して反対するという立場になる。後の選択肢は北朝鮮のものだ。
 ようやくすればこのようなことである。中国は、内部の矛盾を外国の戦争で解決しようとしているというのだ。政治学的には排外主義外交である。
 この意見は、中国の政府関係者と話をしただけであり、中国政府の総意ではない。当然に正規な意見でもない。単なる個人的な意見である。しかし、政府関係者の意見として、あまり軽く聞き流すこともできない。
 この意見について、韓国で意見を求めたところ、「あり得る話だ」と話した上で、「前の朝鮮戦争の時も、中国が多くの義勇軍を出し、義勇軍を出した一家(家族)に給付金を出していた。もしも次に戦争が起きた場合も、同じことをするであろうことは予想できる」という。
 
 一方、アメリカについて考えれば、極東の小さな半島の戦争を本気を出して押さえる気はしない。イラクやイランは、石油という目の前の利権があるので、その利権のために軍隊を派遣することは国益にかなった話である。一方、朝鮮半島に関しては、レアメタルやウランなどの地下資源はあるが、戦争をしたところで、それらの利権を手に入れることが可能かどうかは疑問である。完全にその利権を手に入れるためには、どうしても「宗主国」である中国と戦争をしなければならない。中国主導権を確立するために、中国が貿易する地下資源のためにアメリカが国民を犠牲にすることはない。過去、日本が拉致問題や反共という名目でアメリカに注文を出しても、また中流アメリカ軍に多大な思いやり予算を出しても、アメリカが本腰で動かなかったのは、国民の命との天秤の結果によるものだ。
 しかし、今回は違う。今度発射する大陸間弾道弾、通称テポドン2は、射程範囲内にアメリカの国土、グアムやサイパンではなく、アラスカが入っているのだ。下手をすれば、先手でミサイルを撃たれてアメリカ国民が核の犠牲になる可能性がある。今回は同じアメリカ国民でも、アラスカ市民とアメリカ軍の比較になる。アメリカは伝統が少ない国であり、また国民が抵抗件を留保している国である。全権を持った大統領は、無条件で全ての現象の責任を負わなければならない。リーマンショックによる経済危機もイラクからの石油の輸入が不安定であることも、イスラムのテロの危険にさらされていることも、テポドンの脅威に国民が安心して生活できないことも、全て大統領の責任である。
 ブッシュ前大統領は、ヒル国務次官補を専任にして、少なくとも北朝鮮の非核化という名目で北朝鮮の核兵器の廃絶を目指した。しかし、オバマ政権になって、対アジア強行論になることが明らかになってから、韓国の李明博大統領の反太陽政策と相まって、北朝鮮に対する政策が、懐柔路線から強硬路線に変化した。これに伴い、北朝鮮は、六カ国協議の合意を反故にし、再度核開発を行い、今回の人工衛星打ち上げに至るのである。強硬派としてはこれを看過することはできず、当然に抗議しながらも武力的な圧力を掛けている。
 この武力的な圧力に対して、北朝鮮は反発を強め、当然にこれらに対して「武力的な圧力こそ宣戦布告に近い示威行為である」と応酬する。国連安保理に付託すれば、人工衛星の打ち上げであることを協調し、宇宙の平和利用を迫害し、不公平を助長するものであるとしてその決議への反対を呼びかける。
 アメリカは、中国やロシアと戦争はしたくないし、北朝鮮にミサイルや核兵器を持たせたくないという事情がある。この事情のために、湾岸戦争の時の多国籍軍を作るように動くが、中国やロシアの拒否権でどのようになるかわからない状況である。また、対アジア強硬派の民主党では、それらに関する根回しもなかなか難しいであろう。これらからして、今回のミサイルは別にしても、今後の朝鮮半島の非核化に関しては、ハードな外交が継続することに成るであろう。

 さて、今回は韓国に取材に行ったこともあり、かなりの長文になってしまった。文章を二つに分けることも考えたが、あまりにも面倒なので、そのままのボリュームで出すことにする。

 結論として、各国ともたとえば安全保障条約が有ろうと無かろうと、他の国交が有ろうと無かろうと、国家における戦略とビジョンがあり、国益の保護や国民の安全という守らなければならないものがあり、それが第一優先で今回のような、危急的外交関係に当たっている。他国のことや、世界平和は、自国の権益を守るための方便で、まずは自国の国家ビジョンが優先されることは明らかである。
 では、日本にそれがあるのか。とき、あたかも小沢民主党党首の西松建設不正政治献金事件の真っ最中であり、政局論と選挙がほとんどである。それも選挙といっても与野党のスキャンダル合戦では話にならない。国民の成熟度が低いから、そのようなニュースで一喜一憂するのであるが、政策論争をしっかりと行うには、スキャンダルや政局論によるイメージ選挙ではなく、野党が与党や政府の政策に対して、政策で批判または評価をしなければならない。それができず、閣僚のスキャンダルと支持率ばかり気にしているから、野党第一党の代表である小沢一郎の金銭スキャンダルで足を救われることになる。普通に、政策論を戦わせていれば、民主党や小沢一郎の支持率急落も無かったであろう。
 小沢西松献金事件は別にして、このように安全保障など国家の大事を含め、政策論争がしっかりとできていない。隣の韓国や中国なども含め、政策と国家の中長期ビジョンと言う面では、日本は国際的にもっとも遅れている国の一つかもしれない。今回のような安全保証問題、またはソマリア海域の海賊問題などを含め、日本の国家を維持するために必要な「安全」「生活」「世界平和と交易」「福祉」などの保証に関して、外交や防衛だけでなく、食料自給率や二酸化炭素排出の問題など、全てを横串的に、関連する全ての問題を含めて、議論しビジョンを持たなければならない。
 今回の北朝鮮のミサイル問題は、日本にとって日本の国家のビジョンを国際社会から、そして国民から、与野党を問わず政治家やそれに携わる人全てに突きつけられた「踏み絵」であろう。私なりの考えはあるが、他の人の話も聞くべきであろう。
 私は、政治家にあって話を聞くときに、なるべく「10年後と50年後と100年後の日本はどうなっていますか」と聞くようにしている。現在の日本の政治家で、これをしっかりと答えられる政治家は本当に少ないのに驚く。政治家である以上、この日本という国をどのように導き、そして、子供や孫の世代にどのような日本を残すのか、ビジョンのない政治家には退場願いたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年3月 | トップページ | 2009年5月 »