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ヒ素カレー事件最高裁判決でる。裁判員制度と死刑判決について。

ヒ素カレー事件最高裁判決でる。裁判員制度と死刑判決について。

 4月21日。午後3時からの最高裁で、今から11年前の8月に起きたヒ素カレー無差別殺人・殺人未遂事件に関する判決がでた。被告人林真須美に対して二審の死刑判決に対する上告が棄却され、死刑が確定した。
 ヒ素カレー事件とはどんな事件だったか。
 11年前和歌山県の夏祭りにおいて、地域住民が皆で当番制で作っていた無料で出されるカレーに、林被告が砒素を混入し、その砒素中毒により、小学生・高校生を含む4人が死亡、17名が砒素中毒で入院加療となった事件である。その後の捜査で、林被告の自宅から発見された砒素と、混入された砒素の化学的な特徴が類似していること、林被告がカレーの鍋に一人で近づき鍋のふたを開けたと言う目撃証言があることなどがあがった。しかし、捜査から昨日の判決まで、状況証拠しかあげられず、客観的な証拠がなかったこと、そして、林被告が一貫して無罪を主張し、自供が得られなかったこと。それにより動機が不明であることなどが争点となり、また死刑という量刑が妥当であるのかということが注目された。特に、来月から始まる裁判員制度との関係で、様々なことが言われている。
 さて、ニュースや新聞を見ていると、様々な論点が整理せずに出されている。十数分の尺で様々なことを言わなければならないし、なにもわからないコメンテーターが目立ちたいばかりに新視点かのようにいろいろというので、まとまりがないのも仕方がないのかもしれないが、結局視聴者にわかりにくい報道になってしまっている。
 そんなことで、論点を整理しよう。
 まず、個別事件の死刑判決について、状況証拠と動機の解明なしでの有罪確定は妥当かと言うことである。
 第二に、状況証拠と動機の解明内情強での死刑という量刑は妥当かということであろう。
 二つの論点は似通っているかもしれないが、一つ目は罪刑論・刑法各論であるのに対して、二つ目は量刑論である。二つ目の論点には死刑廃止論という論点もあるのかもしれない。
 最後に、裁判員制度についての是非。すでに決まったことに関して、是非を問う必要はないが、運用と、そして裁判員として国民一人一人が考えなければならないことを、そして、その裁判員に影響を与える報道の公平性や責任と言うことも言及しなければ成るまい。
 恒例により、といっても最近ではあまりしていなかったが、私の個人的な意見から。まず、罪刑論に関しても量刑論に関しても妥当と思う。理由は後に記載する。裁判員制度に関しては、いろいろと言っているが、実際皆心の中で「無責任な」裁判の批評は行っている。法律の根拠などが無くても、マスコミの報道を元に様々な批評をしている。今、求められているのは無責任な発言の可否であろう。裁判員として、資料を見、捜査の報告を受けながら、責任ある自分の意見を言うことができるかということであろう。と言うことで、裁判員制度に関しても、影響のあるものではないと考える。
 一つ一つ論点を考えてみよう。
 まず罪刑論。つまりは死刑という刑が妥当かということである。
 日本は法治国家である。過去にも何度か書いてきたが、日本国民が刑に服さなければならないときには、それなりの手続きが必要だ。刑法上、その罪刑言い渡しが認められるのは、「罪刑法定主義」「違法性」「責任」が全て被告人において認められる場合でなければならない。
 「罪刑法定主義」とは、予告なしに逮捕されて有罪が決まることはないということだ。逆説的に言えば、法律としてあらかじめ、どのような行為をしたら罪になるのかと言うことが決められている。刑法ばかりではない。商法や有価証券に関する法規にも刑罰規定は存在するし、麻薬取締法・道路交通法など、刑法のように思われていても、そうでない法律も存在する。これら法律は、国会で審議され、少なくとも官報で公開されている。関係省庁に行けば、説明を受けることも可能だ。基本的に公開された情報であるということができる。公開された情報を「知らなかった」と言うことは許されない。要するに、法律で罪刑に値するという行為をすれば、罪刑が問われる。
 「違法性」とは、その行為が違法に行われたことかどうかと言うことである。同じ行為をしても、罪が問われない場合があるのだ。たとえばスピード違反。通常スピード違反をすれば免許取消などの処分を受けることになる。しかし、警察や消防・救急車・ガス水道電気の緊急車両は、緊急時に限って、赤色灯を点灯しサイレンを鳴らすことによって違反でなくなる。当然にスピード違反をしても、それが違法ではないからだ。電気・ガスなどの民間会社にも認められている。このほかにも、正当防衛も違法性がないと判断される。人を殴れば暴行・または傷害罪になる。しかし、相手がナイフなどをもってきていて抵抗しなければ自分が殺されるという時には、有る程度の抵抗権は認められる。同じ、人を殴ると言う行為をしても、違法性がないとして、罪にならない。このように公共の利益または、その行為を行わなければならない緊迫制の事由が存在する場合は、違法性がないと判断される。
 最後に「責任」である。その人に責任のない行為は、罰せられない。心神喪失状態で行った場合、精神病患者などは犯罪を犯しても責任能力がないとされる。ニュースなどでよく見るのは、重大犯罪などの報道の時に、精神鑑定を求めるのはこのことである。この場合、その犯罪者には責任がないということになり、刑法上は無罪となる。当然に、次に精神上の問題で、また犯罪になっては困るので、精神病院において加療され、その後も観察が付くようになるのであるが、前科が付かないなど犯罪者としては扱われなくなる。
 さて、今回のヒ素カレー事件に関して、検証してみれば、まず罪刑法定主義における財形に当たる。「砒素をカレーに混ぜて不特定多数に食べさせれば、人が死ぬかもしれない」という故意が存在する。ヒ素は間違いなくカレーの調理において過失ではいるものではない。ということは何らかの故意が働いたことは間違いがない。要するに「人が死ぬかもしれない」と思いながら「故意にヒ素を混入した」ということになる。これは、「殺意を持って人を殺した」ということで、殺人罪が適用される。
 なお、このときに、「故意を立証するために動機の解明が必要である」という考え方もある。動機がない場合は、過失である可能性もあるからだ。今回の訴訟においては「人を殺す意思」または「人が死ぬかもしれない」という認識が存在することを持って、そのための動機の解明がないことは殺人罪と断定するのに妨げにならないという判断を下した。通常、人を殺すという重大犯罪を行うには、それなりの動機があるものと考えられている。しかし、今回の裁判では、それだけの動機でなく、認識の身で足りるとしたのである。
 動機とは、当然に犯罪者(被告人)の個人の主観である。犯罪当時の主観の解明がなければ殺人罪を適用できないのでは、殺人罪などなくなってしまう。一つは、砒素を混入したという原因行為があり、もうひとつで、砒素を入れれば人が死ぬ可能性があるという認識があれば殺人罪を適用できるという判断である。私の個人的な考え方では、動機は、殺人罪における減刑事由に当たるが、逆に構成要件に含まれないと解釈している。要するに、動機がはっきりしていて、その動機に情状酌量の余地があり、同時に、第三者に殺人の被害者を出す可能性がない場合、殺人における量刑が減刑される場合があるという考えである。今回の場合、動機がはっきりしないということは、逆にいえば、林被告の場合、同一の環境になれば動機がなくても第三者を殺してしまう可能性があるという考え方も成立するのである。
 違法性については、申し分ない。少なくとも違法性阻却事由はどこにもないのである。また、責任能力に関しては、複数回の判断で能力があるとされている氏、また、第一審では黙秘を、第二審以降は無罪を主張できるだけの、能力が存在すれば、責任能力も当然に存在する。
 最後に、物的証拠がなく、状況証拠のみしか存在しないという論点が存在する。しかし、まず、カレーの中にまんべんなく、砒素を混入できるのは、カレーを製造した人の中にしか存在しない。その中において、一人で鍋の前にいた、また、目撃証言において林被告が鍋の前にいた時に湯気が立ったということは、ふたを開けたということを示す。物証に近いものとして、自宅から混入されたものと同じ化学成分のヒ素が発見されている。この犯罪の場合、混入できる人は限られている。その限られた中において、ほかの可能性を排除し、また、砒素の特性などの状況が特定できれば、犯罪被告人として問題がないという判断を行った。これは、通り魔殺人のように、不特定多数の人が犯罪を犯した可能性がある事件とは異なる。ある程度特定された犯罪可能性卸数の中における状況証拠は、当然に一般の状況とは異なり、その証拠性にも重要性を増すことになる。そして、それは、被告人を犯罪者とするに断定するだけの証拠性を有すると判断したものである。刑法の裁判の場合「疑わしきは犯罪者の利益」という原則がある。しかし、この犯罪の場合、千以上の状況証拠は、「疑わしき」ではなく、断定するに足る証拠であったと解するとのことである。
 すべての事件において、「状況証拠だけで犯罪が成立する」というものではない。今回の事件の特性がそのようにさせたのであろう。

 さて、次の論点で量刑論である。これは無期懲役ではなく死刑で良かったのかということである。
 日本の裁判の場合、殺人罪での死刑は、「複数人の殺人」「無差別殺人」「猟奇殺人」の場合に限られる。他の犯罪、たとえば強盗殺人など、ほかの要素と一緒になっていない殺人の場合は、そのような要件になっている。今回の事件の場合、林被告において殺人罪が適用されることが明らかである場合、当然に「複数人(四名)殺人及び複数人(二十一名)殺人未遂」ということ。地域の祭りに来た人にふるまわれるカレーであるということから「無差別殺人」であること。そして、釈放した場合に今後も同様の犯罪を犯す可能性が消えていないこと(謝罪の有無)(動機の未解明)。以上の状況から、死刑という量刑は、過去の殺人事件の裁判判例からみても妥当といえるのであろう。

 さて、最後に、この事件から裁判員制度を考えるということになる。
 裁判員制度とは、一般から選ばれた裁判員が、罪刑論及び量刑論の判断に関与するものである。今回の事件の場合であれば、その裁判員は死刑を宣告しなければならない。
 しかし、だれもが、いままでの裁判の判例に関して「打倒」とか「不当」といった意見を持っていた。テレビのコメンテーターなどは、裁判所をさばくかのごとく、自信を持って行っていたはずだ。
 そもそも、裁判になる前に、犯罪者扱いをして、社会的にさばくようなことも少なくない。松本サリン事件などはその最たる例である。そのような悲惨な事件があったにもかかわらず、いまだに無責任な論評を、刑事事件において垂れ流していし、それを受けて新聞の投稿欄などに、無責任に意見を投じている国民も少なくない。
 裁判員制度で最も考えなければならないことは、マスコミや国民一人一人の意見が「無責任であ会ってはならない」ということ。そして「責任を持って判断した人を、周囲が無責任に批判してはならない」という二つの原則ではないだろうか。
 マスコミそのほかの報道や国民の声、最近では、インターネット掲示板の意見など、無責任な論評が少なくない。それにたいして、左右された、判断をしてよいのか。また左右されないで法律に従った裁判を批判してよいのか。そもそも、そのような判断をした人を無責任に批評して良いのか。それまでに、判断を左右するような恣意的な報道を行ってよいのか。
 そもそも、刑事事件をワイドショー的に煽ることそのものが不謹慎でなはないのか。そこにおける無責任な発言を許してきた国民にたいして、裁判員という立場を充てることは、自分の意見ということに関して考えなければならない状況を作ったのではないだろうか。
 同時に、この文書でも過去に何度も言ってきたように、常識と法律を食い違っている人が少なくない。日本は法治国家であるのに、法律を無視した「常識論」が少なくない。正論が虐げられるようじゃ世の中では困るのである。憲法を無視して野党の党首が解散を軽々しく口にし、それを煽るマスコミに乗せられて、野党への政権交代を望むようでは、困るものである。
 そのような状況において、常に法律的にhんだんし、責任のある発言を求めるということは重要である。裁判員制度そのものに関しては、まだ初回であるし、国民やマスコミにそれだけの、インフラ、要するに法律に対する意識が全くかけている状態であるために、さまざまな試行錯誤も加えなけえばならないし、うまくいくとは限らない。しかし、そのような内容において、無責任な発言を許さない国民的な風潮が形成されるのはよいことではないだろうか。問題は、その国民的なインフラや法律に関する認識が形成される前に裁かれる犯罪者にえん罪が出ないようにしなければならない。

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