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2009年7月

自民党内戦報道

自民党内戦報道

 7月1日、麻生内閣における閣僚補充人事が発表された。「大山鳴動鼠一匹」のごとき内容である。結局兼務になっていた経済財政担当大臣と国家公安委員長の補充である。
 それまでに、内閣改造、党役員人事がいわれてきた。一方で、麻生内閣も「党人事は考えていない」といったと思えば翌日に「前から考えていた」という。自民党内では、9月の総裁選前倒しが山本拓議員によって提案される。中川秀直元幹事長のグループは、公然と麻生執行部批判と辞任要求をする。そんな中で、行われた内閣補充である。野党の記事と違い、マスコミ各社が大々的に報道するので、ここで長文で経緯説明する必要はない。
 一方で、民主党鳩山代表はいわゆる「故人献金」事件が発覚した。政治資金の中で70名ほど(7月1日報道)が、鳩山への献金の事実がないのに、収支報告書には名前が記載されている。その中には、すでに鬼籍に入られた方も複数含まれており、明らかに政治資金規制法に違反する内容であることに間違いはない。
 民主党は、明らかに法律に違反する問題でも「微罪だ」といって片づけてしまう。それで捜査があれば、「国策捜査」と大騒ぎをする。小沢のときも何もそうだ。遵法主義ではない政党であるという印象だ。そもそも批判政党の域を脱していない。本来ならば、政権を語ることすらおこがましい。
 しかし、この自民党のドタバタ騒ぎに、民主党政権は近いと感じることがある。今回は、自民党諸先生には耳が痛いかもしれないが、あえて、自民党の批判を展開する。
 民主党の批判に関しては、私の著書「民主党の闇」にしっかりと書いてあるので、7月7日の発売ですので、ぜひお読みいただきたい。少し宣伝すると、「民主党の闇」では、民主党幹部議員のスキャンダルを和えて記載。そしてスキャンダルが民主党の政策に及ぼした影響と、政策の真の目的。その真の目的から見え隠れする、民主党議員の国民を見下した態度が、ナチス・ドイツと酷似しているさまなど。それらを、日本の「批判精神の萌芽」からみてきている。スキャンダルを書きながら政策本にするという感覚で原稿にしてみた。その観点から、ぜひ目を通していただきたい。
 さて、自民党批判に関して、その的を絞ってみたい。いつもの論点と同じだ。
 第一に、麻生総理からすれば、「ぶれる」という批判である。
 第二に、自民党内における麻生執行部批判。これは、たまにテレビに出てきて批判する議員個人から、中川元幹事長のような集団での動き。
 第三に、情報管理。首相側近などといって、マスコミに次々と「構想段階」の憶測が流れる。その情報の管理がまったくされていない。
 最後に、民主党批判の的外れと国民とのコミュニケーションの欠如。アメリカのオバマ大統領がどうしてあそこまで支持を得られたかの研究に合わせて考えたい。

 まず、一つ目の批判。ぶれる発言である。
 政権政策は、後戻りできない一本道だ。大きな岐路があるときに、人間ならば迷いが生じる。しかし、首相はそれを決断しなければならない。自分の決断が、1億3000万国民の運命を変えることもある。迷って当然だ。しかし、首相は責任者だ。その重責を果たすことが最大の任務であろう。国民は、是非にかかわらず、その決断に興味を寄せ、そして従わなければならない。行政府のトップが決断し、立法府で法制化されたものであれば、法治国家の国民はそれに従う義務を追う。
 当然に、当該決断に際しては、慎重な議論と検討の上にされなければならない。そして、その内情を国民に伝える場合は、わかりやすく、簡潔に伝えなければならない。
 自民党の支持率が下がり始めたのは安倍首相のときからだ。過去の私のブログを見ていただいたらわかるが、安倍首相はコミュニケーション不足と断じている。安倍首相のころから、やっていることは良いが、何をいっているかがわからないという状況が続いている。福田・麻生とその傾向は変わらない。結局完結に、標語的に、自分のやろうとしていることが伝わらない。
 国民はラジオと一緒だ。良い電波を発していても、受信側の周波数に合わなければ、何も聞こえない。聞こえないだけならば良いが、「砂の嵐」状態で、不快な音が流れることがある。途切れ途切れで、重要なことが抜けることがある。政府は、難しい言葉ではなく、多少誤謬があってもわかりやすい電波を流さなければ、広報の意味はない。
 ましてや、発した発言が朝礼暮改で変わっては、信用がなくなるのは必定。
 政治家は本来、自分の持つ将来の国の姿を国民に示す必要がある。国家百年の大計を国民に示し、そのために「今しなければならないこと」に優先順位をつけて、政策を遂行しなければならない。残念ながら、私が接した民主党議員で50年先の日本の姿の理想を答えた人はいない。自民党もそうなりつつある傾向がある。
 政治家に求められていることは信頼性であり、将来性である。当該信頼性を、自分の発言を否定することによって、おとしめてしまう。それが「ぶれる」という表現にほかならない。
 一度ぶれる発言をしてしまえば、後はなし崩し的にすべてが否定されてしまう。日本人は、個別案件に関する評価が苦手だ。結局人格批判になってしまう。そして「人として信用できるか」「政治家としてふさわしいか」というといに発展する。その問いは、明らかに否定を誘う誘導でしかない。戦後から今までの、戦前政治や天皇制に対する批判などは、まさにそのものだ。
 批判勢力は無責任だ。そのことを熟知しながら、しっかりと対応しなければならない責任が政治家にはある。少なくとも首相という人物にはその責任が国民全員に対してある。
 残念ながら、そのことで少なくとも現政権が「信頼性にかける」と判断される結果になっている。
 この問題点の解消は、二つの方法しかない。一つは、一度出た発言は、実行すること。信念を曲げないこと。小泉純一郎首相の人気は、そこにあったといえる。つまり、道路公団民営化も、郵政民営化も、反対が出て、党を割っても実行した。何をしても反対勢力は存在する。それに期を使っていては何もできない。小泉政権は、自分や政党の都合ではなく、政権の目標と理想として断行した。それも、民主主義の原則に則り、多数決で議会を通して行ったのだ。安倍政権以降、今まで、そこまでの実行力は存在しない。
 もう一つの方法は、前言を撤回するときは、その都度国民に謝罪し、また改めた理由を明らかにすること。理由が納得行くものであれば、だれも反対はしない。国民が不信感を抱くのは、まさに「何となく変わる」現象である。
 要するに、国民は麻生首相における行動の基準がわからないということになる。どんな信念で政治をしているのか。どうして前言を撤回したのか。麻生首相にそれら信念がないとはいわない。しかし、国民が理解していないという減少がある。そして、それに対する対処がまったくされていない。麻生首相の国民とのコミュニケーション能力の欠如。それに対する周囲及び本人の対応の不手際。これにより国民の不信感はより高まっていると考えて問題はない。
 第二に、自民党内における麻生執行部批判。これも無責任な行動のオンパレードだ。そもそも、国会で首班指名したときに、麻生太郎に自民党議員は投票した。だから、絶対多数で、麻生太郎が首相に指名されたのだ。それに対して、まず自民党議員は自分の責任として考えなければならない。しかし、自民党議員の多くは、それらを棚に挙げ、自分の選挙のために、自分の所属している政党執行部を批判する。「天に唾をはく」行為でしかなく、非常に格好が悪い。その批判、俗にいう麻生おろしは、自民党議員において、自分の選んだ行為の責任転嫁でしかない。
 歴史的に見て、国、もしくは会社が滅びたり倒産するのは内部分裂である。ローマ帝国もそうであるし、帝政ロシアの崩壊も、日露戦争の敗北でほろんだのではない。ロシア革命によってソビエト連邦ができることによって、崩壊する。フランスルイ16世の死刑も、同じだ。日本では「ベルサイユのバラ」で有名であるが、結局は帝政フランスがフランス革命で滅ぶ様を劇にしている。外敵に攻められ、国が滅んだ例は歴史でも少ない。そのように見える場合でも、結局は裏切りものや売国奴が出てきて、最後の時を迎える。豊臣秀吉に攻められた北条氏がそうだ。長い間降伏か光線かを決めることができないでいた。「小田原評定」の語源となる行為があった。そのうえで北条氏の重臣松田憲秀の裏切りにより、北条氏は滅びる。その前の武田家の滅亡もそうだ。歴史に詳しくない人は、武田信玄の息子勝頼が、無謀に鉄砲隊の前に突撃し、大敗を喫したためにほろんだと思っている。世に言う長篠の合戦がそれだ。しかし、長篠合戦から、武田が甲州天目山で滅びるまでは8年もの歳月がかけられている。その間、武田勝頼は遠江国高天神城(現静岡県掛川市)をめぐり、徳川家康と一進一退の攻防を繰り広げていたのだ。武田信玄の時代「二十四人衆」という絵が残されるくらい、重臣の多くに守られた武田は、流し野の合戦依から8年も戦争を継続する国力に恵まれていたのだ。その武田が滅びるのもやはり内部の裏切りだ。親族穴山梅雪、木曽義昌など、重臣が次々と裏切り織田信長についた。最後も城などではなく山の中腹の小屋で滅びるのは、小山田信茂という重臣に裏切られ、あてにしていた城に入ることができなかったのだ。
 その織田信長も、天下統一を目前にしながら、明智光秀の謀反、本能寺の変でこの世を去るのだ。
 今の自民党は、この歴史の数々の例をみるまでもなく、結局内紛で下野しなければならなくなっている。だれが見ても、民主党がすばらしいのではなく、「自民党がだらしがないから一度民主党にやらせてみれば」という意思が働いている。自民党がしっかりしていればそうはならなかったであろう。
 もちろん、第一の問題点のような麻生首相の言葉のブレなどもあるが、それをフォローすることなく、麻生おろしを行うのは、どうかしている。それならば渡辺喜美のように、離党すれば良い。
 反麻生、反執行部、これらの発言を国民の感覚と勘違いして話している議員こそ、自民党の最大の敵である。自民が下野した場合の最大の戦犯は彼らと決めて間違いはない。麻生でも福田でもないのだ。裏切りものこそ罰せられる最大の敵だ。
 これらを許すことが自由な意思表示と勘違いしているのかもしれない。しかし、あくまでも集団主義、政党政治を行わなければなるまい。執行部も、自身を持って、彼らを処罰するべきであろう。
 第三に、情報管理。今の自民党は情報管理が甘すぎる。これはかなり大きな問題である。3月の小沢公設第一秘書逮捕のとき、漆間氏のオフレコ発言が外に出るという事態が起きた。これは、まさに情報管理の甘さを露呈した事件の一端であろう。官邸周辺、自民党本部周辺から、議員周辺まで、情報の管理徹底がまったくできていない。
 第一の問題点で指摘した発言のブレも、ここに起因することが少なくない。官邸周辺が情報源となっている問題で、麻生首相が打ち消しの発言をするのは、まさにブレに通じる。解散時期や党本部・閣僚人事の問題など、私のように永田町で動いているマスコミにはかなり多くの情報が漏れてくる。もちろん、それで私たちは活躍できるのであるが、一つの情報が、誤解されたり、湾曲して伝わることが少なくない。情報を意識して漏らすのであれば、そもそも誤解されないような出し方をしなければなるまい。
 オフレコ問題が問題になるのは二つのことだ。一つは情報が漏れるということ。もっといえば、漆間氏が悪いとはいわないが、軽率な発言をする人を官邸においておくというリスクを考えなければならない。もう一つは、情報が誤解されて伝わるということだ。それは、すなわち表現方法が悪いということと同時に、マスコミとの関係がよくないということを意味している。相互理解が足りないということだ。
 情報が漏れ、軽率な発言をするということは、検討中や未確定情報が世に出てしまうということだ。検討の結果ではない情報だ。思惑で様々な動きが生まれてしまう。それを修正するのは、かなり困難であるし、一度出てしまった情報の管理をするのは難しい。ましてや、首相本人が決断していない情報を、首相の責任にされるのであれば、不信感が募る原因になる。
 機密漏えいは罪である。決定していない情報や、個人の思想などは、誤解されないように情報が出なければならない。
 一方、その誤解を招かない表現であるが、政治家本人の質にも問題がある。橋下知事の推進する地方首長連合に対し、細田幹事長は「お門違い」という。実際、地方首長が、地方自治という自分んたちの権利を求めて発言することは、お門違いではない。連合を組んで政党の支持を表明するというのは、いささか選挙を意識したプロパガンダだ過ぎると思う面もある。しかし、お門違いという単語で一蹴する話ではない。実際の真意はわからないが、このような発言が東国原宮崎県知事の自民党での出馬でも現れている。
 自民党の議員は、しっかりとした理由を説明する能力にかけているのかと疑うことがある。実際、彼らがいわんとしている状況もわかるが、その価値観や環境を国民が共有しているものではない。にもかかわらず、国民全員にその前提で発言をするのはいかがか。
 要するに、自民党議員は「議員バッチをつけていれば偉い」と勘違いしているのではないだろうか。内心はそれでも良いかもしれない。何万人という人に選ばれ、その意見の代弁者だ。しかし、それを選ぶのは国民であり、代弁者である以上、国民にわかりやすく説明する義務がある。いつの間にか、その義務を忘れてしまっている議員が自民党には多くなってしまっている。私は、別にカップラーメンの値段を知っている必要はないと思う。生活レベルを庶民に合わせる必要もない。しかし、永田町で行われていることや、自分たちが推進する政策を、国民にわかりやすい表現で説明する義務はある。
 その意味で、情報の発信の管理もまったくできていない。何かをいえば反感を買うようになってしまっている。どんどんと、主権者である国民と乖離してしまうのである。
 そして、マスコミの管理。自民党本部内を歩いていると、会議室の扉に耳をつけているマスコミを目にする。昔は国会でも「廊下トンビ」といって、そのような光景があった。自民党内では、いまだにそれが横行している。国会でなくなったのは、マスコミとの間にしっかりとした協定もあり、情報公開のシステムもしっかりしているからだ。これに対して、自民党ではそれがない。マスコミの管理はマスコミのある程度の取材の制限と、一方で情報の公開がセットになる。マスコミの「管理」といえば語弊があるかもしれないが、実際は、良好な関係を気づいていかなければならない。その中には「なれあい」ではなく、しっかりとした意見の調整が必要である。
 自民党が、ここまでマスコミ管理ができないのは、一部議員が自分だけという感覚があること。政党として政策のコンセンサスがなく、情報の開示ができないこと。政局や執行部批判で国民を振り返っていないことの証明である。これでは、政策がないにせよ「政権交代」で統一した意見を持つ民主党に勝てるはずがない。
 情報管理の中で、最後に付け加えなければならないのが情報収集と情報の取捨選択である。自民党は、いつの間にか殿様商売になってしまい、情報の収集も少ない。政局論になるが、政治家のスキャンダルでも自民党の収集力の不足が目立つ。これはひとえに外部スタッフの欠如が最大の原因である。収集に関しては、これ以上はやめておこう。興味のある人はメールをしてほしい。
 いずれにせよ、自民党及び政府・官邸は情報に対する考え方があまりにも甘い。その結果が現在の自民党が示している。
 最後に、民主党批判の的外れと国民とのコミュニケーションの欠如。
 オバマ大統領は、その選挙戦でマケイン候補の個人攻撃をしなかった。共和党とマケイン候補の政策の批判はかなりしていた。しかし、スキャンダルで戦わなかった。ペイリン副大統領候補のスキャンダルは、日本まで聞こえてきたが、そのことと政策を結び付けてもいない。
 自民党が政党である以上、政策で戦うべきであるし、政策を示すべきだ。今の自民党は、政府と立場を混同してしまってはいないか。
 自民党は長年与党で「自民党=政府」のイメージが強いが、実際は一つの政党に過ぎない。自民党は民主党の政策を批判し、その矛盾を広く国民に伝えることができる。それは政府の仕事ではない。
 将来の政策を示すのも政党の役目だ。政府がいうのは決まったことである。
 政党は、語弊があっても標語的にわかりやすい単語で国民とコミュニケーションをとることが可能だ。しかし、なぜかそのようなことをしない。
 繰り返しになるので、どうかと思うが、わかりやすく説明し、わかりやすく将来を示すのが政党の役目だ。それを立法化するのが国会であり、実行するのが行政府の役目だ。そこを混同している自民党議員は少なくない。
 要するに、自民党議員の中には、自分の立場がわかっていないということがある。もちろん民主党もほかの政党も同じだ。議員は憲法から学び直す必要があるかもしれない。
 今まで、私の文章では民主党の批判を非常に多くしてきた。私自身、政策なき政治家などは不要と思う。小沢一郎のような数の論理で独裁を始めるのは、民主主義を愚弄する行為だ。それを避けるために、選挙前では、選挙の政策の争点をはっきりすべきであり「政権交代」という現象を争点とすべきではない。
 しかし、それをいえる自民党議員も少ない。テレビ番組、殊に土日の討論番組などを見ていると、自民党議員にも失望することは少なくない。私は、自由が売りの「麻布高校」出身であるが、よく麻布の先生から「自由と勝手を間違えるな」といわれたものだ。今の自民党議員の執行部批判や、情報管理の不徹底は、「自由」ではなく「勝手・気まま」である。勝手な行動に責任を伴う意識はない。責任のない政治家に、そんな意識の政治家がいる政党を支持する国民は少ない。
 少し時期遅れかもしれないが、自民党議員の猛省を期待する。

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