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2009年9月

鳩山新首相の国連外交・二酸化炭素削減公約と生活の変化

鳩山新首相の国連外交・二酸化炭素削減公約と生活の変化

 9月中旬になって、今年は初めて「シルバーウィーク」という連休ができた。
 この連休は、敬老の日を第三月曜日とし、また祭日で挟まれた平日は、国民の休日として祝日とするためできた連休だ。
 もちろん、お盆休みから1ヶ月くらいしかないために、豊富な資金はない。
 しかし、どんな状態であっても「休日」はうれしいものである。この連休を当て込んで、様々なイベントが行われた。
 ショッピングセンターのオープンをあわせたところもある。もちろんセールも多く企画された。

 連休でもっとも「嫌い」な事は「行列」である。
 日本人は、行列を作るのが好きであるという。
 私は日本人であるが、行列はとにかく嫌いなのだ。
 基本的に、ラーメン屋で行列というのは、理解ができない。
 少し、時間や時期をはずして、行列に並ばないで食べたい。どうしても行列ならば、あきらめてしまう。
 小さい頃、昭和二年生まれの父に、「戦時中の配給を思い出すので、食べ物で並ぶのは嫌だ」と聞いて育った。
 私も、戦時中は関係がないが、阪神大震災の後で、「配給」の経験はある。
 家を失い、着の身着のままで非難してきた被災者になって、食糧の配給を待つのは、なるほど情けないものだ。
 それをしなければ食べ物がない、食べることができないのである。
 一方で、自分では何もできない無力さを感じる。
 体力的にも丈夫であるが、実際並んで食料を手に入れる以外、何もできないのだ。
 近親者が亡くなって悲しみに暮れている間はよいが、それだけでは生きていけない。
 何かをしなければならない。
 しかし、その何かができな状態。
 私は、すでに15年になろうとしているが、そのときの気持ちは忘れることはないであろう。
 あのとき、国民のために働いていた自衛隊隊員の姿は、これほど頼りになる人はいないと思った。
 人間は、何もしないで食べて寝ているだけではだめだと、思い知った瞬間であろう。
 もちろん、たまの休日や病気の時を否定するものではない。
 しかし、自分の無力さを感じると、やはり悲しいものがある。

 行列から話がそれてしまった。
 連休中の行列と言えば、何よりも高速道路の渋滞はひどい。
 どの国にも渋滞はあるが、通勤などのラッシュと違って果てしない渋滞が続く。
 今回も、高速道路1000円の渋滞がかなり大きくあった。
 30キロメートル以上の渋滞が全国で66回あったとのこと。
 これは、ゴールデンウィークよりも11回多い記録である。
 この渋滞によって、車1台あたりの排出する二酸化炭素は確実に増えている。
 高速道路1000円は、土日祝日だけの政策であり、民主党政権になっても当面継続するそうである。
 しかし、道路も渋滞し、行楽に行った先でも行列では、本当に困ったものだ。
 このときだけ、日本を見た人がいるとすれば、行列が好きな国民と思うであろう。

 日本には、時間に対する価値観が別枠であるのかもしれない。
 普段、これほどせっかちな国民もいないと思ったが、逆に行列を作り並ぶ事への抵抗感は極端に少ない。
 そこそこ、中流階級で、不況といえども食べるのに困っていないから、生活にゆとりがあるのであろう。
 当然に会社など仕事では、身内と違い他人と約束することであるから、守らなければならない。
 これは義務である。
 一方、身内は、ある程度融通がきく。
 このことが、余暇時間における行列につながっている。
 うまい言い方をすれば、日本人は「ON」「OFF」がしっかりとしているともいえる。
 しかし、せっかくの自分の時間に、わざわざ行列で待ち時間を作る必要もないのではないか。 

 連休のニュースをみるといつもそのように思ってしまう。

 さて、この連休は、政治的には大きな動きがあった。
 鳩山外交のスタートである。
 鳩山は、国連で行われた環境サミットに自ら出席し、1990年比25%削減を公約した。
 もちろん中期の努力目標としているが、実質的に数値を出し、
京都議定書のように各国で足並みをそろえての問題ではないので、実質的に公約と言われても仕方がない。
 この演説において、各国の反応はよかった。
 拍手喝采であろう。
 鳩山首相は、外交の第一歩を成功したかに見える。
 しかし果たして、素直に喜んでよいのであろうか。

 このときに中国もアメリカも、具体的な数字を出さずに削減の努力をすると言う。
 日本は、一見、独自に数値目標を出して積極的に取り組むかのように見える。
 しかし、上記にあるように「外部でした約束は守らなければならない」のだ。
 国連という場で約束した以上、国民のコンセンサスがあろうと無かろうと、それをしなければならない。
 つまり2020年までに1990年比25%二酸化炭素を削減しなければならないという事だ。

 さて、二酸化炭素の排出とは、簡単に言えば化石燃料の燃焼を減らすという事にほかならない。
 化石燃料の燃焼は、生活をそれだけ便利にしたということだ。
 新技術の開発をのぞけば、化石燃料の燃焼を少なくすることは、それだけ便利ではなくなると言うことを意味する。
 簡単に言えば、自動車が電車になり、それでもだめならば自転車などになると言うことだ。
 馬車というのも選択肢にあるが、現在の道路交通法上は非常に困難である。

 単純に、日本の物流の80%以上はトラック輸送だ。
 自動車の良を少なくすると言う、選択肢をとれば、物流がそれだけ停滞することを意味する。

 一方、節電にも限界がある。
 二酸化炭素の排出を25%少なくするとすれば、三日に一日の割合で、冷蔵庫を含むすべての電気を止める必要がある。
 現在電気発生は全体の33%が火力発電である。
 火力と行っても重油ばかりではなく、未だに石炭発電が大きい割合を占めている。
 沖縄で例を挙げれば、本島で5カ所の発電施設があり、そのうち1カ所が石油だ。
 逆に行えば残り4カ所が石炭による火力発電と言うことになる。
 現在の与党の中には、原子力アレルギーの方が少なくないが、原子力発電は、全体の36%(新潟などが稼働するという前提で)である。
 これも火力に直すと言うことになれば、相当な二酸化炭素排出と言うことになる。
 ましてや、二酸化炭素を発生させない水力発電に関し、八ッ場ダム・川辺ダムの中止を公約しており、水力による発電も増加は見込めない。

 これらの事を考え合わせれば、自動車と電気という、日本における重要なインフラ二つを完全に失うことになるのだ。

 産業界にも当然に影響が出てくることになる。
 現在の製造業は、機械化工場がメインである。
 機械は電力で動くが、それら電気を使わない工場は難しい。

 要するに、二酸化炭素の削減というのは、日本の産業構造及びインフラの制限ということを意味するのだ。

 「制限」とは、何もなくす、というものばかりではない。
 新技術の開発や植物燃料の多様化など、様々な方策も存在する。
 しかし、現在確立された技術がない状態での「制限」は、まさに、使用規制やコストアップということにほかならないのである。

 25%削減からは、二つの結論が導き出される。
 一つは、新技術の開発ということになる。
 これは、二酸化炭素排出を制限する新規事業を立ち上げるのだから、当然に各国に歓迎される。新規雇用にもつながるし、新産業の創設にも発展する。
 考え方によっては、日本が資源大国になることも考えられる。
 ソーラー電池や燃料電池、バイオ燃料、今挙げられているクリーンエネルギーは少なくない。
 しかし、いいことばかりではない。
 まず、「これから開発する」ということは、先行投資である。
 すでにある程度成果を上げているものでも、一長一短あり、正式採用には至っていない。
 バイオ燃料は、食料品の高騰を招き、またトウモロコシなどを使わなくても同じは竹における策付け面積が減ると言うことが挙げられる。
 また風力発電は、一機あたりの発電量が小さいこと、想定の風力や風向きが安定しないこと、
またあの風車を回す場合の騒音の問題など様々な問題を抱えている。
 当然に、開発に当たっては、新規開発費用がかかり、そしてそれが100%結実するとは考えられないのだ。
 これを公費で行うとなれば、それだけムダになる税金も少なくないということだ。
 また企業で行うとなれば、それだけのリスクを負う仕事ができるのかという事になる。
 よほど資金的・人材的・資源的に余裕がなければ、それはかなわないことであろう。
 税制の優遇措置なども考えられるが、そう単純なものではない。

 また、時間の問題もある。
 公約は2020年までだ。
 投資が完全にムダだとは言わないまでも、その期限までに成果が出ない可能性は少なくないのだ。
 そうなれば、新技術の開発というのは、「絵に描いた餅」でしかなくなってしまう。
 そうなればもう一つの方法しかないという事になる。

 そのもう一つは使用制限。具体的には環境税の創設だ。
 簡単に言えば、消費税はあげない代わりに環境税などほかの税を新設すると言うことになる。
 これにより二酸化炭素排出に関するすべての物品が値上がりする結果になる。
 実際、公約が果たせない場合の二酸化炭素排出権売買の財源にもなるであろう。
 一方で、インフラの値段の高騰は、そのまま便利さの制限と言うことになり、また産業の衰退を意味することになる。
 燃料を使う工場の海外移転や、会社の倒産が予想される。
 日本産業の至宝である中小企業の経営危機をあおることになる。
 それだけではなく、生活コストのアップが考えられる。
 インフラがあがると言うことは、単に電気ガスの値段が上がるだけでなく、それを使うすべての産業物があがると言うことだ。
 輸送コストが上がれば、すべての物流費が上がることになる。
 店でものを買えば、店の冷蔵庫や照明で電気を使うことになる。
 それら流通過程すべてのインフラコストと、環境税が商品値段に加算されるという事だ。

 鳩山政権は、この25%削減に関して、国連では非常に評判がよかったとしている。
 それはそうであろう。
 日本国の首相は、国民の生活を犠牲にして、新技術の開発を行い、
また、日本企業の海外工場移転を間接的に推進し、そして、地球環境のために日本の産業を破壊してもよいと言うことを、
数字を挙げて表明し、公約したのだ。
 他国にとっては、日本企業が衰退するだけでもありがたい話であるし、
その技術や工場が海外に移転してくれれば、自国の直接的な利益につながる可能性がある。
 新技術の開発投資を自国の税金でする必要はなく、日本が先に日本の税金で推進してくれる。
 その上、全て失敗すれば、二酸化炭素排出権を高値で買ってくれるのだ。
 この公約そのものは、日本以外の他国にとっては非常にありがたい話である。
 もしも、新技術がうまく行った場合も、それを分けてもらえ、その恩恵にあずかることができるのだ。
 何しろ鳩山首相は友愛なのだから。
 鳩山首相の演説を拍手で迎えたとしても、それは、地球環境を考えたものではない。
 単に日本の経済負担により、自国が負担しないでよくなる環境負担や、企業の国際競争力、経済進出、
海外への直接投資などを期待してのことである。

 関西の、経済界のことわざで「よい人、というのはバカと言われているのと同じ」という。
 日本では商売の神様は稲荷神社だ。
 もっと言えば、狐だ。
 狐は、人をだます。
 しかし、狐が人を食べたりはしない。
 生活に困らない程度に少し人をだまして自己の利益にする。
 これが商売繁盛の秘訣という。
 鳩山由紀夫氏のように、はじめからおぼっちゃま育ちの人には、そういうことはわからないのかもしれない。
 しかし、その感覚で国民全体が不便を強いられるのはいかがであろうか。

  さて、これらに関して、民主党は「マニフェストで挙げたとおり」という。
 しかし、その中には具体的なプロセスなどが書かれてはいない。
 要するに、環境税はないまでも、それらの内容の日本国民のコンセンサスはとれていないという事になる。
 マニフェストといえども、結局は子供手当のバラ巻きや高速道路の無料化(税金化)しか話題になっていない。
 しかし、今回の25%削減での国民の不利益や、企業の衰退、強いて言えば国力の削減は、すべて国民が選んだ政権交代の結果である。

 民主党のほかの政策でも、大きく日本を変えてしまう可能性は少なくない。
 しかし、それを選んだのは日本国民自身であるという事を肝に銘じるべきではないだろうか。

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鳩山新内閣組閣

 誤字が多すぎるという指摘のコメントをいただきました。誠に申し訳なく思っております。言い訳はよろしくなく、私の不徳の致すところでございます。ただ、一朝一夕に直るものでもなく、今後とも、「頭の体操」を含めお付き合いいただければ幸いでございます。また、これら苦情は、遠慮なくコメントにおいれください。

鳩山新内閣組閣

 新しい歴史という見出しで、鳩山由起夫が首班指名された。9月16日午後のことである。これにより、羽田内閣以来の自民党以外の連立政権が発生することになるのである。選挙期間中より言われていたのであるが、それが実際に現実に起きた瞬間である。
  何よりもまず閣僚名簿である。

  ▽総理 鳩山由紀夫(衆院) (鳩山グループ)
 ▽副総理・国家戦略局担当相 菅直人(衆院)(菅グループ)
 ▽総務相 原口一博(衆院)(羽田グループ)
 ▽法相 千葉景子(参院)(旧社会党グループ)
 ▽外相 岡田克也(衆院)(無所属)
 ▽財務相 藤井裕久(衆院)(鳩山グループ)
 ▽文部科学相 川端達夫(衆院)(旧民社)
 ▽厚生労働相 長妻昭(衆院)(無所属)
 ▽農林水産相 赤松広隆(衆院)(旧社会党グループ)
 ▽経済産業相 直嶋正行(参院)(旧民社党グループ)
 ▽国土交通相 沖縄北方・防災・海洋担当 前原誠司(衆院)(前原グループ)
 ▽環境相 小沢鋭仁(衆院)(鳩山グループ)
 ▽防衛相 北沢俊美(参院)(羽田グループ)
 ▽官房長官 平野博文(衆院)(鳩山グループ)
 ▽国家公安委員長 拉致問題担当 中井洽(衆院)(小沢グループ)
 ▽郵政・金融担当相 亀井静香(衆院・国民新党)
 ▽消費者・少子化担当相 福島瑞穂(参院・社会民主党)
 ▽行政刷新会議担当相 仙谷由人(衆院)(前原グループ)
 
  あえて、自民党の内閣のように、閣僚の所属する派閥を記載してみた。民主党の場合、一人で複数の政策研究会に参加している場合があり、異論がある可能性もある。さまざまな新聞報道の中で最も大き下記方をされたグループに分類した。
  一目で気づくのが、民主党内の最大派閥小沢グループから一人しか出ていないことだ。また、反小沢といわれる野田佳彦のグループも全く見えない。
  この内容に関する評価は様々である。いずれにせよ、今まで野党として攻撃に回っていた人が閣僚として官僚を統制できるのかが最大の問題ということになるであろう。
 
  顔ぶれ、そして、其の実力に関して未知数でるために、内閣としての特徴をまず考えてみたい。鳩山内閣は、次官会議を中止し、同時に事務次官による記者会見を廃止した。この組閣に関しても15日に決めながら緘口令を強いて情報の流出を防いだ。今回の内閣は徹底した「情報管理内閣」ということができる。逆にいえば「言論弾圧内閣」ということが可能だ。その「言論弾圧内閣」を裏打ちするのが、鳩山内閣の第一の政権公約違反である「記者クラブ制度の廃止」をしなかったことである。
  2009年09月16日19時51分 / 提供:THE JOURNALで週刊朝日の山口一臣氏が書いた記事からそのまま抜粋する。
『上杉氏は、鳩山氏の代表就任会見でも同様の質問をした。それに対する答えは、
(前略)わたしが政権を取って官邸に入った場合、(質問者の)上杉さんにもオープンでございますので、どうぞお入りいただきたいと。自由に、いろいろと記者クラブ制度のなかではご批判があるかもしれませんが、これは小沢代表が残してくれた、そんな風にも思っておりまして、私としては当然、ここはどんな方にも入っていただく、公平性を掲げて行く必要がある。そのように思っています」
 小沢前代表、鳩山現代表がここまでハッキリと打ちだした方針を、一官房長官の平野氏が自らの保身のために撤回してしまっていいのだろうか。

 ついでに、これはわたしは現場にいなかったので、あくまで取材記者からの報告だが、民主党のマニフェスト発表会見でも同じ質問が確認されている。質問したのは、たぶんTheJournal執筆者でもある神保哲生さんだと思う(違ったらゴメンなさい)。質問者が、マニフェストに「記者クラブ開放」が書かれていないことを指摘した。それに対して、鳩山代表はこういう趣旨のことを述べたという。
「マニフェストは国民のみなさんとの約束です。記者会見にどなたでもお入りいただくというのは、記者のみなさんとのお約束なのでそこには書いてありません。しかし、その方針自体はなんら変わることはありません」

 会見に出席した週刊朝日の記者の話によると、鳩山代表がこの発言をしたとたん、場内にざわめきが起こり、マニフェストに対して批判的な質問が急に飛ぶなど、それまでの和やかな雰囲気が一変、険悪なムードになったという。なんだかなぁ......。

 そもそも、いずれも重要な記者会見でのやりとりであるにもかかわらず、新聞、テレビがいっさい扱わないことからして異常ではないかと思う。鳩山代表の就任会見はNHKが生中継していたのだが、ある民主党関係者が後日、わたしに明かしたところでは、こんな信じられない工作がなされていたという。それは、中継の時間中は上杉氏が質問の手をあげても指名しないという密約がNHKと現場を仕切る党職員との間でできていたというのである。なにしろ「密約」なので真偽のほどは定かでない。ただ、事実として、上杉氏の質問は中継されることもなく、新聞記事になることもなかった。

 わたしや上杉氏(やたぶん神保さんも)がこのことにこだわるのは、単にフリーや週刊誌記者だから、会見に出られないからといった次元の話でないことは理解してもらえると思う。また、わたしは新聞社の子会社で働く者として、記者クラブ自体の存在を否定するものではない。既得権を持った者が既得権を維持しようと努力するのも理解できないことではない。残念なのは、民主党の職員や藤井氏、平野氏といった幹部までが既得権者の利益代表となり、歴代代表の方針を握りつぶしてしまったことだ。「公開と公正」(オープン&フェアネス)は民主党政権にとっての魂ではなかったか。』
<以上抜粋>
 情報の管理は悪いことではない。しかし民主党の場合はその体質上、言論弾圧の実質的言論弾圧の風潮があることを指摘する。
『 最後に、この事件に関する民主党の対応である。民主党鳩山幹事長及び、後日会見を行った小沢代表は、離党者に対する議員辞職を迫った。
 そもそも、比例代表選挙選出議員の離党について、明確な規定が存在しないのは、先の憲法の不備と同様に問題である。比例代表制度は民主党という政党を支持し、その民主党が指名した候補が議員になるという制度である。その支持外して、離党し、別な政党を立ち上げるのはいかがかと思う。
 とはいえ、では議員活動をしている人物に対して議員辞職を迫るというのは、言論の弾圧以外に何者でもないであろう。ねじれ国会の運営ではないが、自分の思い通りにならなければ、最も過激な方法で相手を困らせる小沢執行部のやり方に、民主主義という理念とは異なる権威主義、封建主義的な考え方を感じる。それだけ、民主党は不安定で、常にどこかを攻撃していなければならない政党なのであろうか。
 そもそも、小沢民主党は言論を弾圧する政党である。小沢氏は講談社と週刊現代に対して名誉既存の訴訟をしているし、岡田克也副代表は自民党の職員に対して、自分が謝罪会見をした内容を書籍に書かれたことで名誉既存の訴訟を起こしている。いずれも第一審は敗訴している。(岡田議員に関しては現時点で高裁控訴中)
 自分でも認めて、謝罪会見をしている内容で、訴訟を起こすなど、あまり感心できる内容ではない。結局、それだけ「公人」としての自覚もないし、そのようなところに勢力を割くことができるくらい暇な野党ということであろう。
 公人としての自覚がなく、言論やマスコミを弾圧するということは、悪くいえば戦前逆戻りでしかない。それで良いのだろうか。』
 これは2008年9月4日の私の文書(ブログ)からである。「政界の小沢アレルギー、民主党分裂のドタバタ喜劇」とした文書は改革クラブに同調しようとした姫井由美子議員に対する留意工作(強要)などにおいてこの文書を書いている(もちろん私自身が書いたのである)。民主党における栄誉棄損訴訟の異常さなどをみても、実質的に反対意見を封鎖する体質を感じられる。
 事務次官会議の打ち切り、事務次官による会見の禁止、官僚情報の国家戦略担当大臣一元化、いずれも情報をすべて一元管理すると言うことであり、また官僚や党員などによる自由な意見や執行部批判を許さないというものである。そして、これが公約違反であることは間違いがない。まさに、大政翼賛会の再来であり、政府発表は大本営発表と同じである。
 これに否定的な意見の方もいると思うが、では、あえていうが、大臣だけの会見で、批判的な意見と調和した双方意見の発表が期待できるのか。民主党というイデオロギーに支配された公報以外出てこないのではないか。これで行政の中立化が期待できるのか。
 一方で、民主党の攻撃に弱い体質もある。要するに、批判にさらされて解答できるだけの研究がなされていないという事だ。すでに小沢傀儡や二重権力がささやかれている内閣であるが、小沢は、守りに弱い。何しろ二世議員である。同時に、密室主義で秘密主義である。結局、自民党政権よりも密室で何をしているか不透明な内閣が発生することになったのである。
 その上で、顔ぶれをみてみよう。思想的に、元経世会から社会党左派まで幅広い人材である。幅広い人材とは、必ずしもほめ言葉ではない。選挙という求心力でつながっているものの、政策面での統一性はない。逆に言えば、権力と利権に向かって動き出してしまう。このことは、布陣を決めた鳩山政権の性格そのものである。
 実際、16日にすでに、国家戦略と外務と官房長官の間で、主導権争いが繰り広げられている。ある意味では当たり前である。もともと、行政府の長である内閣は、官僚・官吏を束ねて行政を執行する事が本分である。にもかかわらず、官僚を束ねて基本政策を行うのが国家戦略とすると、支配をはずされる官房長官は仕事がなくなってしまう。またどこまでが基本戦略かわからなければ、国家戦略が外交などにも口を出してくる。「一元化」「政治による行政」といっていれば、その境目が難しくなるのだ。その調整ができなければ、当然に官吏は仕事を行うことができず、そして行政サービスは低下する。一時的な「子供手当」ばらまき以上の損失が国民を襲うことになる。
 政策面の統一性がない場合、この主導権争いは政策論や基本概念の差として内閣を直撃する。当然に、閣議なども決まらず行政の意志決定がままならない状態ができる。統一した意識を持つ小沢民主党の意のままに操られることになるのだ。小沢は、当然にそこまで計算していると考えられる。たとえば、国土交通相の人事。前原誠司が大臣であるが、副大臣に社民党の辻本清美、そして民主党でも前原と遠くなった馬淵が就任する。同じ省庁の大臣の中でも、基本思想が異なり意見の統一が難しくなるのだ。 
 政局優先で政策を置き去りにした付けを国民が被ることになる。はじめのうちは、自民党の否定で一致する。国土交通相では、ダムの建築注しなど公共事業の中止でよいかもしれない。しかし、一段落した後に、「日本をどのような国にするのか」というところで、意見が一致しない。当然に、その時点で、行政の意志決定が空中分解する。国家戦略と、行政刷新会議と、そして官房長官での意見の食い違いが、これら調整も困難にしてしまう可能性がある。
 根本的な問題は「これから決める」とした政治姿勢だ。政局中心で行ってきた内容が、今の内閣に現れてしまう。もちろん可能性にすぎないが、壮大な政局論の中に国民不在が見えかくれする。
  もちろん、このような内閣と政権を望んだのは国民だ。国民は甘んじてこれらの選択の結果を受けなければならないのであろう。政局やマスコミの無責任報道ではなく、自分で考えて「政策」を見てゆかなければならないのではないだろうか。

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鳩山政権構想五つの原則の検証

鳩山政権構想五つの原則の検証

 いよいよ民主党政権が16日に誕生する。民主党政権そのものに関しては、読売新聞によると71%が期待しているそうだ。一方インターネットによると期待しているのは30%程度。このギャップに関しては、前得地や、媒体によってさまざま異なると思うが、一概にアンケートを信用してはならないというものではないだろうか。「支持率」という数字で一喜一憂していた自民党の諸先生方に関しては、いかがなものかと考えます。簡単に考えれば、参考意見ではあるがそれに拘束される必要はないというものではないかと考えるのです。
  国民はわがままである。このことは完全に明らかになっている。鳩山民主党連立政権に関しては、「今までと変わる」という期待感があることは事実であろう。しかし、実際に「どう変わるか」ということはない。最近ではその政策の検証が進められているが、誰もが「自分に都合の良い変化」を期待しているのに対し、政策は一つしか選択できない。のこ地の取り残された国民は「裏切られた」という感覚が強くなり、反対に回ることになる。とはいえ「財政」も「税収」も「政策」も限られているので、それらをすべてとることはできない。選挙時に「バラ色」の理想を掲げても、そのようにならないということが出てくるであろう。ぎゃくに「バラ色の理想」を上げればあげるほど、跡が苦しくなるということではないだろうか。「いいとこどり」は「悪いとこどり」になるというのは、過去にいくらでもある話だ。
  このことを検証するのに、民主党の政権公約をまずは、検証してみよう。自民党の総裁選が終わるまでは、本格的な国会運営も少なくなり政策論もそんなに進まないであろう。今ある資料でそれらを考えてみるのは大事なことでる。
  今回は、総論として「鳩山政権の政権構想5原則」を総論的に取り上げてみたい。今回はあくまでも総論的に取り上げるものであり、個別の政策、たとえば話題になっている子供手当や、高速道路無料化に関して細かく行うものではない。
  まず、その政権構想を見てみよう。

鳩山政権の政権構想
5原則
原則1 官僚丸投げの政治から、政権党が責任を持つ政治家主導の政治へ。
原則2 政府と与党を使い分ける二元体制から、内閣の下の政策決定に一元化へ。
原則3 各省の縦割りの省益から、官邸主導の国益へ。
原則4 タテ型の利権社会から、ヨコ型の絆(きずな)の社会へ。
原則5 中央集権から、地域主権へ。

 以上が、民主党の選挙時の政権公約に掲げた原則である。今までの政治は「官僚の丸投げ」「政府と与党の二元体制」「各省縦割り」「タテ型利権社会」「中央集権」であったとしている。しかし、政治主導で内閣の下に一元化しながら地方分権とはどのような論理で行われるのか。「絆社会」とはどのようなものであるのか。そもそも「地方主権」ではなく日本国憲法では「国民主権」ではないのか。かなり法律的な「小学校で習う日本の姿」とは違う内容になっているのはなぜであろうか。選挙用スローガンといえばそのものであるが、これを期待している国民は、憲法などとのギャップと日本の成長の歴史の否定にどのように対処するのであろうか。
 
  さて、ひとつづついてゆこう。
 
  原則1 官僚丸投げの政治から、政権党が責任を持つ政治家主導の政治へ。
 
  まず、この手の原則論をし、過去と現在の比較を行う時には、カkのものが何が悪いのかということを明確にしなければならない。民主党は「自民党は悪い」「自公政権は良くない」とはいうが何が悪いのかを明らかにしていない。完全なスローガン選挙を戦ったものであり、論理的な考え方をしなければならない。雰囲気で政治をされて、最も困るのは我々国民である。
 さて、その上で、まず「官僚丸投げ」は何が悪いのか。イメージ的に官僚政治というと余りよいイメージはない。そもそも、国家公務員は選挙で選ばれているわけではないので、行政において国民の意見を羽石手以内という批判だ。この批判が、今回の総選挙で鳩山由紀夫に「国民の勝利」といわしめた内容であろう。しかし、考えるまでもなく「公務員も日本国民」なのである。全国28万の国家公務員は、国民として勝った選挙が、仕事として負けたということになるのだ。一人の人格で、選挙結果で勝ち負けが分かれるというのもどうか。
 官僚政治の悪さは、その良さや特徴と裏腹である。
 選挙によって選ばれていないーイデオロギーに左右されない
 政権が変わってもそのままであるー行政の継続性が担保される
 長期間同じ仕事ばかりしているー高い専門性が得られる
 利権が集中しているー行政上実行力がある
 身内意識で腐敗が大きいー身内が多いので技術・知識の継承がある
 無責任体質であるー否定的な考えなく仕事ができる
などなど。逆に「政治主導」ということは、政権交代ごとに、行政が変わると言うことを意味する。当然に行政の継続性は失われ、専門性燃えられない状況になってしまう。要するに、上記にあげた官僚政治のよいところをすべて否定することになる。
  さて、それでも腐敗がなくなるなどの利点はあるであろう。一部官僚による犯罪は目に余るものがある。しかし、そのことだけで、ほかの利点を失わさせてよいのかという事だ。数名の犯罪者のために全体を巻き込むことがどれほど迷惑か。至近な例では、振り込め詐欺の横行により、ATMの利用が制限された。昨今では、環境問題でコンビニの24時間営業を問題視する議論もあった。一つをたてれば一つがなくなる。世の中の仕組みだ。当然に、今まで通りの専門性の高い、経験則に従った、イデオロギーに左右されない行政が期待できなくなる。
 特に、行政においては、政治的中立性が必要である。現在政治家と言われる立法府の代議員は、一種のイデオロギーと、そのイデオロギーに支配された背景団体の指示や資金提供を受けて当選している。当然に、経済的な見返りや権利に関する内容を要求する。それがなければ、政治とか変わる必要がないのだ。今まで、官僚という、一般からは隔絶された官僚社会の中で、行政が行われていたので、一般との関わりがなかった。その関わりがあり不正の温床となるから「天下り」は国民に指示されないのだ。一方で、政治家が政治資金・企業献金や団体献金を受けていながら、行政を行うことに関して、天下り以上の不正の温床にならないのか。天下りは、いろいろあっても、官僚を退職した後の話である。一方で、政治家が行政を行えば、その所属政党や政治家本人にたいする企業・団体・組織献金と、行政が関わりがないという事をどのように担保するかの問題となる。個人献金であっても、その個人が団体の代表など役職のある人間であれば、同様の効果が疑われる。
 この、行政の中立化という問題と、一方で、政治献金に関する問題を担保できなければ、単に「民主党は官僚の利権を奪っただけ」という結論になりかねないのではないか。
 残念ながら、現時点において、それらの担保は語られていない。日本人の大好きな「勧善懲悪物語」「水戸黄門症候群」に入ってしまっている。また、それに絶えられないほど、官僚組織がゆるんでいたことも事実なのかもしれない。そもそも、選挙期間中に官僚の業務姿勢を肯定した人がいないのが、悲しむべき事だ。しっかりとメリットとデメリットを把握して行わなければならない。
 いずれにせよ、この問題は、権力とその中にいる人の清廉さの問題だ。制度化するためには、民主党は閣僚(副大臣・政務官を含む)すべてに、すべての献金の禁止を実行し、裁判官と同じくらいの社会的隔絶を実現しなければならないであろう。そうでなければ、この政策・この原則が完遂されることはない。というよりは、利権の略奪でしかなくなる危険がある。
 
原則2 政府と与党を使い分ける二元体制から、内閣の下の政策決定に一元化へ。

 二元体制から一元化という。今までの自民党・公明党が、政党と政府とダブルスタンダードがあったということを意味している。そして、民主党はそれをしないという事であろう。
 そもそも、日本国憲法にあっては、三権分立という崇高な理念によって成り立っている。三権とは「立法」「行政」「司法」である。この件に関しては、これまで何度も言ってきた。小学校の教科書にも書いてある話だ。では、今「政治家」といわれる人は、どこに属する人なのか。答えは、「立法」である。残念ながら「行政」ではない。簡単にいえば、民主党のこの原則は「憲法の三権分立を破棄する」という解釈もできなくはない。
  現在の三権分立の中においては、国会は国権の最高機関であり唯一の立法機関である。一方、行政権は内閣に属するのである。内閣は、行政権の行使において国会に連帯責任を負う。内閣は、その行政組織化における公務員及び管理を使って、行政を行う。日本の場合、議院内閣制であるために内閣の過半数は国会議員によって組織される。しかし、その内閣は「分立した行政府」であることには間違いがない。決して立法府たる国会議員が「一元化」できるものではないのである。
  当然に、政権党は、「内閣」という行政府の部分と、国会で立法もしくは財政(予算を決める)ために、可決する過半数の意思決定政党である「立法府の主導権」の二面性を持つことになる。そして、「立法」から「行政」へは財政や内閣への不信任決議などで監視することが予定されている。一方で、「行政」から「立法」へは衆議院の解散という方法で監視を行うのである。このように相互にチェック機構ができているために、三権分立が成立する。
  国会議員には、当然に「立法府の代議員」と「行政府の内閣構成員」という二面性が存在する。一元化した場合は、当然に、この二面性を否定することになるのである。
  現在官僚政治の打破とか政治主導の行政と言っているが、これが行政の独立性を否定する行為に他ならないのである。逆な言い方をすれば、本来チェック機能である解散総選挙や財政も、恣意的に「政治主導で」行うことになるということを自ら表明しているにすぎない。
  憲法改正なく、憲法の基本原理を変更する「原則」を打ち上げてどうするつもりなのか。二つの方法しかない。ひとつは、行政が完全に「民主党に飲み込まれる」。もう一つは、「民主党の議員税院が行政組織にすべて入り込む」。要するに、いずれかが吸収し一体化する以外にはないのである。
  しかし、実際そうなっていないのは明らかである。現に小沢一郎そのものが内閣に参加せず「党務に専念する」として幹事長を就任が内定している。すでに「政務と党務」というh二元性が存在しているのである。やっていることとと減速が完全に分離している最も顕著な例ではないだろうか。

原則3 各省の縦割りの省益から、官邸主導の国益へ。

 この原則を「省益から国益へ」と読むのはいかがか。そもそも「省益」とはどのようなことをいうのであろうか。
  まず、現象としては縦割り行政経たいする批判が存在することは明らかである。縦割り行政は、行政の無駄と行政サービスを受ける国民のタライ回しが存在することになる。このことに関しては小泉行政改革でも様々に行われてきた。その具体的な方策が「小さな政府」と「民営化」であった。政府の権限を少なくし、国民へのサービスを民営化することによって、国が必要とする経費を最小限にし、財政再建を行う。そのことによって、民間の競争力をつけ、同時に、「民間でできることは民間に」ということで国家の経費を削減することである。これが構造改革である。
  たとえば郵政民営化に関してである。日本の郵便制度は、前島密が逓信大臣として整備した制度だ。当然に、それまでは「飛脚」しかなかったのを誰もがポストに入れるだけで通信を行うことができるという便利さを、国家権力が保証して行わなければならなかった。時代的な背景としては、それまでは、幕藩政治で、廃刀令・廃藩置県があったのちも封建領主的な考え方をする人が少なくなかった。また、戸籍や住民票も整っていない状況では、行政などによって個人を識別しなければ郵便制度は成立しない。当然に明治時代の中期ぐらいまでの期間は、都会は別にして日本全国とすれば、国家権力による通信の保証が必要であったのだ。これは時代や、科学技術的な背景だけではなく、個人の識別や領主意識、人の支配の有無(日本には奴隷制はなかったが、小作人制度などは存在した)など、さまざまな社会的な背景も存在する。それらを超越するのは国家権力による通信の保障である。よって、日本では通信の妨害に関しては「刑法」で罰せられる。刑法という一般ほうに通信の保護がかかれていおり、郵便法などの特別法でないことが、国家による通信の保護を積極的に行っている証拠になるであろう。しかし、逆に国による通信だけを保護する必要はない。宅配便なども保護する必要があるし、郵便局だけを特別扱いする必要はない。法的な保護などを充実させれば、特に、郵便局を温存させ、そこに税金を多く投入する必要はないのである。ましてや、郵便は郵政省(旧)で他の会社が産業であるから通産省や運輸省(旧)など、管轄省庁を変える必要はないのである。
  このように、省庁の変遷や、政府における事業は、このような歴史的背景が存在する。旧専売公社(現在の日本たばこ産業)や、日本交通公社(現JTB)、日本航空、JRなど、いずれも発足当初には国家が資本や環境を整えなければならなかったものばかりだ。たとえば、日本交通公社などは、日本国内の旅行だけでなく日本が固定相場制で、一定の預金がなければ海外旅行ができなかった時代には、海外での安全な旅行の保障のために情報を集約する必要があった。また、日本航空などは、海外との定期便の権利や航空機の安全な運行のため、そもそも航空機の購入には莫大な費用と信用が必要であった。ことに、敗戦国である日本は、飛行機で体当たりする「特攻隊」という方法を戦術的に使用したのであり、その国に大型航空機を持たせることそのものに、世界的な警戒感があったということも忘れてはならない。これらは、社会の発展や日本の世界的な信用の高まりなど、資金的な事情や環境、人的な新翔などによって、徐々に民間にして問題がなくなったのである。これを行うことによって、競争力のあるサービスが発生するのである。
  しかし、これを「省益」と言ってしまうのは、いかがなものか。縦割りであるのは縦割りである理由と歴史があった。当然に、そこに利権が存在し、その利権を話したくない人も少なくない。しかし、それらを改革しなければならないのではないか。
  実際、今回の鳩山政権は、このような理念によって行われた「郵政民営化」を見直すとして国民新党と連立政権を樹立する予定になっている。「旧態依然とした国営のサービス機構が縦割り行政と利権の象徴である」と言いながら「改革を見直す」ということそのものが矛盾しているのではないか。
  同じことは事務次官会議の廃止ということでもうかがえる。事務次官会議が官僚支配のしょうちょうということであるが、官僚のトップが横のつながりを持って意見を調整するのは、何が悪いのであろうか。本来であれば、その会議に政治家や大臣が入ればよいことで、事務次官会議を廃止するものではない。もっといえば省庁間の横のつながりを断ち切り、すべて民主党の政治家(大臣)経由にする必要はないのではないか。言っていることと行っていることが完全に正反対になっている。「原則1」、「原則2」に合わせて考えれば、この原則も当初より実現不能な「掛け声だけ」ではないだろうか。

原則4 タテ型の利権社会から、ヨコ型の絆(きずな)の社会へ。

 タテ型の利権社会。これは、現在の官僚政治に関してそれを言っているのだと思う。そもそも「横型の絆社会」というものがあまりよくわからないので、何とも言えないのであるが、「均分的な平等」を目指しているとすればこの文言こそ「共産主義の実現を目指した」原則であるといえるのではないか。
  利権、つまり行政権の行使によって発生する利益が存在する。その利益の享受が国民に向かっていれば「行政サービス」という単語を使用する。しかし、日本は自由主義であり同時に資本主義であるために、努力した人が努力に見合った配分を受けることができる「配分的平等」の国である。よって、努力または結果(運で結果を得る人もいるので)によって、配分が異なる。それが常習化すれば、当然に上下関係が存在する。たくさんの仕事をする人にはたくさんの権利が付着する。権限が大きければ、それだけ大きな仕事ができる。国家クラスになれば、それは大きな権限になるであろう。そしてその権利を配分的に得ることができる。働かない人も働く人も同じ配分であれば「楽をしたほうが得」ということになる。
  これは、障害者などに働けと言っているのではない。行政のサービスはそのような「身体的な障害で働けない人を保護する」プログラムは必要である。しかし、「なにも辞ない人」「働いてはいたが、すべて娯楽に使用して貯蓄がない人」までを保護する必要はない。昨年末の派遣村の時のように、離職と同時に貯蓄もなく一文無しというのはいささか異常であるように思える。それらの個別の事情が分からないので、何とも言えないが、逆にすべてが税金を使用して救済しなければならない対象であるのかは疑問である。同情すべき事情のある人も少なくないと思うが、自分の税金がそこに使われても保護すべきということを考えるであろうか。
  しかし、「共産主義的均分的平等」をいうのであれば、すべてを保護しなければならないということになる。当然に競争社会はなくなるが、同時に競争の原理はなくなり、誰もが楽をするようになる。「究極の楽」は、働かないこと。他人のために何もしないことである。ここでいう「他人」は親子関係も含まれる。要するに、「均分的平等で成果ができるのであれば、苦しい思いをして結婚し子供を産む必要はない」「子育てをする必要はない」という結論になる。極論ではなるが、バラマキを継続し常習化すれば、少子化は拍車がかかることになる。
  共産主義そのものの批判は、歴史が出してくれている。当然に人間心理、簡単にいえば勤労意欲を奪うということが最大の問題である。絆社会はきれいな言葉かもしれないが、資本主義、自由主義経済の否定を意味している。国民のコンセンサスをそこまでとったつもりでいるのであろうか。

原則5 中央集権から、地域主権へ。

 最後に、中央集権から地方分権という。しかし、この言葉そのものが「内閣の下の政策決定に一元化へ」というものと矛盾している。地域主権が内閣と違う結論をした場合にはどのような調整をするのか。それとも地域の首長まですべて民主党で一元化できると思っているのであろうか。
  ここまで来るとこまごま反論する気は少なくなってくる。極論でいえば「合衆国」にするのであろうか。今まで行ってきた官僚批判や政治の一元化は、この時点で二元政治になってしまっている。
 
  このように、鳩山政権は、「原則」という時点ですでに、日本の歴史や憲法を踏まえることなく、矛盾に満ちた政策をあげているのである。
  すべてが不可能と言っているのではないが、調整をつけるのは非常に難しいであろう。ましてや支持者をすべて納得させるような調整は不可能といってよい。それだけ希望を持たせすぎたとも言える。
  次回からは、個別の政策について、見てみることにするが、この原則が息づいていることを忘れてはならない。要するに「不可能な原則の上に、どのような砂上の楼閣を気づくか」ということを、国民は学ぶ必要があるのではないだろうか。

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鳩山連立政権と小沢民主党の二重政権構造

鳩山連立政権と小沢民主党の二重政権構造

 8月30日の総選挙の結果、政権交代が行われる。これが多くの国民の意思なのであろう。その後、政権人事に関して、さまざまな情報が流れとぶ。
  多くのマスコミは、鳩山由紀夫首相(予定)に関して歓迎ムードだ。「UFOに乗った」という幸夫人とともに、その注目度はアップしている。実際に、個人の人気で政治の報道を行うのはいかがかと思う。マスコミは、全く反省がなく、ただ単に変偏向扇情報道を繰り返すばかりだ。実際に、買った側と負けた側の差をう規模らせるがごとく、自民党の混乱ぶりを報道している。一方で民主党内では猟官運動と新人議員による大混乱であるにかかわらずその混乱が全く伝わってこないのに違和感を感じるのである。
  さて、鳩山新政権に関しては、この政権が選挙前に行ってきた政権公約を実現できるかが一つの試金石になる。その内容は多岐にわたるがおおっく分けて「五つの約束」とされている。
  鳩山政権の政権構想
5原則
原則1 官僚丸投げの政治から、政権党が責任を持つ政治家主導の政治へ。
原則2 政府と与党を使い分ける二元体制から、内閣の下の政策決定に一元化へ。
原則3 各省の縦割りの省益から、官邸主導の国益へ。
原則4 タテ型の利権社会から、ヨコ型の絆(きずな)の社会へ。
原則5 中央集権から、地域主権へ。
 というものである。
  具体的には
  1 ムダづかい
国の総予算207兆円を全面組み替え。
税金のムダづかいと天下りを根絶します。
議員の世襲と企業団体献金は禁止し、衆院定数を80削減します。

2 子育て・教育
中学卒業まで、1人当たり年31万2000円の「子ども手当」を支給します。
高校は実質無償化し、大学は奨学金を大幅に拡充します。

3 年金・医療
「年金通帳」で消えない年金。
年金制度を一元化し、月額7万円の最低保障年金を実現します。
後期高齢者医療制度は廃止し、医師の数を1.5倍にします。

4 地域主権
「地域主権」を確立し、第一歩として、地方の自主財源を大幅に増やします。
農業の戸別所得補償制度を創設。
高速道路の無料化、郵政事業の抜本見直しで地域を元気にします。

5 雇用・経済
中小企業の法人税率を11%に引き下げます。
月額10万円の手当つき職業訓練制度により、求職者を支援します。
地球温暖化対策を強力に推進し、新産業を育てます。

である。(いずれも民主党ホームページよりコピー)
 政先に関しては、今まで私自身さまざまなところで述べたように実現は不可能に近い。「不可能」というよりは「この時点で矛盾している」と言わざるを得ない。理想論ばかりで、現実的に実現可能かというものが含まれている。
  政策に関しては、今後この項目からひとつずつ詳細に考えてい見たいと思う。
 
  さて、問題はこれを実現する民主党政権の体制であろう。
  第一に、内閣総理大臣が鳩山由紀夫代表となる。これは予定されていた。9月3日深夜、鳩山代表は小沢一郎代表代行を党本部に呼び、幹事長就任を打診承諾された。これにより政権は鳩山、党運営は小沢というように完全に色分けされるにいたったのである。
  小沢一郎といえば、1993年の細川政権の時も、閣僚要職に就くことなく、陰で操った。このことにより内閣に諮ることなく、細川首相は「国民福祉税」を発表し、武村官房長官と小沢一郎の対立が深まった。政権二重構造ということがいわれ、政権に安定性がなくなってきたのである。細川首相の政治献金問題も含め、この政権二重構造とそれに対する内部対立で、細川政権は瓦解する。その間の政治的空白期間により、日本のバブル崩壊後の経済混迷は深まったといえる。俗に言われる「失われた10年」の直接的な「戦犯」は小沢一郎であると断言しても過言ではないかもしれない。
  さて、今回の組閣に関して考えてみよう。
  現在閣僚名簿は明らかになっていないが、入閣が取りざたされているのは次の通りだ。
  岡田克也外務大臣
  菅直人国家戦略担当大臣。
  このほかに、野田佳彦(花斉会)・仙谷由人(凌雲会)・輿石東(新政局懇談会)・川端達夫(民社協会)・前原誠司(凌雲会)・直嶋正行(民社協会)・原口一博(政権戦略研究会)といったところだ。一方で国対委員長は山岡賢次が留任する。
  お気づきのように、閣僚候補者の中には、小沢派要するに一新会がいないことに気が付く。一新会がいないというよりは、反小沢の相対性といった意味合いが強い。財務大臣にと推薦されていた藤井裕久最高顧問も、小沢からのクレームで閣外になりそうな勢いである。
  小沢には、民主党という政党そのものを「略取」する狙いがあるように思えてならない。今まで労働組合と組んで、長年野党に甘んじていた政治家たちを、閣僚という甘いポストで誘った。その上で、彼らを一網打尽にし、政務で気を取られている間に「数」を取りに行くということだ。
  小沢政治のもっとも根本は田中角栄の教えにある「数の論理」である。彼の政治は原理主義で、なおかつ数の論理の信奉者だ。そして密室主義が特徴である。政権に鳩山及び反小沢派を出してしまい、未熟な書改正議員や一度落選した「元議員」を束ねるのは簡単なことであろう。これにより、小沢は「数」を得ることができた。当然に、民主党の党運営ということで資金を集めるのも簡単だ。与党の幹事長の経験は自民党でもあるとおり。小沢の集金力は、それが遵法か違法かにかかわらず大きい。ましてやそれが政権党となれば、西松建設でなくても陳情の類は少なくない。そして、内閣に参加しないということは、最低限のプライバシーは保護されたことになる。マスコミに追いかけられることもなく、またそれを拒否することもできる。閣議などで、会議をマスコミに公表されることはない。要するに「プライベートな政党の幹事長でいる」ということは、そのまま密室での会議が可能ということである。要するに、小沢の目指す政策を行うための、政権による反小沢派の一掃が完成した瞬間といえるであろう。
  このことは、すでに、組閣の段階で表れている。「私が一人で決めます」と言っていた鳩山代表に小沢が意見を出して人事が数回入れ替わっている。「政務は鳩山・党務は小沢」というがすでに組閣の段階でそれが崩れてきているのである。藤井財務相の内定の取り消しや、横路衆議院議長の内定など、小沢の意見を無視できない鳩山によって行われたことは明らかである。すでに「小沢傀儡政権」が見えてくる。
  日本国民にとって、小沢が政権を取ろうと傀儡でもかまわないかもしれない。それが善政ならば文句のあるところではない。実際独裁政権は恣意的にあることが問題であり、恣意的でない公平な政治であるならば独裁であるならば、特に不満はないのかもしれない。小沢の場合はそのような善政による独裁でないのは西松の事件でも明らかである。私は何度もここで記載ているように、小沢は西松の問題になった献金の返還をいまだにしていないのである。その資金を使った選挙でバッチをつけた議員が今回を闊歩する。そのことが許されてよいのかははなはだ疑問んだ。そのような状況よりも、自民党がよくないとされた国民の判断はいかがなものかとも思う。それだけ自民党は嫌われていたのであろうか。
  さて、このことで見えてくるのは、民主党の政策のうち「小沢の気に入ったもの」「小沢が利益があると判断したもの」だけが実現するという「現実」である。
  今後、そのような形で、政権運営がされるであろう。小沢氏は無類の政局重視である。政策を曲げても政局を重視する。海外で「小沢一郎」の名を知っている政治家は少ない。日本の中でこれだけ有名でも、小沢は国内でしか通用しない政治家である。ことにアメリカシーファー大使との会見や第七艦隊発言など、不興を買うことを平気で行う。それが日本の国益ではなく、政局重視のものであることは明らかである。
  今後16日の首班指名ののちに、この傀儡政権と二重権力構造が顕在化する。実際は「二重構造」ではなく「傀儡政権」が明らかになるであろう。
  民主党の政策実行や鳩山への注目度が増すが、実際に今回の内容が「プロレタリア革命」である(前回の論文を参照)であり、自民党から小沢一郎への利権の移譲であることを考えれば、政策の実行が、すなわち国民のためであるのか、あるいは陰に回って恣意的な目的を持つ陰謀がうごめくのか。国民は見極めなければならないであろう。
  いずれにせよ、民主党フィーバーがなくなったのちに、何が始まるのか、国民は自分で選んだ政権をしっかりと監視しなければならないであろう。

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総選挙総括・日本版プロレタリアート革命と自民党歴史的敗北

総選挙総括・日本版プロレタリアート革命と自民党歴史的敗北

 8月30日は様々な意味で歴史的な一日となった。わたしは、自民党の田村重信政務調査会調査役のご厚意により、期日前投票を前日までにすませて、御殿場の陸上自衛隊総合火力演習を見に行った。あの迫力はすごい。子供ならずとも、日本人は武器実弾の迫力をみることは少ない。日本人の多くは、戦争や武器使用は数十インチの画面の中のことと思っている。私自身もそうだったのかもしれない。爆風や轟音は我々が守られると思えば、頼もしくもあり、一方敵国から飛んでくると思えば驚異でもある。弾が飛んできてからでは「専守防衛」といえど犠牲者は発生する。国民の安全を守るためには、これら武器という実行行為と同時に、外交など実行行為にならないための不断の努力が必要になる。経済発展も貿易も、平和でなければ成立はしない。逆に、その平和を維持するために、自衛隊のこれらの火力は必要なものである。
 暑い中、彼等は常時の訓練の成果を演じてくれた。もちろん、訓練であり、またある意味では観客総数三万人超への見せ物だ。訓練や実践の想定とは異なるであろうところも多々あるであろう。しかし、何かあったときに最前線で戦うのは彼らであることには代わりはない。事に、敵国という戦争だけではなく、自然災害も同じ状況になる。
 その外交は、継続的な国の意志として海外から尊重される。その基本方針を決める政権の交代が8月30日に行われた。結果は知っての通り、民主党308議席、自民党119議席で、民主党が圧勝となった。9月16日の首班指名で鳩山由紀夫代表が総理大臣になることは明らかであろう。ここに政権交代が行われる。

 わたしは、今回の選挙をあえて「日本版プロレタリアート革命」といいたい。

 革命というと、日本ではよいイメージしかない。しかし、いくつかの革命をのぞき、国民を不幸に導いた革命も少なくない。日本の今回の革命もその結果は歴史の溝知り事になるであろう。百年後、日本人が、よかったと思うか、バカなことをしたと思うか。
 いずれにせよ、革命と言うことに関して、少し歴史からみてみよう。
 まず、革命はどうして起きるのか。
 革命が起きる要件は三つ。一つ目は現政権の腐敗と国民の信頼の喪失。二つ目は、利権の移譲。支配階級の交代とその受け皿の創設。三つ目は広義におけるマスコミの煽動。
 これら三種類の要件を歴史的な革命とともにみてみよう。まず現政権の腐敗と国民の信頼の喪失である。フランス革命は、ベルサイユのバラという歌劇で有名になった。ルイ16世とマリーアントワネット夫妻の悪政による国民の困窮が原因とされる。しかし、実際はルイ16世夫妻がどんなに浪費をしても、フランス国民が困窮するほどの浪費などできるはずがない。実際は「太陽王」といわれたルイ14世による国庫の枯渇と階級社会が問題の原因だ。ルイ14世は、オランダ侵略をはじめとした侵略戦争と、中央集権・重商主義による政治を行った。これが16世の治世になると、軍費による国庫の枯渇、中央集権による貴族の特権階級化、重商主義による貧富の差の明確化が顕在化する。ルイ16世は、このときに調整型の政治をとればよかったのか、手遅れだったのかは不明である。しかし、このときにルイ16世とマリーアントワネット夫妻の浪費がフランス国民の感情に火をつけたのは間違いがない。要するに、長期政権とその制度披露による矛盾が国民に蔓延し、不公平感が広まると、そこに、政治腐敗が顕在化する。そこに小さな事でも信頼を損なう行為があれば、それが引き金となるのだ。日本の明治維新でも同じだ。400年という長期間安定政権であったが、当然に「米本意世による貨幣経済」の矛盾は大きくなる。下級武士は「士農工商」の身分制度でもっとも最上位にいながら、貨幣経済下では商人に頭が上がらない状況になるのだ。そこに、黒船来航と、外国人への最恵国待遇が矛盾を増大化する。諸藩が独自に海外と戦争をする。薩英戦争などで、幕反体制の矛盾が顕在化する。そしてその矛盾を感じた下級士族と一部平民(高杉新作の奇兵隊など)により、維新が遂行される。幕府は、幕藩体制と尊皇・攘夷とで挟まれ、内部分裂を起こしてしまい、また、外国人など突発事項に対処できなくなっていたのである。
 今回の自民党もまさにそのものであろう。小泉改革は、小さな政府の実現と競争社会の導入による国力のアップを図った。しかし、急激な制度変更は、時間を追うにつれその歪みが発生する。阿倍・福田・麻生閣内閣はその歪みに対する対処が後手に回ってしまった。その結果が雇用不安と派遣村であろう。実際、今回の選挙でも小泉人気は衰えていなかった。小泉人気が衰えていなかったのは、小泉の政策そのものは間違っていなかったという事を示す一つの指標にもなる。しかし、ルイ16世が14世の歪みを一身に背負ったように、そしてフランス革命でもルイ14世が国民から指示されていたように、麻生太郎氏一人がその責任を負わされた形だ。この小泉改革以外にも、年金問題や官僚・閣僚の不祥事が追い打ちをかける。中川昭一氏の会見などは、その象徴なのかもしれない。
 そのような事項で内部分裂が起きるのは江戸幕府と近いところがある。官僚改革派と、歪み解消派の二つにわかれた自民党議員は、国民の批判を一身に浴びた麻生執行部に対し、最後まで麻生おろしとして内部混乱をした。国民からすれば見苦しい限りである。また、外国からの突発事項への対処が遅れたのも江戸幕府ににている。リーマンショックにたいする補正予算実行は、はじめから大きく行けばよいものを、三段ロケットと称して長期化した。これは、経済政策としては、やらないよりはましではあるものの、景気刺激には余分なコストがかかることになる。
 二つ目に、利権の移譲である。フランス革命は、ルイ16世とマリーアントワネットをギロチンにかけた革命政府は、共和制に移行する。共和制の後、その矛盾を受けて対当するのがナポレオンである。結局ブルボン王朝から平民出身の軍司令官ナポレオンに利権が移動したにすぎない。平民や下級階級のひとが支配階級になるのが革命だ。決して国民平等の世界が生まれるわけではなく、頭がすげ変わるだけである。明治維新でも同じ。維新の三傑をはじめとする薩長土肥の下級士族が台頭する。坂本竜馬の考えた国民主権の国会構想は、第二次大戦敗戦後、アメリカにより改革されるまで成し遂げられなかった。そればかりか、明治政府は民権運動を弾圧した時期があったのだ。このほかにも、中国の毛沢東然り、ソ連のレーニン然り、キューバのカストロ、リビアのカダフィ、北朝鮮の金日成、いずれも下級支配階級者の利権移譲の実現でしかない。北朝鮮の国民が現在革命によって幸福になったのかといえば、読者の皆様はどのような結論を出すであろうか。
 今回の選挙も、単純に自民党から民主党へ、もっといえば、自民党の支持団体である経団連から、民主党を支持する連合など組合側への利権移譲がなされただけでしかない。労働組合の幹部が「貴族」といわれるほど豪華な生活をしていることは、いまや常識である。経営者から組合への利権の移譲。これが「国民の勝利」なのかははなはだ疑問である。そもそも「官僚政治」は何が悪いのか。どうしてよくないのか。その説明はだれか受けたのであろうか。希少な不祥事をあげて、それを全体にあてはめてしまっているだけではないだろうか。それら理由づけこそ「利権の移譲」でしかないのだ。年金問題などは、管直人など民主党の代議士が厚生大臣であったときに見落としてきた問題であるし、拉致問題は、社会党はなかったと論文を掲載していたのだ。それらの謝罪もいまだに存在しない。それは利権がほしいから事故の責任を他人(官僚や自民党)に転嫁しているからに他ならない。
 第三に、マスコミの煽動である。昔はマスコミというものはなかった。その代わりに処刑は公開で行われ、日本では「獄門」「さらし首」と言ってそれを世に広める方法をしていたのである。フランス革命時代も同じで、バスティーユの襲撃など多くの事件や夫人がヴェルサイユ宮殿にパンを求める交信をするなどの市民に訴え徐々に集団を増やしてゆくという方法を行っていたのである。ちょうど本が一般に読まれるようになっておりルソーの社会契約説などの考え方が市民の間に広まる役目をしていたのも、一種のマスコミ効果であろう。明治維新においても、生麦事件など多くの事件がマスコミの役目をした。それ以上に江戸や横浜の街を闊歩する「南蛮人」「紅毛人」が何よりの宣伝効果であった。現在の北朝鮮の報道も、まさにマスコミによる煽動により国民が異常な状況になってる一例である。
 今回の選挙がマスコミの煽動である以外に他は何もない。麻生内閣に失政がなかったのは間違いがない事実だ。先にあげたように、小泉内閣の意生み出した「格差」というひずみを埋めることができなかったし、それ以前から延々と続く年金問題なども、現政府が問題があるかのごとく報道を繰り返していた。何よりも「政権選択選挙」ということ自体がおかしい。そもそも、選挙は代議員を選んでいるものの、それにより今までも政権選択をしていたのである。しかし、それが、今回だけことさらにあげているのは、政策が論争の的にならなかったからである。自民党も、ネガティブキャンペーンに終始した感があったが、実際は政策を比較すべきであり、その政策を行ったときに具体的な生活や環境の変化を考えるべきであったと思う。しかし、マスコミがそれをさせなかった。われわれ日本人は、隣の北朝鮮を気にするよりも、まず我が国のあり方を見直すべきではないのか。
 いずれにせよ、このようにして革命が発生した。それだけでなく、それが「プロレタリアート(無産階級)」によって行われたという。
 実際、日本に「プロレタリアート」がいるのかといえば、それは違う。しかし、日本人は「心理的プロレタリアート」の集団である。
 日本人は、常に横並びを意識し、また世間の目というように、実態のない社会という集団における自分の位置関係を意識している。一時期「KY」(空気読めない)という言葉がはやったが、まさに「空気を読まないと周囲から奇異な目で見られる」という文化の中にある。その国民性に対して、戦後60年間日教組は「権利意識教育」を施してきた。そのために、結局は「権利の充足がないことは不幸なこと」ということになると同時に「自分の権利が認められないのは他人が悪い」という責任転嫁の考え方に傾倒してくる。この考え方が究極に行ってしまったのがニートであり、一方で通り魔的な異常殺人である。昨年の秋葉原通り魔などはその典型と言えよう。自分が悪いという義務の感覚が抜けていることが、そのまま他人を傷つけるという行動につながってゆく。また、これが、集団になると「集団的不満状態」が成立してしまい、「心理的プロレタリアート」が発生する。これは「無資産」という意味ではなく「心理的に充足することを知らない人」という意味になるのではないだろうか。そして「充足できないこと」の責任が、そのまま「政府に対する不満」ということになる。
 今回の選挙は、その「心理的プロレタリアート」集団が、横並び意識によって他社と論調を合わせて「政権交代」という不確定な現状打破を狙ったものである。それが大きなうねりになり、「プロレタリアート革命」になったのだ。その中には政策などは考えず、現状打破と、責任の転嫁先の破たんの身を望み将来を考えない「無知な国民」とそれを煽動する集団が発生するのだ。私は、私の著書の中で民主党をナチスドイツと同じとしたが、まさにそのような結果になったと考えている。
 さて、この状態において、自民党はどのような再生をするのか。今までのままではだめであろう。また、民主党が善政を行ったらそれもだめであろう。ただ143人もの新人議員をどのように束ねて意見の統一を求めるのかは、なかなか難しい。
 現段階で、若返りなどと言われている。しかしそれだけであろうか。実際に、自民党の再生というよりは理性的な政治を取り戻し、日本を良くするためには、まずは大人に対する再教育システムの開発であろう。活字離れなど憂慮すべきことは非常に多い。ことに「考えない大人たち」は、もっとも大きな問題だ。考えない大人たちが多いことが戦前日本を戦争に導いたのだ。
 第二に、理想を持つことである。100年、50年先の日本の姿を思い描き、そしてそこから現在を導き出して考えなければならない。目標がないので、どうしても直近の生活やバラマキに目が行く。それが国の借金を増やし、子や孫の世代の日本を暗くしてしまっている。長期的ビジョンを持った政策うを立てて、その中で「今何をすべきか」を国民に問いかけなければならない。高速道慮を無料化したり、借金して子供手当をばらまいたり、官僚組織を破壊してしまって、日本の政治が持つのか。どのような日本が待っているのか。政治家は、しっかりとそれらを示さなければならない。直近の財源論などは二の次である。
 最後に、フランス革命でナポレオンの登場、明治維新で維新の三傑の登場のように、しっかりとそれら政策を実現し、そして日本人を導くカリスマ指導者が出現しなければならない。若返りということは、逆にいえば、今までの人にそのカリスマ指導者がいなかったということを示す。本当にそうなのか、また、議員でなくてもそのような指導者の候補者がいるのか。人材育成が必要であろう。
 いずれにせよ、しっかりとした製s買うと議論をする環境が日本を良くする方策である。利権の移譲で民主党の独裁にしてはならない。国民はそのことを肝に銘じて政治を監視しなければならないのではないか。

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