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2009年10月

プライベートブランド商品のデフレスパイラル

プライベートブランド商品のデフレスパイラル

 最近PB商品という単語を読く耳にされるのではないでしょうか。
 ご存じの方も少なくないと思うが、正式名称はプライベートブランド商品である。
 先日よりニュースをみていたら、大手スーパーイオンが880円のジーンズ発売、西友が850円、
ドンキホーテが690円でジーンズを販売しているという。
(値段間違えていたらごめんなさい。ニュースをみたときの記憶だけで書いています。ご指摘をいただきましたら訂正いたします)

 鳩山政権になってから、政治のことばかり記載していた。
 ここらで少し、経済に関する記事も書いてみたくなった。
 今回は経済の話題にしてみたい。
 ほかにも書かなければならない事は、非常にたくさんある。
 政治の世界では、概算要求が過去最大の90兆円を超え、閣内不一致が顕著になりつつある。
 鳩山首相は、赤字国債の発行を容認し、すぐに発行ができないならば政権公約の一部断念もあるという。
 そもそも、補正予算をいくら削っても、来年の予算には回せるが、再来年の予算には回せない。
 政策実行が、赤字国債の常習化にならないように気をつけなければならない。

 しかし、日本そのような重要案件がありながらも、今回は経済について書きたい。
 そもそも国会新聞には「経済面」が存在しない。
 国会新聞は、与党面・野党面・国際面・公務員面・地方面で構成されている。
 国会と経済とはあまり関係がないというスタンスである。国が経済活動の中心になれば、それは統制経済になる。
 日本が資本主義経済で、自由経済である以上、それはあり得ない。
 要するに現在の資本主義経済下に置いて、政府が主体となった経済はあり得ない。
 ましてや、立法府が経済の主体にはならないのだ。
 立法府で審議されるのは、あくまでも財政であり、国が事業収益を挙げることは、基本的には存在しない。
 この論理からすれば、経済の記事を書いた瞬間に、「ボツ記事」なのである。
 国会新聞において、これが許されるのは「財政」と「景気」(株価・物価指数など)である。
 財政の中には、税収と歳出、その中でも補助金や助成金行政が含まれる。
 よって、プライベートブランドと言った瞬間に「完全なるボツ確定」なのである。

 しかし、最近、必ずしもそうではないのではないかと考えている。
 韓国の政府高官で大学教授と話したことがある。
 李明博大統領の経済政策がふるわず、支持率が落ちた頃の話だ。
 景気は大統領の政務とは関係ないのではないか。
 私がそう質問したところ、彼はこう言ったのである。
 「政治に関係する人はそう思っています。
 しかし、国民は、自分の生活をよくするために大統領を選んだので、景気が悪くても、
地震が起きても、戦争が起きても大統領の責任です。
 そしてその処理は、最も重要な大統領の仕事です。
 だから、行政のすべての大権を大統領に託しているのです。
 問題は、国民が景気が悪くなる事をしながら、国民がその責任を転嫁する事でしょう。
 でも、その国民に選ばれたのが大統領ですし、大統領も国民なのです。」
なるほど、その通り、としかいえなかった。 

 さて、経済問題を書く事に関して、かなり脱線してしまった。
 しかし、今の政局も同じだ。子供手当で政権交代実現というのは、単純に経済、
と言うよりは家計という小さい単位で政権交代がなされたことを意味する。
 本来は切り離される経済と政治が、国民の認識の中では一体化しているという事になるのだ。
 ただし、その選択が必ずしも正しいとは限らない。

 今回はプライベートブランドがはやる理由という、純粋に経済的な話から、何とか政治の話につなげてみたい。
 
 少し話がそれたが、話をプライベートブランドに戻そう。
 プライベートブランド商品の特徴は、「ノーブランド」「安い」の二つだ。
 そもそもプライベートブランドの反対語はナショナルブランドである。
 ナショナルブランド、つまり、通常商品は、メーカーが開発費やオリジナリティを付加し、メーカーそのもののブランドを付して販売する。
 メーカーは、メーカーだけで流通させると販売量が少なくなるので、問屋・卸業者を通して、各地の小売業に販売を行う。
 これらナショナルブランドの流通は、当然に中間マージンが含まれ、それらを勘案して「希望小売り価格」いわゆる定価が設定される。
 この「中間マージン」には、「中間業者の利益」や「輸送コストや輸送コスト」だけでなく、
「ロス高」といわれるものやあらかじめ値引き販売を予想して「値引き高」を含んでいるものもある。
 「ロス高」とは、食品などのブランドで説明すれば、「売れ残り廃棄商品」が出てくる。
 これは中間業者や小売業社、どの段階でも発生する可能性がある。
 食品だけでなく、衣類でも、秋物を冬に販売するわけには行かないので、期間が少し長くなるだけでロスは存在する。
 このほかにもサランラップや乾電池などは「品質保持期間」として表示されているものが多いので、読者のみなさんも確認することができるはずだ。
 これらが、新規商品と定番商品では大きく変わってくる。
 製造に関しても販売予測がつくものと全くの新商品では異なる。
 結局そのロス高の設定が、新規商品のキモとなる。
 チラシなどに記載された「10%引き」などは、ほとんどこの希望小売り価格に対する比率である。
 ロス高との関連で言えば、このような値引きは、売れ残りというイメージがあるかもしれない。
 衣料服飾品の「秋物大バーゲン」などはそのイメージを増大する。
 しかし、定番商品でも値引きができるのは、ロス高が当初設定よりも生産調整で少なくすることができるため、値引きが可能になるのだ。
 食品で売れている商品がチラシの目玉商品になるのは、まさにこの現象であるといえる。

 一方、プライベートブランドは、小売業が独自に小売業のブランドを設定し、そのブランドを付して販売する。
 基本的には委託製造であり、小売業社が全品買い取り(余剰生産分をのぞく)ということになる。
 製造者からみれば、特定のブランドを付した商品を、ほかの小売店で販売することはできないからだ。
 製造数全品買い取りは、当然に製造業においてロス高がなくなるという事だ。
 同時に、製造業者は、作った分をすべて買ってもらえるので、広告宣伝費などの余分な経費を必要としなくなる。
 一品あたりの利益幅は少なくても、それだけ製造完売数量を持つことができるので、売り上げそのものは拡大する。
 リスク無く、予定利益を得ることができると言うことだ。
 小売業は、その分安い仕入れ単価で仕入れることができる。
 自分が不良在庫を抱えることになれば、赤字になる可能性もある。
 しかし、実際は必ず「売り切る」事のできる商品であるために、その心配はいらないという事になる。
 具体的には、新商品や趣向品は行わず、誰でもが手を出す定番商品をプライベートブランドとして販売するのだ。
 リスクが少なく安い仕入れ単価の消費であれば、販売価格を下げることができる。
 小売業のブランドと、価格を訴求力とするので、包装資材なども最低限のものでよい。
 このことによって商品の低価格化を赤字にすることなく実現できるのだ。

 逆な見方をすれば、ナショナルブランドが使用していた広告宣伝費や中卸などは必要が無くなる。
 極端な言い方をすれば、製造業者と小売業さえあればよいと言うことになる。
 極論かもしれないが、卸業者の役割や、広告宣伝の企画などは必要はない。
 そこにあるのは、小売業のマス・バイイングパワーでしかないのだ。

 このプライベートブランド商品が、価格競争を始めると言うことになる。
 プライベートブランド商品の場合、競争は、価格と品種(アイテム数)の二種類で競争は可能である。
 このアイテム数による競争は、様々な商品の低価格かという事になる。
 小売業もすべて買い取りになるのだから、不必要な売れ残りが懸念される商品を出せば、損をすることになる。
 アイテム数の競争は、販売統計と、そのアイテムにおける顧客のブランド志向。
 そして、その商品のプライベートブランド化で売り切れるかどうかという「読み」が必要な作業だ。

 一方で「低価格化」は、単に「製造コスト」「製造者利益」「物流コスト」「小売業利益」のいずれかを圧縮すればよいことである。
 しかし、この低価格化は、そのまま企業利益の圧迫を意味する。
 下手をすれば、商品単品では黒字でも、施設費や設備の減価償却をあわせれば赤字になる商品も出てくるであろう。
 それでも、売り上げと「安売り」の魔力は抗しがたいのが現状だ。
 売り上げがあるという事が、会社規模そのものの指標になるし、それは、一方で、会社の与信につながる。
 本来は利益と利益構造が与信であるが、日本の場合必ずしもそうならない場合が少なくない。
 売り上げと取引先の与信が、与信につながるケースが少なくないのだ。
 その与信で新たな借り入れが可能になる。しかし、その借り入れの金利は、現在のゼロ金利であるから維持できる場合が少なくない。
 別な言い方をすれば、与信枠の借入金を返せる十分な「利益」が保証されないケースも少なくないのだ。

 さて、まず、簡単に価格競争になった場合の問題点を、会社経営と金融機関の与信の問題でみてしまった。
 そこまで行くつもりはなかったのであるが、成り行きで書いてしまった。

 プライベートブランド商品が蔓延したときのリスクと、国家経済に及ぼす影響を、このようにみてみることにしよう。

 まず、中間業者の仕事がなくなるという危険。次に、低価格化によるデフレの進行。
 そして、デフレ経済における金融金利の問題と会社与信ということが挙げられる。

 まず、中間業者の仕事がなくなるという事に関して、少し考えてみたい。
 大多数の消費者にとって、大型ショッピングセンターによるプライベートブランド商品の販売は好ましいことかもしれない。
 しかし、大型ショッピングセンターに行かない消費者にとっては、そのこと自体何の関係もなくなる。
 中間業者の役割は、商品を一度ストックして、小ロットで小売店に卸すことが挙げられる。
 大型ショッピングセンターもあるが、商店街の個人商店もある。
 中間業者の活性化は、そのことによる商店街個人商店の活性化につながる。
 これは言い過ぎかもしれないが、逆に、中間業者の凋落は、個人商店の死滅・商店街のシャッター通りを意味する。
 なぜならば、個人商店への流通経路が破綻するからにほかならない。大型ショッピングセンターへの偏重と商品在庫の集中になる。
 当然に製造業者にとっても、それは販売チャンネルの縮小となる。
 これにより、極端に言えば大型ショッピングセンターの寡占化につながるのである。
 東京などの大都市にいれば、必ずしも層ではないかもしれない。
 しかし、地方のシャッター通りと山の中の大型ショッピングセンターをみれば、一目瞭然といえる。
 駅前に集中する老人や自転車商圏の商店街の切り捨てになってしまう。

 一方で、大型ショッピングセンターにも、問題が生じる。
 問題は大きく分けて二つ。
 一つは低価格の定番商品しか売れなくなる。
 結局はプライベートブランド商品よりも安くナショナルブランド商品を売れなくなると言う問題。
 上記のように、ナショナルブランドは、はじめから中間業者や広告宣伝料などの利益をパーセンテージで織り込んでいる。
 当然に、そのパーセンテージを崩して、また広告宣伝をやめて大型小売店に卸せば、
製造量が違うために中小の製造業者よりも安い値段の商品供給が可能だ。
 しかし、大型小売店にすれば、全品買い取り在庫の自社ブランド商品を売れ残りにするわけにはいかない。
 結局のところ、プライベートブランドよりも安くナショナルブランドを売ることができなくなると言うことだ。
 イオンなどは、このことを避けるために「トップバリュー」と「ベストプライス」二つのプライベートブランド商品を作るという苦肉の策を行う。
 あえて、苦肉の策というのは、ふたつのブランドの全品買い取りは、当然にリスクを含むことになるからだ。

 もう一つの問題としては、この要にして製造業そのものが疲弊してしまえば、新商品の開発が遅れると言うことである。
 現在のアメリカの産業構造がそうだ。
 以前GMの破綻に関して記載したときに書いたが、アメリカは安い商品をとるために、軍需と異なる商品の製造がない。
 アメリカは金融と軍需産業(自動車や飛行機)しかないのだ。日本も同じになる可能性がある。
 多くの商品を低価格化するためには、当然に人件費の安い国での製造と言うことが出てくる。
 中国を始め海外の製造拠点は少なくない。
 これらが産業の空洞化の原因となっている。
 この空洞化が、「本物の空虚」になってしまったとき、日本の製造業は海外しかなくなり、軍需産業のないアメリカ製造業と同じになってしまう。
 日本は、その技術力と新規開発力が大きな力であり国際的な競争力の源だ。
 技術力は中小企業が中心になっている。
 機械化された製造で技術力は生み出されない。
 その機械を仕入れれば、外国でも同じ品質の製造が可能だ。
 よって、機械化できない手工業分野が、日本の技術力の根元となる。
 それら高技術の中小企業の部品で作ることが、日本商品全体の品質の向上と、低価格化に貢献している。
 一方で、新規開発力は、主に応用力だ。
 全く新しいものを生み出すのではなく、既存のものの改良や性能向上は日本のお家芸である。
 それまであったラジオをトランジスタラジオとして小型化し、カーラジオに組み込むなどは、日本らしさの象徴であろう。
 現代で言えば、液晶テレビなども日本の技術が世界トップクラスであるし、
ボーイング社の飛行機の6割は日本の技術力の結晶と言われるほどである。

 話は少しそれたが、プライベートブランド商品の販売には、これら日本の長所を活かす、成長させる要素はない。
 あるのはコスト削減という、経済的な要因である。
 同時に、中間企業や製造業の利益の圧迫は、これら日本の製造業の資金的余裕を奪う可能性がある。
 このことは日本の産業構造がおかしくなるだけでなく、中間業や製造業の雇用や従業員関係者の所得も減ることになる。
 結局、消費者の所得を減らしてしまう事になる可能性があるのだ。

 この辺から、低価格商品発のデフレ進行の話題になる。

 小売業者は、プライベートブランド商品の販売を行う。
 そのときの切り口は「安い」である。
 品質や機能などが打ち出されるのではない。
 その安さ追求のために、製造業や中間業が仕事が無くなることはすでに書いた。
 彼らだけではなく、広告宣伝の会社なども当然に仕事が減る。
 ブランドが無く、商品の品質や機能性の広告がなければ、安いと書いたチラシやポップで十分である。
 当然に、これら仕事が無くなった、もしくは減った業者の従業員の所得は少なくなる。
 プライベートブランド商品が少ないうちはよいが、
岡田克也外務大臣の親族が経営するイオンのような5000アイテムもラインナップとしてそろえるのでは、各業態に影響がでる。
 結局大型小売業がプライベートブランドを作ると、その大型小売業で同種の商品が売れなくなる。
 高機能や高品質のも商品が売れなくなると言う状況が生まれる。

 これは「安いから仕方がない」から「それでよい」に変わる。
 なれてくると言うことはそういうことだ。
 高品質や高性能は「不要な機能が付いている」と排除することになる。
 結局新規商品開発のモティベーションが無くなる。
 これは新規商品を作り出す能力を奪うだけでなく、高機能に対する消費者の購買意欲を削ぐことになってしまう。

 現実をみてみよう。
 たとえば、今コンピューターでネットブックというものが人気だ。
 ある通信会社と契約をすれば、1円で手にはいるということで、学生や若い営業マンを中心に広がっている。
 ネットブックは、当然に機能が限られる。
 私は所有していないのでわからない部分も多いが、CDロムなどがついていないし、ハードディスクやメモリの容量も限られている。
 私などは、購入しても使えないかもしれないと思う。
 しかし、学生などは、これで用が足りてしまう。
 コンピューターの「ハイエンドモデル」などは必要がないという事になってしまう。
 一方、そのような低価格ノーブランド商品がないのが携帯電話の世界。
 携帯電話は、今やワンセグでテレビが見れることが標準のようになっている。
 メールやインターネットは通話と同じ普及率だ。
 これに関しては、未だに高機能が求められる傾向にある。
 携帯電話は、結局通信機器であり、電波の使用と言うことがあるために、ノーブランドは作りにくい状態にある。
 同時に携帯電話の反則金などがなければ、なかなか低価格かは難しいと言うこともある。
 価格帯が高くなれば、購入者の意識も高くなり、当然に高機能を求めることになる。
 片方には安いという価格と、消費者の可処分所得の問題があるが、
携帯電話には、そのことよりも長期間使用と、高機能が求められ、それが購買意欲をかき立てることになる。

 このようにみてくれば、プライベートブランドが、社会全体のデフレを牽引していることが見えてくる。
 これだけでなく、これは「売り上げ」は延びるものの、「小売業の利益」も消してしまう。
 単純に言えば、「プライベートブランド」という名前を借りたダンピング競争でしかない。
 このことは、一見一人勝ちしているように見える小売業の従業員も、給与が頭打ちになるということを意味している。
 そして、そのことは「社会的勝者」が少なくなる「ダンピング地獄」いわゆるデフレスパイラルに突入することになる。

 金融与信と言うことになれば、与信は返済原資が基本だ。
 要するに売り上げではなく会社の利益をいかに返済原資に充当するかという事が与信の基本だ。
 会社の通過金銭の総量を担保とするものではない。
 マイカルは、年間売り上げ2兆円を越えながら倒産した。
 これは有利子負債を返済することができなかったからにほかならない。
 社会的状況や倒産の理由は別にして、売り上げが金融の与信と関係がないことは明らかだ。
 ちなみに売り上げの大きさは、販売点数の多さと比例する。
 要するに、販売戸数に従って得られる仕入れ割り戻しなどは、売り上げに依存する。
 一方、金融与信は売り上げではないということだ。
 そして、プライベート商品は「売り上げはあっても利益を取れない」という現象を発生させる。
 通常であれば、売り上げが多ければ利益も多いと言うことがいえるのであるが、この場合、必ずしも層でないという事ができてしまうのだ。

 このことは、金融機関による追加融資の縮小を意味するだけでなく、金融機関内部における「貸し倒れ引当金」などの経費
(引当金の積み増し)をかけることになる。
 当然に金融機関そのものの経営指標も悪化することになってしまい、
中小企業などに対する貸し渋りがよりいっそう拡大する可能性を秘めることになる。
 これは、金融だけでなく日本国内の市場の縮小や、景気の後退を意味することにつながる。
 中間業者などの業績不振が重なればなおさらのことだ。
 ましてや、亀井大臣の主張する金融モラトリアム(支払猶予)が行われれば、金融機関そのものの経営危機に発展する。

 以上の状況から、社会的に影響がでる規模の大型小売業において、プライベートブランド商品の販売は、そのような影響がでる可能性がある。
 実際、いくつかの商品を展開しても何ら問題はないのかもしれない。
 しかし、これらの継続は、顧客消費者の値頃感の変化となって徐々に経済をむしばんでゆくことに変わりはない。
 私自身「安い」ということは悪くないと思うし、それら商品を購入する。
 また、富裕層はそのようなことに関係なく高級品を買うのかもしれない。
 しかし、これらが「行き過ぎた」場合、たとえばプライベートブランド専門の安売り店ができてしまうなどのことが起きれば、
ここに書いてあることも、現実味を帯びてくることになるであろう。

 このことを、今の民主党政策に無理矢理押し込めてみよう。
 経済政策の欠如が鳩山政権では言われているが、それに当てはまることもあるからだ。

 まず「無駄を省く」ということだ。無駄を省くのはよいことかもしれない。
 しかし、それは、小売業で言えばプライベートブランド専門でよいと言うことを意味する。
 ムダ使いを奨励するわけではないが、ある程度の「余裕」がなければ、ニッチ産業まで潤うことはない。
 よって、当然に無駄を完全に省いてしまえば、新規事業や新規政策の実現ができなくなり、国際競争力が無くなる。
 また、そのことは、貿易立国日本の経済が破綻すると言うことに近い意味を持つ。
 問題はムダかムダでないかの判断だ。
 「ムダ」を省くのは「ムダ」であるからであり、「ムダに見えてムダでないもの」の処理をどうするかは疑問だ。
 上記のように、新規商品の開発費や無体財産権、広告宣伝費など、関連費用や事務費を「全部ムダ」といってしまっては、世の中が回らない。
 過去に「ノーパンしゃぶしゃぶ」が話題になり、民間の官僚接待が問題になった。
 このことにより、それまで接待で潤っていた全国の「盛り場」が一斉に灯りが消えたのだ。
 風俗店やクラブの衰退は、そのまま外国人の進入を許す結果になり、昔の盛り場は、今外国人の覚醒剤の密売場所となっている。
 どうじに、外国人キャバレーなどになって、売春行為やぼったくりバーが横行するようになった。
 要するに、灯りの消えた風俗街は、すぐに犯罪の温床になったのだ。無駄を省くという内容が、同じ事にならないとは限らない。
 犯罪の温床は無くても、失業者を大量に排出する可能性はある。
 今のままでも、ダム工事就労者の今後の雇用の保障はないのだ。
 そして、その原因行為の「ムダ」の基準は明らかにされないのである。
 「マニフェストに書いてある」で失業する労働者の保護策は、もっとも「ムダ」ではないのであろうか。
 ましてや、マニフェストにこだわって、景気対策を中止しながら、新たな景気対策の補正予算を組むなどというのは完全な「ムダ」でしかない。

 もう一つの政策的論点は、デフレスパイラルだ。
 これら安売りをしながら社会全体の景気回復は、企業への資金投入や、新規事業開発費の補助がメインとなるべきだ。
 子供手当2万6千円を配っても、プライベートブランド商品ばかり購入されては、景気浮揚につながらないことは明らかだ。
 とはいえ、消費者心理として考えれば、2万6千円しかないのである。
 限られた収入を上手に活かすには、安価な商品の購入となる。
 上記のように安価でないものには、多くの場合、広告費や開発費の償却が含まれる。
 消費者にとっては安い方がよいという思考が働く場合に、これらに対する購入費用のアップは、それこそ「ムダ」なのだ。
 少なくとも子供手当は一部を除く景気対策にはならないという結論になるのだ。
 実際、これらに対しての実質的な検証がなければ、国費(税金)を無駄に使うことになる。

今回は、政府の政策に関する内容ではない。
 しかし、プライベートブランド商品も、政府政策も、
いずれもしっかりとした検討や社会全体の景気ということを考えなければならないということだ。
 ただ手前勝手な理論では、全体を崩壊させてしまう危険がある。プライベートブランド商品も「ほどほど」にすべきではないだろうか?

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2兆5169億の補正予算執行停止と反企業政策

2兆5169億の補正予算執行停止と反企業政策

 10月6日、仙石由人行政刷新担当大臣が、麻生が行った大型補正予算のうち2兆5169億円分を執行停止とすると発表。これに対して、鳩山首相は、上積みを支持するという異常事態が発生した。
 私がここで「異常事態」と評したのは、当然にそれらの措置に問題があるからだ。いつものごとく早速問題点の把握から行ってゆこう。
 第一に、国会で決議をとった予算を、勝手に執行停止できるのかということだ。国会の決議はそんなに軽いものであったのか。第二に、どうしてそこまでしなければならないのか。単純に言って、「民主党のマニフェスト実現のため」ということであるが、国会の予算を市瀬伊藤の公約実現のために左右してよいのかという事もある。第三に、景気対策をどうするのかという事だ。もともと、この補正予算はリーマンショックからの回復のための起爆剤である。それをやめると言うことは、当然に、それに変わる景気対策が必要になる。これらをやめながら、菅直人副首相が発表した雇用対策を別途行うというのは矛盾している。ましてや、「内需拡大」といって国民に金をばらまきながら、企業を非難するのは、その金の使う先に問題があるとしているのと同じだ。亀井静香金融大臣の「大企業が家族間殺人を起こさせている」というのは、あまりにも稚拙な批判である。しかし、それらの感覚が現在の内閣を支配しているという事には間違いがない。
 
 これら論点を細かくみてみよう。第一に、国会で決議をとった予算を、勝手に執行停止できるのかということについてである。まず、この内容について結論から先に見てみる。簡単に言って、民主党は憲法違反の行為を平気で行い、なおかつ三権分立の原則を踏みにじる政党である。今回のこの件も、完全に憲法違反である。日本国憲法では、第七章の「財政」という章で国家の歳入と国費の支出に関して、規定されている。これについては下記の通りだ。
 
  第八十三条 国の財政を処理する権限は、国会の議決に基いて、これを行使しなければならない。
  第八十五条 国費を支出し、又は国が債務を負担するには、国会の議決に基くことを必要とする。
  第八十七条 予見し難い予算の不足に充てるため、国会の議決に基いて予備費を設け、内閣の責任でこれを支出することができる。
○2 すべて予備費の支出については、内閣は、事後に国会の承諾を得なければならない。

 結局、国費歳出に関しては、当然に国会の議決要件である。これらは内閣の行政権には属していない。第87条に「予見しがたい予算の不足」、要するに補正予算に関する内容が記載されているものの、これに関して支出の停止や執行の停止を規定しているものではない。要するに、補正予算として国の財政を行う場合は、当然に「国の財政を処理する権限」に含まれることになる。そして、それは国会の決議によって行われなければならないということになるのである。
  では、行政府たる内閣は、どのような権限を持ているのか。
 
  第六十五条 行政権は、内閣に属する。
  第六十六条 内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する。
○2 内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。
○3 内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ。
 第七十二条 内閣総理大臣は、内閣を代表して議案を国会に提出し、一般国務及び外交関係について国会に報告し、並びに行政各部を指揮監督する。
  第七十三条 内閣は、他の一般行政事務の外、左の事務を行ふ。
一 法律を誠実に執行し、国務を総理すること。
二 外交関係を処理すること。
三 条約を締結すること。但し、事前に、時宜によつては事後に、国会の承認を経ることを必要とする。
四 法律の定める基準に従ひ、官吏に関する事務を掌理すること。
五 予算を作成して国会に提出すること。
六 この憲法及び法律の規定を実施するために、政令を制定すること。但し、政令には、特にその法律の委任がある場合を除いては、罰則を設けることができない。
七 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を決定すること。
 
  これが、憲法に規定された内閣の権限である。この中には「すでに執行が決定されている予算の停止」は含まれていない。鳩山内閣はどのような権限で、「補正予算の執行停止」を行っているのであろうか。
  私の個人的な推測は「どうせ国会決議を行っても過半数で通るのであるから、関係ない」という国会の軽視思想がその中にある。これは、国会の決議に関する冒涜であるとしか言いようがない。そしてこれらの思想は独裁につながるのである。
  この思想は「ナチスドイツ」が独裁政権に移行するプロセスによく似ている。ナチスとは国家社会主義ドイツ労働者党のことである。1919年結成された政党で、徐々に国会内での勢力を拡大していた。党の思想として一貫して存在しているのは「アーリア人至上主義」、「反ユダヤ主義」、「反共」、「指導者による独裁」等であり、ヒトラーの著書「わが闘争」が党の聖典視された。一は少数政党であったが、ヒトラーの入党により、その巧みな話術と、ゲッペルスによる情報祖須佐の巧みさによって、政党の支持は広がっていった。1933年1月30日、ヒトラーはパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領よりドイツ国首相に任命されて政権を獲得した。同時にナチス党幹部であるヘルマン・ゲーリングが無任所相兼プロイセン州内相に任じられた。ゲーリングはプロイセン州の警察を掌握し、突撃隊や親衛隊を補助警察官として雇用した。これにより多くのナチスの政敵が政治犯として収容所に収容された。ヒトラーは組閣後ただちに総選挙を行ったが、2月27日にドイツ国会議事堂放火事件が発生した。ヒトラーはこれを口実として「民族と国家防衛のための緊急令」と「民族への裏切りと国家反逆の策謀防止のための特別緊急令」の二つの緊急大統領令を発布させた。これにより国内の行政・警察権限を完全に握ったヒトラーは、ドイツ共産党に対する弾圧を行った。ドイツ中央党など中道政党の賛成も得て全権委任法を制定し、独裁体制を確立した。その後、ドイツ国内の政党・労働団体は解散を余儀なくされナチス党による一党独裁体制が確立した。
  現在の日本の政治状況に酷似していることにお気づきであろうか。「独裁者」と言えば、日本ではほぼ必ず「アドルフ・ヒトラー」が出てくる。しかし、ヒトラーといえどもドイツ国内に反対派は存在したのである。同時に、ヒトラーは軍事的なクーデターなどで独裁を行ったのではなかった。上記のように、第一次世界大戦後のドイツの法律に従い、選挙で過半数を取ったのだ。このプロセスでできたのが、「宣伝と演説」である。私は著書「民主党の闇」のあとがきで、下記の通り記載しているが、これが現実のものとなりそうな勢いだ。
  「 「宣伝の天才」と言われたゲッペルスは、広告宣伝に関してこのようなことも言っている。「もっとも速度の遅い船に船団全体の速度を合わせる護送船団の如く、知識レベルの低い階層に合わせた宣伝を心掛ける」というのだ。要するに、詳しく内容を説明せず、キャッチフレーズ化し、不満・疑問・欲望を遠まわしに刺激し暴発させることに乗せられて、民主党を支持しているとすれば、それはわれわれ国民を「知識レベルの低い階層」と認識しているからに他ならない。
 彼の発言とされた言葉で有名なのは、「嘘も百回言えば真実となる」という言葉だ。しかし、所詮嘘は嘘でしかない。また、キャッチフレーズはキャッチフレーズでしかないのだ。そんなゲッペルスが宣伝し、国民的熱狂を作り上げたナチス・ドイツの末路は、歴史が押してくれる。また、そのナチス・ドイツを押し上げたドイツ国民は、東西ドイツの分裂ということになるのだ。
 歴史は、なんでも教えてくれる。しかし、その歴史を「物語」としてしまい「現代の政治」と結びつけて考えられる人は少ない。しかし、このように並べてみると、小沢一郎から始まる民主党のプロパガンダがいかに「危ない」ものであるのかがよくわかる。
 これを危険なものとしないのは、簡単なことだ。具体的な政策として、しっかりと検証をすればよい。「やめてから考える」などといって、白紙委任をしてしまえば、結局国民はその政策を検証する機会を永久に失ってしまうことになる。これこそ「独裁政治」の入り口である。」
  国民の、理性ある監視を必要とするのではないだろうか。
 
  第二の論点に移る。第二に、どうしてそこまでしなければならないのか。要するに、過去の補正予算を執行停止にすることの意義は何なのかということである。
  群馬県の八ツ場ダムに関しても同じであるが「選挙のマニフェストに書いてあるから」という。
  9月24日の産経新聞の記事から抜粋する
  国交相 八ツ場ダム予定地視察 知事らに陳謝も中止方針変えず

 建設中止が明言された八ツ場(やんば)ダム問題で、前原誠司国土交通相は23日、建設予定地の群馬県長野原町を訪れ、工事の進捗(しんちょく)状況や水没地区の代替地を視察した。大沢正明群馬県知事など自治体側からは、中止宣言撤回を求める声が相次いだ。しかし、前原国交相は「誠に申し訳ないが、白紙に戻すつもりはない」と、中止の姿勢をあらためて強調した。
 ただ、一方的な中止表明に地元の反発が相次いだことについては「配慮に欠けていた面が多々あったことをおわびしたい」と知事らに陳謝した。

  要するに、民主党はマニフェストに書いてあれば何をしてもかまわないということになる。もちろん選挙そのものの政権公約であはあるが、その政権公約に関してサイド「反対派を交えて議論する」姿勢は感じられない。この態度が独裁政権への道の一歩である。
  今回論点としている補正予算の執行停止に関しても同じである。「無駄を省く」は非常に素晴らしい。しかし「先に政権公約の財源ありき」という考え方でよいのかということだ。もっと言えば、「子供手当のために地方の経済の活性化や景気対策を犠牲にしてよいのか」というぎろんである。補正予算は、そもそも、リーマンショックから始まる世界同時株安とそれに伴う景気の悪化に対する起爆剤であった。これを執行停止し、国民へ野バラ巻きを実行するというのはいかがなものか。
 昨年の景気状況を見てみると、リーマンショック以降、もちろんそれ以前からの不景気感もあって、製造業者が生産調整に入った。生産調整とは言うものの、要は生産中止の工場を作ったという事だ。特に自動車産業がその中心であったが、自動車ばかりではない。日本の基幹産業の一つが自動車生産であったという事が明らかになっただけである。自動車産業は、主に北米や中国での販売や景気に左右される。もちろん日本企業であるから日本における販売が機軸であるが、それだけではなく、北米や中国と言った消費大国における新車の販売台数がもっとも大きな経営指標になっている。その片方の中国は、オリンピックバブルの崩壊によって、消費が低迷した。それまで屑鉄などをかなり高値で買っていて、日本でも公園の遊具などが撫すまれる事件が報道されていた。しかし、それらもなくなり、中国における景気は低迷した。実際中国は、貧富の差が激しく、富裕層は景気に関係がないのである。しかし、中国人は見栄とメンツを気にする民族であるため、高級車しか売れない。日本の売りである大衆車は、これら富裕層には購入されない事情がある。大多数の都市部中間層は、やはり景気低迷においてかなり打撃があった。もちろん、地方の貧しい層は、まだ馬車の時代である。自動車よりも先に必要なものは少なくない。何より、地方農村部で自動車を売るためにはガソリンスタンドとガソリン配送の安定的な運輸環境を作ることが咲き。次に通常の車が走ることのできる道路の整備が必要になる。
 もう一つの指標であるアメリカは、リーマンショックの中心である。そもそもリーマンショックにより、アメリカの金融と基幹産業である自動車が不安定になった。基幹産業の悪化は、即、国民の生活水準の低下を招く。共産主義国のように、国から生活費全額を必要十分に配給されない限り、産業の衰退は国力の衰退を意味する。そして、それはまず贅沢品の買い控えや予備品の減額化から行われる。自動車はまさにそのものである。ましてや日本車は性能がよいために、かなり耐久年数があるのだ。ちなみに、個人的なことで申し訳ないが、私の車は、もちろん国産車我だ、購入八年で走行距離12万キロであるが、未だに調子よく走っている。
 これらの国際状況から、日本の景気が低迷し、その対策として補正予算が組まれたのである。補正予算に関しては、「今の論点ハンドブック」に詳しくかかれている。総花的に予算配分したもので、特に景気を左右する企業の設備投資や、待機児童に対する保育園の整備費、派遣労働者の再就職斡旋やスキルアップに関する補助金である。
 今問題になっているダム工事も、ダム工事本体だけでなく、工事関係者の仮住居や休日の地域での消費など、ダム工事そのもの以外でも当然に景気対策になる。それだけでなく、それで潤った地方経済が、新たな経済対策や産業創設を行えば、当然にそれらの経済効果は予算以上のものとなる。中止すると言うことは、それらをすべて中断すると言うことだ。当然に、それは、地域経済における資金の流動性を止めてしまうと言うことになる。それまでの投資などが完全にムダなものとなり、地域経済はかえって不況が襲うことになる。八ツ場ダムに感して言えば、工事を中止して残るのは、誰もいない廃墟と、長野原地区の住民の対立、そして群馬県北西部の不況だ。
 商売を行うには川下(消費者)を重要視しなければならない。一方で、国全体の景気をよくするには、川上から金を流さなければならない。金も水も上から下に流れる。上に流せば、設備投資や部品工場・下請けなどが活性化する。製造が大きくなれば、雇用の確保もできる。一方で川下からの資金注入では製品の購入にしかならない。その場合に、不良在庫などの処分や中古品の売買も行われるために、部品工場や雇用の確保にはつながらない。内需拡大のために、一時金を入れるのは場合によってはよいが、定期的な消費者への資金注入は、勤労意欲の減退と中古処分の販売現場、そして、限られた収入での消費のためにダンピング競争を引き起こす。これらは、新製品の製造者の経理を圧迫し、新商品開発などを困難にする。これにより環境に関する新商品や新技術の開発が困難になる。鳩山首相が打ち上げた二酸化炭素25%削減などは、夢のまた夢になってしまうのだ。
 これらの影響が推定されるに関わらず「マニフェストに記載されている」という理由で、国会を含む公の審議もなく、密室で執行停止をしてよいのか。それは、まさに「消費者がイコールで有権者である」という方程式以外にはないのである。小沢一郎型の選挙民に対する利益誘導がまさにこの原点になっている。田中角栄首相の時は、地域に対する資本投下でよかったのかもしれない。地域企業とそれを頂点にする組織票がしっかりしていたからだ。しかし、国民の多くが浮動票となり、同時に比例代表制による政党名の選挙がある場合、候補者個人での集票ではなく、政党とその政党に関する顔の選挙になってしまう。政党のイメージを挙げるためには、国民に対するばらまき以外にはない。マニフェストというのは、単に政権公約でしかない。もちろん、そのマニフェストは、国会審議によってできたものではない。当然に前回の総選挙までは野党であったのだから、国政に携わって現実的に適合されてできた公約でもない。それらが検討し尽くされていないという事は、当然に実現した後の景気動向や、他の分野への影響なども審議し尽くされているとは限らない。言うなれば「机上の空論」でしかない。その「実現のため」に、景気対策を中止するのは、単に、来年控えた参議院選挙に対する集票としか考えられない。
 まとめて言えば、民主党は、政権を執って国会を軽視し、自分の政党の選挙対策のために、景気対策を中止したという事になる。また、その方法は、先に結論有りきで、反対派など幅広く意見を聞くことなく、言論を封殺して独裁的に行われているという事である。逆な味方をすれば、それらばらまきがなければ、国民の支持を得ることができないという味方もできる。一時の人気と、自民党への逆風だけで長続きするはずはない。補正予算の部分でも、沖縄基地の移転問題や防音壁工事などで閣内は不一致である。同時に、マニフェストに記載された内容であるに関わらず、インド洋の給油活動継続を長島昭久防衛政務官が言及するなど、日本における重要政策が一致していないことはすでに明らかになっているのだ。これら国会決議を覆し、憲法違反を犯してまで、政党の選挙対策を行うと言うことは、公私混同であり、道義的に非難されるべき事である。ましてや、その民主党は麻生政権が一時金を給付する時には「国費を使った選挙対策」として非難していたはずだ。そもそも、政党のことよりもまず固化のことを考えるべきではないだろうか。これらの方策および執行停止が、国のためになるのであろうか。
 第三の論点に移る。第三の論点は、景気対策をどうするのかという事だ。当然に、これらを行えば景気が悪くなる。この補正予算を目指してかず多くの企業が新しい企画を行っていた。その中には少子化対策や環境の企業も少なくない。国際的な企業の問題になっていることも少なくない。たとえば、沖縄米軍のグアム島移転に関しては、日本だけでなく、当然にアメリカ企業やグアム島関係者、それだけでなく、沖縄の米軍による安全保障を得ている国々、たとえば韓国や台湾・フィリピンなどもすべてが関係してくる。沖縄の問題は沖縄だけの問題ではなく、東シナ海と日本海を中心とした国々の安全保障の問題なのである。当然に、移転に関してはこれら関係諸国の企業も関与する。沖縄米軍のグアムの移転先住宅の建築に関して、韓国の企業が企画書を挙げて相談に来たことがある。これら企業は「日本国政府の政策の継続性」を信じて動いており、必要であれば先行投資もする。その信用の中には、自民党も民主党もない。あるのは日本国の信用であり、日本国国民の誠実性だけだ。鳩山政権はこれを見事に破壊した。国内ならば「自公政権が悪い」「官僚が悪い」と他人に責任転嫁すればよいことであるが、国際社会ではそうはいかない。
  話が国際問題に会ってんしたが、企業とて同じことである。今年の4月時点で、本年の見通しを立て、6月にほとんどの会社が株主総会によってその見通しや収益予測を発表する。その時点で、補正予算が発表されていれば、そのことを織り込んで事業予測を行う。その事業予測は、「政府政策の継続性」ということを前提としている。鳩山政権はこれを見事に打ち壊した。政権交代によって新規の予算から帰るのではなく「継続案件を中止する」ということになるのだ。それにより日本経済がどれだけの損失を被るのか。
  9月27日にテレビ朝日がゴールデン2時間半で、「緊急スペシャル “民主党政権で日本変わる?” センセイ教えて下さい 政権交代で大変だSP」という番組をやっていた。その中の経済対策に関するるやり取りの一部を紹介しよう。
  山本一太(自民党):「一番心配なのは、民主党のマニフェストの中に成長戦略、経済対策がないんじゃないか。これを我々は凄く心配していて。2万6千円の子ども手当をやって、景気対策になるかな、と。つまり、パイが大きくならない限り、雇用問題も上手く行かない。それが民主党の政策の中で一番心配」
松原仁(民主党):「子ども手当や農家の個別所得補償制度が景気対策になるというのが我々の認識です」
世耕弘成(自民党):「民主党は極めて壮大な実験をやろうとしている。要するに景気が悪いのは家計が潤っていないからだ。だから、そこに国のお金を入れて潤すことによって景気が良くなるだろう、と。我々の立場はあくまでも、企業経済にお金を入れていくべきだという立場です。これは両論あると思います。民主党は1万円あれば個人に直接渡しましょうと。我々は1万円の仕事を発注しましょうと。我々の考えは仕事を発注すれば、材料も動く、設備投資も動く、運輸も動くといういろんな形で効果が出るんじゃないかと思っています」
 まさにこの通り、「子供手当」が景気対策はよいが、その景気対策はどのような規模で企業まで反映するのか、企業しか相手いにしない下請け企業などの雇用はどのようにして守られるのかが全く説明されていないのだ。この番組の中でも、その後のことも全く説明がない。
  何よりも(すでに繰り返しになるかもしれないが)鳩山政権は、施政方針演説をしていない。自らの行っている政策に関して、国民に一切の説明をしていないのだ。いわゆる密室政治。その上記者クラブ開放もなければ、議員への自由な取材も許されない状態。これでよいのであろうか。
  私は常日頃「民主党政権は、情報操作と言論統制でできた政権」と言っている。結局のところ、言論を自由にしてしまえば、民主党内が意見が一致しえいないことが明らかになってしまう。また、情報を操作しなければ、小沢執行部(鳩山ではない)に対する反対派もさまざまな発言をする。民主党内が意見が一致していないという印象が最も選挙にマイナスである。自民党が支持を失ったのもテレビなどの出演議員による執行部批判が始まりである。民主党にそれらが出ないおは、それだけ執行部に対する反対派が多く、それを力で封殺しなければならないということである。この言論統制がいつ国民に適用されるかわからない。
  言論統制が発生してからでは、景気対策などは関係がない。閔中党一党独裁の共産主義国家になっているのだ。それで日本が守られるのであろうか。現在、民主党に関して何を言ってもよい。なぜならば彼らは、国会で施政方針演説も何もしていないのだ。マニフェストといっても、それを作成した背景やその具体的な内容も何も説明されていない。なぜ「子供手当」のために「扶養控除」が無くなるのか。説明を受けた人がいるのか。そして、それが「内需拡大」につながり、なおかつ景気対策につながるのか。もっと言えば、子供のいない派遣労働者の派遣雇用はどのように維持されるのであろうか。昨年派遣村で「派遣村は許さない」といった菅直人の発言は何だったのか。
  実際、「政府への信頼性」「政府の行った政策がいつ保護になるかわからない不安」ということと、同時に、「子供手当がどうして景気対策になるのか」という説明がない。またそれに対する審議もないのである。これでよいのであろうか。
 
  「蜜月期間」これは、新政権が発足後100日間は見守るというものである。しかし、100日以内にこれらの審議がされるのか否かに関しては、いまだ不明である。
  民主党の国会軽視は、ナチスドイツ型の独裁政治につながる可能性があるということを、国民は歴史を学びながら考える必要がある。

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夫婦別姓を来年通常国会目途に提出。これで日本の「名誉」は滅びるのか

夫婦別姓を来年通常国会目途に提出。これで日本の「名誉」は滅びるのか

 千葉景子法務大臣が9月29日に夫婦別姓に向けた法改正に言及した。
 当然、言及すると言うことは、夫婦別姓を推進し、それに向けた法改正をすると言うことである。
 時期は来年の通常国会を目指すという。

 「数の論理」から言えば、政権党がそういえばそのようになると言うものである。
 よって、法案(具体的には民法の親族編の改正案)ができれば、若干の修正の後に、そうなると言うことを意味する。

 本件に関し、「実利」ということに関しては、大きな差はないのかもしれない。
 法的には細かく決められるのであるから、別姓の子供のことなど、様々が配慮されるものと思う。
 特に直接的な権利関係なども、大差はないのかもしれない。
 法案ができていないので、その内容に関して議論するのは難しい。
 しかし、逆に観念的な部分で、様々な反論は発生する。
 そして、民主党政権、殊に千葉大臣をはじめとする左派勢力の考えることや基本理念が見え隠れするよい例なのかもしれない。

 夫婦別姓ということは、「家」という観念の排除だ。
 「家」とはもちろん建物に関することではない。家系に関する様々な伝統や因習の否定ともとれる。
 このことは、彼らの国家観や天皇家に関する問題に発展する。

 まず、日本人の名前は、「家」を現す苗字と「個」を現す名前で表される。
 古くは、その間に官職名や幼名が入った。
 有名な時代劇で有名な人物で、それをみてみよう。
 少し見づらいかもしれないが、三名の名前を部分ごとに縦に並べてみる。

「苗字・家名」 大岡   長谷川  大石
「官職・幼名」 越前守  平蔵   内蔵助
「名前」     忠相   宣以   良雄          

 たぶん誰でも知っている三人である。
 一人目は大岡政談などで有名な北町奉行「大岡越前」である。
 江戸幕府八代将軍吉宗の幼い頃からの友人で、信任篤く、江戸町奉行を任せられた人物だ。
 テレビドラマの時代劇でも有名である。
 二人目もテレビの時代劇ファンならば誰でも知っている人物だ。
 池波正太郎氏の小説でも有名な「鬼平」こと火付盗賊改の「鬼平」こと、「長谷川平蔵」である。
 そして、三人目は、これは舞台で有名な「忠臣蔵」の主人公、赤穂浅野家の家老「大石内蔵助」である。
 いずれも、苗字、そして官職(もしくは通称)そして個人の名前で構成されている。
 あえて、時代劇の主人公三名をここに出した。
 実際、誰もが親しみを込めて知っている名前は「苗字」と「官職」でしかない。
 たとえば、長谷川宣以と記載して、鬼平とすぐに気づく人は何人いるであろうか。
 大石良雄と書いてしまえば、現代の人物と誤解してしまう可能性がある。
 大変失礼だが、私の友人で「大石良雄」という同姓同名の人物がいるが、
大石内蔵助のような、危機に対する対処方法を身につけているとは思えない。

 苗字と官職名で人を呼ぶのは、当然に、一つには日本は伝統的に「家名」を重要視していたということを示している。
 一方で、平安時代以来の身分制であり、その官職で故障することが例となっていた。
 この慣例は、現代の日本でも延々と続いている。
 他社の人に向かい「部長」「社長」と会社内の役職で呼ぶのは覚えがあるであろう。
 社長の名前や苗字にさん付けで呼称する人は少ない。

 これは日本独自の慣習である。
 たとえば、オバマ大統領を呼ぶときに「ミスター・プレジデント」と呼ぶことはない。
 しかし、日本では「総理」と呼べば、それで誰かがわかるようになっている。
 呼称時のシチュエーションにもよるが、複数いる肩書き、たとえば「部長」「大臣」といったものでも、相手を特定できる。
 元々は、身分制でお互いに上下関係を保つために官職で呼称しているものが、いつの間にか個人の特定呼称になる。
 それだけ、日本国内において、特定呼称における個人特定のコンセンサスがとれているという事であろう。

 一方、名前の正式な呼び名から、官職を入れることはなくなった。
 基本的に明治以降であるが、完全に無くなったのは戦後なのかもしれない。
 明治以降も華族では、そのような慣習が残っていた場合もあるからだ。
 これは、完全に官職世界・身分社会が終了したことを意味する。
 日本人は、応用力があり、慣習としてこれらを吸収する能力に長けている。
 よって、制度として無くなった「官職呼称」を、上記のように個人呼称として昇華させたのである。

 一方、身分制が完全になくなったものの、家族性が無くなったものではない。
 結果的に、「苗字」と「名前」で故障する方式になった。これは現代でも通じている。
 たとえていえば、の名前は「宇田川敬介」であるが、「宇田川」という家の「敬介」という個人である。
 当然に苗字が家を現す。

 家とは当然に建物のことではない。
 家柄、要するに先祖から続く一族郎党の総称である。
 個人が現在ここにいるのは、当然に両親がいて生んでくれたからであり、育ててくれたからである。
 その両親とて同じ事だ。
 要するに個人は、「個」としての存在と「先祖から受け継いだ存在」という面がある。
 裏返せば、「子孫に受け継がせる」という意味もある。 

 「血は争えない」という言葉がある。
 遺伝子といえばそうかもしれないが、同じ人間の遺伝子で、十人十色、顔かたちから性格までよく変わるものだ。
 結局、家柄、そしてその家風に従った育てられ方や価値観がある。
 それらによって、個が決まる。
 個性は、個人の持つ性質と、遺伝子的な血筋の持つ情報、そして育つ環境によって形成される。

 さて、今回の選択制夫婦別姓は、「選択制」といえども、姓にかんして女性を拘束しないと言うことである。
 もちろん、上記のような身分制の喪失により官職名を間に入れるという制度を廃止するというのとは異なる。
 しかし、別姓夫婦の子供たちが、どのような伝統や習慣を継承するのかは疑問が残る。

 ここで、千葉景子という大臣にスポットを当ててみよう。
 千葉景子は、土井たか子のマドンナブームで出てきた「元祖マドンナ議員」ということができる。
 元職というよりは現在も弁護士である。
 その主張は日本では「左翼」といわれる思想に近い。
 北朝鮮の拉致を行ったとして、スパイ容疑で逮捕されたシン・ガンス被告人の釈放を求める署名もしている。
 小泉純一郎元首相が拉致被害者を帰国させるまで「拉致はなかった」とする意見を支持していた議員の一人である。
 この法務大臣で、拉致問題が解決するのかは非常に疑問が残る。
 しかし、今回は拉致問題ではないので、この件に関しては後日に回すことにする。

 さて、この大臣は、それ以外に「男女同権」を強く主張することでも知られている。
 テレビで一時よく出演していた田島陽子女史などと同様である。
 今回の夫婦選択制別姓という制度も、この「男女同権」から発送が行われている。

 要するに、この問題を議論するに当たっては、「結婚して姓が変わることは、男女同権に反する」と解釈されているということになる。

一方、「家」というものを守るとどのようになるのか。上記「忠臣蔵」の大石内蔵助はなぜ仇討ちをしたのか。
 答えは誰でもが知っているが「主君の仇討ち」である。
 ではその「仇討ち」はなぜ行われるのか。
 これの答えは「主君の家名が汚されたのを回復するため」である。
 「家名の回復」ということは、単純に、家柄を守ることそのものが、
そこに使える家臣たちを含むすべての人の「名誉」を守ることになるということになる。
 このほかにも歴史の小説や時代劇を見ていれば、「後世に名を残したい」などということがよく出てくる。
 「名を残す」ようするに立派なことで後世に語り継がれることは名誉なことであるという価値観があった。
 それは、そのまま自分の子孫が名誉な者の子孫であるということで良い扱いを受けるという実利的なものもあるかもしれない。
 しかし、大体の場合、名誉を残すことそのもののほうが、不名誉んまま生きることよりも貴いものとされてきていた。
 昔の人は、「体は五日滅びるが、名誉は永久に滅びない」という思想をもっていた。
 そのことが日本の価値観を作ってきたと言って過言ではない。
 この基本的な価値観が、地域社会の倫理観であり、同時に、犯罪抑止効果などということになっていたのである。
 そして、この名誉の考え方が、論語という学問と武士道という考え方によって、体系化し、
同時にその内容が徐々に民衆に広まって日本全体の不文律を作ってきた。
 日本人は「法律」で定めなくても「常識」という範囲である程度の秩序が守られる。
 西洋のように、宗教観や価値観の教養がなくても、規律が守られるのは、まさにこの「名誉」という感覚に他ならない。
 そして、その「名誉」の感覚は「家格」ということで、自分だけでなく、先祖から、
自分の子孫までもを運命づけるものとなっているのである。

  要するに、「家族性」を守ることそのものは、「日本人の倫理観を守る」ということいなる。

  端的にいえば「男女同権」と「日本人の倫理観」のどちらを優先するかということである。

 さて、結論として、私は当然のごとく「日本人の倫理観」というものが必要であると考える。
 昨今の犯罪の若年化などは、まさに幼少期からの倫理観の欠如によるものが大きい。
 そしてこれらは「軍国主義につながる」という不思議な理論によって、日教組が廃止した道徳教育と歴史教育の削減のたまものである。
 まさに歴史教育がなければ先祖や子孫に関する価値観が芽生えはずもない。
 ましてや「自分たちの先祖は近隣の国に戦争をした犯罪人だ」などと教育すれば、自分をも否定することになってしまう。
 また、道徳教育がなければ、規律ある競争社会が生まれない。
 当然に権利ばかりを主張し義務を履行しない国民性が出てくる。
 他人への責任転嫁ばかりが目立つようになってきてしまうのだ。
 まさにその社会の立役者が、今度は家族制まで廃止するというのである。
 それも男女同権ということだけでである。

何かが間違えているのではないだろうか。
 完全に歴史を否定し、自分たちの民族を否定し、そして国家間を否定する思想であるとしか思えない。
 民主党に政権になりそのような価値観が押し付けられるのはどうかしている。
 そのうえで犯罪の若年化や若者のマナーの欠如を嘆くのは、どうかしているのではないか。
 同時に、権利意識ばかりで義務意識がない状況そのものを作り出す。
 負担もなく子供手当をもらえるとか、高速道路が無料化する(本当は税金化であるが)
などと思っていて権利ばかりを主張する国民が出てくるようでは困るのだ。
 このような基本的な考え方そのものが、日本人の責任感や義務感を完全に欠如させてしまっているのである。

個人的には、夫婦別姓どころか、道徳養育や論語などの中国古典や歴史教育の必余生を感じている。
 実利的に何もないというのではなく、そのような基本的な考え方がどのようになっているのかということを考えながら政策を見てゆかなければならない。

 夫婦別姓を法案提出し、それを社会民主党の福島瑞穂党首が応援するという。
 この二人の女性閣僚が、これらの歴史や日本の監修、不文律女かで育ちながら、それを否定する姿を見て違和感を感じる。
 同時に、この二人が「大臣」と呼ばれて喜んで声のかかるほうに顔を向けるのは、この二人の歴史感覚や監修に関する考え方を疑わざるを得ない。

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鳩山内閣閣僚発言での一喜一憂・ダム・ジャル・為替・株安そして予算の行方

鳩山内閣閣僚発言での一喜一憂・ダム・ジャル・為替・株安そして予算の行方

 9月28日。谷垣禎一元財務大臣が自民党総裁に選ばれた。自民党総裁といえば、当然に総理大臣であった時代と違い、河野洋平氏に続き二人目の「総理でない総裁」が誕生した。河野太郎氏、西村康稔氏との争いで、300対144対54(無効1票)であった。谷垣自民党に関して、期待するという声と今まで通りで変わらないという声が拮抗する。私自身は、党三役といわれる執行部全体の総括でみなければならないと思っている。
 片方で自民党党本部が久しぶりの盛況出会ったのに対し、兜町は別な意味で騒然としていた。今年2月以来の日経平均株価10000円割れと、1ドル88円という円高水準である。これは、鳩山内閣における政策と、閣僚の相次ぐ発言が引き金である。まずは藤井財務大臣である。彼はもともと大蔵省の官僚であり、細川内閣の時も大蔵大臣を経験している。基本的に民主党の中では「財政通」といえる。その大臣が「為替に対する積極的な介入はしない」と発言した。それも、G20の金融サミットでの発言だ。国際社会は当然に敏感にこれに反応する。もともと、通過としてドル安傾向であることは否めない事実だ。これに対して各国政府が協調介入していたために、安定相場を維持してきていた。当然に通過相場の安定は、貿易の安定と企業収益の計画性を維持することを目的とする。企業収益の安定そのものは、それによる社会発展や雇用の安定を生み出し、生活者の平和を維持することになるのだ。
 藤井大臣の発言はこれを否定した。民主党は、マニフェスト、事に子供手当などの配布でわかるとおりに、消費者に資金を渡して内需拡大による景気の維持を目指している。当然に円高ドル安は、輸入促進と内需拡大にはよい。逆に輸出産業では大打撃だ。自動車で有名なトヨタは、1円円高になると年300億の損失になると言う。自動車工業は、一斉にそのようになるであろう。当然に北米・欧州をはじめとする自動車貿易が縮小する。ほかの産業も同じだ。貿易立国として存在する日本の産業そのものの「貿易」を完全に否定してしまう可能性があるのだ。
 このことは、昨年年末に同じ事があった。リーマンショックによる世界的なドル不信と、比較による円高によって、日本の各輸出産業が一斉に生産調整に入った。これにより、派遣労働者の解雇が相次ぎ、「派遣村」を作り出したのだ。民主党副代表(当時)の菅直人は、派遣村に出向いてこれを繰り返させないと行っていたが、民主党政権は、これに対して閣僚の発言で疑似的なリーマンショックを作り出したのである。
 円高ドル安の内容は、民主党の政策そのものである。「内需拡大」という政策そのものが、政治介入で為替に言及すれば、取り返しがつかない状況になる。私が著書「民主党の闇」で記載した「民主党不況」が、徐々に蔭を忍ばせていることに国民は気づかなければならない。
 これに追い打ちをかけたのが、いわゆる「亀井モラトリアム」である。亀井金融・郵政担当大臣は、個人や中小企業における金融債務の弁済を猶予するという。平成の徳政令といえばよいかもしれないが、企業会計原則がしっかりしていて、なおかつ企業会計を公開する義務のある上場会社(銀行を含む)は、貸付債権の貸し倒れや回収延期が発生する。端的に言えば、銀行における収入(貸付金利)が減ると言うことだ。金融機関の収益の悪化は、当該金融機関をメインとする企業組織全体の問題となる。要するに、当該金融機関から追加融資が得られなくなり、貸しはがしが行われる可能性がある。亀井金融大臣は、その辺に関する金融機関に対する補償措置を全く発表していないのが現状だ。これにより、金融機関は収益の大幅な悪化が予想される。最悪の場合、亀井モラトリアムによる平成拓銀ショックが発生する可能性があるのだ。
 貿易立国である日本の、極端な円高ドル安と、亀井モラトリアムによる金融機関への不信は、併せて株安という状況を作り出した。亀井モラトリアムに関しては、鳩山首相があわてて打ち消しているが、一方でそれが強調されれば閣内不一致という事も考えられるのである。これは政治の混乱による日本企業の安定感を疑問視する海外投資家からの投資意欲を削ぐ形にもなりかねない。
 実際に、民主党政権は政権運営になれるなれないという次元ではなく、自分たちの政策を国民に示していない。このことは、将来に対する不信感と、一方で不安定な観測を増大し、それによる経済混乱を招く。前回の、二酸化炭素削減に関しても同じであるが、マニフェストにとらわれて、一部の支持者からの意見しか聞かない政策が、より多くの一般大衆から見放される結果になっている。同時に、官僚組織を完全に切り離したことによって、過去の経験や幅広い意見聴取、分析もすべて民主党と閣僚が直接行わなければならない。少なくとも、それに耐えられるだけの政権基盤や政策理論は民主党にはない。
 このような大臣による発言で一喜一憂しているのが、八場ダムの建設工事の中止と、日本航空の経営再建問題だ。いずれも国土交通大臣である前原誠司の所管である。
 ダムに関しては、マニフェストそのものから、工事中止をうたっていた。前原大臣はその通り実行しただけである。しかし、官僚組織を使わない鳩山政権は、当然にそのための事前調整を政党もしくは前原氏周辺で独自に行わなければならない。ここで言う周辺とは大臣秘書などのことを言う。しかし、それらを全く行わずに「マニフェストに書いてあるから」という状況が生まれてしまうことになる。もっと言えば、マニフェストに書いてあれば、国、政府が何を事前に約束しても、覆してよいと言うことなのか。政府とマニフェストでマニフェストが優先すると言うことになる。逆に行えば、この大臣発言は、政府の信用を失墜させ、政府の公約を政党の公約が覆してよいという前例を作ることになるのだ。
 行政の継続性の問題である。政権交代は、当然に今後の政治の在り方や政策選択を行うものであり、混乱を招く行政の継続性を否定するものではない。検討中の案件の結論の左右は許されるが、国民及び外交上の日本国政府の公約を覆すことまで許されていないのだ。しかし、民主党は国家そのものを否定する政権であるために、その辺のことがわからない。未だに野党のつもりであるから、不都合は官僚や旧政権への責任転嫁をしようとする。しかしそれは許されるものではない。責任はすべて政権政党にあるのだ。
 特に諸外国にとって、政権が民主党であるか自民党であるかという事は関係がない。問題は、日本国政府が約束を守る国家かという事だ。たとえばアメリカであっても、共和党ブッシュ政権から民主党オバマ政権になって、約束を破ってまで選挙公約を守ると言うことはないのだ。イラク撤兵も、イラク政府と調整の上で、それを実行する。準備も何もなく、政権公約に拘束されることはしないのだ。
 では、政権公約にないことはどうであろうか。また国土交通相であるが、日本航空の経営再建の問題がある。日本航空は、空港使用料などの高騰、飛行機機材の仕入れだけで経営が悪化したのではない。そもそもは人件費の高騰が最大の問題である。人件費高騰は、何度か繰り返されるストライキが挙げられる。そのたびにただでさえ高い搭乗員の給与が引き上げられるという事になる。同時に、客室乗務員の派遣労働化など、様々な人権に関する挑戦がなされた。しかし、一方で手が着けられていない聖域がある。それが年金である。厚生年金、いわゆる厚生年金は、当然に過去の高い給与水準を元に計算されている。ストライキがあるという事は、当然に組合勢力が大きく、そのために給与水準や年金に手を着けてこなかった。そこに民主党政権である。民主党政権にとって年金問題は金看板だ。日本航空の経営再建のためといえども、年金に手を着けることはできない。前原大臣は、その板挟みから、空港利用料などの引き下げと言うことに踏み切ることを表明した。これにより公的資金導入を行い、同時にデルタ航空をはじめとする外資導入が見送られることになるのである。
 そもそも、年金は完全に企業経営を圧迫している。アメリカのGMも、極端な言い方をすれば年金で倒産した。組合に関するニュースや年金に関するニュースが連日放映された記憶を持っている方も少なくないであろう。企業にとって年金は、完全に生産性のない経費である。それでも年金基金で運用が成立している間がよいが、運用失敗などの場合は企業からの持ち出しになってしまう。そして、それは毎年退職者と同時に増加してゆくのだ。企業30年説という企業の寿命を言う論があるが、これも創業メンバーの退職年金による企業収益圧迫が大きな要因の一つに挙げられている。
 逆に行えば、前原大臣の発言から、空港利用料などの値下げになり、それは、空港運営会社の収益を圧迫するだけでなく、海外航空会社との競争力を阻害してしまう可能性もある。空港と言っても会社だ。その収益は、設備費(減価償却)や経費などから収益計画を出しているのだ。安易な発言で空港会社の収益が赤字になれば、それも問題となってしまう。
 これら閣僚の発言が、最終的にどのような政策になるのかは不明である。しかし、その内容から導き出される結論によっては、国民生活が大いに制限されてしまう。閣僚の中には、その発言が無責任でころころ変わる人も少なくない。そもそも首相自体、上記亀山モラトリアムに関しては発言が二転三転している。政治家としてそれでよいのであろうか。閣僚には慎重で、自分の発言の意味やその影響を考えて意見表明してもらいたい。もう彼らは野党ではないのだから。

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