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2009年11月

民主党政権の財源確保、事業仕分けスタート

民主党政権の財源確保、事業仕分けスタート

 11月11日、奇しくも1が並んだ日に、民主党政権の一つの「生命線」である事業仕分けがすたーとした。新聞各紙が報道しているが、その見出しは「10事業500億円削減」(12日読売新聞)などである。二日目、三日目も同じであるが、結局序盤で概算要求通りの結論がでたのは1つしかなかった。
 私は、前回の文書で、民主党政権の大きな政府が、国家社会主義であるという事を書いた。「Will」という雑誌、たぶん1月号には、小沢一郎の目指すものとドイツ第三帝国の亡国の歴史の一致について記載してある。掲載の案内は確実になったところで記載しよう。
 国家社会主義は、それは国の方針であるからその内容の是非や個人の主義はどうでもよいが、当然にメリットとデメリットが存在する。メリットは、国民にとって何もしないでも生活できるというものだ。国によるバラマキで、生活することができる。一方で、税金で配布した中から税収を得なければならないという財源問題。民間で無責任状態ができることによる国家への権限集中。これらがデメリットだ。ナチスドイツは、このデメリットを解消するために東方への領土拡張を進めた。実際国外からの歳入がなければ、財政破綻は見えてくる。当然に、貿易の活性化などがあればよい。石油などの地下資源や、その国でしかとれない農産物のような産品での貿易が成立すれば、難しくない話だ。ドイツは、残念ながらそれらはなかった。当時の世界経済はブロック経済で、各国が植民地化または隷属国化した国を使っての経済であった。世界情勢から言えば、当然に、いつか世界のどこかで権益がバッティングする状況になり、戦争になったことが予想される。その中で、国家社会主義化し国内矛盾が出てきた「新興先進国」である日本・ドイツ・イタリアが戦争を始めた。新興先進国であったために、国内の急激な変化において様々な矛盾ができた。それを外に持って行かなければ、国内矛盾で破綻がくる。本来の先進国は植民地などにその矛盾を押しつけたが、新興先進国ではそれができなかった。
 さて、ドイツ第三帝国が戦争に向かったいきさつは、歴史が物語っている。歴史はそこから教訓を学ばなければならない。上記のいきさつから見えるのは「国家社会主義は財源が問題」ということだ。そして、今民主党政権はその問題に直面しているということである。
 鳩山民主党の公約は、先にも挙げたが、「ムダ使いを減らせば財源は問題がない」というもの。要するに、もともと大きな政府であった日本が、小さな政府にしなければならなかったのは、ムダ使いが多いからだ。というのが、民主党の論理だ。そのことから行われたのが事業仕分け会議である。鳩山首相にして、この政権の最も重要な部分の一つといわしめたのも、結局は民主党の根本原理の正否がかかっているからにほかならない。単純に言えば、「大きな政府実現」と「自民党と官僚はムダばかり」という二つの政治の柱の正否がここにかかっているといえる。
 さて、その事業仕訳であるが、賛否両論ある。今まで密室で行っていた予算折衝がみれてよい、今までの事業のムダが見えてよいというものもある。一方で「魔女裁判だ」「いじめだ」という批判も少なくない。
 私が思うところ、「国民不在」「利用者不在」の会議であると思われる。
 まず形式は、政治家数名と有識者という一般人数名が、担当の財団や独立法人、省庁官僚を呼びだして質問を行い、多数決で事業仕訳すると言うものだ。
 この仕分け方法に関する問題点をいくつか考えてみよう。なお、この中には、民主党議員や一部の民間仕分け人の言葉遣いや態度はのぞくものとする。疑似の進め方やそれら態度に関することを言い始めると、枚挙に暇がないだけでなく、個人攻撃になるからだ。
 さて、第一に問題点は上記の通り、最終ユーザーの意見が反映されていないということだ。結局、官僚と議員の従来の概算要求折衝に幾分民間人を入れて公開しただけである。
 第二に、その民間仕分け人の選抜基準だ。なぜこのようなメンバーになったのか。なぜ、モルガンスタンレーの外国人が入っているのか。明確な説明は存在しないし、説明があっても納得がゆくものになる期待は薄い。
 第三に、多数決だ。多数決は民主主義の原理原則かもしれない。「廃止」「存続」のような二元論的な結論ならば、それもよいのかもしれない。しかし予算削減や事業見直しなど、多種多様な結論があるときに、多数決はいかがなものであろうか。最高裁判所でも、少数意見の公表はあるのだ。
 第四に、その結論に対する判断基準だ。多数決で多様な判断結果があるのに関わらず、その判断基準は曖昧だ。基準のない審査は、恣意的に陥りやすい。けっか「人治国家」になりやすい一面を否定できない。
 第五に、その法的な性格だ。
 この「行政刷新会議」は、あくまでも予算策定のための参考意見であり、この後「政治的な決断」というのがあるらしい。単純に考えて、「では何のためにやるのか」というのが今一つ判然としないのだ。その上、この会議そのものは当然に「国会の承認を得てできた会議体」ではない。なぜ、この「非公式会議」が「国全体の予算について」会議しているのか、その法的性格が全く分からない。もっと言えば、前原のタスクフォースと全く変わらない。成果に関する責任がないのだ。
 
  概説的には、上記五点だ。いつもは三点でまとめているが、さすがに鳩山政権の問題点は、三点くらいでまとまらない。日本が法治国家あると思っている人にとっては、耐えられないいい加減さである。

  私は、この臨時国会で、鳩山政権の基本姿勢批判の三部作ぜ、前回の「国家社会主義」今回の「財政不安」そして次回「不審外交」で書こうと思っている。なので、今回の五点であまり長々と行うつもりはない。今回はいつもより詳しさがないかもしれないが、御殿に関して簡単にその問題点を解説してみたい。そのうえで、本来「国家が行う事業」に関する理想を考えてみたい。
 
  まず第一の問題点「最終ユーザーの意見が反映されていない」である。そおそも「国家の予算は国民のために使われるべきもの」である。その国家予算の使用方法に関して、その最終ユーザーの国民は仕分け会議での意見がいえない状態である。「公開している」といえどもそれは単に「傍聴者」でしかない。国の事業は、その国の事業を利用する国民がいることを考えなければならない。たとえば「農道事業が道路公団と二重で無駄」というが、実際、農道を必要とする人がいるのだ。国道は、人の流れを優先するものであるのに対し、農道は農林水産業の人員や物資を重点に道路を考えるということだ。同じものでも目的が違うことによって、管轄が異なることは、一般企業で少なくない。たとえばマイカルの店舗で、ティッシュペーパーを売る。「食品売り場の雑貨コーナー」「十セかつ品の雑貨コーナー」「薬局」様々なところで売っている。店頭で何かの宣伝個配っている場合もある。店を出て駅前ではパチンコ屋が配って言うのは日常茶飯事だ。それでも各コーナーで売っている。これは「顧客の利便性」を考えてのことであり、同じ商品で各売り場にあって「在庫が無駄」ということにはならない。ましてや「外でパチンコ屋が配っているから売ること自体無駄」とはならないのだ。
  国家事業の無駄は「設計費など各項目の中に含まれている無駄」を見つけることであり、いきなり、農業従事者でもない人が、農業のことも知らず「農道事業は無駄」と廃止することではないはずだ。そこには農民の物資の移動や、農具の輸送ということが全く考えられていない。逆に農業のことが分からない人が判断するということになれば、国土交通省と農林水産省の関係も同じで老。国土交通省は農業の利便性や一次産業の保護に関する内容まで検討して国道の計画を行うのではないのだ。道路は、日本の物流の根幹であり「人」「物」「金」を運ぶ役目がある。その運ぶものによって管轄が異なってしかるべきと思う。個別に事業に含まれる無駄(調整費や設計費・調査委費)などの詳細を行うのが刻印の願いではないのか。
  そもそも、これら公共事業の「無駄」は、公共事業における入札の不正などの事件によって提起された問題であり、その事業を象徴をまたがったことによって行ったものではないのである。農道に関しては安倍内閣時の緑資源財団事件などもあるが、しかし、それは「不正」「犯罪」であって事業そのものの問題ではない。
  文部科学省の各事業や宇宙開発、スーパーコンピューターの研究費などもそうだ。私自身分からないこともあるが、実際「世界における日進月歩の技術の世界」において「技術貿易立国」日本が、技術力の探究を失ってしまえば、日本の経済はどのようになるのか。基本的に、民主党の事業仕分けからは「日本をどのような国にするのか」という政治家として最も必要な信念や理念が全く伝わってこないのだ。
  国民は政治の理念や、政治による将来の生活の安定もしくは幸福を追求している。幸福追求県は憲法に規定された権利である。その幸福が、経済・技術などに支えられているのが日本経済の内容であり、同時に、資源のない日本、食糧自給率のない日本にとっては重要のファクターであるはず。それらのことを国民に示しながら、その観点から事業仕分けを行わなければならないのではないだろうか。
  そうでありながら、国民不在で「国会議員と仕分け人といわれる民間人」が、「官僚」と話(一方的な質問)をしている姿を見て、国民は何を期待できるのであろうか。
 
  第二に、その「民間仕分け人の選抜基準」である。
  民間仕分け人の選抜基準やその発言の権限は一体何なのか。インターネットなどでその人選はわかるのかもしれない。しかし、その「民間仕分け人」は、各事業のことをどれくらい研究し、どれくらいわかり、どれくらいその利用者の顔を浮かべているのであろうか。全く分からない。
  私は、コンサルタントとして様々な会社の会議に行くことがある。私がそれなりに説明をするのであるが「何で外部の人が」ということを言われることが少なくない。それは「外部からの意見を受け入れない」というのではなく「会議に出ている前提(知識や専門性)が違う」ということを言っていることがほとんどだ。「ユーザーや代理店の視線で」と発表することによって、会議の場は一変して話を聞く態度に変わる。とかく専門性の高い会社になればなるほど、専門的な内容が多くなり、同時に、外部からの意見はわからなくなる。業界用語を使ったり、マニアックな特徴を個性とみている場合が少なくない。実際は、専門家でしかわからない有用性は必要がない場合がすくなくない。しかし、その特徴があることで、「次の一手」につながることが少なくないのだ。一つの商品からの発展の系譜がほかの商品と全く異なる発展の仕方をすることが少なくないのは、よくあることだ。厳密には違うかもしれないが、マッキントッシュコンピューターがよい例だ。マックというと、ウインドウズに駆逐された感があるが、実際は、グラフィックや音楽の世界では幅広く使われていた。コンピューターの中のことはよくわからないので、なぜそうなのかは分からない。詳しくはそれこそ家電専門店に聞いてもらいたい。しかし、その発想が、「I-POD」につながり、携帯音楽プレーヤーになる。それはコンピューターとしての発展ではなく、そのコンピューターの音楽に強いという特性が、別な経路に発展した例であろう。
  現在の民間仕分け人の「経済合理性を追求した視点」「外部の意見」は、これら別敬津の発展を完全に封じてしまう。それは、その仕分けの方法だけではなく、仕分け人個人個人の資質や、各事業に関する見解、意見などが明らかでない。そもそも、その分野での専門家とも思えない。もしも専門家であるならば「各項目で」もしくは「省庁担当で」仕分け人は変わっているはずだ。すべてにおいて研究している、すべての事業分野を熟知している人などはいるはずがない。大体のマスコミが「こんな事業もあったんだ」と感心する中、それを判断する仕分け人がすべてを知っているとは思えない。また、その民間の仕分け人が、たとえば農道や、府中の施設を視察したという話は聞かない。
  「一般の国民の目線」というが、では、民主党が反対していた「裁判員制度」と何が違うのか。「素人が素人の意見で」というならば、「素人でも判断できるだけの説明と調査、もしくは調査報告」があってしかるべきであるが、それらは全くない。いんしゅ等の議員数名が作った資料があるだけだ。
  マニフェスト尾そうであるが「国民目線」とか言っている割には、「独z年敵秘密すぎ」が貫かれていることを国民は知るべきである。事業仕分け人の選抜はまさにそのものであろう。
  第三に、多数決だ。
  多数決は万能ではない。民主主義に生きている以上はそのことを考えなければならない。ナチスドイツも民主主義と多数決から生まれた独裁政権だ。基本的に多数決は「是非」の二者択一のときに、行う方法論といえる。多数の意見が混在する場合は、当然に意見が割れる。その時にとりまとめをどのようにするのか。その基準も決まっていない。実際に多数決の結論とは違うとりまとめ結果になったものもいくつかあった。私自身、この事業仕分けはパフォーマンスに過ぎないし、初めから「結論ありき」の内容であるから、仕分け人がどのような投票をしても、結局同じ結論になったであろう。これではそもそも多数決の意味がない。
  もともと意見が多様に分割するために、多数決になじまないうえに、その結果を踏まえない結果が出ることも受け入れるようでは、話にならない。
  そもそも、民主党は民主主義の政党ではない。一党独裁を目指した国家社会主義であるということが、私の結論である。この事業仕分けのような場でもその内容が出てきているのではないだろうか。
  第四に、その「結論に対する判断基準」だ。
  上記のように多数決になじまないし、その多数決の結果を無視した内容の結論が出ているものもある。しかし、それは、ただ単に「結果の多面基準」が全く示されていないことに由来する。そもそも、各事業において「どのような結論を出すのか」ということに関して、その選択肢の種類が分からない。アンケートで言う自由意見のコーナーのようなものだ。選択肢があってないような話でしかない。
  基準のない裁定は「恣意的」であるとのそしりを免れない。本人がいかに公平なつもりであっても、その基準が示さない以上、何の話にもならない。日本の場合憲法上に「罪刑法定主義」があるために、法律で決められた内容以外で逮捕拘束されることはないのだ。今回の事業仕分けそのものが裁判とも罪刑法定主義とも言わないが、実際に判断基準と判断結論の種類が決まっていない内容の説明を行うことそのものがナンセンスである。これならば、密室で会議して、結論を各省庁に示せばよいことであり、わざわざコストをかけて、パフォーマンスを見せる必要はない。もちろん、民主党という政党が国民にアピールするためにパフォーマンスであることはわかるが、国家予算で一政党のパフォーマンスをしてよいのか。この基準そのものが「公私混同」もはなはだしい。
  このようなことがあるので、官房機密費の内容がまた問題になる。私自身、政府が高い専門性を必要としている以上機密費は必要であるが、今回の事業仕分けのように「民主党の選挙アピールを国家予算で行う」ということはいかがかと思う。
  もう一つ問題がある。「予算計上見送り」という結論だ。そもそも「事業整理が必要」「予算計上見送り」となった場合、その施設や事業整理はだれが行うのか。まったくわからない。事業整理は「政府である内閣」が行うことであるのに、その「内閣所属の行政刷新会議が、事業整理を勧告」とはどういうことか。結局この日本語に「主語」「述語」が抜けていることに気づかなければならない。誰が誰に対して物を言っているのか。政府の機関が政府に対して言っている。自分で自己完結している打kであり、その会議を通して鳩山政権の事業整理の作業地帯を明らかにしているだけである。単純に鳩山政権は「政治主導が官僚に対して」云っているつもりかもしれないが、内閣そのものが政府であるという自覚がないのは問題だ。「予算計上見送り」という結論も同じだ。結局、では「系女子ない施設はどうなるのか」という疑問が全く答えられていない。これから建築する物に関しては、それで通じるのかもしれない。しかし、現在すでに運営している施設に関しては維持費が必要だ。当該維持費に関して、その維持費の不足での事故や施設の陳腐化が発生した場合に、政府はどのような対策をするのか。
  「天下りをやめさせることが条件」という結論もどうか。彼らの生活は保証しなくてよいのか。結局継続している事業の「経過措置」が全くできていない。その結果の責任についてはどのようになるのか。
  最後にその「法的な性格」である。
  まさにこれも、民主党の一政党のアピールをしているだけであろう。だから国会で審議ができないし、その法的な性格もはっきりとしない。
  法的な性格がはっきりしないということは、そもそも「その経費はだれに帰属するのか」「問題が発生した場合の責任の所在はどこか」といったことが問題になる。「行政刷新会議担当」として大臣がいたとしてもその予算は、象徴のように存在するものではない。国会予算の歳出は、国会での承認を必要とするが、それがない会議体が、国家予算の概算尿級に関する内容を行う。上記のように「事業仕分けで予算の執行停止」になった場合の継続案件の後処理は、どのようにするのか。その結果で事故が発生した場合にどのような責任をだれが取るのか。そこは明らかにすべきだ。結局「法的性格」「責任の所在」が明らかでない部分で、「無責任な発言と結果」になってしまうのである。
 
  そもそも、国家事業は「収益性」ではない。「将来性」がありながら「収益が追い付かない」内容が最も重要な内容だ。宇宙飛行士の毛利衛氏が言っていたが、入場者数が増えていて利用者も増えている。にもかかわらず公共事業だから収益は今一つとなる。そこを金銭面だけで判断するというのは、いかにも「国家事業」が分かっていない。
  「国家事業」と「国営事業」が全く分かっていないのは、民主党の特徴だ。国営事業ならば収益性を追求すればよい。だから郵政は民営化されたのだ。一方で教育や研究施設や道路事業などは、収益性の問題ではない。それを分からずに同じ度台で判断すること自体「ナンセンス極まりない」のである。
  私自身は「無駄」が「ゆとり」であり「景気対策」であると考えている。一部の無駄が景気の起爆剤になることは多い。逆に「犯罪」とくに「談合や横領」は強く取り締まらなければならないであろう。民主党の今回の事業仕分けはその辺が全く分かっていない。国家事業を「国営事業」と間違えている。中国共産主義の内容とあまり変わらない。改革開放までの中国経済がどのような道をたどったか。歴史をよく勉強すべきである。
  「民主党」の政権になって、結果として国が滅ぶということがないようにしなければならない。

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鳩山新政権初の臨時国会開催

鳩山新政権初の臨時国会開催

 平成21年10月26日。本格的政権交代後初の国会が開催された。
 9月17日に鳩山内閣発足から、1ヶ月以上の間をあけての開催だ。

 国会開催までの39日間で、鳩山新政権は実に様々なことを行った。ここに、その一例を挙げてみたい。
 ・ 八ツ場ダム建設中止
 ・ 補正予算執行停止2兆9千億円
 ・ 環境サミットで90年比二酸化炭素25%削減公約
 ・ 日本航空再建におけるタスクフォース設置
 ・ 概算要求95兆円
 ・ 赤字国債50兆円容認
 ・ アフガニスタン電撃訪問とインド洋給油継続要請却下
 ・ 普天間基地沖縄県外移設交渉
 ・ 東アジア共同体構想発表
 ・ 子供手当地方割り振り発言と地方反発の混乱
 ・ 政策審議会小沢不快感で延期
 ・ 郵政公社西川社長辞任と斉藤次郎元大蔵省事務次官登用
 ・ いわゆる亀井モラトリアム(金融支払猶予)
 ・ 選択的夫婦別姓法案提出へ
 ・ 国会与党代表質問放棄

 このほかにも、発言などをとらえれば、様々な事が行われた。
 今までに新政権が発足して、国会開催前にこんなにいろいろした内閣はあるだろうか。
 それも、鳩山内閣の所信表明演説以前である。指針は先の総選挙の政権公約(マニフェスト)だけである。

 これが、国会の所信表明で、やっと「公」のものとなる。
 あえて「公」に鍵かっこをつけた。
 これは、民主党の中には「私的文書」と「公的公約」の見分けがつかない議員が少なくないためだ。
 日本は法治国家である。
 その根本は憲法である。
 憲法は国会・内閣・司法を分離して章立て、各を立法・行政・司法と分けて記載している。
 各セクションに対して各がチェック機能を果たせるように規定が存在する。
 当該規定と章立てを持って、日本国憲法は三権分立が確立しているとされている。

 所信表明は、内閣が行政府として、どのような政策を行うのかを国会(立法府)で発表する場所だ。
 当然に行政府が、政策を実行するために様々な立法を行うことになるのであるが、
その内容を立法府の代議員に説明し、質問を受けるというのがこの手続きだ。
 今までも、自民党政権で総理が所信表明をした後に、自民党代表者が代表質問をしていた。
 これは、政府に対して立法府の最大会派が質問をしているのだ。
 もっと言えば、政府がその所信表明を行うまでの期間に、自民党内においても当然に反対意見や修正案がでているはずだ。
 これを明らかにし、所信表明として発表するに至った内容を明らかにしながら、国民の代議員に対して広く説明を行う手続きである。

 当然に、三権分立として、立法府の行政府に対するチェック機能であると同時に、国民主権を体現した内容であるといえる。
 行政や総理が主権ではなく、国民主権として、その代議員にすべてを説明する義務がある。
 このために、憲法41条には国会が国権の最高機関と位置づけている。

 さて、残念ながら今の民主党にはその手続きの意味が分からないらしい。
 代表質問だけでなく、衆議院の予算委員会でも与党の質問はないとのことだ。
 ということは「行政府と立法府の一体化」と考えているにほかならない。
 これは、憲法の三権分立の思想を根底から覆すものである。
 単に審議時間を短くするなどの便宜的な内容ではないのだ。

 要するに、民主党は、完全に国会を軽視し、自分たちの政策を国民の前で審議することを拒否しているのである。
 このこと、菅副首相が、テレビで「日本国憲法には三権分立の規定はないんです」と主張していることからもわかる。

 さて、審議ができないのはいくつかの理由があるからだ。
 何もやましいところがなければ、審議を行えばよい。
 その理由を、ここではあくまでも予想してみたい。
 予想は完全に予想でしかない。
 なぜならば、私個人には三権分立の精神に違反する政治家の存在自体が信じられないからである。
 それだけでなく、無理をするには「無理をしなければならない事情」があるのだが、民主党の場合、その事情は完全に各派閥によって異なる。
 もっと端的に言えば、批判政党でしかない民主党は、理由もなく憲法規定をムシしているのかもしれない。
 政権を執ると言うことは、独裁者二でもなったつもりで、国会の審議は儀式の一つにしか考えていないのかもしれない。
 そうであれば、理論的、憲法的検証を行わなければならない事情はないということになる。
 ないものを議論・批判することは不可能だ。
 しかし、このような単純でかつ憲法を小学校から勉強し直さなければならない無知な場合をのぞき、その事情を考える。
 しかし、大なり小なり、憲法を無視しているので、そのどこが問題なのかを予想しなければならないのだ。
 通常の理性的な知識人であればしないことを予想するのであるから、これは難しい。
 言うなれば、無差別殺人犯の心理的な動機を予想するようなものだ。

 民主党の場合「国会与党」と「政府」が完全に混同されているのである。
 これは審議を無視し、国民主権を選挙の人気取りだけにした衆愚政治の始まりである。

 その上で、政策をみてみよう。

 今回は、鳩山政権の政策において、総括的な文章にしようと思う。
 個別の政策に関しては、今後ゆっくり個別の論点で行うことにする。

 鳩山政権の政策でもっとも特徴的なのは内政の「大きな政府」と外交の「友愛」である。
 よく小泉内閣との比較をし自民党も同じだという反論をするが、そうではない。
 ここで、小泉改革の再評価というものが必要であり、同時に日本政府のおかれた環境を精査する必要がある。
 もっといえば、鳩山政権は、小泉改革のアンチテーゼで生まれたと言って過言ではない。

 小泉純一郎と言えば「自民党をぶっ壊す」という表現で有名だ。
 しかし、その内容は、日本政府の置かれた状況を把握してしっかりとした政策をしていた。
 日本人は個別政策、それも枝葉末節にこだわる傾向がある。
 そこで、すぐに郵政民営化などの話が始まる。
 しかし、小泉のもう一つの標語である「構造改革なくして景気回復なし」は、
まさに自民党が投じ目指していた政策そのものの内容を端的に示したものと思う。

 日本政府は、慢性的な財政赤字が継続している。
 財政赤字の原因は、政府が「大きな政府」であったからだ。

 「大きな政府」とは、政府が一般の生活の様々な部分にまで介入するということだ。
 小泉改革までの日本政府は、ほとんどが許可性であり、許認可がなければ何一つできない状況であった。
 許可制ということは、許可を取るだけの手間暇やコストが必要である。
 一方で、許可さえ取れば、半分は政府の責任で物事が動く。
 政府のお墨付きとか、親方日の丸という単語は少なくなかった。
 また、許可体制は、官民の癒着を生む。
 癒着構造が、族議員を生み出し、不正が生まれる。
 また、そのことは不正の共有から、密室な仲間意識を生み出し、官(許可者)を頂点とするヒエラルヒ構造が生まれ、
新規参入を拒む業界構造が出てくる。
 入札における談合などもこの構造から生まれたものだ。
 不正や違法行為は、行きすぎた話かもしれないが、大なり小なり業界構造の硬直化は生まれていた。
 そして、その仲間意識が自民党民主党も含め族議員の集票組織となっていた。

 このことは、単に集票組織だけであれば何の問題もない。
 しかし、これが許可、審査となり、また許可から漏れたものを救う組織、新規ベンチャー企業育成組織などといっているうちに、
政府は非常に大きな政府となった。
 これは、民主党の主張する「コンクリートから人へ」という公共工事と言うものではなく、
車の車検や郵便局の配達のおじさんまですべてがこの中に含まれたのである。
 これらの人件費、経費まですべてが国の負担だ。
 もっと言えば、郵便配達のオートバイのガソリン代も税金でまかなわれていたという事にすぎない。
 切手代を払っていながら、簡易保険の保険料を払いながら、税金も二重どりされているのである。

 小泉改革は、この「大きな政府」をやめることが目的であった。
 「民間でできることは民間で」というキャッチフレーズの通り。
 実際、ヤマト運輸や狭川急便、日通などは、税金の負担無く宅配便の経営が行われている。
 「なぜ郵政だけ」という疑問は、選挙における票数計算以外説明が付かない。

 同じ事は道路公団にもいえる。
 道路公団民営化を行ったのも小泉内閣だ。
 道路族議員も多くは「抵抗勢力」と報道されたのは記憶にあるのではないか。
 高速道路の無料化、私は常に「税金化」といっているが、これも大きな政府以外の何者でもない。
 自動車免許を持っていない人の税金も高速道路に使われるという事だ。
 高速道路の問題は、不要な道路の整備や新規高速道路の拡張ばかりであるが、実際は、道路メンテナンス費がほとんど。
 メンテナンスがうまくいかなければ、高速で走る自動車の事故を防げない。
 頻繁にメンテナンスが行われているために、高速道路の事故で「道路の欠陥」という原因はほとんどないのだ。
 メンテナンスが滞れば事故が多発する。
 穴のあいた高速道路を大型トラックが高速で疾走するのは恐ろしいことだ。
 事故が多くなれば、渋滞も増え、当然に物流も停滞する。
 この「自動車物流の停滞」ということに関して、経済効果のマイナス要因で計算した経済予測は政府も民間も出していない。

 このほかにも後期高齢者医療制度や年金改革もいずれも「小さな政府」への移行措置でしかない。
 小さな政府にすることによって、財政再建を行い、国債総発行額を減らすことによって財政再建を行う。
 金融自由化などの政策により、海外資本を導入することによって企業競争力を付け、国際社会における企業進出をはかると言うものだ。

 一方、小さな政府には欠点もある。
 まさに「競争力」という単語そのものが、その欠点の原因だ。
 要するに競争に負けるものが出てくるということだ。
 自由競争市場と小さな政府は、健常者の敗者には冷たい。
 当然に自由競争であるのだから、勝者があれば敗者が出てくる。
 これは、現在の日本のサラリーマン、それも日教組教育を受けた日本人世代や、
それに同調していた団塊の世代にとっては非常につらい選択であった。
 日教組教育の特徴は「非国家観教育」「戦争反対」「不競争」(私の個人的観測)の三種類だ。
 このように書けば日教組からもそれに反対する人からもお叱りを受けるが、
少なくとも私が受けた教育がそうなのだから、誰から反対されても意見を曲げるつもりはない。
 「日の丸君が代」の否定は、社会問題化したし、「戦争反対」に関しては、担任の教師が反戦デモの参加で自習になったことが数度あった。
 今回は日教組教育に関することが議題ではないので、この二つに関してはこの辺にしておく。
 問題は「不競争」である。
 片方でテストに点数をつけ、偏差値で評価しながら、片方で競争概念を悪とする教育は、受けている私自身違和感があった。
 大学時代のころからか、幼稚園の運動会のと競争で、手をつないでゴールするという。
 敗者を作らない配慮というが、あまりにもばかばかしくて唖然としたのを覚えている。
 体罰の禁止やガキ大将の否定は、陰湿ないじめ社会を生みだし、
また、モンスターペアレントによって日教組教諭そのものが困った結果になっている。
 モンスターペアレントなどは、まさに日教組教育の「賜物」であろう。
 少なくとも、そのように育った「ペアレント(親)」を育てた学校教育に問題がなかったのか、なぜ誰もそのことを検証しないのかは疑問である。

  この不競争教育は、日教組によって「差別をなくす」という発想から生まれている。
 しかし、その発想は、学校教育現場の中だけではよいかもしれないが、学校を卒業したのちの卒業生にとっては過酷なものだ。
 高校や大学での受験は、容赦なく「合格した人」「不合格の人」をはっきりと分けるし、
その後の社会人では、少ないポストを巡って実力社会になる。
 一方で「不競争社会」を言いながら、社会人における競争社会や年俸制、人事評価を言う労働組合の体質には、私がサラリーマン時代に閉口した。
 根本的な矛盾そのものに、彼ら自身が気づいていない状況に、ここまで理解力のない人が、
組合(日教組を含む)の中枢にいるということが新鮮な驚きであった。
 実際、われわれ世代(もう少し上や下もそうかもしれないが)は、競争ということに慣れていない。
 私は幸いなことに、友人や私立中学高校ということで環境に恵まれていたと思うが、
それでも、自分自身が競争社会について行けていないと海外に行って感じることがある。
 「不競争社会」とは、「誰かが保護してくれる社会」であり「過保護社会」でしかない。
 しかし、その「誰か」が「政府」ということは、そのまま「税金」ということに跳ね返ってくるのである。

 それでも安倍内閣では「再チャレンジ法案」「セーフティーネット」など敗者に対する保護法案が挙げられることになったが、
なかなか成果が出なかった。
 一つには、競争社会に慣れていない人々が考えるのであるから、なかなかその実態がわからない。
 また、保護を受ける側も、どうしても「甘え」「過保護社会の実現」を目指してしまうので、問題が生じる。
 ことに「敗者と勝者の線引き」が最も難しいであろう。
 それこそ「再チャレンジではなく競争社会そのものが問題」という声が上がるようになった。
 小泉内閣の長期間の是正を数カ月で出すというのは難しい話だったのかもしれない。
 また、国民一人一人にその感覚が欠如していたということもある。

  しかし、それぞれの民営化や「小さな政府」構想は、間違えていたというものではない。
 実際は、「財政再建」ということは「構造改革」からしか成り立たないということだ。
 二元論的にいえば「大きな政府で重税国家」と「小さな政府で自己責任、競争社会国家」のどちらがよいのかという択一論だ。
 中間というものはなかなか存在しない。
 もちろん、小さな政府における「障害者」「子供」「高齢者」に対する社会的弱者保護ということは別だ。
 ここで問題になっているのは「働ける敗者」である。
 この「敗者」を「政府が税金で救う」必要があるのか。
 その「救う」範囲はどこまでが適当なのか。
 基本的に議論が尽くされていない。
 その前に「格差社会反対」ということで、総選挙の結果が出てしまったのだ。

  ここでよく考えてほしい。
 「自由競争」での格差是正を政府が行うということは、国が健常者や働ける人に生活費を配布するということになる。
 税金を徴収し、その税金を働ける敗者に配布する。
 これは、「共産主義」もしくは「国家社会主義」ではないのか。

  民主党の目指す大きな政府は、そのまま重税国家でありなおかつ共産主義国家といっても過言ではないのかもしれない。
 せっかく民営化した事業を国営化し、国内競争力を削いでしまい、そのことを税金で負担するというのは、いかがなものか。
 隣中国が経済的に大きくなり、発展し、国際的に注目を集めたのは、鄧小平による改革開放経済以降である。
 改革開放経済は、そのまま開放都市における資本主義化を前提としている。
 江沢民主席時代の全人代では、資本家を共産党に入れるという、共産主義を事実上廃止した決定がされた。
 海外からの資本や技術の流入は非常に大きく、中国特有の無体財産権の無視や条約の無視なども手伝って、その発展は目覚ましいものがある。
 その発展の裏には「自由競争」「小さな政府」「格差社会」「国際競争力」があることを忘れてはならない。
 日本人は、どうしても固定概念でものを見がちだ。
 中国といえば、人治国家で共産主義経済というイメージがされているが、その実態は、小泉改革以上の自由競争と資本主義と格差社会だ。
 共産党の上席や市長がアウディしか乗れない横で、資本家のベンツのリムジンが止まるのは、普通の光景である。
 改革開放政策も初めのうちは、海外資本の下風に立った中国企業も、IBMのコンピューター部門を買収するまでに至ったのである。
 その期間は数十年。
 中国は、政権が鄧小平から数代変わっても、基本政策を変えずに国家の発展のために長期間ねばった。
 日本には残念ながらそのような発想はない。
 「政権交代」は「歴史の否定」「約束の反故」の免罪符と思っている政権があることが悲しい。

  個人的な感想は別にして、この「大きな政府」は、そのまま概算要求の過去最大九十五兆円という数字で表れている。
 報道も多く見るが、これが「民主党の目指す大きな社会の成果である」ということを報道したマスコミはない。
 この九十五兆円という内容は、大きな政府であるならば当然の帰結だ。
 郵便局の配達のガソリン代まで税金でま可能のであるし、高速道路の植樹の手入れもすべて税金で行うのだ。
 そして、社会から競争をなくし、海外企業の進出においても国が保護をして、国民の生活を保護するというのだ。
 当然に、その内容は、全て税金で行われる。税金で足りない部分は「赤字国債の発行」となる。

  このことは鳩山由紀夫が民主党の代表になった時点ですでに問題視されていた。
 そのときや総選挙時に問題視しなかったマスコミが、
いまさら問題視するのはあまりにもジャーナリズムが偏向で能力が欠如しているかが分かる事案の一つに数えられるであろう。
 「無駄遣いをなくせば一割くらいはすぐにに捻出できる」というのが民主党の主張である。
 予算の一割とは二十兆円を超える規模であるが、現在の政府は、三兆円を捻出するのに四苦八苦している。
 当然のことであり、「大きな政府」は当然に「負担増社会」「重税国家」を意味する。
 そして、その重税は、税金を払わない多くの弱者に配布される。
 努力して働いた勝者が、国家権力によって搾取され、何もしない保護を待っている人々に税金が配布される。
 一部はよいかもしれないが、結局「勝者になっても意味がない」「努力しても意味がない」という帰結になる。
 ペレストロイカ以前の旧ソ連がその模範である。
 旧東側諸国の経済的国家疲弊構造は、各国の国民の労働意欲に比例している。
 八〇年代後半のニュースで、ペレストロイカ当初マクドナルドがモスクワにはじめて店をオープンした時のこと。
 ハンバーガーを買うのに何時間も待つ人がいたという。
 インタビューをとると、「店員の笑顔が見たい」というのがほとんどだ。
 笑顔で接客をするのは、自由競争社会では当たり前だ。
 笑顔はコストのかからないイメージアップだからだ。
 今でもマクドナルドのメニューには隅のほうに「スマイル ¥0」と記載されている。
 全ての接客業の基本がこれであると思う。
 しかし、「努力しても意味のない」社会では、それが当り前ではなくある。
 今の「お役所仕事」がそれである。民主党の行う「大きな政府」は突き詰めてゆけば、「笑顔で接客のない社会」の実現となってしまうのであろうか。

  ずっと批判しているが、「大きな政府」もよいところはある。
 要するに「敗者がいない」「なんでも国が面倒を見てくれる」社会だ。何か不満を言えば、「全て政府が対応」する。
 自己責任の必要がない、要するにわれわれ国民は何でも政府に責任を転嫁すればよい。
 逆にいえば、政府にそれだけの権力が集中する。
 政府に対する依存が大きいということは、当然に政府における権限も大きくなるということだ。
 現在はまだ移行した手であるからそうはならないかもしれないが、徐々に国民の目が届かなくなり、
報道なども規制され、政府の権限だけが増してゆく社会が実現することになる。
 競争がない社会ということは、特に努力をしなくてもよい社会ということに等しい。
 「頑張らない」社会の実現だ。
 「頑張りすぎなくてよい」というのとはわけが違う。
 権限の集中は全て許認可制になり、国が感知していることは全て国が行うということになろう。

  この姿は「改革」とはほど遠い。
 私から見えれば「大政翼賛会への回帰」とも言える「改革」である。
 私自身、大政翼賛会そのものが悪とも思っていない。
 その時代における必要と必然性があり、いくつかの分岐点での失敗や失政の帰結と思っている。
 もっといえば「大政翼賛会が悪なのではなくて大政翼賛会ができるまでの過程に悪の要因がある」というべきかもしれない。
 大きな政府の帰結は、国家財政の疲弊であり、財源の枯渇である。
 その部分は国家そのものが海外から調達する以外にはない。
 中東諸国のように、埋蔵物(石油など)があれば、別であるがそうでなければ国家外からの歳入で財政を賄うしかない。
 それが貿易など平和的な解決方法がなかった場合に、戦争という手段になった。
 私自身戦争は手段であって、思想やイデオロギーではないと思っている。
 第二次世界大戦という戦争は「国家社会主義」要するにファシズムの国内的矛盾を海外において解決しようとした手段の集合体と思う。

  ここで、鳩山外交の「友愛」というものが出てくるのであるが、「友愛」でありながら「東アジア共同体」というのはどのようなものなのか。
 「友愛」でありながら「米軍基地を敵視」するのはなぜなのか。
 はっきりと理念と行動が結びついていない。
 「戦争のない国際社会」というのであれば、当然にまず「北朝鮮におけるテロ行為」をなくすべきであるが、
一方で在日外国人の参政権に言及するなど、外交(国内における外国人政策も含め)統一性がない。

  紙面の都合で、外交に関しては、日米首脳会議後に譲ることにする。

  内政面での総括は、「大きな政府を目指す民主党政権」ということであり、その問題は「大きな政府を維持する財源の維持」である。
 その面で躓いている以上、大きな政策転換か財源の捻出が必要になる。
 政策の転換は「政権交代の意味がなかった」という意味になるので、財源の捻出以外はないが、
そのことは、赤字国債による将来への赤字のつけ回しということでは話にならない。

  テレビ番組で仙石由人行政刷新担当大臣は「今までの自民党政権が赤字国債を出していたから」という趣旨の発言をしている。
 自らの政党の幹事長小沢一郎も、首相の鳩山由紀夫も自民党で赤字国債を発行していた人物だ。
 自民党内の派閥争いで外に出ただけでしかない。
 そのような「天に唾を吐く話」は別にしても、その過去の財政赤字の話以前に、
「戦後最大の概算要求」「1946年(終戦直後)以来の国家予算を超える赤字国債の発行」という内容の説明になっていない。
 政府として「自分で解決する」という意識の欠如である。
 この発言を聞いて「民主党政権で財政再建は無理」と考えた人も少なくないのではないか。

  財政再建なくして景気回復なし。
 これは小泉内閣のスローガンの一つである。
 実際に財政再建そのものがなければ、公共事業などもできず、また不景気に対して景気回復策もできない。
 相場に関する協調介入も財源がなくなり、外国に都合のよい、要するに日本にとっては不利な相場が継続することになる。

  まさに「民主党不況」である。
 私は著書で「民主党不況」という単語を使っているので、今回は新たに「民主党政権不況」という命名をしたい。

  この「民主党政権不況」を脱するためには、まず、何よりも国民がこのこと、大きな枠組みに気付くということが必要である。
 個別、枝葉末節の政策やマニフェストの項目ではなく、政府が大きく何を目指しているのかということをしっかりと読み取らなければ、
国家の行く末を間違う可能性があるということを覚悟すべきではないだろうか。

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