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2009年12月

毎年恒例2009年10大ニュース

毎年恒例2009年10大ニュース

 もうこの時期かと思う。今年も早かったような、それでも様々あったような、そんな一年であった。そこで、毎年恒例の10大ニュースを見てみたい。また今年も、読売新聞社のホームページから無断で借用する。差し支えがある場合は、思う氏でくださいますようお願いいたします。
<国内>

1  衆院選で民主308議席の圧勝、歴史的政権交代で鳩山内閣発足   

2 日本でも新型インフルエンザ流行   

3  「裁判員制度」スタート 

4  日本がWBC連覇 

5  酒井法子容疑者、覚せい剤所持で逮捕 

6  天皇陛下即位20年   

7  高速道「上限1000円」スタート 

8  イチロー選手が大リーグ史上初の9年連続200安打   

9  巨人が7年ぶり21度目日本一 

10  「足利事件」の菅家さん釈放 DNA鑑定に誤り 

<海外>

1 新型インフルエンザ大流行、世界で死者相次ぐ 

2  オバマ米大統領が就任 

3  マイケル・ジャクソンさん急死 

4  米GM、クライスラーが相次ぎ経営破綻 

5  ノーベル平和賞にオバマ大統領 

6  北朝鮮が弾道ミサイル発射 

7  韓国で射撃場火災、日本人客10人死亡 

8  中国新疆ウイグル自治区で暴動、197人死亡 

9  南太平洋、スマトラで大地震相次ぐ 

10  世界陸上、ボルト選手が3冠 

 さて、国内のニュースから見ると、例年に比べて明るいニュースが多い事に気づく。新聞で言う社会面の記事が、インフルエンザ(2位)、覚醒剤(5位)、足利事件再審(10位)と三つしかない。それに比べてスポーツのニュースが多い。事に、一時斜陽とまで言われた野球の話題ががんばっている。WBCもイチローも日本の野球が世界で活躍しているという話だ。ベースボールと野球が違うといわれ、日本の野球は通用しないと言われていた。しかし、近年、アメリカメジャーリーグがレベルが落ちたという指摘もあるが、日本が差が少なくなった。
 私が学生時代、ヤクルトスワローズに「ホーナー」という現役メジャーリーガーが入団した。入団早々、ホームランを量産連発し、「満塁でも敬遠」という噂まで出てきたのだ。このとき、球団の所有会社であるヤクルトの株価も高騰し、ホーナー効果という単語まで出てきたのである。しかし、その都市も翌年もヤクルトは優勝できていない。残念ながらメジャーリーガー一人ではチームを優勝させることはできなかったのである。そのうち、ホーナーの成績も下降し、ホームランを量産できなくなった。日本人投手がホーナーの弱点を徹底的に攻めたため、ホーナーも打てなくなってきたのだ。
 日本人は、データとそれに基づく訓練とでチーム全体が問題に対処する。技と技の争いであり、匠が勝利する。アメリカは、まさに力と力の対決だ。相手がどうあっても真ん中で勝負する。
 今回の野球のイチロー選手もWBCも、いずれも技が力を制した例であろう。逆に、力であれば、年齢とともに衰えが出てくるが、技は時間とともに円熟味を増す。イチローの記録などは、まさにそのことを教えてくれるのではないだろうか。現在メジャーリーグは30球団有るが、その多くの専守を越え記録を作るというのは、実にすばらしい。
 そのアメリカとうまく言っていない政権を作ったのが日本だ。一位はやはり政権交代だと言うことになるが、その後の迷走は、あまりにもお粗末だ。来年首相交代など、今までと同じ轍を踏むのではないかと思う。
 そのアメリカでは、<海外編>でいくつかの「政権交代」が行われた。2位のオバマ大統領は解説の必要はない。日本と同じ政権交代だ。日本でもオバマ大統領の演説集がよく売れた。小泉元首相、鳩山首相と同じ「スローガン」「わかりやすい」「リスクを言わない」の三拍子だ。小泉元首相は、郵政選挙を行いその際に離党者を多数出しながらその矛盾を解決した。自民党という政党を分裂させても、政権公約を断行したのだ。一方、オバマ大統領と鳩山首相という日米の現在の指導者は、そのようにできていない。わかりやすい、単語と耳障りのよい公約、安易な単語では、価値観が多様化した国民の要望に応えることはできない。
 政治のことは、今日は辞めておく。新年早々、また政治に関することを多数書かなければならないからだ。年末くらい、政治でないことで終わりたい。すでに仕事納めも終わっているのだ。
 さて、オバマ以外にも「政権交代」が行われた。一つは避けようがない事実の中での「交代」だ。「キング・オブ・ポップ」と言われたマイケル・ジャクソンの急死である。毎年10大ニュースについて書いているが、個人の死が10大ニュースになるのは珍しい。それだけ、マイケル・ジャクソンが作り出した音楽の与える影響は大きかったということだ。下手な政治家よりもずっと多くの人にメッセージを伝えることができたであろう。マイケルにとって、もっとも大きく音楽の力を示したのが「ウイ・アー・ザ・ワールド」であろう。日本で言うところのプロダクションやレコードレーベルという既存の枠を越えて、世界平和を歌った企画は、誰でもができることではない。今年になって核廃絶を宣言したプラハ宣言が、ノーベル平和賞になったが、それでもマイケルの企画よりも何十年も遅れているのだ。そのマイケルの死は、音楽における一つの時代の終わりを物語る。もちろん、音楽の世界が無くなるわけではない。「キング」がいなくなった。新たな時代になったということだ。
 もう一つはGMやクライスラーの相次ぐ倒産だ。これは、二つの「政権交代」の象徴であり、一つの「交代の予兆」かもしれない。二つとは、小さく考えて、アメリカ、世界における自動車産業の「世代交代」が行われたという事。二つ目は、「自動車産業という事業そのものの交代」。そして、「資本主義経済の行き詰まりの予兆」を示していると思われる。
 まずは自動車産業の世代交代だ。アメリカ車といえば、大きく見栄えがよいが燃費が悪いという印象だ。私が子供の頃「アメ車」は、すべての大きな者強い者の象徴であった。しかし、「大きく強い」ということは、無駄も多いと言うことになる。自動車では大きな、頑丈な物がもてはやされた。早いこともしくは大量輸送手段としての自動車の存在が大きかった。しかし、自動車そのものの利用が、集団から個に変わることによって、小型車の時代になってきた。また、その中に、自動車道路の整備が進むと言うことも一つの要因となった。道路が整備され、悪路が無くなったこと。パーソナルカーがすすみ、女性の運転者も少なくなかったことなどから、自動車の小型化が進んだ。昔、私の子供の頃は、悪路、無舗装の砂利道なども少なくなかった。そのような道路で今の自動車を走らせれば、すぐに自動車が故障した。そのときは、アメリカ者の大きく頑丈な自動車が必要であったのだ。一方で、アスファルト舗装がほぼ全てでできた場合は、当然にそれだけの大きさや頑丈さは「ムダ」になってしまう。今年流行語にもなった「事業仕分け」は、当然に「ムダ」をなくす事が目的であるが、実際はこの「アメ車」のムダと同じ、昔は必要であったが、今は「そこまで」必要ではないムダが少なくないのだ。当然に、「そこまで」というだけなので、完全に不必要という物ではない。ダムなどもその辺の問題になる。
 ムダの話はこの辺にして、アメリカ車はその時代の変化やニーズの変化について行かなかった。ムダはムダを生み出す。結局人件費やそのほかの経費も大きなムダになってしまい、ムダの方が大きくなってしまうと、会社が倒産する。逆に、トヨタ自動車など小型車やアスファルト舗装、もっと言えば時代にあった自動車を作る会社にとって変わられてしまうのである。
 次に、自動車産業そのものの終焉だ。2000年の京都議定書の通りに、地球の温暖化そのものが大きな問題だ。当然に、化石燃料の燃焼と言うことが大きな問題になる。また、ゴミ、リサイクルの問題が出てくる。結局自動車産業そのものが脱皮を迫られている。その脱皮は、化石燃料からの脱皮であり、一方で巨大なゴミからの脱皮だ。化石燃料そのものの問題はエコカーという新たなカテゴリーを迫られている。まだできている物ではない。自動車産業そのものが全体で模索中であるという。
 一方で、ゴミの問題も大きい。中古車というだけでなく、古タイヤなどは大きな問題となる。そもそも、自動車のリサイクルは進んでいない。中古車という市場があるので、リユースはできているのかもしれないが、その部品のリサイクルが進んでいないのは知られていない。それが大きな問題となっている。
 アメリカは大きな市場だ。自動車にとって大きな市場が、この化石燃料という環境問題と、一方でゴミの問題の二つがアメリカを象徴する企業の倒産という劇的な問題になる。自動車産業そのものがおかれている現在の立場が、徐々に変わってきている。この倒産の問題はそのような地球レベルの前に「強制終了」させられたといえる。ここは、上記のムダの多さとも無関係ではない。
 最後に「資本主義経済の行き詰まりの予兆」ということだ。昨年の10大ニュースであるリーマンショックの影響がこの倒産の引き金だ。これこそ、この問題の象徴だ。「銭で銭を買う」というこの構造そのものが、実体の製造業に深く食い込み、そして、そのなかの生殺与奪の権利を握るということになる。その生殺与奪の権利者の死は、そのまま自らの死を意味する。
 資本主義経済そのものが、拝金主義になってしまう可能性を示唆している。では、資本主義でなく、社会主義や共産主義がよいのかというとそうではない。すでに中語気やソ連の崩壊、東西ドイツの統一そのものが、それを示している。しかし、資本主義が万能ではないことを今回の事件は示した。「政権交代」といえば、それに変わる勢力が必要になる。今のところそれに変わる勢力はない。しかし、資本主義が完全でないことは多くの人がわかってしまったのではないか。
 大きな意味で「王者が変わる」といえば、ボルトの世界記録もその中の一つだ。<海外>では「政治」ではオバマ大統領、「経済」では自動車産業、「エンターテイメント」ではマイケル・ジャクソン、「スポーツ」ではボルトと多くの分野で、「政権交代」が行われた。

 最後に、今年を一言で現せば「交代」である。まさに、そのものズバリであろう。日本でも世界でも様々な内容が変わった。「交代」は期待と不安の交錯である。期待が大きければ、不安や失望も大きくなる。不安は将来に対する内容である。「交代」はよくなる可能性もあるが、いっそうの悪化の可能性も捨てきれない。その道筋を示せば、各人が予想できる。その予想の結果はすべてが期待のままであるとは限らない。政治の世界でも混乱が少なくないし、日本経済では、すぐに日本航空の再建問題が待ったなしの状態になっている。世界でも、日本ではわからない、アフガニスタンやイスラムの世界の大きなウネリが出てくる。オバマ政権になってイラクの撤退が公約であったが、それでイスラム社会との関係がよくなったものではない。テロが無くなる日は遠いのだ。

 来年は、逆に「交錯」の年になるのではないか。このことは、来年の年初放談までに、少し勉強したい。

 今年もいろいろとお世話になりました。皆様のご指導とお引き立てにより、何とかこの活動を続けています。来年もよろしくお願いいたします。

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天皇陛下と政治に関する事項

天皇陛下と政治に関する事項

 しばらく、間があいてしまった。
 少し疲れたというか、何となく様々なことをしなければならず、まさに「先生でも走る」季節である。
 我々小物は走るだけでは飽きたらず、飛び回ったり、地中に潜ったり、夜討ち朝駆けと大変である。

 12月4日に、鳩山政権初の国会が閉会した。
 それまでに、鳩山政権の内政の政策と財政の問題に関して記載したと思う。
 本来ならば、次は外交の問題だ。日本が一つの国家として存在するに当たり、当然に外交は必要なファクターである。
 外交には二種類の内容がある。
 単純に平時と戦時である。通常外交と安全保障と表現した方がわかりやすいかもしれない。
 しかし、このようにしている間も、「内戦」という戦争形態を含め、戦死者がでていないことはない。
 1945年以降、戦争と無縁なのは日本だけかもしれない。逆に言えば、第二次世界大戦及び太平洋戦争終戦後、地球上から専科が消えたことは一度もない。
 日本は、そのようななかで貿易立国としてエネルギーと食料の多くを海外からの輸入に頼っている。
 この状態での外交政策は、貿易相手国との間の平時外交と、
通過地域や隣国などで戦争が発生している場合の、戦時外交を使い分けなければならない。
 平和憲法とか話し合いとか、机上の空論ではなく、実際に硝煙の臭いと銃弾が飛び交う横を安全に通り抜けることを考えなければならないのだ。

 そのような状態の中で、日本は日米関係、日中関係という二つの問題を抱えて迷走している。
 特に、安全保障という観点からみた、普天間問題は、迷走を通り越して、不安と苦笑しか出てこない。
 欧米人がもっとも嫌う日本人の癖がでているようである。
 玉虫色の解答で、結論を出すことができない。
 日本人がもっとも得意であり、そして欧米人からもっとも嫌われる方法。
 「いいとこ取り」は「悪いところが残る結末」を迎えると言うことをわかっていない。
 民主党は、後は責任転嫁であろう。
 自民党が変な合意をしたなど、自分の決断できない状態を棚に上げて、第三者を批判する。
 国家対国家の交渉で、片方の国家の内輪もめを露呈するほど恥ずかしいことはない。
 それを「恥ずかしいと思わない」性向が日本人にはあるらしい。
 広い意味で、国際社会慣れしていない、ムラ社会の延長線上を脱していない。

 さて、外交に関して、普天間の問題が一段落したらまとめようと思って、間があいてしまった。
 これは15日、日米関係に大きな亀裂を残し、将来に禍根を残す可能性を残す選択をした。
 鳩山政権は日米関係と社会民主党を天秤に掛けて、結論を出さずに先延ばしにした。
 このことは、もう少し後からまとめて書いてみたい。

 そうこうしている間に、もっと大きな問題が出てきた。

 「天皇陛下の政治利用」である。

 事の顛末は、

 11月26日に、中国習近平国家副主席が12月14・15日来日の際の天皇陛下との会見希望を外務省が申し込む。
 これに対して、宮内庁は宮内庁の内規であり2004年に天皇陛下が体調を崩されてきた後に守り続けてきている
1ヶ月前までの申し込みがない場合の会見を断るとした、1ヶ月ルールによって、会見を断る。

 12月4日に、平野官房長官が宮内庁に出向き、「中国は重要な国であるから会見をお願いしたい」と申し入れる。
 これに対しても宮内庁は1ヶ月ルールを元に断る。

 12月11日に、平野官房長官が再度命令。宮内庁は天皇陛下の健康状態を留意した上で「特例として」会見を行う方針とする。
 この決定に際し、羽毛田宮内庁長官は「天皇陛下の政治利用という重大な懸念が生じる」と会見し、世に問題を提起する。

 12月13日、渡辺周総務副大臣はテレビ朝日の番組内で
「今からでも会見を中止すべき。中止できない場合は特例を今回1回にすべき」
と、鳩山内閣ないで初めてこの問題に対して見解を示す。

 12月14日、これより前、中国韓国を歴訪し、胡錦濤国家主席に対して140人の民主党随行議員一人一人と握手、
写真撮影を行い、また、韓国で李明博大統領との会見で天皇陛下の訪韓を安易に約束してきた小沢一郎幹事長が記者会見。

「天皇の国事行為は内閣の助言と承認で行うものだから、官僚が決めた1ヶ月ルールに縛られる必要はない」

「天皇の体調が悪いならばほかの優先度の低い国事行為を止めるべき」

「天皇陛下本人ならば、会いましょうと言ったはずだ」

「長官は辞表を出してから言うべき」
 という。

 これに対して羽毛田宮内庁長官は、「天皇陛下の政治利用が内容につとめるのが私の役回りで、辞めるつもりはない」と応酬。

12月15日、鳩山首相は習近平国家副主席が来ているときにこのような騒動で残念、と不快感を示す。

 そのような中24分間、天皇陛下と習近平国家副主席との会見が行われる。

 さて、この顛末でまず、私の結論を申し上げよう。
 「言語道断」の一言だ。
 もちろん民主党政権と小沢一郎幹事長に対してだ。
 そして、同時に羽毛田信吾宮内庁長官に対して、その役割を公言した上で、現在の官僚不信の潮流の中、
役目を忠実にこなし、そして不正に対して問題を提起する姿勢に、感服する。
 官僚と一口に言っても、このようなまじめな、そして国家に忠実な人がいるということに、誇りを持つ感覚だ。
 民主党・自民党というのではない。
 宮内庁という役所の特殊性から、天皇陛下に忠実に、曲がったことに対しては意見を言う姿勢は、
国民の多くが好感を持てるのではないだろうか。

 一方で、行政府の長である大臣。このことに関してコメントを出したのは亀井静香金融担当大臣しかいない。
 あとは、まともなコメントを出さない。
 もちろん、小沢一郎を支持もできないし、一方で、小沢を否定もできない。
 全く政治家としての主体性がない。この件に関するコメントを出せない人々を「大臣」と仰いでいる日本国民が、
他人事のようにかわいそうになってくる。
 これでは、小沢ファシズムを止められる人がいない。
 
 さて、例によってこの結論に至る問題点を指摘してみよう。

 第一に、天皇陛下の政治利用とは何か。
 歴史的に見て、小沢一郎は何が間違えているのかを検証する。

 第二に、今回の特例会見がもたらす日本の不利益は何か。
 具体的には、中国だけ特例を認めてよいのか。
 では、たとえば明日、ロシアの大統領が面会を求めてきたら、どのように対処するのか。
 過去に1ヶ月ルールによって断った諸外国にたいしてどのように申し開きをするのか。
 予想してみる。

 第三に、民主党政権の危険性。
 先に挙げたように韓国でも天皇陛下訪韓を話題にしている。
 また、それは民主党幹事長でしかなく、内閣の構成員ではない。
 実質的支配者という構造と、天皇陛下を利用するしたたかさの裏を探ってみる。

 第一に天皇陛下の政治利用についてだ。

 天皇陛下とその権威を政治的に利用してはならない。
 歴史の中において、元々はシャーマニズム的な指導者が民を治めていた。
 その神の権威から、徐々に現世の力が強い者が為政者になった。
 為政者は徐々に世襲を望みそのためにやはりシャーマニズム的な神権授受を理論のより所とした。
 封建制そして絶対君主制は、語弊はあるかもしれないがそのような構造でできている。
 これは、ある意味すべての人類がそうでないと気づきながらも、現在王制が残っている国は、大なり小なりその理論の中にある。

 誤解があると困るので、あえて付け加えると、私は、この神権授受説またはそのほかの王権の起源説に関し、否定するつもりもない。 近代民主主義国家において「前近代的」という批判をする人もいるかもしれないが、私はそうは思わない。
 まず、近代社会の大きな流れの中で、もっとも早く産業革命を進めたイギリスは、現在も王制が残り、立憲君主制が政治の基本だ。
 王制や帝政が前近代的と批判するのは、その本質と政治の基本を理解できない人々の言うことだ。
 とはいえ、実際に神権があるとも思っていない。
 残念ながら戦後教育は天皇陛下を「現人神」とは教えていないし、また、宗教的信仰心も少ない。
 しかし、政治は人が人を治める行為であり、その中に人間心理のより所が必要な場合、
王制は間違いなくプラスに作用し、国民全体の意志の一致を見ることができる。
 そもそも、日本の戦後とイラクの現在と、なぜここまで違うのか。
 イラクには地下資源もあるのだ。
 年代や地域的な要因、部族・民族の関係。様々な要因があるが、戦後の混乱期に、天皇という心のより所があった国と、
宗教的または政治指導的カリスマであったフセインを失い、
新たなカリスマ探しをしなければならなかったイラクという差があったことも否めない。
 日本の現在の復興に、天皇陛下の存在そのものが、当時の日本人の心の中にあったという事だ。
 そのことが、「日本国民統合の象徴」という憲法の第一条に現れている。
 もちろん、戦後教育を受けた日本人にとって、当時の日本人と同じような意味合いを理解することは不可能なのかもしれない。
 しかし、憲法第1条に日本の象徴というだけでなく、国民統合の象徴と復唱してかかれているのは、
特別な意味合いがあると考えるべきだ。

 さて、話がかなりそれたが、天皇陛下の政治利用に戻ろう。
 今までの論理から、天皇陛下が、文献上、神武天皇以来現在まで2600年以上継続しているのは、
 その歴史の期間日本国民が、日本と名乗る前から、シャーマニズム的もしくはそのほかの意味合いを含め、その権威を維持していた。
 中には混乱期もあったり、直系でなくなったり、南北朝に分かれたりと、様々な歴史がある。
 しかし、少なくとも有史以来、血筋が途絶えてはいない。その権威の利用のために、降嫁や外戚などもあったが、
一応血筋は残っている。少なくともこれだけ残り、継続している家柄で、国家において特別な立場にいる家柄は世界にはない。

 これは、天皇家そのものが偉大であるとか、天皇家が神の家柄だから護られているという話も出てくる。
 しかし、現実的に言えば、それだけ、日本人は長期間にわたり天皇家の権威を認めてきているのだ。
 それは、国民もしくは時の為政者に、その権威、権能、存在意義を必要とされた、
消極的に言えば、邪魔と思われなかったのである。

 歴史を見ればわかるとおり、第日本帝国憲法ができるまでの期間、その多くの為政者の役職は、天皇陛下の役職である。
 摂関時代の摂政・関白も、武家社会の長将軍も、征夷大将軍が正式名称だ。
 明治になっても、しばらくは律令官制を使用していたのである。
 考えようによっては、現在の内閣総理大臣も天皇陛下に任命されるのだし、国会の召集も解散も天皇の勅語によって行われる。

 さて、その権限、権能の起源は、多くの国民が天皇陛下を尊重するという内心にある。
 逆に言えば、天皇陛下は、日本国民すべての人の内心に、規律として存在すると言ってもよいのかもしれない。
 語弊があると問題なので、その内心での存在は天皇陛下やその関係者が望んで行うものではなく、
日本国民が共通に持つ価値観の中に存在するのであろう。

 では、その天皇陛下が政治的な活動をした場合は、どのようになるのか。
 それは、多分内心に従い、もしくは内心の価値観を強く否定する一群として、多くの人に影響を与えることになるであろう。
 それは、従うことも、反発することも含め、影響は大きく、無関心とする日本国民がもっとも少数派になる。
 その影響力は、現在の政治家のそれとは比較にならない。
 理屈や理論で理解したイデオロギーと、少なくとも有史以来千年を越える伝統において
「魂に刻みつけられた」価値観とは比較そのものができないであろう。
 当然に、是非・肯定否定は別にして「天皇陛下」に関する影響力は、日本国民にとって多大な者があると言わざるを得ない。

 私自身、個人の意見として、日本国憲法の規定を無視すれば、天皇陛下ご自身が政治に参加することは禁忌であるとは思わない。
 多分、下手な政治家が独裁的に政治をするよりも、よいのではないかという期待さえ持つ。
 とくに、一人の個人としてご意見を申されるのはおかしいことではない。
 しかし、上記のように、その影響力を考えれば、軽々に個人的な意見を申される事もできない。
 ましてや、その影響力を知る諸外国からみれば、天皇陛下のお言葉は日本政府が肯定否定するのは別にして、
重い意味を持つ事が予想され、同時に、その言動の与える日本国民に対する影響力を無視することはできない。
 逆な見方をすれば、当然に天皇陛下は、よほどのことがない限り、誤解を与える表現をしてはならない。
 同時に、個人攻撃や、政治に関する内容の発言に慎重にならざるを得ない。
 天皇陛下個人の考え方を無視しながら、その影響力の大きさから政治的な発言を控えていただくしかない。

 実際に、歴史に即して考えてみよう。
 明治憲法下の日本は、主権者が天皇陛下一人であった。
 内閣などもすべて決定ではない。
 逆に言えば、天皇陛下の言葉は、その時点で拘束力を持った。
 大政奉還後明治維新や西南戦争などは、すべて明治天皇の決断によって行われた。
 今、NHKのドラマで話題になっている日露戦争までは、明治天皇の英断によって決行された。
 それは、戦争ばかりではない、武家社会から国会設置間での改革、殖産興業と商業の自由化による富国政策、
江戸時代の不平等条約から脱却し、日英同盟まで実現、
国債を発行しての日露戦争戦費調達による政治・経済における外交、大津事件など外国の圧力に屈せず法を守った司法、
郵便(逓信)の確立による情報改革、そして陸海軍の強兵政策などがそれだ。
 すべてがすべて、天皇陛下が起草立案したのではない。
 しかし、富国強兵や法律の遵守など、大前提となる基本政策を「詔(みことのり)」として出してきたのだ。
 天皇陛下が政治に参加したとしても、それが即問題になることではないことの例だ。

 逆に、これの取り扱いを間違うと、大きな問題になる。
 戦前の軍縮条約を巡る統帥権干犯問題は、まさにその最たる例だ。統帥権干犯とは、軍隊の統帥権は天皇陛下に属する。
 これを、天皇陛下の詔勅無く、内閣が勝手に軍縮条約に合意するのは不謹慎だ、ということだ。
 この統帥権干犯問題は、軍部が声を大きくして内閣を責め立てた。
 この議論に天皇陛下本人の意思は介在していない。
 しかし、今回の小沢会見と同様、軍部が「天皇陛下の意志を推測」して発言した。
 この事件を元に、軍縮条約派と、軍拡派に分裂し、軍拡派が民間人出身の内閣総理大臣を殺害する事件が発生する。
 これを5・15事件という。
 これがクーデターと言われないのは、主権者が変わっていないからである。
 犬飼毅内閣総理大臣は大日本帝国憲法下では内閣総理大臣でしかなく、主権者は天皇陛下である。
 よって、単に事件でしかなく、クーデターとは言われない。
 しかし、これより、軍人が内閣総理大臣になることが多くなり、軍部の派閥争いがそのまま政争につながることになる。

 5・15事件以降の日本がどのようになったのかは、誰でもが知っている。
 結果としての是非は別にして、日本国土を焦土と化した戦争を止める力はなくなったのだ。
 このことは、軍部の「裸の王様」ぶりを露呈する。
 同時に、天皇陛下そのものの偶像化とそれにあわせた崇拝強制が行われる。
 天皇陛下に対する偶像かと崇拝の是非ではなく、宗教的強制崇拝と、行きすぎた取り締まりの強化は、
冷静な判断力を失わせ、情報を排除し、そして催眠的過激行動に動く可能性が強くなる。
 カルト宗教団体のテロリズム的無差別殺人や、終末論的集団自殺などはすべてそれである。
 これは最近では「カルト宗教」という少数集団であり、テロリズムも外国の事と思われがちであるが、
実際日本赤軍事件やオウム真理教事件など身近な刑事事件として発生しているのだ。

 現在の天皇陛下の政治利用に、そこまでの宗教制があるとは思わない。
 しかし、実際、明治維新の時の明治天皇も同じだ。
 不謹慎かもしれないが、明治天皇にそこまでの宗教制がなかったから、
「錦の御旗」に対して、白虎隊をはじめとする会津若松城はあそこまで抵抗し戦争したのだ。
 この政治利用と宗教的カリスマは、時間を追うごとに高まりを見せ、そして極端になってゆく性格があるのだ。

 当然に、そのようなことにならないように、天皇陛下及び皇室の各殿下・妃殿下には
「言いたいことが言えない」「自分の希望を自制しなければならない」という多大な負担と犠牲を強いながら、
日本国と国民統合の象徴としてご公務についていただいている。
 逆に、それに反し、自己の恣意的な感覚によって、天皇陛下の行為や言行を政治利用することは絶対に禁じられており、
またそれは、主権者としての国民の総意である。

 では、今回の事件において何が政治利用であったのか。
 そもそも、政治利用とは、政治的に天皇陛下を利用することである。
 これは、特定な考え方、特定な宗教(一部神道をのぞく)、
特定なイデオロギー、特定な政党、特定な国、特定な個人への偏った言動を天皇陛下にさせると言うことだ。
 天皇陛下は「言論の自由」「思想の自由」「宗教の自由」を基本的人権として保証されている日本国民の象徴である以上、
その基本的人権の自由を阻害する行為をしてはならない。

 例として、今回のことを挙げれば、中国だけを特別扱いし、もしくは民主党政権の時だけルールを変えるというのでは、
中国、もしくは民主党という特定の国、もしくは特定の政党、もしくはその両者の底流にある特定のイデオロギーのみを
「特例」とする事になる。
 それは、併せて言えば、ほかの思想を持つ多くの国民の「思想」「言論」「宗教」などの自由、
つまり基本的人権を阻害する行為になるのだ。

 このような理由から、
天皇陛下の政治利用は、歴史的にも憲法という考え方からしても最もつつしまなければならないことであるといわざるを得ない。
 そして、今回民主党政権の行った行為は、明らかに天皇陛下の政治利用であり、
同時にそれは日本国民の一部もしくは多くの「基本的人権」や「自由」を阻害する行為を天皇陛下を
「利用して」行ったということを自覚すべきではないだろうか。

 第二に、今回の特例会見がもたらす日本の不利益は何か。
 すでに、この理由は説明した。まず日本の不利益は、日本国民が自らの基本的人権を踏みにじられたということである。
 それは、日本国民として多大な不利益であると同時に、小沢という人物の独裁という限りなく大きな弊害を生むことになるであろう。
 もうひとつは、国際社会の中において、日本国そのものがどの国とも仲良く行うという原則が崩されることである。
 私は「Will」の1月号の中の論文で「小沢一郎は外交音痴である」という意味のことを記載している。
 海外で仕事をしあ人であるならば、皆実感していることであると思うが、
日本は日本国という政府と天皇陛下が各国と公平に付き合うことによって、非常に多くの国の政府と関係を良好に保っている。

 中国などは旧ソ連の各国やインドの人の入国を喜ばない。
 このことは空港のイミグレーションで時間がかかるという非常に単純な内容でいやがらせが行われる。
 また、菅ノックなどは、いまだに北朝鮮と戦争中ということから、
インドネシアや中国など、北朝鮮と国交のある国に対してはビザがなければ入国ができない。
 しかし、日本はいずれもそのようなことはないのである。
 これも、戦後55年体制と呼ばれる日本政治の公平な外交のたまっものであり、同時に天皇陛下の公平な対応による効果であるといえる。

 今回の、措置により「中国を快く思っていない」国があるとすると、「日本は中国だけを特別扱いした」ということになる。
 当然に、日本を敵対視ではいかないまでも、あまりよい関係を継続することを拒むようになる。
 現在、げんじてんのかちかんでは、中国と関係を良好にすることはよいのかもしれない。
 しかし将来何があるかは全く予想がつかない。
 中国が小国になる可能性もあるし、分裂する可能性もある。
 中国がほかの国、日本と関係の良い国と交戦状態になる可能性もすべて否定はできないのだ。
 そのような状態の中で、「公平さを欠いたた外交」がもたらす損失は計り知れない。
 ましてや、日本が貿易立国であり、また、資源や食糧の多くを海外からの輸入に頼っている以上、
そしてその輸入が海上輸送で多くの国の沿岸や領海、経済水域を通り、
そして、公海上を多くの国によって平和に保ってもらわなければ、それらの国家の存立基盤そのものが崩れることになる。
 その場合、日本の国民の生活が、今回の行為だけで崩れ去ってしまう可能性がある。
 具体的にいえば、極端な例で、石油が全く入らなくなり、食糧も輸入食材がなくなるということもありうるのである。

 今回の天皇陛下の特例会見で、それを支持しまた小沢一郎の会見内容を支持する人は、これらの危険に対してどのような対処を行うのか。
 私はこの文書およびほかの文書などでも、つねづね主張しているが、民主党は、将来の日本の形を全く新していない。
 その場限りで権力とその権力に群がる人や金をもてあそんでいるにすぎない。
 それでこの国が保てるのか。国の将来像に合わせて、これらのリスクに対して説明をしなければならないのではないか。

 第三に、民主党政権の危険性だ。
 すでに鳩山政権に関して黄色信号がともっている。
 俗に「3K」といわれているが、基地問題、経済対策そして献金問題だ。
 これらが足を引っ張り、鳩山政権はあまり長続きはしないと言われている。
 一方、実質は小沢一郎の傀儡政権であることもすでに国民のしれるところだ。
 上記のように、今回の問題で閣僚がだれ一人として声を上げない。
 鳩山政権の閣僚は、すべてが今回の特例会見を「当然の帰結」と考えているのであろうか。
 もしも、そうであれば、民主党が政権党である間、日本は絶望的な国際関係の中を生きてゆかなければならなくなるであろう。
 私は常々「民主党は言論統制によって政権を執った政党だ」と論評している。
 いまは「政権を維持している」に変えなければならないかもしれない。
 今回の件ではっきりしたのは、その「言論統制の主体は小沢一郎だ」ということである。
 民主党政権の危険は、この傀儡政権構造と小沢ファシズムにあるといって過言ではない。
 そして、その精査く決定プロセスが、一部のパフォーマンスをのぞき、すべて密室で行われていることだ。
 密室の決定と言論統制が一人の人物で一致する。そこに権限が集中すれば、これはファシズム的独裁が発生する。
 そして、直接の批判を受けないように傀儡政権を打ち立て、常に逃げ場を確保する。
 このやり方は、もっとも批判を受ける政治手法であろう。

 その人物である小沢一郎が天皇陛下を「自分の手駒のように」扱いだした。
 繰り返しになるかもしれないが、小沢の会見にもあるとおりに、天皇の内心を推測で発言し、反論を封じる。
 また、国事行為や皇室行事の優劣を、会見よりも低いと見なす内容は、許されるものではない。
 戦前ならば「非国民」として処罰されているであろう。これら会見内容は、まさに巨大権力を笠に着る傀儡政権正当化の手法にほかならない。

 このことから考えられるのは、民主党政権は鳩山首相でない首相でも、
天皇の権威を利用することによって事故の正当化を行う可能性がある事を示唆する。
 内閣の助言があればそれでよいのだ。
 たとえば「国会はもう少し長くした方がよいと天皇も言うはずだ」
「自民党政権はよくないと天皇陛下も言うはずだ」などと「内閣の助言」で会見される可能性がある。
 統帥権干犯問題と同じ事が、現代に起きる可能性がある。
 そして、民主党小沢一郎幹事長はそれを行う可能性を示唆したと見るべきであろう。
 自己都合で「内規」「ルール」「慣習」を破ってもかまわないというのであれば、政治献金問題も何もない。
 思い起こせば「微罪で大騒ぎ」などとして、西松建設献金問題を切り抜けた小沢の反省が全くないことがよくわかる。

 ヒトラーもはじめは大統領の権威を笠に着て様々な政策を行った。
 大統領を兼務し、授権法が成立するまでは、一応言論統制と、国会審議そして大統領例による緊急施行で切り抜けた。
 そこにルールなどはなく、ヒトラーという後の独裁者の意志だけで行われていた。

 戦前の日本も同じだ。
 軍縮条約の締結により加藤友三郎が批判された後、軍部が統帥権干犯問題を持ち出した。
 統帥権干犯とは、軍隊は当時の日本の憲法では、天皇陛下直属であり、軍備に関する内容もその天皇陛下の統帥権の範疇であるというもの。
 にもかかわらず、天皇陛下の意志を確認せず軍縮条約に調印したのは天皇陛下の大権を汚すものだということだ。
 この議論に実際の天皇陛下の意志は示されていない。今回の小沢一郎のように、在野の諸氏が勝手に天皇陛下の内心を推測し、議論をしていた。
 このことから5・15事件で犬飼毅内閣総理大臣が暗殺され、軍人が内閣総理大臣を兼務するようになる。
 徐々に軍事政権になり戦争に突入する歴史だ。

 科学の進歩などにより、その背景はかなり異なるが、政治は人がやることだ。
 結果として、政治家の発言内容や人間の決断がすべてを決済する。
 少し話はそれるが、小説家で「失楽園」で有名(私はそれ以外知らないのだが)な渡辺淳一氏は、
「科学には継続性があるが恋愛には継続性がない」という。
 科学には、前の科学者が失敗した内容を踏襲する事ができるし、
その結果が公表されれば時間や空間を越えて同じ失敗を同じように繰り返すことはない。
 しかし、恋愛はそんなものではないという。
 お父さんが失恋したから、息子が同じタイプの人を好きになって同じ失敗を繰り返さないという事はないというのだ。
 「だからおもしろい」と氏はいう。
 これは、数年前今は別なことで話題になっている日本航空の機内誌で読んだ話だ。
 とってあるわけではないのでうろ覚えもよいところだ。
 詳細な部分の過ちは許していただきたい。
 私の記憶に関する謝罪はとにかく、政治も同じなのかもしれない。
 そうならないように、政治や歴史を「科学」としてとらえるようにしている。
 大学で政治学や歴史学が学部学科で存在するのは、そういうことであろう。
 逆に言えば、それらをしっかりと学んでいなければ、人間は恋愛で失敗するように同じ失敗をすると言うことだ。

 さて、戦争になるのは、上記の繰り返しになるかもしれないが、大権を笠に着た政権と、言論統制、そして権力の集中だ。
 それら国内の矛盾がたまったところで、排外理論と責任転嫁が発生し、戦争が発生する。
 そして、それらの決定プロセスは、大概の場合密室でろくな議論もなく決定している。
 逆に、日本の場合だけかもしれないが、広く議論を行った日清・日露戦争に関しては、周到な準備も相まって幸い勝利している。

 ここで「大権を笠に着た政権」つまり、現在の民主党は、今まで「民意」という不確定な大権をうまく誘導していた。
 しかし、鳩山政権の危機「3K」により、そのより所となる民意も支持率の定価とともに使えなくなってきた。
 鳩山献金問題などは、説明責任を果たしていないとする「民意」が80%を越えているのだ。
 それでも説明責任を全うしない民主党政権は、すでに民意から切り離された存在と言える。
 そこで、天皇陛下の意志が出てくる。
 上記の統帥権干犯問題のごとき、陛下の意志を推測で口にするのは、問題視しないほうがおかしい。
 事に、統帥権干犯問題の場合も、一足飛びに天皇陛下に言ったのではなく、日本海海戦の功労者、東郷平八郎元帥をまず担ぎ出した。
 今回も平野官房長官が鳩山・中国・小沢などを繰り出して宮内庁を恫喝したのと同じだ。

 密室の決定や傀儡政権にかんしては、すでに何度も語ってきているとおりであるし、言論統制は様々なところで出てくる。
 これだけそろっても「憲法9条があるから戦争しない」といえるのか。
 戦闘行為はないかもしれないが、諸外国と険悪な状態になることは十分に予想され、また、相手に戦闘行為を受けないという保証もどこにもないのだ。
 旧日本海軍連合艦隊司令長官山本五十六は、適度な軍事と外交努力により日本の安全を守るべきとしていた。
 国内機運がそのような考え方を許さなかったために、
乾坤一擲の真珠湾奇襲になるのであるが、最前線の連合艦隊司令長官が戦争回避派であった事実は、歴史家の知るところである。
 今の民主党の外交や安全保障政策にここまでの見識があるのか。
 アメリカの意志を袖にしながら、日米安保条約の上にあぐらをかいているのではないか。
 それらを小沢ファシズムの傀儡政権に秘めているのではないだろうか。

 天皇の国事行為も、中国が大事という判断も、その決定プロセスを明らかにし、そして議論を行うべきであるが、
今回の小沢記者会見はそのような雰囲気ではなく、完全な威圧でしかない。
 大権を扱い、国の大事を判断する政治家のそれとは大きく違う。
 そして、その小沢に身内でいさめる人がいない現状は、旧ドイツ第三帝国のナチス党や、旧第日本帝国陸軍の派閥争いのそれに近いものを感じる。
 そして、それらの中に、上記に挙げた山本五十六のような先見性を持った国家の大計を感じることはできない。

 話がそれてしまうが、民主党政権の危険性は、これら独裁と外交政策における孤立化にほかならない。
 このことはすでに多くの場所で主張してきているが、
一方で、今回はそのことを天皇陛下を使って正当化する行為ということなのであるから、より一層許しがたい行為といえる。

 最後に、この問題に関し、国民もマスコミも、おおむね民主党の対応を非難している。
 しかし、それらは感情的なものばかりであり、
このような日本国の存立基盤と外交、そしてそれに伴う日本の将来の姿を現した「将来のリスク」という観点から論理的に行ったものは少ない。

 批判する側も、もう少し理論的に、そして理性的に感情論でなく批判をしなければならない大きな問題ではないだろうか。
 当然に、感情論的な非難が多いから「そこまで言わなくてもよいのではないか」という論調が出てきてしまうのだ。
 日本人の「いい加減さ」一昔前の流行語では「ファジー」と言っていたが、その性格が最も悪いほうに向かった例ではないか。

 いずれにせよ、
民主党政権はこのことを放置せず、しっかりとした国民への説明をし、悪いことがある場合は、当然に責任を果たすべきではないだろうか。

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