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2010年4月

インターネット選挙解禁へ

インターネット選挙解禁へ

 24日の朝日新聞によると、「選挙運動ネット解禁へ」参院選からHP(ホームページ)更新に限定、という見出しが躍った。
 公職選挙法が改正される、もしくは『解釈改法』なのかもしれない。
 しかし、いずれにせよ、ホームページというコミュニケーションツールが、
それまでの「文書図画」に当たるとして制限されたものを、制限を排除するということになる。

 さて、公職選挙法は、公正な選挙を行うものである。
 ここで「公正な」とは、なかなか難しい定義だ。
 アリストテレスが「平等には二つある」とするのが、法学部1年生の授業だ。
 私も正確には覚えていないが
「能力に応じて平等に扱う均分的平等」と、「能力などにかかわらず個人一人一人を平等に扱う配分的平等」に分かれる。(逆だったかも)

 お金をたくさん持っている人や、権力を持っている人と、一般の人が競争をした場合に、どうしても力のある人が有利になる。
 その本人の政策などに違うハンデを出さないために、公職選挙法は、配布できるビラやポスターの数量まで制限する。
 もちろん、する・しないは候補者の自由だが、上限を定めていれば、平等であるという。

 しかし、日本の場合法律ということに関して言えば、時代の流れに合わない場合がある。
 そもそも憲法の解釈がそうではないか。
 今の世の中で、憲法9条を議論している。
 このナンセンスなところが政府にはある。
 「タテマエ」で話をしてしまう政治的なセンスと、情報の決定的な不足、新たな状況への対応の遅さ。
 これがこのような状況にしてしまっているのだ。
 憲法9条は改めて論じることにするが、このように法律の解釈が遅れて、しまうのは少なくない。

 テレフォンカードが出始めのころ、千葉県でテレフォンカードを偽造した人がいた。
 当然に「有価証券偽造罪」で逮捕された。
 しかし、千葉地方裁判所での判決は無罪。
 これは、法律上
「有価証券の定義は、券面上にその証券の価値が記載されているものを言う。
 しかしテレフォンカードの場合、券面上にその証券の価値が記載されていない。
 テレフォンカードは、使用によりカードそのものの価値が変化し、その変化に応じて金額的な価値も変わるものである。
 500度数という記載は、券面の上限のものでしかなく、その時の券面の価値を示すものではない。
 よって、テレフォンカードは有価証券と断じることができない。
 よって、テレフォンカードの偽造は、有価証券にあたらず、その偽造は有価証券偽造罪の適用にならない」
 というものである。

 これは、当然に控訴され、東京高等裁判所で逆転有罪となった。
 しかし、この千葉地裁の判決でもわかる通りに、新技術に法律がついていかず、その厳密な解釈を行えば、現状と全く異なる法律判断が出てしまう。
 なお、現在は「電磁的記録方式証券偽造」が刑法の改正で付加され、このような解釈上の争いはなくなっている。
 しかし、それも、この千葉地裁の判決が話題になったからである。

 法律の制定よりも、技術の進歩そして、新規技術を使った犯罪は日々進化している。法律だけが遅れている状況だ。

 いきなり、犯罪の話にしてしまったが、主題はここにはない。私が言いたいのは「現状」と「法律」の時間的な差についてである。

 さて、選挙運動の世界でも同じだ。
 公職選挙法をよく読むと、「風呂敷」「行燈」「提灯」など、いまやドラマか時代劇でしか見ないような単語が並ぶ。
 昔も今も、法律の限界に挑戦し、少しでも、選挙を有利にしようと考えたに違いない。
 選挙とは候補者の広告である。
 提灯に名前を書いたり、百貨店の紙袋のように風呂敷に名前を印刷したり、様々な選挙活動をし、
候補者の名前の周知に努めたであろうことは想像に難くない。
 そこで、文書図画を制限し、そして、その数量も制限したのだ。

 しかし、現在において、提灯や風呂敷を使う人は少ない。それでも、それらの名称が消されないでいる。
 これが法律の世界だ。
 いまだに文語体で片仮名の記載の法律も少なくないのだ。
 さて、選挙に戻そう。

 法律で規制されていたインターネットの利用といえども、そのインターネットの使用方法によって選挙がドラスティックに変わるものではない。

 ここで、インターネットの特徴を考えてみよう。

 インターネットは、簡単にいえばコミュニケーションツールである。
 IT革命といえども、それはコミュニケーション革命でしかない。
 そもそも、日本人は、明治時代の前島密が郵便制度を作った時、ラジオ、テレビ、ファックスと
「インフォメーション・テクノロジー革命」を何度も体験してきているはずだ。
 今回は、その新しいコミュニケーション手段ができたにすぎない。

 では、コミュニケーション手段の革命とは何か。
 それは、単純にいって人と人の間の「ボーダレス化」でしかない。
 コミュニケーション手段の革命とは、コミュニケーションの手段に対する「時間」と「空間」の問題だ。

 コミュニケーションでもっとも単純なのが「会話」である。
 実際に会って話をする。
 これはもっとも単純でもっとも原始的であり、道具を使用しない手段だ。
 その代わり、物理的にコミュニケーションの相手と「時間」と「空間」を共有しなければならない。
 時間がずれても空間が違っても会話は成立しない。また、広すぎても、声が届かなくても会話は成立しないのだ。

 この「時間」と「空間」をいかに広げるか、あるいは、どちらかを広げて、どちらかをそのままにするかで、徐々に技術の変革が行われている。
 まず、郵便だ。
 古くは飛脚や伝令などもある。
 しゃれたところでは伝書鳩などもそうだ。
 これは、伝言もしくは手紙という代行手段を持って、「空間」を共有しなくても、意思を通じることができるようにしたものだ。
 文字情報によるコミュニケーションを行い、それを、距離的に離れた場所でコミュニケーションを成立させるというものだ。
 ただし、時間の共有もないのと、会話と違い文字情報であるためにニュアンスなどが通じないという難点があった。

 手紙の難点である、ニュアンスと時間の共有を実現したのが、電話である。
 距離的に離れたところでの会話を成立させた道具だ。
 しかし、これはよほどの場合でない限り「一人対一人」の会話になってしまう。
 一人対マス(集団)のコ開発されるようになったコミュニケーションには、適さない。
 また、会話の記録を残しづらいという難点もある。

 この電話を文字情報いしたのがファクシミリである。
 これについては、両方のよいところ、両方の悪いところを併せ持つ内容になった。
 「一対マス」のコミュニケーションにはラジオ・テレビというメディアテクノロジーが出てきた。
 「一対マス」これを「マス・コミュニケーション」略してマスコミという。
 しかし、「コミュニケーション」という単語を使いながらも、
実際は情報が一方通行で、マスから一への情報や会話が成立しないという難点を持っていた。

 今回のインターネットは、このマス・コミュニケーションを双方向化し、そして離れた空間で、時間を共有することが可能であるという利点を持っている。
 一方で難点は、マス・コミュニケーションと同じで、コミュニケーションの主役のマス側も、
また場合によっては双方が匿名性があり、会いえが特定できないことである。
 匿名性の問題は、
そのまま、コミュニケーションの内容の話に転嫁されたり、インターネットユーザーの個人の個性の問題に転嫁されたりするのである。

 インターネットでできることは、実際にマス・コミュニケーションを一人でできるということになる。
 一人でそれを行うということは、当然に様々な人が、同じことができるということだ。
 逆にいえば、中には嘘も、ガセネタもたくさんある。
 「マス」側が本物か、自分で受け入れられるかを判断する時代になったのである。
 同時に、インターネットは、双方向メディアである。
 今までのマスコミと異なり、批判や賛同をすぐに戻すことができる。
 マス側が、情報発信者やそのツールを使って、多くの人に対して、意見を発することができるのだ。
 とくに匿名性であることから、それら意見を出しやすい環境になっていることもある。
 嘘やガセネタと同時に、過激な表現や誹謗中傷も中に含まれてしまう。

 日本人は情報の扱いが非常に下手な国民だ。
 企業経営で「親方日の丸」という単語があるが、情報は、一方的に受信者になってしまい、また、嘘や詐欺に耐性が少ない。
 そのことがマスコミの誘導による民主党の政権交代にもつながるし、または、「おれおれ詐欺」にもつながるのである。
 また、過激な意見という点においては、名誉棄損や殺人予告などの業務妨害につながるケースも少なくない。
 そのような事件ばかりが報道されることによってインターネットを敬遠する動きなども出てきてしまう。
 教育の現場での裏サイト問題などは、かなりひどいものである。

 日本人は情報に対しての体制がないために、ネット上での情報に対しては「ネットの情報だから嘘が多い」というレッテル貼りをしてしまう。
 しかし、レッテルを張ってもよいものはよいし、悪いものは悪い。
 ネットで言われていた麻生政権の支持と、昨年の総選挙でマスコミが宣伝した民主党政権、
今どちらが良いかは、国民が最も良く判断しているのではないか。
 徐々にネット情報に対する耐性もつきつつあるのかもしれないが、
実際は、それらに関して、過渡期でしかなく、その対処方法も、防御策も個人任せになってしまっている状況だ。
 まさに「テレフォンカード偽造は有価証券偽造に当たらない」という判決と同じようなことがインターネット上では少なくないのかもしれない。

 さて、話を選挙に戻そう。

 公職選挙法でホームページの更新を認めるという。
 ということは、下手な人は自己満足で『レッテル』の中で、それを行わなければならず、
一方で、うまい人はマスメディアと同じだけの効果を得ることができる。
 平たく言えば、自分で自分のメディアを作ることが可能になるということになるのである。

 選挙とは、いうなれば「候補者」という商品のプロモーションといって過言ではない。
 言い方を変えれば、「マス」を相手にした「候補者」という商品の売り込みだ。
 その売り込みにおいて、今まではポスターとビラで対応していた。
 後は政見放送と新聞広告だ。
 これに対して、今後はインターネットという道具を使うことができるようになった(ホームページ限定とされている)。
 インターネットは新たなメディアではあるが、テレビなどと違い、自分でアクセスをしに行かなければ、何も出てこない。
 いくらホームページでよい政策を掲げていても、誰もアクセスしない状況であれば、何の意味もない。

 ということは、インターネットを解禁したとしても、それ以前に
「自分のホームページを見る」というインフラを整えておかなければ何の意味もないということになるのだ。

 その「インフラを整える」作業は、人それぞれである。

 日本人の場合、「ネット利用」というと、さも新しくなり、また、
「革命」といって、それまでの環境が一変するかのごとき話を平然と行う。
 しかし、実際はそうではない。実際は何も変わらないというのが現状である。


 すでにご案内の通りに、私は三橋貴明さんの選挙を手伝っている。
 この選挙はインターネット選挙といわれる選挙戦の実験的なものであると考えている。
 選挙が終わるまで話せないことは少なくないが、選挙そのものにおいて、
三橋が自分の努力で培ってきたインフラが非常に大きく役立っているといって過言ではない。
 というよりは、彼のインフラがなければこの選挙は成立しない状況にある。

 逆に、インターネットの世界がどれほど投票行動に結びつくか、そもそも、インターネットユーザーが投票に行くのかさえ疑問である。
 その疑問の解消は、投票日までわからないはずだ。
 ここで匿名性の悪癖「無責任」が出てしまう。
 要するにインターネット上でどれほど立派なことを言っても、
インターネットを離れると何もできなかったり、しなかったりという人は少なくないのだ。
ヴァーチャル世界とリアル世界が完全に分離してしまっている場合が少なくない。
 批判や誹謗中傷はよいが、選挙である以上得票行動に結びつかなければ意味がない。
 それをどのように解消するのかが最も重要な状況である。
 しかし、今法律的に解禁になったばかりであり、今後これらの方法は確立してゆくことになる。
 その方法に関して、日本中の全ての人が模索中でしかないのかもしれない。

 インターネット選挙に関して、今回は雑感を申し上げた。
 新たなこのような技術が出ると「インターネット万能論」や「インターネット無力論」など様々な内容が報じられる。
 しかし、実際は、それら道具を使うのは人間である。
 当たり前のことだが、コンピューターは人間が操作しなければ何も動かない。
 「選挙」が、人が人を選ぶものである以上、そのツールとして新たなものが出てきても、
その内容に関し過度な期待や過度な反応は慎むべきなのではなかろうか。
 冷静に、新たな技術や新たな制度を評価し、その特徴を分析する。
 日本人は情報の耐性がないために、そのような自分で考えることができなくなってきてしまっている。
 それらに関して、今回の制度改正が「日本国民が自分で考えることのきっかけ」になってくれれば、よいのではないか。

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アメリカに見放された鳩山

アメリカに見放された鳩山

 アメリカで非核サミットが開催された。
 非核サミットとは、当然に核兵器廃絶に向けた世界会議の前調整だ。
 各国の首脳が集まって、アメリカで行われた。

 ことの始まりは、昨年のオバマ大統領のプラハ演説である。
 アメリカ、ロシアという二つの大国のうちの一つが、核兵器全廃を言い出した。
 もちろん、無条件で核兵器をなくすといっているのではない。
 当然に、他の核兵器所有国や「闇保有国」の廃絶があってはじめておこなうとしている。
 しかし、核の抑止力を標榜している中で、核兵器そのものをなくす『方向』で話を進めるというのは、少なくとも戦後初めての試みである。

 日本は、核保有国ではない。
 しかし、世界で唯一の被爆国である。
 このことは、非常に大きなものであり、当然にこのような「非核」の国際会議には、日本が呼ばれる。
 日本といわれても首脳であるか、あるいは広島・長崎の知事や市長が招かれることもある。

 昨年の国連総会でも、広島・長崎から非核に向けたメッセージがあげられた。
 国連のレベルでもそうだ。
 当然に非核集会での日本の扱いは特別なものである。
 実際は「ある」ではなく「あった」なのかもしれない。

 今回アメリカで行われた、非核サミットでは、日本の地位はあまりにも低いものであった。

 私は直接取材に行っていないので、取材に行った記者からの聞き取りで、ここから先は進めることになる。

 まず、鳩山首相のオバマ大統領との会談が拒否された。
 日本では「断られた」というが、どちらかというと強い「拒絶」に近い内容であったという。
 結局会食前の一〇分間立ち話を行ったということになっている。
 しかし、会議メンバーで会食や喫茶をする時間はたくさんあったにもかかわらず、たった一回の会食の前の、それも一〇分でことが足りるはずがない。
 基本的にオバマ大統領には、「鳩山と会う必要ない」という判断が下ったということになる。
 「拒絶」というからには、それ以上の内容になる。
 取材の最も過激な意見では「オバマ大統領周辺は、会うことそのものによって、鳩山がオバマの名前を使って、根拠ないことをマスコミで言う。
 オバマ大統領は、これを最も嫌っている」という。
 過去「トラスト・ミー」と言ったが、「アメリカの要求どおりに決めると約束はしていない」といって、
シンガポールで会見したことを非常に不快に思っているのだ。

 政治家にとって、言葉は唯一の武器である。政治家は一部を除いて試算があるわけでも生産性があるわけでもない。
 実際は、思想・イデオロギー・政策を言葉で有権者(主権者)に伝え、そしてその政策を実行することがその仕事のはずだ。
 当然に、政治家の発言は、それ自体重い。
 政治家の発言を重くしないためには、三つの方法しかない。
 一つ目は「冗談を言います」と初めから軽いことを言うと宣言をする場合。
 二つ目は、誰も注目しない政治家になる場合。
 そして、三つ目は政治家を辞めることだ。

 鳩山は、その三つの方法のいずれもとらず、自分の発言に責任を取らないという状況になる。
 この場合は発言が軽くなる。発言そのものが軽くなるということは「信用されない」ということを意味する。

 信用されないということはどういうことか。
 日本であれば、それでも「ムラ社会文化」で互助の精神が生まれてくるが、日本以外ではそうはいかない。
 日本企業が海外でもっとも苦労する「口約束」がそれだ。
 口約束といえども「約束」である。
 単純に、「約束」は「契約」である。
 契約は、当然に履行しなければならないものであり、その履行がなされない場合は「不履行の責任」が付いて回る。

 ちなみに、アメリカにおける契約の概念を考える。
 日本では「契約書」という仰々しいものがなければ契約が成立したと思わない人がいる。

 昔マイカルの子会社でエルメという洋服会社があった。
 そこの総務部長が、「契約書には社印を押していませんが裁判になりました」と相談を持ってきたことがある。
 押印文書がないのに裁判をするはずがない。
 よくよく問いただしてみると、相手の主張が全て押印文書で出てきた。
 その総務部長に聞いてみると「これは契約書じゃなくて、覚書だから印鑑をついておきました」という。
 このレベルが日本の契約書に関する知識といってよい。

 アメリカの場合、訴訟になれば全ての文書や録音が証拠になる。
 「メモランダム」「メモ」と表題があっても、契約双方のサインがあれば立派な契約だ。
 少なくとも「合意事項」であることには間違いがない。
 「単にメモ帳にサインしただけ」は芸能人が色紙に書いたときだけ通用する言い訳だ。

 それほど、対立する相手方の合意形成には非常に気を使う民族である。
 というよりは、アメリカは多民族国家であり、その民族が先住民を合わせて、
言語、習慣など全てにおいて違うのであるから、文書での合意形成は当然に大きなものになってくるはずだ。
 「そんなつもりではなかった」というのは、まったく通用しない。
 私がワーナーマイカルの契約交渉をした時も、スポートマートの話をした時も全く同じであった。
 出版の「ヴィクトリア」という雑誌の日本語版を出そうと話をした時も、それら合意形成で苦労している。
 「ヴィクトリア」を出さなかったのは、最終は日本側(マイカル)の担当者の「言った・言わない」で議論になったからである。

 アメリカ人は、日本の「口約束」を極端に嫌う。
 もっと言うと、口約束を守らないことを嫌うのだ。

 さて、鳩山に関しては、いかがか。
 「トラスト・ミー」は、当然にその言葉だけで独立しているものではない。
 しかし、文脈上、昨年の会談では普天間基地移転問題であることは明らかである。
 同時に、アメリカの要求は、現行案(キャンプ・シュワブ沿岸沖埋め立て案)が最も良いとされている。
 当然に、海上埋め立て基地であるから、騒音や事故の時の二次被害は少なく済む。
 また、その時は名護市においても承諾をしていた。環境アセスメントも了解されており、実現可能な案であったはずだ。

 鳩山政権は「自民がやっていたから」という理由でそれをなくした。
 「基地は国外、少なくとも県外」といって沖縄での選挙戦に勝利した。
 しかし、基地問題において基地が来てほしいという土地などあるはずがない。
 しかし、全体の国防ということを考えて、犠牲になる覚悟のあるところならあるかもしれない。
 その分、国民は国全体の安全保障の犠牲になっているのであるから、基地関連事業という産業を税金で出すことになる。
 それが「思いやり予算」でしかない。
 思いやり予算は、当然にアメリカ軍に行くものであるが、アメリカから基地のある地域の地元に還流される部分もゼロではない。
 それ以外に、対策費などが必要になる。
 それらの内容もなく、総責任者である首相の説得もなく、ただ単に「圏外と言ったから」といって基地を移されるほうはたまらない。
 その候補地である鹿児島県徳之島では、完全に鳩山政権不信感が高まっており、島全体が基地反対に動いている。
 このようにしてしまえば、なおさら、他の土地で基地を受け入れる場所があるはずがない。

 アメリカ軍といえども、軍人だけが来るわけではない。
 軍人の家族も一緒に来ることになる。
 独身であればよいかもしれないが、軍人が家族がいないとは限らない。
 軍人といえども家族は重要だ。
 家族が足んして暮らせる場所でなければ基地の勤務はできない。
 当然に硫黄島などは、もってのほかになる。

 軍事的に意味があり、地元の調整を行い、そして、軍人の家族が安心して暮らせる場所を探してほしい。
 これがアメリカ軍の依頼だ。
 これに対して鳩山は自ら「トラスト・ミー」といった。
 五月末までに解決することを自ら期限を切って約束したのだ。

 自分で言い出した約束を破ることは、「できないことを約束した」ということに他ならない。
 できないことを口にする人は「嘘つき」「詐欺師」だ。
 詐欺師は、自分の詐欺を気づかれたくないので、うそを重ねる。
 オバマは鳩山と会わない内容に関して「拒絶」したのは、当然に、自分の発言を「嘘の上塗り」に使われたくなかったからだ。
 嘘つきの片棒を担げば、当然に自分の信用も失墜する。
 鳩山と真剣に付き合えば、オバマ大統領自身の支持率も落ちてしまうということになるのだ。

 アメリカが「日米同盟」といって日本を重視していても、オバマ大統領として、
またはアメリカの民主党として、日本の鳩山政権と一蓮托生で、支持率を下げることはできない。
 自分の役に立たない、害にしかならない人は、駆除、もしくは関わらないという方向になる。

 今のところ、「駆除」ではなく、「関わらない」つまり「拒絶」で済んでいる。
 これは鳩山が良いのではなく、日本が良いからである。
 もっといえば、今までの日本が良かったから、たまたま政権交代してできた鳩山という人物一人を「パージ」しておけば、済むと考えていたに違いない。

 非核サミットでの、写真の位置などは、中心ではなく、後列の右端。
 歴史に残るプラハ演説をし、ノーベル平和賞を受賞したオバマ大統領と、この距離感が両国の為政者の距離感を物語っている。

 鳩山だけがこのようになっているならば、まだ「鳩山というたぐいまれな無能な総理大臣がいた」ということで終わりだ。
 鳩山を変えれば、それで民主党政権が続くのかもしれない。
 しかし、残念ながら、そうではない。小沢一郎幹事長が五月に計画していた大訪米団も拒絶されたのだ。

 小沢一郎といえば、昨年の一二月に迷惑も顧みずに一四三名の国会議員を含む六〇〇名の訪中団を主催した。
 そもそも、米中関係は微妙だ。
 日米中参加国に台湾を合わせた東アジア情勢が安定していないために、基地が沖縄にあるといっても過言ではない。
 しかし、そのことを知ってか知らずか「基地を追い出す」「中国に近づく」という政策をして、アメリカがうれしいはずがない。

 「同盟」は言葉の問題ではない。
 双方が同盟国のために何をするのかということだ。
 そのうえ、先にあげたように「連合国」という単語を「国連」と訳し、
その中心国であるアメリカと分離するというナンセンスな論文を出し、臆面もなく政治家でいる。

 この小沢の「訪米団」もオバマ大統領から断られた。
 これも「拒絶された」といっても過言ではないだろう。

 さて、民主党政権でこのように代表と幹事長が、与党、政権政党であるのにかかわらず、大統領の面会を断られた。
 これは過去にはないことである。
 ことに「友愛」を標榜していながら、他国から「嫌悪される」というのは、さすがに困ったものだ。

 では、なぜこのようになってしまったのか。

 結局のところ、鳩山外交が「身勝手」であるからだ。
 何が身勝手なのか。

「自分で自分の国を護ることをしないで、対等を言う」
(権利主張・義務不履行)
「同盟国と非同盟国を並列に扱い、同盟を解消せずに非同盟国と接近する」
(裏切り・同盟違反)
「高騰とはいえ、一国の代表が約束した内容を履行しない」
(債務不履行)

 これで、正常な外交が続けられるはずがない。
 少し前の世界ならば「戦争」になっていたであろう。
 実際、物理的な「戦闘行為」はないものの、自動車やマグロなど経済や商業上での戦争が激化している。
 原子力発電所や新幹線の参入なども問題になるであろう。

 私は、「アメリカに追従しろ」とはいわない。
 しかし、「同盟」を標榜する以上「同盟関係の維持」と「信頼関係の重視」は行うべきである。
 また、「同盟を解消」するのであれば、同盟に変わる政策を行い、そのめどをつけ、国民に示すべきであろう。
 それが「日中同盟」なのか「単独国防(シーレーンを含む)」なのかは分からない。
 しかし、同盟関係をやめるならば、それに代わる政策は必要であろう。
 その政策もなく、ただ単に同盟関係を破壊する行為をし、信頼を棄損するのは、国民にとって迷惑であろう。
 そして、この問題は「日米関係」だけにとどまるのではない。
 今回の非核サミットの参加国は、冷え切った日米関係を見ているし、また、その原因が鳩山の債務不履行や同盟違反であることを知っている。
 当然に、日本と関係を作るときに、「日本は、権利の主張だけで何もせず、鳩山の発言は一切信用できない」ということになる。
 この主語が「鳩山が」と個人で住んでいる間はよいが「日本人は」となったら、われわれ国民にその「ツケ」が回ってくる。
 商社マンなどのビジネスでも「日本人だから」という理由で契約を反故にされる可能性が出てくるのだ。
 今はまだ「アメリカに見放された」で済んでいる。
 しかし、これが「全世界に見放された」になるときは近いであろうし、また、この効果が日本人全体に広がることも考えられるのだ。

 政権の悪政のつけは、結局日本国民に降りかかってくる。
 民主党はこの責任をどのように国民に示すのであろうか。

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平沼新党について

平沼新党について

 最近、今度の参議院選挙で自由民主党から公認する三橋貴明君の後援会をお引き受けした。
 その関係で、ブログの更新がどうしても滞ってしまっている。
 まず、そのことを率直にお詫び申し上げたい。
 いつものごとく、選挙というと、どうしてもその内容に没頭してしまいますので、その点は是非お
許し願いたい。
 政治にかかわる全ての人に共通する修正ですね。

 この三橋貴明君は、もともとインターネット出身の作家で、経済評論家です。
 私とは意見が異なることも少なくありませんが、
逆に、双方にとって(三橋もそのように考えていると信じているのですが)良い刺激になっていると
思います。
 残念ながら、三橋君は、政治に関しては素人ですが、逆に「素人が玄人以上の仕事をする」という
内容をやってみたいと思います。

 先日四月三日には、政治コスプレパーティーを行いました。
 これは、今までネットの中に入ってしまい、政治に興味のなかった人々に、政治に興味を持っても
らうということを目的としておりました。
 パーティーの参加者から見て、その目的は些少ながら達成した思いです。
 ただし、これらの広報やプレスリリースをしっかりと作成していたりするので、なかんかあ文章を
書く暇がないのも事実。
 どうしても自分の仕事がおろそかになってしまいます。

 ということで、最近の近況と、ブログの更新が滞っている理由を簡単に記載しました。
 このほかにも歌手田村重信氏(自民党政調会調査役で慶応大学大学院講師)の歌手活動のマネージ
ャーもやっております。
 歌手の新曲発表会は五月二八日に東京都港区で行いますので、ぜひ皆様いらしてください。


 ということで、本題を。


 今まで、総選挙後、民主党がガタガタしていた。
 しかし、三月くらいから、突然自民党側があわただしくなってきた。
 三月一五日に、鳩山邦夫元総務大臣が離党した。
 新党結成のためというのが、その理由だ。
 そして、四月になって、与謝野馨元官房長官が離党し、平沼赳夫元通産大臣と一緒に新党を結成す
るという。
 新党の結成が一〇日ということであるので、この記事を書いている時点で、
新党の詳細は不明であるが、いずれにせよ保守系の政党であることは明らかである。

 今最も話題であるのは、この平沼新党である。
 平沼新党そのものに関して、二つの観点から見てみたい。
 第一は、なぜ今なのか。そして、第二は、保守の第三局になりうるのか。
 この二つの観点から、平沼新党の期待度と、それに対する私の私見を今回は掲載する。

 何よりも、まず私見から。

 はっきり言って、あまり期待できないというのが、私の私見です。
 保守の方々や、どちらかというと右翼の思想の皆様には、「なぜ」という疑問が出るかもしれませ
ん。
 私は少なくとも共産主義や革新系の思想でないことは、今までのブログでも明らかなとおりです。
 しかし、戦争で、勝つためには「天の時・地の利・時の運」があり、同時に旗を揚げるまでに「人
事を尽くして天命を待つ」という思想が必要です。
 現在の平沼新党が、これらのことをしてきたでしょうか。
 少なくとも、鳩山邦夫元総務大臣のことも、そして、この新党騒ぎの中で、民主党の動きを見ても

基本的には、うまくいかないのではないかという気がするのである。

 その理由を説明するのに、先にあげた二つの論点を見てみよう。

 まず第一は、「なぜ今なのか」ということである。

 小泉純一郎首相退陣後安倍晋三内閣が誕生した。
 安倍内閣は、憲法改正と教育問題を行うことを目的としていたが、人気通の参議院選挙で大敗を喫
し、いわゆるねじれ国会となる。

 その後、福田康夫内閣、麻生太郎内閣で、ねじれ国会に悩まされる形で物事が進展するのは、知っ
ての通り。
 国会での閉そく感と、マスコミのネガティブキャンペーンによって、総選挙で民主党政権が誕生す
る。

 その民主党がだめな政権だ。
 国民の期待を背負っていたにかかわらず、国民の期待にこたえられないのが現実であろう。
 政治とカネの問題、普天間基地の問題(日米関係問題)、不景気と経済無策。
 いずれも日本の今後を左右する大きな問題が、いつの間にか審議もなく決まってゆく。
 景気が悪いのに、子供手当は海外に金を配る話をしている。

 そのような状態であるのにかかわらず、自民党の谷垣執行部はそれを攻め切れていないのが現状で
ある。
 民主党支持率が下がっていながらも、自民党の支持率が上がらない状況が現在起きているのだ。

 その閉塞状況に業を煮やした人々から、当然に執行部批判が出てくる。
 執行部批判は、執行部の刷新と党改革を要求するが、その具体的な策は明らかになっていない。

 その中で、執行部がそれらを行わない状況で、今回の新党結成につながってくる。

 さて、「今こそ新党の時期」という人々の論拠はこれだ。
 このようないきさつの中で、無党派保守層が行き場を失っていると考えている。
 このことは、渡辺喜美の「みんなの党」の支持率が上昇していることが例に挙げられている。
 単純にいって、「民主党批判」「自民党に期待できない」という無党派保守層の多くの受け皿とな
るという考えをしているのだ。

 第二に、参議院選挙の前ということだ。
 参議院での絶対多数があっても、政権交代はない。
 しかし、そこで民主党および連立与党を過半数以下に追い込めば「ねじれ国会」になり、再度の政
権交代に持ちこめるという発想である。
 現在の自民党・民主党という実質二大政党制の場合、そのほかの少数政党が「キャスティングボー
ド」を握る可能性もあ。
 その面では自民党の中にいるよりも、このように新党になったほうが発言力が大きくなるという発
想もある。
 現在の国民新党の亀井静香金融大臣がまさにそのよい例であろう。

 要するに、今であれば、潜在保守無党派層の受け皿になりえ、なおかつ成功すればキャスティング
ボードを握れるという時期であるということだ。

 なおかつ、自民党という大組織の中にいて、その古くなった批判の的の看板よりも、新しい看板の
ほうが国民受けをするというものであろう。
 実際、自民党も透明刷新を検討したくらいであるから「自由民主党」のイメージをどのように考え
るかが問題となろう。
 
 これらの例が挙げられる。
 しかし、実際はどうであろうか。
 潜在保守層で無党派層は、確かに多い。
 しかし、その票が平沼新党に来るためには、その潜在保守層に受ける「実現可能な」政策を打ち出
さなければならない。
 政党綱領だけでなく、具体的な政策を打ち出すには、それなりの整合性と、実現可能にするための
道筋が必要になる。
 政策の実現性には、当然に議会での多数派が必要になってくる。
 この場合、結局自民党か民主党との連立を組まなければならない。
 しかし、実際「反民主党」で旗を揚げ「自民党からの分裂」を行ってしまった場合、
どちらとも連立を組めない第三局になってしまう可能性が出てくるのである。
 まさに、現在の議会運営において、民の党がその状態に陥っている。
 具体的政策ごとの判断になるかもしれないが、
政策をつなぎわせた時のトータルの国家像がみんなの党からうかがえなくなるという状況が生まれて
しまう。

 要するに「批判から生まれたものは、長続きしない」ということだ。
 自民党執行部を批判し、その執行部を改革できなかった人々に、自民党より大きい国会や国家を改
革でき、
正しい方向に導けるのかという「疑問」が常に彼らに付きまとうことになってしまう。

 実際、平沼赳夫氏が無所属議員を集めて新党を結成するのであれば、まだわかる。
 しかし、自民党を批判して出た与謝野氏園田氏藤井氏と組んだ時点で、それはできないことになる
であろう。

 そのうえ、経済政策でも、他の政策でも整合性がとれるかは、彼らのもともとの主張から考えてか
なりの困難が予想される。
 政策が一致しない第三局はあり得ない。
 それができるのであれば、共産党や公明党でも第三局になりうるはずである。
 なぜ彼らにできなくて平沼新党にはできるのかということが最も強く打ち出すことができるのか。
 そのことを打ち出せるのかが最大の問題だ。

 実際のところ、新党結成に関して、様々な人を誘い、そして、その中で現在の四名が集まった。
 四人の顔ぶれは、小泉政権時に週刊誌で揶揄された「中二階グループ」から古賀誠氏が抜けた集団
に他ならない。
 なぜ、彼らは「中二階」であり続けたのか。
 自民党の総選挙での敗北の前に、彼ら自身がそのことを検証したのであろうか。
 残念ながらその形跡は「否」である。
 その検証がしっかりとできており、中二階ではなく、完全に派閥領袖、もしくはグループの総帥に
ある立場であれば、
もっと「老荘青」取り揃えた新党になっていたであろう。
 永田町の狭い世界でも、中堅若手に支持が少ない状況で、今後どのように彼らが今の新党を運営す
るかは、非常に興味深い。
 しかし、興味深くても、それを手放しで支持できる状態ではないことを意味しているのである。

 ということで、「今しかない」のではなく、「今になって、中二階グループが追い込まれた」とい
う感覚が強い。
 実際は、平沼氏が新党を立ち上げるのであれば、前回の総選挙前であったろうし、
逆に参議院選挙後、ねじれ国会を演出して与党議員を引き込むべきであったと考える。

 第二に、「保守の第三局になりうるか」ということだ。

 第三局になりうるためには、それなりの議席数と、国民の支持、そして、より多くの国民に受け入
れられる政策・綱領が必要だ。
 少し好意的に平沼新党を見て、綱領や政策は現時点では調整中ということにしておこう。
 本来であれば、もともとの彼らの主義主張をチェックして家場、なかなかこの政党の具体的な政策
が一致するとは思えない。
 しかし、そこは「大同小異」政党ということで、何とか切り抜けるであろう。
 そもそも、あそこまでベテランばかりであれば、「小異」をことさらにあげつらうことはないであ
ろう。
 「大同」の意味で言えば彼らが保守層であることは認めるので、潜在保守層に対して、訴えるもの
はある。
 とくに「日本」にこだわった内容は、好感が持てるのであろう。
 しかし、「国民の支持」と「政策の実行力」ということに関して言えば、大きな問題になるであろ
う。
 そもそも、なぜ「中堅」「若手」が付いてこないのであろうか。
 政策がしっかりして、それなりの政策があれば、人は付いてくるはずである。
 それが行えないのはなぜか。これが「中二階」とされた人々の特徴である。
 いずれも政策派であり、まともなことを言っている。
 しかし、下が付いてこない。
 これは「極端なコミュニケーション能力の欠如」が大きい。
 もう少しいえば他人の攻撃や正論を言うことはできても、他者に対する包容力が少ないのである。

 日本に限らず、人間の集団であれば、その考え方は「十人十色」であろう。
 その「十人十色」の考え方が、大同小異で連携するから大きくつながる。
 その「大同小異」のつながりは、根本の考え方でリンクする場合が大きい。
 具体的な政策は「技術論」であるから、根本理念が一緒であれば、ある程度の違いは許容できる。
 しかし、「中二階」の人々は、「根本理念の完全な一致」を相手に求める。
 「包容力」ではなく「排他的」な考え方をしてしまう傾向がある。
 もちろん個人差があるが、その排他的考え方が、正しいものでも、人に受け入れられなくしてしま
う傾向があるのだ。
 このようなことから「それなりの議席数」が出てこなくなる。
 そして、そこに将来性を感じない若手が付いてこないという現象が出てしまうのである。
 あえて言う。
 彼らの考え方が間違えているとは一言も言っていない。
 彼らが発する言葉が、広く多くの国民に受け入れられないということだ。
 そして「受け入れられない」理由は「コミュニケーション能力の欠如」である。
 それは、永田町界隈の話だけではなく、広く国民に向けたメッセージも同じ結果になってしまう。
 当然に、その内容は「カルト」化してしまい、小集団化が行われてしまう。
 「保守」が「右翼」と呼ばれるようになる一つの流れになってしまう。

 民主主義は、多数決の論理だ。
 当然に、多数決は多数の主権者である国民とのコミュニケーションによって形成される。
 しかし、残念ながらそのコミュニケーション能力が劣る場合は、どんなに中身が正しくても理解さ
れない。
 私のブログで、安倍晋三内閣の時にも同じことを書いたが、
コミュニケーションの欠如がもたらす結果は、自民党の政権脱落であったことは、数年の経験でわか
る。
 その一翼を担った人々が、そのコミュニケーションの反省なしに、新党という看板を替えただけで
国民に受け入れられるとは、考えづらい。

 以上の理由から、この考え方に関しては、なかなかうまくいかないであろう。
 新党を作るということは、それなりに、国民への期待を受けなければならない。
 コミュニケーション能力が欠如した彼らに、そこを冷静に分析することができたのかは疑問だ。

 とはいえ、実際に保守系第三局は必要であるのかもしれない。
 日本では二大政党はあまりなじまないことは明らかだ。
 その意味で、彼らがまず公職選挙法を改正し、小選挙区制を改める動きをするのであれば、まだ救
われるのかもしれない。
 そのうえで、民主党(与党)を切り崩す元気があれば、新党は存在意義があるであろう。
 「みんなの党」は、浅尾議員など、民主党からの離党組を加えた。
 それに負けないだけの与党側の切り崩し、というよりは与野党の境目を変える動きがあれば、注目
度は変わるであろう。
 民主党の混乱から、与野党の反主流派連合を作るような形になれば面白いのかもしれない。

 いずれにせよ、これからに注目するが、あまり期待ができないような感じをしてしまうのである。

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