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マスコミ批判に対する一考  (1) 序の序

マスコミ批判に対する一考  (1) 序の序

 昨日は日曜日なので、あまり社会の動きがない。こういう暇なときに、何となく普段思っていることを書いてみようと思う。
 今日は「マスコミ批判」について。それもとりあえず(1)として、後に続くようにしたい。
 さて、マスコミ、マスメディアはいかがお考えか。
 最近、ネットユーザーとのつきあうことが少なくないために、マスコミ批判を良く聞く。私はたまには反論をするし、たまには同意する。しかし、実際私自身が新聞社の看板を背負っている人間だ。一方で、三橋貴明後援会の仕事の手伝いをしながら、ネットに関する考え方も一応少しは理解できるようになったのかもしれない。
 その中において、私はネットとマスコミは相互に依存関係にあると思う。しかし、その依存関係は一部で相互に必要としながら、相互で対立関係にある。それが、ネットとマスコミの関係ではないかと思う。この「対立」は、どうも、相互理解の欠如が原因になっているのではないかと、考えるようになった。
 前提を整理したい。この文章は平成22年(2010年)6月20日に記載している。今後、このネットとマスコミに関する考え方は、私自身変わって来るであろう。ここには二つの要因がある。一つは、今後ネットを取り巻く環境は変わってくると考えている。だから、あえて今日の日付を書いた。実際、技術が変われば扱いが変わる。ネットの技術は、周辺技術まで含めまさに日進月歩だ。このような事を書いていても、この間に大きく変わってしまう。もう一つの変化の要因は、認識の変化だ。ネットに関する、または当事者の認識が変化してしまえば、ネットとマスコミの変化は変わる可能性がある。
 そのような、変わる要素がありながら、書いているのだから始末に負えない。
 いいわけは別にして、ネットとマスコミは、相互に依存でありながら相互に対立している関係である。そして、それは相互の理解の欠如であると言える。
 では、なぜそうなるのか。
 まず、マスコミの体制から考えてみよう。マスコミ、というものに関して発信者と受信者、(テレビ・ラジオ・新聞・雑誌があるので、この表現で)ですでに認識が違う。
 発信者は、株式会社であり、やはり営利目的である。どんなマスコミでも、購読者、スポンサー、広告主という収入にかかる人がいる。その経費を使って取材し、そして発信する。しかし、そこには収入にかかる人の意向も働くし、会社組織であるから上司の判断も出てくる。それらの少数の人の判断から、多くの情報が発信されるのだ。その情報には、様々な人の「フィルター」がかかっている。
 一方、受信者はマスコミを「ジャーナリズム」であると思っている。残念ながら、そうある「べき」かもしれないが、ちがう。日本のマスコミに「ジャーナリズム」は存在しない。その相手に対して「べき」論を使っても何の意味もない。単なる「マス・コミュニケーション・システム」がジャーナリズムでないことは分かり切ったことだ。
 では、なぜその「マスコミ」に対して批判があるのか。単純に言えば、マスコミに対してジャーナリズムであるべきということを言うことと、もうひとつは、マスコミが影響力が大きいということの二点だ。
 マスコミの影響力が小さければ、結局のところ、何の話にもならない。影響力が大きいだけに、その影響で受信者側の欲しい情報が入らない、入るべき情報が「有名にならない」ことに不満を抱く。逆にマスコミが余分の情報を流すことによって、受信者側の必要な情報を流すことが少なくなり、より一層期待できない結果が大きくなるのだ。
 アメリカの場合、このような事態にならないように、各メディアでの系列(株の持ち合い)を法律で禁じている。しかし日本の場合はそのようなものがない。読売新聞が頭で、日本テレビ、ラジオ日本、報知新聞が系列会社となる。このほかにも地方局も系列が出てくる。要するに、アメリカの場合、一つの新聞が情報を流しても、他のメディアは別な情報を流す可能性が高くなるが、日本の場合、読売新聞が情報を流せば、お味論調でその系列会社が情報を流す可能性が高いということになるのだ。1社が情報をだすのと、4社が情報を出すのでは影響力が異なる。影響力が大きいだけでなく、その影響力の大きな内容が多数で一斉に情報拡散を行うのが日本のマスコミシステムだ。意見や論説の多様性が少なくなっている。結局、にほんには、読売、朝日、毎日、産経、日経の5系列と共同、時事の2系列の統一情報そしてNHKという半公的機関しか情報の選択がなく、この全ての系列がネタ合わせなどしてしまうと、話にならないのである。統一の意見にしかならなければ、「マス」コミュニケーションにはならない。一方的な宣伝、統一的意見のすりこみになってしまう。それでよいのかという批判が出てくるのは当然のことだ。
 その意見の内容が中立的でないという批判は、多く存在する。結局のところ、「マス・コミュニケーション」は「ジャーナリズム」ではないということになるのだ。それは意見の内容になる。ジャーナリズムは、中立的に事実をもとに出すのであり、政治のように、各陣営があるのにかかわらず、片方だけ(2009年の総選挙では民主党に有利と思われる)に有利な情報を出すのは、いかがなものかということになるのだ。マスコミがジャーナリズムではないことは、他の媒体などでも何でも思う通りだ。
 昨年も、民主党に批判的なネタを差し出したところ「民主つの批判をしても売れないんですよね」といって、そのネタの受け取り自体拒否されるということになる。結局、マスコミは「報道すべき」というべき論ではなく、「経済行為」としてしかマスコミをとらえていない。それがジャーナリズムであるはずがない。
 ましてやネタ合わせなど、もってのほかだ。自分の足でネタを稼がなければならない。そのことがすでに分かっていない。
 それでは、どうしてこのようになってしまったのであろうか。そもそも、マスコミが、ことに政治マスコミがどうしてこのようになってしまったのか。今後、ブログで何も書くことがないときに続けて書いてみたいと思う。

 なお、完成する保証はどこにもないので、このマスコミ批判に対する一考は「期待をせず希望を持って」待っていただきたい。

6月21日

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