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2010年7月

民主党代表選の前哨戦という陰湿な数合わせ

民主党代表選の前哨戦という陰湿な数合わせ

 7月29日、民主党の両院議員総会が永田町の憲政記念館で開かれた。この内容はもちろん、三銀選挙の総括ということである。しかし、参議院選挙の総括などと言っても、結局のところ、敗北したという結果が変わるわけではない。要するに、「なぜ負けたのか」ということと、「その結果についてどのようなアクションを起こすのか」ということが焦点となる。
 敗戦というのは、その敗戦の処理をどのようにするのかということをしっかりと考えなければならない。敗戦から学ぶこともあるし、敗戦によって滅びることもある。敗戦後にどのような総括をするかということは非常に重要である。また、その時に歯に衣着せずに何でも言える状況でなければならない。しかし、言うべき内容は具体的かつ建設的な意見でなければならない。
 今回そのような反省ができているのか。まず、新聞記事を見てみよう。まじめなきじよりも、少し斜に構えた夕刊新の記事から。

「反菅」で小鳩が急接近!?民主、血で血を洗う抗争へ
 
 民主党執行部は30日、党代表選を9月14日実施の日程で行うことで最終調整に入った。菅直人首相(63)を支える主流派に対し、小沢一郎前幹事長(68)と鳩山由紀夫前首相(63)の“反菅連合”が挑む構図となりそうな気配となってきた。
 民主党代表選に出馬表明した首相に対して30日午前、閣僚から再選を支持する声が相次いだ。支持したのは野田佳彦財務相、玄葉光一郎公務員制度改革担当相、蓮舫行政刷新担当相、北沢俊美防衛相。
 ただ、出馬が取りざたされる原口一博総務相は「閣僚として首相を支える」としながらも、支持は明言せず。山田正彦農相は「参院選にあれだけ負けたのだから執行部に責任はある」と指摘。川端達夫文部科学相も「閣僚の職務に全力を挙げるが、代表選とは直接関係しない」と述べた。中井洽国家公安委員長も「まずは臨時国会を乗り切ることだ」とするにとどめた。
 一方、水面下でも代表選をめぐるバトルは激しさを増している。参院選を総括する両院議員総会前の29日午前、小沢氏支持グループ「一新会」の例会に、鳩山氏の側近、松野頼久前官房副長官が姿を見せた。
 鳩山グループが8月19日に長野県・軽井沢で開く勉強会への参加を呼びかけたものだが、「鳩山は一新会に支えてもらった。今度は私たちが恩返しする番だ。一緒にやっていきましょう」と連携をアピールした。
 鳩山氏は菅首相の再選支持を表明したものの、国家戦略室の縮小などについて不満を漏らしているだけに、「小鳩枢軸で菅降ろしに走るつもりでは」(民主党中堅議員)と憶測を呼んでいる。
 実際、その後に開かれた参院選大敗を総括する両院議員総会でも、小鳩陣営から党執行部への辞任論が相次いだ。
 小沢氏に近い議員からは「執行部は責任を取る係」(松木謙公衆院議員)、「今の内閣は死に体と言われている」(川上義博参院議員)、「(消費税10%について)誰も相談されていない。(民主党は)いつから北朝鮮になったのか」(小泉俊明衆院議員)。鳩山グループからも川内博史衆院議員が「マニフェストを『できる限り』と言う。何が何でも実現する気持ちがないなら内閣総辞職以外にない」と退陣を迫った。
 小沢グループ約150人、鳩山グループ約60人、これに小沢氏に近い輿石東参院議員会長(74)が牛耳る参院勢力を加えれば、代表選の帰趨を決めるのに十分な勢力。代表選をめぐるバトルはますます激化しそうだ

http://news.livedoor.com/article/detail/4917075/
2010年07月30日17時00分 / 提供:ZAKZAK(夕刊フジ)

 敗戦のあとには、しっかりとしたその総括が必要である。「負けに不思議の負けなし」とは、今年の自民党党大会におけるゲストの、野村克也楽天イーグルス名誉監督の話だ。まさに配線には必ず原因がある。その原因には慣習のような長く積み重なったもの、戦略を間違えたもの、戦意を喪失したもの、トップが間違えた方向に行ったものなどさまざまある。また、一つではなく、敗戦の原因は複数の複合的な理由であることも少なくない。敗戦後の総括は、それらに関して、しっかりと追求し、そしてその反省に基づいて次の戦いに備えなければならない。これを怠れば、二度と復活できなかったり、滅びたりする。一方これが然りとできていれば「捲土重来」で次に対象することができる。
 歴史では、これらがもっとも顕著に表れた例が少なくない。たとえば戦国時代の武田家。カリスマ的な指導者武田信玄亡き後、国内が固まらない、そして国内の進化の武将の支持も得られていない武田勝頼に、しばらくは死んだことを隠せと言われていた。その禁を破り、武田勝頼は織田信長との戦いを始めた。長篠の戦である。この合戦の結果はご存じのとおりに、織田の鉄砲隊が武田の騎馬隊を壊滅させたのである。壊滅と言っても、主だた武将が討ち死にしただけで、それでも老親は残っていた。後に、徳川を苦しめる真田昌幸や川中島の合戦で名をはせた高坂昌信、最後に武田を裏切る小山田信茂などは残っていた。武田勝頼は、これらの意見を取り入れ、武田信玄の遺言の意味をしっかりと考えて、国力の回復に努めるべきであった。しかしその総括を行わなかったために、そして、武田信玄という呪縛があったために、結局、徳川と何度も戦いを行い徐々に国力を消耗していった。その最後に織田信長に天目山で滅ぼされてしまうのである。長篠の合戦の後に、武田勝頼がしっかりと総括をしていれば、果たしてこんなに早く天目山で滅びていたであろうか。
 民主党にはいくつかの呪縛がある。私は個人的にその呪縛が解けない限り、民主党に明日はないと思う。一つ目は「マニフェスト」二つ目は「小沢」そして最後に「政権交代」である。これらの呪縛と、戦略の問題つまり選挙戦中のブレ、政策に対する不信感そして、小沢戦略の中途半端な中断が、敗因と言える。
 その総括の場が、そのまま7月29日に行われた。しかし、その責任をとって辞任する者はだれもいないどころか、責任論に対して敗戦の擁護論が出る始末だ。
 敗因に関してなどはあえて何も言わない。しかし、ここで言えるのは、「敗戦の擁護論」が出てくる異常さとその原因である。つまり9月(14日になりそうであるが決まっていない)民主党の代表選挙である。ことに民主党の代表選挙において、党内最大派閥で、現在の非主流派の小沢集団をどのようにするのかということがあげられる。しかし、そのことを含めて本来であれば敗戦の総括の中の一つであるはずだ。それができないことに今の民主党の弱さがある。要するに政策的な統一性がない。そこに「マニフェスト」で勝った、政権胡遺体を果たしたという途上の政策集と成功体験が出てしまった。そして、それを作りだした小沢一派がいる。その中で、「小沢排除」を明言した執行部がどのような総括をするのかということになってしまう。
 しかし、その総括よりも「民主党の代表選挙」が先に立ってしまうのが民主党である。まさに、それこそ選挙互助会、選挙至上主義の民主党の真の姿だ。だから選挙対s化うとしての菅直人が生まれ、そして選挙で負けた菅直人執行部の責任論で辞任を求める声が出るのだ。
 そして、その内容は、簡単に数合わせという民主党内の派閥工作になってしまう。しかし、その内容は「多数派工作」でしかなく、政策的なつながりによるものではない。要するに、買収や裏切り、公認カードやポスト(政権与党なので大臣ポストなどもある)による買収と脅迫によって行われる。日本をよくする、国をよくするというそういう話にならないで、金や議席数という「足し算引き算」の話になってしまっているのだ。そこには裏切りなどが発生するために、かなり陰湿な内容になっている。
 原口、前原など様々な人の名前が挙がっている。しかし、それでも、結局は小沢の影響力と一方で、菅、仙谷といった左翼系現執行部の名前がかすんで見えるのである。
 この陰湿な争いは、まず30日からの国会における内容やその対応、そして、国会が明けてから9月までの工作によって決められてしまうのである。その中には国民の意思には関係がない。その意思が関係ないで次の首相や大臣が決まる。もちろん、自民党時代もそうであったが、一方で、政策争いがないという状況は、自民党時代にはあまりない状況であった。これは、民主党が政策集団でないのに対し自民党は政策的に幅があってその集団が派閥になっていたことを示す。何が良いのか、ということよりも政治家としての自覚の問題なのかもしれない。
 いずれにしても、この陰湿な戦いの決着は代表選挙直前まで続く。国民にとっては「不毛な陰謀」が非常に面白いが、その間に日本を取り巻く多くの国際状況、たとえば朝鮮半島情勢などがかなり、緊迫し、日本が日々空白の間に衰退して言ってしまているということを自覚すべきである。そのような党内事情で空白を作る民主党政権を、政策争いでなく空白を作る民主党政権をよいと思うのであろうか。
 もっと国民に目を向けた政治を期待したい。

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大失業時代の雇用政策を!(3・終了) 民主党では無理なのか。

大失業時代の雇用政策を!(3・終了) 民主党では無理なのか。

 大失業時代と言われる。基本的に、日本において雇用がないという状況である。その雇用のない状況は、主に上記(昨日までのブログの記事)にあるとおりに、製造拠点が海外に映ったことによる。要するに日本に製造工場がなくなったということを意味する。そしてこれは「人件費の高騰」のために、人件費そのものが経費化する日本の企業において、経費の高騰は国際競争力を失うことを意味するのだ。
 企業としては「国際競争力」をつけることこそ、企業の生き残りのカギとなった。企業にとって商品が販売できないことこそ、もっとも大きな損失である。ことに、同じ商品を競合の会社に売られてしまうと、問題になる。その商品が消耗材であれば、まだ次の商品販売機会があるが、耐久資材であれば、一回の販売機会ロスはかなりの痛手になる。
 結局消耗材のように、消耗してしまう商品は、商品製造過程が単純化委しており、そのために、結局のところ「メイド・イン・ジャパン」である必要はなくなってしまう。当然にその消耗材の競争力は「価格」になってしまう。価格ということは、原価の勝負だ。原価の勝負ということは経費そのものが小さいほうが競争力があるということになる。経費の少なさということで言えば、「材料費」「人件費」の二つが最も大きな問題になる。当然に日本のように人件費の高い国にとっては、結局のところ競争は不利に働く。人件費を抑えるためには「機械化」しかない。機械化すれば、日本に工場があることになるが、結局のところ雇用の工場化にはつながらない。ましてや、継続的に発注がある商品であればよいが、そうでなく、部分的に発注があり、その発注に対応し、またしばらく発注がないというような季節商品は注文商品の場合は、常勤の製造従業員は必要がない。
 逆に耐久財の場合は、その耐久商品の機能は、かなり先端性の高いものでなければならない。そうなれば技術力や先端性、または安心感などのブランド性が必要になる。しかし、顧客によっては商品にそのような技術力を求めない人も少なくない。そのような先端性よりも、価格を優先する顧客もいるということだ。その顧客に対しては、結局競争力がないということになる。
 ということは、そのような商品に関しても「生産調整」が必要になってくる。生産調整とは、出来上がる証人の数が調整されてしまうということ。いうなれば、その分、工場のキャパシティーよりも少なく生産する場合があるということだ。企業経営からすれば、当然に、「固定経費」を少なくする必要がある。材料費などは、「変動経費」である。つまり、生産数分を仕入れればよい。仕入れる数が少なければ、それだけ経費も少なくなる。しかし、そうではない経費、つまり資本費、減価償却費、そして人件費は生産量やその販売量にかかわらず、その経費は固定でかかってくる。経済成長の名残があり、そして権利の主張をする労働組合などの立場からいえば、当然に、「定期昇給」という話が出てくるのである。それは固定費の増加が見込まれるということであり、それを包含できるだけの売り上げがなければならないということになる。
 しかし、実際、デフレ経済であり全ての商品が値下げされる時代。そして、海外の輸出先でも人件費の少なさが言われている時代。そして、国際競争力が求められる時代。その時代に、人件費が高く、そして定期昇給、いわゆる『ベア』を求めるのであれば、競争力はかえって競争力がなくなってしまう。
 では、どうすればよいのか。
 実際に、まず、国際競争力を持てる製造業を復活させなければならない。製造業の復活は、ただ単に職場の安定ではなく「国際競争で勝てる製造工場」を日本に作ることである。そのためには、固定費の減額という政策が必要である。短期派遣業や期間従業員というのは、このような「人件費削減」「固定経費削減」ということと、それに合わせた雇用形態ということで生まれた。そのことが、リーマンショックをはじめとする世界同時不況の時代になって、日本において一時期に雇用のカットが行われた。このことが派遣村などになったことは明らかだ。そのために、政府は「短期派遣」を法律で禁止した。
 しかし、これでは、根本的な解決にはならない。本来は、「日本企業の固定経費の削減」による「日本製造品の国際協力を復活させること」が最も重要である。そのように産業構造を変えなければ、結局のところ雇用はますますなくなってゆく。その雇用がなくなってゆくことそのものが、現実に「工場の海外の移転」ということ、そして「日本国内での雇用の場がなくなる」ということを意味するのである。
 政府は「派遣法の改正」よりは、固定経費の減額を考え、企業経済の負担軽減を図るべきであった。当然に固定経費への補助や、人件費の補助、減価償却の税制優遇などの度血を考えるべきではなかったのか。ただ単純に「目先の法律を変えるだけで物事が解決する」などということはない。そのことが今の民主党にはわかっていないようである。先にあげた(一昨日のブログの掲載文書)にある危機管理同様、結局何も分かっていないということになるのである。
 とはいえ、日本において中国などの人件費なみに人件費を下げたり、計画経済のように人件費を法律で抑制することはできない。他の部分での優遇ということしかない。しかし、そればかりをしていては、当然に「バラマキ」という批判になる。亀井金融大臣(当時)は、そのことをかんがみて金融モラトリアムを行ったが、それも、基準があいまいであるといえる。
 民主党政権は、当初藤井裕久財務大臣を中心として「内需拡大」政策を行った。その結果子供手当などのバラマキを行うことになったが、実際のところ、そのようなことが経済政策的に、何とかなるものでもない。ましてや企業構造や景気対策に役立つものでないことは明らかである。バラマキを行ったところで、経済そのものが良くなるわけでもないし、公共工事のように乗数効果が期待できるわけでもない。そもそも貯蓄に回ってしまえば、意味がない。結局のところ、輸出依存の日本企業が円高で景気が悪くなっている現実を見れば、「子供手当」のバラマキ政策も何の意味もないという結果が数字上出てしまったといえる。要するに、民主党の行った内需拡大政策は、少なくとも現時点で失敗した、少なくとも結果を残せなかったということになるのだ。
民主党は、労働組合でできた政党であるといえる。7月11日の参議院選挙でも軒並み労働組合出身の新人ばかりであった。しかし、そのことは、労働者の権利を守るばかりではなく、その雇用の場所をしっかりと守り拡大していかなければならない。そのことを、民主党政権が分かって、企業に注力する政策を行うのであろうか。企業に注力しながら、労働者の権利を守るということはできない。そんな器用なことができるのであれば、非常に楽であろう。金を支払う側と、金をもらう側、その双方の望みをかなえることはできない。お互いの主張は最終的には平行線になる。労働者の権利を守れば、当然に企業の競争力はなくなり、そして、経費が高くなる。企業は負担を強いられて工場を海外に移すか倒産するしかない。逆に、企業の権利を守れば、人件費という固定経費をある程度制限しなければならない。この二律背反を民主党政権が調整をつけて、政策に結びつけることができるのか。そして、日本の景気を良くする事が出来るのか。
 私は個人的には民主党政権にはできないと考えている。今までの内需拡大や選挙を意識した内容は、完全に企業の経営を圧迫する。民主党というよりは「大衆迎合政党」は、全体のことよりも、目先の話ばかりと選挙における大衆受けする、日本の将来や産業構造ということを考えたものではないのだ。とはいえ、民主党は、それらを調整できるだけの政党綱領や政党理念がないことは明らかである。これでは話にならない。
 上記のように「固定経費に関する補助金」や「雇用形態の自由性」などに関しては、一つの私の私案でしかない。実際は日本の産業構造をしっかりと分析し、その内容を考えながら政策をしっかりとしてゆかなければならない。当然に日本の産業構造をわかっていなければならない。上記のように日本は「メイド・イン・ジャパン」というブランドと高い技術力がその中心になっている中で「一番でなければだめですか」というような発言をする人が、人気を博している政党では、日本の産業構造を変えるどころか、現在の日本の産業構造を理解することもできないであろう。
 民主党各議員には、何よりも、まず勉強をし、そのうえで「選挙にかかわらない根本的な問題解決」を望む。その望みがかなえられるか、もしくは、その望みに応える力があるのか、それは疑問である。ただ、できないのであれば、早く政権の座から降りてもらわないと、日本の企業や日本の雇用が守られることはない。日本人もそのことをわかるべきではないのだろうか。

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大失業時代の雇用政策を!(2) 世界の常識と離れた日本の経済活動

大失業時代の雇用政策を!(2) 世界の常識と離れた日本の経済活動

 さて、日本の産業構造は、このように輸入に頼っているということを意味している。それならば、「円高」において景気が良くなるはずだ。しかし、そうはなっていない。それはなぜか。結局のところ、日本の景気は輸入した原材料を加工し、そしてその商品を輸出することによって日本経済を支えていることを意味している。ようするに、日本の経済や景気の指標は「輸入」ではなく「輸出」産業によって維持されているということを意味しているのである。要するに、日本の産業構造そのものは、内需ではなく輸出中心の経済状況である。
 景気判断が輸出中心によって成り立っているということは、それだけ、外国の景気や為替に左右されやすいという、外的要因からの脆弱性を備え持つことになる。上記(昨日の記事)にあるとおりに、その外的要因は、必ずしも金融機関や産業事情、世界的恐慌などに限るものではない。天変地異や戦争、内戦、海賊など、様々な外的要因によって平和的な取引環境や輸送手段が遮断されるだけで、取引は危機的状況になる。火山の噴火で「生花」が日本に届かなくなるなど誰が予想したであろうか。私自身、そのような予想は全くしていなかった。しかし、実際、生花の市場はそのような状況になっているので、世界的に生花の需要や流通環境が整っているのであるから、食品や資源ばかりではなく「商品」であれば何でも流通の過程の中に入る。
 外的要因による脆弱性があるということは、それだけ、制御不能なブラックボックスがあるということがあるということだ。国内の事情であるならば、だいたいのことが予想がつくのであるが、そうでない事象が少なくない。天変地異などは、予想がつかない災害であり、ある程度不可抗力事項として免責されることが少なくない。しかし、内戦や海賊、ハイジャックなどの人的な要因になれば、ここは大きな問題になる可能性がある。リスクの長期化が予想されるだけでなく、そのリスクを予想できなかったという不利益を被る可能性があるのだ。要するに、日本以外の国であれば予想できた、もしくは、回避できたということもありうる。日本人はそれだけの情報を持って、海外と取引をしているのかというとそうではない。日本人は、情報という最も重要な道具に対してお金をかけるということを知らないのが現状である。日本人の多くは、情報というものは、「勝手に入ってくるもの」と思い込んでいる。しかし、実際情報を入手するということは、非常に難しいことなのである。正確な情報や深いところの情報は、それなりの信頼関係や人間関係の上に成り立って、情報が行き来するものである。「過去に起きた現象」は意外と簡単に手に入るが、「近未来のほぼ確実な予測」は、そのことの確実性と重要性で情報の価値が変わってくる。その情報を持っている他の国は、そのような人為的な危機が発生する前に、リスクを回避するために、それなりの、手段を取っているし、そのためには経費をかける習慣があるが、日本人はなぜか「根拠のない自信」があり、その中において、危機管理を語っている。たとえば、国際的取引をしているある商社の危機管理担当の方複数名と会話をしたことがある。中東やアフリカ東部との取引をしている会社であった。しかし、その危機管理担当は「イスラム教」の知識がほとんどない。そのために、イスラム教の問題や宗教的な内容を全く加味しないで危機アンリ計画を立てている。そのようなことでは「危機管理はできない」という結論になってしまう。
 日本においてタブー視されている話題がある。人付き合いをするにあたり、その話題をすることは円満に行かなくなるというものだ。日本は島国の民族であり、その民族において、「争いごと」をしないようにするために、結論の出ない議論を避ける傾向があるのだ。その結論の出ないタブー視された話題とは「宗教」「イデオロギー」「軍隊」である。私は、個人的に東京生まれで大阪での勤務経験がある都合上、この三つに「野球」とくに「阪神ファン」を入れることがある(もちろん冗談で)。
 実際、「野球」以外の三種類の話題、つまり「宗教」「イデオロギー」「軍隊」は、日本においてタブー視されているものの、外国に行くときは、最も重要で、自分なりの考え方をしっかりと持っていないと「バカにされる」話題である。中東の国などでは、入国カード(入国の際にパスポートと一緒に必要事項を書く紙がある)に「宗教」を記載する欄がある。この「宗教記載欄」が空白では、基本的に入国は認められない。宗教のない人間は「危険人物」をされてしまうのだ。また、タイの結婚式では、近隣にインドネシアやマレーシアと言ったムスリムの多い国がある。そのために、結婚披露宴において、テーブルクロスの色が違うテーブルがいくつか存在する場合がある。そのテーブルは、「ムスリム食」であるしるしだ。豚肉や水と空気を行き来する生き物の食材もなく、また酒も出されない。これらの国では「宗教」が、一般の生活の中に入っており、その宗教が違うということも受け入れる社会的な土壌がある。日本では、自分と同じことをしていないと「奇異な目」で見てしまうが、そのような話は全く存在しない。むしろ「自分と同じ」であることを「奇異」と感じる文化がそこに存在するのである。
 このような、根本的な文化の違う国から「輸入」した原材料を、また根本的に文化や習慣の違う国々に「輸出・販売」することで日本の産業構造が成り立っているのだ。そこには「宗教性」は存在せず、完全に「経済的な合理性」が存在する。「宗教」「イデオロギー」「軍隊」は日本にとってはタブーなのだ。結局経済合理性以外、まったく何も存在しない。しかし、その経済合理性が、日本人の勤勉さと、そして日本人の技術開発力に裏打ちされて、日本の産業構造は支えられているといっても過言ではないのだ。
 本来であれば、このように文化的に違う人々との間においては、しっかりとした考え方がなければ話にならない可能性が少なくない。しかし、日本の場合は「技術」「先端性」そして「合理性」があり、そして、「宗教」「イデオロギー」「軍隊」が存在しない商品であるために、経済的に、ことに生活産業として、国際的に問題なく取引されている。中にはその中に軍事的に利用できる最先端技術が入っていることもあり、ココム違反で検挙される例も少なくないのであるが、それ以外は、実際大きな問題もなく、経済的な活動をしている。イラン・イラク戦争直後、誰もいけなかったイランやイラクに石油を買いに行くという『暴挙』を行うのも、経済的な取引を行う日本ならではである。
 さて、今回の新聞記事は、このような産業構造の中において、「イランイラク戦争後に石油を買いに行く」という良い面ではなく、経済合理性のために、日本から工場(産業)がなくなり、そして、雇用先がなくなるという危険性を書いたものである。
 この問題は、主に「高い技術力」と「先端性」があるために、日本の商品は「メイド・イン・ジャパン」というように、一つのブランド化してしまったことに端を発している。日本人は情報に金をかけるのができないということを先に述べたが、実際に、それら情報や技術、無体財産という「目に見えない資産」によって、高いコストをかけているし、その分高い値段でブランド料をもらっていると考えておかしくない。私が驚いたのが、香港で化粧品店を見たときである。同じブランドの化粧品セットで、一つの方は行列ができており、もうひとつの方が山積みで余っている。ブランドが同じというだけでなく、商品も全く同じだ。並んでいる人になぜ、あっちの山積みのものを買わないのかと質問を行ったところ、「あっちはメイド・イン・チャイナです」という。なるほど、で、こっちの行列ができているのは?と聞くと「もちろん、メイド・イン・ジャパン。要するに本物なのよ。みんな、化粧品も本物がほしいの。男の人にはわからないかもしれないけれど、体につけるものはこだわりがあるんです」という答えが返ってきた。まったく同じ商品で、片方は中国の工場、片方は日本の工場でできたものという。そして、その日本の工場でできたものに魅力を感じ、長蛇の列ができているという。香港の人が中国製造製品を、そのうえ日本のブランドで、日本の検品システムで検品していると予想されている商品よりも、日本での製造製品に興味があるというのは、当時かなり新鮮な衝撃であった。
 「メイド・イン・ジャパン」はそれほどの「信用性」「ブランド性」が兼ね備わっているといえる。しかし、このような商品はごく一部であり、日本における製造は「コストがかかる」ことを理由に、会社経営を圧迫する一つの原因となっている。
 その上に、事業仕分け、派遣労働の禁止が企業の製造工程を圧迫しているのだ。結果的に、日本での製造工場は、必要ないと判断し、「人件費の安い」外国での製造工場拡張ということが選択されるのだ。
 この判断の中には、「文化」「宗教」「イデオロギー」の違いや「軍隊的なリスク」の評価は含まれていない。そのような評価よりも、経済性だけ、要するに会社の経費として人件費を考えるところしかないのである。その状況が、海外への工場の移転と日本での労働者の不要ということにつながるのである。

<長くなったので、以下次号です>

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大失業時代の雇用政策を!(1) 民主党政権で産業構造を変えられるか

大失業時代の雇用政策を! 民主党政権で産業構造を変えられるか。

 久しぶりに夕刊紙を買った。とっいっても、なんとなく日刊ゲンダイはあまり買う気がしない。夕刊紙を買うというと、頭がつかれているときは東京スポーツ、もう少しましなときは夕刊フジと決めている。日刊ゲンダイは、よほどのことがない限り買わない。よほどのこととは、「競馬の予想」で国会新聞社習慣の松橋氏に他の新聞を買われているときか、もしくは、日刊ゲンダイの割には民主党批判をしているときに限られる。日刊ゲンダイの偏向報道ぶりには、苦笑しながら読めるというよりは、なんとなく「そこまで頑張らなくても」という気分で「あわれさを感じる」ことがある。同じ新聞をしているものとして、ここまでひどいのは、なかなか少ないといえるのではないか。
 昨日(26日)の夕刊フジは、見出しは民主党の代表選挙の件で、飲酒党の派閥争いに関して相関図込みで書かれていた。なかなか興味深い図の作り方であり、民主党の派閥らしき集団が固まっていないという実情、つまりは「政策で一致した政策集団が民主党の中でもできていない」という力関係と、まさに選挙互助会(土屋敬之氏の発言による)という実情があからさまにできてきてしまっている。
 政治部の間では、民主党の派閥を自民党の時の派閥のように綺麗に分類することができないことで頭を悩ませる人が少なくない。自民党の場合は、カリスマのある派閥領袖と、その政策において集まった人々が集団を形成し、派閥として活動を行う。その政策に、有権者集団や後援会が支援を行うという構図で成り立っていた。この構図が崩れてきたのが小沢一郎幹事長のころ。1990年になるかならないかのころである。派閥内派閥のようなものが出来上がり経世会内部で「七奉行」などと言われている時期だ。小沢一郎は、どうしてもそのような派閥工作が非常に「上手」で会ったようで、現在も小沢側近とマスコミで言われることのある山岡賢次などは、もともと清和会(福田派)で参議院に出馬し当選したにもかかわらず、清和会を脱会して経世会から衆議院に立候補するということを行ったのだ。
 そんなことを思いながら、夕刊紙を読んでいたところ、下記のような内容の記事が目に付いた。夕刊フジより。

“大失業時代”到来!? 日本から自動車工場が消える日

 自動車や電機メーカーの生産拠点が海外にシフトしている。今後は海外で生産して日本に逆輸入し、販売するという流れが定着していきそうだ。これは、衣料品を中国などでつくって日本で売る「ユニクロ」と同じ構図だ。生産拠点が海外に移っていけば、国内の雇用環境に大きな影響が出るのは必至。大失業時代が到来することになるのか-。
 業界のトレンドを如実に示しているのが、日産自動車が今月13日に発売した新型「マーチ」だ。国内のマーチは従来、神奈川県の追浜工場で生産されていたが、新型はタイで生産し日本に逆輸入されている。
 三菱自動車もタイからコンパクトカーを逆輸入する計画だ。
 「人件費の安い新興国で生産し、生産にかかる費用を減らそうとする流れは今後、本格化してくる。自動車のユニクロ化が始まるわけだ」(証券アナリスト)
 一昨年秋のリーマン・ショックの傷が癒えつつある自動車各社は、増産に向けた計画を発表。ターゲットの中心は消費低迷から抜け出せずにいる日本ではなく、需要が見込める新興国だ。工場の新設や拡張も軒並み海外が中心となっている。
 トヨタ自動車は、ブラジルに新工場を建設するほか、中国工場の拡張計画も明らかにした。三菱自はタイに新工場を建設し、日産もロシアで小型乗用車の生産に本格的に乗り出す。
 一方で、国内の工場については再編の動きも目立つ。ホンダは、三重県四日市市に予定していた軽自動車の新工場建設計画の中止を決めた。
 国内の需要が落ち込んでいるうえ、円高に見舞われている自動車業界。「自動車各社が国内の生産を縮小することはあっても、拡大させることはない」と独立系調査会社TIWの高田悟シニアアナリストは言い切る。
 少子高齢化や若者の車離れに歯止めがかからないなか、9月末にはエコカーを対象にした補助金支給が期限を迎え、その後は需要が大きく減少するとみられている。
 そのため、「国内に関していえば、設備投資をしても、効果は限定的」(高田氏)とされる。
 生産が海外にシフトしていけば、国内の雇用環境は悪化していく。りそな総合研究所の荒木秀之主任研究員は次のように警告する。
 「中期的に見れば、国内での生産はハイブリッド車や環境対応車などに限定されてくる。生産台数が減れば、調達する部品なども減り、関連産業も含め事業規模は小さくなっていく。数値は明確ではないが、当然、失業率上昇につながっていくだろう」
 海外へのシフトは自動車業界に限ったことではない。
 「パナソニックは液晶テレビの生産をマレーシアや中国などで増やし、採用も国内採用をほぼ半減させ、海外採用を手厚くする。このように電機業界でも海外シフトが進んでいる」(証券アナリスト)
 このほか「ユニクロ」を展開するファーストリテイリングは、消費低迷が続く国内の出店よりも需要が見込める海外出店を積極的に展開。今後、新卒採用の3分の2は外国人にする計画だ。
 「カレーハウスCoCo壱番屋(ココイチ)」を運営する壱番屋も、現在40店の海外店舗を2015年末までに271店に拡大。経済成長が続くアジアを中心に海外展開を加速させる。
 メーカーは海外シフトを加速させ、それ以外の勝ち組企業も国内の市場より海外に力を入れているところが目立つ。
 日本国内には働く場があまりない-。そんな時代がやってくるかもしれない。

夕刊フジ 2010年7月26日
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/print/20100726/dms1007261233002-c.htm

 経済のことは、経済評論家の方が的を得たコメントをつけることができると思う。しかし、実際のところ、経済評論家は「現象の解説」と「予測」でしかなく、一方で経済政策はそこに対する将来の懸念材料の排除である。その二つをしっかりと双方からコメントをしている人は少ない。
 しかし、「政治」「経済」双方が落ち着いていなければ「生活」は安定しない。そのことをわかっている人は意外と少ないのではないか?と疑問を持ってしまうことが少なくないのである。
 
 日本の産業構造を語るときに、「極端な」話は別にして、冷静にその内容を分析し、そして、「数字」と「日本に対するイメージ」をもとにその内容を考えなければならない。その産業構造があることによって、その構造に合わせた雇用形態やその構造を発展させる語り(もしくはその構造が崩壊した場合の他の道の模索)ということで大学教育を行わなければならない。
 では、日本の産業構造とは一体何なのか。
 日本は、残念ながら資源国ではない。私が大学の時に「日本は石炭もかなり埋蔵量のある資源国だ」と教えてくれた大学教授がいた(教職課程であった)が、実際、どのような資源が埋蔵されていようと、その資源の利用方法がしっかりと明示されていなければ、その資源は宝の持ち腐れになってしまう。私が大学時代、今から20年前は、今のように環境問題はうるさくなかったが、それでも石油文化最盛期であり、原子力が世界で忌み嫌われる状態であった。その社会状況の中で、「石炭の埋蔵量が多い」ことで「日本を資源国」と断定するのはなかなか難しいであろう。単純に、そのような教育をする人が教職課程にいるということそのものが大きな問題であるが、その話は教育問題について考えるときにしてみればよいのかもしれない。
 この話の流れからお分かりの通りに、日本は石油系の98%を輸入に頼っている資源輸入国である。石炭を石油化するなどの話はあるし、日本の電力の33%(少し古いが2005年の統計)が石炭による火力発電であることを見てみても、実際のところは電気そのものだけではなく石油文化の中にあり、そしてその内容が輸入に頼っている。
 石油だけではなく、食料に関しても輸入に依存していることは否めない事実だ。「食料自給率は低くないという主張をする人も少なくないのは承知しているが、実際に、「自給率」の問題ではなく、「輸入している」という現実と、その「輸入している食品により生活が成り立っている」という現状の分析は、評論を行う人にとっては最も重要な「事実」なのである。その事実に目をつぶって物事を語るのは、非常に危険である。少なくともスーパーマーケットなどに行って「外国産」の食材を無視することはできないのが現状である。
 そのことに過度の不安をする必要はないと思う。しかし、その現状を分析する必要がある。そもそも「食料自給るつ400%」のタイという国と比べれば、日本が食料輸出国としてはほど遠いことは間違いがない。戦争などになって「輸入ができなければ日本人の中から餓死者が出る」という話は、さすがにないと思うし、極端なそしてエキセントリックなたとえばなしであり、評論家ことにテレビメディアに出ている評論家の職業のための過激な評論でしかないと思う。しかし、何の予告もなく、突然に全ての輸入がストップした場合は、それなりの混乱が、短期間であはあっても覚悟しなければならない。食料、エネルギーという二つの分野でそれが現実の姿である。そして、その産業構造の「予備」要するに、輸入ができなくなった場合の対策や備蓄、別ルートでの輸入対策というものができていないのは、明らかなことである。
 先日、アイルランドの火山の噴火においてヨーロッパの空港全てが閉鎖された。これにより、「生花」の輸入が少なくなり母の日のカーネーションが品薄になったことを記憶している方がいるであろうか。その時にも、「民間企業」がブラジル軽油または南米、北米などを経由して生花の輸入を行った。このときに「生花は食品ではない」という理由そして「事業仕分けで、そのような輸入の不調の場合の予算を削ってしまった」ために、政府は手をこまねいているばかりで何もしなかったのである。民主党の政権の危機管理はこのようなところでも、日本人の生活と輸入の危機に対する対策に脆い結果しか出ないということを露呈してしまったのである。

<長くなりましたので以後、次号掲載>

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毎年言われる異常気象。暑い夏の過ごし方。

毎年言われる異常気象。暑い夏の過ごし方。

 暑い。
 とにかく暑い。
 国会内では「クールビズ」という習慣がでいたためにノーネクタイでよいことになっている。半袖の人が多く歩いているが、私の場合は、仕事柄、目上の人に会ったり取材のお願いに行ったりと、物事を頼みに行くことが非常に多い。そのために、いまだに上着とネクタイ着用を心がけている。当社の主幹である松橋氏は、さすがに国会内でもベテラン(昭和9年生まれです)のために、クールビズでも文句を言う人はいない。彼以上のキャリアの人は、国会でも少ないからだ。しかし、私くらいの「若造」には、そのキャリアと信用を真似することはできない。結局のところ、こちらが、スーツを来てネクタイを締めるというスタイルで仕事に臨まなければならない。その姿の暑いこと。
 そんなことを考えていると、下記のような新聞記事が出ていた。

熱中症死者、半数は屋内…65歳以上が大半

 全国的な猛暑は25日も続き、岐阜県多治見市で最高気温38・1度を記録したのをはじめ、全国921の観測地点のうち、96地点で35度以上の「猛暑日」となった。
 埼玉県、千葉県、兵庫県、奈良県では、熱中症とみられる症状で同日夕までに計6人が死亡した。
 読売新聞の集計では、関東などで梅雨明けした17日~25日夕に、熱中症が原因とみられる死者は全国で81人。65歳以上が大半を占める。半数以上の45人が自宅など屋内で死亡しており、25日に亡くなった6人中5人も屋内で発症していた。
 日本救急医学会の調査では、高齢者の熱中症の半数が室内で起きている。介護を受けている人など活動が少ない人ほど重症が多い傾向があるという。気象庁によると、26日以降の1週間の気温は、全国的に平年並みか平年より高くなる見込み。同庁は「屋外はもちろん屋内でも熱中症に厳重な警戒が必要」と呼びかけている。

(2010年7月26日03時02分  読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100726-OYT1T00046.htm?from=top

 暑いはずだ。埼玉や群馬では人間の体温よりも気温の方が高い状況になっているのである。これでは、涼を求めるといって水辺に行ったとしても、かえって蒸し暑い生温かい空気に包まれてしまう。これでは話にならない。
 夏なんだから暑くなった。というのは簡単である。しかし、最近の暑さは異常である。暑さで死者が出るというのもかなり異常だ。上記新聞によれば、全国で81名も死亡している。亡くなった方にはご冥福をお祈りするしかないが、しかし、この暑さの中熱中症というのは、意外とシャレにならない話である。
 私の場合、街の中を歩く状況では、なるべくクーラーのきいたところをすご折するようにしている。パチンコ店などは最高だ。日陰を歩くなどその対策はかなり大きな効果がある。しかし、国会周辺から赤坂周辺にかけてはアスファルトの照り返しなどで、かなり暑い状況である。
 
 さて、どうしてこのようになってしまったのであろうか。気象状況的な内容や環境的な内容に関しては、ここで語っても仕方がない。エルニーニョだの、温暖化だなんて、ここで様々語ってみたとしても、仕方がない。個人でできることはする(無関心だからと言って何もしないのではない)。そのうえで、自分たちの身を護るということを考えなければならない。その一つが「クールビズ」であるのだろうということは分かるが、なかなかそうもいかないのが現状である。
 政府はどう考えているのであろうか。結局、「温暖化」にかんしては、無策だ。というよりは一国の政府でできることも非常に少ない。たとえば経済発展著しい中国という国があるが、そこの二酸化炭素排出量はすぐに世界一になってしまう。その国に二酸化炭素排出をするなと言ってもどうしようもない話だ。
 現在の温暖化は、先進国が作ったという。だから、発展途上国はまだその発展の恩恵に浴していないので、その分は二酸化炭素を排出してかまわないという。単純に、そのようなことを言われても、論点が違うような気がする。地球全体の話と国単位の話を一緒にしても困る。
 そのような国単位の話もやめてしまうと、日本の都会においてはやはり暑い。それに対して、先日山形に行ってきたのであるが、田んぼの真ん中は同じ暑くても、それでも都会のような「嫌な暑さ」はない。土・草・木というものがいかに暑さを吸収し、人間に快適な生活をくれているのかということが良くわかる話である。都会には、緑が少ないという。緑が少ないだけでなく、土が少ない。その分、水はけのよい騒音の少ないアスファルトの上を自動車輸送で便利な生活を送ることができているのであるが、しかし、その分が、どうしても他の部分、要するに夏の暑さなどに無理がかかってしまう。
 それだけでなく冷房がまさにそうだ。コンピューターのサーバーは温度が上がると壊れてしまう。そのために、大型のサーバーのところは24時間体制で空調が聞いている。空調、要するに、夏の間は冷房が利いているということだ。冷房が利いているということは、その分どこかが暑くなっているということなのである。結局、同じ建物の中に暑い場所を作ることもないのであるから、外に暑い空気が排出される。冷房の室外機とはまさにそのものだ。
 このような文明の力がない間は、それなりに工夫をして過ごしていた。京都の川床などもまさにその物であるし、そのような環境でなくても「打ち水」などは、少しでも涼しく過ごす都会の知恵ではないだろうか。
 現代の人は、私も含めて、どうしても新機能や新しい物の開発を待ってその便利機能を使ってしまう。昔の知恵への懐古という発想はなかなかない。しかし、本当にエコを考えるのであれば、そのような「昔の知恵」を考え直してみてはいかがであろうか。
 日本には日本にあった知恵があったはずだ。そして、それらは「もったいない」という発想からできていた。買い物の後に新聞紙で包むなど、その内容は様々なものが非常に多く、そして新しいものをつかわないぶんかがあった。その文化をいつの間にか「便利さ」で捨ててしまったのではないだろか。
 なんとなく強引に結論に持ってきた感があるが、今日は、短めに、日本の日本らしさの解雇ということを、この暑い中で考えるということでいかがであろうか。

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マスコミ批判に対する一考 (6) マスコミ業界の基本的な構造

マスコミ批判に対する一考 (6) マスコミ業界の基本的な構造

 マスコミの批判に関して、少し続けて書いている。しかし、マスコミを批判する人は、なかなかマスコミをわかっているようでわかっていない人が少なくない。そこで、今回は、新聞社の中身について、少し詳しく書いてみよう。

 ネットで見かけるマスコミ批判は、見ていて的を得ているようで、得ていないことが少なくない。マスコミ批判をする人と、私との間での会話でも、結局は相手をわかっていない場合が少なくないのだ。「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」とは孫子の兵法の言葉であるが、ネットのマスコミ批判には「敵を知り」ということができない場合が少なくないのである。

 新聞社には、まず部署がある。国会新聞社には、そのように部署を分けるほどの人数的な余裕がないので、全てを少人数でこなしているのであるが、大手新聞社の場合は、まず「管理」「営業」「編集」「事業」の大きく分けて四種類の部署に分かれる。このうち「管理」の部署に関しては、基本的には、どこの会社も同じ、経理部や総務部、人事部など様々な会社運営に関する部署が存在する。この部署に関しては、特に説明はいらないと思う。ここで注意がいるのは、「法務部」もしくは「コンプライアンス部」と言われる部署である。主に、名誉棄損に関すること、内容に関しての民事介入暴力などをおこなうのであるが、ここにおいて、左翼的な弁護士などの指示を受けてしまう場合が少なくない。敢えて左翼的と限定しているのは、意外と右翼的な弁護士は世の中で少ないという現実もある。日本の場合「プロレタリアート」は「低収入者」ではなく「無資産者」という感覚が強いのであるが、その「無資産者」の中に「言論人」が入る場合が少なくないのである。要するに「口で商売をする人」「無体財産・自分の才能で生活の糧を求める人」というところが「無資産者」としての内容になる場合が少なくないために、弁護士、教師などに意外と左翼的な思想の強い人が少なくない。
 話はそれるが、弁護士において名誉なことの一つに「判例が残る」ということがある。要するに、画期的な法理論や新規性の強い事案に関する訴訟において判例を作ると、その判例が後世に残る場合が少なくない。その判例がその後の裁判の基準になったり、その理論が教科書などで教えあっれるようになったりするのである。そのように判例が残るのは、主に「自民党系弁護士」と「共産党系弁護士」が圧倒的に多いというのが現実である。これは単純に事実の数の問題なので、反論が少ないところである。その理由としては、「ある意味で、タブーに挑戦する」のはこの弁護士が非常に多いということも考えられるのではないか。逆な見方をすれば、「現状の不文律に切り込む人が少なくない」という可能性もあるのだ。
 話はそれたが、左翼的な思想でコンプライアンスをされてしまうと、どうしても思想的に偏ったコンプライアンスになりやすい。コンプライアンスというよりは、実際は事件を起こしたくない人々にとっては、その法律的な解釈によって誌面を構成することが非常に大きくなる。弁護士に「このような記事は趣味に合わないから、お手伝いしたくない」などと言われると、編集者の責任問題になってしまうのだ。そのような背景でできた記事は、読む側にとってはボディーブローのようになんとなく「傾向」が出てしまう。新聞社によっては複数の弁護士に意見を求めるところも少なくない。そのようにして、イデオロギー的な偏りを少なくする努力を怠らない新部者も中にはあるのであるが、実際、毎日の新聞の発行にそこまで力を割くことは難しいといえる。

 さて「営業」は、主に広告の募集である。講読者の獲得がここになる場合もある。要するに新聞社における収入の部である。毎日新聞の事件の時は、この部署が最も大きな攻撃を受けた場所である。マスコミの攻撃の中で「押し紙」などを指摘する人もいるが、当然にこの部分である。しかし、「記事が偏向である」ということと「押し紙」を記者にいくら言ったところで、全く話にならない。以前、取材に対して「押し紙」を言って「そういう風に言ってやった」などと自己満足をしている人を見たことがあるが、実際「敵を知らない」典型であることは間違いがない。
 ここにおける「収入」の部署そのものが、うまく動くことによって、会社として維持している。新聞社は、ここに影響が出るのを最も恐れている。逆に、ここに影響が出る内容は、確実に新聞社に影響が出るといっても過言ではない。しかし、新聞社はそれを反省することもない。実際は新聞社は、広告主などとの間においてかなり強固な「相互協力関係」にあるために、実際は「広告主」そのものの営業に問題が出るようにならなければ、大きな問題にはならないのも事実である。新聞社への攻撃ということに関しては、非常に難しいし、「自己満足」に終わってしまう可能性が少なくないということも、間違いがない事実である。

 「事業部」に関しては、新聞社主催の事業、イベントを行う部署である。そのイベントに関して言えば、持ち込みのイベントに協賛などをする場合と、新聞社自身が企画する場合がある。この内容に関しては、今回のマスコミ批判の中に適合時ない場合がある。しかし、新聞社が「保守的な」イベントの協賛をしないという批判も少なくないのも事実だ。在日外国人参政権反対の集会などに大手新聞社などが協賛、主催しないのは、ただ単に政治的な色合いが強いからというばかりでは内容である。もともと、新聞社は「政治的色合いが強い」イベントにはあまり協賛主催をしないということがある。とくに新聞社の「公平性」ということを盾にとって、協賛をしないことの理由づけをしている。しかし、たとえば「反戦の集い」などは協賛をすることもある。これらは、「政治的色合いが強い」にかかわらず「平和は全ての人の願いだから」と不思議な理由をつける。これはよくわからない理由づけである。
 マスコミ批判の中に、このようなイベントに関する批判が以外と少ない。しかし、実際それらに関してはイベントを報道するということもあるので、非常に大きな影響があることを忘れてはならない。そればかりではなく、イベントそのものの参加者ということに関しても、報道されていない可能性が強い。

 最後に「編集部」である。この「編集部」が実際の新聞の紙面を作っている部署である。この中は細分化され「政治部」「経済部」「国際部」「社会部」と大きく分ければこの四種類に分けられる。日経新聞などは経済部の中に「流通経済部」「産業経済部」など細分化されている場合もあるし、他の新聞社では「社会部」の中に「文化部」「生活部」などがある場合もある。
 私がブログの中で、そして、多くの政治家がマスコミ批判の中で「偏向報道」というのは主に「政治部」のことである。政治部は、どうしても「番記者」といって、専属の記者が構成され、その密接な関係の中において記事を取ってくる場合がある。実際はその内容をしっかりと伝えなければならないのであるが、その密接な関係が帰って「自分に都合のよい報道をしてほしい」「不利益な報道を控えてほしい」という話になったり、不利益な報道において、事前に言い訳をする機会を与えられることになったりというように、偏向報道の「巣窟」となってしまっているのである。そして、それが会社をまたいで行った内容が「ネタ合わせ」である。ネタ合わせの実態は、今度ゆっくりとご披露するのであるが、その内容は、批判されるのに十分な内容である。
 さて、この政治部に比べてフレキシブルなのが「社会部」である。社会部は、事件や事故などをあつか部署である。ここは、他ではまだ築いていない独占のネタ、いわゆる「特ダネ」を集めている。ネタ合わせなどはもってのほかだ。政治家のスキャンダルなどを扱うのも、実はこの社会部である。政治部にスキャンダルを持ち込んで「書いてくれない」と嘆いても、八百屋で魚を売っていないと文句を言っているのと同じ「お門違い」でしかないのだ。逆に、社会部はそのようなネタに飢えているために、常に記事を探しているしその内容を取材するにあたってかなり行き過ぎと思えるような内容もある。
 最近のネタで言うならば、消費税の発言について報道したのが政治部。一方で、荒井国家戦略担当大臣の事務所費問題を報道したのが社会部である。社会部は「イデオロギー」などはあまり関係なく、事件その物しか関係がない。もちろん、新聞社の内容によって「報道しない」場合もあるが、報道する以上はかなり強烈に書く。社会部では「目を引くこと」「独占のネタを探すこと」が至上命題とされており、その分、「名誉棄損に気をつけること」がしっかりと明示されている。社会部も政治家専門の社会部が存在し、衆議院では衆議院議員面会所の二階にその記者クラブが存在する。政治部のように、衆議院の副議長質のとなりにあるわけでもないのだ。それでも、政治のスキャンダルや、収支報告書の問題、政治とカネの問題など、様々な事件報道の裏に、社会部がある。
 編集部は、各部の編集次長、いわゆる「デスク」が各部の紙面構成を行い、そのうえで、新聞全体の紙面構成を「編集委員」という人々がそのうえで、編集を行う。大量に記事を書いてもこの段階で記事を削られたり、文章を短くされたりするようになるのである。写真なども「デスク」の部分と編集委員の部分で、決められる。
 このようにして、記事ができてゆき、その記事を報道され、また読者が読むということになるのである。政治部と社会部では、その記事の構成や記者の段階でのネタの入手方法にかなりの差がある。このことは、否めない事実だ。新聞でも社会面の方が読まれていたり、臨場感のある記事になっているのは、そのような「ネタ合わせ」のようなことをしていないために、そして、自分の足でネタを探しているので、その内容に読み応えがあるのではないだろうか。
 
 今回は、新聞社の中の話をしてみた。その新聞社の中の話を知らなければ、ただやみくもに「マスコミがー」と言っていても何の役にも立たない。マスコミのどこが悪いのか、そしてどこを直せばよいのか。そのことをしっかりと学ばなければならない。
 

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無責任内閣、その耐えられない軽さ<メルマガ告知です>

無責任内閣、その耐えられない軽さ

<今回もメルマガの告知です。>


 参議院選挙が終わり、その結果における各種の胎動が見えてきた。
 その中でも、もっとも世間の耳目を引きつけるのは、与党民主党の敗北の内容だ。

  与党民主党は、昨年8月30日に「政権交代」を訴えて、その通り政権を交代した。
 しかし、その後鳩山由紀夫首相・小沢一郎幹事長の政治とカネの問題などで、支持率を下げた。
 普天間移転問題では、社民党の連立離脱を招いた。
 そして、菅直人に首相が変わり、その後の参議院選挙で惨敗した。
 各種のマニフェスト違反と、国民をだました手法は、国民の支持を完全に話してしまった。
 「官僚依存をなくす」と言いながら官僚により依存し、郵政公社の社長を旧大蔵事務次官にした。
 菅直人首相自身が官僚の原稿を丸読みするようでは話にならない。
 「高速道路無料化」を叫びながら、いつの間にか反故にあされた。
 「ガソリン値下げ対」などという不思議な組織を結成して国民にアピールしながら、暫定税率は維持した。
 数々の国民への裏切りは、完全に民主党への失望という形で、あらわされた。
 最後に、「消費税はあげません」と言いながら参議院選挙では「消費税を10%にする」と言い出す始末。
 国民は消費税の両立のアップという現実よりも、民主党が自分たちをだましたという事実に対して怒りを覚えたのである。

  それら、いい加減な民主党の政権運営の結果は、参議院選挙の大敗という結果で表わされた。
 その結果に関しては、私のブログでも十分に検討してきたとおりである。
 今回の民主党の大敗は、完全に国民の民主党離れの現れである。

  その「敗因を分析する」議員懇談会が行われた。
 一回で行うものではなく、「始まった」という感じかもしれない。
 その模様が、マスコミで報道されるたびに、民主党の「無責任体質」がより一層明らかになり、そして、国民の失笑を買った。

  その新聞の記事の、一部が以下のとおりである。産経新聞から。

<続きはメルマガでおタン氏見ください>

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國會新聞編集次長の未掲載記事とニュース解説
ブログ
<http://udaxyz.cocolog-nifty.com/udaxyz/>

<mailto:CQA14363@nifty.com>

発行 宇田川敬介(國會新聞社 編集次長)

発行システム:『まぐまぐ!』 http://www.mag2.com/
配信中止はこちら http://www.mag2.com/m/0000207352.html
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今日はいただいたコメントに回答いたします

 今日は、コメントをいただきましたので、そのコメントに、回答をいたします。
コメントに関しては、「過敏症」というハンドルネームの方から頂きました。非常に日本のことをお考えになられ、そして、日本の「独立」ということに考えが及んでいると思い舞うs。この質問にしっかりとお答えをすることが、新たな内容でのブログを記載するよりも、良いことではないかと考えました。

 なお、下記質問に対し、まず、メールで回答と、そして、掲載のご許可をいただきました。「過敏症」様、ありがとうございます。

 みなさんもぜひ様々なコメントをいただけると嬉しいです。

<質問>

>チャンネル桜で宇田川さんのお話を伺っております。ありがとうございます。
>宇田川さんに質問致します。今回の選挙でみんなの党が躍進しました。みんなの党は「地域主権」?
>を主張しています。でも、一般庶民が普通に考えると、最低、安全保障とエネルギー確保と教育と環
>境保全だけは中央集権でやってもらわないと我々の生活は維持できないと思うのです。どう思われま
>すか?
> 安部芳裕さんの「国際銀行家たちの地球支配の仕組み」(お金の仕組み編)をYou Tubeで視まし
>た。お金の仕組みに驚きました。だからいつまでもアメリカの属国ではいけないです。
でも経済の土台にあるのは、道徳観や安全な社会、きれいな空気と水が必要だとおもうの>です。どう
>お考えですか?

<私からの回答>

「過敏症」さま

 チャンネル桜、またはブログをお読みいただきありがとございます。
 あまり優秀でないので、私は私なりに自分の考えを主張しております。ただ、私の場合自分の意見は、なんらかに影響されているものもありますが基本的には私のオリジナルですので、別に誰かに恥じることもなく、自分の主張をさせていただいております。その点、皆様に不快な思いわさせることも、また、ご批判を賜ることもありますが、その点は予めご容赦くださいますようお願い申し上げます。
 私の場合昭和2年生まれの父に育てられ、また、幸いにも関東軍に参加していた祖父が大尉という重職についていたために、戦争のことはもとより、天皇陛下、国体などから、現代の文化に関して彼らの意見なども交えて話をできるようです。仲人は東郷神社の松橋輝夫名誉宮司で、昭和2年生まれの父の10代からの親友という間柄です。彼らに育てられて現在にいた言っているために、多少というよりは、かなり右寄りに思考がずれている可能性もあります。私は、新聞社という職業柄、なるべく中立的な立場になろうとバイアスを賭けておりますが、どうしても感情的になったり個人的な意見を言わせていただく場合はかなり保守的な意見になる傾向があるようです。
 さてご質問の件
 「みんなの党の躍進と地域主権」の問題ととらえました。 
 本件に関しまして、まずはみんなの党の躍進は「地域主権」が受け入れられたためではなく、「アンチ自民・アンチ民主」の票の受け皿になったためと考えております。もともと、日本人はその気質上「二大政党」ではなく「三大勢力鼎立」という習慣が最も適しているようです。これは日本人の気質によってそのように考えられているようで、非常に洗練された被支配階級の感覚は、「中庸」の考え方によって、両極端に流れないようにできています。現代は、インターネットとマスメディアによって、選択と集中の時代であり、情報が多くあるように見えますが、結局「みんなの意見は案外正しい」ではないですが、多数派迎合的に一極に集中する傾向があります。マスコミ批判のネットユーザーが多い割に、マスコミで報道した単語が検索ワードの1位になることが多いのはこのためで、そこにある意見がいつの間にか大衆の意見になり、そして一極集中と、そこに対するアンチができるようになります。しかし、それはネットユーザーと言われる情報を出している人がほとんどであり、多くは「無関心層」もしくは「折衷層」であるといって過言ではないでしょう。この傾向が「二大政党双方へのアンチ」を生みだし、そして、そのアンチが「第三極」へ動く。その受け皿が、今回は、チャンネル桜でも言いましたが「今回の選挙以前から政党として機能していたみんなの党」が躍進したと考えています。
 そのうえで「地域主権」と言いますが、そもそも主権は国民にあります。「地域分権」とこの文章では言い換えますね。
 そもそも、日本は明治憲法以来、中央集権型国家として成立しており、その中央集権国家は、大久保利通による官僚制による中央集権国家へのエリート形成から始まります。しかし、東京の政府だけで遠く地方行政まで全てを統括するわけにもいきません。明治時代には、当然に今のように通信手段も移動手段も発達していないのです。その中において、中央集権を実現するためには、地方行政を巻き込んだピラミッド型ヒエラルヒ階層を作り、その階層による集権国家を作り上げる必要があったと思います。
 その集権国家的統治機構は、戦後憲法になっても、変わらずに機能しております。よって憲法上は、「日本唯一の立法機関」が国会であり、地方議会は、その法律に従った範囲の「条例制定」能力しかありません。要するに中央(国会)の定めた法律に違反する条例を作ることはそもそも地方行政にはできない仕組みになっています。
 では、みんなの党や民主党が主張している地方分権とは一体何でしょうか?結局のところ、地方交付金や地方の税金の使い道を「地方で決める」という話に過ぎないと考えています。。小泉内閣以降麻生内閣まで、丹羽宇一郎伊藤忠会長を中心に「地方分権会議」を行っておりましたが、当然にその中には「国家で行うことと地方で行うことの分離」という項目から始まっており、教育(一部は地方独自)、安全保障、外交、金融など、国家政府が行うべきことと、住民サービス、公共工事(県をまたぐものを除く)、施設管理、などを地方行政に任せるという話になっております。この考え方からいえば、「子供手当」などは国家の行う施策ではないし、逆に八場ダムなどは、下流域全ての治水にかかわることであるために国家が主導的に関あげるべき話ということになります。本この地方分権会議は会議存続期間中に政権交代が起きてしまったために、結論らしい結論を見ることなく終わってしまい、また、丹羽氏も中国大使にご栄転?されたので、なんとも言えません。
 私個人的には、丹羽氏の考え方(結論が出ていないので全てではありません)にある程度賛成です。とくに歴史的意味合いが強い土地以外での「公園の管理」が国と県とで別れているのはやはり不自然です。ただ、個別に言えば、道路などは、国道と県道とどう違うのかもよくわかりませんし(整備の主体が違うといえばそれまでですが)、それだけでなく、県道などは、貧乏な県では穴だらけの道になるのか?という安全の問題まで、様々個別の案件では出てくることになるでしょう。
 問題は、これらの種類分けをしっかりと行わなければならないということです。そもそも国の、そして地方の行政にどのような事業があり、その事業に対して誰がやるべきかということをしっかりとすべきではないかと思います。国民の不利益にならないように、それは、「近視眼的」な話ではなく、遠大な計画もすべて含み、われわれの子孫までもが今の政治の決断によって不利益を被らないようにしなければならないのではないでしょうか。そのために政治家は、将来の日本のビジョンをしっかりと国民に示し、その行程表の中に今現在の日本はどの位置にいて、将来のビジョンの実現のためには、今何をしなければならないか、何を過去の果実として受け入れ、醜悪することができるのかをしっかりと国民に示さなければならないでしょう。他人を批判し、そして、直近の選挙対策のために利益誘導や組織介入をして政治的な主導権を取っても、歴史の法廷で彼らは裁かれることになるでしょう。
 さて、もう一つの考え方として、安全保障エネルギー確保など中央集権でやるべきことがあるというご意見に関してです。「過敏症」さまのおっしゃる通り、これらは国家で行うべきことであると思います。同時に、国家の決定には地方行政もその県民一人一人も従わなければならないでしょう。普天間基地の問題や青森県六ケ所村の問題など、国家全体として必要なものを行う時に、当然にその地域の自治体や住民との調整ということが必要になります。しかし、「国家的事業で自分たちだけが不利益を被る」という感覚は、マスコミの異常な宣伝と共鳴し、かなり大きな意見として、反対運動を巻き起こします。私は、その土地における、迷惑なども非常に多くありますが、ある意味、政治家が将来の日本や、その土地における必要性を説明していないため、または説明が不足しているために、そのようなことに成っているのではないかと考えられます。逆に、経済的な、問題がなくても、国家のために役に立つ、または将来の日本のために役に立つという選択をできない人ばかりでhないと信じていますが、反対することによる経済的な利益をどうしても強調する人々がいて、その扇動に乗る人がいることには非常に残念に思います。中国のように「接収法」などを法的に作らなくても、日本には、日本人的な集団主義があり、自分の命を犠牲にしても、愛する人や土地を護るという美しい考え方があったと思います(太平洋戦争時の特攻隊の青年たちは皆そう考えていたと祖父に聞きます。国家よりも愛する人、故郷を護るために人柱になるという考え方をした人は少なくなかったし、それは、特攻隊だけでなく、軍人皆が思っていたことと聞いております)。いつの間にか、その考え方が消えてしまい、時運さえよければよいという考え方が、日本人の心の中に芽生えてしまい、その中に埋没してゆく社会を見ると、「英霊」などという単語を使わないまでも、日本人一人一人に立ち直ってもらいたいと思うのは、私のエゴでしょうか。
 話はそれましたが、「国家的事業」「将来に渡った計画」によって、一部地域の人だけが不利益を被るのは、確かのよくないことです。しかし、逆にそのことを使って国家の計画を台無しにしてしまうのは、もっと良くないことなのではないでしょうか。国家が強制力を発揮すればよいというものではなく、双方がある程度妥協する、たとえば、普天間や辺野古周辺の住民ごと全て移転するなどという選択しもあると思います。あらゆる選択肢で、日本という国家をよくするために何をしたらよいのかを考えるべきではないでしょうか。

 さて、「アメリカの属国でよいのか」「経済の土台にあるものは何か」という疑問に移ります。
 私は現在の日本はアメリカの属国であると考えておりません。日本は主権国家であり、また、アメリカに追従しているとも思っておりません。ただし、金融、安全保障の部分においては、アメリカに依存している部分が少なくないということも事実でしょう。とくに安全保障に関しては、日本は、防御力は備えているものの、打撃力と抑止力までは備えておらず、軍隊の3分の1しかその機能を持っていないということになります。よく、軍事費によって、その国の軍事を比較しますが、そもそも人件費(自衛隊隊員の給与)などもその中に入ってしまうために、日本のように人件費が高い国は、当然にトップクラスになります。ここに保険なども入ればなおさらのことです。設備、軍備と言っても、日本では独自に開発した場合は、やはり企業利益の中に人件費などの経費が入ること、また、アメリカなどに比べて、武器の値段も送料や設置量、メンテナンスなど、独自に費用を払っているわけではないので、その分高くなるという傾向があり、日本が軍事費において世界第二位の軍事大国などというまやかしをいくら述べても何の得にもなりません。それだけのカネをかけながら3分の1の軍隊の機能しか持たないことを恥ずかしく思うべきなのかもしれません。
 日本が真の意味で独立するためには、当然に、安全保障の意味で独立しなければなりません。では、日本の「軍隊」が守る日本とは一体何でしょうか?
 よく国家の構成要素を聞かれ、「国民」「領土」「主権」と言いますが、私は、この中に「権益」を入れるようにしています。シーレーン防衛や「過敏症」さまが言われているエネルギー、それに食料など、様々な部分で国際的に依存している中で、日本国内だけを安全に保っても日本人の生活を護ることはできません。もちろんバラマキ政策で生活第一などと言っているのは論外です。
 日本人は「安全と水はタダだと思っている」とよく言われます。私のように中国やインドネシア、タイに長くいると、この二つが非常に重要であり、最もカネのかかるものであると気付きます。そのエピソードを全て書くと本が書けそうなので、あえて今回は触れませんが、日本人がいかに、これらのことに「無関心」でいるか。また「無関心」でいながら生活が成立しているという贅沢な、生活をしているのか、非常に不思議に思うことがあります。
 経済の土台にあるものは、私は「国家」であり同時に「家族」であると思います。最低限の生活を個人で行うためには、結局「生活保護」のレベルでよいので、何もいらないでしょう。しかし、家族になり、そしてそれが地域になり、そして国家になる。その過程で、競争が生まれまた助け合いが発生し、そして、専業で様々なことを行う。この行為そのものが経済の活動の根源にあるのではないでしょうか。「誰かのために私が働く」が経済の根源であると思い、そのためには「最低限の生活」要するに「安全」「水」「食料」「住居」が必要なのであろうと思います。そして、その発展させる内容は「欲」「ムダ」でしょう。欲が向上心を生み、ムダが余裕を生みます。適度な欲と適度な無駄が、経済のより大きな発展を促すといっても過言ではないのかもしれません。その発展を欲する心も、現状の不満に対する欲の実現なのかもしれません。
 話はそれましたが、日本は長年「西側諸国」と言われる経済圏の一員として国際社会の中にあり、そして、そのうえで、アメリカを中心とした経済活動を行ってきました。その日本の活動は、「欲」と「ムダ」によって高度経済成長を迎え、そして、バブル崩壊とともに、経済発展が沈滞化するという事態になっています。企業が復活しなければならない時代に、企業の海外進出が非常に多くなり、そのために雇用などが充実しない、有効求人倍率が低くなるという現状を生みだしてしまっているのです。
 日本が「アメリカの属国ではいけない」とありますが、逆にアメリカの影響下であったから高度経済成長を迎えたという事実も忘れてはいけません。そのことを分析し、しっかりとした将来ビジョンを持って物事を語るべきであると思います。
 私個人としては、「アメリカからの完全な独立」をする、これが民主党の主張する「対等な同盟関係」を行うにしても、まずは安全保障の問題が最も重要になるでしょう。しかし、今から日本が「抑止力」「打撃力」を含む軍事力を保有するという場合、憲法的な問題はないことにしても、経済的な問題が非常に大きく日本国民にのしかかることになるでしょう。当然に数年、もしくは数十年にわたって変えなければなりませんし、そのことで我慢をするということを日本国民が納得しなければならないでしょう。そもそも、その軍隊には当然に兵員を確保しなければならないですが、その兵員に対する教育という問題も必要になります。その教育を変えることまで視野に入れ、長期間のビジョンを持って、日本は変わらなければならないと思います。しかし、その具体策はまだ何も考えていません。個人的には真の独立は必要であると関あげていますが、それは数十年のちの問題ではないか、それまでに、日本がしなければならない国内的な改革、たとえば教育改革や経済構造の怪買うなど様々なものがありますし、基地に対する沖縄の問題なども含め、国民の意識の改革、または日本は海洋国家であるにも関わらず、「軍事にかかわる」という理由で「海洋地政学」を全く教えていないのですが、このような教育と言っても「大学教育」も改革してゆかなければならないのです。独立を叫ぶよりも、その方が先ではないかと思います。

 以上長文になりましたが、せっかくコメントをいただいたので、私の考え方を示しました。
 できましたら、「過敏症」様の質問とともに、本文をブログに掲載したいのですが、よろしいでしょうか?
 今後ともよろしくお願いいたします。

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なぜ今、金賢姫なのか?民主党政権の感覚のズレ

なぜ今、金賢姫なのか?民主党政権の感覚のズレ

 7月20日。金賢姫元死刑囚が、来日した。金賢姫(キム・ヒョンヒ、1962年1月27日)は、大韓航空機爆破事件(1987年)を実行した朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の元工作員。元死刑囚(後に特赦)。大韓航空機爆破事件を実行するため、「李恩恵」と呼ばれる女性(日本から拉致された田口八重子とみられている)に1981年7月から1983年3月まで東北里2階3号招待所で日本語教育を受け、「蜂谷 真由美(はちや まゆみ)」という名の日本人になりすました。事件後に現地バーレーンの警察に捕まる直前、「蜂谷 真一(はちや しんいち)」という名の日本人になりすましていた共犯の金勝一(キム・スンイル、???)と共に煙草を吸うふりをして服毒自殺を図るが、金賢姫だけは一命を取りとめた。その後、韓国国家安全企画部(国家情報院)に引き渡され尋問される際も中国語や日本語で返答していたが、不意に熱湯をかけられて反射的に出た朝鮮語により結局は隠し切れずに自白した("熱湯"説の真偽は不明である)。 自白後、聖書を通してイエス・キリストを知り、ソウルの汝矣島(ヨイド)にある中央浸礼教会で受浸、クリスチャンになった。日本語が堪能。北朝鮮で李恩恵と一緒に暮らし、日本の文化や習慣、料理などを習得した。ちなみに、好きな歌手は山口百恵で、日本の民謡だけでなく山口百恵の曲も多く歌える。拉致問題について「田口八重子は生きている。」、「横田めぐみさんが自殺したとは考えられない。」と発言している。(以上ウィキペディアより)
 その来日に関して、閔sy不当政権の不手際や、その内容に関し様々な疑問がささやかれている。以下産経新聞より。

金・元工作員、なぜ鳩山氏別荘へ 表向きは「手料理」 実は政権浮揚策?

 大韓航空機爆破事件の実行犯、金賢姫(キム・ヒョンヒ)元工作員の来日で、昨年9月の政権交代以来、韓国側に働きかけてきた政府は拉致問題の“進展”をアピールしようと懸命だ。中でも、拉致被害者家族らと面会場所が鳩山由紀夫前首相の別荘だったことが注目されているが、結局、来日は鳩山氏の首相退陣後に…。異例ずくめの展開となった。
 「世界に、日本と韓国が一体となって拉致問題に取り組む姿勢を示せた」
 中井洽(ひろし)拉致問題担当相は20日の記者会見で、こう胸を張った。
 中井氏は昨秋以降、首相官邸に来日の重要性を訴えてきたが、米軍普天間飛行場移設問題で余裕がなく、今年3月の北朝鮮の哨戒艦撃沈事件もあって、鳩山政権下では実現しなかった。
 滞在先が政府関連施設やホテルでなく、鳩山氏の長野・軽井沢の別荘となったことは関係者を驚かせた。
 中井氏は会見で「金元工作員が昨年、田口さんの長男、飯塚耕一郎さんに料理を作ってあげると約束したから」と語ったが、鳩山邸でなければならない理由は見当たらない。
 当の鳩山氏は、滞在地の事前報道に「(金元工作員が)襲われたり、さらわれたりしたら大変だと激怒している」(関係者)というが、自身の別荘を使ったことで、拉致問題を政権浮揚策として考えていたとの憶測を広げてしまった。
 今回の来日では、金元工作員が超法規的ともいえる措置で入国したことや、日程がほとんど発表されず、事実上の報道管制が敷かれているなど、政府側の緊張感が伝わる。
 菅直人首相は20日夜、首相官邸で記者団に対し「拉致被害の家族のみなさんから来日の要望があり、それを受けて政府として招待した」とだけ語った。

7月21日11時0分配信 産経新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100721-00000521-san-pol

「政権のパフォーマンスだ」自民党総務会で批判 金元工作員来日


 21日午前に開かれた自民党総務会で、大韓航空機爆破事件の実行犯、金(キム)賢姫(ヒヨンヒ)元工作員の来日について、出席者から「まさに政権のパフォーマンス以外何ものでもない」との批判が出た。
 金元工作員は、20日に来日し、長野県軽井沢町の鳩山由紀夫前首相の別荘に滞在している。
 出席者からの批判に、執行部は「ありとあらゆる機会をとらえて、厳しく追及していきたい」と述べ、国会の場で取り上げていく方針を示した。

7月21日13時2分配信 産経新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100721-00000551-san-pol

 
 まず、この金賢姫の来日は、「何が目的」なのか、そして、どうして今なのか、まったくわからない。ウィキペディアによると、「2010年7月20日早朝、政府のチャーター機で来日が実現。23日まで日本に滞在し、拉致被害者家族と面会する予定である。滞在の場所として鳩山由紀夫元総理大臣の軽井沢別荘が警備上等の理由で選ばれている。日本政府は元来、死刑囚の入国は出入国管理及び難民認定法の規定で認めていないが、法務大臣が出入国管理及び難民認定法の12条特例条項を適用して入国を認め、日本の警察も旅券偽造容疑による事情聴取も今回来日中は見送る方針である。」としている。そもそも、25年前の北朝鮮の工作員である。現在の拉致問題にしても、また、そのほかの北朝鮮情勢についても知っているわけではない。その間獄中で暮らし、恩赦の後に韓国で生活しているのだ。その人が、25年以上前に入手した、というよりは「招待所」で暮らしていた時の記憶を今聞いてどのようになるのか。
 政治的に喫緊な課題がないこの時期であるから、マスコミなども注目する内容になっていると考えられる。政府にすれば暇な時期に呼んで、話を聞くということをしてもよいのかもしれない。しかし、このことが日本と北朝鮮の国交関係に何らかの越境を及ぼすことがあるのか。謎の国北朝鮮の、謎の解明につながるのか。北朝鮮に拉致された拉致被害者の問題解決につながるのか。その内容いかんによっては、政府は単に元死刑囚の工作員を観光旅行させたにすぎない。それも国民の税金を使ってである。単純に批判の的だ。
 これを行うことの目的が何か、そしてその成果が期待できるのか。このことは、何かプロジェクトを行うためには非常に重要なことである。全ては結果次第であるが、それでも事前に何らかの予測は付けられる。今回の件も政府の人がまず韓国に出向き、そして金賢姫にあって事前に何らかの情報を得ているはずだ。日本に来なければならない必然性は「横田夫妻など多くの拉致被害者関係者を合わせる」ということに尽きるはずだ。それだけ、「本人に伝えなければならない」情報があったのか。少なくとも飯塚氏(田口八重子さんの息子)の会見ではそれらは伝わってこなかった。
 では、何が目的なのか。そして、それが拉致事件の解決につながるのか。それとも単純に、単なる「引き合わせパフォーマンス」で終わるのか。そこは「税金の使い道とその効果」という意味で、非常に重要な問題となる。
 多分、民主党が引き合いに出すのが「ジェイキンス・曽我夫妻再会」であろう。これは「その時の北朝鮮の情報が分かる」ということ、そして「夫婦を将来に向けて一緒に生活させる」という目的があった。要するに「再会」させた後に、そして拉致事件や北朝鮮の最新の事象という情報の入手ということで、様々な内容があった。それに対して、今回の金賢姫来日に関しては、その内容が、そして今後の将来の展開が明らかになっていない。このことに「民主党の政権の人気取りのために」税金を使い大騒ぎをしたことになる。これこそ「仕分け以上に必要な大きな無駄」でしかない。

 もうひとつの論点は「大韓航空機爆破事件の被害者家族の心象」である。少なくとも自供と韓国での裁判によれば、金賢姫元死刑囚は、大韓航空機の乗客を殺害しているのである。今回の来日に関しても、あまり好感を持っていないであろう。片方が「まだ生きていて拉致された」被害者の25年前の情報を「すでに死んでも会えない人」の家族が我慢している。という現状です。この「犯人」を「国賓待遇」でなおかつ過去の取り調べなしで来日を許したのだ。そのこと自体、異常としか言いようがない。それら被害者の感情を逆なでする、もっといえばテロ行為を肯定するくらいの行為をするだけの情報があったのか。被害者の心証ということも「費用対効果」の問題となる。横田夫妻の会見のように「新しい情報はなかった」と言われてしまえば、結局「何のための被害者家族の心証の我慢」なのか、よくわからない。テロ行為をして有名になったからと言って国費で日本観光をさせたとしか言えないのではないか。
 何度も言うが、これらの行為がどのような効果を生むのか。これで拉致問題が解決するのか。これらのことが、真相究明にどのような役に立つのか。拉致被害者家族会の飯塚会長の会見のように「政府も自信を持った情報」というように、なんだか分からないが国費だけが垂れ流されている現状ではないか。
 その国費の使い方もたとえば、鳩山氏の別荘も、どのような経緯でここに決まったのか。その賃料はいくらにしたのか。入札も何もなく、そのようなことが「お手盛り」で決められている。そして、効果のない(今のところ)国賓待遇の元死刑囚を招き、そして、他国の大韓航空機爆破事件の犠牲者の家族に反感を買う。最もおかしなことがあるのではないか。
 これらの、国民の疑問を、菅政権はしっかりと答えなければならない。逆に、答えられないのであれば、拉致事件解決の結果で示すべきだ。両方できないのであれば、この疑惑に対して何らかの責任を負うべきなのではないか。結局、「外国から不信を買った」だけの内閣になってしまう。
 このような事案で日本の信用が落ちないことを祈るばかりである。

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発言がまたブレる鳩山由紀夫

発言がまたブレる鳩山由紀夫

 少し前の話だが、面白いニュースが入ってきた。
 連休明けの日本は、金賢姫元死刑囚の来日と拉致被害者の支援者との会談ばかりで、政治的なニュースはあまり見られない。実際には、様々な水面下での動きがあり、小沢一郎の消息の話や、7月30日からの臨時国会での予算委員会の開催のこと、そのほか政局の関してなど、さまざまなニュースがあるはずだ。野党い関しても、みんなの党の渡辺代表が気を引き締めるといてみたり、さまざまな話が出てきている。参議院選挙後の少しの間は、新人の参議院議員に関する教育などもあり、また、7月の末には議員会館の引っ越しなどもあって、そのような地位のある人以外はなかなか大きな動きは期待できない。ちょうど政治的な「エアーポケット」に入ってしまったかのような感じである。
 このようなときに、話題を振りまいてくれるのは、野党の時も与党になってからも民主党だ。彼らは、党内がまとまっていないために、どうしても、各個人が目立とうとして様々な話題を振りまいてくれる。これらの動きを深読みする人も少なくないのであるが、実際のところは、「テレビ報道でできた政党」よろしく、自分が目立たなければ次に当選できないという選挙目当ての危機感を持っていることも少なくないのだ。このことは、自民党の一部の議員にも言えることであるが、目立つこととしっかりと政策を実現することは違う。アピールは必要かもしれないが、政策を実現することこそ、選挙対策でありまた国民の主権の負託にこたえることになると思うのであるが、なかなかそれをわからない人が多いところは、問題である。
 さて、そのような中に、面白いニュースが飛び込んできた。

鳩山前首相が引退方針撤回=来春まで結論先送り

 鳩山由紀夫前首相が北海道苫小牧市の地元後援会幹部に対し、次期衆院選には出馬しないとした政界引退の方針をいったん撤回し、2011年4月の統一地方選まで結論を先送りする考えを伝えたことが17日、分かった。
 後援会幹部によると、鳩山氏は同日、苫小牧市で開かれた後援会会合に出席。後援会側が引退表明について「地元は納得していない。熟慮してほしい」と再考を求めたのに対し、鳩山氏は「少し熟慮が足りなかった。来年の統一地方選までをめどに結論を先延ばししたい」と応じた。 
2010年07月17日22時29分 / 提供:時事通信社

http://news.livedoor.com/article/detail/4892282/ 

 もうひとつ、違う観点から。

鳩山前首相が引退撤回、発言のブレと支持率

 首相の発言の軽さ
 厳しい状況に置かれている民主党、新政権誕生後の支持率の急落が目立ちます。政治家が信頼を最も失うものの1つが発言のブレで、首相の発言のブレにより支持率が低下し、また発言がブレるといった現象が起きています。
 鳩山前首相が引退撤回
 鳩山前首相は辞任の際に、議員活動を辞めることを名言しており、ここにもまた発言のブレが見られました。YOMIURI ONLINEによると
後援会に相談せずに結論を出そうとしたことに対して、あまりにも唐突だと(批判された)。今日は結論を出すつもりはない。国益に資する自身の身の振り方を考えたい
と、議員活動を続ける可能性を示唆し、引退発言を撤回しました。
 首相の発言のブレは、国民の信頼を失い、国が進むべき方向のずれに繋がります。メディアの発達により、首相の一挙手一投足に注目が集まり、些細な発言のブレが伝えられてしまう現状がありますが、首相の発言のブレは政権に致命的なダメージを与えてしまことに繋がります。
▼外部リンク
YOMIURI ONLINE「鳩山氏が引退表明いったん撤回、結論は来春に」

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100717-OYT1T00728.htm 

2010年07月19日12時00分 / 提供:ネット選挙ドットコム
http://news.livedoor.com/article/detail/4893800/

 民主党という政党は、ことごとく発言を反故にする政党である。もともと民主党は「マスコミによって作られた政党」であり、私は何度も主張しているように民主党政権は「情報操作と言論封殺によってできた政権」である。
 しかし、この法則が崩れる時が来た。要するに「政権与党になった」ときである。民主党はそもそも、選挙対策しかしてこなかった政党だ。選挙対策のためには、自分の主義と関係ないことでも言うし、公約もする。相手を攻撃するためには、自分のことを棚に上げてなんでも発言する。そんな政党なのである。その政党が政権与党になった場合は、「攻撃する相手がいない」という状況になり、また、周囲(マスコミを含む)の攻撃の的が自分になるということになる。そもそも野党時代からブーメラン政党と言われていたにもかかわらず、与党になってからも、そのままブーメランをし続けている状況になっている。そもそもブーメランとは、自分のことを棚に上げて他人を攻撃する行為。ということは、「自分のことを省みることができない」「自分の行った行為の意味を理解することができない」「それだけ発言が軽い」ということになる。発言が軽いといえば、まだましな言い方だが「発言が信用できない」「発言することに嘘がある」というようになっては政治家として失格である。
 そもそも、政治とは、私はこの場で何度も主張しているように、「言葉」で「将来」を示し、そして国民の支持を受ける商売である。その将来のために今すべきことをするのが政治である。もともと「まつりごと」であり、その内容は将来の予言につながるものだ。シャーマニズムの時代からずっと政治とはそういうものだ。その言葉に「嘘」があったり「信用できない」ということは、とてもとても、信じられない。
 さて、鳩山前首相が「ルーピー」と言われたのはなぜか。普天間基地移転問題において、片方では、「トラスト・ミー」と言いながら、片方で「少なくとも県外」と朝令暮改でほぼ正反対の二律背反な内容を発言したことによる。国民ばかりではなく、アメリカからも「信用できない」というレッテルをはられた。そのレッテルが「信用できない理由」ようするに「ルーピー」というように鳩山一人の欠陥ということでアメリカは方をつけようとした。それがそうでもなく「民主党政権全体」というように見方が変わった話は、先日のブログで掲載した通りである。
 その「発言がブレる」鳩山であるが、今回は、自分の出処進退に関してまでもぶれた発言をした。そもそも、政権交代以前より「首相経験者が首相辞任後も衆議院議員としているのはおかしい」というのが鳩山の主張であった。その主張通りに首相辞任の時に、「次の総選挙で政界を引退する」と表明していたのだ。しかし、今回はその発言を取り消した。その理由は「後援会に相談せずに結論を出そうとしたことに対して、あまりにも唐突だと(批判された)。」ということだ。かなりおかしいのではないか。
 そもそも、「秘書が事件を起こしたら、私ならばバッチを外します(議員を辞職します)」と言っていたにもかかわらず、秘書が政治資金規正法違反で有罪になっても、議員はおろか、殊勝にも居続けた。そのことが政治とカネの問題で国民の不信を買った。そのために支持率は急落し、様々な政策を実現できなくなっている。自分の出処進退も決められず、また、その内容もブレてしまうようでは、国民の生活の安定など図れるはずがない。このブレる発言から、そもそも、「政治家として不適格」であるといえるのではないか。また、北海道の後援会もそのことが分からないというのがどうかしている。北海道の選挙区だけが独立国ならばよいが、あくまでも日本だ。自分たちの後援会の問題だけで、国家の問題を語らないでほしい。
 これと全く逆なのが小泉純一郎である。小泉氏は「目標を達成した」とし、首相を辞任し、安倍晋三氏に首相の座を譲った。この譲った時も、『禅譲』ではなく、ちゃんと自民党の党内で総裁選挙をやって選ばれたのである。その安倍首相がどうだったか、ということは別にして、小泉氏は、安倍首相、福田首相、麻生首相の各々の時に、あまり前に出ることをせず、そして、昨年の総選挙で引退した。その間、特に安倍内閣総辞職時など、小泉待望論がかなり大きく出たが、それでも小泉氏は「一度決断したこと」「言い出したこと」を実行した。
 一方、今回の鳩山前首相の場合は、そのような声が上がっているという状況ではない。それどころか、自分の言葉の軽さで、自分が辞職に追い込まれたということもわかっていないのではないのか。この「耐えられない軽さ」は、民主党の体質であり、またそれを求める後援会の質の悪さ、日本のことを考えない、そして政治家の言葉の重要さを考えない、この状況を許すことはできないのではないか。
 民主党は、このような政党であるといってしまえば、それまでである。しかし、そのような政党が政権党であり、外交交渉を行っているという現実を、日本人は「不幸」と感じなければならないのかもしれない。参議院選挙では国民の良識が働いたと思うが、次の総選挙でも、そのような良識が働くことを望む

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イベント好きな日本人について たまには軽い話題

イベント好きな日本人について たまには軽い話題を

 どうも連休明けというのはよくない。
 なかなか仕事をする気になれないのである。政治の話題も基本的には休みであり、そのほか大きな話題も少ない。大韓航空機爆破事件の工作員の元死刑囚が、日本に特別入国してきたが、実際、その件に関しては、今後の動きを見て論じればよいので、「日本に来た」と言うだけでブログで書いても、どうかと思う。
 要するに、「ネタ」「やる気」ともにかけている。これが連休明けである。そのうえ連日の猛暑。私は、チャンネル桜などで見たことのある人はお気づきと思うが、「デブ」である。日本人のデブの多くの習性として、当然に「暑さい弱い」という習性をもっている。暑さに弱いのは仕方がない。汗で前が見えなくなるなど、デブ特有の悩みはかなり存在しており、それはそれである意味で仕方がない部分はあるのではないか。
 「ああ、暑い」と思いながら、ネットでネタを探していたら、ちょうどよいのがあった。「閑話休題」よろしく、今日はこの件に関して語ってみよう。政治と違い専門外であるので、気軽に読んでください。

“放水ショー”続々登場!エンタメ化が進む今夏のプール事情

 ドッカンドッカンという音とともに、キャノン砲が打ち上がる。東武スーパープール「ウォーターイリュージョン」/東武動物公園/東武スーパープール「ウォーターイリュージョン」 
 いよいよ梅雨が明け、気温30℃を超える日が続く本格的な夏が到来!
 7月に入って都内近郊で続々とオープンしているプールも盛況となっているが、今年は音楽やダンスを絡めた“放水ショー”が続々と導入され、プールの“エンタメ化”が目立ってきている。

●よみうりランド/プールWAI
全長250mの流れるプールや、2mの飛び込み台があるダイビングプールなど、5つのプールや3種のスライダーで人気のプールパーク。ここで今年初登場したのが、「ダンスプラッシュ」という放水とダンスのエンタメショーだ。最大0.6mの波が出る「波のプール」で、水曜、土曜、日曜の14時から約15分間行われるこのショーは、数人の放水スタッフがホースをもってお客さんをめがけて放水。その周りで5人のダンサーがノリノリで大騒ぎする、というものだ。夜にはビアガーデンも登場。水辺で涼みながら飲むビールは格別だ。
●東武動物公園/東武スーパープール
遊園地や動物園もある複合型レジャー施設のプールが大リニューアル。今年の目玉は「ウォーターイリュージョン」だ。これは、一日に9回、ウエーブプールのプールサイドから、高さ20mのキャノン砲が音楽に合わせて乱舞する、水と音のエンタメショー。プールの端から端くらいまで飛ぶ水は、見るだけでも楽しい。
●東京サマーランド/アドベンチャーラグーン
国内最大級の規模を誇るプール。今年注目のアトラクションは、屋外プールの「タワーズロック」だ。最大の特徴は、背後から滑る“逆さスライダー”という点。2人乗りの浮き輪に乗って、ジェットコースターのように斜度70度のスロープを下りるとその遠心力で次は上へ! 頂点に到達後、今度は背後へと滑り降りる、スリル満点のスライダーなのだ。コースは2種あるので、どちらも楽しんでおきたい。
 ほかにも、「国営昭和記念公園」では、ご当地フードの販売店が登場するなど、エンタメ化が進む今年の“プール事情”。うだる暑さの中、これら泳がなくてもOKなプールを気軽に訪れて、思いっきり楽しんでみては!?
 【詳細は、東京ウォーカー7月6日発売号に掲載】
最終更新:7月18日(日) 11時42分 東京ウォーカー7月18日(日) 11時16分配信

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20100718-00000006-tkwalk-ent

 日本人は、いつから、テーマパークを好むようになったのであろうか。私が小さい頃は遊園地は、その乗り物だけで十分に楽しい場所であった。民俗学的に「ハレ」の日の実現は、遊園地に行くという言葉だけで十分に成立していたのである。
 私が中学受験のころ「モラトリアム人間」という言葉がはやった。「新人類」という単語で若者を表現していた時代である。主体性がない指示待ち人間のことであったと思うが、詳しくは覚えていない。この時も、特に遊園地そのものがテーマパーク化するという話はなかった。やはり遊園地は遊園地であったのだ。
 東京ディズニーランドの出現は、この遊園地事情を一変させた。遊園地がテーマパークに変わったのである。それまでは「遊園地」は「遊具で遊ぶ場所」であり、その遊具そのものが非日常を演出する道具であった。当然に遊具と遊具の間の部分は、非日常と日常の間にある「空間」でしかなかった。しかし、東京ディズニーランドは、その「空間」に着目し、その「空間」をエンターテイメント化することに成功した事例と言える。この成功には様々な要因があり、また様々な努力があると思う。この空間のエンターテイメント化は、さすがに、日本のそれまでの遊園地には少なかった。全くなかったかと言えばそうではない。「横浜ドリームランド」などは、それを真似して様々な工夫を凝らしていたし、普通の遊園地も空間での大道芸など様々な工夫をしていたと思う。しかし、テレビでおなじみのキャラクターが「テレビの世界から飛び出して」迎えてくれるという、マスメディアとテーマパークの融合という考え方は、やはり少なかったといえるのではないか。結局、日本の遊園地の場合は「遊園地の中だけで終わってしまう」工夫にとどまったのに対し、ディズニーランドの場合は、そのほかのメディアとのクロスマネジメントの成功例出るといって過言ではないであろう。
 東京ディズニーランド以降、日本にも様々なテーマパークができる。箱物行政や不正の温床になるような部分もあったが、ここではその主題は関係ないことにしておく。日本独自のテーマパークは、長崎ハウステンボス、倉敷チボリ公園、志摩スペイン村、サンリオピューロランドなどがオープン時に話題になったところかもしれない(もちろん私の記憶の範囲です)。これらは、たとえば、ハウステンボスは「長崎」「オランダ」をくっつけたテーマパークであるが、キャラクター認知度など、やはり苦戦している状況である。逆に「キティ」などで有名なサンリオは、テレビ番組などともコラボレーションして、その内実は分からないが順調な運営のように見える。結局のところ、ディズニーランドとサンリオは、メディアによってキャラクター知名度があり、そのほかは知名度がないという話に見える。
 しかし、そうであろうか。もしそうだとすると、たとえば、その後に出てくる「ナムコワンダーエッグ」や「ジョイポリス」といった、キャラクターなしの大型ゲームセンターのような遊園施設が、大人の遊び場になるというのもおかしな話であるし、絶叫マシンと世界一長いお化け屋敷で有名な富士急ハイランドなどがじ、集客をしていることも今一つ説明がつかない。
 結局のところ、そこにあるのは、「顧客の求めているものを察知する能力」と、その「実現力」ではないだろうか。もっというと「顧客を飽きさせない演出」と「子役が何もしない時のモティベーションの維持」ということになるのではないか。
 その意味では、上記の中で最も気になる記述が「うだる暑さの中、これら泳がなくてもOKなプールを気軽に訪れて、思いっきり楽しんでみては!?」ということである。要するにプールに行って泳がないという選択肢を選べるということである。それだけ「泳がないでも退屈させない」テーマパーク的なエンターテイメント化が実現していると「自信を持っている」ということになる。
 逆な言い方をすれば、顧客は一つの場所に求める内容が「多様化」したということになり、その「多様化」は『プールに行って泳ぐ』という本来の目的をも排除する可能性について言及していることになる。
 一方、利用者の立場に立ってこの現象を見てみると、「そこまで作ってもらわなければ楽しめないのか」という疑問に立つ。たかがプールのエンターテイメント化でここまで言うのもどうかと思うが、「活字離れ」や「ゲームを真似した犯罪」という報道があるたびに「モラトリアム人間」を思い出してしまう。要するに「与えられた情報」でなければわからない。脳内において、活字から物事や情景を想像し、映像化する能力に極端に欠けているといわざるを得ないのではないか。そして、その情景の想像ができない状況は、そのままそこにある善悪の判断などもできなくなっているということを意味する。活字離れは、本や新聞の購読が少なくなっているだけではない。アニメや漫画の購買数が減っていないということは、絵や音声が入っていないと頭の中でストーリーを追う、頭の中で情報を結びつけることができないという、日本の若者の弱点を露呈しているのかもしれないと思う。
 私が子供のころ、プールサイドで、本を読む大人が多かった。そのまま雑誌を顔の上に載せて寝ている人も少なくなかった。それがエンターテイメント化してしまうと、極端に減ってしまう可能性がある。その分、利用者は楽しめる「出し物」が増えたことを意味するが、一方で、利用者の「自由な時間」が減ってしまったとみるべきなのかもしれない。
 まあ、そのような難しい話は、どうでもよいのである。個人の選択だし、そんなに嫌ならば「行かなければよい」ということになる。何もプールが楽しくなったからと言って「活字離れ」まで気にしなくてもよいというのが、最もわかりやすい話なのかもしれない。

 このようなことを考え、思いながら(ある意味ブログのために無理やり考えているが)、猛暑の中のひと時を過ごしている。このひと時こそ、最も私自身が堕落しているのかもしれない。

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やはり、日米関係に深刻な懸念をアメリカ議会が表明。どうする民主党政権

やはり、日米関係に深刻な懸念をアメリカ議会が表明。どうする民主党政権

 以前といっても7月8日の話であるが、私は菅直人首相の発言から「再度、日米同盟危機を招く普天間と菅首相の発言」とブログで発表した。この内容は(1)から(3)までの連載ものであったが、菅直人の発言、そしてその根底にある思想と日米関係に関して、非常に危険な位置関係にあると記載しているのだ。詳しくはここから見てほしい。http://udaxyz.cocolog-nifty.com/udaxyz/2010/07/post-80fb.html
 さて、そんな感じで書いていたら、アメリカでも同じことを考えている人が少なくなかったようである。
 
 昨日(19日)は月曜日であったが、休日である。「海の日」だそうだ。個人的には「海の日」は5月28日、旧海軍記念日にしてくれれば、なんとなく意味のある休みに成りそうな気がするのであるが、なかなかそうはいかないようである。以前は7月20日。今は、第三月曜日ということになっている。もともと、日本の休みは、それなりに休みの意味があった。建国記念日や勤労感謝の日は、しっかりとした意味がある。日本の天皇は暦とつかさどる神であった。ということは、当然に休みそのものにも季節、それも日本の四季や穀物の生育に関係のある日である。そのほかにもこどもの日が端午の節句であるなど、様々な意味合いがある。海の日も夏休みが長くなるというのではなく、なんとなく日本の歴史に関係のある休みにしてほしかったと思う。

 そんな休みに関する内容は別にして、やはり、休日の翌日は、なかなか政治のニュースは少ない。そこで、どうしても古いニュースや普段気になっているがなかなか毎日のニュースでできない解説をここではおこなうことになる。
 今回は、日米関係に関しての話。鳩山前首相がおかしくしてしまった日米関係が、菅直人でどうなったか。もともと学生運動出身で「アメリカ」と聞くと潜在意識的に「敵」と思うように成っている「団塊世代の総理」が、それまでのようにしっかりと日米関係を構築するとは思えない。どちらかというと、「いい加減な鳩山」よりも「確信犯的に悪化させる」可能性があるといって過言ではない。
 それに関係する内容で今回の内容を見てみよう。
 産経新聞の記事から。

日米同盟「深刻な懸念」 米議会の超党派認識

 【ワシントン=古森義久】米国議会には菅直人首相の普天間基地移設の日米合意どおりの実行への疑問だけでなく、日本の民主党政権との間に総合的な戦略認識にミゾがあり、日米同盟の堅持の基本への深刻な懸念があることが同議会調査局の報告で明らかにされた。
 米国議会調査局が上下両院議員の法案審議資料としてこのほど作成した「日米関係=議会への諸課題」と題する報告は、菅政権発足後の日米関係の現状と展望を米議会一般の超党派の見解として記述している。
 菅政権下での日米安全保障関係についてまず、「菅首相は鳩山由紀夫前首相が米国との間で成立させた普天間基地移設に関する日米合意を順守することを誓約したが、なお移設計画の実行に関しては深刻な懸念が残っている」と述べ、移設が菅首相の約した日米共同声明どおりには履行されない可能性を指摘した。
 また、普天間問題について米側の政府高官が菅首相の誓約どおりに進むという「楽観的な言明」をしているとして、現実には「沖縄住民の多くと民主党政権との間の日米安保関係への見解の相違や民主党自体の内部の多様な意見」などのために、菅首相の方針のようには移設が進まない可能性があることをも強調した。
 菅政権の日米同盟自体に対する態度についても、「菅首相は日米同盟を日本の外交や安保の基軸にすると言明してはいるが、なお(鳩山政権時代に)普天間問題が日米安保関係にすでに与えた損害や(米国と日本の民主党政権との間の)同盟をめぐる総合的な戦略認識のギャップ(ミゾ)に関する懸念が残っている」と述べ、米国議会一般の見解として、日米同盟の長期的な堅持の基本に対してまで懸念が存在することを明らかにした。
 日本の民主党の日米同盟に対する年来の懐疑的な姿勢にも光をあて、「民主党は菅首相の下でも、アジアとのより深い関与や国連への志向がより顕著な外交を通じての対米同盟の『平等化』を唱えている」と述べ、菅政権下でもなお民主党には日米同盟からの離反や同盟の希薄化を求める傾向があることを指摘し、米国としての最悪の事態にも備える対応をにじませた。

http://sankei.jp.msn.com/world/america/100513/amr1005131739010-n1.htm
7月16日22時31分配信 産経新聞

 鳩山内閣の時に、日米関係はかなり悪化した。このことを否定する人はまずはいない。問題はその原因だ。一つは、「普天間基地移転問題」であろう。普天間基地の問題は、三つの意味で日米関係を悪化させていた。一つ目は「基地移転問題での指導力の欠如」。二つ目は「基地移転問題での国家の契約(約束)を履行しないということ」。三つ目は、「日本、ことに民主党政権における軍事への無理解」である。
 「基地移転問題での指導力の欠如」は、単純に「沖縄県外か沖縄県内か」ということに関して、その事情を説明し、そして、その内容を沖縄県に納得させる話である。基本的に鳩山前首相ほど下手なやり方はない。しかし、アメリカと社民党と沖縄県民とに挟まれた鳩山氏には、すでにあの方法しか考えることはできなかったのかもしれない。アメリカからすれば、なぜ国際的な合意になっている基地移転問題を、いきなり選挙のためとはいえ問題にしたのか。それも、マニフェストには記載していないのだ。その状況では、とてもアメリカとしても信用できない。民主党政権は、選挙のために国際公約も破る可能性があるということだ。
 「契約不履行」の問題は、アメリカには最も嫌な問題になる。アメリカからすると、「中国を含めアジアは全て約束や権利を守らない国」と映ったであろう。アメリカのような多民族国家は、どうしても「契約を守る」という常識があり、それが社会規範の一つの重要な根源の一つだ。同じ権利の人が契約をすること、そしてその契約を守ることが、「万人の万人による闘争状態」を避ける唯一の手段となっている。そして、逆に契約によって相互の権利義務を明確にする事によって、初めて、平等が実現される。一方アジアのそれはことなる。要するに、権力者が権力を行使し、その権力の下において平等になるように構成されているのだ。中国などは「人民」が平等でありながら、共産党の階級社会の中においては全く平等の社会ではない。日本においては欧米型の平等が実現されていると思っていたにかかわらず、残念ながら、民主党の権力志向は中国的権力主義「パックス」型の平和平等を実現するにすぎないと思われてしまったのである。このことは、人によって人権の範囲が異なるということを意味しており、そのことは、小沢や石川の政治とカネの事件や鳩山自身の脱税問題が、他の人の事件と平等に扱われていないことでも示される。一見普天間基地の移転問題と異なるが、実際は、支配機構と国民の人権の平等という意味で、アメリカは注目していた事件である。
 「日本における軍事の不理解」は、アメリカ自身がそのようにさせたという自覚がある。当然に日本一カ国で、中国(中華民国)東南アジア(オランダ、イギリス、フランス)そしてアメリカを敵に回し4年も戦いを継続した国だ。その国の軍事力をそのままにする事は、恐怖であったと思う。明治政府が、廃藩置県と時を同じくして城を破壊させたのと同じだ。その時代における強力な軍事力とその可能性のある相手を徹底的に破壊し、そして、二度と抵抗できないようにするというのは戦争の勝者の常である。その日本において、65年もったった今も、「軍事アレルギー」が非常に強くあらわれてしまい、そのために、軍事や安全保障に対してあまりにも無理解に成ってしまったということが言えるのだ。その軍事の無理解のものが、「一国の主権」を振りかざし、軍事に対して口出しをしてくれば厄介なことになる。軍事的な機密の開示や、軍事設備の返還など、あまりにも軍事に関することを口に出してきて、そのうえ人権ということで言ってくると、さすがに面倒になってくるであろう。

 このような状態から、鳩山政権時代に日米関係は「同盟関係の危機」と言われるまでになったのである。菅直人政権になり、普天間基地の問題は、日米合意に従って、すぐに行うということを表明し、幾分日米関係は改善されたかに見えた。しかし、選挙中菅直人首相は「沖縄の普天間忌日関しても8月にすぐに行わなくてもよい」というようになったのだ。アメリカの軍関係者は、その発言に対して、かなり大きなショックが走ったに違いない。その状況から、「菅直人首相の普天間基地移設の日米合意どおりの実行への疑問だけでなく、日本の民主党政権との間に総合的な戦略認識にミゾがあり、日米同盟の堅持の基本への深刻な懸念がある」とされたのである。その結果として、日米関係はさらなる悪化をすることが予想される事態となり、「民主党は菅首相の下でも、アジアとのより深い関与や国連への志向がより顕著な外交を通じての対米同盟の『平等化』を唱えている」と述べ、菅政権下でもなお民主党には日米同盟からの離反や同盟の希薄化を求める傾向があることを指摘し、米国としての最悪の事態にも備える対応をにじませた。」のである。
 これこそ、最も日米関係においてやってはいけないことだ。というよりは欧米の契約社会の国と付き合うに当たって、最も契約違反を含む信頼の欠損を招いてはならない。しかし、民主党政権に関しては、そのことに気づかない。一つは中国を見ているということ。もうひとつは国内の選挙しか見ていないということ。そして、『義務を履行しない人権意識』そのもの要するに「行き過ぎた平等意識」である。その「行き過ぎた平等意識」は、そのまま平等ではなく、自分たち(今は民主党政権を要した日本)は何もしないで「相手にのみ要求をする」不遜な態度として、各国から非難される対象としかならない。
 日本の外交の根本が、これでは、おかしくなってしまう。少し前にチャンネル桜の討論で私が発言した「日米関係の終焉」もありうる状況になってきたといえるのだ。そのようなことにならないうちに、日本はしっかりとした戦略を持って外交を行わなければならないのではないだろうか。

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マスコミ批判に対する一考 (5) 菅内閣は消費税で負けたのか・偏向報道の現場

マスコミ批判に対する一考 (5) 菅内閣は消費税で負けたのか・偏向報道の現場

 参議院選挙の結果に関しては、すでに民主党の大敗ということで結果が出てきた。その結果に関しては、あえて何も言うまい。今回は、その報道に関して、どのようなものなのかを批評してみたい。
 今回の参議院選挙の敗因に関し、新聞各紙は一斉に「首相の消費税発言」を原因としてあげた。実際に、消費税の発言が敗因の中になかったかと言われれば、それは当然敗因の中に入っているということになる。しかし、実際「新聞各紙が口をそろえて」それを報道するほどの敗因であったかと言えば、そうではない。実際に、消費税増税の公約をあげた自民党が躍進しているのだ。また、消費税論議に関して、国民の65%は理解し、反対をしていない。ということは、本来敗因は「消費税増税」ではないということになる。
 では、なぜこのような報道になったのか。
 今回はそのなぜ同一の報道になったか、ということと、そして、その報道の「意図」の推測からマスコミに関する内容を記載してみたい。

 まず、ネットの世界では「この消費税論争」が、選挙の争点のように報道していた。このことから、すでに「おかしい」という指摘がある。そもそも、「民主党政権の是非」もしくは「民主党のおこなおうとしてる法案の是非」であるとしている。マスコミは、そのことを「偏向報道」によって隠しているという指摘がある。ある意味その通りであろう。今回の選挙に関して、争点が消費税だけ、もしくは争点がなかったとする指摘は、あまりにも政治を知らないというか、民主党の今までの実績を無視した政権報道しかしていないということに他ならない。
 私は、偏向報道をしているという認識のマスコミと、そうではなく、未熟な政治報道経験しかないマスコミの二種類による問題と考えている。では、そのようになってしまったのはなぜであろうか。

 まず、マスコミがある程度民主党寄りというよりは非自民系の報道が多いことは事実である。「ジャーナリズムは反権力である」というが、権力者が自民党であるという時代が長かったために、結局のところ民主党によってしまった報道しかできない状態になってしまっている。というよりは、ひとつは、マスコミの人々のネタ元が「反権力」の民主党の人が多かったために、結局のところ、「民主党関係者しかネタ元がいない」という基本的な情報欠乏状況になってしまっており、その情報で「マスコミとして職業としている」ために、結局のところ、民主党に偏った報道しかできなくなってしまっている。
 それだけでなく、長年、民主党寄りの政策を「正しい」として報道してきた実績があり、その報道が受け入れられてきているといされているのだ。その年月が長ければ長いほど、「民主党の政策」は無条件に正しいという「思考回路」になってしまっている。この「慣習的思考回路」が非常に厄介だ。ある意味「成功体験」とでもいおうか。それで過去に支持された「自民党批判」に支配された頭で、現在の民主党政権を批判せよという要求なのであるが、なかなかこれが難しいらしい。これは、学生運動時代から「自民党は敵だ」「アメリカは敵だ」としていた人々に、一緒に戦ってきた仲間を批判する記事を書けという方が無理なのかもしれない。本来であれば、「日本のために」運動してきたはずが、いつの間にか「国内における内戦的な発想」をしてしまい、それを報道の場を戦場として実現しているのである。これでは、とてもとても正常公正な報道を期待することはできない。本来は彼らの言っているように「権力に対する監視」を行い、そして、民主党の行うことが正しいのかどうかを考えれば済むことが、そうならない部分があるのだ。
 このような行動を起こすジャーナリストと自称する輩は少なくない。敢えて名前を挙げないが、そのようなことを言ってテレビなどで、適当なことを言っている人は少なくない。また、その「自称ジャーナリスト」の信奉者もいるので始末に負えない。そもそも、ジャーナリズムは公正公平に、偏った思考をなくして報道をするという原則を忘れた人々がテレビや新聞に出てくること自体、そしてそれが排斥されないことそのものが、日本のマスコミが未成熟であることのあらわれであると言わざるを得ない。
 今回の「消費税敗因論」は、マスコミが「消費税を上げさせない」という明確な、「独自の思想」によって今回の報道をしたと思う。そもそも、マスコミに「独自の思想」があってよいのかという議論が存在する。もちろん、新聞には「社説」のコーナーにおいては、独自の思想や独自の論評をすることは許されている。新聞やマスコミが、一つのイデオロギーなどに「偏向」することは「その偏向することを表明すること」によって許される。赤旗新聞が共産党に偏向した報道をすることで怒る人はいない。なぜならば「共産党の機関紙」であるから、読む人が皆「偏向報道」当然であるとして認識しているので、その分を割り引いて読むため、結局は「平均化した」読み物になる。これは、「機関誌だから許される」というものではなく、政治ではないが、読売新聞が野球の巨人軍に贔屓な報道をしても、読売新聞が「一般紙」であってもそれが許される。その意味では、読者の調整機能が働いて公平になるということが期待されている。
 ジャーナリズム先進国のアメリカでは、選挙前では、各報道機関が「うちの報道機関はXX党を支持します」と宣言する。このことによって、読者による調整機能を発揮させ、自由な選挙、そして民主主義を実現することを可能にしているのである。日本では「本音」と「建前」という不思議な文化があり、その中において「本音」で支持政党がありながら「建前」で「公平さを装う」ことをする。全く公平でないのにもかかわらずである。そのマスコミが、「建前」で物事を進めながら独自の明確な思想で「消費税を上げないように」という政策を打ち出し、その反対キャンペーンを行った。
 消費税で行うということは、当然に、他の政策でも行うということである。日本人が最も気にかけている「在日外国人参政権」「人権擁護法案」「夫婦別姓」という俗に言う「売国法案」でも「公平公正なジャーナリズム」を称しながら「独自の思想」で偏向報道を行うことになる。なおここで言う「偏向報道」は「賛成」「反対」双方のことを言う。私自身はこれら「売国法案」には絶対反対の立場であるが、今回は偏向報道を題材としているので、その意味では「独自の意思を表明すること自体」が「ジャーナリズムとしておかしい」という発想をしているのである。

 さて、マスコミが「独自の思想」による価値観で、報道をしていることによって、結局のところ、他の争点を主張しなかった。それだけでなく、「敗因」まで「偏向報道」したといえる。なお、これは「偽造」には当たらないのは、「消費税発言も敗因の一つ」であるために、たくさんある敗因の中の一つだけをクローズアップしたと評価されるために、完全な改竄や偽造には当たらないとされるのである。
 もうひとつは、解説と評論という報道の強い味方があり、「消費税が一因」とする解説者もしくは評論家の意見を載せれば、そのようなクローズアップがでいてしまうのである。このような形で「偏向報道」は行われる。

 政治部の最前線の記者は実は驚くほど若い。これは、各社ともに「体力的な事情」と「評論家などに反論をしない」という二つのことを守らせることによる人事であるといえる。古い事件や昔の主張を知られていると、なかなか行いずらい部分があるのだ。ちなみに「体力的事情」とは、政治部は政治的会合が終わるまでに「夜討ち・朝駆け」と言われるほど、総長と深夜に取材が集中する。何も料亭政治ばかりではなく、たとえば、先日の石川知裕逮捕の時などは各社とも3時くらいまで議員会館前で張り込みをしていたものだ。そのようなことへの体力的なものはベテランではとてもとても。私くらいの年齢でもかなり厳しい。ことに、昨年の大久保逮捕とその家宅捜索などは雪の中での取材であり、なかなか大変である。
 政治部の記者に若手が多いのはそのようなものだ。そこで、上記のような「学生運動から自民党とアメリカが敵だと思い込んでいる」評論家に対して若手の新聞記者が反論できないという状況になっている。それどころか、おかしいと思って「公平」の記事を書いても、上司、要するに評論家と同じ世代のデスクや編集長に偏向されてしまうのだ。これでは、最前線の記者が「公平」であっても「マスコミは偏向報道している」という批判になってしまう。逆に、会社の上の方で、実際に偏向報道を煽動している人々には、国民の声は届かないようになっているのだ。

 このような事情から、「菅直人新政権は消費税で負けた」という画一的な報道になる。この報道をどこか一つの新聞社もしくはテレビが行ったとする。そうすると、その内容で報道するということが「ネタ合わせ」で各社に伝達される。このネタ合わせの奇妙さは、今度ゆっくりと解説するが、要するに、媒体(新聞テレビの違い)もしくは、会社の違いを超えて、政治部だけがというつながりだけで、ネタを合わせているのである。ネタ合わせは、簡単にいえば、「独占のネタをすることによるリスクの回避」という意味合いと、「一社の抜け駆けをさせない」ことにより、政治的な秩序を保とうとしている状況である。これは「記者クラブ」などに属しているかいないかということではなく、そのような「偏向報道をしてもかまわない」という「モラルハザード」を許すマスコミの勢力で固められているといってもかまわない。まさに、新聞は独占記事によって成立し、そして、読者獲得をするという本来の姿を忘れた姿の代表と言えるのではないだろうか。
 
 このような内容そのものが、マスコミの偏向報道の元となっている。その偏向報道によって、本来であれば「民主党の参議院選挙敗北」に関して違う理由や複合的理由があったはずであるのにもかかわらず、「消費税増税」という部分だけでクローズアップさせてしまった。この報道を見て、「考えない国民」は「消費税増税」が日本国内で多数派であるというように誤解して、そのままマスコミの意見に迎合してしまう。本来はちょっとしたことである、しかし、それが大きな報道になるのだ。

 このようにして、作り出した内容そのものが、下記のような「出口調査」に現れている。数字が正確に当てられた報道機関がないのだ。これこそマスコミの真の姿の一つであるといえる。

与野党

与 党

野 党

政 党

民主

国民

自民

公明

みんな

共産

社民

たち日

改革

選挙結果

獲得議席

44

0

51

9

10

3

2

1

1

改 選

54

3

38

11

0

4

3

1

5

増 減

-10

-3

+13

-2

+10

-1

-1

0

-4

報道機関
議席予測

7
11
午後8時すぎ

テレビ朝日

47

0

50

10

9

3

1

1

0

フジテレビ

47

0

50

8

10

3

1

1

1

日本テレビ

48

0

49

8

10

3

2

0

1

TBS

48

0

48

9

9

3

2

1

1

テレビ東京

46

0

50

9

11

3

1

1

0

産経新聞

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半島有事の際の日本の対応と左翼政権<メルマガより抜粋です>

半島有事の際の日本の対応と左翼政権<メルマガより抜粋です>

 この文章は7月17日のメールマガジンの内容として記載している。
 かなり微妙な文章であるので、まずは本文中に記載美をしっかりと書かなければならないのではない。

  「半島有事」ということを敢えて記載した。
 あえて「半島」という書き方をしたのは、地政学的な内容としてこの問題をとらえようと思ったからである。
 「朝鮮有事」と言えば、実際は、「朝鮮および韓国はいまだに交戦状態である」という反論をいただくことになる。
 さる6月25日、朝鮮戦争勃発60周年という節目の日。私は選挙期間中ではあったものの、内心、かなり警戒していた。
 「何か起こるのではないか。」
 これは、朝鮮半島の人々を知っている人ならば、少しでも付き合ったことのある人ならば、皆感じる漠然とした不安なのだ。
 「半島有事」とは、まさに、6月25日に発生する可能性があるのではないかと思っていた。
 「有事」とは、まさに武力紛争のことを意味している。
 武力紛争が現在発生したら、どうなるか。そのことを選挙中に議題にした人はいない。
 街頭演説でも何でも、目の前にある国際的な危機と国家的な危機に眼を伏せて「選挙」というお祭りをしていたのだ。
 もちろん私もその一人であるが、それでも危機意識は持っていた。
 残念ながら私は立候補者ではないので、あまり自分の意見を主張するところではない。
 しかし、その漠然とした不安を「感じる能力」がなくなった日本人を「平和ボケ」という単語一つで片づけてしまうのは、いかがなものなのであろうか。

  ここで新聞記事の紹介。
 ちょうど選挙期間中であったので、あまり目立たない記事になってしまったのである。
 しかし、その内容は、非常に大きなものである。
 それだけでなく、隣国での紛争問題であり、日本の安全保障に関して非常に重大なものである。
  今回は産経新聞から。

<この続きは、メルマガでお楽しみください>

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國會新聞編集次長の未掲載記事とニュース解説
ブログ
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<mailto:CQA14363@nifty.com>

発行 宇田川敬介(國會新聞社 編集次長)

発行システム:『まぐまぐ!』 http://www.mag2.com/
配信中止はこちら http://www.mag2.com/m/0000207352.html
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小沢一郎前幹事長の検察審査会議決07年分で『不起訴不当』

 7月15日、私はちょうどチャンネル桜の討論番組の収録をしていたために、この結論が出る段階での直前直後の情報を、残念ながら持っていない。収録中に急にこの内容が発表され、その発表内容(動画で見てください)に応じて話をした。
 その話の内容があてが外れていたかどうかは別にして、どうしても、この内容は書かなければならない。小沢事件に関しては、事件と言うだけでなく、その事件の及ぼす政界や政局への影響が非常に大きいと考えられるので、われわれとしてはどうしても注目しなければならない状況のものであると認識している。
 今日は読売新聞から。

小沢氏「不起訴不当」…検察審査会、07年分で

 小沢一郎・前民主党幹事長(68)の資金管理団体「陸山会」の政治資金規正法違反事件で、東京第1検察審査会は15日、同会の2007年分の政治資金収支報告書の虚偽記入を巡り、東京地検特捜部が不起訴(嫌疑不十分)とした小沢氏について「不起訴不当」とする8日付の議決を公表した。
 議決は、小沢氏と元秘書らの上下関係を踏まえ、虚偽記入は「秘書が独断でなしうるとは考えられない」と指摘。特捜部に対し、小沢氏の再聴取を行うよう強く求めた。特捜部は再捜査をしたうえで、改めて小沢氏の刑事処分を判断することになる。
 小沢氏は4月、陸山会が小沢氏から借り入れた4億円で東京都世田谷区の土地を購入した事実を04年分の収支報告書に記載せず、05年分に虚偽記入したとの容疑に関して、東京第5検察審査会から「起訴相当」の議決を受けたが、今回の議決の対象は、07年5月に同会が4億円を小沢氏に返済した事実を同年分の報告書に記載しなかった容疑。
 議決によると、元私設秘書で同会元事務担当者・池田光智被告(32)が特捜部の調べに対し、07年分について「先生に返済した4億円は収支報告書には載せませんので」と小沢氏に報告し、「そうか、分かった」と了解を得たと供述していた。
 また、三重県の中堅ゼネコン「水谷建設」の元幹部が04年10月に陸山会側に5000万円を資金提供したとする供述について「具体的で信ぴょう性が高い」と判断。資金提供の事実は、同時期に小沢氏が、土地代金に充てるため用意した4億円の原資を隠蔽(いんぺい)する動機を裏付けるものだと指摘した。
 議決はまた、この4億円などを04年分の報告書に記載しなかったことについて元私設秘書で事務担当者だった石川知裕衆院議員(37)が「小沢先生に報告して了承を得た」と供述していたことにも言及し、「その信用性は相当高い」と述べた。
 そのうえで、特捜部による小沢氏の事情聴取について「追及不足という印象を免れない」と批判。小沢氏や石川被告の再聴取を行うよう求め、「これらの再捜査を経ない限り、不起訴を支持することは到底不可能」と結論づけた。
 04、05年分の収支報告書の虚偽記入については、特捜部が小沢氏を再度不起訴としたため、東京第5検察審査会が、第2段階の審査に入っており、起訴議決がされた場合、小沢氏は強制起訴される。
 再度の議決は、秋以降になる見通しだ。
 ◆不起訴不当=容疑者を不起訴とした検察官の判断に対し、検察審査会が「もっと捜査を尽くしてから結論を出すべきだ」と判断した場合の議決で、11人の審査員のうち6人以上の賛成が必要。8人以上が「起訴すべきだ」とする「起訴相当」議決の場合と同様、検察側は再捜査を行い、不起訴とした判断の是非を再検討する。ただ、起訴相当議決とは異なり、検察が再び不起訴とすると、検察審査会の第2段階の審査は行われず、不起訴が確定する。

(2010年7月16日03時04分  読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100715-OYT1T00684.htm

小沢氏「不起訴不当」検察審の判断部分全文

 小沢一郎・前民主党幹事長に対する東京第1検察審査会の議決要旨の判断部分全文は次の通り(敬称略)。

 【証拠関係の検討】
 (1)Aの供述について
 収支報告書への具体的な記載については、担当秘書であったC、Bらが行っており、これに関する被疑者(小沢前幹事長)の関与及び認識の有無・程度も自分には分からない旨供述しているが、陸山会の会計責任者という立場でありながら、その虚偽記載等の事実が発覚した場合に、最悪の場合、代表者の政治生命が絶たれることもあり得ることも併せ考慮すると、秘書らが勝手に処理したというようなことは考えられないことから、その点についてのAの供述は信用できない。
 (2)Cの供述について
 Cは、陸山会の04年分の収支報告書の不記載等の理由、同収支報告書の不記載等について被疑者に報告して了承を得た旨述べており、この供述の信用性は相当高いものと思われる。
 検察官は、党の代表選挙の時期が本件土地の資産計上等を1年繰り延べた理由にはならないなどとして、動機に関するCの供述の信用性に疑念を呈するが、4億円の原資を隠さなければならないと考えたCが、事実関係が表に出ることを少しでも遅くしようと考えるのは不自然ではなく、特に信用性が損なわれるとは思えない。
 また、検察官は、Cが被疑者に対し、どのような場面で了承を得たのか具体的な供述はなく、それに対する被疑者の応答も「おう、分かった」などというものであるから、被疑者がどこまでCの説明を理解していたのかも定かではないと述べて、共謀の状況に関するCの供述の信用性に疑念を呈するが、被疑者とCの上下関係を考えれば、Cとしては、被疑者が理解していることを確かめながら報告をして了承を求めるはずであり、被疑者の返答もそのことを前提にしたものと考えることができる。
 (3)Bの供述について
 Bは、本件被疑事実である07年分の収支報告書について、「先生に返済しました4億円については収支報告書には載せませんので」と報告したところ、被疑者が「そうか、分かった」と答えて了解したことを供述している。Bの立場も、前述したCの立場と全く同じであり、被疑者が理解していることを確かめながら報告をして了承を求めているはずである。
 (4)被疑者が収支報告書提出前に、C及びBから、その原案を示され、説明を受けていたという事実について
 被疑者は否定するが、C及びBは、収支報告書提出前に被疑者に原案を示して説明した旨供述している。「小沢先生の決裁を得た」という以上、被疑者がある程度は内容を理解していることが前提であると考えられるし、被疑者との間の上下関係を考えると、もし理解も得ないまま「決裁を得た」などと言えば、後日被疑者から叱責(しっせき)を受ける可能性があるので、Bらがある程度詳しく内容を説明していることが十分推認できる。
 (5)銀行からの4億円の借り入れに際し、被疑者が融資申込書や約束手形に自署している事実について
 検察官も指摘するとおり、年約450万円という金利負担を伴う経済的に合理性のないこの借り入れの目的は、Cが供述するように原資隠蔽(いんぺい)以外にあり得ないことは、通常人であれば誰しも考えることである。
 加えて、4億円もの大きな金額の借り入れに際して、手形に自ら署名していることについて、何の説明も受けることなく求められるままに書類に署名した、というのも、いかにも不自然である。検察官は、この事情が収支報告書への不記載とどこまで結びつくかについて疑義があるとしているが、今回のケースでは、被疑者が提供している資金について、その原資を隠蔽するという動機があったことは、Cの供述から明らかであり、そのような理由であえて経済的合理性を欠く行為を行っている点において、被疑者も同じ動機を共有したという根拠にはなりうる。
 (6)被疑者事務所にD社から資金提供があったという事実について
 D社関係者は、D社から被疑者事務所に資金提供をした旨供述するところ、その供述は具体的であり、その本人のみしか知り得ない事情も含まれていて、その信ぴょう性はかなり高いものであると言える。
 この資金提供の事実の存否は、一見すると本件の虚偽記載等とは直接結びつくものではないが、4億円の原資を隠蔽する必要性があったことの根拠に十分なりうるものであり、被疑者がCらとの間で動機を共有していることの裏付けになる事情である。
 (7)07年2月の記者会見等について
 被疑者は、07年2月20日、本件土地購入に関し記者会見を開いて釈明したこと、また、同年5月に自ら現金で4億円の返済を受けていることが認められる。
 被疑者が4億円という大金を直接受領しておきながら、その処理手続き等に何らの関心も持たないということは通常は考えられないことである。被疑者が現金4億円の返済を受けたという07年5月といえば、「事務所費」についてマスコミが取り上げて、釈明の記者会見が行われたり、週刊誌の取材があった時期のすぐ後である。このようなタイミングで、問題となった「事務所費」とほぼ近い4億円の現金の処理について、被疑者が無関心でいられるとは考えられない。
 これらの事情は、被疑者が政治資金収支報告書の記載内容について重大な関心を抱かざるをえないことを示しており、その後に作成提出された07年分の収支報告書については、「秘書に任せていた」というそれまでの弁解が一層不自然なものとなることは明らかである。

 【結論】
 (1)以上のとおり、検察官が嫌疑不十分の理由としてあげる事項については、被疑者との上下関係からみて秘書が独断でなしうるとは考えられない事柄であったり、被疑者の置かれた客観的状況と整合しない無関心を示す事柄であると言わざるをえない。このまま不問に付してしまえば、「秘書に任せていた」と言えば済んでしまうのか、という不満が残り、司法手続きに対する信頼を損なうことにもなりかねない。
 (2)当検察審査会としては、検察官の本件不起訴処分は、上記のような見地から再検討されるべきであると考える。その際、特に次の各点について再捜査を求める。
 ア 本件の動機に重大なかかわりがあると思われるD社からの資金提供について、これを否認するCに対する取り調べを含む、更なる追及をすること。
 イ A、C、B、そして被疑者について、自分の行動を記録しているはずの手帳やメモ等の提出を求めて、それに基づいて事実関係の裏付けをとること。
 ウ 被疑者に対する取り調べは、回数もわずか3回であり、調書の内容も「秘書がそんなことを言っているとは信じられない」で終始している感があるなど、追及不足という印象を免れないので、改めて、詳細な取り調べを行うこと。
 (3)これらの再検討、再捜査を経ない限り、検察官の不起訴処分を支持することは到底不可能であり、本件不起訴を不当と考える次第である。

 【最後に】
 当検察審査会が、本件一連の審査を行ってつくづく感じたことは、政治資金規正法は政治家にとって都合のよい、いわゆる抜け道が多くあるということであった。同法第1条に規定される目的によれば、同法は、「政治活動が国民の不断の監視と批判の下に行われる」ために、係る政治資金の収支の公開等の規正等の措置を講じて、政治活動の公明と公正を確保し、民主政治の健全な発達に寄与することにあるとされているが、それには、政治家自身が、「公開された内容を知らなかった」などと言って責任を免れることを許さない制度を構築すべきである。それを達成するために、例えば、収支報告書を提出する際、宣誓書には、代表者の署名・押印を必要的記載事項とするなどの規定に改正できないかということである。そうすれば、本件のような会計責任者、同補助者と代表者との共謀の有無について問題となるような事案は少なくなるはずである。
 本件の再検討・再捜査が行われて公開の場で事実関係が論じられること自体が、同法をより実効的なものに発展させていく一助になると確信する。
     ◇
 議決中のAは小沢氏の元公設第1秘書で陸山会元会計責任者・大久保隆規被告、Bは同会元事務担当者の池田光智被告、Cは同会元事務担当者で衆院議員の石川知裕被告、D社は水谷建設

(2010年7月15日21時23分  読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100715-OYT1T00931.htm

 長文の二つの記事が書かれているので、今日は読むのが大変かもしれない。本文を少し短めにして、次回また長く話をしたい。
 今回は事件のことのみ。今回の検察審査会は政治資金収支報告書に「虚偽の記載をした」という内容を審査したもので、この審査会の結論が1回目の結論である。前回検察審査会で「起訴相当」とされた事件とは異なる。よって、これが「不起訴不当」とされたことによって、小沢がこの事件から逃げ切ったというものではない。
 この議決の意味合いは「不起訴不当」要するに「検察における調査不足」ということになる。これにより東京地検特捜部は、より一層調査を行わなければならない。ことに、検察審査会の結論の(1)に記載されているとおりに「検察官が嫌疑不十分の理由としてあげる事項については、被疑者との上下関係からみて秘書が独断でなしうるとは考えられない事柄であったり、被疑者の置かれた客観的状況と整合しない無関心を示す事柄であると言わざるをえない。このまま不問に付してしまえば、「秘書に任せていた」と言えば済んでしまうのか、という不満が残り、司法手続きに対する信頼を損なうことにもなりかねない。」という結論は、鳩山脱税事件などに関しても同じことが言え、今後の政治家の政治資金問題や疑獄事件に関して、「秘書に任せていた」という発言による事件の解決を封じる一つの大きな問題となるであろう。その意味では、今後の政治家とカネの問題や政治家の事件と秘書の関係を規定する問題提起になっているし、政治資金規正法の改正などにつながる大きな提言となったことは事実である。
 「最後に」とされた「付記」の中で「政治資金規正法は政治家にとって都合のよい、いわゆる抜け道が多くあるということであった。」というように法律による不備をしっかりと記載し、同時に「本件の再検討・再捜査が行われて公開の場で事実関係が論じられること自体が、同法をより実効的なものに発展させていく一助になると確信する。」というように、暗に小沢一郎に対する国会での証人喚問や記者会見など公開の場での釈明を進める文言を出すなど、法的強制力はないものの、与党の今後の行動や国会運営にも大きな影響を及ぼす内容を出しているのだ。
 一つの事件から、法律の不備、国会の運営や被疑者(対象者)の説明義務にまで言及するというのは、不起訴不当という結論でありながら、なかなか前例を見ない評価できる内容である。

 この議決によって、強制起訴は存在しない。東京地検特捜部の再捜査の結果、不起訴となればそれで終了する。しかし、一般人の感情はこれによって張れるわけではない。この内容は、上記のように一般人の民主党に対する監視の目が強くなると同時に、東京地検の検察の内容や捜査に対する「不公平感」や「不十分」に関して、同時に検察不信も出されたことになるのだ。今回の事件に関しては、検察による起訴不起訴の判断に対して、その判断が絶対なものではないし、国民の納得のいくものではないということを、暗に示した感じだ。ことに、「検察に対する介入があった」などの疑惑が挙げられていることなどもあり、政府と政府関係者の検察に対する捜査が、捜査の独立性を担保していないことを国民が感じているという一つの指針になるのではないかと考えられるのである。
 検察不信に関して、検察はどのような態度をとるのか。証拠がなく、公判を維持できない状態での起訴は存在しないとも考えられるが、一方で、これで捜査も何もしないで再度不起訴という処分を行うとも考えられない。そうなれば、検察の信用が欠けることになる。検察は威信をかけて再捜査をしなければならないのではないだろうか。

 この件に関しては、とてもとても話足りない。この件の与える、政治的な影響などまで、少し言及したいがすでに記事抜粋部分を入れて、原稿用紙で20枚を超えている。そこで、今回は、ここまでの指摘にしながら、今後この事件における政局の話をしたいと思う。

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参議院選挙結果批評(4)~ねじれ国会と市場の信用~

参議院選挙結果批評(4)~ねじれ国会と市場の信用~

 参議院選挙結果の批評を今週はしてきた。一応政治の世界では「選挙」は大きなイベントであり、その結果によって、ここから先数年が決められる。その数年の活動によっては、今後数百年の日本の運命が決まる。国を発展させるのも、国を滅ぼすのも1回の選挙の結果によって左右されるのだ。これは決して大げさな表現ではない。日本ではまずないが、その国会で宣戦布告の決議などをすれば、どうなるか。条約の批准、法律の制定、国権の最高機関の代議員を決める選挙が、政治の世界で大きなイベントでないはずがない。
 選挙結果は、当然に政治の世界だけではなく、社会全体に影響を及ぼすことになる。その社会全体の影響は、直接的ではなくても、有形無形に影響が出てくるのが常である。
 政治の政界で「経済政策」ということを言う。私はこのブログで何度も言っているが、実際「経済政策」と言っても、日本は自由主義経済なのであるから、政府が政府の事業以外の分野で直接的に経済行為をすることは少ない。例外的に市場介入などがあるが、それ以外は公共事業以外にはないといっても過言ではない。バラマキ政策は「経済政策」と言えるのかどうかは、はなはだ疑問なのだ。
 そんな中で、今回の選挙と経済に関する新聞記事が出ていたので、それを今回は取り上げてみたい。

菅政権は「お子ちゃま政権!」市場から噴出する不信の声

 参院選で敗北した民主党に、市場から厳しい目が向けられている。選挙で落選した千葉景子法相(62)を続投させることには、「まさに、お子ちゃま政権。市場の信頼をさらに失うだろう」(証券ストラテジスト)との声も。市場では日本売りが進んだ。迷走の度合いを深める菅政権が、経済成長と財政再建の実現という国際公約を果たせるのか、市場は疑心暗鬼になり始めている。

■市場の目
 参院選から一夜明けた12日。東京外国為替市場では円売りが進み、一時約2週間ぶりの円安ドル高水準となる1ドル=89円15銭を付けた。
 東京株式市場でも政局の不透明感から、日経平均株価が前日比37円安の9548円と3営業日ぶりに小幅反落。投資情報提供会社TIWの西村尚純エクイティリサーチ部長はこう指摘する。
 「海外でも与党が選挙で大敗すれば、株価は大暴落するのが常。ところが、今回はほとんど動かなかった。市場や経済界はすでに、民主党の経済政策運営に期待していないことの表れです」
 市場の信頼を失いつつある菅政権は驚いたことに、国民が“ダメ出し”して落選した千葉法相を9月の民主党代表選まで民間人の大臣として続投させる方向だ。
 「まさに、お子ちゃま政権。市場の信頼をさらに失うだろう」(証券ストラテジスト)との声も出ている。

■財政再建
 菅直人首相(63)が国際会議の場で約束し“国際公約”にもなっている財政再建。そのカギを握っているのが消費税増税だったが、参院選での大敗を受けて、議論をしにくい環境ができ上がってしまった。
 消費税率10%を掲げた自民党が今回の選挙で議席を増やしているため、「国民は増税を拒否しているわけではない」(河野龍太郎BNPパリバ証券チーフエコノミスト)とみられる。
 民主党の敗北については、「増税が原因ではなく、与党としてこの1年間、発言が軽すぎたり、ブレまくっていたから、国民が厳しい審判を下した」(斎藤太郎ニッセイ基礎研究所主任研究員)との見方もある。
 いずれにしろ、消費税論議がやりにくくなったことには変わりはなく、「消費税論議はいったん白紙に戻され、議論再開のタイミングを探るのは厳しい状況」(同)となりそうだ。

■景気下支え
 財政再建とともに国際公約になっているのが、経済成長の実現だ。ここでも菅政権は難しいカジ取りを迫られる。
 夏以降、2011年度予算編成に向けた動きがスタートするが、今年度予算で民主党連立政権は子ども手当などを盛り込んだことによって、一般会計の総額は92兆円と過去最大規模に拡大。税収が期待できないなか、新規国債発行額は過去最大の44兆円に達した。
 「財政再建を進めようとすれば、歳出を縮小せざるを得ない。一方で、膨大な需給ギャップ(需要と供給の差)を埋めてデフレ不況から脱却し、経済成長を目指すには財政支出が必要になる。両者のバランスをどうとっていくかが重要だが、菅政権からは青写真が見えてこない」(生保系エコノミスト)
 野党時代の民主党には経済通のイメージがあった。が、実際の経済・財政運営は机上の論理とは違ったのか、与党になった途端、その面影はナリを潜めている。

http://news.nifty.com/cs/headline/detail/fuji-zak20100713005/1.htm
2010年7月13日(火)17時0分配信 夕刊フジ

 菅直人首相は、「前財務大臣」である。現在ののだ財務大臣の前任者である。菅内閣になって後、国会の論戦も「経済政策」も何もしていないので、現在ののだ財務大臣は意外と影が薄い印象がある。その前任の菅直人首相は、「乗数効果」などの経済用語も、また用語だけでなくその内容もよくわからない状況になっており、そのことを指摘されたのちに、官僚一辺倒になっているという評判が出てきていることは、周知のことである。
 その「前財務大臣」の内閣であっても、逆に「日本史上初の財務知識のない財務大臣」であったがために、現在の政府に対して、経済界もしくは市場からは全く期待されていないのが見受けられる。
 上記夕刊フジの記事の信憑性はともかく、菅内閣が経済政策として何をしたいのかが全く分からない。「財政規律」と「景気対策」を双方行う「第三の道」ということを主張し、また、国際会議の場で表明した内容であったが、その「第三の道」の具体的な道筋が出てこないのだ。これでは市場は何もしてくれない。経済行為は、先ほどからいっているように「自由主義経済」なのである。それは当然に、「自己責任」がついて回る。政府がいくら「第三の道」と言ってみたところで、その具体的な方策や、施策を自己経費を投じて実験するような企業はないのだ。事業家は、学者や評論家と違い、自己責任で自分の会社やその従業員、取引先に責任を取らなければならない立場にある。当然に具体策も何もなく、補助も出るかどうかわからないそんな内容の「机上の空論」に振り回されたとなれば、経営責任は「机上の空論に振り回された経営者がバカだ」ということになる。
 具体策のない経済政策は「ないのと同じ」だ。結局は、選挙で公約しようが何をしようが、何の役にも立たない。また、そうなることは、選挙日前の「国際会議」の時期からわかっていた。もっといえば、菅直人が首相になった時期からわかっていたといっても過言ではない。経済活動はすぐに数字が出てしまう。「海外でも与党が選挙で大敗すれば、株価は大暴落するのが常。ところが、今回はほとんど動かなかった。市場や経済界はすでに、民主党の経済政策運営に期待していないことの表れです」というエコノミストのコメントは、まさに現在の民主党敗北も、民主党の経済政策が机上の空論でしかないことも、そして、日本の景気が良くならないという事実も、全て「織り込み済み」ということである。
 簡単な経済の復習をしよう。円高ということは、縁の価値が高いということを意味する。逆にいえば、輸入には適していても輸出には適さない。一つのものを買う(輸入する)のに安く買うことができるが、売るとき(輸出するとき)には、高く売らなければならない。それだけ、日本の商品の輸出が競争力がなくなるということを意味する。一方で、株価は「日経平均が下がる」ということは、日本の企業が将来収益を上げられないと判断されているということになる。これは投資家の判断だ。投資家とは、日本の機関投資家も、個人投資家もいるが、海外の投資家も含む。結局のところ、日本の輸出企業は円高と株価下落で苦しめられることになる。その中で「輸入だけは行いやすい」為替環境が出てきてしまっている。個人へのバラマキで内需は期待できるが、輸出関連を含む企業はあまりあてにはならない。それだけでなく、その状況では、内需も先細りになるので、結局は、日本の企業そのものが全て信用できない(投資に適していない)と判断されているという解釈が可能なのである。
 多少語弊があったり、誤解を生む部分もあるかもしれないが、為替と株価の話を簡単にまとめればこうなる。
 この状況を作り出したのが民主党の10か月の経済政策の結果であるといえる。民主党の経済政策の結果は、そのまま、市場を直撃し、為替に影響を与え、そして、その現象を通してわれわれの生活に非常に大きな影響を与える。企業の元気がなくなれば、当然に整理解雇(俗に言うリストラ)をせざるを得なくなる。リストラと言えばと全員「雇用」が少なくなるということを意味する。また、企業が元気がなくなり、被雇用者が少なくなる(労働人口が少なくなる)ということは、生活保護などで国家の支出が多くなるのにかかわらず、収入は減る(単純に景気が悪ければ、法人税収入は減るし、雇用が少なくなれば源泉徴収税が減る)のだ。その収入の減少は、そのまま政府の財政を直撃する。その財政直撃に対して、「直接税の歳入が減る」ということで、逆に「間接税を増税する」という案が出てくることになる。“国際公約”にもなっている財政再建と、そのカギを握っているのが消費税増税がセットになる。しかし、その道もほとんど閉ざされた形になる。財政再建ができなければ、補助金や市場介入ができないということになり、経済政策の財源が少なくなるということを意味する。消費税が増税されるということは、当然に、市場で流通する金銭が少なくなることを意味する(消費税分がもったいないから)。それでは、市場規模が縮小しますます景気が悪くなる。何よりも、取引が減るということは、為替で「内需が良くなることに適した」と言っていた、その内需が冷え込むことになるのだ。
 内需主導型の景気対策に関しては岡田克也外務大臣や藤井裕久元財務大臣が協力に推進してきた内容である。しかし、消費税増税と、それに伴う他の方策のない経済政策。そして、第三の道と言った具体性のない机上の空論で、内需その物も破壊されそうな勢いなのだ。
 「財政再建を進めようとすれば、歳出を縮小せざるを得ない。一方で、膨大な需給ギャップ(需要と供給の差)を埋めてデフレ不況から脱却し、経済成長を目指すには財政支出が必要になる。両者のバランスをどうとっていくかが重要だが、菅政権からは青写真が見えてこない」というコメントは、まさにその内容を得ているといわざるを得ないのではないか。
 景気を良くするということ、または、財政を健全化させるということは、与野党関わらず反対する人は少ない。しかし、その具体策がなかったり、バランス感覚が崩れていれば、一斉に反対する。それは経済に関しては生活に直結するから。当然に自分に投票した有権者の生活に直結するからである。そのことに関して、「バランス」を持った議論をしなければならない。それにもかかわらず、菅直人首相はいまだに民主党内の混乱とねじれ国会での話ばかりで、具体的な政策を示さない状況なのである。
 政策本位ということも何もなく、単に選挙対策だけの政党、または数合わせの烏合の衆という批判が、このような日本の危機的な状況、経済で言えばわれわれの生活に直結した問題が発生した時に、発生するのである。昨年の総選挙で民主党に軽い気持ちで投票した人は、このようになることを予想して民主党を選んだのであろうか。そうでないならば、主権者である国民は、「他人事」「永田町という遠い世界の出来事」と思わずに、自分の生活に直結する重大な問題として、菅直人政権を、そして今後の政策について、しっかりと関心を持って見てもらいたい。

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参議院選挙結果批評(3)~民主党は解党せよ~

参議院選挙結果批評(3)~民主党は解党せよ~

 昨日は野党の観点から、選挙結果に関して評論を行ってきた。
 今日は、与党の観点から見てみよう。
 まず、新聞記事から。

 内閣支持急落38%、不支持52%…読売調査

 不支持率は52%(前回39%)に達し、支持率を上回った。支持率は内閣発足直後(6月8~9日実施の調査)の64%から、1か月余りで26ポイントも低下し、参院選での「民主大敗」を受けた菅首相の政権運営は厳しさを増しそうだ。
 2000年以降の内閣支持率をみると、これまで発足後の調査から約1か月の下落幅が最も大きかったのは森内閣の14ポイントだったが、菅内閣の落差はこれを大きく超えた。発足約1か月で、不支持率が支持率を逆転し、50%を上回ったのも森内閣以来だ。
 政党支持率は、民主は28%(前回34%)に下がり、自民は24%(同18%)に上がった。みんなの党は12%(同5%)で初めて10%を超えた。支持政党のない無党派は23%(同33%)となった。
 参院選の結果、民主と国民新の与党が、過半数の議席を維持できなかったことを「良かった」と思う人は54%で、「良くなかった」29%を大きく上回った。
 民主が議席を大きく減らした理由を聞いたところ、「菅首相の消費税発言への批判」37%がトップで、「民主党の公約への不満」31%、「民主党政権の実績への不満」20%などが続いた。自民の議席増の理由では、「民主党政権への批判」が71%を占めた。みんなの党の躍進については、「民主党と自民党への不満」45%が最も多かった。
 民主の小沢一郎前幹事長が消費税率引き上げなどで、党執行部批判を続けたことを「問題だ」と思う人は64%に上った。
 菅首相の続投には「賛成」が62%、「反対」は28%だった。ただ、首相が政策ごとに野党との連携を模索する考えを示していることに関しては、「実現できる」は26%にとどまり、「実現できない」が62%に達した。民主が連立政権を組む最も望ましい政党については、みんなの党35%が最も多く、自民14%、公明7%、国民新7%などだった。
 菅内閣に優先的に取り組んでほしい課題は、「景気や雇用」32%、「年金など社会保障」26%、「消費税など財政再建」15%などの順。財政再建や社会保障制度を維持するために、消費税率引き上げが「必要だ」と思う人は64%(前回65%)、「そうは思わない」は32%(同30%)だった。 最終更新:7月13日22時39分

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100713-00000900-yom-pol
7月13日22時39分配信 読売新聞

 内閣支持率の下落具合は、あまりにも急激すぎる。それだけ「期待」と「現実」が異なるというものである。この選挙後の調査の結果は、あまりにも衝撃的だ。私は今回議席数の予想を外した(予想はラジオ日本のラジオ時事討論の中で行いました)が、上記の支持率の数字を見ていればもう少し正解に近い数字が出ていたのではないかと思う。それほどの衝撃だ。選挙という一つのイベントをして、支持率が下がるというのは、さすがに大きな問題だ。それが選挙特番などで菅直人首相をこきおろしたとしても、あまりにも低くなりすぎであろう。実際、比例で民主党は1800万票に対し自民党は1400万票である。比例代表ということを考えれば民主党は、自民党を超えている。しかし、非礼を含め「非民主」「非与党」が多いということは、やはり与党としての政権運営に期待を持てなかった人が多かったということではないのか。この下落は、かなり深刻な問題だ。
 選挙後に、落選した千葉法務大臣を9月の民主党代表選まで続投させるという。民主党内の事情で、今内閣改造を行ったり、または、反執行部勢力の発言を封じなければならないという事情は、理解できないでもない。しかし、逆方向からこの現象を見れば、「民主党という一政党内の事情で、政府(閣僚人事)を私物化した」ということに他ならない。それでは、「政府の私物化」「行政の私物化」といっても過言ではないのだ。そのような対応が、全て「民主党批判」「菅政権批判」につながっていったというようにしか考えられないのである。また、今の政権執行部は、9月までの「暫定的な民主党執行部」でしかないということになる。永田町では、民主党が「連立の話し合い」を申し込んでも、公明党もみんなの党も「暫定政府と話しても何も決められない」と、話し合いその物を拒否する状況になっているのである。これでは、7月30日から開かれる特別国会も何も、国会運営ができるはずがない。代表選を前倒しするなど、何か考えればよいが、それもしない。選挙の総括も行わない。総括を行う前に、「執行部をそのまま」と結論を決めているのであるから、総括をしても責任の取り方が分からないという批判が出ても仕方がないのだ。
 このような態度には民主党の内部からも批判が出ている。とくに「脱小沢」とされた小沢一郎とその周辺議員からは公然と執行部批判が出てくるようになった。今までの鳩山首相・小沢幹事長という執行部体制ではなかった話である。それだけ、民主党の内部の結束に亀裂が入っていることになる。民主党は綱領のない政党だ。一度亀裂が入れば、「共通の利益」「共通の敵」がいない限りは、連合体を継続するのも難しい。ましてや「民主党にくみしていても政策が通ることはない」となれば、民主党に所属している必要がない。このようなときは「綱領がない」ことがかえってマイナスに作用するのだ。
 さて、国会運営としては、部分連合など様々なことを言っている、しかし、法案同士が相反する場合、二つの政党と部分連合ができないことになる。部分連合を行うということは、一つ一つの法案が関連がないときにのみ成立するものである。もっといえば、そのようにしても最終の予算案では部分連合で通ることはないのだ。
 こうなっては、結局国会運営が長期にわたればできなくなってくる。そうすれば、結局もう一度民意を問わなければならない。解散総選挙だ。しかし、次の解散総選挙で、民主党を中心の与党で勝利したとしても、再議決ができる3分の2以上の議席を取らなければ、今回と同じ結果だ。結局は政界再編しかない。

 そこで、提言だ。「民主党は解党せよ」である。

 結局、それ以外というよりは、今回のねじれに関しては、手の打ちようがないのではないか。民主党は、政権運営を行うことも国会運営することもできない。また、それを行うためには、「部分連合」をする相手の政策を丸のみしなければならないということになる。その時点で民主党は「政権にとどまっている」という意味以外、要するに「利権の獲得と権力」以外に、政策的な価値のない政権与党になってしまうのだ。逆に、部分連立相手を説得するということもできるのかもしれない。しかし、それでは連立相手が次の選挙で埋没してしまうし、また、綱領がないのであるから、説得するための根本がなくなってしまっているということになるのだ。
 これでは、結局民主党そのものが何もできないということになるのだ。政策実行力のない政権与党では何の意味もない。マニフェスト選挙をしても、そのマニフェストを守ることができない。マニフェストができないというのは、当然に政権にありながら政権公約を実行できないということであるから、有権者に対する責任問題になる。今からマニフェスト不実行のはなしをするのはいかがと思うが、現実の問題としてすぐにそれが出てしまうのだ。政権公約ができないだけでなく、政党間の約束もできないことになる。有名な例をあげれば、「郵政民営化凍結法案」を秋の臨時国会で行うということを民主党と国民新党は約束していたのであるが、それも実現できないのではないか。そのことを見越して、国民新党は、民主党との統一会派を離脱し、社民党との統一会派を申し入れた。社民党は野党であるから、国民新党が連立から離脱する日も近いということではないのか。
 このような状況になり、斜陽になっている民主党を立て直すのは難しい。自民党のように長期間政権党をになっていたわけではないので、それなりのノウハウも人脈も存在しない。そのことは、このようなねじれ国会のような安定していない政府の運営ノウハウの欠如を意味しているのだ。これでは、意味がない。
 この状況の打開は「民主党の解党」と「政界再編」しかないといえる。政界再編時に「政党綱領」「基本理念」で再編を行うしかないのだ。今の民主党のように批判政党ではなく、政権政党としての再編を行わなければならない。
 私は個人的には「三大政党と小政党」というのが日本における理想と思っている。日本人はやはり選択の多様性を担保したい。白黒だけでなく灰色を持っておきたい。日本人にとっては「三党鼎立」というのが最理想ではないか。今の9政党はさすがに多すぎる。その再編を民主党がというよりは与党が自ら回答することによって実現してはいかがであろうか。そうでなければ、苦難の国会運営を強いられ、そして国政の停滞を生むことになってしまうのではないだろうか。
 今、日本において、国政の停滞がもっともよくないことだ。その内容を、いかに避けるか。与党という権力にしがみつくのではなく、直近の民意を汲んで、自ら行ったらどうか。安倍内閣の時の三年前のねじれとは事情が異なることをよく考えての英断を望むものである。

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参議院選挙結果批評(2)~この後の野党の流れ~

参議院選挙結果批評(2)~この後の野党の流れ~

 野党といって、なかなか自民党に結びつく人は少ない。それだけ55年体制以降の自民党政権が長かったということである。慣れ親しんだ権威に対する反感というものは、逆に新しい流れに対する反潮流となって出てくる可能性が存在するのだ。寛政の改革における松平定信の改革もまさにその物であった。もともと田沼意次の政治に嫌気がさし、また側用人であったという身分の問題もあって、田沼を失脚させ、寛政の改革を断行した。しかし、その内容というのは「白河の清き流れに耐えきれず元の田沼の濁り恋しき」という狂歌が街中で言われるものである。
 今回の民主党政権の場合、「松平定信」ほど清き流れではない。残念ながら「元の田沼」以上に濁りきっていたといえるのではないか。どちらかというと、郊外でヘドロが堆積した湖の中に入ってしまったかのようなもので、「清くしろ」と他人に共生しながら自分たちは「濁りの中から球に首を出す程度」という流れになっている。それでも支持者が絶えないのは、その「濁り」の恩恵を受けている人がどれほど多くいることか、そしてその濁りは自民党の時のそれ以上に濃くて深いということであろう。 
 その自民党、今回は躍進したといえる。この躍進の状況はだれもが自民党の復活を期待したに違いない。しかし、私はあえて、自民党の復活というだけでない何かがあると考える。自民党は、逆に今こそ改革、そして生まれ変わるチャンスではないのか。
 そもそも、今回の参議院選挙の敬意は、昨日に見たとおりである。その内容は「自民党が勝った」のではなく「民主党が勝手にこけた」という話でしかない。自民党が国民の支持を受けて、そのうえで支持を取り付け国民の期待値が大きくなったのであれば、「みんなの党の躍進」も「菅直人のV字回復」も存在しないはずなのだ。自民党は勝った。「負けに不思議の負けなし」はあっても「勝ちに不思議の価値なし」という標語はない。相手が勝手に負ければ、勝ってしまうのだ。
 その自民党が「ねじれ国会」の主役になったのだ。この自民党が「ねじれ国会」をどのように演出するかで、今後の日本と国会、そして自民党の運命が変わるといっても過言ではないのかもしれない。

 さて、この結果を見て、自民党は野党の盟主としながら「批判だけでない野党」「建設的な野党」として、今後どのような対応をするのかということを考えなければならない。このままでは「野党の盟主」をみんなの党に取られてしまう不安さえ感じるのだ。そのためには、自民党の「政策」を決め、その政策をしっかりと自民党の中で、出さなければならないのではないか。私の個人的な意見では「綱領」につながる基本政策を決め、その基本政策に照らし合わせて個別の法案や政策を判断するという機能が必要なのではないか。選挙のため、後援会組織のためというのではなく、日本のために、必要な基本政策を行うべきではないのか。俗に言われる「亡国法案」などは、日本のためにどう考えるのかをしっかりと示してもらわなければならないし、また、その内容に関して安易な妥協をしないでもらいたいと思う。
 一方、躍進したみんなの党はどうであろうか。みんなの党に関しては「公務員改革」ということに関しては、「小さな政府」という構造改革をおこなう内容になっているのだ。この内容は、小泉内閣の路線と同じであり、その内容を基本方針として物事を決めている。原理原則が分かりやすく示されているので、国民からすると、非常にわかりやすい状況になっているのだ。
 日本国民にとっては、わかりやすい、ということが不信感に対する最も対極にあるものであり、政策やイデオロギー的な内容のものとは異なる。わかりやすいということは、その政党が何をするのか、見えるということだ。そのことは、国民の目から見て「何をするかわかりやすい」という「安心感」につながるものだ。日本人にとって「ブレる」というのは、その政党が何をするのかわからないということにつながる。それは先ほどの「わかりやすい」の対極にある話だ。不信感は分からないことによって生まれる。以前は「密室政治」という内容が不信感の元であるが、今は「ブレる」「わかりにくい」ということが不信感の原因となるもののようだ。
 不信感がある政党は、残念ながら国民に支持されない。ようするに「わかりにくい政党」「わかりにくい立候補者」は反感を買うということだ。
 
 さて、野党は、各々政権公約を掲げてた戦ってきた。いずれも似ている項目、似ていない項目様々ある。しかし、いずれも与党と公約が違うということは同じである。どの政党も「民主党政権」に反対した政党であり、その政策に対して国民の支持を取り付けたのであるから、少なくとも今のままの民主党の政策に対して、連立を組むなど政策連合をすることのないようにしなければならないだろう。野党各党は、「批判して、与党、政府の施政方針をただし、国民に政府の行うことや立法・予算の審議やその過程を示さなければならないであろう。そのためには、ねじれ国会であり、ろくに審議もしない民主党の国会運営のNOを突きつけ、そして、国会において、その審議を行うことによって、「わかりやすい」審議をすることを心がけなければならない。そのためには、政策議論ができるだけの、政策やその政策だけでなく一つの政策の周辺の内容まですべて含め、その環境を考えながら、しっかりとした審議をしてもらいたいのだ。

 さて、野党が勝った、というよりは与党が負けて野党が過半数を獲ったねじれ国会になった。これは、ある意味で、国会の審議を本格的にする大きなチャンスである。そして、その政策が通らなくなるという状況になれば、新たな政界再編の大きなチャンスになるであろう。
 政界再編が良いのか、という問いに関しては、私は必ずしも良いとは思わないと答える。問題は、国民の意見をしっかりと受け止められる政界再編でなければならない。そもそも、小選挙区制でよいのか、選挙制度は比例でよいのかなど、その選挙戦に関しても考えなければならないし、参議院のあり方も考えなければならない。衆議院と参議院でねじれているということは、衆議院を支持している国民と参議院で意見を通すことのできる有権者の塊が異なるということである。この内容は、別な意味で言えば、「最も広い意見の集団が国会に集まっている」ということができる。ねじれは政権与党にとっては、非常に厄介であるし、前回の安倍・福田内閣の時の民主党のように「反対しなくてもよいことの反対」「政局のための反対」では意味がない。しかし、多くの有権者の意見を反映できるシステムであれば、それは歓迎すべきことなのかもしれない。政策協議としては、非常に大きな意義がある。
 そのように政策協議や与野党の対話、審議をしっかりする国会運営を行えば、その後に政界再編を行っても、その内容を考えられるのではないか。
 野党、特にみんなの党にとっては、ここで、安易に民主党と連立をしては、現在の国民新党と同じ、大政党に巻き込まれて消滅してゆく小政党になるのではないだろうか。そのようにならないためにするには、やはり衆議院も含めた政界再編を求めてゆかなければならないのではないだろうか。そうでなければ、単なる批判の第三局で終わってしまう。
 保あの小政党に関しても同じだ。今回1議席しか取れなかった立ち上がれ日本、新党改革、および議席がなかった他の政党に関しても、政界再編の一つのきっかけとして、大きな声で正論(各政党にとっての正論)を発言してもらいたいのである。

 野党の立場から見れば、単純に、参議院与党になった。しかし、その「参議院与党」は「連立与党」ではなく「与党批判の緩やかな同盟」でしかない。これを、しっかりとした政策集団ごとに「大同団結」してゆきながら、政界再編を目指して烏合の衆を脱してほしいものである。

 野党の流れに関しては、
・ 単なる批判に徹さない
・ 各党(共産党も社民党も含め)自党の基本理念を踏まえたうえでの政策判断を行う
・ 国会審議を軽視しない(密室での協議をできる限り避ける)
・ 国民に分かりやすく不信感を与えない政治を行う
・ 政界再編を目指す(とくに小政党)
というところが、その内容になるのではないだろうか。民主党の亡国法案なども「わかりやすく説明」して、国民が危機感を感じないはずがないのだ。その、与党・政府民主党の行うことを監視してもらいたい。国民にその実態を明らかにしてもらいたいのだ。
 野党の役目は、そのことではないのであろうか。
 野党の観点から参議院選挙の結果をみる批評が少ないので、なかなか要領がつかめなかった。そのために、まとめを書いてみたが、これからも折に触れて、このような書き方に挑戦してみたいと思う。

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参議院選挙結果批評(1)~与党惨敗の理由~

参議院選挙結果批評(1)~与党惨敗の理由~

 7月11日投開票行われた参議院選挙が行われた。改選121議席。選挙の結果は下記のとおりとなった。

党派 獲得議席合計 
全議席 改選 (女性)
民 主 106 44 6
自 民 84 51 8
公 明 19 9 1
共 産 6 3 1
国民新 3 - -
改 革 2 1 -
社 民 4 2 1
たち日 3 1 -
みんな 11 10 -
諸 派 1 - -
無所属 3 - -
欠 員 - - -
合 計 242 121 17

 見ての通り、民主44(改選前54)自民51(改選前38)ということで、民主党の「惨敗」という結果になった。与党の一角を占める国民新党に至っては、1議席も獲得できないという「非常事態」になった。これにより国民新党は、参議院で3議席しかなくなり、埋没しつつある綴になってきた。
 今回は、この結果を受けて、参議院選挙における批評を何回かに分けてしてみたいと思う。まずは「与党敗北」の理由である。
 
 今回の選挙において「野党勝利」なのか「与党敗北」なのかという選択になれば、どちらかと言えば「与党敗北」と言わざるを得ない。というよりも、私の解釈では、以前にも書いたが「風」のなくなった無風選挙での民主党の状況とはこのようなものなのかもしれないと思う。「風」なし「小沢」なしでは、こんなものか。というものも感じられる。しかし、6月8日まで小沢が仮にも選挙対策を万全にしてきた内容である。たった1ヶ月でこうも変わってしまうものかという感じもしないでもない。
 だいたいその辺りからかなり簡単に振り返ってみよう。すでに何度も繰り返していることなので、かなり簡単でも問題はないのかもしれない。
 そもそも、5月末、普天間移設問題で「少なくとも県外」と言っていたにもかかわらず鳩山首相は、自民党案通りに「辺野古キャンプシュワブ周辺」への普天間基地移転を決定した。実際は決定していないのかもしれないが、これでアメリカと合意したということはほとんど決定と同じと言っても過言ではない。これにより、鳩山政権における公約の違反は明らかになた。それだけでなく、三党連立の一角、社会民主党の連立離脱ということが発生したのである。鳩山首相は、しばらくはそのまま政権を担うかのように見えたが、6月2日、小沢幹事長とともに辞任をしてしまうのだ。会期末を6月16日に控えてその2週間前に内閣総理大臣が辞職するという、前代未聞なことが発生したのだ。その辞職をうけて、民主党の代表選が行われ、8日、菅直人新首相が誕生した。幹事長は枝野幸男新幹事長、官房長官に仙谷由人が就任し、荒井聡国家戦略大臣が誕生した。この人事は、明らかに小沢に距離のある議員を執行部中枢とかっく量に入れた「脱小沢」人事であった。この脱小沢人事は、国民に非常に好感を得た。もともと「さわやか」なイメージのある菅直人の期待感も相まって、支持率はV字回復を行った。しかし、その後選挙戦略だけではなく消費税発言、民主党内の分裂選挙、戦略の一致していない選挙で、徐々に支持率は急下落し、そして、選挙に突入した。
 その結果が上記の内容だ。民主党が、その支持率の低下においてかなりの大敗北を喫したのだ。
 今回は、今後の政局ではなく、その敗因をここで見てみようと思う。
 この敗因はかなりあると思う。落選した候補も同じであるが「負けに不思議の負けなし」(野村克也楽天イーグルス名誉監督)と言う通りに、実際に負ける原因は、かなりある。「負ける要因」と「勝てる要因」を比較して「負ける要因が大きければ」または「負ける要因に勝てる要因が影響されてしまえば」必ず負ける。その時になって、何を後悔しても仕方がない。
 では、その敗因の中から、いくつか代表的なものをここにあげてみよう。「反小沢と分裂選挙」「消費税発言」「10か月の民主党の実績」「今後の政策への不安感」の四種類だ。
 「反小沢と分裂選挙」についてである。
 まず、数ヶ月間、小沢の戦略で選挙戦の準備をしてきたのに、その小沢の戦略を全て廃して「脱小沢」をしてしまっても、結局のところ候補者や他の議員、支持者が混乱するばかりである。そのうえ、「脱小沢」と言っていても、その調整がうまくいっていないということになれば、結局のところ、「分裂選挙」になる。小沢の支持者は菅直人民主党候補に投票しなくなるし、また、菅直人民主党の支持者は小沢系候補を推さなくなるのである。小沢は平気で執行部を批判するし、その批判に対して執行部はあまり規制も掛けることができない。この状況で、民主党そのものが統一した選挙をできるものではないのである。
 選挙という「戦争状態」にあって、その集団の目的や価値観という「方向性」が異なっていては「戦う集団」にならない。それはあ仲良しクラブにはなっても、結局のところ勝利には結び付かないのである。その状況で「戦争」を行うことはできないのである。とくに、一人区においては、この分裂選挙はかなり大きく響いたようである。
 このことは、民主党執行部も非常に強く感じているようであったが、そのことを認めると、現執行部が小沢の力を認めざるを得ない。要するに「脱小沢」で得たV字回復を、自ら捨て去る覚悟がなければできないのである。そのために、民主党執行部は、「消費税発言」が原因ということを最後まで強調した。そのうえで、その消費税問題が「マスコミがうまく伝えなかった」という他人への責任転嫁によって、敗因を分析したのである。しかし、実際は、この分裂選挙が最も大きかったことは、執行部自身が知っているはずである。執行部の記者会見で、そのことが全く言われなかったことが、「最も触れられたくない」傷であることはすぐにわかってしまうのだ。
 その「消費税」について。
 消費税に関しては、実際に唐突にそして、その発言がぶれたので、非常に大きな注目になった。しかし、実際はこの消費税に関しては自民党を含む他の政党も消費税増税の必要性を歌っているのであるから、本来は「争点になるはずがない」争点である。
 この消費税発言に関しては、この発言をめぐる菅首相のブレと、民主党内におけるコンセンサスの不足が帰って国民の不安をあおったということになる。「三権分立はない」「日本では4年間の独裁を認めるのと同じ」という菅直人発言と相まって、この問題に関しては非常に大きく国民の不安を煽ったのである。
 「民主党の実績」である。
 実際、民主党政権になって、マニフェストの達成率は低い。そのうえ次々に出るスキャンダル、ことに「鳩山・小沢の政治とカネ」は非常に大きな影を落とした。国会の運営に関しても、ほめられたものではない。何よりも、強行採決10回はワーストではないかと言われるほどのものである。その強行採決を行い、「マニフェストに記載してあるから」という話をしながら行った「高校無償化」「子供手当」は国民の間に、評判が良くなかった。要するに「マニフェスト」記載の政策といえども民意を反映したものではないということになるのである。
 民意を反映していない政策に関しては、国民はつめたい。平気で政権党に牙をむく。「民意」を見誤ってしまえば、結局はその内容がおかしくなってしまうのだ。ことに、日本人の場合「高校野球に感動する」のと同じ精神行動で「どんなよいことをしても、その過程が悪ければ、結局、全体が悪になってしまう」というようになってしまうのだ。強行採決などをしてしまえば「何かやましいことがあるのではないか」というように勘ぐられてしまう。そのことがかえって、国民の不信感をあおることになるのだ。
 民主党の実績はその意味で、結局は国民に評価されるものではなかった。菅直人そのものが、政治の中心にいたわけではない。10か月の民主党政権のうち9か月は鳩山首相であった。しかし、その間、菅直人は「副首相」という重要ポストに就いていたのだ。これでは言い訳はできないのではないだろうか。
 「今後の政策への不安感」という方に映る。
 今回神奈川県選挙区で落選した千葉景子法務大臣は「マニフェストに載っていなくても、夫婦別姓、人権擁護法案は通す」といっていた。このことは、二つの不信感を国民に与えたことになる。一つは、「マニフェストに記載していない法案が数多くある」要するに「マニフェストにだまされるのではないか」という不信感だ。当然にマニフェストに載っていなくても、と言われてしまえば、その後も「後出しじゃんけん」で何をするか全く分からなくなってしまう。結局菅直人の言う「独裁」を認める形になるのではないか。そんなことを認めるつもりは今の日本の有権者には毛頭存在しない。これでは話にならないのだ。つごうのよいところで「マニフェスト」がでて、都合のよいところでは「マニフェストに出ていなくてもよい」ということになってしまえば、「不信感」しか残らないのである。
 もうひとつは、国民的に審議していない、コンセンサスを取っていない法案を通すと言い出したことだ。要するに、本来は「国民的な議論」が必要な法案である。家族のあり方などを非常に大きく変える可能性がある。その法案を、「マニフェストに載っていなくても」といっているのだ。これでは、「国民を置き去りにした」政権運営を行う不信感が生まれる。そもそも民主党の国会軽視は、私もこのブログでかなり多く批判してきた、国会軽視とは「国民の代議員の審議を軽視すること」であり、そのまま国民軽視であるということである。主権者である国民の軽視は、そのまま「独裁」をいみするのである。独裁が良くないとはいわない。封建君主でも、名君は存在した。しかし、それだけ委任できる為政者と、菅直人が言えるかと言えば、それは「NO」である。その人々に、彼らの言う「独裁」ようすうるに「過半数」を与えてはならないということになるのだ。
 
 敗因をこのように見てくると、非常によくわかる。いずれも有権者であり、そして主権者である国民の不信感につながるものである。この「不信感」は決して「自民党への信任」につながるものではない。そのことが自民党が「躍進」したものの、それを喜べない一つの理由ではないだろうか。
 菅新政権は、「独裁」と思っている以上、結局は国民の不信感に鈍感であった。そのことを国民が反発したのが、今回の選挙の結果ではないだろうか。
 次回以降、今後の展開に関し、改めて見てみようと思う。

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マスコミ批判に対する一考 (4) 日刊ゲンダイ提訴で考える報道の中立性

マスコミ批判に対する一考 (4) 日刊ゲンダイ提訴で考える報道の中立性

 この文章を書いているときが、まさに、参議院選挙でのよう票が行われている。今7月11日の正午くらいである。あす未明には大勢が決するとされる参議院選挙。今回は私個人的には様々な意味で注目している。
  誰かの応援ということで言えば、別にどの選挙でも誰かの応援をしているので、特に中おくというのはない。第22回参院選は11日午前7時から、全国各地の投票所で投票が始まった。総務省発表の午前11時現在の投票率は全国平均で16・59%。前回2007年参院選の同時刻と比べ0・34ポイント下回っている。(共同通信社調べ)このように「少々関心が引く」選挙は、昨年夏の総選挙と最も違うのは、マスコミの扱う報道の時間であろう。マスコミは、予想外に善戦(申し訳ありません)し、決勝トーナメントまでコマを進めた「ワールドカップ」。突然降ってわいたように発生し、前代未聞のNHKでの国技中継がなくなった「相撲界野球賭博汚染事件」。私自身あまり興味がないので、あまりよくわからないが、日本のオバサンたちの話題の中心になった「韓流スターの突然の自殺」。そして、あまり良いことではないが、徐々に毎年恒例になりつつある「異常気象と東京都ゲリラ豪雨」。いずれも、国民の耳目を引き付けるニュースであったため、マスコミはそちらを優先して報道を行った。私の友人の記者は「今回は選挙担当といっても、消費税と党首演説を少し肩ら終わり。いつもの選挙と比べて暇でした」とのことである。それだけ、ほかのニュースが多かったということいなるのではないだろうか。
  マスコミというと、選挙における「偏向報道」が毎回話題になる。マスコミ(田原総一郎氏によるとジャーナリストらしいが)の神髄は「批判精神」であるという。批判精神とは「政府」に対する批判であり、その批判精神が政治を正しい方向に向かわせ、そして、中和が取れるのだという。しかし、はたしてそうであろうか。実際のところ、その批判精神が高じて「政権交代」が起きたことは記憶に新しい。もちろん「批判精神」からできた政権であるために、この10カ月目立った実績もなく、政治の停滞と不安定が目立ったのではないか。私は個人的には「いたずらに批判だけをするのはジャーナリズムとは違う」と考えているのであるが、このような考え方そのものが、マスコミの中ではわかってはいるがなかなか受け入れられない話になっているのである。
  このようなマスコミの「偏向報道」ともとれる「批判精神」が、今回の選挙ではあまり発揮されなかった。他のネタが多く、政権党に対する批判があまり聞かれなかったのは少し残念である。個人的には、つい10か月前までほめたたえていた民主党政権を、同じ「口」がどのように「批判精神」を発揮するのかかなり興味があった。テレビ朝日などは「もう少し見守ろう」などと言っているが、国民の生活や将来に対する不安感、停滞感、閉塞感を考えれば、そのようなことをいっているマスコミそのものが「偏向報道」に見える。「批判精神」はどこに行ったのか?という視聴者の純粋な疑問は、結局答えられるところはなかったのだ。
  さて、では、なぜ、そのような「偏向報道」が許されるのか。
  マスコミには、「事実を伝える機能」と同時に、「その内容を解説する機能」「その内容を<客観的>に評論する機能」がある。その報道に書かれた内容が「事実」であれば、完全に偏向報道は許されなくなる。しかし、「解説」「論評」という二つの報道の体制があれば、祖尾どちらかということで、逃げてしまうのだ。
  とりあえず、選挙期間中に問題になった新聞記事を見てみよう。
 
自民、日刊ゲンダイの記事で中央選管に質問状

 自民党は6日、参院選公示後の夕刊紙「日刊ゲンダイ」(日刊現代発行)の記事や見出しが公職選挙法(法定外、脱法文書の領布禁止)違反の恐れがあるとして、大島理森幹事長名で中央選挙管理会の伊藤忠治委員長あてに質問状を提出した。
 日刊ゲンダイは公示後、「民主党への投票が最良の選択」(6月29日付)や「迷わずに民主党へ投票しよう」(7月3日付)などの見出しを付けて記事を掲載した。
 公選法では国民が選挙で適正な判断をするための『報道と評論』を認めている。これを踏まえ、自民党の質問状は日刊ゲンダイの見出しや記事について「民主党や同党公認候補者への投票を、端的に、直接的に、あからさまに求める表現で埋め尽くされている」と指摘。
 また「根拠薄弱で抽象的な他党批判をした上で、民主党礼賛の一方的な記事に終始している」として、「報道や評論」には該当せず、公選法に抵触するのではないかとしている

http://sankei.jp.msn.com/politics/election/100706/elc1007062254006-n1.htm
2010.7.6 22:54 産経新聞

 日刊ゲンダイの「偏向報道」には、さすがに驚くばかりだ。どう見ても日刊ゲンダイは「民主党の機関紙」としか思えないものが多々ある。「小沢チルドレンの選挙」などと言って特集記事を選挙期間中に行うというのも、常軌を逸しているとしか思えない。他のせいつの候補が何も言わなかったのが不思議なくらいだ。
  「民主党への投票が最良の選択」(6月29日付)や「迷わずに民主党へ投票しよう」(7月3日付)などの見出しは、さすがにおかしいとしか思えない。「民主党や同党公認候補者への投票を、端的に、直接的に、あからさまに求める表現で埋め尽くされている」と指摘。「根拠薄弱で抽象的な他党批判をした上で、民主党礼賛の一方的な記事に終始している」として、「報道や評論」には該当せず、公選法に抵触する、という批判は、まさに的を得ていると思う。
  日刊ゲンダイは、民主党が毎日500部以上買い上げている。そのうえ、何かあれば大量に購入するというものだ。前の総選挙のときに、公示後ではなかったと思うが、民主党のある候補が、「ちゃんと読んでください」と言いながら駅前で日刊ゲンダイを無料配布している姿を見かけたことがある。ここまでくれば、さすがに「機関紙」としか思えないが、日刊ゲンダイはそのような表記は一切しない。もちろん、このような根拠脆弱なタブロイド紙に影響される国民も、かなり低俗と言わざるを得ないが、最もおかしいのは、そのような見出しを付ける日刊ゲンダイであろう。
  では、日刊ゲンダイがなぜこのようなことを堂々としているのか。それは「評論・解説」に当たるという法的解釈が許されるからにすぎない。そればかりか、それらが許されなくても憲法の「言論の自由」「表現の自由」を盾にとって、偏向報道を正当化するであろう。もしもそれで敗訴しても、しょせん罰金刑である。
  偏向報道にならないまでも、それに近いものは少なくない。テレビなども同じような者だ。1993年の細川内閣発足時に問題になった「椿事件」であまり教訓になっていない。というよりは、「椿事件」になったとしても、放送免許の取り消しに至らないという「悪しき先例」を作ってしまたのだ。
  椿事件とは、1993年7月18日、第40回衆議院議員総選挙が行われ、与党自由民主党が解散前の議席数を維持したものの過半数を割り、非自民で構成される細川連立政権が誕生。自民党は結党以来初めて野党に転落した9月21日、民間放送連盟の放送番組調査会の会合が開かれ、その中でTV朝日報道局長の椿貞良は選挙時の局の報道姿勢に関して、
「小沢一郎氏のけじめをことさらに追及する必要はない。今は自民党政権の存続を絶対に阻止して、なんでもよいから反自民の連立政権を成立させる手助けになるような報道をしようではないか」
「共産党に意見表明の機会を与えることは、かえってフェアネスではない」
との方針で局内をまとめた、という趣旨の発言を行った。
10月13日、産経新聞が朝刊一面で椿発言を報道、各界に大きな波紋を広げる。これを受けて、 郵政省放送行政局長の江川晃正は緊急記者会見で、放送法に違反する事実があれば電波法第76条に基づく無線局運用停止もありうることを示唆 、自民党・共産党は徹底追及の姿勢を明確にする。10月25日、衆議院が椿貞良を証人喚問。その中で椿は民放連会合での軽率な発言を陳謝したが、社内への報道内容の具体的な指示については否定、一方で放送法 で禁止されている偏向報道を行った事実は認めた。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

 この、椿事件まで行かなくても、政治報道というのは、「事実の扱いの大きさ」「評論家のコメントの数」「単語の使い方・表現の強弱」「演出方法」「写真や動画の使い方」で印象を操作することは可能だ。偏向報道というものの定義にもよるが、偏向報道が「贔屓を含めた事実もしくは内容をを曲げた報道」という話であれば、「印象の操作」は問題にならないという解釈である。ことに、テレビなどによる声のトーンなどによれば、主幹を操作することができるのだ。今の選挙制度そのものが「印象」「人気」で投票するものであれば、その印象操作というのは非常に大きなものであるが、実際建前上は政策の部分をしっかりと公平に報道していれば、問題にはならないという解釈もありうるのだ。
  日刊ゲンダイの記事は「それらの問題にならない解釈の結果」として見出しができているという法律構成を行うことになるであろう。そのことの法的な善悪は、法廷で決着がつくものであろうが、同義的には非常に問題のある確信犯的な仕業であるといえるのではないか。
  今回の選挙は、このような日刊ゲンダイの記事が非常に目立つ存在であるほど、選挙報道が少なかった。逆にいえば「風のない選挙で民主・自民・そのほかの政党がどちらが勝つのか」という純粋な疑問は、今回一つの決着を見そうな気がする。他のマスコミがあまり何もしなかった。このことによって、各政党の「本当の政治力」が見えてしまうのではないか。
  次回以降、なにかなければ、このマスコミ批判に対する一考は、今問題にした「偏向報道にならない印象操作」について、もう少し深く考えるようにしようと思う。中には「印象操作」を「偏向報道」という人も少なくないのであるが、そこは定義からしっかりと考えてみたい。

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参議院選挙後の政局予想<メルマガの告知です>

参議院選挙後の政局予想<メルマガの告知です>

 このメールの配信日である7月11日は、参議院選挙の投票日だ。
  参議院選挙は、国会における衆議院の優位性が有るため、政権交代は行われない。
 参議院での過半数は、議員内閣制の内閣制定には成らないのだ。
 しかし、両院の過半数を政権党が持てば、それだけ安定した政治が得られることになり、その制作が通りやすくなる。
 一方、衆参でねじれ国会になれば、それだけ法案も慎重な提出が必要になる。

 国民にとっては、衆参ねじれ国会で、審議がしっかりと行われるくらいの方が良いのかもしれない。
 しかし、実際政権の立場に立てば、自由な政権運営が「阻害」されることになるので、なるべくねじれは避けたい。
 その、一つの指標になるのが、それまでの国会運営である。
 民主党の場合、審議時間3時間というかなり少ない審議時間で、なおかつ強行採決10回。
 いずれも国会史上のワースト記録だ。

 国会の運営は、ただ単に内閣のチェック機能をしているのではない。
 立法や予算という国民に非常に重要な内容について、主権者の代議員が審議を行う機関である。
 国民の税金の取り方や、国家予算の使い方、そして国民を規制する法律を決めるのに、国民に見える形で審議をする。
 その審議機関が国会だ。
 その国会の運営を、ワースト記録が出るくらい独裁的、独善的に運営してくることは、その信任に値しないのか、するのか。
 そのことの評価が、今回の参議院選挙で一部出ることになる。

 さて、参議院選挙の結果は、このメルマガの配信日要するに7月11日の深夜か翌未明に体勢が明らかになり、翌朝には全ての議席が決まっていると考えられる。
 しかし、その結果を待ってこのメルマガを書くわけにはいかない。
 そこで、結果を予想しながら次のことを書かなければならない。
 通常のマスコミであれば「予定稿」というのを入れておくのであるが、なかなか時間的な余裕がない。
 そこで、議席数を言うことなく、その後の展開を予想してみよう。

<以下は、メルマガでお楽しみください。だいたい原稿用紙20枚くらいの長文です>

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國會新聞編集次長の未掲載記事とニュース解説
ブログ
<http://udaxyz.cocolog-nifty.com/udaxyz/>

<mailto:CQA14363@nifty.com>

発行 宇田川敬介(國會新聞社 編集次長)

発行システム:『まぐまぐ!』 http://www.mag2.com/
配信中止はこちら http://www.mag2.com/m/0000207352.html
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再度、日米同盟危機を招く普天間と菅首相の発言 (3 完結) 沖縄負担軽減と首相の器

再度、日米同盟危機を招く普天間と菅首相の発言

その3(完結)

 第三のの論点にうつる。「沖縄の負担軽減」である。
 普天間の基地問題における、というよりはそれ以外、たとえば嘉手納なども含めて、「沖縄の負担軽減」は日本国政府として考えなければならない状況であると考えられる。基地があることと、地元の生活を護るということは、少なくとも平時において両立すべき問題であると考えるからだ。
 問題は、「地元の人」が本当に「地元の人」なのか?という疑問点と、「安全保障」という国家的大事と「地元の保障」という県民レベルの話を同じ土俵で話して島てよいのかという議論の環境の問題であると考えられる。「外交問題」と「県民の生活レベル」とでは、話のレベルが違う。もっといえば、「沖縄県民の生活の重視によって、東アジアもしくは日本国民全体の安全を護れなくてよいのか」という究極の選択だ。この究極の選択には一つのまやかしがある。「平時」と「戦時」を使い分けていないというまやかしだ。しかし、「抑止力」という単語が出てきた時に、その究極の選択は「まやかし」ではなくなってしまうのである。
 この問題は「沖縄県民と米軍基地の共存の是非」ということに他ならない。要するに「米軍基地を出す(なくす)」「沖縄県民を出す(なくす)」「できる限り共存する」という三種類の解決策以外にはないのだ。
 中国などの社会主義国は、「接収」という法律があり、国が必要とした場合には、国民がその資産などを接収されるのだ。北京オリンピックの前、そのような後継は山ほどあった。人が住んでいるにもかかわらず強制的に家を撤去するという光景は山ほどあるし、私が行った時も、家が半分壊されており、壁がなくなって、道路から家の中が丸見えになっている三階建の家を目撃した。そもそも、私有財産を認めておらず、土地に関しては全て「人民の共有財産」つまり「国家政府の財物」という建前であるから、当然に、「その土地の上にあるものを人民政府の自由に排除することができる」という論理は成立する。その中に、住んでいる人の「居住権」などは存在しないのだ。
 日本は、「社会主義国家」「共産主義経済」ではない。そこで、住んでいる人に私有財産が認められており、その中におけるプライヴァシーの権利は憲法上の重要な人権の一つとして扱われている。要するに、「接収」ということは、沖縄の基地の真横であっても難しいということになる。
 では、もちろんそれに合わせた接収に関する法律を作ればよいのであるが、そのようなことは日本国として認められないものであろう。そうなれば、当然に「補助金など不利益部分の補償」という制度以外にはなくなってしまう。戦後、と言っても沖縄返還後のことであるが、日本政府は沖縄県民に対してそのような手段を使って、基地問題を解決してきたのである。民主党政権はそのようなことをせずに、「米軍基地を出す(なくす)」という選択肢を選択することを、前の総選挙で表明した。しかし、それが現実的でないことは、鳩山首相自身が何度も語ったことである。その結果5月末までに、普天間基地を従来の日米合意の通りに「辺野古、キャンプシュワブ周辺に移転することを決めたのである。
 菅直人政権になって、その市兵衛合意を尊重することを表明した。その日米合意は8月末までに移転先や広報などを確認するというもの。当然に、辺野古周辺への移転が前提である。そのことが分かっていながら、選挙戦近くになると「工法などの専門家の議論が終わったからといって、強行に着工するとは考えていない」という発言をするのである。
 沖縄の負担軽減に関し、沖縄県民と基地の関係は、「米軍基地を出す(なくす)」「沖縄県民を出す(なくす)」「できる限り共存する」の三種類しかない。その「共存する」の選択を行った場合の条件として「補償」を行うこととしたのである。本来であれば、その他の負担軽減策をしなければならないが、赤中そう簡単にはできないのである。
 単純に、負担軽減と言っても、その負担軽減は沖縄以外の別なところに負担をお願いするということにしかならない。沖縄の負担軽減は、他の負担増加になるということをはっきりと岩開ければならない。鳩山政権時に言われた鹿児島県徳之島などは、その典型例である。それらに関しても、当然に事前に調整をし、そしてその調整の下に交渉を行い、「できる限り共存」と「補償」ということを組み合わせなければならない。
 いっぽうで、それらの「補償」は当然に国家予算である。国家支出を行うためには、国家支出の中において、補償を出さなければならないが、今、不要なバラマキをたくさん国民に約束して織、選挙対策でバラマキを行わなければならない民主党において、その予算・財源を行うことはできないはなしである。補償を行うのに対しては、それだけの財源を示さなければならない。「補償」を行わずに「理解を求める」といっても、そもそも、基地や演習場が近くなるということは、当然に、その分土地などの資産価値が下がるのであるから、その分の補償は最低限必要であるし、生活権に関しても、補償しなければならない。その財源を出さないで口先だけで何を言っても意味がないのである。
 さて、では、「できる限り共存する」「補償」のセットには、沖縄、沖縄県がへの移転を含めて、必要になる。それ以外の方法を「模索する」ということは簡単であるが、実際のところ、何具体策はないのだ。
 何か具体策があれば、当然にその策がクローズアップされる。「必要悪」とは言わないが、平時には招かざる番犬の、戦時の安全保障を得るために、平時にどのような考えで県民と、米軍基地と、そして、国家の安全保障を調整するかということが最も重要である。

 なお、沖縄の負担軽減という話をするときに、どうしても忘れてはならないのは「反対するという職業の人々」がいることである。
 反対するという職業の人は、何も沖縄の基地ばかりではない。原子力発電所や、身近あところでは、葬儀社や清掃工場などの建設においても、必ず反対を先導する人がいるのだ。それらは「近くにほしくないが、全体としては必ず必要なもの(施設)」に対して、平然と「地域の論理」で反対を行うのである。その反対を行うことによって補償金を釣り上げ、そして、それを勇乳にしている。この人々は国家全体のことを考えていない人である。このような人々をいかに排除し、本当に補償を必要とする人々と交渉を行うのか。その辺が最も大きな問題に成ると考えうr。それによって補償費や解決の速度はかなり大きな違いが出てくる。しいて言えば、国民全体の税や国家の財政、そして、施設の速度ということで損失を与えないようにしなければならない。

 最後の論点に移る。日本の首相による言葉の軽さだ。
 民主党になって、その首相の言葉の軽さがあまりにも多くあった。「秘書が事件を起こしたら、私ならばバッチを外します(議員を辞職します)」とか、普天間基地の移転問題でも「できれば国外、少なくとも県外」というような発言をしていた。「無駄削減と予算の組み替えで16.8兆円の恒久財源」という公約もいつの間にか反故にされている。
 菅直人になって少しは変わるかと期待をしたが、いきなり「消費税10%」が出てきており、その負担が大きくなるとしても、200万円から400万円までの収入の人に「消費税を還付」というふしぎなことをいいはじめたのだ。200万円では13%400万円までの人は国民世帯全体の49%になる。どのようにするつもりなのであろうか。このような数字に関しても、その前のマニフェストに関して御、「言いっぱなし」で「反省がない」のが民主党政権の特徴である。しっかりと自分で出した政策に関して検証し、できなかった部分に関して反省し、そのうえで新たな政策を出すのが政権与党の筋である。どこかが出した政策を後から批判するものではない。それだけ「首相」「大臣」の発言は、非常に大きなものがあるのだ。
 その「発言の重要性」に関する自覚が鳩山前首相も、菅直人首相も全く持っていない。この軽率な発言が、そのまま国際舞台でもどこでも出てしまうことに関して、日本国民は不安に思い、そしてしっかりと監視しなければならない。そのことをしっかりと見ていなければ、とても、話になるものではないのだ。 
 民主党政権は、政権交代をしたら「革命政府」ができたかのような感覚を持っている。どのような発言をしても、ぞして、どのような独裁をしても国民が許すと思っている。日本国民はそんなことは望んでいない。そもそも、民主党に日本国の行政を白紙委任した人などはいないのだ。当然に外交的な約束は継続しなければならないし、発言はしっかりと記録されているの出るから、あいまいでない話をして、誤解を招くようなことにならないように気をつけなければならない。ましてや、はっきりした発言で、国内でコンセンサスの取れていない話をするなどはもってのほかである。消費税の話を民主党内で議論していないということが伝わってくるが、民主党内でできない人が、日本国の首相としてできるはずがない。
 鳩山首相の辞任に関しても、結局は「不用意な発言」「発言の軽さ」ではないのか。菅直人にも同じ内容が出てきてしまっているのではないだろうか。

 このようなことを考えながら「8月にこだわらない」という菅首相の発言が、日米関係においてより一層大きな亀裂にならないように、願うばかりである。
 参議院選挙は、このようなことも論点の一つとして考えなければならないのではないだろうか。

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再度、日米同盟危機を招く普天間と菅首相の発言 (2) 日米同盟議論

再度、日米同盟危機を招く普天間と菅首相の発言

その2 

 第二に「日米同盟」に対する考え方だ。
 日米同盟および日米安全保障条約は、日本の再軍備を阻止し、その代わり、日本自国に代わってアメリカがその安全の保障を行う。安全の保障は、当然に、米軍基地の受け入れと同時に行われる状況であることは明らかが。「駐留なき安全保障」などということを民主党の諸兄は発言するが、その時に「緊急性」を持って事件に対処できるのか。その辺は疑問である。
 日米同盟は、その日米の関係性を持つことが外交の基軸であるのかないのかということ。そして、日米同盟であるならば、日米安全保障条約をもって、日米が緊密な連絡関係を持ちながら、日本は軍備なく安全を保障されているのかということ。それとも、徐々に安全保障条約を解消し、自国の軍備を整え、そして自国を自国民が守るという話になるのか。同盟と言っても、安全保障における「片務的同盟」なのか「双務的同盟」なのかは議論が分かれるところだ。
 まず、「日米同盟」に関して言えば、戦後の日本の歴史において、日本が日米同盟、同盟という単語を使わないまでも、日米関係を基軸に、発展をし続けてきたということは変わりがない。それは1980年代のソ連崩壊や中国の改革開放政策、東西ドイツの統一など、共産主義経済件、社会主義国家の資本主義経済化が始まった。このことによって、アメリカが仮想敵国としていたソ連が崩壊し、「東西冷戦」が解消したのである。東西冷戦時に、その冷戦の最前線で冷戦を戦い抜いたのが、日本とドイツ(西ドイツ)であったといって過言ではない。日本は、海を隔てて中国、ソ連という二つの社会主義大国を抱えていたし、ドイツは、すぐ横に同一国の東ドイツがあり、そして、その向こうにはチェコスロバキア、ブルガリアなど、東側社会主義諸国がソ連の援助の中で連合を組んで対抗していたのだ。冷戦といえども戦争だ。最前線の砦に、最も注力をしそしてその力を入れるのは当たり前と言える。それが戦争のセオリーだ。
 当然に、このセオリーに従って、日本とドイツは経済的な恩恵を受けていた。とはいえ「国連」ようするに「United Nations」直訳すると「連合国」の集団は、日本とドイツを「敵国条項」をつけて警戒しているために、軍事的な独立を許さなかった。日本に対しては、軍隊を持たせない憲法を作り、そして、それまでの天皇を中心とする権威主義をなくし、個人主義を根付かせた。ドイツでは、国家が半分になったということも含められるが、核兵器を「ニュークリア・シェアリング」の考え方で、独自の核兵器などの大量破壊兵器を持たせない方法を採用した。しかし、非常に高度な技術力を両国が持っているために、軍事転用商品、具体的には自動車産業を双方ともに保護し、そして、その貿易の先をアメリカもしくはそのほかの国にあっせんするという経済政策を行ったのだ。「トヨタ」「日産」は日本ではおなじみであるし、ドイツでも「メルセデス・ベンツ」「フォルクスワーゲン」などは日本でも有名である。逆に、完全な戦闘兵器を作っていた会社、具体的には戦闘機などの飛行機の会社は完全に解体していた。「三菱重工」はまだ残ったが「愛知」「富士」など日本の戦闘機を作った会社は解体されていった。また、ドイツでも「メッサーシュミット」などは、解体されていったのである。アメリカは、このように、経済的な独立性とその技術力の保持を行いながら、一方で、戦後すぐの戦闘力の回復を阻止する政策を行ってきたと考えられている。
 この両国が、冷戦当時最も最前線で経済活動を行っていたということは、いかにも皮肉であるのか。逆に、この二カ国の軍隊が、それだけ連合国に恐れられそして精強であったということの証明なのかもしれない。そして、その精強さは、両国の高い技術力によって支えられていたといううことをアメリカ他の連合国はよく知っていたのである。この技術力の保持と成長は、現在も日本およびドイツの経済力の最も重要な部分を担っているといってかまわない。そして、先日のブログでも書いたように、その「技術力」と「信頼性」が日本のブランドになっているということは明らかである。今の日本人はこの日本のブランド力で生活を送っているといっても過言ではないのかもしれない。
 話はだいぶそれたが、日米同盟は、そのような中で発展してきた。日本の経済力の根源の部分も日米同盟の一端と言っても過言ではない。逆に、冷戦終了後、要するにソ連崩壊後、日本の経済が迷走し始めたのは記憶に新しい。まずは不動産高騰がおき「財テク」という単語がはやって、投機ブームが起きたのちに、その投資・登記が破綻して「バブル崩壊」となった。その後「失われた10年」を経て、政策投資と構造改革による財政再建と景気浮揚が行われた。しかし、全体的なデフレ傾向は歯止めがかからずに、現在もデフレ不況が続いている。そこに「無駄削減」「事業仕分け」とやっているので、政府から市場への資金流出が制限されるようになり、円高も手伝って、日経平均が9000円台を割ろうかという状況になっているのが現在の状況である。
 景気対策はしばらくおいておくことにして、冷戦終了後、アメリカも青s化うを転換し、日本に再軍備そして人的貢献を求めるようになった。「Show the flag」は有名な比喩でよくつかわれるようになったが、基本的には、日本も最前線ではないにせよ、軍備を進め、紛争地域での人的貢献を行うようになった。インド洋での給油やイラクのサマワ駐留などは、まさにその象徴と言ってよいし、現在もソマリア沖における海賊対策は継続して行われているのである。
 さて、この流れにおける日米同盟の重要性は、単純に「日本を護る主体は誰か」ということにつながる。単純にいえば、「今アメリカがいなくなり、日米同盟を解消した場合に、日本を誰が守るのか」である。日本を護るという時に、「外交併用説」を使った場合でも、武力行使の可能性と、「抑止力」が必要である。にもかかわらず、日本には「打撃力」「抑止力」の装備はない。日本にあるのは、「防衛力」だけであり、だから「軍隊」ではなく「自衛隊」でしかないのだ。軍事力という時に、その軍事力の持つ意味を「打撃力」「抑止力」「防衛力」と三種類に分けて考えなければならない。日本は、敵が攻めてこないように敵国の基地に攻め入って打撃を加える「打撃力」も、また、もしも日本を不用意に攻撃すれば、敵国国民が不利な扱いをされるかもしれないという「抑止力」をも保有していない。日本は、島国で、その沿岸部において敵国の流入を妨げる「防衛力」以外は保有していないのだ。だから、武力を保有していても「憲法9条」に反しないという解釈ができているのだ。
 しかし、実際に日本が攻められないのは「抑止力」の影響がほとんどだ。そこで、「日米安全保障条約」では「抑止力、打撃力はアメリカ軍が受け持つ」ということが決められているのである。
 ということは現在日米同盟を解消した場合、「抑止力」「打撃力」はだれが担当するのかということが、直近の問題としてあげられることになる。この問題になれば「日米安全保障条約」や「日米同盟」の問題になってくる。日米同盟をなくし、「東アジア共同体」を設立したからと言って、実際に北朝鮮の攻撃を受けない保証はあるのか。そもそも、その保障がないならば、いたずらに日米同盟を解消し、その信頼関係に傷をつけることは、日本国民を危険にさらしていることになるのではないか。そのような主張をしている人々を政権の座につけていてよいのか。そのことが率直な疑問としてあげられるのである。
 これらを単純な言い方をすれば「高度経済成長の立役者も、そして、日本の安全保障も」日米同盟のおかげで成り立っている。それを否定できるのか?ということである。
 7月4日の討論で、枝野幹事長は「日本の高度経済成長は自民党や政府が行ったのではなく、民間が頑張ったから成し遂げられた」という。もちろんそれは一理ある。しかし、では、民間が頑張った「だけ」で、高度経済成長が成し遂げられたのか。上記のような「自動車産業の保護」や「補助金行政」「日米貿易黒字」など考えれば、そのような関係があったから、もっといえば外交関係が安定していたから成し遂げられたのは明白であり、「そのような環境の中で」という条件付きで「民間が頑張ったから成し遂げられた」というべきではないのか。たとえば、海外の建設工事で、いまだにゼネコンが単独で入札に参加し、その入札を得てくることは非常に少ない。もっといえば大手商社とJVを組んで、なおかつ政府の保証がなければ、「日本のスーパーゼネコン」といえども、海外進出はいまだにおぼつかないのだ。もっといえば、「政府開発援助(ODA)」に絡んだ仕事以外はできないというようなゼネコンも少なくない。このような傾向は2006年にハッサン、インドネシア副大統領が、「日本の政府開発援助は日本の企業のためにある。その影響でインドネシアは財政がおかしくなっている」という発言をNHKのインタビューでしているのだ。
 「親方日の丸」という考え方が、まさに「日本企業の実態」であり「その日本政府の保証」が「高度経済成長」「高度経済成長後の日本の経済成長とグローバリズム」に大きく役立った、というよりは不可欠であったといっても過言ではないのだ。そのような「グローバリズム」が実現するのも日米同盟の影響下における日本政府の対応ではないのか。
 現在の民主党政権が、「自分たちだけで高度経済成長を成し遂げた」というのは、さすがに思いあがりと言わざるを得ない。これでは、外交政策だけでなく、経済政策もおぼつかなくなってしまうのではないだろうか。
 このように考えれば、「歴史から考えて」日本における日米同盟を基軸として考えざるを得ず、その機軸の中において「東アジア」の経済もしくは平和的な連合体を構築する、東アジアの発展を願うのが最も良いのではないか。ただし、東アジアの発展と言っても、「北朝鮮問題の解決」もしくは「日本が主導で解決する力ができた」後の話でしかないのは間違いがない事実だろう。

 

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再度、日米同盟危機を招く普天間と菅首相の発言 (1) 

再度、日米同盟危機を招く普天間と菅首相の発言

 参議院選挙が近くなってそのことばかりが注目されるようになっている。このブログでは、参議院選挙の争点ですでに様々な争点を検証したので、あとは、選挙戦そのものと、参議院選挙の結果が気になるところだ。各候補の話を聞いてしっかりと判断し投票を行ってもらいたい。
 さて、日本では参議院選挙をしていても、世界各国が政治を休んでいるわけではない。どの国も政治は毎日継続して行っているのだ。日本もそうで「参議院選挙」は「国会」要するに「立法府」の代議員の選挙であって、行政府の変更ではない。よて、日本でも行政は「内閣」ようするに「行政府」が行うのであって、内閣総辞職が行われない限り行政の中断はないことになっているのだ。
 菅直人首相は、「日本には三権分立はない」と言っているので、その発言をそのまま受け取れば、行政の中立性はないという話になるし、選挙のたびに内閣の継続性もなくなってしまうということになる。日本と付き合う諸外国にとっては非常に迷惑な話である。菅政権では、三権分立がないのであるから今は行政は休みなのかもしれない。
 その「選挙のたびにリセット」という話が、また、ニュースで流れた。もともと、参議院選挙があまり大きく扱われない状況である。その状況であれば、それ以外の政治の話などは、かなり片隅に追いやられた記事の中に、かなり将来になって危ないものを見つけたのである。
 下記まず新聞の記事を読んでもらおう。

首相「強行に着工しない」 普天間移設

 菅直人首相は6日、TBS番組で米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾(ぎのわん)市)の移設問題に関し、代替施設の位置や工法を8月末までに決めるとした日米合意に触れ、「工法などの専門家の議論が終わったからといって、強行に着工するとは考えていない」と述べ、地元の理解を尊重して作業を進める考えを示した。

2010.7.6 23:41 産経新聞
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100706/plc1007062342019-n1.htm

 さて、これを読んでどう思うであろうか。
 同じ、産経新聞の6月28日の記事には、下記のような内容を報道している。

【サミット】日米首脳会談 普天間移設を着実に履行

オバマ米大統領(右)と笑顔で会談する菅首相=27日、トロント(共同) 【トロント(カナダ)=船津寛】菅直人首相は27日夜(日本時間28日午前)、トロント市内のホテルでオバマ米大統領と約35分間、初めて公式に会談した。両首脳は米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾(ぎのわん)市)の移設問題で、日米共同声明の着実な履行や沖縄の負担軽減に向けて協力していくことで一致。日米安保条約の改定から50年を迎えたことを踏まえ、日米同盟が果たす役割についても認識を共有した。
 日米の同盟関係に深刻な影響をもたらした普天間問題に関して、意志の共有が図られたことで、首相としては関係改善への足がかりにしたい考えだ。
 菅首相は会談で、普天間問題について「日米合意の実現に向けて真剣に取り組んでいきたい」と表明。同時に「沖縄の負担軽減のために米国の協力をお願いしたい」と要請した。
 首相は日米同盟の意義について「過去50年以上にわたり日本やアジア太平洋地域の平和と繁栄の礎として不可欠な役割を果たし、日本も寄与することができたことを誇りに思う」と指摘。大統領も「この同盟をその時々の情勢にあったものに、新しくしていくことが大事だ」と述べ、両首脳は同盟関係を一層深化させることで一致した。
<後略>

2010.6.28 11:24 産経新聞

 6月28日の報道では、8月に決定するという上で、「沖縄の負担軽減」ということを言っている。しかし、7月6日の報道では「8月にこだわらない」という話になっているのである。鳩山前首相が、日米首脳会談の翌日、シンガポールで「約束はしていない」というような話になり、日本が著しく信用を失墜したことを思い起こす内容である。

 この問題は、いくつかの論点がある。一つ目は「日本の安全保障」という問題。二つ目は「日米同盟」というもんだい。そして「沖縄の負担軽減」という問題である。
 いずれの問題も簡単に開設できる問題ではない。また、何かを決断すれば、国内国外において、反対の意思表示をする人が出てくるのは明らかだ。そのことを踏まえて、最後に「首相の発言の重み」ということを考えなければなら愛のではないだろうか。

 まず第一の論点「日本の安全保障」である。ここのブログではすでに何度も述べているので、いい加減繰り返しになる。「いい加減にしろ」という人は、飛ばして読んでいただきたい。
 「日本の安全保障」という時に、まず「日本」とは何か?ということが重要になる。要するに「守るべき対象は何か」ということである。国家の主要要素は「国民」「領土」「主権」の三つであるといわれる。しかし、私は個人的にこの中にもう一つ「権益」というものを付け加えたい。「日本を護る」ということは、当然に「日本国民の生命財産を護る」ということに他ならない。財産のうちに、領土も入ると思うし、権益も入ると思う。また、その「生命財産」の中には「安定した生活」「幸福追求権」も含まれると解釈すれば、「主権」「権益」も入るのではないか。生活の安定のために、日本の生命線の一つであるシーレーンを防衛することや、東シナ海での海底資源を護ることは、やはり日本の権益そのものである。そして、それを護ることが、将来の日本の国民の生活を護ることにつながるのではないだろうか。そこで、単語的には「国民」「領土」「主権」「権益」という四種類が「日本を護る」対象であると考える。
 では、日本を護る対象の一つが害されたときに、日本の自衛隊は武力行使を行うことができるのか。その答えは「バランス」であると考える。たとえば、数年前にイラクへ渡航延期勧告が出されたにもかかわらず学生が入国し拉致されて殺害された。日本「国民」の生命が侵害されたのだ。しかし、その護衛を行うために自衛隊をイラクで戦時的展開をすればどのようになるのか。その一人の「渡航延期勧告違反者」の生命の侵害と、その軍事的展開における自衛隊隊員の生命や、その時の軍費などを考えて、バランスをとって、自衛隊の展開を考えなければならない。逆に、北朝鮮が日本領土に対して、不法に攻撃を仕掛けてきた場合、たとえばミサイルを発射した場合に、日本国を護るとして自衛隊が防御部隊を展開することは、至極当然である。平穏無事に生活をしている無過失の日本国民が、生命や財産を不当に外国によって攻撃されることに関し、守るのは、政府の義務である。拉致問題などは、かなり微妙な問題になるであろう。
 「日本の国を護る」とは、常に武力によるものばかりではない。戦前の山本五十六聯合艦隊司令長官も、軍令部次長のころに「帝国防衛は、軍事力と、その背景に伴った外交を合わせて実現すべきもの」として論文を掲載している。山本五十六に影響を与えた、日露戦争時の聯合艦隊参謀長加藤友三郎は、その後ロンドン軍縮条約によって、糾弾されるが、やはり外交と軍事のバランスによる安全保障という考え方をしていたことは文書や記録でわかることだ。
 日本の安全保障を語るときは「守るべき対象」要するに「日本とは何か」ということ。そして、「守る方法」ようするに「武力一辺倒なのか」「外交と武力(抑止力)の併用」なのかということを考えなければならない。そして、その考え方は、様々あると思う。ただし、隣に北朝鮮のような国があり、そして朝鮮有事が想像される現在、また、世界の貿易によって食料や原材料、燃料を維持しているときにおいて、その貿易に使うシーレーン防衛を想定しているときに、それらを護らない、または守らなくても問題がないとする考え方が成立しない状況は、すでに、海賊の被害にあったり、日本の上空をミサイルが飛んだりする事を見ても明らかである。その内容に関する整合性の取れた考え方をしなければならない。

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雇用政策は掛け声ばかりか。就職を気にする学生の留年が増加

雇用政策は掛け声ばかりか。就職を気にする学生の留年が増加

 最近は選挙の話ばかりで、少し飽きてきた。読んでいる方も参議院選挙ばかりで、少し飽きてきているのではないか。マスコミは、「相撲」「ワールドカップ」「ゆうパック」と様々なプログラムに「韓流スターの自殺」と違う話が非常に多かった。昨日は、東京都北部の豪雨の話題がニュースの一面に出てきていた。
 私は東京都板橋区在住で、まさに1時間107ミリの大雨を体験したわけであるが、それは、たとえて言えば「滝に打たれている」感覚というのがもっともあたっているのではないか。「参議院選挙に関係のないニュースばかり流している」とマスコミの批判は少なくないのですが、一応東京都板橋区に住所のある私にとっては、さすがに昨日の豪雨の話題のニュースは参議院選挙よりも重要なような気がした。何しろ、マンションが水没するかどうかということであるから(私の住んでいるマンションの横が川になっている)、数日後の選挙の話題よりも直近の重要な話題になっている。とにかく、昨日の雨は、傘など役に立たないほどの「滝に打たれるような」雨であった。ニュースはやはり役に立つと思ったのは珍しい。
 さて、そんな話は別にして、たまには参議院選挙に関係のない話をしようかと思う。そんな感じでネタを探していたときに、下記にあげる記事が目に付いた。

就職留年7万9000人、大卒予定7人に1人

 都内で開かれた2011年卒対象の企業合同説明会に集まった学生たちの中には就職留年者の姿も(3日)卒業年限を迎えながら留年する学生が全国の大学で少なくとも7万9000人いると推計されることが、読売新聞の「大学の実力」調査で明らかになった。
 根強い企業の「新卒一括採用」を背景に、就職が決まらず翌年に再び「新卒」として就職活動(就活)に臨む学生が急増している。卒業予定者数は約56万8000人で、7人に1人は留年している計算になり、就職戦線のさらなる激化を招いている。就職留年の実態が具体的に明らかになったのは初めて。
 「大学の実力」調査は、全国の国公私立4年制大学(通信制などを除く)735校を対象に2年前から実施。3回目の今年は、就職支援の取り組みを中心に卒業者数や就職者数など約50項目を尋ね、約80%の589校が回答した。その中で、卒業年次に在籍する卒業予定者と、実際の卒業者との差が、2009年度は約7万9000人に上ることが判明。この差について主な20大学で追跡調査した。
 この結果、〈1〉退学・留学・死亡など留年以外の理由がほとんどない〈2〉細かい実態は不明だが、留年者のほとんどは就職活動の不調が理由と見られる〈3〉成績不良による留年は3年次までに集中し、卒業年次では例外的――などの回答が得られ、約7万9000人のほぼすべてが就職留年者である可能性が極めて高いことが分かった。「大学の実力」調査の回答率(8割)から単純計算すると、就職留年者の総数は約10万人に上る可能性もある。
 就職の実態については毎年4月1日時点で国が推計値を出しており、今年は就職率91・8%と発表している。だが、この推計は、就職を希望した卒業者を対象に調べたもの。留年者は、調査対象に入っておらず、数もこれまで未把握だった。

 ◆卒業者含め「浪人」11万人

 国の調査では、約3万1000人が、就職が決まらないまま卒業している。今回、明らかになった留年者約7万9000人を合わせると就職浪人は約11万人となり、その分、就職戦線が激化している計算になる。
 大学の中には、留年者の学費を一部免除するなど、対策を講じるところも出ているが、大半の大学では、就職留年の詳しい実態をつかんでいない。在籍学生数が学部定員の一定割合を超えると補助金カットなどのペナルティーが科されることもあり、対策を実施しているのは一部の大学に限定されている。
 今月3日、東京の私立大学が開いた企業合同セミナーに、この春希望する会社に入れず留年した文学部4年の男子学生(24)の姿があった。今年も既に20社の選考を受けたが、内々定はまだ一つもない。2日前には家電メーカーに最終面接で落とされた。「厳しい。最後まで行ったのに……」と肩を落としていた。
 ◇就活=就職活動を縮めた最近の呼び方。一般的に3年生の10月ごろ、就職情報サイトで志望企業に登録して始まり、4年生の4月1日以降に本格化する選考・内定で終わる。この間、学生は、企業の説明会への出席やOB訪問で、志望企業を絞り込む。

(2010年7月6日03時08分  読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100705-OYT1T01273.htm

 就職氷河期は、いまだにすごいらしい。私が就職した時期も、就職氷河期と言われ、就職浪人とか就職留年が話題になった。その後、少し聞かなくなったが、一昨年のリーマンショック以来、その傾向は強くなった。とくに、期間労働者をなくす派遣業法の改正が行われたことによって、派遣労働を含めた就職機会が減ったことは間違いがない。期間労働の派遣業などに関しては、よくないということが言われているが、果たしてそうであったのか、非常に気になるところだ。
 
 日本の経済構造から考えて、日本の企業において最も大きな負担になっているのが、人件費である。どの企業も人件費をどのように圧縮するかで悩んでいるといって過言ではない。それは、現在に限ったことではない。日本の製品が世界で競争力があるのは「高い技術力」と「信頼性」である。要するに「made in Japan」が一つのブランドになっているといっても過言ではないのかもしれない。しかし、いったんその技術が海外に流出し、その類似品ができれば、国際競争力を持つためには、その原価をさねげなければならない。要するに、高い技術力と信頼性は、そのまま高コストということで、商品の価格に跳ね返るようになっている。日本の場合、「研究費」「開発費」「加工費」という高度技術の部分と、「検品」「ロス高」という信頼性の担保の部分の二つになる。一方が「研究開発費」であれば、もう一方は検品などにかかる「人件費」である。研究費、そして検品などの人件費は、日本人でなければできないほどの几帳面さを持っており、その検品結果における妥協も少ないのであるが、一方で、その分ロス(廃品)なども多くなる。その部分までも「商品卸値」に転嫁されるのであるから、当然に価格が上がってくるのである。しかし、諸外国の外国人ユーザーも、「高くても信頼の高いもの」「高くても最先端の技術を付したもの」ということになる。そのような感覚を総合して「made in Japan」というブランドが確立しているのだ。その信頼性と高度技術が「ブランド費用」なのである。
 しかし、ブランドは、「ブランドとしての価値がしっかりしている」ことがその存在価値になってしまう。要するに「ブランドにならない商品」に関しては、結局は価格競争になってしまうのだ。また、その「ブランドのこだわり」が理解されなければどうしても価格競争になって負けてしまう。
 たとえば、タオル。タオル業界は大阪南部が主要生産地であったが、その内容は、ほとんど中国に取られてしまった。中国はタオル地の生産においては日本の多くの商品の下請けを行うと同時に、その生産拠点において安い人件費で同一の技術を持ち込んだことになる。繊維、衣料服飾に関しては、デザインなどのブランドがあるかもしれない。しかし、タオルなどに関しては、基本的に無地で構わないわけであるから、当然に、そのような「高度な技術力」は必要がない。当然に、新規研究開発も必要ながない。開発費などもほとんどないと思う(一部携帯用とか、様々なアイデア商品はある。またがらや文字の印刷で技術があることも承知している。ここではあくまでもユーザーに見える新規技術についてである)。そうなれば、日本と中国の差は「検品」しかないということになるのである。しかし、タオルの「信頼性」といっても、タオルが何十年も長持ちするものではないし、また、だめになれば簡単に買換えができるくらいの価格帯である。結局、タオルのような産業は、「検品」がなくてもあきらめができる。要するに、そんなに品質にこだわらない状況いなっているのである。
 要するに「高度な技術力」と「信頼性」を必要としない商品、要するに、日常の消耗品に関しては、「made in Japan」のブランドが必要としない。そのような商品に関しては、日本での生産物は国際競争力がなくなってしまうということになる。
 結局、日本におけるそのような商品に関しては、生き残りのために、中国や東南アジアなどに工場を移転するということになる。つまり、人件費という経費を少なくするということになるのだ。
 日本の産業がブランドである以上、そのブランドを生かした消耗品に関しては、日本国内における商品製造はできない状況になっている。
 このようなことに関しては、日本の産業構造だけでなく、日本の人件費の高さやその勤勉さにおいて、普通の話になってきてしまっている。しかし、その中において、最も矛盾の中にあるのが「雇用形態」ということになるのだ。ブランドの裏側には、人件費の高騰がある。上記に様に、「研究費」「開発費」「加工費」という高度技術の部分と、「検品」「ロス高」という信頼性の部分は、優秀で勤勉な人材によって成立するものだ。このうち「勤勉さ」は民族性の部分や性格の部分が少なくないが、優秀性は、どうしても熟練した経験などが必要になる。当然に新卒もしくは入社すぐのい転職組には、なかなか評価できない部分になてしまうのである。一部のヘッドハンティング以外は、どうしても「未知数」ということになってしまう。
 当然に、大卒新卒や、就職浪人に関しては、人件費という経費に見阿多ものであるかどうかは不明である。会社経営とは、そのような経費と効率ということで考えてしまうものだ。どうしても被雇用者の生活まではなかなか出てこないものである。

 さて、そのような中で、「就職浪人」は、どうしても『一度どこからも就職させてもらえなかった』という負い目が出てしまう。そのようなイメージが出てしまうのではないだろうか。結局、そのような負い目の部分を少なくするために、「留年」が多くなってしまうのだ。

 さて、企業の求める人材は、本音でも建前でもなく「単純労働者」ではなく、上記のような優秀性か勤勉性を持ち合わせた人々である。それが何か、それは各専門によって異なる。
 日本において雇用を守るためには、生産拠点の海外進出を止めなければならない。しかし、それでは国際競争力がないということになってしまうので、日本の産業そのものが衰退してしまう。常に新規技術によって日本が技術立国化しなければならないが、事業仕分けによって「一番じゃなきゃだめなんですか」と言われて、公的資金はなくなってしまった。これでは、日本の強みが一つなくなってしまったのである。
 雇用政策は、このように、日本の産業の強みなどをしっかり分析し、その産業構造から内容を考えてゆかなければならない。アイデアや研究は何から生まれるかわから愛。リンゴが落ちると負う誰でも目にする内容から、万有引力を発見する人もいるし、インドを探しに行ってアメリカ大陸を発見する人もいるのだ。何が、幸いするのかは分からない。 
 結局、日本は「人を育てる」ことが産業の要でありながら「人件費をかけることをためらう」という経済合理性を重要視する、完全に矛盾した経済構造になってしまっているのだ。そのことを解消しなければ、雇用政策はうまくいかないし、同時に、日本の景気は完全に回復することはないだろう。失業者が多い国に反映している国は少ないのだ。
 
 上記のような、主食留年が増えるということは「不稼働、非生産人が増加する」ということである。失業率に出てこない失業者が増加するということに他ならない。選挙の一つの争点にはならないが、本格的な雇用対策が必要なのではないだろうか。

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参議院選挙の争点(番外編) 売国三法案の行方

参議院選挙の争点(番外編) 売国三法案の行方

 先週まで、参議院選挙の争点として、あくまでも各政党の「マニフェスト」と呼ばれる政権公約、というよりは選挙チラシをもとに、その政策を比較してきた。一応、政権公約は政権公約である以上、政権を執るようになったら何をするかということを示している書面である。しかし、残念ながら、「マニフェスト」が実現されることはほとんどない。
 民主党は「マニフェスト」に関して「マニフェストは生き物」という表現をし、「総選挙のマニフェストは野党の時のマニフェスト。今回は政権与党としてのマニフェスト」と、立場が変われば、なんでも変わってしまうというようなことを肯定した言い方をしている。残念ながら、「民主党」という政党が「政権を獲った」時に何をするかということが「政権公約」であり、それを片仮名に変えたところで、基本的には意味は変わらない。よって、彼らの「妙な言い訳」などは通用するはずがない。そのような論理で外国と対峙した場合は、日本国そのものの信用にかかわる。たとえば「あれはサミットだったから、今回の国連とは論理が異なる」などという言い訳が通用するはずがない。日本は、いっぺんに世界の経済大国の座を引きずり降ろされることになるであろう。そのような危険性を、この「マニフェスト」の言い訳の中に見ることができるのである。
 さて、今回も、そのマニフェストに関して、ことに民主党のマニフェストに関して疑問符がつく話が出てきている。マニフェストに記載していない内容であっても、その法案を実行するということを方々で民主党の人々が言っているのだ。
 まず、新聞記事を見てみよう。

地方参政権、夫婦別姓、人権救済 争点回避の3法案準備着々

 ■民主 秋以降、国会提出探る
 民主党が実現を目指す永住外国人への地方参政権(選挙権)付与法案、選択的夫婦別姓を可能にする民法改正案、人権侵害救済機関設置法案(旧人権擁護法案)-の3法案が、参院選の争点にならないまま着々と準備されている。民主党は、国論を二分するこれら3法案を参院選マニフェスト(政権公約)に記載していない。その一方で、菅直人首相や関係閣僚は推進派として知られており、自治労など民主党の有力支持団体は強く成立を求めている。秋の臨時国会以降に順次法案成立を図ってくる公算が大きい。(杉本康士)
 3法案は「日本解体を目指している」(自民党の義家弘介参院議員)と保守勢力の反発が根強い。いずれも家族、伝統、文化など日本社会を根底から変容させかねないからだ。
 民主党は3法案が参院選で争点化し、保守層の「民主離れ」を招かないように参院選マニフェストへの記載を見送った。毎年3法案を明記してきた政策集「INDEX」も「参院選前なので時期がまずい」(党幹部)と作成しなかった。
 だが、民主党の最大の支持団体である連合と傘下の自治労、日教組は政策提言で3法案の推進や法律制定を強く要請。人権侵害救済機関設置を求める部落解放同盟も民主党の有力支援団体だ。永住外国人の地方参政権付与を求める在日本大韓民国民団(民団)も参院選の多くの民主党候補に推薦を出している。
 このため、これらの団体の要請に押され、秋の臨時国会か来年の通常国会で政府・民主党が3法案の成立を図る公算が大きい。
 外国人参政権と夫婦別姓は国民新党の反対で国会提出できなかったが、参院選後は国民新党が閣外に去る可能性もある。民主党が単独過半数になれば3法案を阻む要素はほとんどない。
 これを見越したかのように千葉景子法相は先月22日、人権侵害救済機関設置法案について中間報告を発表。強大な権限を持つ人権委員会新設を柱とする同法案は自由な言論を阻害しかねないが、千葉氏は「懸念はない」と一蹴(いっしゅう)。先月29日の記者会見では「マニフェストに載っていない、あるいは選挙のテーマになっていないことで問題になることはない」と参院選後の成立に強い意欲を示した。
 首相も先月16日の参院本会議で外国人参政権付与について「民主党は前から実現に努力してきた。その姿勢に変更はない」と強調。所信表明演説では「人権擁護の実現」という表現で人権救済機関設置法案に前向きな姿勢を表明した。仙谷由人官房長官も夫婦別姓法案について「なるべく早く実現させたい」と意欲を示している。

<2010年7月3日(土)8時0分配信 産経新聞>

7月3日の産経新聞一面の記事だ。なかなか衝撃的な内容である。

『民主党は、国論を二分するこれら3法案を参院選マニフェスト(政権公約)に記載していない。』

『千葉氏は「懸念はない」と一蹴(いっしゅう)。先月29日の記者会見では「マニフェストに載っていない、あるいは選挙のテーマになっていないことで問題になることはない」と参院選後の成立に強い意欲を示した。』

 新聞記事から二つの文章を抜き出した。まず、マニフェストということが完全に無視されている。このことそのものが国民を愚弄しているということにつながるのではないだろうか。上記のように、マニフェストは政権公約である。政権公約ということは、当然に、その政権になってから行うことを記載しているのである。書いていないことをしてはいけないということもないのかもしれないが、逆に国民の意見が二分されるような話に関しては、しっかりと争点としてあげて議論し、民意を得なければならないであろう。
 逆に、これらの法案が、まったくマニフェストに書いていないことは、それだけ「反対が多い」ということを民主党自身が認識しているということであり、同時に、その内容は、「それでは選挙に勝てない」ということを意味している。もっといえば、「国民の支持を得ることができない」ということだ。
 国民の支持を得ることができない政策を、かくして、騙し打ちで政権の安定多数を取ってから行うというのは、国民を愚弄しているということに他ならない。法案成立の前提が、まったく異なっているということになるのだ。
 参議院選挙は「信任投票」「白紙委任投票」ではない。代議員を選ぶだけで、国民は主権を保持し続けている。当然に大きな法案に関しては、主権者としてその内容をチェックする機能がなければならない。その主権者の意思表示を「騙し」で「煽動」し、そして、民意を得ない法案を通すのは、まさに「憲政の常道」を違える大きな過ちとなる。菅直人首相が「日本には三権分立がない」とか「国会で多数を獲るのは独裁と同じ」という意味が、このようなところで発揮されるのはいかがなものかと思う。
 
 では、それほど国民の支持を得られない法案というのはどのようなものなのか。俗に「売国三法案」と言われる各法律法案に関して、私なりに、長くならない程度に簡単に解説を加えてみようと思う。これらの危険性に関しては、様々な人、大学教授や学者、姿勢の研究家までが様々な媒体で様々な批判を加えている。中には、賛同の意を表する論文もあるので、詳しく学びたい人は、それを読んでもらいたい。私は「売国三法案」には、完全に反対の立場なので、その感覚で、あえて、法案の解説を簡単に、私なりにここに記載しておく。

 まず、在日外国人地方参政権付与法案。
 正直言って「日本という国が分かっていない」のではないか?と思う。また、人と人の「公平」「不公平」という基準が、政治家としてバランスを欠いているとしか思えない。法案は、地方参政権を永住外国人に付与するというものである。この「永住」が「定住」なのか「特別永住」なのか、その範囲によって全く異なるものになってくる。
 国家とは、「領土」「国民」「主権」の三要素から成立すると考えられている。その三要素に関して、その三要素は全て「日本国の法律」によって規定されていることになるのだ。法律というと、「刑法」「民法」などを思い浮かべる人も少なくない。もちろんその方な法律も重要な法律である。しかし、これらの法律は、「国民」に関する法律であり、実際は統治機構としての「国会法」「内閣法」などもあるし、領海領空に関しても法律がしっかりと整えられている。先日は、北朝鮮の船の貨物検査の法律が施行された。これは当然に、日本における危害、ことに武力行使や情報の漏えい、最新技術の漏えいなど、日本の国益を阻害する要因を北朝鮮が「抜け駆け的に」行使することを防ぐことを目的としている。
 これら法律は、当然に「国会」で審議されて法律として強制力を持った内容になってゆくのである。しかし、国レベルでないものは地方自治体によって「条例」として法律と同様の罰則を持った法令が作れることになっている。これらは地方議会において審議され、そして条例として成立するのだ。では、この「地方議会」は、地方議員によって組織される議会で構成されている。要するに、地方議会の参政権を与えるということは、地方行政の「条例」を作る権利、つまり「法律に準ずる法令を作る権利」を外国人に付与するということである。
 どうしても日本人は「政治」というと「行政」というように考えがちであるが、残念ながら議会の役割は法案審議と予算審議の意味合いの方が強い。では、「条例」ではどこまで決めることができるのか。非常に簡単で、地方行政に「関連するすべての決議」を獲ることが可能だ。その内容は「領土」「国民」「主権」の国家の三要素に関することも規定することが可能である。また、地方行政の場合、「政府にXXXXXを求める決議」「政府のXXXXXXに反対する決議」などの意見表明もすることができる。この国家政府へのプレッシャー的存在を持つことが可能なものである。
 この中に「外国人」の意見を入れるということだ。本来ならば、「外国人」「参政権」「永住」各定義をしっかりとしなければならないが、要するに「日本に帰属していない人」をそれら「条例を作る権利」「日本人の予算を審議する権利」「国家政府にプレッシャーを与える権利」を与えるということだ。そして、その「外国人」が「外国政府の意向を受けているかいないかの審査が全くない、ということである。要するに、日本の地方行政が、外国の意思の下におかれ、その指揮命令に従って「条例」などが作られる可能性があるということだ。そのような「外国政府」「治外法権的地方行政」があって、国家と言えるのか、という根本的な問題をはらんでいる。
 
 次に夫婦別姓法案
 日本の道徳価値観の基本は「家族」である。日本における、政策のほとんどは「家族」を中心に作られたものばかりであるといえる。その家族制度を根本的に壊す、これが夫婦別姓である。
 夫婦別姓は、夫婦そのものが別姓を名乗ってもかまわないというものではない。その子供が選択的に姓を変えることができるということになり、また、孫もそうなる。結局一族意識が欠如するということになる。ある意味「血のつながり」が、形式的に見えなくなってしまい、個人個人で別々な内容になってしまうことになるのである。当然に、日本の制度も、道徳的な価値観も、儒教的な価値観も全くなくなってしまうのだ。
 いままd、このブログで何度か見てきたが、日本には統一した宗教観がない。宗教観のないということは、日本民族全体(大多数の統一価値観がないということになる。裁判で証人に出るときに宣誓をするが、あれも「何に対して宣誓をするのか」は分からない。それでも日本にそれなりの道徳観があるのは「社会の目」というあまり見えない道徳観が地域ごとに根付いており、それが日本の道徳観になっていたのだ。その内容が「社会の目」「世間体」という形になって道徳観が出てきていた。しかし、核家族化と都市生活によって、その「社会の目」という価値観が徐々に薄れてきていた。民主党政権は「道義」に悖ることをしても「法律に違反していない」といって、そのまま責任を回避するような話を平然とする。模範となるべき政治家がそうなるのでは、社会はより荒んでしまう。その中でまだ道徳観が日本にあるのは「社会の目」が崩壊しても、家族に恥をかかせてはならないという家族主義的な価値観があるからではないか。日本人にはどこかに「家族に誇る」「故郷に錦を飾る」習慣がある。その裏返しに、「自分を育ててくれた環境」に、恥をかかせないという「最小限の集団道徳」が残っている。
 夫婦別姓は、その価値観を壊してしまう可能性がある。そのことによって、統治機構的には「集団で、抵抗することがない」「家族を護るために、政府に抵抗することがない」というように、政府に対する抵抗を行うモティベーションを完全に排除することができるのだ。
 ただ単に、女性の個人主義というのであれば「通称」での、社会進出を認める法律を作ればよいだけであり、夫婦別姓というように家族という集団単位を壊す必要はない。
 千葉恵子法務大臣のような左翼思想、国家社会主義思想は、集団にするよりも個人にした方が抵抗が薄れてよいと考える。中国人がそのように私に教えてくれたが、そのことを実践しようとしているのかもしれない。

 最後に、人権擁護法案
 人権擁護とは、まさに名前ばかり。そもそも「人権」とついて、「人権」が守られる法律など見たことはない。片方の人権を守れば片方の人権が完全に排除される。ルソーの言うように「万人の万人による闘争状態」が社会の実現であり、その調和をするために社会契約説が成立している。人権の闘争状態と言えば、よくわからないかもしれない。要するに「欲望と欲望が重なる」ことによる、闘争状態が発生する。
 その時に本来であれば、「思想の自由」「表現の自由」と、他人の「名誉棄損」を客観的に判断する必要がある。しかし、人権擁護法案は、保護対象者の「習慣」で人権擁護委員会という「特別高等警察」「思想統制機関」が、習慣に基ずいて捜査を行うという。捜査とはまさに、警察や検察の行う強制捜査である。まさに「主観に基づいた強制捜査権限」があるということになるのだ。
 そもそも、人権を護るためには「罪刑法定主義」が必要であるというのが刑法の最低限度の原則である。そして、その「罪刑法定」は客観的に行わなければならないということになるのだ。その原則を「被害者の主観」で物事が決せられるというのは、問題があるのではないだろうか。
 このような「主観」に基づく罰則は「人治主義」であって「法治国家」ではない。まさに、ナチスドイツの独裁と同じ。旧ローマ帝国の「王の耳・王の目」のような、思想統制スパイ組織が政府によって作られ、思想統制を政府が行う。まさに言論や思想の自由を制限するということになるのだ。
 それも、日本国憲法を変更することなく、それどころかその議論も行うことなく、そのような法律が勝手に行われるということになる。まさに、お隣北朝鮮のようになってしまうのである。

 さて、これだけの「売国三法案」は、まさにマニフェストに書かれることなく水面下で行われている。『千葉氏は「懸念はない」と一蹴(いっしゅう)。先月29日の記者会見では「マニフェストに載っていない、あるいは選挙のテーマになっていないことで問題になることはない」と参院選後の成立に強い意欲を示した。』ということは、まさに「マニフェストに記載しないことで国民をだまして売国三法案を通す。要するに、「マニフェストに書き国民の審判を仰ぐことなく、外国に国家の形を変えさせる権利を与え、道徳の基準である家族制度を破壊し、主観で人を処罰する人治国家に作り替え、政府が国民の思想や表現を統制する社会」に作り替えることを考えているのだ。

 今回の参議院選挙は、まさにこれが本当の論点である。
 このような日本にしないように、国民の監視の目が必要なのではあるまいか。もちろん、これを望む人もいるのかもしれないが、私は、少なくとも「国民の審判を仰いで」行うべきではないかと思う。
 参議院選挙での、国民の審判は、そこまであってしかるべきである。

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マスコミ批判に対する一考 (3) 日刊ゲンダイにおける民主党誘導報道

マスコミ批判に対する一考 (3) 日刊ゲンダイにおける民主党誘導報道

 マスコミにおける偏向報道ということが、どうしてもマスコミ批判の最も大きな何用の一つとなっていることは間違いがない。その一つの例が、今回の参議院選挙において現れた。まず、その内容をインターネットのニュースから見てみよう。

 日刊ゲンダイ「民主に投票呼びかけ」  公選法違反といえないがネットで波紋

   「もう一度民主党へ投票を」。同党びいきの報道を続ける日刊ゲンダイが、顔となる1面でこんな見出しを掲げた。公選法違反にはならないが、日本のマスコミ界では異例の呼びかけで、ネットでも波紋が広がっている。
   アメリカの各新聞では、共和党など特定の政党支持を表明するのは珍しくない。ワシントン・ポストなど大手紙の社説も同様だ。
2ちゃんねるではスレッドが乱立する祭り状態
   日本の大手紙などには、こうした文化は根付いていない。しかし、夕刊紙の日刊ゲンダイは、2009年の政権交代以来、民主党支持を明確にする報道を続け、ここに来て、同党への投票呼びかけに踏み切ったわけだ。
   10年6月30日発売号では、1面に大見出しを掲げ、記事中で「選挙民は民主党一本に投票する必要がある」と訴えた。
   その理由として、日本に民主主義を根付かせるために、政権交代を安定的に実現する必要があると主張。「民主党過半数実現で政権交代完成」との大見出しとともに、「争点は消費税ではない 民主党の議席数だ」と見出しで訴えた。消費税は、菅直人首相らが次の衆院選で信を問うと公言しているので、争点ではないというのだ。
   見出しまで掲げたこともあって、ネット上では、同紙の民主党投票呼びかけに波紋が広がっている。2ちゃんねるでは、公選法違反ではないかと、スレッドが乱立する祭り状態に。「どうみてもアウトです」「よくこれ校正通ったな」といった書き込みが相次いでいる。
   政党支持を越えて、投票呼びかけまですることは、本当に公選法に触れるのか。
   確かに、選挙期間中に、第3者が選挙運動のために文書を配れば、公選法142、146条から違反に問われてしまう。ところが、新聞・雑誌といったマスコミは別だというのだ。
   総務省の選挙課では、新聞などへの公選法適用についてこう説明する。
「虚偽であったり、事実を曲げたりしたことでなければ、紙面で、事実に基づいて報道したり、評論を加えたりするのは、基本的に自由です。報道・評論の範囲内なら、直ちに禁止されるものではありません」
   これは、公選法148条の規定にある。都選管の選挙課でも、「表現の自由は、憲法の柱の一つで、新聞などは、社会の公器として情報提供の役目を持っています。それを規制することはできませんので、公選法違反での警告もできません」と言う。
   公選法に言う新聞とは、第3種郵便物に承認され、公示前の1年間、毎月3回以上、定期的に販売しているものを指す。雑誌にも、同様な規定がある。
   投票呼びかけについては、判例でも認められている。東京高裁で1960年7月15日に出た判決では、「評論と解される」との見解が示されている。

(2010年7月1日(木)20時55分配信 J-CASTニュース)

 私個人的な意見を述べさせていただければ「このような夕刊紙が、マスコミの信用を著しく棄損している」と思う。法的には難しいが、われわれマスコミの業界の人間が、「名誉棄損」で摘発したいと思う。(よほどのへ理屈でなければ法律的には難しいと思うが)。しかし、このような夕刊紙があることが「マスコミは」とマスコミ全体の信用を負いとしているということに関しては、だれも異論はあるまい。
 ことに、日刊ゲンダイは、キオスクなどの売店で、やはりテレビと同じように「その新聞を買わない人までも」目にするというところにあり、広告と一面の並べ方を考えれば、その影響は非常に大きいことは明らかである。この夕刊紙はそのようなことまでもわかっていながら、このような偏向報道を行うのであるから始末に負えない。はっきり言って、「マスコミ」を名乗らずに、「民主党機関紙」とはっきりと宣言してもらいたい。
 
 さて、個人的な意見は少し別にして、ある程度中立的な意見から書いて行こう。
 まず、マスコミそのものは、前々回にも記載したように「営利目的」である。もっといえば、河内孝氏の著書にあるように「(販売)部数至上主義」と言っても過言ではない。結局のところ、新聞の部数が売れさえすればそれでよいという考え方は、非常に強く存在する。テレビメディアで言えば「視聴率至上主義」ということになる。今回は、上記に日刊ゲンダイの記事を引用したので、ここで取り上げる用語は、全て新聞のものに統一する。
 「部数至上主義」ということは、二つのことを意味していると考えてよい。通常考えるのは当然に「収入至上主義」「経済至上主義」という考え方である。部数が多いということは、それだけ収入が多いということだ。たとえば朝日新聞で800万部の売り上げがあるとすれば、1日150円で販売し、単純計算で1日で12億円の売り上げがあることになる。実際は1カ月契約などになっており、そこまでいかないかもしれないが、その部数に比例して広告収入なども入ってくるので、「部数至上主義」と「経済(収入)至上主義」は深く関係する二つの価値観であることが良くわかる。
 一方、経済至上主義だけで「部数至上主義」を言うことはまず少ない。はっきり言って、新聞購読料よりも広告収入の方が新聞の場合格段に多いのであるから、「経済至上主義」を強く打ち出すのであれば、広告もしくはチラシの折り込みなどを重視する政策になってくる。もっといえば、経済面や広告面の拡充ということになったり、書評や商品説明の「記事広告」の枚数が増えるということも考えられる。このような経済の収入比率が、「スポンサード重視」と「読者軽視」につながるという見方をする評論家も少なくない。結局スポンサードの高い相手が、紙面の占有率が大きくなるということになるのだ。しかし、そうであるとすれば、実際に、上記のような政治面における経済至上主義はまずあり得ないといっても過言ではない。このようなことを知っているので、日刊ゲンダイと民主党は金銭的なつながりがあるのではないかという疑いの目が向けられることも少なくないのであるが、その真実に関しては不明である。小沢一郎において、岩手めんこいテレビの株を入手したなどの報道(松田賢弥氏)に関しても、同じようなことが考えられるのである。しかし、実際そのような稀有な例は別にして、政治と「部数至上主義」が一致するとは考えられないのである。
 では、「部数至上主義」とは一体何なのか。
 結局は「シェア」である。新聞に限らず、全ての商品は、「何を伸ばすか」ということでその奥的が分かれることがある。「売上」「利益」「シェア」「数量」の四種類がそれだ。この全てが伸びることが最も理想的であるが、結局全てを伸ばすためにどれを優先して伸ばしたらよいかということになる。
 新聞の場合「部数」つまり、「数量」というように見える。しかし、実際は「部数=シェア」である。日本国民1億2000万人、このうち何人が、自分の新聞を読んでいるか、もっといえば、「何人が自分の新聞の主張の影響を受けているか」ということは、最も大きな問題であり、その影響力の行使が新聞にとっての「力」になるのである。そして、「部数至上主義」は「経済的な力」と「国民に与える影響力」の力の二つの権力を手にすることになるのだ。
 この二つの権力を得ることが、より大きな次のシェアを狙える機会が増えることになり、そして、より大きな権力と営利を手にする機会になるのだ。
 逆に、その情報の垂れ流しを行うことは、国民にとって、非常に大きな危機ということになる。要するに、その新聞の営利目的のために「煽動」されることになるからだ。正しいものも正しくないと報じられ、「マス」がその力を「煽動された」方向に発揮するときに、そのメディアは非常に大きな権力を手にすることになる。
 
 偏向報道は「営利目的」のメディアが「部数至上主義」で「経済的な力」と「国民に与える影響力」の二つの権力を入手し、そしてその権力の拡大を行うときに、付帯的にそれが発生する。
 本来はそうであった。実際、健康番組での健康食品の販売数などは、まさにそのものであろう。しかし、なぜか政治に関してはそうではなく、マスコミは積極的に「煽動」を行うのである。

 マスメディア先進国であるアメリカは、このようなことがないように、二つの施策をしている。一つはメディアの系列化を法律で禁止している。これによって、メディアが一斉に偏向報道を行うことは、できなくなった。マスメディアの多様化と、それに伴う、情報選択の自由を国民が得られるような仕組みになっている。
 もうひとつは、メディアが自分自身でどこを支持しているということをしっかりと伝えるのである。まさに「show tha flag」である。日本でも、自分の立場を明確に示している新聞は存在す。たとえば「赤旗新聞」に関して、その「赤旗新聞」が共産主義を貫いた共産党びいきの報道を行っても、誰も何も言わない。逆に、その専門の店でなければ、「赤旗新聞」を購入することはない。街のキオスクで気軽に赤旗新聞が帰るような環境ではないのだ。
 さて、日本のマスメディアの問題点は「中立である」顔をしながら「実は偏向報道をしている」ことにある。上記の日刊ゲンダイがまさにその物である。
 そして、このような偏向報道は「デマゴーグ(衆愚政治)」の始まりであり、そして、日本の国民の冷静な判断力を失わせてゆくことになるのだ。
 
 政治的な偏向報道は。そのまま「イデオロギー」に結び付けられる。偏向報道そのものが、「イデオロギー」による「国民煽動である」というおことのような話になるのだ。私の目から見て、そうでない場合も少なくないが、上記のような偏向報道も普通に新聞にあって許されてしまう。そして「評論」と評されて、マスメディアの好き勝手に任されてしまっているのだ。
 このような傾向に関しては法律の改正を持って臨まなければならない。しかし、その内容に関して、政治的な中立を規制することと、一方で、「憲法に示された言論の自由」という二つの権利の、中和をどのようにするかが最も重要ということになる。そこに本来ならば客観的な判断を必要とするのであるが、そこは難しい。結局業界任せなどになってしまい、ある程度の習慣とある程度の恣意的な基準が盛り込まれてしまうのである。
 この部分がマスコミ批判の最も中心的な部分であるといえるのではないだろうか。そして、われわれ、通常の新聞社も、まさにこの部分が最大の難関である。新聞に関しては社説評論は、習慣を入れてよいことになっており、また、その内容は、「社説」としっかりと記載しなければならないことになっている。しかし、上記日刊ゲンダイの場合、そのような配慮もされていないのだ。
 このような新聞に関しては、実際に不買運動以外にはないのではないかと思う。自主的に変えることが期待できないのだ。

 ということで、偏向報道に関しては、次回以降ももう少し考えてみたいと思う。

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インターネット選挙概論<メルマガ告知です>

インターネット選挙概論
<本日発行のメルマガ「國會新聞編集次長の未掲載記事とニュース解説 」からの抜粋です>

 今回の選挙公示日までの期間、一つ話題になったのが「インターネット選挙」である。
  インターネット選挙ということに関しては、与野党ともに、その内容を把握し、そして、インターネット選挙を推進しようと試みていた。
 細かい論点はあったものの、大筋でインターネット選挙推進は一つの既定路線になった。

 その既定路線の趨勢が変わったのが6月8日の菅直人首相の就任である。
 それまであまり人気のなかった鳩山首相、小沢幹事長の両者辞任と、それに伴った菅直人首相の就任、そして新執行部人事の「脱小沢」路線で、
民主党内閣の支持率はまさに「V字」回復したのである。
 このことに気を良くした、民主党政権は、前代未聞の新政権での予算委員会も開かない決算報告も開かないで国会を閉会した。
 慣習などを一切無視する、成分規定がなければ何をやってもかまわないという民主党らしい閉会である。

 この民主党らしい国会の閉会によって、インターネット選挙に関しては、法案が提出されることもなく終わってしまった。
 選挙前に騒がれただけに、非常に残念である。

 私が評論を加えるよりも、まずネットのニュースの記事を一つ。

2010年07月02日18時00分 / 提供:ネット選挙ドットコム
http://news.livedoor.com/topics/detail/4862820/
 アンケート実施
 eビジネス推進連合会が、全国会議員と参議院選挙候補者を対象にした「インターネットおよび規制についての意識調査」を実施しました。
 しかし、国会議員では、なんと55名しか回答せず、全国会議員の7%と低すぎる回答率でした。
 ネット選挙解禁するかどうか以前に、そもそも現役の議員には興味さえもないということなのでしょうか。

<結果>
 インターネットサービスの認知度についての質問に対しては、twitterが88%と非常に高い認知度を示しました。
 やはり鳩山前首相のtwitterでのつぶやきが報道されるなどして、認知度が高くなったのでしょう。
 しかし、実際のインターネットサービスの利用率に関しては、twitterは44%と半数以下となり、You Tubeの利用率が92%で圧倒的に多かったです。
 文字より動画のほうはよりダイレクトに伝わり、またアップロードするほうの手間としても、文字を打つより、動画をアップしたほうが簡単であるため、
You Tubeの利用率が高いのかもしれません。
<献金集め>
 最近楽天のLove JapanやYahooなどで始まったネットを通じた個人献金におけるクレジットカード決済について、
すべての種類のクレジットカードの利用を可能とするべきかどうかについては、82%が可能とすべきと答えました。
 自らの死活問題に直結する問題でもあるため、個人が献金しやすい環境を作ってほしいという切実な思いが回答に表れました。


 実際の国会議員のインターネット利用率である。
 みているとなかなか興味深い。
 なかなか面白いと思うのは、インターネットが騒がれているのにかかわらず、実際インターネットの利用率は44%にしかならないこと。
 そもそも回答率が7%と低すぎることなど、実際にインターネットに関する考え方は非常に少ないということが言えるのです。
 実際に、政治家においては、インターネットそのものにそんなに時間を割けないのが現状である。
 そこで、「ツイッター」など、携帯電話で気軽に行うことのできるメディアや、動画配信のように、
誰かが加工してくれるものに出演するのが最も良いということになる。
 
 さて、この傾向を見てもわかるとおりに、政治家においてあまりネットということはあまりなじみがない。
 ネット選挙といっても実際その内容を理解している人は少ないのではないか。
 そこで、今回は、そのネット選挙に関する内容を少し記載してみようと思う。

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参議院選挙の争点(7) 政治改革・憲法改正

参議院選挙の争点(7) 政治改革・憲法改正

 さて、参議院選挙の争点も、今回が最終回だ。最後はやはり憲法に関する内容を記載しようと思う。戦後日本において最大で、なおかつ最も難しい課題が「憲法の改正」もしくは「自主憲法の制定」であろう。55年体制の自由民主党が結党以来綱領として持ち続けた内容が、今年の5月18日に初めてその手続き法が発効されたのだ。では、その憲法を改正することができるという内容に関して、各党はどのように考えているのか。
 私自身、憲法そのものに関して、これが完全なものであるとは考えていない。当然に時代が変われば、その根本がカwるおkともあるであろうと思う。しかし、逆に現在の「日本国憲法」が進駐軍が作ったとされていても、または、そうでなかったとしても、その憲法を否定することもない。少なくとも、原案を進駐軍が作ろうと、そうでなかろうと、現在の法体系が日本の場合は「日本国憲法」中心にできているのであり、同時に、その環境の中でしか育ったことのない私にとって、その憲法を否定してもあまり意味はないと思う。何しろ今まで育ってきた日本の歴史を否定することは65年分といえどもできない話である。
 逆に、そのように憲法の問題を言うのであれば、逆に、現在の考えられうる「理想の憲法」を制定すべきである。そう考えるのが普通ではないだろうか。当然に「憲法の改正」はそれに伴った「関係書法規」つまり「日本にある全ての法律」の点検ということが前提になり、その作業はかなり膨大なものになると考えられる。そのことをする計画まで建てなければならないであろう。
 それでも、憲法の改正は必要であると思う。何も9条に関することばかりではない、ねじれ国会など想定されていない事態が発生し、国政が停滞した経験を含め、また、現在の菅直人首相は「日本国憲法に三権分立は存在しない」などと言っていることも含め、それら議論になっているところを、全て議論し尽くさなければならないであろう。そして、国民的な議論をしなければならない。そのことこそ「今後の国家の姿を示す行為」ではないのか。
 結局「国会」は「日本で唯一の立法府」であり、その立法府の一つの審議機関である参議院の選挙である。その審議機関の審議を行うことこそ、必要な内容ではないだろうか。
 そして、その審議機関に関する改革は「政治改革」といわれる一連の作業になる。政治改革は憲法および立法府の改革であり、同時に行政府の改革でもある。これは菅直人が主張する「三権分立がない」からではなく、「日本が議院内閣制」という制度を整えていることによってできる内容である。
 よって、「政治改革」と「憲法」を最後の内容にしようと考える。ここで、各政党の根本を見てみたい。

政治改革・憲法

<民主党>
政治団体の収支報告書の連結、外部監査、インターネット公表を義務付け。企業団体の献金とパーティー券購入を禁止。参議院の定数を40程度削減。衆議院の比例定数を80削減。
<自民党>
衆議院と参議院の議員定数3年後650人、6年後500人に削減。政治資金の透明性を一層確保。個人献金がしやすいよう税制優遇。憲法審査会を始動させ、改正原案を国会提出。
<公明党>
衆議院に新しい中選挙区制。衆参両院の定数削減。18歳選挙権、永住外国人への地方選挙権を実現。企業団体献金を全面禁止。現行憲法に新たな条項を加える「加憲」の立場。
<共産党>
国会議員定数の削減に反対。企業団体献金の全面禁止。政治家の資金の流れをインターネット公開。政党助成金を全面廃止。少数政党差別の規定を改める。改憲反対。
<国民新党>
憲法論議の再開を促進し、自主憲法制定を目指す。外国人参政権の付与に反対。
<新党改革>
国会議員定数を半減。企業団体献金を禁止。個人献金に移行するまで政党助成金で対応するが、国民の適正な負担水準を検討。税金の使われ方を国民がチェックできる国民監査請求制度の創設。
<社民党>
企業団体献金をただちに禁止。比例代表中心の選挙制度。政治家の資金管理団体、政治団体、後援会の連結決算の実現。インターネット選挙運動の原則解禁。憲法審査会を動かさない。
<たちあがれ日本>
衆議院は定数400の新しい中選挙区制。参議院は定数を200に削減。労組が窓口となる政治献金、組合費の政治資金利用を禁止。自主憲法制定、集団的自衛権の解釈を適正化。外国人参政権付与に反対。
<みんなの党>
衆議院180人、参議院142人の定数削減。将来的には憲法改正時に一院制を実現。議員年金を廃止。政治家個人への企業団体献金を即時全面禁止。インターネットを活用したワンクリック献金を推進。

 まず、政治改革に関してである。
 政治改革に関しては、「企業団体献金の禁止」と「国会議員の定数削減」である。
 企業団体献金は、企業団体が政治に献金することは、それだけ、業界団体のために政治を利用することが懸念され、業界と政治の癒着、不正の温床となることが一つの切り口になっている。しかし、政治に金がかかるのは当然のことである。とくに、新人の候補が選挙戦を戦うに関してはそれなりに献金で選挙戦を戦わなければならない。その内容をいかに調整付けるかが最大の問題となってくる。
 結局は政治に資金をかからないようにするということが重要な切り口になる。しかし、結局政党助成金などをしても、その金銭をもとにした政党の支配が続き、国会議員個人が自分のために主権を託してくれた、その主権者の代表という部分が徐々に少なくなってしまうのである。政治とカネの問題は、本来は政治家に利権を求めない国民の民度の問題であると考えられるが、そのようなことは、ほぼ不可能に近い。会社などが利益を追求する存在であれば「政治献金」も「投資」の一つである。また、この不景気に個人献金を行う人などはいない。そうなれば、政治家は政治の活動を制限されることになる。
 ということで、本来は、それらの内容の調整をつけながら、要するに、政治とカネと利権とカネのかからない政治活動について調整を行いながら、その内容を決めてゆかなければならない。癒着や不正という「犯罪」を考えるだけではこの問題の解決にはならない。ましてや、抜け道の多い「ザル法」では意味がないのだ。
 その意味で、与党民主党は「政治家の規制」だけを考えている。「公表の義務付け」「外部監査」「企業団体献金の禁止」と書いているが、結局これで政治活動ができるのか、これはなはだ疑問である。民主党と同じように「規制のみしか考えていない政党」は「公明党」「共産党」「社民党」「たちあがれ日本」というところだ。
 これに対して「みんなの党」「新党改革」「自民党」は個人献金制度の検討を進めている。結局、団体企業献金がないならば、その分個人の献金を行わなければならい。しかし、小沢一郎の西松献金などのように、給与に上乗せして一定の候補に出してはあまり意味がない。結局企業献金と同じである。では、そのような成り澄まし献金をどのようにするのかなど、個人献金にするには、様々な内容が必要になる。
 
 次に国会議員の定数削減だ。
 国会議員の定数削減は、国会議員そのものが多すぎ歳費が多いという批判からきている。要するに「ムダ」ということだ。逆に定数が少なくなれば、その分少数の意見は無視されることになる。最も民主主義が完遂しているのが「直接民主制」であると考えるのであれば、当然に、国会議員は多いほうが少数の意見も反映されるはずだ。
 この問題は、少数意見と一方で税金の財源というものだ。もっといえば、「資金」と「主権(少数意見)の反映」のどちらをとるのかということであろう。
 削減に関しては、特にここで何か言うつもりはない。実際は、「なぜその数字になったのか」という根拠があるかどうかということであろう。
 
 次に、憲法に関してである。
 憲法に関して記載があるのは「自民党」「公明党」「国民新党」「たちあがれ日本」である。「民主党」「みんなの党」「新党改革」は記載がない。なお、「共産党」は「憲法改正反対」という記載が、「社民党」には「憲法審査会を動かさない」という記載がある。要するに両党は「憲法を今のままにすべき」ということだ。
 さて、憲法に関しては上に出した。そもそも政治改革、国会議員の定数に関することを言い、国会の改革などを言いながら、「憲法」に触れないのはおかしい。ことに、外交防衛で民主党は、「海外での海賊などに関する貢献」を主張している。海外への自衛隊の貢献は非常に良いことであるが、一方で、「日本の持つ武力に対する憲法解釈」を何も記載しないのは矛盾している。民主党は、消費税の問題でも、発言するごとに内容が変わってみたり、一度公約としたものをぶれてみたり、こんな感じでは話にならない。結局憲法や日の丸君が代、この国の形というところまで含めて、消費税と同様に「ブレ」だけで、その場限りの場当たり的な対応で済むと思っているのであろうか。はっきり言って、民主党は、どのような国にするのか、どのような理想で政治を行っているのか全く分からない。「利権にしがみついているだけの政党」といわれても、反論できないのは、このような、民主党の政策や発言から将来の日本の姿が見えないからであろう。
 憲法に関しては「その内容」が記載されているマニフェストはない。実際、憲法といえば9畳しかないような過剰反応をする人も少なくない中で、憲法改正を言うのであるから、なかなか大変であろう。その中において、憲法を通して将来の日本のあるべき姿(各政党によって異なると思うが)を示さなければならない。そのことを、国民的議論で行うべきではないだろうか。

 今回、7回にわたって、参議院選挙の争点を見てきた。一つ一つの項目では、結局何となくうまくいくようなバラ色の将来が見えるようなマニフェストも、いくつか合わせてみて、よく考えれば、矛盾している。成長戦略と言いながら消費税ということを行ったり、国会改革とか政治改革と言いながら、憲法に触れない政党があるからだ。無駄削減で失業者を増やしながら雇用を増やすといった難しいことを言う政党もある(同じ政党かも?)。そのような矛盾を、平気で行ってそのまま国民をだますのはおかしな話だ。
 このような、項目ごとに違うことを言うというのは、要するに、国家に関する理想や将来の国家像を国民に示していないからである。全ての政党は、「50年後このような日本にする」という理想を示し、そのうえで「そのような国にするために、今、このような施策をします」ということを示してもらいたい。そのこともできないで、政治家とか政権公約というのは滑稽であろう。読み取れる部分もあるが、逆に矛盾に気がつかない政治家がいるのはどうかと思うのである。
 
 国民は騙されずに、自分の信念で、そして、政策で投票する先を選んでもらいたい。

 参議院選挙の争点は、今回で最終です。また次回からは通常のブログに戻します。

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参議院選挙の争点(6) 外交・安全保障政策

参議院選挙の争点(6) 外交・安全保障政策

 国ということを考えた時に、外交と安z年保障ということが最も重要な一つの政策であることは、当然のことととして考えなければならない。
 私は昨年の今頃、総選挙を前に「今の論点ハンドブック」という本を出した。実際に、その本の中には、当時の論点が記載されている。あまり売れた本ではないので、なかなか本屋でも見かけることはないが、実際のところ、今になって読み返してみると、我ながらよいことを書いているようい思える。というのもの、昨年の論点と今年の論点があまり変わっていないというのが現状だ。
 景気回復、外交、安全保障など、状況や世界情勢はかなり変わっているものの、日本国の抱えている問題は、そんなに変わっていない。それだけ民主党、ことに鳩山政権が何もしなかったということを示している。ことに、外交と安全保障に関しては、当時の麻生政権に比べて格段に悪化しているといっても過言ではない。
 日米関係を基軸にしている戦後日本の外交を、小沢一郎訪中団が日中関係重視に切り替えてしまった。これと、普天間基地移転問題、そして、それらに伴う鳩山首相の発言の変転の数々は、国際的な日本の信用を完全に失墜させた。信用を失墜させたのは、結局「同盟」と言いながあ、その同盟国に意識がない。同盟国との義務を履行しない。そのうえ、発言が二転三転して信用できないということだ。鳩山首相が変わっても、結局のところが同盟国としての義務の履行を行うかということは、いまだに諸外国から疑問符が付いている。これらh、「民主党が」「鳩山が」「菅が」という話ではなく、「日本人は皆、信用できない」という国家的権威の失墜を招いていることを認識しなければならいであろう。
 それでも、日中関係がうまくいっているのであればよいのだが、残念ながら東シナ海の領有もしくは排他的経済剤水域をめぐり日本との対立は深まっている。ただ単に尖閣諸島の問題だけではなく、接近した領海、もしくは排他的経済水域における軍事行動と威嚇という行為に対して、日本がそれだけの安全保障を得ることができるのか。何のための訪中団だったのか、まったく意味がわからない。
 このような状況下における「外交・安全保障」の各党の政策はどうなっているのであろうか。なお、ここまでは、現在、昨年の総選挙以来の民主党政権の外交、安全保障の実績を解説したものでしかない。各党の政策は、その現在の世界における日本の状況を踏まえたものでなければならないのである。

外交・防衛

<民主党>
普天間基地移設問題は日米合意に基づいて沖縄の負担を軽減。日米地位協定の改定を提起。国連安保理常任理事国入りを目指す。自衛隊などによる海賊対処活動を継続。
<自民党>
沖縄をはじめとする地元の負担軽減を実現する在日米軍再編を推進。拉致問題の進展がない限り北朝鮮への経済支援をしない。インド洋上での補給支援活動を再開。国連安保理常任理事国入りに取り組む。
<公明党>
日米安全保障条約を堅持。米軍再編は抑止力維持と地元負担軽減を実現しながら着実に実施。PKOへの積極的参加。核のない世界の実現を目指す。
<共産党>
普天間基地の無条件撤去。米軍基地の強化、永久化に反対。日米地位協定の抜本改定。「日米核密約」を廃棄し、非核の日本を実現。
<国民新党>
沖縄の過重な米軍基地負担を見直し、訓練の移転、基地の非固定化などによる負担軽減を図る。国際水準に合った防衛力を整備。拉致問題の早期解決。
<新党改革>
日米同盟を堅持。日米安全保障条約を基軸とした安全保障を維持。けん制外交と多元外交を導入し、外交の主導権を握って国益を確保。
<社民党>
日米同盟強化に反対。普天間飛行場の「県外」「国外」への移設に取り組み。日米地位協定を全面改正。非核3原則を法制化。自衛隊を専守防衛に徹した組織に縮小。海賊対処は海上保安庁主体。
<たちあがれ日本>
日米を基軸とした現実的な安全保障を推進。普天間基地問題は「ぶれずに誠実に」解決を図る。インド洋給油活動は再開。領土外交を強化。北朝鮮拉致問題は対話と圧力で早期解決。
<みんなの党>
日米安保体制を基軸とするが、「思いやり予算」の見直しや沖縄の負担軽減などを米国に要求。普天間問題は沖縄との信頼関係を再構築し、合意形成を目指す。国連安保理常任理事国入りを目指す。

 論点は「日米関係」「北朝鮮問題」「世界秩序のための貢献」の三点である。さすがに、世界平和などは政権公約としてあげても、どうにもならない、核兵器を持っていない日本が核廃絶を騒いだところで、あまり意味がない。そもそも軍隊を持っていない日本が世界平和を叫んでも、その実行力はない。しかし、一応日本の国民に耳触りが良いということになれば「世界平和」とか「非核世界」などというものである。しかし、実際その具体策は何も言えない。ただ「国連で訴える」とか「世界に情報を発信する」など、活動している人に対しては失礼かもしれないが、自己満足でしかない主張である。世界平和を本当に願っている人の個人的活動ということに関して、私はそれを否定するつもりはないが、残念ながら、政治の世界、ことに政党の政権公約で具体的実効性のない内容を公約するのは、国民に対して無責任としか言えないのではないだろうか。敢えて、繰り返すが、本当に平和を願って活動している人を否定するものではないので、悪しからず御了解願いたい。逆に、具体的に、政治的な活動としてどのように「世界平和」「非核世界」を実現するのか、その方法を、それを公約する政党は是非「実現可能な範囲で」示していただきたいものである。
 よって、論点は「日米関係」「北朝鮮問題」「世界秩序のための貢献」の三点に絞らせてもらう。
 日米関係の機軸は、一つは、日米安全保障条約、そして、鳩山政権でめちゃくちゃになってしまった普天間基地の移転問題である。もっと言えば、沖縄の在日米軍再編問題をどのようにするのかということに帰結する。
 政府民主党は、「普天間基地移設問題は日米合意に基づく」「日米地位協定の改定」ということを提起した。しかし、そもそも「父米同盟の堅持」とか「在日米軍再編」ということを記載はしていない。この政府は、本当に沖縄そして米軍の事をわかっているのかたまに心配になることがある。しかし、「少なくとも県外」といっていた、前首相の発言を文書の形で否定したのは、一つ評価できるのかもしれない。逆に沖縄の人はこれについてどう考えるのであろうか。民主党のマニフェストを受け入れられる沖縄の人はいるのか、かなり気になるところである。
 日米関係を壊してでも沖縄米軍の撤去などを求めているのは、「共産党」「国民新党」「社民党」である。一方、日米同盟もしくは日米安全保障条約の堅持をしっかりと打ち出しているのは「自民党」「公明党」「新党改革」「たちあがれ日本」「みんなの党」である。要するに、鳩山政権化の与党三党が「日米同盟反対派」であり、それ以外の政党が「日米同盟堅持派」という単純な構造に分かれたところである。
 別な見方をすれば、国際社会の中の日本ということを意識し、また東アジアの平和と秩序を「日米基軸」で考えているのは、今の野党ということになる。日米関係に反対していながら、その先のヴィジョンが全くないのが今の与党ということになるのであろう。
 日米同盟を破棄、もしくは安全保障条約を破棄するということは「ロジック」として可能であるといえる。しかし、そのためには「アメリカに代わる日本を護る」のは誰かということを明示しなければならない。福島瑞穂社民党代表は、大臣であるときに国会答弁で「憲法9条があるから日本は攻められることはない」というが、では「泥棒に入られない」と書いて、家の中においておけば、泥棒に入られることはないのか?という疑問が出てくる。誰かが守っているから、責められていない。警察が守っているから家に泥棒が入らないということが分からないのか。この答弁こそ「平和ボケ」そのものである。平和ボケは、ただ単にぼけているのではなく、「陰に隠れて守っている人々」への感謝の念も喪失していることに気付くであろうか。結局守ってくれている人に「お前たちはいらない」という通告をしているのに過ぎないのだ。それも、軍隊として命がけで守り、そして、訓練をしている人に対してである。そのような話が国際社会で通るはずがない。沖縄の問題は、日本国全体の安全保障の問題と日米関係の問題を合わせた問題であるが、現在の与党側の人々には「日本全体の安全保障」の考え方が完全に欠如しているのではないだろうか。そのような政党に安全保障を任せられるか?ということが、一つの争点になる。また、そのように陰に回り守ってくれている人に対する感謝の念があるのか、もっといえば「縁の下の力持ち」に対する感謝の念がない人々を、そのまま国際社会に参加する与党、政府の場に居させてよいのかということであろう。
 
 次の議題は、「北朝鮮の問題」である。
 北朝鮮問題に関しては、記載してあれば拉致問題は、朝鮮半島の非核化ということで記載してあるはずだ。日本において、北朝鮮の肩を持つ論調が存在するということは、少なくとも選挙、政党レベルで存在するとは考えづらい。
 では、その「日本人にとって当り前なこと」に関し、一歩進めて具体的な施策が書いてあるかどうか。これが、政権政党としての問題だ。もっといえば、政権政党である以上、または政権公約である以上、具体策のない「お題目」をいくら並べても意味がない。公約は実行してこそ初めて「公約」であり、残念ながら嘘と実現不能なことを書いても何の意味もない。だから、わつぃは外交、安全保障といえども「世界平和」「非核世界」と書いてあることを徹底的に無視しているのである。
 具体的な施策のない「拉致問題の解決」などと書いても基本的には何の意味もない。そのことは誰でもわかっている。そんなことを「マニフェスト」に書いて解決するのであれば、そもそも「拉致問題」そのものが存在しない。そう考えれば、民主党や社民党が何を言っても、実際に拉致被害者を日本に戻したのは小泉政権の自民党であった。その実績を誰もが認めなければならないであろう。誰かが行ったことを、あとから批評することは簡単だ。しかし、では、今の菅直人政権で、他の拉致被害者を返還させうrことが可能なのか。当時の小泉内閣のように、その交渉を行い、北朝鮮に行って、連れて帰ってくることができるのか。できもしない人に他人を批判する資格はない。それどころか、過去の日本社会党、今の民主党の中にもその出身者は多いが、その社会党は、「拉致はなかった」と言っていたのだ。それは拉致被害者が帰国後も、そのような論文を掲載し続けたのだ。そのような過去のある政党が「北朝鮮の非難」とか「拉致問題の解決」といっても何の意味もない。
 現在の首相菅直人は「シンガンス」という拉致の実行犯でスパイ容疑のある韓国の容疑者の釈放要望書にサインをした経歴もある。そのようなことでよいのか。完全に外交感覚がずれている人が首相にいるということになるのではないだろうか。
 そのような観点で「実効性のある施策を付した北朝鮮対策」を書いているのは、「自民党」(拉致問題の進展がない限り北朝鮮への経済支援をしない。)「たちあがれ日本」(北朝鮮拉致問題は対話と圧力で早期解決。)だけである。これでも具体性はないのかもしれないが、実際の部分、具体性のある内容を記載することもなくただ「お題目」で「早期解決」などとしか書いていないマニフェストに比べれば、どれほどよいか。何も具体策が出ない政党が批判できるものではないことは明らかだ。ましてや、実行犯の釈放署名を行ったり、拉致はなかったといっていた議員のいる政党では話にならない。
 
 最後の論点は、「世界秩序のための貢献」である。
 これに関しても、民主党は先の総選挙で「インド洋給油即時中止」「自衛隊派兵禁止」などと言っていた。それが、一年たたないうちに「自衛隊などによる海賊対処活動を継続。」と言い出しているのである。自民党は、過去の自民党政権での国際貢献を継続再開するという話になっているのであるから、民主党との違いがなくなった。このほかに国連安全保障常任理事国ということも双方ともに入っている。
 実際のところ、具体的な海賊や、給油という問題ではなく、自衛隊という武力組織を使った、世界貢献が何ができるのか、そして、そのための法整備をどのように行うのかという観点である。自民党などは、その自衛隊に対する態度がしっかりわかっているが、では、民主党に「憲法9条を改正する」ことが可能なのか。可能性ではなく、その動きを具体的にするのかということが最大の問題になるであろう。自衛隊を軍隊にというのではなくても、集団的自衛権など現在の懸案内容を憲法や法律の明文化として解決する意思がないのであれば、議論を先送りしたにすぎないということになる。民主党は、自分で言いだしたことを勝手に変えてしまったりするので、その辺は名文、あるいは法律として残しておかなければ、何の意味もない。
 ここでも、民主党が「日本を将来どのようにしたいのか」ということが問われる。綱領のない政党は、アメーバーのように形を変えてしまう。それでよいのか。具体的な施策が時代や環境によって異なることはあっても、その根本の政治原理や政治信条の部分をころころと変えられては、国民は何を信じてよいのか分からなくなってしまうのではないだろうか。

 外交、安全保障の問題は、「普段の生活では何の問題もない」ことなのかもしれない。しかし、シーレーン防衛など、実際は陰に隠れているものの、それらの防衛力があるために、現在の生活が維持されているということを考えなければならない。国民が最も平和ボケしているから、平和ボケ政党がそのまま存在し、政権につき、外国からの信用を失墜してしまうことになる。それでよいのか。
 もう一度、日本という国に関して、そして、子供たちや孫たちにどのような国を残すのか。その日本という国は世界の中でどのように評価される国なのか。そのことを考えなければならない。考えたうえで、参議院選挙の投票を行ってもらいたい。そう願うばかりだ。

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参議院選挙の争点(5) 子育て・教育

参議院選挙の争点(5) 子育て・教育

 教育は、「国家100年の計」という。
 実際、この内容に関しては非常に大きなものである。国家の将来像を語るにあたって、子供が将来どのような大人になるのかということを考えん変えればならないのではないか。その内容こそ、「子育て・教育」である。
 まえがきよりも、まず、各党の政策を見てみよう。

子育て・教育

<民主党>
「子ども手当」を1万3000円から上積みし、上積み分は現物サービスへの代替も可能に。希望者全員が受けられる奨学金制度を創設。学校現場での柔軟な学級編成、教職員配置を可能に。
<自民党>
子ども手当は全面的に見直し。国公私立すべての保育料、幼稚園費を無料化。子どもの医療費を無料化。全国学力調査、教員免許更新制度の復活。給付型を含めた奨学金の拡充。
<公明党>
就学前3年間の幼稚園、保育所を無償化。出産一時金を50万円に。未就学児から中学生までの医療費を1割負担に。給付型奨学金を創設。
<共産党>
3年間で30万人分の保育所を整備。保育士の待遇改善、保育料の負担軽減。私立高校の無償化。年収400万円以下は大学の学費を免除。就学援助や児童扶養手当を拡充。
<国民新党>
親元を離れて大学などに通学する子を持つ世帯の仕送り減税を創設。高校無償化を継続するとともに奨学金制度を拡充。
<新党改革>
待機児童解消のため幼稚園、保育園を増設、費用の無料化を検討。子ども手当を残す場合は子どもを多く作るインセンティブを設ける。脱「ゆとり教育」。中高一貫教育を推進。
<社民党>
子ども手当を中学修了まで1人につき月1万3000円。保育施設と学童保育を増やし、待機児童ゼロを実現。30人以下学級を早期完全達成。就学援助の対象を高校まで拡大。
<たちあがれ日本>
子ども手当を凍結し、子育て給付付き税額控除を導入。高校無償化を撤廃し、所得制限付き給付型奨学金を導入。学力テストや教員免許更新制の強化で客観評価を反映した教員給与に転換。
<みんなの党>
子ども手当を見直し、現物給付と現金給付を組み合わせた政策に転換。待機児童ゼロ、病児保育の拡充、育児休業取得の円滑化。幼児医療の無償化。返済不要型を含めた奨学金制度拡充。

 争点は「子供手当」「奨学金」である。
 まず、「子供手当」賛成派は「民主党」「新党改革」「社民党」である。一方、廃止を含めた見直しが「自民党」「立ち上がれ日本」「みんなの党」である。そのほかは、あまりはっきり書いていない。
 「子供手当」に関しては、そもそお財源論や選挙対策論などがある。それだけでなく、実際のところ、「子供を育てる主体はだれか」ということになるのではないか。もちろん、財源や選挙対策でのバラマキも非常に重要な争点である。実際に、この子供手当の財源5兆円で、もっと様々な経済政策を行えば、景気も良くなり、生活も向上するであろう。その財源があれば、様々なことができるはずだ。宮崎の口蹄疫の被災地に補助金を出すこともできる。公共工事に使えば、もっと様々な乗数効果を得ることができたであろう。しかし、民主党政権はそれをやらずに、「子供手当」というバラマキを行ったのである。これは、そのまま、子供手当分の公共工事がなくなり、それだけ、企業の仕事が減り、そして雇用を減らしたということ意味するのだ。
 そのような経済的なことを無視してこの「子供手当というバラマキ」を「強行採決」したのは、まさに今回の参議院選挙に間に合わせるためである。それだけ、審議もしていないということは、逆に、法律として不完全であるということを意味する。国費を一政党の選挙対策に使ってよいのか。そんなことをしてはよくないに決まっているのだ。
 しかし、ここでは、「子供手当」の財源論ではない。違う観点から「子供手当」の考え方の問題である。「子供手当」の考え方は「子供は社会で育てる」「子供はみんなで育てる」というものだ。しかし、実際はどうであろうか。
 子供のしつけなどは、昔、近所のおじさんなどが様々注意してくれたものだ。必ず怖いおじさんやおばさんがいて、その人が何かと注意してくれた。私の両親なども、そのような話をして「怒られた」と訴えても、怒られた私が悪いとされたものである。昨今は核家族化が進み、また、子供を過保護に育てているのである。ということは、他人が子供に注意をすると反抗するような親が少なくない。注意をありがたいと思う人が少ないのが現状だ。
 昔であれば、「当たり前」が、現在では「異常」というようになってしまう。それでよいのかということはある。しかし、それは「地域コミュニティ」を再構築するということであり、「金をばらまく」ということではない。自民党政治といわれるかもしれないが、高度経済成長と、それに伴う都市化によって、どうしても都会生活における核家族化が進展してしまっている。その内容は、ただ単に核家族化というだけでなく、地域社会そのものの破壊につながってしまっている。そのことから、隣の人の名前も知らないという状況が生まれてくる。同じマンションの人の殺人事件などが発生するのは、まさにこのことであるといえる。
 犯罪抑止、道徳観の復活ということ、または子供幼少期の教育(とくに、道徳やマナー教育)ということと、地域コミュニティの復活ということはどうしても切り離せないのではないだろうか。とはいえ、「核家族化」「都市化」を辞めるということはできない。できないというのは、単純に実現が難しいということだ。しかし、逆に「地域コミュニティ」の復活の代わりに子供の教育という面で「子供手当」をバラマクというのは、また話が違う。
 「子供は社会が育てる」というのは、ある一面この「地域コミュニティ」の復活という前提で言えば、その通りかもしれない。しかし、核家族化で隣の人が分からない都市生活者において、「子供は社会が育てる」といっても、何の意味もないのも事実だ。地域コミュニティにより、こわいおじさん、おばさんがいた時でも、子供を育てる主体は「親」である。そこに「親子」の関係が生まれ、そして、「孝」という考え方ができるはずだ。逆に、子供が変な育ち方をすると、「親」が色々といわれるのも、社会の最小単位としての家族の問題として考えられているからに他ならない。
 このような考え方が教育の主流になるのでは、将来、大きな犯罪を犯した犯罪者の家族が「あの子は社会が育てたから、社会がおかしい」などというコメントを出すことも考えられるのではないか。
 教育論は、このように、教育の主体と客体の問題である。金、バラマキの話は、それを体現、具現化した政府の政策の一つでしかない。その「最小社会単位」である「家族」の破壊は、「日の丸、君が代」という国家象徴の破壊という現在の民主党の主義主張と同じで、また、「夫婦別姓」という最小単位の破壊まで、様々な政策を出している。これこそ社会主義国家、集団主義国家の象徴という法案が目白押しだ。
 私は、個人的な意見を言わせてもらえば、これら民主党の政策に関しては反対である。

 一方、奨学金に関しては、「学びたい人への援助」という意味で、柔軟に対処すべきである。こちらは、純粋な「財源」の問題だ。もともと、奨学金制度は、基金からの貸し付けがあり、そして学んで社会人になった人がその金銭を収入のうちから返すということになっている。しかし、その内容に関して、現在の景気状況などから奨学金を返済できない人が多くいるということも現状だ。奨学金で学校を卒業しても、その後就職がなくて、収入がなく奨学金を返済できないということになる。これらの事態を備えて、奨学金制度に税金の投入などが考えられている。最も有名なものが「高校授業料無償化」である。要するに、「高等学校」の授業料は本来義務教育ではないので受益者負担で授業料の負担が必要であるが、それを「奨学金」のように全て税負担とするというものだ。これも一種の「奨学金制度」といっても過言ではあるまい。
 奨学金制度に関しては、これも景気対策などと連動し、また財政制度との連動を含めて考えなければならないであろう。そのことがなければ、この問題は解決しない。基本的に財源の問題と、その財源の使用用途の問題でしかない。それを「授業料」というところに使うことが適当かどうかということである。

 もう一つ言えることは、その奨学金で受ける授業は、「良い授業なのか」という教育の質の問題である。
 教育の質に関しては、様々言われている。日教組という組織そのものの話をするつもりはないので、それらはそこについて書かれている書籍などを参照してくれればよいであろう。
 教職員の任免制度、もしくは、免許更新制度など、教育を受ける側における教員の選択権を認める何か施策が必要なのは事実であろう。そのことを言及しているのは「自民党」と「たちあがれ日本」の二つの政党だ。それ以外は、教員に関しての任免権を生徒もしくは教育の現場ではなく国もしくは自治体政府が行うものと認識している。要するに、「教育は国が国民に対して『施す』もの」という考え方なのであろう。実際、教育の現場を見ていれば、そのようなものではないのは明らかだ。教員によって、生徒はかなり変わってくる。梅雨額や高校の恩師の影響で世界的な権威を持った偉人は少なくない。そもそも「子供は社会が育てる」と言いながら、「子供の教育」に関して「社会や親、当事者の意見を入れない」というのは、製作そのものが矛盾しているといわざるを得ない。
 
 最後に「親の教育」である。このことに関しては、どこの政党のマニフェストにも出ていない。少子化大臣などがいても、あまり意味がないということか。結局「子育て」を「金銭問題」と単純化してしまっているのではないか。それでは、大きな問題を残すことになる。

 ということで、教育に関しては、様々言いたいことはある。今回、この争点に関しては、言いたいことが多くどうしても私個人の意見が強くなってしまった。しかし、一つ言えるのは、マニフェストの比較をしながら「バラマキ」に乗っていては教育はうまくいかないということは事実であろう。そのようなことをして、将来子供に恨まれる親にならないように、われわれは気をつけなければならない。親の愛情を感じない子供が不良になるという研究論文を読んだことがある(詳細は忘れた)。社会が育てるとした政党は、これらの愛情など「心」の教育をどのようにするのか?教育を選挙の道具としてしか考えていないのではないかと疑いたくなるのだ。
 そのためには、本当に教育は何が必要なのか。ということを真剣に考えた教育政策を選んで投票すべきではないだろうか。

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