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マスコミ批判に対する一考 (3) 日刊ゲンダイにおける民主党誘導報道

マスコミ批判に対する一考 (3) 日刊ゲンダイにおける民主党誘導報道

 マスコミにおける偏向報道ということが、どうしてもマスコミ批判の最も大きな何用の一つとなっていることは間違いがない。その一つの例が、今回の参議院選挙において現れた。まず、その内容をインターネットのニュースから見てみよう。

 日刊ゲンダイ「民主に投票呼びかけ」  公選法違反といえないがネットで波紋

   「もう一度民主党へ投票を」。同党びいきの報道を続ける日刊ゲンダイが、顔となる1面でこんな見出しを掲げた。公選法違反にはならないが、日本のマスコミ界では異例の呼びかけで、ネットでも波紋が広がっている。
   アメリカの各新聞では、共和党など特定の政党支持を表明するのは珍しくない。ワシントン・ポストなど大手紙の社説も同様だ。
2ちゃんねるではスレッドが乱立する祭り状態
   日本の大手紙などには、こうした文化は根付いていない。しかし、夕刊紙の日刊ゲンダイは、2009年の政権交代以来、民主党支持を明確にする報道を続け、ここに来て、同党への投票呼びかけに踏み切ったわけだ。
   10年6月30日発売号では、1面に大見出しを掲げ、記事中で「選挙民は民主党一本に投票する必要がある」と訴えた。
   その理由として、日本に民主主義を根付かせるために、政権交代を安定的に実現する必要があると主張。「民主党過半数実現で政権交代完成」との大見出しとともに、「争点は消費税ではない 民主党の議席数だ」と見出しで訴えた。消費税は、菅直人首相らが次の衆院選で信を問うと公言しているので、争点ではないというのだ。
   見出しまで掲げたこともあって、ネット上では、同紙の民主党投票呼びかけに波紋が広がっている。2ちゃんねるでは、公選法違反ではないかと、スレッドが乱立する祭り状態に。「どうみてもアウトです」「よくこれ校正通ったな」といった書き込みが相次いでいる。
   政党支持を越えて、投票呼びかけまですることは、本当に公選法に触れるのか。
   確かに、選挙期間中に、第3者が選挙運動のために文書を配れば、公選法142、146条から違反に問われてしまう。ところが、新聞・雑誌といったマスコミは別だというのだ。
   総務省の選挙課では、新聞などへの公選法適用についてこう説明する。
「虚偽であったり、事実を曲げたりしたことでなければ、紙面で、事実に基づいて報道したり、評論を加えたりするのは、基本的に自由です。報道・評論の範囲内なら、直ちに禁止されるものではありません」
   これは、公選法148条の規定にある。都選管の選挙課でも、「表現の自由は、憲法の柱の一つで、新聞などは、社会の公器として情報提供の役目を持っています。それを規制することはできませんので、公選法違反での警告もできません」と言う。
   公選法に言う新聞とは、第3種郵便物に承認され、公示前の1年間、毎月3回以上、定期的に販売しているものを指す。雑誌にも、同様な規定がある。
   投票呼びかけについては、判例でも認められている。東京高裁で1960年7月15日に出た判決では、「評論と解される」との見解が示されている。

(2010年7月1日(木)20時55分配信 J-CASTニュース)

 私個人的な意見を述べさせていただければ「このような夕刊紙が、マスコミの信用を著しく棄損している」と思う。法的には難しいが、われわれマスコミの業界の人間が、「名誉棄損」で摘発したいと思う。(よほどのへ理屈でなければ法律的には難しいと思うが)。しかし、このような夕刊紙があることが「マスコミは」とマスコミ全体の信用を負いとしているということに関しては、だれも異論はあるまい。
 ことに、日刊ゲンダイは、キオスクなどの売店で、やはりテレビと同じように「その新聞を買わない人までも」目にするというところにあり、広告と一面の並べ方を考えれば、その影響は非常に大きいことは明らかである。この夕刊紙はそのようなことまでもわかっていながら、このような偏向報道を行うのであるから始末に負えない。はっきり言って、「マスコミ」を名乗らずに、「民主党機関紙」とはっきりと宣言してもらいたい。
 
 さて、個人的な意見は少し別にして、ある程度中立的な意見から書いて行こう。
 まず、マスコミそのものは、前々回にも記載したように「営利目的」である。もっといえば、河内孝氏の著書にあるように「(販売)部数至上主義」と言っても過言ではない。結局のところ、新聞の部数が売れさえすればそれでよいという考え方は、非常に強く存在する。テレビメディアで言えば「視聴率至上主義」ということになる。今回は、上記に日刊ゲンダイの記事を引用したので、ここで取り上げる用語は、全て新聞のものに統一する。
 「部数至上主義」ということは、二つのことを意味していると考えてよい。通常考えるのは当然に「収入至上主義」「経済至上主義」という考え方である。部数が多いということは、それだけ収入が多いということだ。たとえば朝日新聞で800万部の売り上げがあるとすれば、1日150円で販売し、単純計算で1日で12億円の売り上げがあることになる。実際は1カ月契約などになっており、そこまでいかないかもしれないが、その部数に比例して広告収入なども入ってくるので、「部数至上主義」と「経済(収入)至上主義」は深く関係する二つの価値観であることが良くわかる。
 一方、経済至上主義だけで「部数至上主義」を言うことはまず少ない。はっきり言って、新聞購読料よりも広告収入の方が新聞の場合格段に多いのであるから、「経済至上主義」を強く打ち出すのであれば、広告もしくはチラシの折り込みなどを重視する政策になってくる。もっといえば、経済面や広告面の拡充ということになったり、書評や商品説明の「記事広告」の枚数が増えるということも考えられる。このような経済の収入比率が、「スポンサード重視」と「読者軽視」につながるという見方をする評論家も少なくない。結局スポンサードの高い相手が、紙面の占有率が大きくなるということになるのだ。しかし、そうであるとすれば、実際に、上記のような政治面における経済至上主義はまずあり得ないといっても過言ではない。このようなことを知っているので、日刊ゲンダイと民主党は金銭的なつながりがあるのではないかという疑いの目が向けられることも少なくないのであるが、その真実に関しては不明である。小沢一郎において、岩手めんこいテレビの株を入手したなどの報道(松田賢弥氏)に関しても、同じようなことが考えられるのである。しかし、実際そのような稀有な例は別にして、政治と「部数至上主義」が一致するとは考えられないのである。
 では、「部数至上主義」とは一体何なのか。
 結局は「シェア」である。新聞に限らず、全ての商品は、「何を伸ばすか」ということでその奥的が分かれることがある。「売上」「利益」「シェア」「数量」の四種類がそれだ。この全てが伸びることが最も理想的であるが、結局全てを伸ばすためにどれを優先して伸ばしたらよいかということになる。
 新聞の場合「部数」つまり、「数量」というように見える。しかし、実際は「部数=シェア」である。日本国民1億2000万人、このうち何人が、自分の新聞を読んでいるか、もっといえば、「何人が自分の新聞の主張の影響を受けているか」ということは、最も大きな問題であり、その影響力の行使が新聞にとっての「力」になるのである。そして、「部数至上主義」は「経済的な力」と「国民に与える影響力」の力の二つの権力を手にすることになるのだ。
 この二つの権力を得ることが、より大きな次のシェアを狙える機会が増えることになり、そして、より大きな権力と営利を手にする機会になるのだ。
 逆に、その情報の垂れ流しを行うことは、国民にとって、非常に大きな危機ということになる。要するに、その新聞の営利目的のために「煽動」されることになるからだ。正しいものも正しくないと報じられ、「マス」がその力を「煽動された」方向に発揮するときに、そのメディアは非常に大きな権力を手にすることになる。
 
 偏向報道は「営利目的」のメディアが「部数至上主義」で「経済的な力」と「国民に与える影響力」の二つの権力を入手し、そしてその権力の拡大を行うときに、付帯的にそれが発生する。
 本来はそうであった。実際、健康番組での健康食品の販売数などは、まさにそのものであろう。しかし、なぜか政治に関してはそうではなく、マスコミは積極的に「煽動」を行うのである。

 マスメディア先進国であるアメリカは、このようなことがないように、二つの施策をしている。一つはメディアの系列化を法律で禁止している。これによって、メディアが一斉に偏向報道を行うことは、できなくなった。マスメディアの多様化と、それに伴う、情報選択の自由を国民が得られるような仕組みになっている。
 もうひとつは、メディアが自分自身でどこを支持しているということをしっかりと伝えるのである。まさに「show tha flag」である。日本でも、自分の立場を明確に示している新聞は存在す。たとえば「赤旗新聞」に関して、その「赤旗新聞」が共産主義を貫いた共産党びいきの報道を行っても、誰も何も言わない。逆に、その専門の店でなければ、「赤旗新聞」を購入することはない。街のキオスクで気軽に赤旗新聞が帰るような環境ではないのだ。
 さて、日本のマスメディアの問題点は「中立である」顔をしながら「実は偏向報道をしている」ことにある。上記の日刊ゲンダイがまさにその物である。
 そして、このような偏向報道は「デマゴーグ(衆愚政治)」の始まりであり、そして、日本の国民の冷静な判断力を失わせてゆくことになるのだ。
 
 政治的な偏向報道は。そのまま「イデオロギー」に結び付けられる。偏向報道そのものが、「イデオロギー」による「国民煽動である」というおことのような話になるのだ。私の目から見て、そうでない場合も少なくないが、上記のような偏向報道も普通に新聞にあって許されてしまう。そして「評論」と評されて、マスメディアの好き勝手に任されてしまっているのだ。
 このような傾向に関しては法律の改正を持って臨まなければならない。しかし、その内容に関して、政治的な中立を規制することと、一方で、「憲法に示された言論の自由」という二つの権利の、中和をどのようにするかが最も重要ということになる。そこに本来ならば客観的な判断を必要とするのであるが、そこは難しい。結局業界任せなどになってしまい、ある程度の習慣とある程度の恣意的な基準が盛り込まれてしまうのである。
 この部分がマスコミ批判の最も中心的な部分であるといえるのではないだろうか。そして、われわれ、通常の新聞社も、まさにこの部分が最大の難関である。新聞に関しては社説評論は、習慣を入れてよいことになっており、また、その内容は、「社説」としっかりと記載しなければならないことになっている。しかし、上記日刊ゲンダイの場合、そのような配慮もされていないのだ。
 このような新聞に関しては、実際に不買運動以外にはないのではないかと思う。自主的に変えることが期待できないのだ。

 ということで、偏向報道に関しては、次回以降ももう少し考えてみたいと思う。

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