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2011年1月

マスコミ批判に関する一考(29) 無責任な政局を作るマスコミ

マスコミ批判に関する一考(29) 無責任な政局を作るマスコミ

 マスコミが政治に対して介入すると言うのは、よく聞く話だ。実際に、マスコミが「意思ある道具」として政治に無責任に介入する姿は、ネット上などで非常によく見るマスコミ批判の構図だ。
 この構図には、三つの問題点が存在することにお気づきだろうか。
 第一に、マスコミが非常に大きな影響力を、国民の意思表示に及ぼしていること。
 第二に、そのマスコミの影響力に国民が疑問を持っていないこと。
 第三に、政治の片方の勢力がその影響力を自己都合で利用すると言うこと。
 この三つの問題点を間違うと「民主政治」は「衆愚政治」に変わってしまう。マスコミそのものが意思を持って、その意思を強制することはよくないことだ。とはいえ、マスコミと言えども、日本国民であることは間違いがない。単純に言えば、マスコミも「日本人個人」として、意思を表示することを禁止することはできない。問題は、そのマスコミの「個人的な意見」を「さも、国民全体の意見であるかのごとき、錯覚を起こさせる方法で報道を行うこと」という報道姿勢が、もっとも大きな問題となるのである。基本的に、新聞であれば、「記事」と「社説」で扱いが異なる。
 記事は、事実をしっかりと伝えることが重要である。もちろん、その記事の中心事実を伝えるために、解説や、背景やその事実までの経緯、人物の相関図などを入れる。そのような、解説などのときにどうしても主観が入ったり、背景説明のときに重要な部分をカットしたりと言うこともよくある。しかし、中心事実の報道に関しては、そのエッセンスの部分で主観を入れることは少ない。
 一方、社説はマスコミの主観を書いてよい場所だ。ここで、どのような主観や偏向した内容を書いても、それは読者側が文句を言ってはいけないことになっている。もちろん、事実と違う音や個人の名誉を毀損するような内容であれば、当然に、大きな問題となる。しかし、「中立なはずの新聞が、偏向報道をしている」などと社説をさしていっても、それは指摘をしている側が「物を知らない」と言う恥をかいているだけだ。何しろ「その新聞社の独自の説」を書く場所が「社説」なのであるから、当然に、自社の個人的な意見を書けばよいのだ。逆に、社説を読んで、その新聞の報道姿勢や考え方を知った後に、記事を読めば、その考え方がわかると言うものである。
 テレビは、そのような「社説」のコーナーがない。結局、最も影響力の大きなテレビが、残念ながら記事・報道と社説に当たる主観の表現がごちゃごちゃになってしまっているのである。これが、テレビメディアの最も批判の集中する場所である。ニュートラルな視聴者に偏った個人的な意見を押し付ける問うことになるのであるから、それは「意見誘導」や「印象操作」になってしまう。本来は、テレビメディアも、しっかりと「社説」にあたる部分と報道にあたる部分を分けて報道すべきである。できれば、そのような法規制をすべきではないだろうか。
 そのような、影響力のあるマスコミを利用する政治家は少なくない。マスコミは、当然に、取材と言ってどこからでも情報を持ってくることができるし、世論もわかっていると考えられている。そのようなマスコミを利用するのは、政治家としては、自分の考え方に関し資料をもらいながら、印象操作を依頼できる最も頼りになる相手の中のひとつとなる。そんなことを記事が、週刊誌ではあるが出ていた。



「与謝野氏入閣は朝日新聞の進言。読売も歓迎」と菅首相側近

 菅内閣にとって正念場となる通常国会が始まった。問題が山積みの管内閣だが、与野党、国民の反発さえも、当の菅首相は“サプライズ人事にみんな驚いているぞ”と、ご満悦なのだ。
 菅首相の奇妙な自信には理由がある。実は、今回の内閣改造には大メディアが大きく関与している。与謝野氏が読売新聞の渡辺恒雄・グループ本社会長と極めて近いことはよく知られている。だが、菅首相に直接、与謝野起用を進言したのは、読売のライバルの朝日新聞の編集幹部だという。菅側近が打ち明ける。
 「改造前に総理が最も憂慮していたのはメディアの風当たりが強くなっていることだった。そこで昨年末に各紙の幹部とお忍びで会談を重ねた。中でも総理が信頼する朝日の編集幹部は、消費税引き上げと環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)への参加、小沢切りの3 点セットを。読売がこの人事を歓迎するのは想定内だったが、“天下の朝日” の後押しが迷っていた総理を動かした」
 この編集幹部は紙面でも、民主・自民の大連立など、菅長期政権の可能性に言及している。実際、与野党から総スカン状態の与謝野氏の入閣だが、大メディアは揃って歓迎した。
 内閣改造翌日の各紙の社説を見ると、読売新聞は、〈与謝野氏が言うように、国の命運を左右するような課題には各党が「政争の場を離れて」取り組むべきだ〉と書き、朝日新聞は与謝野氏起用を〈目指す目標を明確にし、人事を通じ実行する態勢を整えようとした意図は理解できる〉と評価したうえで、小沢一郎・元代表の政治倫理審査会出席問題について、〈この問題を早急に処理しない限り、「最強の態勢」もつかの間の掛け声に終わるほかない〉と「小沢切り」を促す書き方をしている。前出の菅側近の証言と一致するが、朝日新聞は編集幹部が菅首相に与謝野氏の起用を進言したことを否定した。

※週刊ポスト2011年2月4日号
2011年1月24日(月)10時0分配信 NEWSポストセブン 
http://news.nifty.com/cs/headline/detail/postseven-20110124-10793/1.htm

 この週刊誌の記事が事実であるかどうかはわからない。しかし、菅直人首相が、迷っていれば、それにアドバイスをする人がいても、おかしくはない。菅直人首相の親しい朝日新聞の記者がいることは、永田町のマスコミの間では有名な話だ。また、菅首相の「消費税引き上げと環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)への参加、小沢切りの3 点セット」(上記記事より抜粋)というのも、年初からの菅首相の発言の中に入っているのでおなじみのものばかりだ。このようなことを菅直人に親しい人が後押しをする、または反対の意見を述べると言うのは、別におかしなことではない。問題は、それではない。その次の文章だ。
 「断行すれば菅内閣を社をあげて支援すると約束して、与謝野氏起用を強く進言した。」(上記記事より抜粋)このようなことが書かれている。「社をあげて支援する」というのが問題だ。これこそ「変更報道」そのものではないか。それも政権に反対し、監視機能を持つのがジャーナリズムであるはずだ。それが、首相と一緒になって政策を立案し、その上で、「社をあげて支援する」と言うのは、マスコミの「不当な政治介入」以外の何者でもない。その上で、与謝野入閣を要求していると言うのは、選挙で決まった衆議院でもなく、国会で決まった首相でもない、なんでもない新聞社の社員が政策や日本の将来、閣僚人事まで決めていると言うことが明らかになったのである。
 そもそも、このような記事が話題にならないことが最もおかしい。これが事実であれば、「偏向報道」などというものではない。朝日に関しては、テレビで過去に「椿事件」を起こした実績がある。政治を報道するのではなく、自分たちで「政治を作る」という不思議なことをしている。その上、その自分たちの選択に「支援して世論を作る」と言うことをしているのである。そうであれば、これはマスコミが日本を壊していると言っても過言ではない。国民全体の政治を、国会の審議もなく朝日新聞が独裁的に決めていることになるのだ。政治の冒涜である。
 また、そのような内容を受け入れている菅直人首相そのものも大きな問題だ。要するに朝日新聞による政治介入を許し、国会審議を軽視していると言うことになるのだ。そのようなことが許されてよいはずはない。自民党も公明党も、この記事を元になぜ追及しないのかは不明だ。野党もしっかりとこのような不当な「政治介入」と「国会軽視の実態」を白日の下にさらし、菅政権の頼りなさ、日本におけるマスコミによる不当な政治介入をしっかりと糾さなければならないであろう。
 この件に関しては、しっかりと今後の調査も必要であると同時に、政治の世界で追求すべきである。また、このようなことは国民がしっかりとマスコミを監視し、そのマスコミの批判を強めなければならないのではないだろうか。

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私が中国に行くようになた理由(2) はじめての中国

宇田川敬介東アジア放蕩覚書
私が中国に行くようになた理由(2) はじめての中国

 初めての中国は、夏であった。ちょうど、香港返還のお祭りをしている日であり、北京の市街地はすべてお祭り騒ぎであった。
  中国の第一印象は「臭い」である。別に私が特別に鼻がよいわけでもなんでもない。逆に鼻がよいのであれば、とてもではないが、北京は滞在することができな かったであろう。何よりも飛行機の扉が開いた瞬間の「スイカの腐ったような臭い」は、あまりなじめるようなものではない。また、人間の記憶と言うものは、 そしてファースト・インパクトのあまりに大きな衝撃は、深く記憶に刻み込まれてしまう。このように文章を書いている(もちろんに日本である)間も思い出し てくる嫌な臭いだ。「日本は、世界にまれな清潔な街」ということを言う人がいる。中国に行くと本当にそのように思うのである。
  後になるが、大連市街地の星海公園と言うところがある。大連のような北方では珍しい海水浴場だ。海岸に品浜が広がり、曲がりなりにも海の家のような小屋が 建っている。冬は、氷点下14度で泳ぐ人はさすがにいないものの、少しメジャーなデートスポットである。芸術の街を目指す大連市は、公園を計画的に配置 し、その中にオブジェを並べている。星海公園もその周辺には、さまざまなオブジェが飾られている。私がいたころは、サッカーがはやっていたので、サッカー ボールのオブジェが飾られていた。そのようにきれいに整備された星海公園に、最も目立つ看板がたくさん立っている。そこに書いてあるのは、「ここでスイカ を食べてはいけません」というものだ。「どういうことだ」と聞いてみると「スイカを食べると、種を捨てるだろ。砂浜だからすぐに育って収拾がつかなくなる んだ」という。このように「ごみの整理」「公的な場所をきれいにする」という感覚は基本的には中国人には存在しない。そのために、どうしても町全体がきれ いではなくなってしまうのである。
  第一印象の話から話がそれてしまった。しかし、実際のところ、その臭いそのものはどうしようもない事実だ。スイカの腐った臭いと、人の汗の臭いはどうして も消せない中国のイメージである。逆に、その中国の活気と言うものに関しては、非常に強く感じるものがあった。もちろん香港の返還の日だから、活気があっ て当然なのだが、日本のお祭り騒ぎとはかなり違う。日本でも、お祭り騒ぎというと、ルール無視な内容がすくなくない。もっとも有名なのが大阪道頓堀への飛 込みだ。1985年の阪神タイガース優勝のときや、ワードカップでの日本の勝利のあとなどは、その「儀式」が行われた。その悪乗りは、近隣の商店街を巻き 込むものであった。しかし、実際は、そのようなのは一部で、ほとんどの人は、そのような大騒ぎはせずに、静かに喜びを表現していた。お祭りなどのときに居 酒屋が混雑するのは、まさにそのような象徴だ。しかし、中国の喜びの表現は、まさに町中の人が喜びを表現する。私は、その中国初日に「祭り」を体験してし まったのだ。天安門広場では、爆竹を鳴らす人が多く、また打ち上げ花火をいくつも飛ばしていた。車道に向かってロケット花火を打つ人もいるが、基本的にけ んかにならないのが不思議だ。そもそも、そのような行為に怒っても、何にもならない。天安門広場の前の道は四車線だが、車が七列になっていた。まさに、 「秩序がない」国と言うことが言える。日本の場合は若者だけであるが、中国の場合は老若男女すべての人がおまつり騒ぎをする。非常に興味深い。

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北朝鮮最新情報、正男が重大証言

北朝鮮最新情報、正男が重大証言

 北朝鮮のことを書くのは久しぶりだ。
 昨年11月に北朝鮮が突然に韓国の延坪島を砲撃した。その事件を巡って様々な憶測が流れたが、その内容に関して、一段落したのちは、あまり日本において北朝鮮に関する話は言われなくなっていた。その延坪島の砲撃も、その直前に決まった北朝鮮の実質的な後継者の決定である金正日主席の三男金正恩氏の軍事委員の就任によるものとされている。
 その後年末から現在にかけて、徐々に金正日主席から金正恩将軍への権限の移譲がなされていた。今回は記事を出さないが、この半年の間に、北朝鮮の政府指導部幹部が三人も交通事故や病気で死んでいることを見てみれば、なんとなく北朝鮮政府内で何かが起きていることはすぐにわかろうというものだ。
 ちなみに、私のように平壌に数度訪問したことのある人からいえば、「交通事故」というのは、なかなか難しい。そもそも、貧困で、食べるものもない資源のない国において、自動車がそんなに走っているわけではない。要するに「歩いていて車にひかれる」ということはほとんどないのだ。民間人で車を持ている人などはまずいない。だいたい、自動車が通るのは、1時間に1台か2台、道路によっては数カ月自動車が通らない道もある。そのような国で、政府の幹部が自動車事故で死ぬということは基本的にはあり得ない。要するに殺されたということだ。左翼政権特有の「粛清」ということであろう。それは、北朝鮮国内においては、新体制への犠牲ということで美化されて伝えられているだろう。
 その体制の権力の移譲に関して、金正恩の兄である正男がインタビューに答えたという。正男は、北京かマカオに普段はいる。その行動は、一見自由に見えるが、ある意味で中国と北朝鮮の両方の国家に監視されている。その正男が言っているのは、「世襲反対」である。この発言には裏がある。北朝鮮と中国の監視の下において「世襲反対」などといえば、北朝鮮の意思に完全に反するように見えるので、当然にすぐに暗殺されてしまうであろう。しかし、そのように言うことができるのは、その言葉の裏には「それでも正恩に決まったのは、正恩は実力で指導者の後継者になったのだ」ということを主張している。儒教的な道徳の強い北朝鮮においては、当然に長子相続が一般的だ。しかし、それに反して長男である正男ではなく、正恩が後継者になった。正恩は自分正男よりも能力のある人だということを示している。それだから当然に正男が公式に北朝鮮に狙われるということはないのだ。彼の発言を見ていれば、当然に「世襲は反対」と言っているものの「正恩は適任ではない」といったことはないのだ。そのような読み方ができなければ、北朝鮮の正確な読み方はできない。日本の解説者の中には、そのような情報の分析ができない人が良くいるので気を受けなければならない。
 その読み方をして「???」と成る発言があったので、東京新聞の一面から。


金正男氏「父は世襲反対だった」 核放棄には否定的

 北朝鮮の金正日(キムジョンイル)総書記の長男正男(ジョンナム)氏(39)は滞在先の中国南部の都市で、本紙との単独インタビューに応じた。金総書記の後継者となった異母弟の三男正恩(ジョンウン)氏への期待として、住民の生活向上や延坪島(ヨンピョンド)砲撃で緊張する韓国との和解を求めた。焦点となっているウラン濃縮などを含む核開発問題については「(北朝鮮の)国力は核から生まれており、米国との対決状況がある限り、放棄する可能性は低い」との見方を明らかにした。 (聞き手=外報部・五味洋治)
 インタビューは今月中旬、約一時間半にわたって行われた。正男氏は北朝鮮国民の生活実態について「消息を聞くと心が痛い。生活が向上しているとは思えない。北朝鮮が安定し、経済回復を成し遂げ、豊かに暮らせるよう願う」と述べた。「弟に対する私の純粋な願いだ。弟に挑戦しようとか批判する意味ではない」と説明した。
 昨年九月に決定した三代世襲については「中国の毛沢東主席でさえ世襲はなかった。社会主義に合わず、父も反対だった」と舞台裏を明らかにした。一方で「(後継は)国家体制安定のためだったと理解している。北朝鮮の不安定は、周辺の不安定につながる」とも述べた。
 昨年十一月の北朝鮮による韓国砲撃の背後事情については「交戦地域のイメージを強調し、核保有や軍事優先政治に正当性を持たせようとしている人がいる」と、権力中枢で軍が台頭していることを示唆した。
 日本人拉致事件では「遺憾な問題。今のように議論が平行線では解決は難しい」と述べ、日朝間の対話再開が必要との認識を示した。拉致被害者とは会ったことはないが、最近拉致被害者に関する情報管理が厳しくなったという。
 二〇〇一年五月一日、偽造パスポートを使って成田空港から入国しようとして入国管理局に身柄を拘束され、その後不法入国として強制退去処分となった。当時の対応について正男氏は「日本政府はああするしかなかった。(当時、通訳などに当たった日本の中央省庁担当者の実名を挙げ)むしろ最大限に配慮してもらった。あの事件で私の人生が変わったとは思わない」と理解を示した。実名を挙げられた一人は本紙に同氏を担当したことを認めた。
 強制退去をめぐっては正男氏本人かどうかの論議があったが、安倍晋三首相(当時)は〇六年十月の衆院予算委で「金正男氏である蓋然(がいぜん)性が極めて高いと(の判断に)至った」と、本人だったとの認識を明らかにした。

2011年1月28日 東京新聞朝刊
http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2011012802000036.html

 皆さんにとっては目新しいことかもしれないが、実際は、私などにとっては知っていることの方が多い。核に関する認識はまさにそのもおであろう。そもそも、「中国やアメリカに核を持つなといわれるが、彼らが核を放棄すべきだ。そうでなければフェアではない」というのが正男の主張だ。また、政権内における軍の台頭や、義伯父に当たる張成文の権力争いなどは、正男を通じなくてもそのようなうわさを耳にすることはある。軍をすでに金正日主席が抑えきれなくなってきている。それだけ、北朝鮮労働党も軍も、いずれも食料や弾薬に欠乏し、その不満の行き先を海外に持ってゆかなければ国内体制を維持できない状態になっていることもわかる。
 わて、私がこの記事でもっとも違和感を感じたのは、表題にも出ている「中国の毛沢東主席でさえ世襲はなかった。社会主義に合わず、父も反対だった」というものだ。この言葉、普通にとれば「金正日も反対だったんだ」ということも可能。しかし、このように「父も反対だった」と過去形で、それも国家の最高権力者の内心部分を海外に発表するというのは、極めて異例だ。通常、このような内容が表に出るのは、その対象人物、今回は金正日主席が「死んでいる」少なくとも「表舞台に出てこなくなった」時だけではないのか。
 この発言を見ると「今は反対ではないのか。どう考えているのか」ということになる。為政者、日本の首相者のようなものではなく、北朝鮮の指導者のような人は、なかなか自分の意見を覆すことはできないであろう。だから、当然に、「内心こう思っていた」ということは、絶対のタブーである。それを出せるのは、金正日主席が「死亡した」もしくは、危篤ということが強く類推されるのだ。
 昨年12月に、金正日主席死亡説や危篤説が流れた。その真相は不明である。しかし、このような発言の中から、そのようなことを類推しなければならない。正恩氏への後継者指名の強引さや、その後の粛清、そして正男の発言、いずれも北朝鮮の政府内部での急激な動きを物語っていることは間違いがない。
 指導者に何かあれば、園氏はしばらく隠匿され、それが明らかになったのちは、一気に動く。その動乱の時期に備える必要が、日本にはあるのではないだろうか。正男のインタビュー記事は、示唆に富んでいるような気がする。

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地方自治の考え方は「都」構想で解決するのか 新潟州構想での私見

地方自治の考え方は「都」構想で解決するのか 新潟州構想での私見

 最近、エコノミストの紺屋典子さんの講演を拝聴させていただいた。講演の題材は「改革をやめれば、日本はよくなる」である。「みなさん、改革といって、日本がよくなったことがひとつでもあるでしょうか。私の記憶ではひとつもありません」という。国鉄民営化や道路公団民営化、行政改革や財政改革、景気対策なども含めて、基本的によくなったと言うのはないという。
 政府の公共事業、官営事業において『効率化』『採算性』をいうこと自体が間違えている、と言う紺屋さんの主張は、確かにその通りだ。私も事業仕分けに関してこのブログで少し触れたが、紺屋さんは経済の観点からもそのことをしっかりと主張されていた。まあ、紺屋さんの講演は、ところどころ、マスコミ批判、大蔵省批判が強く、そして多少ヒステリックに批判を繰り返すところは、私は聴衆の一人として聞き苦しいと感じてしまうので、もう一度繰り返して聞きにいきたいと積極的には思わないのであるが、主張されている趣旨は、非常に理解できるものであった。
 その後援会の中で、「改革はどうすべきか」という質問に対し「まず目標を立て、現状を分析し、目的に向かって行うこと」という定義が出てきた。これは改革などではなく普段の政治提言でも同じだ。「あるべき姿」から「現状分析」を引いたものが「課題」であり、その課題の解消に障害となってるものが「問題点」なのである。逆に言えば「理想の姿」も「現状分析」も「問題点の抽出」もできない「改革」は、「破壊」でしかないと言うことなのだ。
 そんな改革が行われようとしている。いわゆる「都構想」だ。これは、大阪府の橋下徹知事が、なんだかわからないが突然ぶち上げた構想だ。政令指定都市と府を一体化し、地方主権を推進すると言う。その後名古屋市の河村たかし市長が同じことを提唱し、愛知県知事選に大村秀彰衆議院議員(自民党)を口説いて、ダブル選挙、(実際は名古屋市議会のリコール問わせてトリプル選挙)を画策している。これも同じ構想である。三つ目が、いきさつがわからない「新潟州」という考え方である。その新潟州の記事について、まず読んでみよう。

[新潟州]県・市が構想発表 二重行政廃して効率化目指す

 新潟県の泉田裕彦知事と新潟市の篠田昭市長は25日、同市内で共同会見し、県と市が合併し「新潟州」設立を目指す構想を発表した。県と政令市による二重行政を廃して効率化を図り、基礎自治体の権限強化を図る狙い。府県と政令市を再編する動きは、大阪府の橋下徹知事が打ち出した「大阪都」構想や、愛知県の「中京都」構想がある。新潟ではこれらの地域との連携も模索しており、全国的に広がる可能性がある。
 篠田市長は会見で、「新潟は、政令市と県の関係が他の地域に比べて極めて良好なのが特徴。知事と司令塔を一つにという方向で価値を共有できた。大きな旗を立てて全国に問題提起したい」と、市側から構想を持ち掛けたことを示唆した。
 泉田知事は「新潟州」のイメージについて「東京都と特別区の関係を参考にする」と説明。橋下知事らとの連携については、「同じような課題認識を持っている地域と連携して、国に実現を求めていきたい」と前向きな姿勢を示した。ただ、具体的な内容は詰まっておらず、今後、県と市で検討委員会を設置し、「州」設立に必要な地方自治法の改正などを国に求めていく。
 一方、橋下知事は同日、東京・内幸町の日本記者クラブで「大阪都」構想について会見し、人口約260万人の大阪市を「(同じ人口規模の)広島県知事が市町村長がいない状況で、住民サービスから広域行政まで引き受けている状態。両方できるわけがない」と指摘。現在の政令市のような人口要件ではなく、都市の実情に合った制度の必要性を主張した。
 片山善博総務相はこうした動きに「政令市と府の二重行政や、巨大都市での住民自治というのは重要な問題提起だ。検討態勢を作り、都府県と大都市との関係、住民自治と大都市とのかかわりなどを点検したい」と述べ、検討を進める考えを示した。ただ、「都」構想などについては「県と市を一緒にするとより大きく複雑になり、住民自治やチェックがおろそかになるとの批判もある」と述べ、より大規模な行政体の形成になることの課題を指摘した。【黒田阿紗子、笈田直樹】

 ◇タッグを組みたい…大阪府の橋下徹知事
 新潟県と新潟市の合併による「新潟州」構想について、大阪府の橋下徹知事は25日、記者団に「(府県と政令市の関係に)問題があることを国民に意識してもらえつつある。愛知、新潟とタッグを組んで(構想実現に必要な)地方自治法改正を迫っていきたい」と述べた。【佐藤慶】

 ◇「うらやましい関係」…大阪市の平松邦夫市長
 大阪市の平松邦夫市長は「国が一向に進めようとしない地方分権改革に一石を投じた」と評価。さらに、知事と市長の共同構想である点に触れ、「大阪都構想」を巡って対立が続く自らと橋下徹・大阪府知事との関係と比べるように「うらやましい関係」と述べた。

毎日新聞 2011年01月25日23時11分
http://news.livedoor.com/article/detail/5295143/

 まず「単語」や「漢字」の問題から。重箱の隅をつつくようで申し訳ないが、言葉の中に意外な本心が隠れている場合があるので、一応触れておかなければならない。
 「都」とは「首都」のことである。当然に国の中心だ。と言うことは、日本の場合、首相や国会が、または霞ヶ関と言われる官僚行政組織がそこに存在すると言うことがあげられる。もっと言えば、日本の伝統文化的には「天皇陛下がいるところ」と言う意味がある。数年前に、JR西日本の観光の宣伝で「京都・奈良・大阪」で「三都物語」と言うキャンペーンがあったが、国学者や歴史学者から「大阪は都ではないというクレームが寄せられた。実際平城京になる前に「難波の宮」という都が一時おかれたことがあると言うことで治まったということであるが、それほど「都」という単語は重要なものだ。「京都」はいまだに「都」と言うことを言うのは、京都御所がいまだに天皇陛下が戻る「皇居」であることから京都は「京の都」と言うことをいう。古い京都の人は「東京はいまだに一時の仮住まいに過ぎない」という。「都」と言うことと天皇陛下の『皇居』とはそれほど日本の伝統文化と同じものである。
 では、この単語の問題で、「破壊」されるものは何か。まさに、「天皇を中心とする文化」が、そして首都と言うものの考え方が崩れてしまうのだ。そのことは「地方主権」という単語にも現れている。「主権」とは、国家を動かす権利であり、国家に対して自己の主張を行うことのできる権利者の単位である。日本は当然に、国民主権であり、その国民主権は日本国憲法で制定されている国民固有の権利だ。では、「地方主権」「地域主権」を主張している人は、「主権が重畳的に」複数存在すると言うのか。要するに国民主権と地域主権を両立できると思っているのか。そんなはずはない。地域と言う「独立の物体」はなく、地域に住む人がその意思を表示し、その意思表示の修吾応対を集約して地域の意思としてkたちづくっているに過ぎない。と言うことは国民主権であれば、国家に対しては、それでひとつの意思表示ができるのであり「地方主権」は存在しないはずだ。
 「都構想」「地方主権」と言うことを並べて言えば「日本と言う国家とは関係ない」ということが単語的には出てくる。そこまで意識している人はいないかもしれないし、逆に、そこまで意識してこの単語を使っているかもしれない。意識しているとすれば「天皇を中心とする日本と言う伝統と文化」の破壊だけでなく「日本と言う国家」の破壊が「隠された悪意」として存在することになるのだ。
 単語と言うのは恐ろしい。その「日本と言う国家の破壊」を言うことを言えば「大げさだ」と思うかもしれない。しかし「地方主権」も「都構想」もいずれも「憲法改正」を行わなければできないことだ。要するに、地歩自治に関しては憲法92条にしっかりとかかれており、その自治に関しては地方自治の本誌に基づき「法律でこれを定める」と書いてある。法律とは、当然に「国家で唯一の規則」である。法律を決めることができるのは「唯一の立法機関」(憲法41条)である国会以外にはない。要するに、「都構想」も「主権の地方への移譲」も、いずれも法律で決めなければならず、それは、当然に国会の決議によって行われるべきものである。しかし、大阪も、名古屋(愛知)も新潟も、ただ地方自治体が勝手に言っているに過ぎない。要するに国会の何らかの機関が、または政府機関がもっと言えば国会に法案を提出できる権限を持った人が言っているのではない。ただ単に、憲法や法律を知らない、「何がえらいのかわからない首長」が遠吠えしているに過ぎないのである。
 単純に言えば「自分が無知である」という恥をさらしてるに過ぎない。
 さて、その上で、この内容を見てみても「経費節減」などを言っているが、逆に東京で言えば23区があり各区に議会が存在する。議会や首長が増え、経費は多くなる。区役所職員が多くなり税金の負担が多くなる。これでは「言葉のまやかし」に過ぎないで、現実を見ていない民主党公約とまったくかわらない。また、記事にもあるが、住民のサービスと言う面では、行政単位が大きくなれば、それだけキメの細かいサービスはできなくなる。小学校ですら少人数学校や個別指導が求められているのに、老人には、十把一からげのサービスでよいと言うのも考え物だ。逆に赤字になっても必要なサービスをするのが行政の仕事であり、そのために、国民は(府民・県民・市民)は税金を払っているのだ。行政を設けさせるために、また、行政を黒字にさせるために税金を払っているのではないのだ。そもそも、「効率主義」をいうこと自体、政治の役目の放棄としか言いようがない。
 改革、というと、日本人はなぜかよいほうに変わるものと思う。しかし、改革は「誰のため」「何を目的に」改革を行うのか。このことをしっかりと考えるべきではないのか。その観点から見て、私には「都構想」は理解できない。

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中国共産党化する民主党政権、自衛隊は人民解放軍か

中国共産党化する民主党政権、自衛隊は人民解放軍か

 24日の新聞報道から、にわかに民主党政権の根幹を揺るがすような事件が明らかになった。25日の国防部会において、自衛隊のスパイ活動に関する情報収集などをおおなう自衛隊情報保全隊が、自民党で自衛隊出身の参議院議員佐藤正久氏の会合に潜入監視していた疑いがあると言うことが明らかになり、自民党の国防部会において出席していた自衛隊退院や防衛賞の役人は、納得する説明をできなかったと言うことだ。
 口先だけで「そんなことをしていない」と言うのは簡単だ。しかし、実際に「潜入していたビデオ解析」などが示された場合、防衛省はどのような言い逃れをするのか。佐藤氏も素人ではない。もともと自衛隊にいた人物であり、イラクのサマワに派遣されたときの隊長である。要するに自衛隊の中の保全隊の人の動きや、その活動、そしてその活動の結果がどのように使われるのかは、十分に承知の上のはずだ。当然に、そのような内容に対して、しっかりとした証拠提出が予想される。そもそも、しっかりとした証拠提出ができなければ、自民党の国防部会で発言するはずがない。
 では、どうなっているのか。その真相に関しては、まず記事を読んでもらいたい。

自衛隊情報保全隊、自民・佐藤正久議員を監視か

 自民党は25日午前の国防部会で、自衛隊へのスパイ活動に関する情報収集などを行う自衛隊情報保全隊が、同党の佐藤正久参院議員の会合を監視していた疑いがあるとし、防衛省に説明を求めた。
 防衛省側は「佐藤氏は監視対象ではない」と説明したが、党側は納得せず、国会で北沢防衛相をただすことを決めた。
 佐藤氏はその後、記者会見し、「会合に保全隊員がいた」と述べた。佐藤氏は自衛隊OBで、政治的発言をする部外者を自衛隊関連行事に呼ばないよう求めた防衛次官通達に関し、北沢氏を批判している。
 部会では「監視が事実なら言論弾圧だ」(岩屋毅国防部会長)という声が出た。これに対し、北沢氏は閣議後の記者会見で、「調査したが、佐藤氏は情報収集の対象ではなかった。特定の個人の情報収集を指示した事実はない」と述べた。

(2011年1月25日12時34分  読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20110125-OYT1T00361.htm

自民・佐藤議員「保全隊員来た」 自民・逢沢氏、防衛相問責に言及

 北沢俊美防衛相直轄の防諜部隊「自衛隊情報保全隊」が、陸上自衛隊OBの佐藤正久自民党参院議員や田母神俊雄元航空幕僚長の講演などに現職自衛官が参加していたかを監視していた問題で、佐藤氏と田母神氏は25日、保全隊員の潜入を把握していたことを明らかにした。佐藤氏は自らの講演や招待された集会のビデオや写真を分析し、保全隊員の存在を「証拠」として示すことを検討している。
 自民党の逢沢一郎国対委員長は25日の記者会見で、「ことのいかんによっては北沢氏に対する厳しい措置を考えざるを得ない」と述べ、野党が多数を占める参院で、北沢氏に対する問責決議案を提出する可能性に言及した。
 佐藤氏は同日開いた記者会見で、「会合に保全隊員が来ていた。私も知り合いも顔を確認している」と明言した。田母神氏も産経新聞の取材に、「保全隊員は昨年初めごろから講演に潜り込んでいる」と述べた。
 佐藤氏が陸自の特殊部隊「特殊作戦群」の初代群長に確認したところ、このOBの会合にも保全隊員が潜入していたという。田母神氏らは公開質問状の提出を検討している。
 枝野幸男官房長官は25日午後の記者会見で「不当と指摘を受けるような調査は行っていないと報告を受けている」と述べた。
 25日午前の自民党の国防部会でも、防衛省は佐藤氏を情報収集の対象にしたことはないと否定したが、出席議員からは「納得できない」「魔女狩りだ」との反発が相次いだ。
 佐藤氏も会見で「全国を飛び回る私の講演などに保全隊員が来ていたかどうかは、(24日に監視の事実を伝えた)産経新聞報道から1日で確認できないはず。防衛省の調査は不十分だ」と批判した。

産経新聞 2011.1.25 23:30
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110125/plc11012523310167-n1.htm

 防衛省に関しては、昨年より言論弾圧の記事がかなり載せられている。私の周辺でも、その内容を聞くことは、そんなに珍しくない。一番初めに、その問題が表面化したのは、昨年11月の入間航空自衛隊基地における地元後援会長の講演に関してだ。自衛隊の活動内容から、ことに尖閣諸島問題などに関し、政府の対応を批判しそれと同時に航空自衛隊の士気の鼓舞と地元住民の理解を伝えた演説であったが、その政府批判に対して「政治的に偏った講演は望ましくない」という批判を政府が行った。その後に、自衛隊に関する多くの会合から「政府批判」「民主党批判」の講演がすべて差し止めとなった。
 私の身近では、私も参加している、メディア・パトロール・ジャパンに参加し、チャンネル桜の自衛隊の応援番組などでもおなじみの葛城女史も、政治的に偏っていると言うことを理由に、新年会の司会の仕事を断られるという事件が発生したのである。このような場合「当日は司会なので、なるべく政治色を出さないようにお願いいたします」と、主催者から注意されることはたまにある。私でも、講演するときなどに「民主党の支持者もいらっしゃいますので、その辺は配慮してください」と言われることは少なくない。しかし、すでに決まっている予定に大して「政治的な思想、心情によって」仕事をキャンセルされると言うのは、憲法における思想の自由の重大な違反といえるのではないか。
 そもそも、「政府批判をしない」と言うこと自体が「政治的に偏った意思」であると言うことが、防衛省や今の政府にはまったく感覚がないということになる。現行の政府は、自分たちに盲従することが「政治低中立」とでも言うのであろうか。それでは革命政府の中華人民共和国や北朝鮮の先軍政治と同じになってしまうのだ。その先に見えるのは、われわれ国民に対する言論の弾圧であり、自由の喪失であり、そして不当な独裁であることは、歴史を紐解かなくても、隣国北朝鮮の異常な政治状況を見れば明らかであろう。
 今回の佐藤議員に関することも同じだ。
 自衛隊の情報保全隊とは、海外からのスパイ活動や破壊活動を調査し、必要な場合は事前にそれを止める機能を持つ。本来は海外からの破壊工作に関して力を発揮する部署が、なぜか自衛他出身の言論人の言論活動を監視していると言うのだ。要するに佐藤正久議員や田母神氏の講演活動は「日本に対する破壊活動である」と言うことを、少なくとも防衛省は疑っていると言うことを考えているようである。
 一方、これに対する防衛賞の反応も心もとないものだ。『防衛省側は「佐藤氏は監視対象ではない」と説明した』『枝野幸男官房長官は25日午後の記者会見で「不当と指摘を受けるような調査は行っていないと報告を受けている」と述べた。』と上記記事から抜き取っただけでこのようになっている。要するに、「誰かを関し対称にしている」「指摘を受けるような調査は行っていないが、何らかの調査を行っている」ということを明言しているのだ。そして、どちらも「佐藤参議院議員の会合に潜入していない」とは明言していない。主催者の許可もなく、会合内で何らかの調査を行っていたと言うことを否定はしていないのである。
 上記の「政治的な」自由を維持できないと言うことは、まさに、言論弾圧の恐怖政治が行われることになり、憲法に重大に違反する内容であると言うことができる。今回のことは、その『言論弾圧』が自衛隊の手で行われようとしていると言うことだ。
 よく、戦争を起こさない理由は「シビリアンコントロール」という。しかし、北沢防衛大臣は基本的に軍人ではない。それどころか、現在の民主党政権は「政治主導」を掲げ、防衛省と言えども、官僚の自由には何も動かない状態になっている。しかし、その内容に関しては、他国との戦争は別にしても、国内の言論弾圧など、さまざまな「不安」を掻き立てる事件が起きている。歴史的にシビリアンコントロールが正しいと言う「まやかし」にそろそろ国民が気づいてもよいのかもしれない。最も重要なのは、その人の出自ではなく政治的な公平性や自由を維持すると言うことであり、それができない民主党政権は、国民にとって自由を奪う「日本国の破壊者」でしかないということになるのかもしれない。
 佐藤議員の証拠と、この事件の真相の解明が急がれるし、その内容にとっては、北沢防衛大臣一人の問題ではなく、民主党全体の問題として、国民に信を問う必要があるのではないだろうか。

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通常国会への格闘の対応で野党らしさ問われる谷垣総裁

通常国会への格闘の対応で野党らしさ問われる谷垣総裁

 1月24日に第177通常国会が召集された。
 国会は、この後に1月26日と27日に各政党から代表質問がなされることになる。これも、事前にしっかりと時間や順番が決まっている。26日は自民・民主・自民、27日は公明・共産・社民・みんなの党・国民新党となっており、議席数によって制限時間も按分される。残念ながらたちあがれ日本や新党改革などは、少数政党なので時間の割り当てがない。議員数は、このような政党としての主張の時間と言うことでしっかりと国会の場で反映されることになっている。特にたちあがれ日本などは、与謝野馨共同代表の離党が非常に大きな影響を及ぼしたと思われる。
 もともと、24日に開会、そして施政方針演説があり、財政、外交のおのおのの主要政策演説があったが、翌日が一日相手26日から代表質問になっている。これは、国会の慣習と言うことがある。
 明治時代や、昭和初期などは、コピー機などはまったくなく、すべて初期が手書きで台本を謄写していた。当然に時間がかかる。しかし、コピー機などはまったくなかったのであるから、それ以外に謄写の方法はない。読者の皆さんも目にしたことがあるであろう、会社謄本や、住民票なども、昔はすべて手書きの代表であった。謄本などの写しを求めると、昔は当然に手書きの謄本を入手し、その内容に登記官や市長などが「原本証明」をつけるという対応であった。今でも「これは原本と相違ないことを証明する」というような文言が入っていると思う(最近見ていないので、自信はないのだが)が、当然に手書き謄写であれば、原本と同じかどうか、今のコピー機と違って精密製には、疑問が残る。その疑問を解消するために、公的機関が原本証明を出すのだ。
 最近ではコピー機がある。それでも、やはり人の手や人の感覚は機会とは違ったことになる。国会にいまだに速記官がいるのは、そのためだ。国家そのものの意思の決定をするのであるから、録音などだけでなく、いくつもの記録方法があってしかるべきであろう。
 話はそれたが、速記録を手にして、その後に代表質問の内容を討議する。そのための準備期間として、施政方針演説や所信表明演説と代表質問の間には一日あけて日程を組むのが慣例となっている。現在ではこの慣例をうまく使い、各政党は、政党の方針や国会の進め方、そして代表質問の後に控える各委員会の準備期間として使用している。そのために、施政方針演説や所信表明演説を終えた後、国会開会日に、各政党は議員総会を開き、さまざまな意見交換や政党としての対応を協議するのだ。下記は、その取材の記事である。

民主党 菅首相「建設的な国会に」 両院議員総会

 民主党は24日午前、通常国会開会に合わせ両院議員総会を開いた。菅直人首相は税と社会保障の一体改革などをめぐり「野党が議論から逃げる姿勢も見えるが、これでは国会の意味をなさない。野党も対案を出し、取り入れるべきは取り入れる建設的な国会にしなければならない」と野党に協議入りを求めた。
 質疑では、執行部が検討する小沢一郎元代表の強制起訴時の処分について「裁判の結果を待ってからでも遅くはない」などと反対する意見が出た。【野口武則】

毎日新聞 1月24日(月)11時20分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110124-00000007-maip-pol

背水の谷垣氏、強気転換 与野党協議の参加ハードル上げ

 自民党が、菅直人首相が呼びかけている税と社会保障の一体化改革に関する与野党協議に対し、参加のハードルを上げて対決姿勢を強めている。安易に協議に応じれば、支持率低迷に苦しむ菅政権を支援することになりかねない。また自民党内では、これまで与野党協議をはっきりと拒絶してこなかった谷垣禎一総裁への不満がくすぶる。菅政権を衆院解散・総選挙に追い込むには党の団結が欠かせないため、「強い姿勢を打ち出す」(谷垣氏周辺)ことになった。
 「勝負の国会が始まる。2月あるいは3月には平成23年度予算をどうするか重要な局面がくる。衆院解散・総選挙に追い込まなくてはならない」
 谷垣氏は24日、党本部で開いた全議員・選挙区支部長懇談会で、政権奪還への決意を表明した。
 懇談会では出席者から、「民主党の抱きつき作戦だ、応じればどっちが正しいか分からなくなる」(渡嘉敷奈緒美氏)などと与野党協議への拒否反応が飛び出した。
 さらに、谷垣氏ら党執行部が年内に衆院解散・総選挙に追い込めなかった場合、「どんな政治的責任を取るのか」(河井克行氏)「執行部全員が責任を取る覚悟で臨んでほしい」(稲田朋美氏)などと迫る声が相次いだ。これを受けて、谷垣氏も「安全地帯にいて鉄砲を撃って勝てるとは思わない」と、菅政権と対決する覚悟を披露した。
 谷垣氏ら党執行部はこれまで、与野党協議について「政府・民主党がまず案を示してからだ」として条件次第では応じる構えだった。しかし、菅内閣や民主党の支持率低迷で勢いづく自民党議員の多くが「弱腰だ」とみていた。
 党内の不満を解消するため、谷垣氏は23日の党大会で「(協議は)民主党の衆院マニフェスト撤回が前提だ。おいそれと協議に応じるわけにいかない」と条件をつり上げた。24日には「ばらまくだけばらまいて請求書は一緒にといわれても、『はいそうですか』とは言いにくい」と述べた。
 逢沢一郎国会対策委員長も24日の国対会合で「政府案が出ても、マニフェストとまるで違うなら議論できない」と語った。
 一方、他の野党も24日、首相の施政方針演説に批判を浴びせた。公明党の山口那津男代表は記者団に「政権与党の欺(ぎ)瞞(まん)と変節をしっかりただす」と強調。みんなの党の渡辺喜美代表は「延命しようと野党に抱きつく政権は一日も早く退場させるべきだ」と語った。    (佐々木美恵)

産経新聞 2011.1.25 00:17
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110125/stt11012500210002-n1.htm

 今回の国会は、ねじれ国会であり、その上、民主党が政権交代選挙で掲げたマニフェストの内容がしっかりと審議される国会と言ってもよい。民主党は、昨年の参議院の退廃までの機関、強行採決ばかりで、審議をしっかりと行うこともなく、マニフェストの実行を急いだ。完成件ではなく鳩山・小沢執行部であったが、そのときの副首相が菅直人本人であったとを考え合わせれば、菅執行部は「前の執行部の行ったこと」と責任転嫁できるような問題ではない。
 今回は、そのマニフェストの内容をしっかりと「予算化」する始めての国会と言うことができる。昨年の通常国会は、政権交代したばかりと言うことで、なんとなくそのままですごした。しかし、今度の予算は違う。民主党政権になって一年半、その進化が問われる部分と言うことになるのだ。しかし、その内情は惨憺たるものであり、とても政権としての低をなすものではない。
 ここで、もっともがんばらなければならないのは、「野党第一党」である自民党だ。自民党谷垣総裁は、今まで「影が薄い」「存在感がない」という意見から、「マスコミの露出が少ない」「弱腰対応」などと、自民党支持者からもマスコミからも揶揄されてきている。実際のところ、今まで自民党が経験したことのない惨敗のあとの自民党をうまく纏め上げているとは思うが、しかし、政権に対する攻撃と言うことになると、どうしても、はっきりした軸が見えない。もっと言えば、「小手先の攻撃ばかり」で「根本的な内容での戦い」ができていないような印象を受けてしまう。自民党の中にも反発分子が少なくないと言うことを考えれば、仕方がない部分でもある。実際に強硬な政策を取れば自民党が内部から瓦解する可能性もある。しかし、同時に、豪腕とも言える強硬な指導力がなければ話にならないのではないか。
 民主党は完全に「連立を組めない状態」である。安易な妥協をせずに、マニフェストや、その根本にある国家観を問いただし、国民の支持を一気に取り付け、「頼りになる自民党」を演出しなければならない。そのためには、谷垣総裁自身、「火の粉をかぶってでも」前に進む意思がなければならないのではないか。きれいごとや言葉遊びでは済まされない。そのような勢力の台頭が待たれている。日本の危機を乗り切れるために、安易な妥協や与謝野馨のような「国民の支持への裏切り」をすることなく、しっかりと対応をすべきではないのか。
 ねじれ国会はある意味でチャンスだ。しかし、同時に、野党第一党にとっては「野党のままにいるのか」「政権を任せられる政党なのか」という重大な岐路に立たされていることを肝に銘じなければならない。試されているのは、菅直人ではなく谷垣総裁のほうなのかもしれない。

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第177回国会開会 施政方針演説より

第177回国会開会 施政方針演説より

 1月24日、第177通常国会が開会された。6月22日までの150日間の国会になっている。そもそも、通常国会というのは、国家の新年度の予算を決定することを目的とした国会だ。例年であれば、政府が策定した予算案を審議し、承認するということになる。しかし、ねじれ国会の中においては、なかなかそうはいかない。与野党協調がなければうまくいかないのだ。
 ちなみに、予算に関しては衆議院の優位性が憲法の規定によって決められている。しかし、そのほかの法案は、そのような規定がない。単純に言えば、予算は議決できても関連法案が参議院で通過されなければ、当然に予算は「片手落ち」となってしまうことになる。
 では、その予算に関しては「どのような政治を現在の政権は行おうとしているのか」ということによって、予算が組まれることになる。要するに「政治のやり方」「政策」に同意できていなければ、簡単に予算に同意できるものではない。逆に「予算が通らなければ、国民の生活が困窮する」など、国民の生活を「人質」にして、与党の政策に無理やり賛同を得ようとするのは、政権与党の横暴というもの。そのことをもとにして「亡国の政策」に賛同してはならないのだ。危機困窮の時こそ、その原因をしっかりと追究し、そして、しっかりと様々な内容を修正しなければならない。
 その意味では、政策面で言えば「TPPへの参加」「増税」「子供手当」「事業仕分け」「領土問題」など大きな問題が山積している。これらについて、過去に強行採決によってできた法案も少なくないので、改めて審議をしっかりと行わなければならない。そのような強行採決を行った内容ということは、社会保障に関しても同じだ。消費税と社会保障と言っているが、実際のところ「社会保障を充実させて景気が悪くなる」ということでは、弱者には良いが、一般の人も「弱者」にしてしまう。それでは本末転倒だ。
 その政治の方針が、国会開会日の施政方針演説に入る。そして、財政担当大臣から予算について、そして外務大臣から外交方針についてそれぞれ発表があった。


<通常国会>菅首相、税・TPP協議呼びかけ 施政方針演説

 第177通常国会が24日召集された。会期は6月22日までの150日間。菅直人首相は24日午後、衆参両院本会議で施政方針演説を行い、消費税を含む税と社会保障の一体改革について「一政治家、一政党の代表として与野党で協議することを提案する」と宣言。環太平洋パートナーシップ協定(TPP)についても国会での議論を呼びかけた。演説の最後でも「国民は、先送りせず、結論を出すことを求めている。今度こそ、熟議の国会に」と訴え、「ねじれ国会」を武器に対決姿勢を強める野党に責任の共有を求めた。
 首相は昨年6月の就任後、国会での所信表明演説は2回行っているが、年初の施政方針演説は初めて。演説では国づくりの三つの理念として、「平成の開国」「最小不幸社会の実現」「不条理をただす政治」を掲げた。
 最小不幸社会を実現するための基盤に雇用と社会保障を位置づけ、「今年6月までに社会保障改革の全体像とともに、必要な財源を確保するための消費税を含む税制抜本改革の基本方針を示す」と期限を区切って取り組む決意を表明した。
 そのうえで、自民、公明両党が自公政権時代から超党派の協議を主張してきたことを指摘。「大きな課題に対策を講じる責任は与野党の国会議員全員が負っている」「国民にも一緒に考えていただきたい」と呼びかけた。11年度予算案と関連法案に反対して政権を「3月危機」に追い込む構えをみせる自民党などをけん制し、昨秋の臨時国会のような対決一辺倒の審議を繰り返していいのかを世論に訴える狙いがある。
 平成の開国では、貿易・投資の自由化を経済成長につなげることをうたい、米豪などがアジア太平洋地域の貿易自由化の枠組みづくりを目指すTPPに関し「今年6月をめどに、交渉参加について結論を出す」と参加に前向きな姿勢を示した。
 TPPは国内農業への打撃が懸念されるため、例外品目の交渉をしやすい2国間の経済連携協定(EPA)をオーストラリアなどと進めることも強調。演説原案では日米EPA交渉も盛り込んでいたが米側の同意が得られないと判断し見送った。「農林漁業の再生」も掲げ、6月をめどに基本方針、10月をめどに行動計画を策定するスケジュールを明示。その柱に農業者戸別所得補償の拡充を据えた。
 不条理をただす政治としては「社会的孤立」問題の特命チーム設置などをアピール。小沢一郎民主党元代表の「政治とカネ」問題には言及せず、企業・団体献金の禁止などを挙げて政治改革の与野党協議を呼びかけた。
 地域主権改革と行政刷新を「三つの理念を推進する土台」とし、民主党政権の看板となっている「事業仕分け」については対象に国の規制も加え「深化」させる方針を示した。
 外交では、日米同盟を「外交・安全保障の基軸」と強調する一方、昨年6、10月の所信表明演説にあった「東アジア共同体」構想が消えた。米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)については、沖縄振興と基地負担軽減に取り組む方針を示し、同県名護市辺野古に移設する日米合意への理解を求めた。【吉永康朗】

 ◇施政方針演説と所信表明演説
 毎年1月召集の通常国会で、首相が行うのが施政方針演説。内政、外交について、内閣の基本方針を説明する。外相の外交演説、財務相の財政演説、経済財政担当相の経済演説と合わせ「政府4演説」と言われる。所信表明演説は臨時国会、特別国会の冒頭や、会期中に首相が交代した際、首相が国政への考えを示す。前者は内閣全体の方針、後者は首相の所信という違いはあるが、慣例的なもので法律上の定めはない。

毎日新聞 1月24日(月)14時28分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110124-00000033-mai-pol

 今回の国会は、「特に連携も何もしていない参議院少数与党が、どのような国会運営をするのか」ということにかかっている。
 当然に施政方針演説に関する内容が、その予算を決定する政策の問題だ。しかし、この中には、「今まで民主党が行ってきたこと」が全く反省されていない。民主党が最も支持率を落としたのは、まさに、尖閣諸島問題での「国家観のない対応」である。国家観がないということは、まさに、「国の発展」がない。国の発展がなければ、当然に国民の繁栄もなければ、この国の将来もないのだ。
 地域主権と行政刷新と言いながら「予算の組み替えで16.8兆円の財源のねん出」はできず、マニフェストを見直すといい、また「国民主権の国家」であるのに、その国民の主権を取り上げて地域主権にし、国家観のなさを露呈している。これでは、何の政治だかわからない。民主党が亡国、売国といわれる所以だ。
 しかし、「市民活動家」を行ってきた現在の民主党執行部には、残念ながらその辺のところが分からない。この国会は、まさに、自民党など野党が「以下に国家観のある政治で国民の支持を取り付けることができるか」という国会でもある。この国会で、新たなヒーローの出現を期待するが、それは難しいのかもしれない。

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マスコミ批判に対する一考(28) 扇情的に不安をあおるマスコミの実態

マスコミ批判に対する一考(28) 扇情的に不安をあおるマスコミの実態

 「終末思想」と言うものがある。人類もしくは世界、地球、宇宙、要するに現在存在しているその存立の基盤となっている「環境」や「事物」が滅びてしまうという思想の体系だ。この終末思想は「近未来に滅びる」、「人類が滅亡する」と片方で煽り、「救いの道はこれしかない」として人身を誘導する。人心収攬術のひとつとして存在するひとつの大計であることは間違いがない。
 地球滅亡や、都市崩壊などは、過去にもさまざまなものがあった。明治年間には、ハレー彗星が上空を通過することによって、地球上から空気がなくなり、人がみな死んでしまうとして騒動が発生した記録がある。終末思想は「滅亡」「死」と直結し、その「滅亡」に対して、「誰かを信じれば」「特定の行動をすれば」助かると言う、「選別主義」のひとつの大計ともいえる。選別主義と言う単語がわかりにくければ、「差別化」という単語で表したら腑に落ちる人も少なくないのかもしれない。
 私の記憶のあるところでは、規模の小さなものでは「富士山大爆発で東京壊滅」と言うものもあったし、「東海大震災」と言うのもあった。大震災や富士山の噴火は、科学的にいつかあると思ったが、私の小学生のころ、テレビ番組で気象研究家が出演して、富士山爆発の日程まで予言していた。そのために、当日「避難」して学校を欠席した同級生が何人かいたのを記憶している。「テレビ信じて学校休むなんて馬鹿じゃねーの」といって、彼らがしばらくの間、いじめにあったのは「現実の終末思想的な被害」だったのかもしれない。
 終末思想的なものでもっとも大きく記憶に残っているものは「ノストラダムスの大予言」であろう。1999年に恐怖の大王が降りてきて人類が滅亡するという。その「恐怖の大王」が「隕石」「核兵器」「宇宙人」などさまざま言われていた。現在2011年、その予言から12年たっているが、今のところ「恐怖の大王」よりも隣国の常識で判断できない将軍様や売国政党の売国政策のほうが現実の「恐怖」となっているのではないか。
 その「終末思想」の最新版が2012年のマヤの予言である。それについての記事が出ていたので、少し読んでみよう。

「2012年地球滅亡」 「マヤの予言」めぐり騒動続く

  2012年12月21日に人類が滅亡するという「マヤの予言」。これを題材にした09年のハリウッド映画「2012」も大ヒットし、本当に天変地異が起きるのではないかと、現在も世界中で戦々恐々とする人もいるようだ。日本でもここ1、2年の間に「マヤの予言」に関する単行本やテレビの特集が放送されたが、はっきりした根拠がないまま騒動が続いているというのが実態のようだ。
 人類滅亡の予言といえば「ノストラダムスの大予言」があり、1999年7月に「恐怖の大魔王が降ってくる」などと騒ぎになったが何も起きなかった。
世界の終わりを逃れるため避難する人々も
 朝日新聞の11年1月9日付に「マヤの予言」に関連する記事が掲載された。世界各地で30件以上もの野生動物の大量死報告がされたことで、米CNNなどが謎解きの番組を度々放送。インターネットのブログでは2012年に人類が滅亡するというマヤの伝説を根拠に「終末が近づいている」という警告や、「政府が何かを隠している」といった陰謀説が飛び交い、これらを大手メディアが取り上げたことで騒動になっている、というものだ。西日本新聞は10年12月29日付けで、フランス南部の小村ビュガラッシュに世界各地の終末思想信奉者が「2012年の世界の終わりを逃れる聖地」として流入し、住民が困惑している、などと書いている。
 古代マヤ人は建築学、天文学に優れ、太陽や月、金星を観測し正確な暦を作った。建築したピラミッドも天体観測との関係が深い。彼らの暦は紀元前3113年以降5125年を一つの周期にしていて、2012年12月21日で終了する。高い文明を持っていた彼らが暦をこの日を最後にしたのはなぜなのかと議論になった。また、マヤ文明が栄えたメキシコ南東部ではUFO(未確認飛行物体)の目撃情報が多かったり、ピラミッドの中に「宇宙船」にそっくりな壁画があったりするため、古代マヤ人と宇宙人の関係なども取り沙汰され「滅亡」の話は大きくなっていった。
 ただし、12年12月21日以降に何が起きるのかという記述はない。このため、大地震や大津波、大洪水などの天変地異や、隕石の落下、新型ウィルス、太陽の異常活動に伴う様々な異変や災害が起きるといううわさが飛び交った。
 「マヤの予言」への恐怖が世界中でヒートアップしたのは映画「2012」が公開された09年。米航空宇宙局(NASA)に巨大な隕石が降ってくるのではないか、などといった問い合わせが殺到したため、NASAは09年9月9日、地球滅亡のストーリーはインターネット上のでっち上げであり、今後40億年は滅亡しない、などといった異例の声明を出した。
「滅亡ではなく、新時代の幕開け」
 日本でも特集番組がいくつも放送された。09年11月15日放送のTBS系「日立 世界ふしぎ発見!」では、マヤ文明の現地にリーポーターが出かけ、マヤの末裔・キチェの人々や、マヤ歴を司るサセルドーテ(司祭)にインタビューしたが、12年12月21日以降に何が起こるのかどころか、「マヤの予言」さえ知っている人は少なかった。
 テレビ東京で10年12月24日放送した「やりすぎコージー都市伝説スペシャル」でも特集を組んだ。番組では現地でマヤ民族の血を受け継ぐ伝道者のアク・タさんにインタビューし、地球滅亡はあるのかと聞くと、「それは絶対に違います」と話し、マヤ民族が持つ知識が間違って世の中に伝わっていることを嘆いた。そして、12年12月21日で暦が止まっている理由を、カレンダーが一つの周期を終え、新時代の幕開けを示しているものだと説明した。新時代というのは13年以降に生まれてくる子供達のDNAが飛躍的に進化し、様々な分野でその才能を開花させる世界なのだ、とアクさんは話していた。

2011年1月16日(日)15時0分配信 J-CASTニュース 
http://news.nifty.com/cs/headline/detail/jcast-85360/1.htm

 終末思想はよく宗教的な内容に使われることが多い。そこにおける「選別主義」は、宗教の信仰心の有無に直結する。この二つが直結するのは、双方ともに「科学的根拠が希薄」であり「人間の弱い部分」を出す形で現れる一つの行動体系であるからだ。
 では、これを報道して「視聴率」をとるテレビと言う存在は何なのであろうか。
 本来は、報道番組や譲歩番組などは、しっかりとした根拠にもとづた内容を報道すべきであり、そのような報道ができないのであれば、その内容に対して結論を出すべきではないのか。しかし、このような予言の類は、当たるもあたらないも報道側に責任がない。それどころか、上記の特徴の分析のように「人間の弱い部分」である不安感を煽り、そして、選別主義によって多極との情報の差を際立たせ、その上で、「科学的・実証的な根拠の希薄な印象操作を行う」ということが挙げられる。まさに、テレビメディアの真骨頂と言うことができるのではないか。
 テレビメディアは、常に生活者(視聴者)の身近な部分の不安をあおり、または政治犯罪の報道などは、妬みの感情を立たせ、そして、さも自分の報道の通りに行動しないと「社会から取り残される」と言うような印象操作を行い、その上で、価値観の刷り込みを行う。この一連の印象操作の流れに「終末思想」や「宗教的差別化」は非常に近しいものがあることにお気づきだろうか。
 思い起こせば、一昨年の政権交代選挙において「自民党では生活が苦しくなる」とし、「日本がだめになる」と終末思想的な報道を行い、そして、「民主党に政権交代をすればよくなる」という印象操作を行った。また、自民党の指導者に指導力が無いかのごとく装うために「麻生首相は漢字が読めない」「麻生首相はカップラーメンの値段も知らない」「麻生首相は毎日帝国ホテルのラウンジに入り浸っている」という印象を着け、「生活者第一」とした民主党との差別化を図った。しかし、その結果はどうだ。現在の首相も「言語明瞭意味不明」の答弁を繰り返し、「なぜ突然にその政策が出てきたのか」論理的な説明もできず、なし崩し的に権力の座を私物化している。民主党になってからの、強行採決の回数や法案の成立率は、いずれもワースト1。それどころか、閣僚の秘書や党幹部、選挙対策本部の役員など、民主党菅家者の選挙違反や政治とカネにまつわる逮捕者も完全にワーストの記録を塗り替えている。次々に出る民主党議員のスキャンダルは左翼過激派の革マル派の関係まで取りざたされるしまつだ。その上、今度は、「政権交代」で叫んだ政権公約を勝手に、選挙も無く見直すと宣言している。
 その内容に関し、マスコミ、ことにテレビメディアは、まったく反省の色も無い。自分たちが上記のように終末思想的に煽ったために、このようになったと言う自覚すらないのが現状だ。要するに無責任報道であり、「その場の視聴率さえ取れれば何をやってもかまわない」「日本のこと、視聴者のことを考えた報道はまったくできない」というメディアの現状は、あまりにも悲惨なものがあるのではないか。
 前半部に出てきた「自身・噴火を信じていじめられた同級生」は、結局、そのエピソード以降ずっと「弱虫」というレッテルを貼られた。彼は「テレビが悪い」「気象研究家が悪い」と言っていたが、小学生の間でそのような主張が認められるはずも無い。もちろん、テレビが「訂正放送」「検証放送」「お詫び」などを行うことは無い。このような小さな子供まで巻き込んだ印象操作に、テレビは「信じたほうが悪い」という「詐欺してきな言い訳」しかしないのである。このような被害者は、誰がどのように救うのか。このような印象操作が日本を滅ぼすのである。

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私が中国に行くようになた理由(1) マイカルの突然の命令

宇田川敬介東アジア放蕩覚書
私が中国に行くようになた理由(1) マイカルの突然の命令

 今週から、新連載ということで、「東アジア放蕩覚書」をはじめたいと思う。
  私の経歴でもたまに出てくるであろうが、私はなぜかアジア・東アジアや東南アジアの経験が多い。中国だけでも何回行ったかわからない。それも、観光はまったくなしでそれだけの回数の訪問暦なのだ。私は、非常に日本が好きである。残念ながら韓国や中国だけでなく、欧米を含め外国はすべて嫌いであるといって過言ではない。休みがあれば間違いなく国内旅行を選択し、間違っても海外に観光で行くということは、私の脳からはまったく出てこないのだ。
  そもそも、マイカル(旧ニチイ)に大卒で入社したのも、小売業や外食産業ならば、外国に行かなくてよいと思ったからだ。当時、商社やメーカーなどさまざま内定を持っていた。しかし、残念ながら、私はそれらに行くことはなかった。金融機関ですら魅力を感じなかった。理由は簡単で、外国への勤務があるからだ。私が入社したときにマイカルは、海外への進出などはごくまれな部分であり、基本的には国内勤務であると考えていた。しかし、その考えは甘かった。学生時代のイメージで物事をよく調べもしないで判断してはいけないということだ。もちろん、小売業の場合はメインは国内の小売店である。しかし、仕入れやイメージアップなど、さまざまな分野で海外とのつながりが多い。その多くの海外との契約において、小売業はさまざまなアクセスをしなければならない。私の場合、まずアメリカのスポートマートという会社の話があった。スポートマートの日本進出に伴いマイカルと提携をするというものである。結局は決裂したし、主戦は私の先輩である三谷さんが行っていたので、このときは見習いに近い形だ。コピー取りとかお茶汲みといった感じ。
  この先輩の三谷さんが、アメリカ(どこの週だったかは忘れたが)の弁護士資格を取るということで、アメリカに留学した。当然に、「見習い」から「主力」に一気に格上げになったのだ。実に、マイカルは、120社以上の子会社をもち86000人を超える一部上場会社である。しかし、その大型グループ企業の法務部は10名。部長や嘱託社員は仕事をしないので、実働4名ですべてを切り盛りしていたのである。そのうちの一人が欠けてしまえば、当然に、見習いはすぐに主力になる。定員に足りない野球チームのボール拾いが、人数が足りないのでいきなりクリーンナップを任されるようなものだ。運がよいといえばそれまでであるが、やりがいとかそういう不思議な内容などは無縁。ただひたすら目の前の仕事を「やっつける」という感じであった。
  このときに交渉した相手は
  「ワーナーブラザーズ」(映画会社、ワーナーマイカルとして展開)
  「ブーツ」(薬店、マイカルとは決裂、後に銀座に出展するもなくなった)
  「モタ」(パン店、交渉自体が契約打ち切りの交渉)
  「ビューティーインポート」(化粧品メーカー。りぞなーれ小淵沢のエステで展開)
  「ヴィクトリア」(アメリカのファッション雑誌、マイカルとは決裂)
  このほかにもあったと思うが、提携交渉はそんなものであった。

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政権政党にあり得ないニュース2本 求心力を失った民主党

政権政党にあり得ないニュース2本 求心力を失った民主党

 来週の国会開会を前に、民主党の迷走ぶりが際立っている。
 ちなみに、私は風邪で少し熱を出しているので。あまり良い文章が書ける気がしない。それでもとりあえず書いてみようと思う。
 民主党の迷走ぶりは、まさにひどいものだ。年末から始まる脱小沢と政治とカネの問題。これは完全に民主党の内ゲバでしかない。民主党の内ゲバを、政治倫理審査会というように、まさに「国会の場」で行うということになるでしょう。「国会の場」ということは、それまでの「党費」で行っていた内ゲバが、われわれの税金で運営される国会で「無駄遣い」をするということだ。与野党が違う意見で国会で運営するというのではない。民主党内で要求し、民主党内の議員である小沢一郎氏に事情を聴くのに、なぜ国会の場を使わなければならないのか。何の説明もない。他党同士が争うという感覚で「脱小沢」をやっているように認識をしているのではないか。順序が違う。そもそも「除名」して、その後民主党内における支配関係が通用しないので、国会の場を使うということあらばわかるが、今のままでは民主党は民主党の議員を管理できないということを意味しているのだ。
 この「管理できていない」という状態は、完全に地方議員や民主党内の議員に浸透しつつある。
 もともと、民主党の求心力は「反自民」という流れと、その象徴であるマニフェストであった。マニフェストがあったことによって、綱領のない民主党は、ある意味で政権を運営するための基本政策である「マニフェスト」とその実行を行うことが、まさに、民主党議員や党員の結集の象徴であった。
 しかし、その「マニフェスト」は、右翼系、左翼系、保守系から過激派まで様々なイデオロギーの「良いとこどり」をしてしまったので、政策を一つ行えば、違う政策が実現不能になる。そのような矛盾に満ちた内容のマニフェストにしてしまった。実現不能な内容を具体的に書いた「マニフェスト」が、民主党関係者の統合の象徴になっているという、あまりにも矛盾に満ちた内容である。
 小沢一郎は、そのことを全て分かった上で、政権交代を実現した。そして「不可能」とわかりながらも「マニフェストの実現」ということを主張し続けた。しかし、菅・仙谷・岡田・枝野は、そのようなことは考えていない。そのことは、まさに、「反小沢」「脱小沢」という現象と、その行動、そしてマニフェスト見直しということに凝縮されている。
 その内容が、具体的に示された内容が下記の記事である。

民主党静岡、県議選過半数を断念…擁立絞る

 今春の静岡県議選(定数69)を巡り、民主党静岡県連の牧野聖修会長は19日、記者団に対し「過半数擁立はできない」と述べ、公認・推薦候補は目標の35人以上には届かないとの見通しを明らかにした。
 同党県連は33選挙区すべてで候補者を擁立し、定数3以上の選挙区では複数候補の擁立を目指しているが、19日現在の推薦・公認候補者は30人にとどまる。
 14日の県連常任幹事会では、こうした方針を見直すよう求める声が相次いだ。牧野会長は19日、候補者は最終的に32~33人程度にとどまるとの見方を示し、「定数3以上の選挙区で複数出すと共倒れする恐れが強い。無理はせず、過半数をとらなくても議会運営で他会派と連携するなど工夫してほしい」と述べた。
 これに対し、県連の岡本護幹事長は読売新聞の取材に「状況が厳しいのは確かだが、擁立作業は現在も進めており、調整中の選挙区も幾つかある。やめる気は全くない」と話した。

(2011年1月20日13時15分  読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/election/local/news/20110120-OYT1T00485.htm


首相、政治主導を軌道修正…官僚にも協力要請

 菅首相は21日午前、首相官邸で各府省の次官らに訓示し、省庁間の政策調整について、閣僚・副大臣ら政務三役による調整と同時に、次官・局長らによる調整も容認する方針を示した。
 民主党政権は政治主導による政策決定を掲げてきたが、官僚排除により行政の混乱・停滞を招いた反省から、官僚に協力を求める姿勢を鮮明にした格好だ。
 首相は政権交代後、次官会議を廃止したことについて、「憲法の規定からいって、本来あるべき姿に近付いた」と強調する一方、「現実の政治運営の中では、反省、行き過ぎ、不十分な問題が色々あった。プラスマイナスを振り返り、より積極的な協力関係を作り上げてほしい」と指示した。
 「政治家も『自分たちだけで大丈夫』ということでは、物事が進まないこともしっかり理解している。遠慮なく大臣、副大臣、あるいは私に対して意見を言ってほしい」とも語った。

最終更新:1月21日(金)11時35分 読売新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110121-00000375-yom-pol

 一つ目の記事は、地方議員に統合の象徴が通用しなくなった。要するに求心力がなくなったということである。まさに、その結果として「選挙区に過半数を占める数を擁立できない」「擁立しても勝つ(議会の過半数を得ることが)できない」ということを意味している。これは、地方議員での民主党離れと、その有権者の民主党離れが進んでいることを意味する。しかし「民主党離れ」が進んでいるとしても、まさか、「初めから議会過半数を放棄する選挙」というのは、与党としてはあり得ない話だ。もっと言えば「候補者を立てることもできないほど民主党離れが進んでしまった」ということであろう。
 考え起こせば、静岡県は、小沢幹事長の方針である参議院選挙での二人擁立を行い、その後の枝野幹事長における歪みが最もひどく出たところだ。殊に、牧野議員は、その象徴的な存在になっていた。要するに参議院選挙の経験から、「民主党執行部の管理が最も届かない県連」ということができる。その内容は「立候補者不足」という形で出てくるのである。
 一方二つ目の記事は「脱・脱官僚」という不思議な内容になった。自民党政治の否定は、それだけではなく「官僚政治の批判」ということになる。もともと「守旧派」を批判するということが、マニフェストと同質の求心力であった。連合体は、敵が大きければ大きいほど結束力を強くする。しかし、連合体内部に亀裂が出ると、平気で裏切ることになる。
 今までは、「菅」「小沢」という二つをはじめとする連合体であった。しかし、その連合体の「反小沢」という内部分裂が起きると、もともとの敵である「自民党」「官僚」と手を組まなければならない。そもそも「菅」グループが力があれば、単独ですべてを敵に回すのであろうが、残念ながら全てを敵に回して勝てるようなものでもないし、また、それを乗り切る知恵もない。その状況で「反小沢」を推進すれば、当然に他のところと手を組まなければならない。昨年末は「大連立」といって自民党との連合やたちあがれ日本との連立を模索した。しかし、14日の組閣を終えて、結局成果は与謝野馨一人でしかなく、敵を増やしただけである。そもそも「反民主」の連合体の結束を強くしてしまった。今まで期待した社民党や公明党も離れてしまったのだ。
 そのために、「脱・脱官僚」と、マニフェストの変更、そして、「政治主導」という考えを完全に排除したのである。
 一時的には良いかもしれない。しかし、上記のように「もともとは敵対していた」状態であることから、当然に、官僚が「面従腹背」を貫くことも考えられる。また、同時に「脱官僚」「官僚政治批判」をしていた有権者の民主党離れを推進し、また、マニフェスト違反を非難する声にまぎれる。当然に、その部分で、より一層求心力がなくなり、静岡県のような「求心力不足」が出てしまうのだ。これこそ「政策と選挙の負のスパイラル」が発生し、それが4月の統一地方選挙までの期間に、大きなうねりになる可能性がある。当然にその時には、民主党の求心力がどこまでか減ることになる。与謝野馨のような「裏切り者」を認める風潮は、民主党の中からも裏切り者を出してしまうことを意味している。
 今回、このような小さな記事が、民主党の体質を示し、そして政界再編や大きな政局の「基盤」となることを忘れてはならない。

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「日教組教育の成果」法廷闘争となったモンスターペアレンツ

「日教組教育の成果」法廷闘争となったモンスターペアレンツ

 なかなか興味深い記事が出てきた。
 埼玉県の小学校の教諭が担任をしている女子児童の両親から再三の嫌がらせ(抗議)を受けたことによって不眠症になったとして、両親に500万円の慰謝料を求めて提訴したというのだ。
 昨今話題になっている「モンスターペアレンツ」なのか、あるいは、女性教諭の方が過敏なのか、いずれにせよ、学校を巡る内容が、生徒や他の保護者などを飛び越えて法廷の場に持ち込まれたという。今までも、「モンスターペアレンツ」という現象に関しては、半分面白おかしく、半分困った社会現象としてマスコミやインターネット上で伝えられていた。しかし、その内容に関して、法廷闘争になるというのはなかなか興味深いものである。
 そもそも、時代が変わるに当たり、徐々に学校の雰囲気も変わってきている。その内容は、子供の態度も、一方で教師の質も、そして子供の親の質も変わってきている。殊に、少子化の影響はこのようなところにも来ており、多くの家が一人っ子である。子供に対する過保護な親と、全ての子供に平等に接するという学校との関係がおかしくなるのは当然だ。「自分だけ特別」という贔屓目の親と「均分的平等を推進し競争をなくす」建前の学校とでは当然に利害が対利することになるのである。
 その利害の対立、価値観の違いの最先端に立たされているのが生徒である子供と教諭である。しかし、生徒は子供であるが一方で非常にしたたかである。教諭の方は、「師」という意味も含めてなかなか責任が大きくなっている。また、保護者は子供の育児を学校に任せたと思っている。もっと言えば「自分の代わり」を教諭に求める傾向がある。そもそもその感覚がおかしいのであるが「親としての義務感」が欠如している。その価値観の相違の結果がこの記事である。


「嫌がらせで不眠症」になった教諭、女子児童の両親を提訴

 埼玉県の市立小学校の女性教諭が、担任をしている女子児童の両親から再三嫌がらせを受け不眠症になったとして、両親に500万円の慰謝料を求め、さいたま地裁熊谷支部に提訴していたことが18日、分かった。提訴は昨年9月29日付。
 児童の母親は取材に「子供が教諭から差別的な扱いを受けたので、やめてもらうために抗議をしただけで問題はない」と反論。「いわれのない訴えであり、和解は絶対にしない」と話した。
 訴状によると、女子児童と別の児童とのいさかいへの対応をめぐり、女子児童の母親が昨年6月、「2人の問題なのに学級の問題にされた」と電話で抗議、その後も児童の連絡帳に教諭を侮辱する書き込みを8回したとしている。
 このほか両親は市教育委員会に教諭を中傷する内容の文書を提出するなどし、両親の行為によって教諭は同年9月に不眠症と診断されたという。教諭側は「人格権に対する違法な侵害行為で、今後の教員生活の継続に重大な支障を生じさせた」と主張している。
 原告側代理人の弁護士によると、同12月15日に開かれた第2回口頭弁論で両親は「自分の子供を思ったことで正当な行為」とし、請求を退けるよう訴えた。
 市教委は「訴訟中なので、コメントを控える」としている。

夕刊フジ 2011.01.18
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20110118/dms1101181624014-n1.htm

 単純に言って、「どれも日教組教育の成果」であるとしか言いようがない。
 明治時代など戦前にこのようなことはなかった。しかし、なぜ今になって「法廷闘争」になるのか。そのことを考えてみればよい。「法廷」とは「権利と権利の衝突の調整(紛争解決)の場」である。紛争が起きるときというのは、双方が権利を主張するときであり、義務を双方が言っているときは、些少の例外はあるが基本的には紛争は起きないものだ。学校教育の場において「権利の主張」が行われている問いことがそもそもナンセンスではないのか。
 明治時代は、基本的には「義務」の場所であるし、「義務を教える場所」であった。日本人は義務を伴わない権利を主張する傾向がある。その傾向は、日教組教育に非常に顕著にみられる。本来「修練」は何かに勝つために行われる。学校といえども修練だ。もっと単純な言い方をすれば、単に学業を学ぶ場所ではない。将来にわたり社会生活を送るために、それなりに修練を行う場所だ。しかし、それは社会生活であるから家庭でわがまま放題に過ごしているのとは違う。人間と人間、個性と個性がぶつかるのであるから、当然に、摩擦などもある。その摩擦の時に、親が出てくるとか、誰かが解決してくれるものではない。本来であれば、子供の時分から自分たちで、しっかりとそのような技をまとめなければならない。
 しかし、子供の世界は、ややもすると暴力など腕力の強さで解決してしまうかもしれない。子供の世界は、そうなってしまう場合が少なくない。子供の世界は大人の世界のように理論やしっかりとした内容を話ができるものではないのだ。また、「倫理」「道徳」がまかり通らない場合はある。そこは子供だ。だから、その分、大人がしっかりとした道しるべを示さなければならない。当然に、それが「教諭」の役目だ。
 しかし、まずその教諭が「競争」のない社会で育ってきてしまっている。単純に考えれば、今の教諭も日教組教育の申し子であるし、団塊ジュニアなども多数含まれてしまう。
 団塊ジュニアの日教組教育とはどのようなものか。「競争はいけないこと」「反日」「国家観を考えない」「道徳・倫理の教育を行わない」など、その問題はかなり列記されている。たとえば、幼稚園などで「順位がつく」のがいけないということで、徒競争で最後に子供を止めて手をつないでゴールするなど、まったく驚くばかりのことが少なくない。しかし、団塊ジュニアの時代は、まだ「親に道徳観」があった。正確に言えば「親」ではなく「祖父母」であった。祖父母は昭和一桁や明治大正生まれなどもいた。要するに戦前の教育、しっかりとした道徳教育を受けていた。
 倫理・道徳(厳密に言えば、倫理と道徳は違うのであるが)は、その説く「倫」があって、また「真に正しいものは何か」ということをしっかりと求めることによって、集団生活での正しい指針を教えていた。団塊の世代といえども、自分の親に対する敬意は失っていなかった。そのために、まだ「子供の教育がおかしい」だけで「親までおかしい」というような事件はなかったのである。
 しかし、残念ながら、「ゴール前で手をつないでゴールする」という「競争や順位をつけない」教育を受けてきた親たちは、学校とはそのような過保護なところであると考えている。その日教組教育の雅にゆがみが今の「モンスターペアレンツ」に現れているのだ。
 もっと言えば、日教組は、自分たちの教育の成果である「モンスターペアレンツ」に対して苦慮していることになるのだ。正直に言って自業自得といえる。
 今回の保護者が「モンスターペアレンツ」かどうかは私はわからない。しかし、相手を法廷闘争にまで追い込んでしまう、そのやり方は、まさに、上記にあげた子供社会の内容と同じだ。大人が「自分たちで解決できない」でいながら「子供の社会のいじめを根絶する」などはできるはずがない。また、教諭の方も、そもそもこのようないきさつでモンスターペアレンツが生まれたという経緯から考えれば、保護者だけでなく日教組に対しても訴訟を起こすべきである。そして「日教組教育の法廷上の正義」を一度考えてみればよい。自分がその組織に入りながら、競争社会を止めるとか、平等とか言いながら、片方で権利の実現と言って、しっかりとした教職を全うすることなく、法廷に事件を持ち込むというのも、また、教職者としていかがなものかと思う。
 この事件をもとに、日本の教育と、その子供だけでなく親の教育や教職者の教育まで、しっかりと考え直すべきではないだろうか。

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チャンネル桜、闘論!倒論!討論!収録

チャンネル桜、闘論!倒論!討論!収録

 昨日19日に、チャンネル桜の討論番組の収録があった。
 今回のお題は「大連立と日本の行方」ということであった。放映は、土曜日の20時からである。
 さて、チャンネル桜が今回「大連立」といったのは、菅内閣において行われるということをさしているわけではない、とのことだ。どちらかというと、ポスト菅がどのように行動するかということにおいて、何をするのかということがその内容になってきている。要するに、予算は衆議院で過半数をとっている与党が通すと毛が関連法案他、他の法律もすべて「ねじれ国会」のために通らなくなる。そうでなくても4月にある統一地方選挙で与党が惨敗すれば、菅政権はそんなに長くならないと予想される。当然に、民主党がその時点で解散総選挙になるとは限らない。どちらかといえば総辞職になるものと考えられる。そうなれば、次の総理との間で、大連立も起きる可能性があるというものだ。それも、安全保障、尖閣問題、朝鮮半島問題などで外交安全保障で緊急に何かを決めなければならない菅王政がある。そのようになった時に「救国大連立」を行うのではないか。チャンネル桜はこの可能性を見ていたのである。
 残念ながら、私は常々「国民は自民党政治に飽きてしまった。しかし、民主党政権には呆れてしまった」という感じだ。その状況において、「飽きられた」政党と「呆れられた」政党が大連立をすることはあり得ないのではないか。連立等があるとすれば、総選挙後であろう。今の枠組みで「野合」をしてしまえば、当然に、自民党も民主党も完全に国民からの信を失う。そのことは、現在の内閣の与謝野馨大臣の入閣に関する国民の反応を見れば明らかだ。
 自民党がいくら野党生活に慣れていないにしても、その辺の国民の意思を読めないはずはないであろう。また、誰も政治家であるから「勝ち馬に乗る」という人は少なくないが、残念ながら負ける「斜陽」の相手と一緒になることはない。
 ということで、どのようなメンバーで討論をしたのか。下記の容量が送られてきたメールである。

      記

番組名:
「闘論!倒論!討論!2011 日本よ、今...」

テーマ:
「どうなる!?大連立と日本の行方」

収録日時:
平成23年1月19日(水曜日)14:00~17:30
(番組は3時間番組です。途中休憩が入ります)
※10分程前までにお越しいただければ幸いです。

放送予定日:
平成23年1月22日(土曜日)20:00-23:00
日本文化チャンネル桜(スカパー!217チャンネル)
インターネット放送So-TV(http://www.so-tv.jp/)

収録場所:
弊社Aスタジオ(渋谷)

パネリスト:
50音順敬称略

上杉 隆(ジャーナリスト)
宇田川敬介(ジャーナリスト・国会新聞社編集次長)
片桐勇治(元国民新党広報部長・政治アナリスト)
花岡信昭(政治ジャーナリスト・拓殖大学大学院教授)
福冨健一(自由民主党政務調査会事務副部長)
筆坂秀世(元参議院議員)

司会:
水島 総(日本文化チャンネル桜 代表)

 今回の内容は非常に興味深かった。上杉氏と筆坂氏による「左翼政権」ことに「書記局政治」に関しては非常に参考になった。このやり取りに関しては、本編を見てもらうと良いと思う。左翼研究、今の民主党がいかにそのようになっているかが非常によくわかる。
 さて、与謝野氏の入閣に関しては、当然に「不条理」である。与謝野氏は民法などで様々言っているのであるが、「私が自民党で当選して民主党の閣僚になったが、その時に議員辞職をしなければならないという制度になっていない」という。おいおい、そもそも制度を作る人が、そのようなことを想定して制度を作ることはない。もっと言えば、「そんな、あり得ないほど道義にもとることをしている内閣だ」ということだ。国民の模範となるはずの大臣が、法律に書いてなければ、制度に書いてなければ何をやっても良いという。まさに、「権利意識」だけで「義務意識」がまったくない人が、自民党の公認候補の中にもいたということになるのであろうか。この内容を考えながら、野党である自民党も、しっかりと党の再建を考えなければならない。たった1年半で二つも政党を代わり、そして反対側の政党の大臣になるような人を公認しているから、自民党は政権の座から下野することになるのだ。
 一方、それを受け入れた民主党の菅政権は、もっとひどい。視野が狭いし、「民意」が見えていない。そのような政権に何をやらせてもだめだ。改造内閣の後、支持率が「微増」であるというが、支持している人は、何をもって「支持」しているのかまったくわからない。よほど強い自民党アレルギーか、もしくは、新年のご祝儀相場か。いずれにせよ、「権利意識」が「自分たちのためだけ」に作用する。国民や国民生活のために政治をしているのではない。議会軽視や閣僚の顔ぶれを見ても、どうしてもそのように思ってしまう。これでは、政権に関して何の期待もできないではないか。
 まさに、菅時代は暗黒の時代。しかし、その内容は、まさに、国民が作り出した現在の政治状況である。そのことをしっかりと反省し、次の選挙(まずは統一地方選挙であるが)に活かしてもらいたいと思う。

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センター試験に関する記事に関する一考

センター試験に関する記事に関する一考

 先週の土日、要するに1月15日16日は、大学入試のセンター試験があった。昔、私が現役で受験するときまでは「共通一次試験」と言っていたが、最近では私立大学などもこの試験の結果を重視するようになってきているらしい。それだけに、試験そのものの重要性や試験の成績と言うものは非常に大きく受験を左右することになる。
 そもそも、試験と言うものは、自分を試されるものであるし、合否によって資格(大学入試で言えば入学資格)の得喪がかかわる重大な問題である。若者にとっては、「高校入試」「大学入試」そして「就職試験」の三つの試験は大概避けては通れない内容ではないだろうか。しかし、これらの試験は、特に大学、高校の試験は年に1回しかないために、受験生にとってはそれまでの勉強の成果が出るところであるうえに、それにより将来の人生に少なからず影響が出てくることになる。
 私の時代もかなり必死であった。私のときは現役合格ならば共通一次試験であり、浪人すればセンター試験であった。結果的に私は双方を受験しているのであるが、どうもマークシートの形式はあまり得意ではないらしく、そのセンター試験とはまったく関係のない試験で大学に入った。当時は私立大学のほとんどはセンター試験とは関係がなかったために、国立をあきらめれば、センター試験は特に大きな問題ではなく、私立試験の前の実力試し的な気分であったのが記憶にある。
 私は、あくまでも個人的な意見であるが、すべての試験において思うものであるが「優秀」な人が試験に合格すると言うものではないような気がしている。
 試験とは、試験をする側、要するに大学や資格試験であればその資格がひ、必要なスキルを持っているかどうかを判断するものであり、求められた人材ではない人は資格をもらえないものだと思う。例えはよくないが、入試は適度な大きさの人材を確保するものであり、大きすぎる人は入れない内容になっているような気がしてならない。ニュートンが幼少のころに「馬鹿だ」と言われていたように、残念ながら、人間の社会は、優秀すぎる人を許容する環境にはない。その優秀すぎる人は、残念ながら入学試験には不向きだ。あとは、優秀過ぎないように演じることが必要になるのではないだろうか。試験に不合格であっても早々悲観するものではないのかもしれない。
 日本には、非常に多くの「一般人」がいて、その両端に「スグレ」と「ハグレ」がいると、民俗学上は言われている。入試の場合は、その「一般」がある成績の範囲内であり、「スグレ」ようするに、一般人が理解できないくらいの大きな、そして転載肌の人物も入学できないような仕組みなのだ。もちろん、それほどの「スグレ」は少ないのかもしれない。
 私の個人の「試験観」はとにかく、その試験が、最近と言うか、今年になって少し変わったことになっている。毎日新聞の記事から。


[センター試験]「プリ・プリ」「ゴジラ」が設問に.

 15日の大学入試センター試験では、人気バンドのヒット曲や怪獣映画を取り上げたユニークな設問が出た。
 「現代社会」では、音楽番組の司会者の発言を読んだ上で、ヒット曲が生まれた前後の社会情勢に関する設問に答える問題を出題した。司会者は女性ロックバンド「プリンセス・プリンセス」の89年の大ヒット曲「Diamonds」を紹介。その後の景気状況について、「不良債権」「非正規雇用」などのキーワードを使った選択肢から選ばせる設問につなげた。
 「日本史A」では、水爆実験の影響で生まれたとされる怪獣ゴジラの映画(1954年公開)のポスターを見せた上で、50年代の世界の核兵器を巡る歴史事実を尋ねた。
 大手予備校「代々木ゼミナール」の担当者は「受験生の興味を引くような題材を取り上げたのではないか」と話している。【井上俊樹】 .

2011年01月15日22時55分 提供:毎日新聞
http://news.livedoor.com/article/detail/5272029/

 私は、めったに漫画を読まない。アニメを見ることも少ない。しかし、昨年の選挙の手伝いでさまざまな経験をさせていただいた分、アニメや漫画、流行歌などに関しても少しは語れるくらい(もちろん、マニアの皆さんには遠く足元に及ばないが)にはなっている。
 大学入試センター試験でヒット曲やゴジラが出た。私たちの中には「ゴジラ対キングギドラ」しか頭の中にないが、ゴジラの一番初めは、アメリカによるビキニ島水爆実験で突然変異を起こした生物がゴジラ等ことになっているのだ。このように、アニメや漫画、映画は、そのときの社会や世界環境を風刺したものが少なくない。私がたまに読む「ゴルゴ13」などは、知っている事件なども少なくないし、さまざまな「ありそうな」事情もあるので、なかなか面白く読むことができる。古くは「ノラクロ」があり、また「サザエさん」は戦後高度経済成長までの、非常に一般的な家庭をしっかりと絵がいいているのではないか。しかし、その内容が古いと言うのは、今、東京ではサザエさんの家のような縁側のある家を見ることはめったにない。そもそも、「平成のサザエさん」といわれる「ちびマル子ちゃん」に関しても、おじいさんと孫が同居している家そのものが少ないのではないか。見ている私は「なつかしい」という感じがあるが、今の子供たちはどのような感覚を持ってみているのかは非常に疑問だ。逆に、ゲームの流行から、ゲームのストーリーを元にした映画も少なくない。洋画、ことにハリウッド映画にその傾向があるのだが、「スーパーマリオ」「ストリートファイター」「バイオ・ハザード」など、日本発のゲームがいつの間にか海をわたって映画になっていることが少なくない。社会風刺という点で言えば、日本発の文化が、アメリカをはじめとする世界各国で受け入れられており、そして、日本文化が非常に世界に受け入れられていると言うこと、自分たちが思っているよりももっと、日本人は自信を持って海外に出ても大丈夫と言うサインなのかもしれない。
 一方、流行歌は、逆に「その曲がはやっていた時代」を象徴する場合が少なくない。戦後直後は「岸壁の母」や「りんごのうた」などがあった。「岸壁の母」などは、まさに戦争の悲哀がしっかりと謳われている。その前の軍歌ということになれば、勇ましいものもあるし、兵隊の悲惨なものも少なくない。そんなに古い歌で「時代」を象徴しなくても、「不倫は文化だ」の発言で有名な石田純一が出たドラマ「金曜日の妻たちへ」の主題歌「恋に落ちて」などは、「不倫」という流行語を一般に定着させた名曲(歌の歌詞の中には『不倫』という単語は一回も出てこないのであるが)であると言える。その意味では、最近古い歌のリバイバルが多いのは、非常に残念な気がする。もちろん、名曲をさまざまなバージョンで聴くのは、好きなのであるが、社会と言う観点から言えば、発展も進歩もしていないのではないかと考えてしまう。
 歌も、映画も、漫画もその時代に受け入れられると言うことは、当然に、その時代の人が共感しなければならない。あえて、上記に「ふるい」私も生まれていないころの歌や漫画を入れているのは、そのような曲や漫画をここに書いても、誰も共感しないと言うことだ。しかし、その時代を生きている人にとっては、歌と、時代と、自分が重ねあって記憶に残る。
 その意味では設問は非常に優れている。連想と言うことをしっかりと使い、また、教材そのものが映画や歌、アニメ、漫画など、さまざまな文化の中に含まれていること示しているのではないか。毎日新聞の記事のように、ただ単に受験生に興味を持ってもらうと言うのではなく、勉強の方法や記憶の方法をそのような連想的に考えると言うこと、または社会や文化の中にも教材はたくさんあると言うことを想定している問いのであれば、すごいことなのかもしれない。
 「時代が変わった」と言ってしまえばそれだけのことなのかもしれない。しかし、実際、学問も、その後の社会勉強も「教科書」などは存在しない。物事を真理に向けるためい必要なこと、特に大学入試で社会科というところから発展するすべての学問は、当然に「社会現象」という現実に足をつけた形で発展してゆかなければ、学問と現実社会とが乖離し、学問が「学問のための学問」になってしまう。それでは何の意味もない。学問が、真理を知り、そして自分の足らざるを知り、そして、現代社会全般に貢献寄与すると言うことが必要であれば、当然に「実学」として現実社会とのリンクを考えなければならないのではないか。
 このことは、学問だけではなく、政治、経済全般に必要なものであり、同時に、「評論」「言論活動」にも必要なことである。そのことを無視し、重箱の隅をつつくような議論は、何の役にも立たないし、また、社会の変化に対応しないで、何年も同じことを繰り返しているような評論は、あまり意味がない。
 この問題だけで、そのような示唆を受け取るのは、それこそ、私自身が「社会から乖離」しているのかもしれないが、なんとなく、まさに今ある私の周囲の環境から、この問題の記事からだけでもこのようなことを感じてしまう。

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小沢一郎の発言について考察

小沢一郎の発言について考察

 16日日曜日の朝、フジテレビの報道2001と言う番組に、話題の人である小沢一郎衆議院議員が出演し、今の政治に関して語っている。今までもインターネットの動画は威信などに出ていることもあるが、産経新聞がその内容を文字に起こして全文(一部なのか)を掲載していただいたので、その文字情報からの転載だ。もちろん、普段の動画配信も私は見ているのであるが、わざわざこのブログのためにそれを文字起こしする必要もないので、産経新聞のように文字に起こしてくれたら、その内容を使おうと思っていたところ、参詣の文章が目に入ったのである。普段、饒舌に話すタイプの政治家ではないので、ぜひ、その話している内容について考えてみたいと思う。

小沢一郎民主党元代表「絶対正義は勝つ。お天道様が見てる」

 民主党の小沢一郎元代表が自身の「政治とカネ」の問題やマニフェスト(政権公約)見直しなどについて語った。

「脱小沢」路線
 --「百術不如一誠」が座右の銘だと聞くが
 「僕自身色々とご批判をいただいてますが、自分が正しいと思ったこと、やるべきことに、ひたすら誠意を尽くすことを貫いてきたんで大好きな言葉です」
 --菅直人首相は「脱小沢路線」で小沢氏に辞職勧告しているようにみえる
 「菅さんが何を言っても腹を立てたりしていない。人事は首相、代表の専権事項なので好きなようにやればいい。内閣が適正・公正なものかは主権者の国民が判断することですから」
 --挙党一致に見えない 「大多数の国民が大変な勇気をふるって政権を変えたわけです。その熱い期待を政治で成功させなくてはいけない。国民に約束した通り、古い制度を変革しなくてはいけない。その思いは大多数は同じです」
 --一誠は百術に勝つか
 「絶対正義は勝つ。真心は勝つ。最後に勝利を得ると信じている。お天道様が見てる」

政治とカネ
 --政治とカネ問題は説明すべきではないのか
 「政治とカネが何を指しているのか分からない。1年以上国家権力による強制捜査を受けた結果2度も不起訴になった。事実私は何も不正なことはしていない。やましいことはない。何を言われてもその点は平気ですけども…」
 「私は衆院政治倫理審査会に出ないとは一度も言っていない。司法手続きが進む問題で立法府で並行的に議論するのが本当によいのか。原則として司法の場で説明し、明らかにするのが筋。立法府で同じ議論をするのは妥当ではないでしょ。ただ国会運営がスムーズに行くなど政治的効果があるならば出席すると岡田克也幹事長に伝えました」
「私のことで国会運営が障害をきたしたらそれは申し訳ない。その時は国会冒頭にでも出席しますよ。そうでなければ『国民の生活が第一』なので優先順位はまず予算案。衆院通過、成立に全力を挙げるべきだ」
 --国会開会前に政倫審に出席する可能性は
 「なんで出席しなきゃならないのか。休会中に出席する理由が分からない。私の問題で審議がどうこうとは野党も考えていないと思うんですね」
 --強制起訴されれば離党勧告すべきとの声もある
 「検察審査会は秘密のベールに閉ざされ、民主主義国家として非常に特異な制度だと思うんですけど制度は制度。捜査当局による起訴とは全く異質で政治家が強制起訴になればそれも初めて。この際、政治家も国民も考えるべき問題だ」

マニフェスト修正
 --マニフェスト見直しが検討されているが
 「今政権を担って党運営をされている菅首相以下がどう考えるかはそれぞれのご自由だが、昨年8月の総選挙でマニフェストを掲げて政権を任された。全部を1年や2年で実現するのは難しいが、一歩でも二歩でも前進させる努力をしなければいけない。財政上厳しいという反論は分かり切っている。今のシステムを変え、無駄をはぶいて財源に充てると国民に言ったのだから努力を継続すべきだ」
 --見直しならば解散で信を問うべきか
 「民主党全員が変えちまうんだとなると国民に信を問うような大きな問題だ、という意味じゃないか」

与謝野氏入閣
 --与謝野馨経済財政担当相は囲碁相手だ
 「碁は別に誰とでも…」
 --入閣に批判は多い
 「菅さんがどういう考えで登用し、どういうふうに仕事をするか。国民が注視している」

非主流派
 --小沢氏は政権交代の最大の功労者なのに今は干されている
 「国民の期待に応えられる政治を菅内閣がやっていただけばいい。僕は首相になりたいとか、ポジションを何が何でもという気持ちは最初からありません」

政界再編
 --二大政党制をどう考えるか
 「2つの大きな政党があり時に応じて国民が政権を選ぶシステムが理想だ。そういう意味でも民主党政権を成功させなければいけないという思いを誰よりも強く持っている」
 --政界再編で理想的な二大政党制を作った方がよいのでは
 「日本人、特にマスコミはせっかちすぎる。次々と政局レベルで話をする。英国も何百年かけて議会制民主主義を定着させた。ようやく第一歩がでてきた。私は最初のレールを敷きたいと思ってやってきた」

TPP
 --菅首相は6月をめどに環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)参加の方向性を示すと言うが
 「私は基本的に自由貿易論者でTPPも悪いとは思ってません。ただ、国内の生産者や産業従事者が安定して再生産できるセーフティーネットを作らなきゃいけない。小泉改革で雇用が不安定になり格差を大きくした例がある。TPPは米国の世界戦略の一環なんですよ。政治の大事な場に携わる人はその面も考慮してやんなきゃいけない」
 --日本は交渉に乗り遅れているとの声もある
 「乗り遅れているのではなく対応が遅いっちゅうことでしょう。対応できていればいつでも乗れる。その場その場で場当たり的に対応するから振り回される」
 --農業関係者の支持離れにつながりかねない
 「僕はずっと前から言ってます。それでもおかげさまで当選している。戸別所得補償もセーフティーネットとして農家が安心して生産に従事できるよう公約のメーンに入れてもらった」

消費税
 --英国のように消費税率を法律ではなく政策的に決められるようにしては
 「成熟した民主主義国家ではいいが、日本は役所が強いですから。決定をフレキシブルにすると役所の思惑で『ちょっと足りないから上げろ』となる。当面は国会で決める方が安全だ」

産経新聞 2011.1.16 18:25
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110116/stt11011618300006-n3.htm

 たぶん、想定問答があって、その内容をしっかりと考え抜いて自分の言葉で語ったものであろう。小沢氏は自分の想定以外の質問亜つっこんだ質問があれば答えに窮する。その場合の対応は、黙り込むか逆に感情的になるか、いずれかである。会話には人それぞれの癖があり、その癖が出ないと内心の本音は出てこない。その「内心の本音」が出てくれば、そのときにこそ「哲学的」「政治原理的「根本的」な質問を投げかければ、それが乗ってくる。しかし、テレビ番組などは時間にも制約があり、特に民放では10分や15分でコマーシャルを入れなければならない。コマーシャルの間に、冷静になってしまうので、なかなか本音の部分を出すことはできないのである。
 その意味で、この番組のインタビュアーは苦労したであろう。もちろん、小沢一郎そのものや民主党という政党などその背後を恐れた部分もあるのか、通り一遍の「総花的」質問でしかないような気がする。それでも、普段テレビマスコミ嫌いの小沢一郎をテレビの前に引っ張り出して、ここまで語らせたことは評価に値するのではないか。
 さて、最も注目は、「政治とカネ」の部分。しかし、マスコミは裁判所でも捜査機関でもない。そこで、国民(と想定している人々)の興味があるであろうと推測する部分の話を聞くしかないのかもしれない。そこで、今回のような質問になたのであろう。それに対して、小沢は「政治とカネが何を指しているのか分からない」としながら「私のことで国会運営が障害をきたしたらそれは申し訳ない。その時は国会冒頭にでも出席しますよ。」という。逆にこの発言で菅執行部は、「なぜ国会に小沢を招致をしなければならないのか。」また、「なぜ、自分の刑事事件(起訴されると言う事実)と予算審議がリンクしているのか」と言うことを問いただす場面になっている。その部分は、このインタビュアーも困っているようだ。ここでしっかりとした反論ができれば、上記に私が書いた「本音」が見えてくるのであるが、ここまででは小沢の想定内であろう。
 しかし、定内の回答には、さまざまなしかけや示唆が含まれている。当然に考え込まれた内容であるのだから、そのようなものを含ませてるに違いない。上記のように「菅・岡田」を追い込んだと言うよりも、彼ら執行部がしっかりと物事を論理的に説明できないと言う体質を伝えているのと同時に、それができなければ国会招致に応じる必要はないというように伝えているのである。一言二言の中に、そのような内容を含む含む発言をされて、菅執行部は逆に政治とカネのことが大きく取り上げられている。また、小沢へのヒール的な印象操作の一端が菅執行部にあると言うことをしっかりと含んでいるのが印象的である。
 一方、政策に関して言えば、特に今までと変わっているところはない。ただ、大きくクローズアップされるのが、マニフェストの部分である。マニフェストは小沢氏自身が幹事長時代に作った内容である。その内容で、総選挙を戦い、そして政権交代を足と下駄と言う自負がある。また、それは岡田克也氏がどの場面でかは忘れた(確か外務大臣のころであったと記憶している)が、「マニフェストは公約である」という趣旨の発言をしている。その趣旨に従えば、政権公約を守らず、当選してから「国民不在で」変更するのは完全におかしいと言うことになる。約束した後で、急に条件を変える。契約書を交わした跡で、正当な理由もなく契約内容を変えてしまうと言うのは、まさに「法治国家」の人のすることではない。個人的なことに旧に触れるが、私の周辺には小沢一郎を完全に信用すると言う人も小沢一郎をまったく信用しない、大嫌いと言う人も双方存在する。しかし、この中における「民主党全員が変えちまうんだとなると国民に信を問うような大きな問題だ、という意味じゃないか」という小沢一郎の発言は、小沢をきらいな人も、小沢を好きな人とも、どちらもが「評価する」発言、と言うよりも、どちらかと言えば、「当然の話」として受け入れられていることには、なかなか面白い部分がある。あるいみで、野党支持の皆さんと民主党の非執行部支持の皆さんともに、マニフェストの変更と言うことに関する考え方が同じであると言うことであろう。この件に関する民意を民主党執行部がどのように取り入れるのか?そのことをしっかりと見極めなければならない。
 今回は、小沢一郎衆議院議員のテレビ出演での発言から、その考えと言うか、その発言に対する考察をしたのであるが、簡単に言えば、どうしてこれだけ考え方の違う人が同じ政党にいるのか、まったくわからない。このような状況であるから、「烏合の衆」「野合」と言われてしまう。また、最後のマニフェスト変更の部分でもわかるとおり、小沢一郎のほうが国民が受け入れやすいことを行っている部分も少なくない。
 小沢氏は、ある意味で「正攻法」で「正論」を言っている。もちろんその「正論」が「日本にとって正しいのか」と言うことは評価・検討が必要であるが、少なくとも、発言している内容において「正論」を言っていることは間違いがない。これに対して菅執行部はしっかりとそれを答えなければならない。その菅執行部の対応は、どうも「利己的」に過ぎ、建前と本音が完全に分離しているように見える。結局、建前と本音が分離している相手に対しては、正論で行くのがもっとも効果的だ。そのことを小沢一郎は熟知しているのであろう。菅執行部は、小沢の発言に対ししっかりと答えなければ、そしてその答えが、恫喝でもごまかしでもなく、正論であるものでなければ、そして、特に政治とカネの部分に関しては小沢とほかの民主党の議員を対等に、同じ条件で扱わなければ、菅直人執行部への不信感は高まるのではないか。
 なお、支持率の低下、不信感の高まりは、そのことを気に掛け、常に「民意」と「将来の日本」を考えている政治家にとっては非常に効果的であるが、何も考えいないもしくは利己的な政治家にとってはまったく効果がない。そのような人は「政治家」でも「代議員」でもふさわしくないと思うが、いかがなものであろうか。

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マスコミ批判に関する一考(27) 菅改造内閣に関する報道姿勢について

マスコミ批判に関する一考(27) 菅改造内閣に関する報道姿勢について

 1月14日に菅内閣が改造された。当然に、その内容に関して報道しないマスコミはない。しかし、その報道はどのようなものであろうか。その内容を検証してみよう。新聞各紙、当然に15日の1面のトップはすべてこの記事だ。また、どれを読んでもさほど差はない。寝た合わせなどは必要ない。何しろ変わったという事実の報道であるから、そのことだけを報道すればよい。
 改造内閣に関する菅首相の記者会見を全文載せたのは産経新聞である。産経新聞は、常に菅首相の話した内容をそのまま全文掲載を行うので、非常にわかりやすい。「事実を報道するのがジャーナリズム」という原則に立ち返るならば、憶測や、わけのわからない変更した解説を載せるよりも、産経新聞のように話したことを全文載せてくれたほうがわかりやすい。それをいちいち全部読むのも大変なのはよくわかるが、実際に新聞各社やテレビ局が「自分のフィルター」でその中の言葉を抽出したとしても、それが国民や読者のニーズであるのかどうかは非常に疑わしい。
 要するに、マスコミ批判を今回で27回続けてきているのであるが、その中で見えてきたことで、確実にいえることは、新聞が思っている読者像と、実際の読者の思考や考え方、つまり読者の実態とが完全にかけ離れてしまっているということである。団塊世代は、自分たちが正しいと思っているかもしれないが、それ以外の意見を受け入れるだけの力を持っていない。その力を持っていないということは、今までの仙谷官房長官を見てもわかるとおり。自分の思い通りにならなければ罵詈雑言、恫喝を行うという下品さは、日本国民として恥ずべき行為である。次の選挙で徳島の人が仙谷に投票するかはかなりの見ものである。仙谷が悪いのか徳島県の選挙区の人が、そのような罵詈雑言、恫喝を行う政治家を好きなのかがよくわかる。
 さて、その仙谷(前)官房長官の問責決議から始まった菅改造内閣。
 政治面は事実の封土であるからよいとして、新聞各紙の社説を見て見よう。そしてその後ろに、産経新聞よりさまざまな人の発言集を入れる。

産経新聞 【主張】菅第2次改造内閣 国難打開へ実績を示せ
読売新聞 菅再改造内閣 懸案に党派を超えて取り組め
日経新聞 「問責改造」で首相は態勢を立て直せるか
朝日新聞 改造内閣発足―結果出していくしかない
毎日新聞 社説:菅再改造内閣 政権賭する覚悟を示せ

内閣改造に関する14日の発言集 渡辺代表「与謝野氏は増税王」 馬淵前国交相「アイル・ビー・バック」 石原知事「感想なし」 海江田経産相「人生は不条理だ」 
産経新聞 2011.1.14 22:34

馬淵澄夫前国土交通相
 「政府を去るが、いつの日か私自身が担うべきその時が来るまで精進したい。アイル・ビー・バック(また戻ってくる)」
岡崎トミ子前国家公安委員長
 「短い4カ月間の倍は働いた感覚がある。ただ、政策実現に到達できず力不足だった」
渡辺喜美みんなの党代表
 「廃材内閣だ。リサイクルはエコだが廃材内閣はエゴの固まり。一日も長く続けたい菅直人首相の権力欲がみえる。国民への約束をほごにして増税第一主義に変わったのは未来への反逆罪だ。与謝野馨経済財政担当相は自民党の比例代表で当選し、渡りに渡って菅内閣の増税の総元締になる。『平成の増税王、渡り王』を目指しているのか」
谷垣禎一自民党総裁
 「わが党の比例代表で当選した与謝野氏は議員辞職して民間人として入閣すべきだった。(『与野党協議に野党が参加しなければ歴史への反逆だ』とした)首相発言は自身を歴史と同一視したもので傲慢だ。頭を冷やしたらどうか」
大島理森自民党副総裁
 「幹事長として参院選で負けて国民の信を失った最高責任者(枝野幸男氏)を官房長官とし、わが党を除名処分になった方(与謝野氏)を登用する。与野党協議をしたいなら謙虚な内閣を構成すべきだ。民主党に人材はいないのか」
小泉純一郎元首相
 「首相は有言実行と言ったが実行できていない。攻め手はたくさんある。野党としてがんがん攻めろ」
山口那津男公明党代表
 「われわれは戦う野党を標(ひょう)榜(ぼう)している。与謝野氏が野党とのパイプ役というのは一方的な思いこみだ」
志位和夫共産党委員長
 「消費税増税とTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)推進という財界の要求に応える『財界いいなり内閣』だ」
福島瑞穂社民党党首
 「消費税増税内閣だ。与謝野さんはもともと自民党の人なのに、経済財政という一番重要な部分を譲り渡すのはおかしい」
舛添要一新党改革代表
 「枝野氏は『仙谷傀(かい)儡(らい)』と見られても仕方ない。海江田万里、与謝野両氏が閣内にいるのは(経済政策で)アクセルとブレーキを同時に踏むようなものだ」
平沼赳夫たちあがれ日本代表
 「与謝野氏は空回りして何もできないと思う。晩節を汚したかなと残念でならない」
石原慎太郎東京都知事
 「感想なし、感想なし。やることどんどん早くやってくれ。与謝野氏には友人として心配している。男だてを売ったんだな。おばあさん(与謝野晶子)の歌じゃないけど『君、恥かきたもうなかれ』だよ」
枝野幸男官房長官
 「46歳とこの世界では若く、(参院選敗北の幹事長としても)いろいろ意見があるのは認識している。就任に若干ためらいと戸惑いが正直なところある。ただ政治家としてポストは求めない、断らないでやってきた。私の若さゆえの足りないところは藤井裕久副長官にお支えいただく。若さを生かして頑張る」
江田五月法相
 「崖っぷちの民主党内閣だから、議長経験者だなどと乙にすまして、神棚の上にいるわけにいかない。明るい明日を目指してみんなで頑張ろうという雰囲気を(閣内に)作っていきたい」
中野寛成国家公安委員長
 「国民の安全問題は失敗が許されない」
玄葉光一郎国家戦略担当相
 「民主党に人材はたくさんいる。ただ、首相との相性というものがある」
岡田克也民主党幹事長
 「引き続き、官邸主導が形の上でできた。問責で閣僚が辞めたわけではもちろんない。ただ、院の意思が重いのは事実で、問責の位置づけを含めて、来週には各党幹事長に国会運営について呼びかけたい」
安住淳民主党国会対策委員長
 「総理から電話が来たのは昨日の夜中だったが、知らないで寝ていた。朝起きたら総理からの着信が3回くらいあった。電話してびっくりした」
海江田万里経済産業相
 「(衆院東京1区で戦った与謝野氏と同じ閣内にいるのは)一言申し上げれば、人生は不条理だ」
川内博史民主党衆院議員
 「与謝野さんの入閣だけはダメだ。単なる増税派で、民主党の考え方と全然違う。鳩山由紀夫前首相を『平成の脱税王』とののしった人だ」

産経新聞 2011.1.14 22:34
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/110114/stt1101142235013-n3.htm

 今回の内閣のポイントとマスコミ各社がいている「消費税」「与謝野入閣」「期待度」ということに絞ってみてみよう。
 産経新聞は「消費税」に関しては何も書かず「与謝野入閣」に関しては説明責任を行っている。全体に結果を残すべきとして期待感を示した格好だ。産経新聞は、菅首相の発言に与野党関係者の発言を詳細に掲載しているので、社説そのものの主張よりもそちらが面白いのかもしれない。
 読売新聞は渡辺恒夫主筆が腫脹している大連立を後押しする格好だ。野党強調ということを前面に押し出している。どことなく時代遅れの感じがする。「消費税」に関しては社会保障とのいったい改革を主張し、その内容で『与謝野入閣』に期待しているとしている。内閣の期待というよりは、与野党連携による馴れ合い政治に対する期待ということであり、改革を急ぎその審議や検討を無視する傾向のある社説ではないのか?
 日経新聞も、「与野党協議」を推進している。与謝野入閣に関しては、それまでの経緯や与謝野氏の主張を紹介した上で菅内閣との隔たりをどのように修正して「消費税と社会保障」の具体策を入れるのかということを記載している。
 朝日新聞は与謝野起用を「消費税改革と社会保障改革のため」と断じた上で、「チーム菅」という不思議な内容を記載し結果を残すことしかないとエールを送る格好。
 毎日新聞は「消費税増税」「与謝野起用」ということをリンクしているとし、また「期待感」に関しては、どの党が政権をとってもねじれ国会になる可能性があるとして与野党協議を推進することを期待している。ただ、菅直人首相の進退を賭けるべきという責任論に付帯しているのは毎日新聞だけだ。
 このように見てくると、すでにお分かりの通りに、どの新聞も「消費税増税は仕方がない」ということをいい、そして与謝野入閣を批判する新聞はない。自民党内閣のときに消費税増税が議論になったときは、あれほど大騒ぎした新聞各紙が、なぜか判で押したように「消費税増税容認」を打ち出しているのは異様だ。
 私があえて発言集も入れたのは、政治家の中にも「増税路線」を批判している人が少なくない。そもそも民主党は「無駄削減と予算の組み換えで16.8兆円」といっていながら、それが完全に終わったと宣言する前に増税論議をしている。できなかったのか、あるいは、途中の見直しなのか、とにかくその変遷をしっかりと国民に説明する義務があるのではないか。これは「菅執行部が」ではなく「民主党議員全員が」という義務であるはずだ。あのマニフェストを公約として当選した人は、全員、その変遷を説明する義務がある。それを怠ってるにもかかわらず、社説がすべて造営容認というのは「偏向報道」といわれても仕方がない。というよりも、私自身も「偏向報道である」と積極的に断じる必要があるとさえ思う。今回は、与謝野氏の入閣と消費税についてのみ焦点を挙げたが、今回の内閣改造報道に関しては、さすがに違和感を感じるところが少なくなかった。
 日本人は忘れやすい。なんとなくその場の雰囲気で流されて、後になって後悔する。ただ単に後悔するのであればよいが、それを他人に責任を転嫁する。その性質をうまく使ったこのような「根本の節目を無視した報道」は、慎むべきではないだろうか。

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第三次菅改造内閣の私評

第三次菅改造内閣の私評

 1月14日、菅第三次改造内閣が発足した。菅直人首相は、就任からたった7カ月で2回も内閣を改造したのだ。
 第一次内閣は鳩山首相の突然の辞任によって、その大臣のほとんどを引き継いだ感じだ。しかし、その内閣を引き継いだ政権で行った参議院選挙で大敗を喫する。そのために国会では俗に言う「ねじれ国会」となったのだ。
 参議院選挙大敗後、民主党内で責任を問う声があった。しかし、それらを無視して、菅直人執行部は代表選挙に突入する。代表選挙では菅直人と小沢一郎の一騎打ちとなった。「脱小沢」を掲げた菅直人陣営は、元の小沢の側近である渡邉恒三・藤井裕久・石井一を取り込むことに成功し、議員票でも勝った。政治とカネを前面に出し、相手のマイナス面を強調し、地方票や浮動票をとるやり方は、政権交代選挙と同じだ。菅直人は代表選挙でも「相手の批判」と「嘘の公約」で勝利をおさめた。簡単に言えば、民主党支持者は学習能力がないということだ。「一に雇用、二に雇用」などと言っていたが、結局経済も良くならないし、雇用も増えない。具体的な政策論なく、掛け声、スローガンだけで相手を批判して批判票の受け皿になる。自らの主張はない「反対のための『反対』」は著しく政治を減退させる。もちろん、民主党の代表選挙だから自由にやればよい。しかし、それが実質的に日本の総理大臣を決めるということになれば、しっかりとした政策論争をすべきであった。代表選挙で政策論争ができない部分が、民主党の政権担当能力の欠如を物語っている。その、政権担当能力のないほう、要するに批判し続けた方が勝った。それが、まさに第二次菅内閣であった。
 しかし、第二次菅内閣は、当然に、政権担当能力も政策実行力もなかった。次々に来る日本の国難に対して、何の手だてもすることなく、ただ漫然と時を過ごした。まずは、尖閣諸島問題。全くわけわからない状況で、中国人船長を釈放した。その時の自民党丸山議員とのやり取りで、「そんなの忘れました」という官房長官。また、情報流出(公開)に関してもしっかりとした指針を持つことができなかった。そのことによって馬渕国土交通大臣と仙谷官房長官には参議院における問責決議が出された。しかし、その問責決議に対して、「憲法上の問題ではない」という答弁で居直る仙谷官房長官。その姿はまさに民主党の国会決議の軽視、そして、民主党独裁、旧ソ連や毛沢東時代の中国を思わせる恐怖政治を思い起こさせた。
 そのような問責だけではない。APECでは議長国でありながら中国以外の多くの国家を置き去りにし、ホスト国としての役割を全うしなかった。国会運営ではまさに、史上最低の法案成立率を誇る国会運営の稚拙さ。そして、その責任を野党に転嫁する態度の悪さ。国会答弁での恫喝など、とてもとても現代民主主義国家の政権のやることではない。あまりの質の悪さに、支持率は低下の一途をたどり、国民から見放された政治になっていた。しかし、野党時代は「民意」と言っていた民主党も、今度は「支持率が1%になってもやめない」と完全な民意無視。これはまさに「独裁政治」の始まりでしかない。
 そのようなことに野党各党が反発しないはずがない。また、国会の軽視は、同じ民主党から選出された西岡武夫参議院議長が、仙谷官房長官に「立法府の長」として辞任を迫るという異例の事態まで発生する。この圧力に負けた形で、第三次菅内閣が発足した。
 これだけ短い期間に内閣を何回も作りかえるということは、それだけ政治的な実行力や菅首相の指導力なないということになる。そのメンバーとその指標が下記のものである。

■総理 菅 直人/民主党(衆議院)
■総務(留任) 片山 善博(民間)
■法務 江田 五月/民主党(参議院)
■外務(留任) 前原 誠司/民主党(衆議院)
■財務(留任) 野田 佳彦/民主党(衆議院)
■文部科学(留任) 高木 義明/民主党(衆議院)
■厚生労働(留任) 細川 律夫/民主党(衆議院)
■農林水産(留任) 鹿野 道彦/民主党(衆議院)
■経済産業(横滑り) 海江田 万里/民主党(衆議院)
■国土交通(横滑り) 大畠 章宏/民主党(衆議院)
■環境(留任) 松本 龍/民主党(衆議院)
■防衛(留任) 北澤 俊美/民主党(参議院)
■官房長官・沖縄北方 枝野 幸男/民主党(衆議院)
■国家公安・拉致問題・公務員制度改革 中野 寛成/民主党(衆議院)
■郵政・金融(留任) 自見 庄三郎/国民新党(参議院)
■経済財政・少子化・社会保障 与謝野 馨/無所属(衆議院)
■国家戦略(留任) 玄葉 光一郎/民主党(衆議院)
■行政刷新(留任)・消費者 蓮舫 /民主党(参議院)
■官房副長官 藤井 裕久/民主党(衆議院)
■官房副長官(留任) 福山 哲郎/民主党(参議院)
<党役員人事>
■代表代行 仙谷 由人/民主党(衆議院)
■幹事長(留任) 岡田 克也/民主党(衆議院)
■政調会長(留任) 玄葉 光一郎/民主党(衆議院)
■国会対策委員長 安住 淳/民主党(衆議院)

 これはヤフーのページからいただいたものだ。ホームページ上は写真などが入っており、様々見ることができる。
 何か異様なものを感じないであろうか。いままでのな企画改造で「留任」という文字はかなり何度も見たことがある。しかし「横滑り」という表現は初めて見る。第二次内閣の時に「適材適所に人を配した」という趣旨の演説をした菅首相。しかし、「横滑り」が認められるのであれば「適材適所」ではなかったということを意味するのである。ようするに「どうでもよかった」ということを自ら示した。

 この内閣を表すれば「誰がやってもだめな内閣」というしかない。

 上記のように第一次内閣は鳩山内閣の引き継ぎであり、その1ヶ月後に参議院選挙を控えていたのであるから、何の成果も残せなくて仕方がないのかもしれない。ある意味で、「借家で仕事」のような形であり、難しい一面があることは認める部分もある。
 しかし、その後の第二次内閣では、自分の意思を通じる内閣にしたはずだ。「脱小沢」ということがあろうとそんなことは行政とは関係がない。そもそも、そのような決断をし、挙党一致を止めたのは菅首相の決断である。しかし、そのことが全く生かされず、史上最低の法案成立率である。数の問題ではない。提出した法案が成立しないということは、それだけ行政が停滞しているということだ。ねじれ国会と言いながら、安倍、福田、麻生内閣よりもひどい実績しか残せなかった。それだけ、政権担当能力が完全に欠如しているということ。そして、そのことは押し並べて言えば、国民の民意からかけ離れた内閣ということを意味する。
 要するに、まったく信任されていない内閣で、適材適所でも何でもない、誰でもよい人が閣僚になっているということだ。これでは政治などできるはずがない。
 「脱小沢」はいまだに進行している。口では「挙党一致」「みんなで協力」と言いながら、本人はまったくその意思はない。どちらかというと「自分と同じ考えでないものは切り捨てる」というようにしか見えない。
 そのような本質をまったく考えない与謝野馨氏は、そのまま「閣僚ポスト」につられて入閣。はっきり言って「恥さらし」もいいところだ。与謝野氏は、民主党政権で日本経済はつぶれる、という趣旨の発言をしていた。政策で言えば反対していたはずだ。しかし、そこに触れずに、「考え方が近い」という理由で入閣した。要するに、与謝野氏は、自分で自分の政策で日本をつぶすということを意味しているのであろう。今までの民主党政治と同じように「約束ことは守らない」「批判したこともできない」ということ。もっと言えば「究極のブーメラン政権」で何もできないのではないか。
 批判の的は、まさに「与謝野氏」「横滑り」であるが、それだけでなく結局仙谷の傀儡の枝野官房長官もそうだ。枝野幸男は、以前マスコミで過激派である革マル派との関係を取りざたされながら、国民に何の説明もしていない。その上に、就任にあたっても何も言っていない状況である。小沢一郎にしっかりと説明を求めるならば、新閣僚もその辺のところを全てつまびらかにしなければならない。自己都合で都合のよい話はできない。しかし、適当にごまかして独裁をつづけるのが左翼政権の特徴だ。
 日本は、この内閣改造に対して強く打倒を打ち出さなければならないのではないだろうか。野党各党は、その意味で頑張ってもらいたい。

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韓国出張報告とBS11フェイス出演

韓国出張報告とBS11フェイス出演

 昨日(13日)まで韓国に出張していた。たった一泊二日の出張であったが、それでも準備などを入れるとどうしても時間が足りなくなってしまった。帰ってみると、民主党の議員総会もまた党大会もあり、また、14日には菅内閣改造まであるという「おまけ」つきである。なかなか、ブログとしては書くことに事欠かないということでよいのであるが、陳腐化しないうちに書かなければならないのでその分はなかなか大変である。
 それよりも、まずやらなければならないのは「宣伝」だ。
 まず、BS11のFACEという番組に出演する。徹底討論ということになっているが、なかなか討論にならない部分は仕方がない部分だ。今回は城内実衆議院議員と民主党の鷲尾英一郎衆議院議員と私の三名である。内容は下記の通りだ。
1 日時
  集合 平成23年1月14日 午後1時15分
  収録 平成23年1月14日 午後1時30分頃より約1時間
  場所 竹橋毎日新聞本社ビル4階 BS11スタジオ

2 討論テーマ(番組内タイトル)
   「若手議員が語る将来の日本」

3  小テーマ(話の進め方)
  1 今の日本、国民と領土と主権
    今の尖閣問題、竹島問題、北方領土問題などを踏まえ、日本の現状を考える
  2 今までの日本の政治に対して、若手議員がモノ申す
    内政、外交、そして一部伝えられる与党内の内紛などを踏まえ、現状に意見を言う
  3 私の考える「あるべき姿」の日本
    皆さんの理想、政治家として目指す国家像をお願いいたします

 民主党といえども鷲尾英一郎氏は、保守派であり、事務所の中に天皇陛下の肖像を飾るほどの人物である。なかなか面白い人ではあるが、しかし、民主党である以上いじめなければならない。普段から保守の城内実とも仲がよいので、なかなか攻撃もしにくいところだ。
 今回は私は司会進行役ということで、完全にその役目に徹することにした。私の言いたいことは、チャンネル桜の討論(20日にまた収録がありますが)などでいえるので、今回は全部知っていながら、しっかりと進行をするということに徹するのがよいのではないかと思う。話は、上記のテーマになるべく沿って行ったのであるが、10分ごとの細切れの構成と、討論ということで話がそれてしまうということから、なかなか核心を突いたことはいけなかった。
 それでも「尖閣諸島の件は間違えている」という発言もあるし、民主党の鷲尾氏から「憲法を改正して自分の国を自分で守るようにしなければならない」という発言を引き出したのは、なかなか面白かった。民主党議員の特徴であるが、一人を呼び出せば、このようなことができるし、しっかりとした話もできるのであるが、なぜか、集団民主党になると話が左翼的な方向に行ってしまう。この集団でまぎれてしまって彼らの個性を出せないという状況を何とかしなければならないのではないか。
 一方、城内実氏はしっかりとした対応だ。話に関しても話したいことをまとめているし、日本ということをしっかりと打ち出している。日本をどのようにするのかという問いに「日本のよさ」「日本人の自身」「日本人が外に打って出る」という話をできる数少ない議員の中に一人なのではないか。そのように思うのである。今回、保守でも大物といわれる先生方や、民主党の大臣クラスがいないというのも、そのような「出来上がった」「これまでの」人と話をしても、将来の話はないのである。年齢が上というものではない。実際のところ、大臣になることで汲々としており、また現状をしっかりと対処できない「指導的立場」の議員を呼んで、今までの言い訳を聞いても仕方がないと判断したのである。それならば「これから」「未知数」な議員を呼んで、将来の夢を語ってもらった方が面白いのではないかと思う。
 この話の中に入っていたのが、まさに収録の「裏」で行われていた閣僚人事である。まさか閣僚が発表の通りになるとは思っていなかったので、その内容に関しては、今回はあえて触れなかった。そこで与謝野馨氏のたちあがれ日本の離党と入閣に関しては、大体わかっていたがその話題にはしなかったのである。しかし、ひどいものだ。鷲尾氏の言葉を借りれば、「大臣適齢期の人が民主党には育っていない」ということ。なるほど、民主党を見回してみるとそのように感じる。まさにその通りといっても過言ではない。鷲尾氏もそこそこ優秀ではあるが、大臣適齢期ではない。そもそも、仙谷や菅の横暴に釘をさせないで大臣などを拝命しても日本のためにならない。単独で戦えるだけの力がなければ、それは公務員組織と丁々発止のやり取りはできるはずがない。菅や仙谷一人と対等でないのに、組織を動かせるはずがないからだ。その分では「選挙」「党務」はできても、「行政」をできる状況ではない。今回はそのことが非常に明らかになった討論ではなかったか。
 あとは、掛け声で「具体的な方策」を聞いても出てこないことを視聴者の皆さんが感じていただければ面白いかもしれない。もう少し時間があればと思うが、残念ながら1時間、実質50分の番組では難しい部分があったようだ。
 その中で少し触れたが、今回韓国に出張してきた。
 韓国では韓国政府の人の話をよく聞くことができた。その報告書の「日韓関係」の部分を少し抜粋してみる。

 日韓同盟
韓国要人> 尖閣問題のところで、尖閣諸島の有事の問題のときの韓国軍の出動ということについて言及した。もちろん、尖閣諸島が日本領土であることが韓国にとって望ましいし、国益にかなっているということから、必要に応じて軍の協力ということを考える場合があると思う。しかし、それは日韓に軍事同盟があるという解釈ではない。
宇田川>14日(その後延期)に前原外務大臣が韓国に来て日韓同盟ということを言うようであるが、どのように考えるのか
韓国要人> なぜ軍隊のない国が「同盟」をするのか理解できない。もちろん、話を聞くし、そのようなことは表面の交渉では言わないが、韓国人、特に軍の関係者は、特にそのような考えが強いことは間違いがない。
宇田川>自衛隊との同盟ということになるのか
韓国要人> 民間や経済であれば「同盟」ではなくて「協定」でしかないであろう。「同盟」という単語を使うのであれば、本来「攻守同盟」でありそれは「戦争における敵国に対する共同対峙」ということにあるはずだ。だから、当然に軍隊組織に近い自衛隊との同盟ということを想定しているとしか考えられない。
 しかし、考えてみれば、自衛隊は軍隊ではなく自衛隊でしかない。その自衛隊は、日本の専守防衛の機関であり、韓国軍を守ることも敵国を一緒に攻めることもできない。となれば、当然に同盟を組めば負担韓国のほうが大きくなり対等な同盟ではない。北朝鮮のようにすぐそこにある戦争が近いときに武装非戦闘要員を増やしても何の意味もない。このようなことを言うと、日本の自衛隊を非常に傷つけることになるが、日本の自衛隊が役に立つのは有事の後の復興のときであって、有事には役に立たないと考えている。
 また、日本は、すでに日米関係において日米同盟を標榜しており、韓国も韓米同盟がしっかりしているので、改めて日韓同盟を言う必要もなく、有事の際は米国を通じて日本は間接的に韓国に協力する状況にある。その状況以上の効果が、日韓同盟を行うことによって、何か得られるのかは非常に疑問だ。当然に、前原外務大臣が来たら、そこを聞くことが重要である。

 もちろん、報告書の中には、上記以外の内容も少なくない。これは、ほんの一部である。同時に、私が向こうで話したことは、特に大きく書いていない。報告書は相手が何を話しているか、何を考えているのかということがその主題であって、私の考えを表明する場所ではないからだ。普段は、このような内部文書をこのような公開の場に出すことはないのであるが、今回はその内容を少し見ていただこう。
 北沢防衛大臣や前原外務大臣が「日韓同盟」といい始めたところから、日韓の同盟という内容を議題に聞いたないようだ。見ていただいたらわかるように、「同盟」という単語そのものが「不思議」と位置づけられている。韓国の人から「日米同盟」という単語を見ると、日米は、軍事基地の提供や思いやり予算などの話があり、日米安全保障条約という枠組みがあるということになる。安全保障条約は、その内容において、片務的軍事同盟の意味合いがありますし、歴史的に見て、アメリカの進駐軍政策、そしてその中でできた日本国憲法という枠組み、そしてそれを担保するための安全保障条約ということで話はうまく回っている。昔は金銭的、湾岸戦争以降は補給などの後方支援ということで、日本とアメリカの役割分担ができていた。しかし、同じ枠組みで『同盟』ということは、残念ながら日韓関係の間では成立しないものではないのか。日韓は、お互いが好きであれ惜しくは嫌いであっても、どちらかがどちらかを守り、そして役割分担をできるほどの軍事的もしくは外交的、国力的にそのような状況にはなっていない。その状態の中で、ただ単に横並び的な意識で、もしくは朝鮮有事の際の便宜的な内容で、「同盟」などという単語を使っても、何の意味もないということに成るのではないか。そのような「言葉遊び」は慎むべきであるということを韓国要人は日本政府(民主党)に対して釘をさしているのだ。
 このほかにも、民主党政権に対して「日本国民へのパフォーマンスはわかるが、そのことで韓国を含む外国を巻き込まないでほしい」「尖閣問題の日本の処理は日本は法治国家ではなくなったということを示す。明治のロシア皇帝襲撃事件ではできていたことが、戦後民主党政権になって、封建時代のほうに逆行しているのではないか」というような内容まで話しているのである。私は、基本的に愛国者であり、日本を馬鹿にされれば非常に起こるタイプの人間であり、相手が韓国であっても恐れることはないが、残念ながら、韓国要人の指摘は、当たっているものであり、内心日本が馬鹿にされたと思っても、残念ながら認めざるを得ない状態なのだ。
 最近は、今の政治状況に非常に悲しい思いで見ている。これが、昨日の対談と、一方で一昨日までの韓国出張という内容で、現実を見せられた部分がある。やはり、政権担当能力のない政党が政権をとるとこのようになってしまうのか。この国益の損失を、早う取り戻さなければならないのではないだろうか。

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民主党的人事の真骨頂 信を失ったNHK会長人事の信を失う人事の行方

民主党的人事の真骨頂 信を失ったNHK会長人事の信を失う人事の行方


 今日まで、韓国出張の影響で、残念ながら時事ネタを書くことができません。大変申し訳なく思います。本来であれば、12日に行われた民主党の両院議員総会や13日に行われた民主党の党大会を中心に、いろいろと記事を書かなければならないのですが、残念ながら、私は、取材することができず、これから(今日?14日に)その取材の報告を受けることになっています。そこで、今日までは、この重要な内容を書かずに、別な記事で暇を置かせていただきます。これら、民主党の動きに関しては近いうちにしっかりと書かせてください。

 民主党が権力と権利に群がる烏合の衆ということをよく言う。私もそのように行っているし、そのように言われても仕方がない部分も少なくない。実際に、公約(マニフェスト)まもらなかったり、政権政党としての代表や幹事長の発言が平気で反故されたり、ということで、まさに政治になっていない。これが政権与党と野党との関係や、国民の多くの反対があったためというのであれば、納得はできないまでも、理論上理解はできる。熱が冷め、国民的熱狂がさめた後の日本人の対応はそんなものだからである。麻生政権の時代は「政権交代」となっていたが、もちろん誰もが「自分の理想」の社会になると信じて疑わなかったし、民主党のマニフェストはそのようなことを平気で書いていた。一冊丸ごと読めば、そして一つ一つの政策の意義をしっかりと考えてみれば、当然に矛盾しており、どれかができなくなる、政策的に破綻するということは自明の理であった。しかし、マスコミも、その内容に関して一切触れていなかった。どちらかというと「自公政権」の批判し貸していない。批判することがなくなれば、麻生総理の漢字の読み間違いまで批判していたのである。
 その化けの皮がはがれて、いざ政権をとってみると、普天間基地を「少なくとも県外に移転」という一言もできない。子供手当ても満額払うことはできない。そもそも、事業仕分けと無駄削減を行って財源16.8兆円を捻出という公約の第1項でも守れていないのが現状なのだ。これらは、国民に色よいことを言ったというだけでなく、民主党内が烏合の衆で、党内に反対が出ているということがあげられる。
 昨年の流行語の中に「脱小沢」というものがある。しかし、そもそも政治家で同じ政党にいるのに「脱小沢」という標語が出ること自体不自然ではないだろうか。今回は国民をだましたとかそういうことではなく、民主党の相室として、根本のイデオロギーや主義主張、あるいは、具体的な政策一つ一つをとっても、まったく統一性が取れていないし、簡単に思惑でマスコミ発表をしてしまう「危なっかしい」体質について考えているのである。
 そのような内容が、人事面で現れると、さすがに誰でもが不信感を持つようになる。民主党は反対をするときには、非常にまとまっていた。ねじれ国会下の日銀武藤総裁案反対などはまさによくまとまっていた。しかし、自分で決めるとなると、何も決まらない。その迷走状態は、まさにマスコミ泣かせであるし、最後まで何も決まらないという危うさを持っている。それでも閣僚などは、まだまだ、同じ政治家であるために、そして同じ民主党であるために、まだ調整が効く。しかし、民間人となると、創も行かないのが現状だ。そんな民主党の烏合の衆の理論に振り回された人事の例が、新聞に出ていたので、面白いので取り上げてみた。


NHK 経営委員長チグハグ対応 責任追及の声も

 NHK会長人事が混乱を極めている。最有力だった慶応義塾前塾長、安西祐一郎氏(64)は、「拒絶」という強い調子で就任を辞退。会長選びは白紙となった。経営委員会(委員長・小丸成洋福山通運社長)の「最重要課題」への取り組みのまずさが混乱の原因と見られ、小丸委員長の責任を追及する声も上がっている。【長沢晴美】
 福地茂雄会長(76)は08年1月、不祥事への対応から組織改革には外部人材の登用が必要との経営委の意向で、20年ぶりに外部のアサヒビール相談役から就任。今回も外部からの登用を模索したが、選任にあたって除外すべき職種を定めた放送法の欠格事項の緩和も、ねじれ国会で成立に至らず、選択が狭まった。
 期限が迫る中、小丸委員長の対応のまずさが、事態をさらに悪化させた。福地会長は昨秋、就任当初から後継者とみなしてきた現職幹部を小丸委員長に推薦。しかし小丸委員長はこれを無視し、経営委に諮りもしなかった。就任直後に国会対応を控える1月の交代を避け、予算審議終了の3月末まで任期を延ばす提案も蹴った。
 小丸委員長は昨年11月9日の経営委後の記者向けブリーフィングで「会長は続投されると確信」などと発言。直前の4日の記者会見で福地会長が1期退任を表明したにもかかわらず、ちぐはぐな対応が目立った。結局、福地会長は正式に続投を固辞。1月6日の記者会見では「会長の後任選びに現職の意向が反映されないのはおかしい」と述べ、小丸委員長への批判とも受け止められた。
 昨年12月21日の経営委で、安西氏ら外部3氏の名前が挙がった。委員長が推薦し、最も推薦者の多かった安西氏に打診して内諾を得たが、その後安西氏に関する報道が週刊誌などで相次いだ。
 経営委は今月5日、東京都内のホテルで非公式会合を開催。関係者によると、安西氏の資質に関する疑念の一方で、「十分調べたうえで推薦すべきでは」などと、小丸委員長の運営方法に批判の声も上がったという。

 ◇NHK経営委員会のメンバー(敬称略)
 委員長=小丸成洋・福山通運社長、04年6月~経営委員(08年12月~委員長)▽委員長職務代行者=安田喜憲・国際日本文化研究センター教授、09年3月~経営委員(10年6月~職務代行)▽委員=石島辰太郎・産業技術大学院大学長、09年3月~▽委員=石原進・九州旅客鉄道会長、10年12月~▽委員=井原理代 香川大名誉教授、07年12月~(09年4月~常勤)▽委員=大滝精一・東北大大学院経済学研究科教授、07年12月~▽委員=勝又英子・日本国際交流センター常務理事、09年3月~▽委員=北原健児・日本民間放送連盟元専務理事、10年6月~▽委員=倉田真由美・漫画家、同▽委員=幸田真音・作家、同▽委員=竹中ナミ・プロップ・ステーション理事長、同▽委員=浜田健一郎・ANA総合研究所社長、同

毎日新聞 1月12日(水)2時30分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110112-00000005-maip-soci

 一昨年前の秋。まさに鳩山民主党政権ができて間もないころ、もともと政府系の現業会社であった日本航空の経営が破綻した。そのために、それまでの社長、会長が辞任をするところまで決まったが、その後任がまったく決まらなかった。この人事は二転三転した。たまたま、後任人事に関してある大手新聞の記者と共同で情報交換をしていたので、よくわかっているが、取材の線上では、現在の中国大使の丹羽宇一郎氏や、関西経済界の重鎮の名前なども出ていた。もちろん、取材の内容であるから、噂話レベルも少なくない。しかし、郵政公社の人事を、西川元住友銀行頭取から斉藤次郎元大蔵事務次官の天下りに変えて、天下りの全面禁止を、民主党がいきなり反故にしたこと。また、その斉藤総裁の就任に関して、批判が多かったことから、天下りはないだろうといわれていた。そこで、民主党の代議士を一人辞任させて日航の代表にするのではないかなどの憶測まで飛んだのである。結局、大方の予想通りに稲盛京セラ会長に納まったことは周知の事実であるが、このときから、民主党の行う人事には非常に「危なっかしい」状態が続くことは予想されたのである。
 日本航空の代表選出にあたり、懸念された事項は二つあった。ひとつは、誰が決めているのかまったくわからないということ。もうひとつは、決まってもいない人事情報がまことしやかにささやかれることである。
 誰が決めているかわからないというのは、当時、日航という会社そのものは、すでに経営破たん会社であるから何かを言うということはほとんどなかった。しかし、その労働組合はかなり強固なものであり、また、連合などに参加している労働組合もあるために、民主党としては影響団体の声を無視することはできなかった。一方、その株主は政府だ。そこで関係所管は国土交通省、大臣は前原誠司大臣である(当時)。しかし、民主党は鳩山政権発足からすぐに「小沢院政」といわれるほど、小沢一郎幹事長(当時)の決断や発言が重視されていた。そのために、当然に小沢一郎幹事長の周辺も情報の出所としては有力である。通常は、「あっちいいって聞いてくれ」というようにたらいまわしにされるのが普通だ。しかし、民主党の場合はどこに行っても誰かの名前が出てくる。たとえば「××さんと○○さんを軸に調整中」などというように、平気で名前が出てくるのだ。そして、その名前が、いまここに出てきた「決めるであろう人」の間すべてで違う名前が出てくるのである。それも、マスコミの撹乱作戦としてやっているのであれば、誰かの統一の意思が働いていることがわかるのであるが、残念ながら、まったく違う。その名前が出た相手に話を聞きに行けば、当然に「民主党の△△さんから就任の依頼の電話が入った」などというのだから、就任依頼を受けた人が複数出てくるのだ。これでは、人事など決まるはずもない。そして、依頼を受けた人は一様に政府に、そして民主党に対して不信感を持つようになるのだ。
 その意味では、稲盛会長も、丹羽現駐中日本大使も、民主党の体質をよく知ってる人であるから、なんとなく収まっている。しかし、その後の苦労話は、本人からは聞けないものの聞くに堪えないものが周辺からもれ伝わってくる。また、稲盛会長や丹羽大使のような民主党の体質に理解のある人ばかりではない。そして、何かあれば責任転嫁だ。
 今回のNHKの話であっても、所管は総務大臣だ。しかし、総務大臣そのものは国会議員ではない。そこで、より一層はなしがややこしくなる。なおかつ、現在は内閣改造が言われているときであり、とてもとても、冷静に、外部(内閣と党役員以外と言う意味)の人事ができる状態ではないのだ。
 人事ひとつで、このような状態である。政策も、何もかも、政府の(民主党の)指導力は非常に低いものしかないということが明らかになったのではないか。この人事一つを見ても、今度の内閣改造や通常国会での審議は思いやられるものがあるような気がしてならない。そのような状態で日本が、沈没しなければよいが・・・。

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環太平洋戦略的経済連携協定に関する企業のアクセス

環太平洋戦略的経済連携協定に関する企業のアクセス

今日も韓国に出張である。韓国にいるときはどうしても事前に記載する記事で何とかしなければならない。そこで、今日は環太平洋戦略的経済連携協定について、ちょうど2月くらいの私が監修する本も出るので、内容を書いてみたい。

 最近TPPという単語を耳にする。
 TPPとは環太平洋戦略的経済連携協定という多国間貿易条約である。私個人的には、この協定は「時期尚早」という感想だ。日本は残念ながらまだ多国間での自由競争を行えるだけの企業力もないし、人的な経営哲学も何もない。日本の場合、企業でも経営者でも技術編中が他の部分がどうしても出てきてしまう。家内制手工業的な技術や品質へのこだわりは、世界でも屈指のものであろうと思う。しかし、そのために、大量生産に不向きな生産体制になってしまっている。実際に価格競争力などを重視した製造工程になっていないところも少なくない。
 また、技術偏思の製造体制は、人事評価にも表れてしまう。結局のところ、家内制手工業の特徴である熟練技術者の給与高騰と同じような、人件費高騰が発生してしまうのである。これではなかなか話にならない。
 擁するん、「大量生産ができない」「人件費・経費が高い」という状態で、国際競争力ができるはずがない。しかし、その国際競争力において自由競争を行うという企業が「65%」もあるのだから、驚きだ。以下に日本の企業が世界に開かれていないか、そして自分の国の評価を正当にできていないのかがわかるような気がする。そのアンケート結果が下記のものである。

TPPへの参加、企業の65.0%が日本にとって「必要」
~ 不参加の場合、7割超の企業が景気に「悪影響」と認識 ~

はじめに
国内需要が弱く、海外需要を国内経済に環流することの重要性が増しているなか、太平洋に面する国家間の自由貿易などに関する経済連携を強化する環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)に対する議論が活発化しており、政府は2011年6月までにTPPへの正式参加の是非を判断するとしている。経済団体を中心に参加を支持する意見が大きい一方で、関税撤廃による国内農林水産業への影響などを懸念して、農協や漁協などの生産者団体を中心に、参加に反対する意見もある。
そこで、TPPへの参加などに関する企業の意識について調査を実施した。
調査期間は2010年12月16日~2011年1月5日。
調査対象は全国2万3,101社で、有効回答企業数は1万917社(回答率47.3%)。

調査結果
* TPP参加の必要性、日本にとっては65.0%が「必要」、自社業界では4割弱企業の65.0%と3社に2社が日本にとってTPP参加を必要と認識。自社業界にとっては38.3%が「必要」。
* TPPへの参加、現状でも「参加可能」とする企業は46.1%農業問題などさまざまな課題があるなかでも、日本がTPPに参加することができると考える企業は46.1%と半数近くにのぼる。
* TPP参加に最も必要なもの、「参加後のビジョンの提示」が35.8%で最多農業部門などへの総合対策案提示は2割弱にとどまる。企業は、TPPに参加するだけでなく、参加後の日本経済の姿がどうなるかを重視している。
* TPPに参加しなかった場合、7割超の企業が景気に「悪影響あり」と認識TPPに参加しなければ、72.4%の企業が長期的に景気に「悪影響がある」と認識。「悪影響はない」は5.4%にとどまる。
* 最も望ましい枠組み、自由貿易協定が23.1%で最多、TPPは18.5%今後の日本経済の発展にとって最も望ましい枠組みとして、企業の23.1%がFTAと回答。TPPは18.5%、EPAは9.7%。
  TPP参加の必要性、日本にとっては65.0%が「必要」と認識、一方、自社業界にとって「必要」は4割弱、「不必要」も約2割
 日本が環太平戦略的経済連携協定(TPP)の枠組みに参加することが日本にとって必要だと思うか尋ねたところ、「必要だと思う」と回答した企業は1 万917社中7,097社、構成比65.0%となった。一方、「必要だとは思わない」とした企業は同8.6%(942社)にとどまっており、3社に2社が TPPに参加することは必要だと考えている。
 TPP参加は日本にとって必要とする企業を業界別にみると、『サービス』が同69.0%(1,083社)で最も高く、さらに『不動産』(同 68.6%、190社)、『製造』(同66.6%、2,062社)、『卸売』(同65.9%、2,218社)と続き、10業界中7業界で6割以上の企業が「必要」と考えている。一方、『農・林・水産』は同35.6%(16社)となり、「必要ない」の同48.9%(22社)を下回った。
 また、自社の属する業界にとっての必要性を尋ねたところ、「必要だと思う」は同38.3%(4,181社)となった。一方、「必要だとは思わない」は同21.0%(2,289社)となり、「必要だと思う」が「必要だとは思わない」を17.3ポイント上回った。自社業界にとっての必要性を規模別にみると、「必要」の割合は『中小企業』(同39.8%、3,291社)が『大企業』(同33.6%、890社)を 6.2ポイント上回った。さらに、『小規模企業』も同36.7%(854社)となり、大企業よりも中小企業の方が自社業界にとってTPP参加の必要性を感じている様子がうかがえる。また、業界別では、『製造』(同46.1%、1,428社)や『卸売』(同41.8%、1,407社)、『運輸・倉庫』(同 40.5%、164社)で4割を超えた一方、『農・林・水産』では「必要ない」が同75.6%(34社)と4社に3社が否定的だった。
 企業からは、「中小・零細企業の製造業においても海外企業との競争は不可欠」(電気計測器製造、福岡県)や「TPP不参加では国際競争のスタート地点にも立てない」(貸事務所、東京都)、「自国の利益を確定できる枠組みのなかでこそ貿易立国の日本の姿がある」(茶小売、熊本県)など、企業競争力の低下や貿易立国としての生き残りを図るためにもTPP参加が必要とする声は非常に多い。一方、必要ないと考える企業からは、「自由貿易の原則は世界貿易の平準化であり、TPPは経済のブロック化につながる」(包装用品卸売、愛知県)や「メリットに比べてデメリットの方が大きい」(建設、神奈川県)、「まず国内での規制整備や受け入れ態勢を整えるべき」(不動産、広島県)、「環太平洋である必要性はない」(金物卸売、愛知県)などの意見がみられた。
 TPPへの参加について3社に2社が日本全体にとって必要だと考えており、環太平洋地域における経済連携への枠組みに日本が積極的に関わっていくべきと考えている様子がうかがえる。しかし、自社業界に対しては4割弱が必要とする一方、必要ないという企業も約2割となった。また、「分からない」も4割を超えており、TPPへの参加が自社業界にどのような影響を及ぼすか判断し切れていない企業も多い。

http://www.tdb.co.jp/report/watching/press/keiki_w1012.html

 私は、「必要ない」と言っているのではなく、「時期尚早」といっている。それは、日本の企業が「親方日の丸」で、政府や銀行に頼る(甘える)ことなく、自己責任で自分の処分をできるようになってからでなければ話にならない。
 何か事件が起きれば「国が」「政府が」という。年末派遣村なども、派遣村に来なければならなくなった一人一人の事情や甘えをまったく考慮せずに「税金で」何とかすべきという。その、政府自体、いまだに「自民党が」「過去の政治が」と責任転嫁してしまう。自己責任ができない、自分で決断できない、誰かに頼らなければならない、この状況で国際社会との自由競争などできるはずがない。自己責任はその分リスクがある。そのリスクを図ることがなく、まったく何も判断できないならば、基本的には、アンケートは意味がないであろう。
 環太平洋戦略的経済連携協定は、労働や入札まで細かく多くのことを「貿易の障害にならないように」と規定が設けられている。要するに、今、派遣で雇用がない時代に、外国から大量の安価な労働者が入ってくることを意味しており、そのことは、日本人の雇用が全くなくなるということを意味している。まさに、雇用の増加というこっと完全に逆行する状況になるということを皆さんは知っているのであろうか。約630万円以上の入札は、全て外国に公開することになっている。要するに、学校給食なども外国企業になるかもしれないということをご存じであろうか。
 正しい情報は、日本の企業における国際化の状況や、国際社会から見た日本企業の特徴、長所、短所というだけではなく、TPP,環太平洋戦略的経済連携協定のことも、ただ農業従事者が反対しているとしか思っていない人が多いのではないか。TPPの条文をすべて読んだ人は何んいるのであろうか。
 情報はしっかりと入れて分析しなければばらない。知らないということはマスコミの責任ではなく、個人の自己責任だ。自己責任をできない人がTPP推進などという自己矛盾したことにならないように、しっかりと調べて判断すべきではないのか。

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世の中に出る女性たちと、夫婦別姓と家族の崩壊

世の中に出る女性たちと、夫婦別姓と家族の崩壊

 本日は、私は韓国に出張中である。よって、このブログは、事前に書いたものです。当然に時事ネタをリアルタイムに(数日遅れ程度)書くことはできないのです。そのうえ、す故事の時間で何日か文を書かなければならないので、陳腐化しないネタを入れるのがなかなか大変なんですね。
 そんな愚痴は別にして、このような機械でないと書けないような内容を書いてみたい。
 私の場合に気になっているのは「男性の女性化・女性の男性化」である。まさに、キリスト教で言う「ソドムとゴモラ」のことに近いのではないだろうか。この内容を知らない人のためにウィキペディアから抜き出してみよう。

ソドムとゴモラ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ソドム(ヘブライ語 ????、英語 Sodom)とゴモラ(?????、Gomorrah)は、旧約聖書の『創世記』に登場する、天からの硫黄と火によって滅ぼされたとされる都市(商業都市)。後代の預言者たちがソドムとゴモラに言及している部分では、例外なくヤハウェの裁きによる滅びの象徴として用いられている。
ソドムの罪については、『エゼキエル書』16章49-50節において、多くの点が指摘されている。古来、『創世記』19章前半、特に19章8節のロトの提案内容から推察して、甚だしい性の乱れが最大の原因であったとする見解が一般的である。ただし同性愛が罪でないと主張するリベラル派教会では「ソドムの罪」を男色だとする説は今日では全くの謬見(びゅうけん)であることが証明されたとされる。

 要するに同性愛がに神が起こって街ごと滅ぼされたということになっている。神話というのは、様々なことが神話化されて書かれているので、この中から様々な「事実」と「脚色」(神の啓示)をわけて考えなければならない。たとえば、ソドムという地名かどうかは別にして、天からの硫黄と火によって滅ぼされた町があったということだ。要するに、火山の噴火と火山性ガスによって町が滅びたということであろう。これは、ポンペイの遺跡のように地中に埋まっている可能性がある。そして、その原因だが、「創世記」には同性愛、殊に男色という状況だ。
 火山の方は別にして、「男色」というのはどうなのであろうか。私の場合、単純に同性愛というものではなく、「男性の女性化」という問題が潜んでいるような気がする。そして、その陰には「女性の社会進出」という問題があるのではないか。創世記をよく読むと「はなはだしい性の乱れ」と書いてある。男色ばかりではなく女性の制の乱れもあったのではないかと私は推測している。男性だけが性が乱れて女性が貞操を守るという状況はなかなか想像しがたい。
 そうなると、現在の日本がそのような状況ではないのか。そう思って下記の記事を。

人妻の不倫率

 タレントの大桃美代子さんの元夫との不倫相手と、ツイッターでつぶやかれてしまったタレントの麻木久仁子さんが、いま話題になっています。大桃さんのつぶやきに対し、麻木さんの記者会見は終始、笑顔を見せるなど、女性の強さを垣間見た気がします。
 真相はともあれ、タレントにスキャンダルはつきもの。そのスキャンダルでも多いのが、不倫とか浮気とかいったもの。
 男性には浮気願望のようなものがかなりありそうなんですが、女性、特に人妻はどうなのかと思ってデータなどを探してみました。
 1948年にアメリカの「キンゼー研究所」が調べた結果では、当時の若い人妻のうち8%が夫以外の恋人がいて、35歳には20%に達するということを発表しています。
 女性誌『コスモポリタン』という雑誌の1980年のリポートによると、34歳までの人妻のうち、半分が夫以外の男性と肉体関係を持ったというんですね。
 さらに、ベイカーとべリスという二人の医師が、女性の胎内にどれくらい精子が留まっているかという研究をしているうちに、精子の出所までわかっちゃった。5日間に少なくとも、半数の女性が特定のパートナー以外と関係があったことが確認されたといいます。
 この数字を真に受けるとしたら、アメリカにおいて1948年で20%、1980年で50%の人妻が浮気をしていたということになります。
 では日本ではどうかというと……
 実は日本でも、浮気率を研究調査した学者がいて、東京外大の千田有紀先生が、04年に東京・大阪の男女1000人を調査した結果、夫婦間の浮気率は、28.3%だったそうです。
 男女差はあまりなく、少し男性の浮気度が高い程度であるという結果でした。ちなみにここでいう“浮気”は、精神的な浮気ではなく、実際に“行動に起こした浮気”であるそうな。
 また、このような調査に、すべての人が正直に答えたかどうかわかりません。
 もしかしたらこの数字より1割程度多いと考えたとしたら、約4割近くの結婚している男女が、肉体的浮気をしていると推測できます。
 また、この調査では、
 「男性が妻以外の女性と親密につきあうべきではない」と考える男性は47%。女性は59%。
 「女性が夫以外の男性と親密につきあうべきではない」と考える男性は53%。女性は62%、という結果が出ています。
 これは何を表しているかというと、結婚している男女とも、約40%前後が「浮気はアリ」と考えているということです。
 なんだか、前述の実際に浮気をしている人たちとの数値と合いますね。
 女にせよ男にせよ、それが人間のという種であるのかもしれませんね。
 そしてそこに、文学が生まれるのであった(と、一応、キレイにまとめてみるのであった……)。

(巨椋修(おぐらおさむ (山口敏太郎事務所))
参照 山口敏太郎公式ブログ「妖怪王」
http://blog.goo.ne.jp/youkaiou/
2010年12月29日(水)18時30分配信 リアルライブ 
http://news.nifty.com/cs/headline/detail/rl-20101229-5197/1.htm


夫婦別姓求め初提訴へ=「憲法違反」と国賠請求―東京地裁

 夫婦別姓を認めない民法の規定は、夫婦が同等の権利を有するなどと定めた憲法に違反するとして、男女5人が国や自治体を相手取り、別姓で出した婚姻届の受理や計約500万円の国家賠償を求める訴訟を東京地裁に起こすことが6日、分かった。2月にも提訴する。
 原告側の弁護士によると、夫婦別姓を求める訴訟は初めて。選択的夫婦別姓制度の導入に向けた議論に影響を与えそうだ。
 訴えるのは、富山市の元高校教師塚本協子さん(75)や東京都、京都府の計5人。1985年に女子差別撤廃条約を批准し、96年には法制審議会(法相の諮問機関)が選択的夫婦別姓制度の導入を答申したにもかかわらず、民法を改正しない立法の不作為で、精神的苦痛を受けたなどと主張する見通しだ。
 塚本さんは「民主主義の世の中なのに、女性が姓を変えるべきだという因習になぜ縛られないといけないのか」と話している。 

時事通信 1月6日(木)20時29分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110106-00000131-jij-soci

 女性の社会進出は、別に私は完全に反対する立場ではない。個人的には、性の乱れも良いのかもしれないが社会的には良いものではないのかもしれない。社会に進出すれば刺激がほしくなり、その刺激が徐々に恋愛感情などに発展する。家庭があり子供があるのにかかわらず、女性が女性として、男性が男性の個人としての存在を貫けば、どうしても家庭を顧みない恋愛関係などが発生するのではないか。
 家庭に縛られる必要はない。女性も女性らしく、男性も男性らしくいてよいと思う。しかし、家庭を持ち、子供がいる以上、その家庭を守り子供を育てるという「義務」を忘れては意味がないのだ。日本人はどうしても「権利」を中心にものを考える。その考えは、いつしか集団に対する義務を忘れ、自分が良ければよいということを考えてしまうのだ。私は権利を否定はしないが、義務はしっかり果たすべきではないのか。女性は結婚し子供が育つまでは、女性であるよりも母であるし、男性も男性である前に父親であるべきだ。それができない人に育てられたこどもは、やはり同じことを繰り返す。
 女性は、どうしても家庭にいることが多い。それは、歴史的なものや慣習的なものがあるとも考えるが、身体的なものもある。母乳は母親からしか出ないのである。子供が欲しいのは、母乳であり、母乳で育てている間は男性はどうしようもない。身体的な特徴を考えて、女性は家の中で子供を育てるべきというのは、差別ではないであろう。後は、家庭内における役割分担の問題でしかない。しかし、男性と女性の親がそろって子供を育てるということはどうしても必要なことなのではないか。もちろん、家庭の事情でどうしてもそれができないなどの場合を否定するものでもないが、それがどちらかの親の「権利の主張」で行われるのは、子供の権利の主張を完全に無視した「エゴ」でしかない。
 それらの枠組みは、当然に家族という一つの枠組みで決まるものであり、その過程の枠は一つの苗字(姓字)で区別する。そのことは形式の問題であり、実質とは異なるのかもしれない。しかし、子供が最も多感な時に親の苗字が違うということをいちいち設営しなければならないということは、男親と女親のそれぞれの家庭の分離、もっと言えば家という集団の二つの集団が一人の子供に帰属することになり、子供の集団の中の位置づけがおかしくなる。これも完全に子供の権利を無視したものであろう。
 要するに、「性の乱れ」「不倫」と「夫婦別姓」は、完全に一致するものでもないし、その政策を敢えてこのように結びつける必要があるのかという気もする。しかし、考えてみれば高度経済成長のころや、女性の社会春出が言われるまでは、夫婦別姓などということは全く言われなかった。ただ時代が変わった、時間がたったというのではなく、家庭を取り巻く環境では、この女性の社会進出とそれに合わせた男性の女性化・女性の男性化ということが最も大きく変わっているのではないか。そう考えれば、夫婦別姓を強く主張しているのは、社会に進出している女性ばかりである。よほど家庭の義務を果たすのが嫌なのではないかと考えてしまう。
 私の考え過ぎなのかもしれないが、やはり女性が義務を放棄した。その内容がこのような社会現象と夫婦別姓という政策に現れているのではないか。それに反対する男性が女性化して反対できなくなっているのではないか。そのように考えてしまうのである。

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成人の日に思う、最近の新成人の意識

成人の日に思う、最近の新成人の意識

 新成人の数が減っている。私も成人になってから20年以上たっているということは、今年の新成人は、私が成人式をしていたころはまだ生まれていないということになるのである。当然に、私の世代と今の新成人の世代は様々な部分で異なるようである。
 今日の記事は、私の文章は短めにして、記事をじっくりと読んでもらいたい。この記事を見て「わかる」人と、「信じられない」人とでは、何か大きな垣根があるのではないかと思う。
 その前に簡単に振り返ってみよう。彼らが生まれた1990年代はバブル崩壊の失われた10年の真っ最中である。そのために失業率は悪化の一途をたどり、そして、円高による海外身中つと国内経済の空洞化が日本をおかしくしていた。ファミコンが徐々に発展したののこの時だ。ゲームが多角化しまたパソコンが各家庭にそして「ポケベル」から携帯電話の普及が高校生の間に広まったのである。そして2000年代になると、そのパソコンとインターネット環境の普及により、情報の多角化と情報の氾濫の時代が出てきてしまう。コンビニエンスストアとオタク文化が絶頂期になり、「核家族化」から「核個人化」に生活様式が変わる。個人が一人で生活し、一人用の食材や弁当がコンビニで生まれる。インターネットと掲示板により匿名による情報交換の時代が起きてくるのである。
 そんな時代の彼らがどのようなことを考えているのか。面白い記事が会ったのだ。

今年の新成人“交際経験無し”45.3% ~片想いさえ無い人も14.0%
 
 明日10日は成人の日。芸能界では俳優の三浦春馬やフィギュアスケートの浅田真央など、今年も沢山の新成人が誕生する。そんななか結婚情報サイト・オーネットがこのほど、今年で16度目となる『新成人意識調査』を発表した。今年新成人となる男女800名を対象に10代の恋愛経験値を知る「恋愛意識調査」の項目では、【過去に交際経験が無い】と回答した人が全体で45.3%と半数近い結果に。男性・49.3%、女性・41.3%とやや男性の比率が高く、「片想いを含む恋愛の経験」に関しての設問でも【1回もない】が14.0%。こちらも男性・17.0%、女性・11.0%と、10代男性の恋愛への消極的な姿勢が浮き彫りとなった。
 まず、現在の交際状況については【交際相手がいない】は77.0%。調査を開始した1996 年の第1回の50.0%と比べ、大幅に増加している。特に男性は昨年の76.2%から83.7%に増え、初めて8 割超えとなった。女性も70.3%と、男女そろって過去最高値を記録している。
 また、交際のきっかけ作りの場として手軽に利用されてきた“合コン”や“パーティ”なども、新成人にはあまり受け入れられていいない様子。恋愛に関して選択式で質問を続けたところ【交際相手を作るには積極的な活動が必要】は66.9%、【恋愛は重要である】も65.9%と回答するも、「合コン」に関しての設問では【合コンやパーティには積極的ではない】(64.0%)、【合コンをきっかけに交際が始まったことはない】(90.4%)と“行った甲斐がない”と、肩を落としているようだ。
 その一方で、交際相手がいると回答した新成人に「その相手との結婚意向」を聞くと、過半数の54.9%が【結婚したいと思っている】(男性・ 52.3%、女性・56.3%)と回答し、この数字は過去最高値となっている。今回の結果からは、総じて恋愛に積極的な姿勢が伺えない傾向も見受けられたが、10代の恋愛経験は少ないものの、人生のパートナーへの将来像を持っている。明日の成人式を経て、いよいよ社会へと羽ばたく彼ら。職場や友人たちと大いに恋愛を楽しんでほしいものだ。 

2011年1月9日(日)10時0分配信 オリコン
http://news.nifty.com/cs/entame/showbizddetail/oricon-20110109-1000797/1.htm


約8割が「自分を大人だと思わない」…新成人の意識調査結果

 1月10日は“成人の日”。今年は124万人が晴れて“大人”の仲間入りとなるが、そんな新成人の男女1000人を対象にダイハツが「新成人に関する意識調査」を実施したところ、20歳を迎えても「自分を大人だと思わない」と考える人が全体の約8割に上ることがわかった。
 はじめに、「あなたが考える“大人”は何歳からだと思いますか?」と聞いたところ、半数の49%が「20歳」と回答(全体平均は「21.2歳」)。しかし、「あなたは自分のことを大人だと思いますか?」という質問には、全体の76%の人が「思わない」と答えるなど、そのギャップが浮き彫りとなった。
 「自分のことを大人だと思っていない」という新成人に具体的な理由を聞いてみると、「経済的に自立できていないうちは大人だと思えない(男性・岡山県)」、「まだ大学に“行かせてもらっている”という立場だから(女性・茨城県)」、「大人とは経済的にも精神的にも自立している人のことだと思うが、自分はそうではないから(男性・宮城県)」など、“経済的自立”を理由に挙げる意見が多数寄せられた。
 一方、自分のことを「大人だと思う」と答えた 24%の人に「『大人になった』と感じた時」について聞いてみると、最も多かったのは、やはり「親から経済的に自立した時」で、43%の人が回答。次に多かったのは「運転免許を取った時」(42%)で、このほか、「1人暮らしを始めた時」(40%)、「社会人になった時」(37%)、「お酒を飲んだり、タバコを吸った時」(27%)、「初めてアルバイトをした時」(24%)と続いた。
 また、「持っていたら大人だと思うもの」について尋ねると、「大きな買い物ができるから(女性・奈良県)」や「自分でお金の管理をできている感じがするから(女性・栃木県)」という意見が多く挙がった「クレジットカード(59%)」がトップに。
 次ぐ2位には、「購入時のお金と維持費がかかるため経済的に自立していないと無理だと思うから(女性・鹿児島県)」や「運転をすること自体が危険を伴うため、責任を持てる大人が持つべきものである(男性・秋田県)」という理由で、「クルマ(53%)」がランクイン。以下、3位「名刺(51%)」、4位「スーツ・ネクタイ(33%)」、5位「万年筆(24%)」と、“ビジネスアイテム”が上位を占めた。
 一般的に“大人”として認められる年齢に達しても、経済的な理由などから76%の新成人が“実感がない”と思っていることがわかった今回の調査結果。あなたが“大人”になったと実感したのはいつでしたか?【東京ウォーカー】

2011年1月7日(金)17時5分配信 東京ウォーカー 
http://news.nifty.com/cs/economy/economyalldetail/tw-20110107-19697/1.htm

 さて、マスコミでは「彼らが生まれた年はどんな年であったか」と言って1990年のことをよくやっている。スーパーファミコンの発売や秋篠宮殿下と紀子様のご結婚などの映像が良く流れている。しかし、実際彼らの性格や性質を見るのは「生まれた」都市ではなく「育った環境」を見るべきである。そう思って、私は年代というものを考えてみた。
 その中に特徴があるのがコンピューターの普及と、インターネットの普及、そしてゲームの普及と携帯電話の普及だ。これらは何を意味しているのか。単純に言えば、機会を媒介にしたコミュニケーションと、そのコミュニケーションになれてしまい、相手の生身の人間とのコミュニケーションを不得意とする人の出現を表している。近い範囲での「社会の目」を気にすることなく、「自分の個人の趣味」をすることができる。周りに合わせずにいるということは「権利」というようにとらえられ、義務をせずに権利の主張をする日教組教育の賜物のような若者が増えたということになる。
 その多様化は、一つで、「交際相手のいない若者」の増加を増やす、これは一つには、インターネット媒介のコミュニケーションが生身の体の相手をすることが非常に困難になったということ。もうひとつは、画面の中の人に対して恋をするという現象が普通に起きるようになった。しばらく前に「恋愛シュミレーションゲームの主人公の女性」を相手に本気になって結婚するなどの話がでていた。これは、生身の人間との付き合いが苦手になったということと、同時に、それだけ、アニメーションなどが成功にそして彼らの趣味にあった話になっているのである。私たちの世代ではなかなか理解できる内容ではなかったようである。
 ただ、彼らにそのような大人だという自覚も内容である。そのことは後半の記事で「自分を大人だとは思わない」新成人が増加しているということもあげられる。ある意味、人と人のコミュニケーションが低下している分、人との摩擦になれていない新成人が増えてしまい、大人になりきれない部分が少なくないのかもしれない。そのようなコミュニケーション障害的な事件や事故が少なくないのも、最近の社会面の特徴なのかもしれない。
 新成人は、これから就職などもたくさん出てくる。しかし、このコミュニケーションのギャップは、不景気というだけでなく、人間の求める像の違いとして、就職難などの一つの原因にになっているのではないか。
 いずれにせよ新成人おめでとうございます。

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マスコミ批判に関する一考(26) 物事の優先順位や重要性がわからないテレビ局

マスコミ批判に関する一考(26) 物事の優先順位や重要性がわからないテレビ局

 マスコミ批判に関する一考は、今年も継続使用と思う。私自身マスコミでありながら、マスコミそのものの体質には驚かされることが少なくないからだ。「今はそんなことをやっている場合ではないだろう」といいたいことが少なくないし、そのことがわかっていないから、マスコミに対する信用は失われている。信用を失ったマスコミの姿がどうなるのかは、昨年の12月24日の記事であるが、それを見ていただければわかるであろう。

新聞発行部数23年ぶり5000万部割れ

   新聞協会加盟社の2010年の新聞発行部数(朝夕刊セットで1部と計算、10月段階)は5000万部を割り、1987年以来 23年ぶりに4000万部台となった。2010年12月24日までに同協会が公表した。10年前の2000年は約5370万部だった。2010年だけで、前年より一気に100万部以上減って約4932万部となっている。

2010年12月24日(金)14時54分配信 J-CASTニュース 
http://news.nifty.com/cs/headline/detail/jcast-84370/1.htm

 新聞の発行購読者が5000万部を割り込むという状態。アンケートによると20代では70%近い人が新聞を購読していないという。新聞の購読に関しては、年代を追うごとにに増えてゆくが、その新聞工読者数の若年層での減少は、かなり深刻な問題といってもかまわないと思う。
 そもそも、今は「情報」の時代である。今から20年くらい前のアルビン・トフラーの著書に「情報の波」というものがあったが、まさに今は情報が完全に氾濫している状態なのである。それまでは、情報というものは入らないものであった。情報が氾濫すれば、その中には「必要の無い情報」までもはってくることになる。質の悪いもの、または完全に嘘やガセネタも少なくない。週刊誌などでインターネット情報を基にした記事が、名誉毀損で訴えられるというのものまさにそのものであろう。
 名誉毀損の訴訟は少しおいておくことにして、なぜここまでマスコミは信用されなくなったのであろうか。その内容を今日は中心に見てゆかなければならないからだ。
 昨年の年末の報道の多くは「海老蔵の暴力事件」と「麻木久仁子の不倫」が中心であった。本の原稿を書いていたので、なんとなく家にいて、耳汚しにテレビを何気なくつけておくことが多かったのであるが、日本の政権を担う民主党の連立の話しや、小沢一郎元代表の政治倫理審査会の招致の問題など、日本を動かすようなことは二の次にされて板の岩礁的であった。単純に考えて、海老蔵の事件も麻木久仁子の不倫も、それはそれで興味はあるであろうが、国家というレベルから考えれば、本人には申し訳ないが「どうでもよいこと」なのである。
 実際にテレビのディレクターや週刊誌記者から「海老蔵の件何か知りませんか」「情報はありませんか」という問い合わせは少なくなかった。実際、私の場合、父が昔映画のスポンサーなどをしていたこともあり、そのような情報にもパイプはある。今から35年ほど前に北大路欣也と三国連太郎主演の「八甲田山」という映画は、父が深く関与していたのか、映画のチケットなどはかなり手に入っていた。それだけに、そのような芸能関係に関しても多少知らないわけではない。しかし、私のところに芸能関係を聞きにくるというのもよほど情報が少ない状態であるのだろうと推察もできる。逆に言えば、そこまでして他人の家庭のことや、暴力事件などを報道しないでも「政治」「国家」に関してしっかりと報道すればよいのではないか。
 その思いで「なぜ国家のことを報じないのか。政治に関してしっかりと報道しないのか」という疑問を彼らに呈した。「いやいや、われわれテレビは、時間ごとの瞬間視聴率というものが出るのですが、基本的には政治や国家のことよりも、芸能スキャンダルがもっとも数字(視聴率)が取れるのです」ということだ。
 「そうなの。それでどれくらい違うの」
 「ほぼ倍くらいは。政治になるとチャンネルを変えてほかの局で海老蔵を見る人がいるくらいですから、やらないわけには行かないのです」
 これがテレビマンの回答であった。
 「夕方のニューステレビだって、結局はワイドショーですから、数字の取れるものをしないと、スポンサーもつかないし、私たちの立場も悪くなるんです」
 この回答がテレビの悪化のひとつの結論を出している。
 1 テレビは視聴率至上主義であり大衆迎合の番組作りをしている。
 2 テレビは報道番組をすべてワイドショー化してしまっている。
 3 横並びで番組作りをしているために、すべての局が海老蔵などスキャンダルを行う
 4 視聴率が取れなくなると人事、広告に反映する
 まさに、この法則がテレビ悪化の原因である。私は、現場の人と接する機会は多いのであるが、実際のところ、現場の人は何が重要化はよくわかっているようである。しかし、その内容に関して、それで視聴率が取れなかった場合の人事は非常に大きな問題ということになる。
 では、本来そのような広告収入に頼らなくてもよいはずのNHKはどうか。驚いたことにNHKまで海老蔵の報道をしていた。さすがに世も末である。NHKに関してはメディアパトロールジャパンのコラムに山村明義氏がしっかりとしたコラムを書いているので、そちらを参照していただければよいのかもしれない。しかし、あまりにもひどすぎるとはこのことである。
 しかし、国民の多くは「何が重要なのか」を知っている。もちろん、「海老蔵の事件」や「麻木久仁子の不倫」を知りたくないというのではない。庶民は残酷であるがゆえに「他人の不幸は蜜の味」である。しかし、そのような芸能スキャンダルが面白いのは「今の生活が安定している」という前提であり、その前提が崩れる恐れがあるときに、芸能スキャンダルを行われてもまったく面白くないというのが現状なのだ。また「他人の不幸は蜜の味」であるということは、特に芸能人である必要もない。まさに小沢一郎の凋落などは「蜜の味」と思っている国民は少なくない。菅直人と小沢一郎による民主党の内紛や、その敗者の悲惨な運命などは、非常に興味のあるところである。
 これらをわかっていながらあくまでも芸能スキャンダルを報道するというところが、「閔出びいきではないか」「マスコミはおかしい」という論調のひとつになるのである。
 とはいえ、上記にあるように芸能スキャンダルを待ち望む国民も少なくないのだ。当然に、そのときに視聴率が上がるというのは、そのような「生活が安定して芸能スキャンダルを楽しむ」という「幸せ奥様的国民」が少なくないことを意味しているのである。ということは、問題はすべての報道番組のワイドショー化が諸悪の根源ということになる。
 年初なので、マスコミ批判に関する一考もひとつ提言を出してみたい。「テレビに完全に政治と経済だけの番組を作るべし」。いかがであろうか?

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「投票行動につながる期待感」の演出(メルマガより)

「投票行動につながる期待感」の演出

  前回は、「政党公約に埋没してしまう候補」が「オリジナリティ」をだすことによって、個性を際立たせようとする。その姿は、規制の範囲内でしっかりとパフォーマンスするといった感じではないか。そのためには「しっかりした中身」がなければ打ち出すものがなくなってしまう。要するに、政党公約をしっかりと理解したうえで、
  ①自分の置かれた状況、
  ②選挙区の状況、
  ③対立候補の主張とその長所・短所の分析
  ④上記各号の状況を踏まえたうえで、自分の政策と個別の施策
  ⑤自分の政策を実現するまでのロードマップ
  ⑥直近の政策だけでなく、将来の理想の国(地域)の姿
が、しっかりと描き出されていなけれなければ何もできるものではないのである。逆に、インターネット環境が誰にでも共通に存在するものであることから考えれば、これができないと、かえって差が出てしまうことになるのである。ところが、これは、インターネット選挙になったからとか、そういうことではなく、政治家を志す人であれば、誰も必要なものだ。
 逆に、この部分ができない人は、政治家を志しても、またはインターネットスキルが高くても政治家になれるものではない。そもそも、インターネットも、人が操作するものであり、人が政治や政策を聞き、人が投票し、人が政治家を選ぶのである。人に対して訴えるものがなければ、何の意味もないのである。インターネットは、人に対して訴える方法論の問題であり、それによって政策が変わるものではない。技術がひとつ開発されて、政策が変わってしまうようなことはないのである。
  その内容から考えれば、政策のない人、もしくは政策があっても人格的に問題のある人には政治家は向かない商売である。古い言い方があれば「徳」がなければ、政治はできないのである。政策や主張がしっかりしていないというだけではなく、人間としてまったくできていないようであれば選挙などは無理であろう。

<いかはメルマガでお楽しみください>

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内閣改造報道に対する考え方のひとつ

内閣改造報道に対する考え方のひとつ

 やっと、今年の予想なども終わり、また毎日の新年のあいさつ回りも終わったところと思います。プロパーのブログ更新を来週の11日くらいからにしようと思ったが、なかなか世間はそういうことを許してくれないようである。
 ここでいう「世間」とは、別に読者から何らかの圧力がかかったというわけではない。年末から
「民主党とたちあがれ日本の連立構想と破談」
「与謝野馨氏と平沼赳夫氏のたちあがれ日本内紛」
「政権与党岡田克也幹事長による小沢一郎政倫審国会招致」
「仙谷由人官房長官による脱小沢」
「西岡武夫参議院議長による内閣批判」
「菅直人首相の年頭所感とTPP、消費税など」
「菅直人首相の野党への協議呼び掛けと野党の拒否」
「問責決議閣僚の処遇と内閣改造」
これだけネタがそろえば、仕事をしないわけにはいかない。この書き方だと「世間」といよりは「永田町」という書き方をした方が良いのであるが、なかなか困ったものである。民主党は反日で、伝統や文化を重んじない政党であるとよく言われるし、私も言ってきた。しかし、「正月は休むもの」「松の内は他家への介入はしない」というような、良い慣習すら守れないらしい。
 話はそれるが、上方落語で「かけとり」というものがある。私は桂米朝師匠のテープで聞くが、この上方落語の中にも「正月の風習」というものが言われている。かけとりとは、「掛け売り」のこと。ようするに、日々の生活道具を「ツケ」で売ったものを「今年のうちに借金を清算、とりたて」しようというもの。それに対して、いままでつけで勝っていた庶民は、何とか払わないで伸ばそうとする。大晦日を過ぎれば、正月、松の内に取り立てをすれば、「あの店は松の内から取り立てに来た」という評判が立って、町で相手にされなくなるという。そこで、「かけとり」の攻防がすごいことになるというものである。落語にも残るほど「正月」は休むというのがふつうである。そのこともまったく無視した民主党の伝統を無視する内容は、正月元旦の新年会などにも表れている。
 その中で、たちあがれ日本の連立に関しては昨年のうちに終わっている。しかし、その内紛はもう少し後を引きそうであるが、しかし「保守本流」をめざすたちあがれ日本と「売国」と言われている民主党の菅・仙谷執行部が一緒になるということ自体、なかなか難しいし、その内容を政党化する理論などはない。そもそも尖閣問題や北方領土問題をどのようにするのか、全く見えない状況になってしまう。たちあがれ日本は、尖閣問題の処理や情報を公開した海保職員の処分を「是」とするつもりなのか、という支持者の声にこたえることはできないであろう。
 一方、小沢一郎の国会招致問題は、とくに何もない。法律手続きと道理、道義の問題。そもそも国会議員は国民の範たるべき存在なのか、そうではないのかということである。民主党は「公人の権利」ということに着目するが、「公人としての義務」は、通常の人以上の義務が必要なのではないかということになるのである。その「義務意識の欠如」を現したものでしかない。ましてや為政者は、自分の指示や命令で、多くの国民に命令をする立場なのであるから、当然に、国民が納得するような人格がなければならない。この問題は、まさに、民主党の支持母体の一つである「日教組」が推進してきている「道徳教育の破壊」がまさに、為政者や政治家にも蔓延したことを意味しているのかもしれない。道徳は、まさに社会で生活する中における「義務」の大計の一つである。法律はその中の一部であり、日本人には「恥」という概念があり、その概念の中にその内容が入っているはずである。要するに「模範たる行為をしなくても、法律に違反しなければ、全く恥ずかしくない」というもの。本当にそれでよいのか。国民の目線那覇「検察審査会」という場を通じて、そして、民主党への支持率という形であらわされているのではないか。
 そして、最後に「問責決議」と「内閣改造」である。今日はその記事に関してみてみよう。


内閣改造、17日に 前原、野田氏留任へ 28日国会召集

 菅直人首相は6日、内閣改造を17日に行う方針を固めた。昨秋の臨時国会で問責決議された仙谷由人官房長官と馬淵澄夫国土交通相を交代させる一方、前原誠司外相、野田佳彦財務相らは留任させる方向で調整。民主党役員人事では岡田克也幹事長を続投させ、仙谷氏を代表代行など重要ポストでの処遇を検討している。通常国会は28日に召集し、会期末は6月26日となる見通し。内閣支持率の低迷が続く中、人心一新を図った上でねじれ国会に臨む。
 首相は6日、首相官邸に仙谷、岡田両氏と輿石東(こしいし・あずま)参院議員会長、鉢呂(はちろ)吉雄国対委員長らを呼び、通常国会の対応について「野党の考えを聞き、立ち上がりからしっかりした議論ができる態勢を作ってほしい」と指示した。
 会合では13日の民主党大会に先立ち、12日に両院議員総会を開くことを決めた。首相は6日夜、総会と党大会について「党として反転攻勢するスタートにしたい」と記者団に述べた。
 首相は小沢氏の衆院政治倫理審査会出席を促すことで反執行部の動きを牽制(けんせい)してきたが、内閣改造・党役員人事を早期に行えば、かえって党大会が荒れる可能性があると判断。党大会後の内閣改造に向け、具体的な日程を検討してきた。
 ところが党大会直後の14、15日は前原氏が訪韓して不在。加えて14日に宮中で歌会始(うたかいはじめ)が予定され、新閣僚の認証式を行うことは難しいと判断した。
 その一方、国会法は通常国会を「毎年1月中に召集するのを常例とする」と規定しており、少なくとも10日前に召集詔書を公布しなければならない。28日の召集には遅くとも18日までに内閣改造を終え、与野党間で調整する必要がある。
 自民、公明両党などは、仙谷、馬淵両氏が閣内に残るならば通常国会は冒頭から一切の審議に応じない方針。国会召集は内閣が閣議決定し、官房長官が衆参議院運営委員会に伝達することになっており、仙谷氏が留任したままでは衆参本会議の日程さえ定まらない公算が大きい。
 このため、首相は17日に内閣改造を行い、仙谷氏らを交代させた上で、18日の閣議で28日の国会召集を決定する意向を固めた。
 これに関連し、自民党の逢沢一郎国対委員長は6日、鉢呂氏と会談し、仙谷、馬淵両氏が交代するならば通常国会冒頭から審議に応じる意向を伝えた。

2011年1月7日(金)8時0分配信 産経新聞 
http://news.nifty.com/cs/headline/detail/sankei-snk20110107076/1.htm

 私は、昨年12月25日にチャンネル桜で放映した討論番組の中で、「民主党は大衆迎合政党である」と断じた。「大衆迎合政党」とは「大衆の意見に従って、または大衆のご機嫌をとるために、正当な理由がなくても政策や主張を変更する政党であるということだ。
 では、「なぜ、今、内閣改造」なのか。
 内閣改造の理由は、わかる。「仙谷・馬渕両閣僚の問責決議が出たことを重視して」ということになる。しかし、その理由では「なぜ今なのか」という答えになっていない。もっと言えば、「問責後すぐに」もしくは「臨時国会閉会時に、すみやかに」行わなかったのはなぜかという疑問に答えられないのである。
 大衆迎合政党という批判を払拭するのはこれらの内容にしっかりと答えなければならないであろう。「なぜ今」「なぜ、このタイミングで」行うのかということがはっきりしないのはおかしい。逆に「問責決議」も重視していないし、「国民の意識も無視している」ということになる。ただ単純に、自分たちの権力欲のために国民に迎合しているといってもおかしくないのである。
 小沢の件も同じで、今まで「推定無罪」と言っておきながら、この「ねじれ国会」になたら、突然に政倫審招致というのは、都合が良すぎる。
 野党各党も、「なぜ今なのか」ということをはっきりと説明させることもなく、審議復帰や予算審議への対応をするのは間違いである。それでは民主党の菅執行部に取り込まれているといっても、おかしくなく、自民党やそのほかの野党の支持が戻ることはないであろう。「自民党も(他の野党も)大衆迎合している」と言われても仕方がない。小沢に関しても同じだ。首をとっただけ、辞任させてお茶を濁しただけ、政倫審に招致を果たしただけでは、本当の正義も、大義もなくなってしまう。それを野党そのものが「日本の国家のため」「大義のため」「正義のため」を忘れて、ご都合主義、大衆迎合政党の政権うねいの片棒を担ぐようでは、政権奪還など夢のまた夢であろう。
 政権党民主党は、これらの疑問にしっかり答えなければならない。一方、野党はこの疑問を答えさせなければならない。本当の大義のために、今年こそ動いてもらいたいものであるが、実際のところはどうなのか。実際に内閣改造をしたときに野党各党の主張に注目せざるを得ない。

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年末年始民主迷走と今年の政局(ある雑誌の投稿から)

年末年始民主迷走と今年の政局(ある雑誌の投稿から)

今日のブログは、ある雑誌の私の書いた記事からそのまま記事にさせていただきます。昨年の政局のまとめと、今年の前半の政局の予想になっております。

 あけましておめでとうございます。今年はこの挨拶をしながらも、例年のような切れが新年なのにあまりないのだ。平成二十二年の年末は、例年に比べてあわただしい年末であった。私たち政治記者にとっては、年末というよりも師走は、年内でもよほどのことがない限りゆっくりと休みが取れる日程になっている。両院記者会の忘年会は、毎年早めに行い、事務所もクリスマスくらいには閉めてしまうのが通例だ。
  例年は、秋からの臨時国会が閉会したのちは、夏のシーリングと臨時国会での方針に合わせて来年度予算が組まれる。その中において、まず省庁の折衝、そして各省庁官僚で調整できなかった内容に安して、大臣折衝が行われるというシステムだ。大臣折衝では、各省庁がどうしても譲れないとする予算に関して、それを財務省と折衝する。俗に「復活折衝」ともいわれる。このような予算の枠組みを決めるのが年末なのは、年明けすぐに行われる通常国会で、予算が中心に審議されるからである。予算に関しては、翌年度の政策が反映されたものになるために、国会が行政に携わり、そして監視する内容として最も重要な内容ということになる。国会議員が「立法府の代議員」でしかないのに「政治家」といわれるのは、この予算の審議権を持っていることが大きい。予算審議に関する内容は、予算に関連する質問として行政全般にわたることができるのも特徴だ。国会議員はそれだけ行政に対する権限を持っているのである。
  そのような「来年度」を占う大事な年末に、政治記者は「結果」を見ることで想像ができることから、年末年始は基本的にゆっくりと休みが取れるのだ。同時に、普段の取材によって、どの政策が復活するか、予算がつくかということもだいたい予想がつくことも、休みが取れる一つの理由なのかもしれない。週刊誌も新聞も、年始は休刊するのはこのような理由にある。
  しかし、今年はそのようにはならなかった。十二月三日の臨時国会閉会以降、振って沸いたように小沢一郎の政治と金の問題が噴出したのである。そもそも、平成二十二年の国会は、異例尽くめであった。通常国会から春の臨時国会では、強行採決が史上最多という異常さで、さまざまな法律が審議も無く成立した。審議時間三時間という異例の短さの内容も少なくなかった上、質疑中に委員長が裁決に移るという異常な国会運営が目立ったのである。そのような国会運営は、当然に国民には奇異に写ることになり、同時に、国民の信を失うことになる。六月には鳩山首相が辞任、菅政権が成立。しかし、それでも民主党政権に国民の新任は戻らず、七月の参議院選挙で民主党は惨敗し、いわゆる「ねじれ国会」になる。「ねじれ国会」以降の国会運営は、またひどいもので40%を割り込む法案成立率となって、国会と行政は停滞することになった。このような行政の停滞と、いわゆる「尖閣諸島問題」「北方領土問題」など日本国の領土と主権を揺るがす問題の処理、そして一考によくならないどころか、より一層悪化する失業率と景気の停滞は、その後の補欠選挙や地方選挙での菅政権の相次ぐ惨敗につながったのである。
  民主党内部では、当然に、これら選挙での惨敗の責任問題が発生する。これは、九月に行われた代表選挙での対立そのままに、「脱小沢」という菅直人執行部と小沢一郎周辺という対立につながる。責任問題も、まさにそのものの流れになってしまい「小沢一郎の支持と金の問題が国民の信任を失わせた原因」という執行部と、「菅・仙谷執行部の執政とマニフェスト不実行が国民の民主党離れを示している」という小沢周辺との対立から、年末、例年とはまったく違う様相になったのである。
  小沢一郎の「政治とカネ」の問題について政治倫理審査会に承知するという問題を提起したのは、民主党執行部である。与党の国会議員においてその政治倫理審査会の出席などを与党側から提起するなどというのは、前代未聞の出来事だ。そのうえ、この年末の来年度の国民生活に最も重要な予算を決めなければならない時期に、「政治主導」を掲げながら、完全に政治家不在で「小沢一郎の政治とカネ」の問題を行っていたのである。何度かの執行部と小沢一郎の直接対談を行い、その後に、小沢一郎は条件付きでの政治倫理審査会の出席を了承した。しかし、菅首相の年頭所感など、民主党執行部の「脱小沢」色は強く、党内融和になるとはとてもとても見ることはできない。それどころか、日を追うごとに菅・仙石執行部と小沢周辺との亀裂の深さが浮き彫りになってくる。今まで、民主党は「主義主張が違うのに、政権交代の利権のためだけに集まった『烏合の衆』」という批判が大きくあった。今回の「脱小沢騒動」で、まさにそのことを国民に印象付けてしまった。
  しかし、年末政治記者を安めなくしたのは「脱小沢騒動」だけではなかった。十二月に突然出現した「たちあがれ日本との連立」である。
  もともと、たちあがれ日本は、打倒民主党政権を掲げ、保守の考え方を推進している政党と目されていた。民主党は、国会閉会後、社民党や公明党に秋波を送り連立を模索していた。社民党は、六月に普天間基地の移転問題で完全に縁が切れた政党であった。しかし、仙谷官房長官と福島社民党代表は、弁護士事務所で机を並べた仲であるし、もともと連立を組んでいた相手であるから、当然によりを戻すのは難しくないであろう。特に、連立離脱が鳩山政権の時であったことを考えれば、連立をすることは難しくない。その意味では公明党との連立というのも、わかる。公明党は、背後にある創価学会の意向が大きく働く。政策などで左右されるのではないということも良くわかる。しかし、公明党と民主党のパイプは主に、「脱小沢」の主役小沢一郎が勤めていたのである。それを排除し、仙谷・野中弘務ラインで公明党を引き寄せるのはかなり難しいであろう。ましてや、民主党は「自公政権打倒」と公明党も批判していたばかりか、八月の代表選挙で菅直人の推薦人になった石井一副代表は、創価学会の池田大作名誉代表を国会に招致するということを主張して曲げない人物であるために、菅直人政権と公明党は非常に近づきづらい状態にあることも事実だ。
  そのような中、「安定した国会運営」という課題をすること、要するに「ねじれ国会の解消」のために、どこかと連立を組まなければならないとなった時、まさか「打倒民主党」を標語に結集した保守勢力たちあがれ日本と連立を模索するとはだれも予想しなかった。
  もちろん、この内容は十二月二九日に、たちあがれ日本の議員総会で否決された。記者会見に立った平沼赳夫代表は、半分呆れ、半分怒りの表情で、連立などあり得ないということを発表した。その後与謝野馨共同代表は、「立ち上がれ日本の政党内からは何も学ぶものがない」とし、立ち上がれ日本という章政党の中にも主導権対立がありなおかつその対立が民主党の菅・仙谷と小沢の間のように根深いものがあることが取れたのである。
  さて、駆け足で、政治記者が昨年末に限って休みがゆっくり取れなかった理由を、昨年一年の政局の流れから解説をした。さて、ここからのちは今後の、今年の予想を大胆にしてみたい。なお、あくまでも予想なので、ここの予言は外れる可能性もあることをあらかじめご容赦いただきたい。
  今年の政局を表すものは、当然に「小沢」と「ねじれ国会」であろう。そして、その中に解散の大権を持っている菅直人首相の性格ということが、その二つの要素に複雑に絡み合うというのが普通の考え方だ。
  まず、「小沢政局」から考えてみよう。平成二十三年の新年会が、小沢邸と内閣官邸で行われた。小沢邸では一二〇名、内閣官邸には五〇名の参加であった。この数の示すものは一体何なのか。民主党の議員たちの内心がすでに表れているといってよい。小沢に期待する者が、今の内閣に期待する民主党議員の倍以上いるということだ。しかし、一方で小沢一郎本人は法律の要請により検察審査会の決定から起訴される。この文章が出たころには、すでに起訴されているのかもしれない。起訴されながら民主党に所属し続けることは非常に難しいであろう。しかし、小沢一郎の影響力を残しながら小沢一郎自身が離党し、無所属で活動するというのは非常に難しいであろう。
  「小沢政局」は、まさに小沢一郎の起訴とそれに伴う離党、そして離党後の小沢一郎の民主党に対する影響力ということになるであろう。
  私の予想では、小沢一郎は一人で離党し、解散に菅直人を追い込むことはしないであろう。しかし、菅・仙谷執行部は、小沢が一人で離党するという状態に対して非常に恐怖を覚える。もっと言えば「挙党一致体制」という、今まで小沢が一郎が使っていた民主党における標語を多用し、小沢派解体を画策するに違いない。その動きが性急であれば性急であるほど、小沢親派との「歪み」は大きくなってくる。小沢チルドレンといわれる政治のことがあまり分からない議員の中や、小沢政治塾出身者は、菅・仙谷の行う政策に絶望し、また、その標語を使っての派閥解体や、分離工作などの「陰謀」に失望とするに違いない。逆に、そのような取り込みが行われなければ、「獅子身中の虫」を抱えているかのように、まさに党内野党を抱えている格好で政権運営をせざるを得なくなってしまう。これでは、動きが制限されてしまい、党内を統一した政策も打ち出すことはできない。そのうえ、党内野党を指揮命令している本人は、小沢一郎という党外無所属の議員であることから、党則などによって拘束し、または強制力を発揮することもできないのだ。
  結局のところ、私個人の希望的観測も含めて言えば、小沢一郎一人を離党させながら「小沢の影に怯える菅執行部」ということになる。まさに「死せる孔明、生ける仲達を走らす」のごとき潰走を民主党が起こす可能性があるのだ。
  次に「ねじれ国会」である。ねじれ国会は、どのように頑張っても次の参議院選挙までの期間、要するにあと二年半は解消しない。しかし、参議院選挙ということで直近の民意が反民主党になったという事実と、解散総選挙で直近の民意を得て「ねじれ国会」を対処するのかということはかなり違う内容となる。しかし、菅首相の性格上、間違いなく勝てる見込みのない解散総選挙をすることはない。ということは、何らかの妥協と何らかの交渉により、予算や重要法案を通すことになる。
  しかし、たちあがれ日本の連立模索での批判のように、完全に民主党が政策や主義主張で連立を模索したのではないことは明らかである。そのことは、連立交渉崩壊の時の野党各党の対応でも明らかである。少なくとも今の民主党政権に対しては、野党各党は非常に冷ややかである。野党各党は、たちあがれ日本を含めて解散総選挙に追い込むような状況に持ち込むであろう。一時騒がれた自民党との大連立なども、立ち上がれ日本との話で完全に立ち消えたといっても過言ではない。この、状況をどのように対処するのか。菅首相は、持ち前の権力欲と鈍感力で、これを切り抜ける可能性がある。しかし、それは予算や行政の停滞ということが反面で言われることになり、今以上に解散総選挙や菅直人政権に対する倒閣という動きが大きくなるであろう。先にあげた党内野党も活発になるに違いない。
  この状況で、私が個人的に予想すれば、菅首相は予算案を国会に通した後もしくは四月の統一地方選挙で民主党が惨敗した後に総辞職し、民主党中間派といわれる旧民社党勢力や鳩山グループなどから首相が選出され、改めて挙党一致体制ができ、その内閣によって連立が行われる可能性がある。この時の動きによっては、民主党分裂ということもありうるが、それは確率は低いのではないか。いずれにせよ、解散総選挙は確率がより低いのではないかと考える。しかし、二年連続で首相を変えた民主党の国民からの信任は完全になくなることは明らかだ。その「ポスト菅内閣」での失政が続いたときに、解散総選挙になると考えられる。
  今回は、私が年末年始あまり休めなかったという愚痴とともに、その時の取材をもとに、今年の政局を、政策とは全く関係なく予想してみた。この予想が当たるのか外れるのかは、ったくわからない。今年も皆さんの目を私の駄文につき合わせながら、この予想の行方を一緒に見ていただけたら幸いです。今年もよろしくお願いいたします。

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宇田川敬介の年初放談平成23年版

宇田川敬介の年初放談平成23年版

 今年も、まず年初放談を行おう。
 もう今年で5年目になるこのブログも、なかなかさまざまな変遷をたどっている。毎年行ってい「年初放談」もこれで4回目になる。昨年はどのような予想をしていたのであろうか。
 まず、昨年の内容をそのままここに書き起こしてみよう。

<平成二十二年の年初放談より平成二十二年の予想>
 さて、そろそろ今年の予想に入ろう。
 経済界は、参議院選挙後に景気が回復するとしている。しかしそれはないであろう。日米関係も冷え切り、中国からも見放される外交で、日本経済が復帰するとは思えない。日本は加工貿易で成立している国家だ。外交と安全保障が日本の経済の機軸であると言って過言ではない。安全保障と貿易や経済が無縁と思っている人が少なくない。もちろん、日本が軍需産業を機軸にしているのではないことを誰もが知っている。しかし、シーレーン防衛などがなければ、経済発展はない。内需で景気対策というのが民主党政権の主張であるが、必需品である食料も60%が外国からの輸入品だ。その現状で安全保障を語らない経済対策はまさに片手落ちであろう。
 さて、懸案の日米関係はいったんは膠着状態になる。アメリカも、みすみす日本を手放すことはしないであろう。一方で、第七艦隊しかいらないという外交・安全保障音痴を、いつまでも政権に近い場にいさせることはできない。とはいえ、ほかに頼るところもない。当然に、その対策は慎重を極めることになる。表だった反発もできなければ、小沢イズムに迎合することもできない。オバマ政権が盤石な基盤の上に成り立っているのであれば、様々な動きができるであろう。しかし、オバマ政権も、日本の民主党と同じ、一時の熱狂的な反共和党票でできている。国民皆保険など、成立困難な公約もあり、同時に、イラク撤兵など、アメリカの機軸産業である軍需産業界とは距離がある。軍需産業の一角であるGMは倒産し、リーマンショックによる景気対策も行き届いていない状況だ。当然に、アメリカ国内においても反民主、反オバマ政権勢力が力を強めており、またオバマ政権内部でも、親日家と反日勢力がにらみ合っている。このようなパワーバランスの中において、対日関係は膠着状態になる。鳩山政権は、そこを見越して中国に近づくパフォーマンスを行い、反米的政策を行う。将来的見通しと、世界的規模の思考のできていない、団塊の世代の学生運動の延長線上に有るような感じだ。ただ、強いもの、権威のある物にかみついて、その後のヴィジョンがない、あったとしても机上の空論で話を進めている。日米関係は、そのような暗礁に乗り上げた状態になるであろう。
 日米関係が構築できなければ、当然に経済界もよいことはない。日本の経済界は中国を一つの大きなマーケットとして認識はしている。しかし、中国を信用してはいない。中国はパートナーとしては不適格であるという事だ。投資しても回収できるとは思っていない。ただ、市場獲得のための投資というよりは会費日階感じで費用負担をしているにすぎない。小沢チルドレンが胡錦濤首席と一人ずつ握手して写真を撮った感覚とはかなり異なる。未だに、経済界では北米における新車の発売台数が大きな経済指標の一つになっている。中国の発売台数は問題になっていない。そもそも、中国は社会主義経済であり、資本主義の根本原理が通用しない。中国の会社の株が、上海市場でA株とB株とに分かれているのがよい例だ。固定資産も、結局定期借地権や借家権を入手しているにすぎず、所有権が認められているわけではない。固定資産でこの状態であるのだから、無体財産に関してはもっとひどいものだ。ミッキーマウスやドラえもんの類似品を中国国内で見つけることは、日本円を人民源に両替するよりも簡単だ。権利を認められない国に対して、信用して取引をすることはない。資本主義経済は、当然に信用取引が基準になっているが、その「信用」のない国と完全な取引をできることはない。小沢一郎や鳩山政権のこの感覚のずれは、彼らが政権の座から降りるまで気づかないであろう。 
 まともな経済政策もなく、貿易立国日本の外交が不安定では、経済が好転するはずはない。自由主義経済を捨てた時点で、外国からの資本の流入も少なくなることは必至だ。国際資本社会の中で「鎖国」をしているようなものであろう。
 その「信用」できない国や国交のない北朝鮮系の民族を含めて、地方参政権が付与される。当然に野党自民党は反対するであろうが、「数の論理」で押し切られるだろう。それも不完全な形でだ。どちらかというと、在日外国人に有利な形になる可能性がある。これは法案を見ていなければならないであろう。これは、微妙な国際関係を、日本を舞台により悪化させる可能性があることを示唆させる。地方選挙を通じ、朝鮮半島の南北戦争が再発する可能性があるのだ。その歴史的、世界的な観点が、今の政権に無いことがもっとも恐ろしい。

 以上の現状から、今年を占ってみる。
 実に暗い予感だ。
 「国際社会から取り残された日本と、亡国の道」
あるいは
 「政治的・経済的な独立の危機」
が今年の標語になろう。
<以上、昨年のブログからの引用>

 
 自分で言うのもおかしいが、意外と見事に当たっている。昨年も一昨年も当てている(ブログの前の年の文章を読んでいただければわかりますが)ので、少なくとも2年連続でうまく情勢を当てている。二年連続で当てれば、立派な占い師になれそうな気がする(笑)
 昨年の予想の中で外れたのは外国人地方参政権のくだりぐらいであろう。兵庫となっている「国際社会から取り残された日本と、亡国の道」あるいは「政治的・経済的な独立の危機」というのは、まさに、昨年の尖閣諸島問題や北方領土問題が発生したこともあり、なかなか大きな日本の岐路に立たされたという意味ではまさにそのものである。日本を悲観的に考えてはいけないとよく言われるが、状況を分析し国際社会の中の日本ということを考えれば悲観的にならざるを得ないのである。
 ところで、今年は非常に難しい。
 年末から突然に政局が動いたからだ。小沢政局とたちあがれ日本との連立騒ぎ。このことは明日ゆっくりと説明しよう。問題は、これらのドタバタ政局によって、まともな製作が何も見えないということだ。一昨年はマニフェストとそれに伴う大混乱で鳩山政権が完全に崩壊に向かうことは予想できた。しかし、菅政権の場合は、残念ながら民主党の内部崩壊のようでもある。ぼろ舟に大きな穴が開いているのを、何とかみんなで抑えているような図ではないか。一方で、国際社会からは完全に取り残されたままだ。誰も相手にしないということは、そもそも、沈みかけた船に手を差し伸べるやさしい外国はひとつも無いということだ。
 まさに、これこそ日本の完全なる危機ではないのか。時代錯誤の意あだに高度経済成長をしているかのごとき錯覚と、その錯覚から生まれる「反米」「全共闘」「内ゲバ」は、まさに平成の世の中には適合しないのだ。そのこともわからずに民主党内部で醜い賢慮k闘争を繰り広げている姿は、完全に「国民不在」の内容でしかない。
 民主党は、今まで野党時代は、自民党の批判をしていればよかった。しかし、与党で政権を担うようになってから、それでは立ち行かなくなった。これは、民主党の支持者たちも同じ事を考えている。民主党の支持者の多くは、実は「民主党の支持者」ではなく「自民党のアンチ」もしくは「現状不満の受け皿」としか民主党を見ていなかったということである。だから、該当のアンケートなどでは、平気でマニフェストどおりにならなくてもよいという意見を出してみたり、地方選挙や補欠選挙で民主党を支持しないという結果が出てくるのだ。核となる考え方の内政等には書くとなる考え方を持った支持層がつかないのは、まさに道理である。その批判勢力でしかない政権があるということは、いまや国民にとって害悪でしかないという解釈になってしまっている。このようになっては、民主党は何をやっても支持を取り付けることができなくなってしまう。まさに、国民と政権の乖離が発生する。その解決方法は「倒閣」か「独裁」という民衆が勝つか、政権が勝つかの戦いに発展してしまう。その戦いは、次の総選挙まで続くであろう。まさに、「静かなる内戦」が日本国内の政権で、その政権と国民の間でできてしまうのである。
 しかし、国際情勢はそのような日本の事情を舞ってくれることは無い。結局のところ、日本「は時代に取り残された内戦地域」になってしまう。この内戦に関して、勢力は三つに分かれる。今までの通りに日米同盟を機軸にアメリカを引き込む勢力、隣の大国中国を引き込む勢力、そして日本の独立を目指す勢力。この三つ巴の静かなる内戦が日本で繰り広げられることになるのではないだろうか。今年は、その「静かなる内戦の顕在化元年」となるような気がする。
 経済は、どのようになるのか。経済はこの三つの国内の勢力において、その勢力の軍資金を以下に調達するかということに尽きる。その調達先は、「静かなる内戦」というだけあって、結局欧米や中国、東南アジア、中東といったところの金銭を誘引することになるであろう。その誘引合戦が、まさにAPECで話題になったTPPという条約締結を元に行われることになる。このTPPを第三の開国という人がいる。しかし、日本はすでに開国している。日本人が日本人であるために最低限の保護をすることは「開国」ではなく「亡国」でしかない。しかし、それが「開国」という標語で踊らされて、その内実を知らないということになるのではないか。まさに、「政権交代」という標語で踏み誤った日本の政治と同じ路を経済界が突き進むことになるのかもしれない。自由競争市場になるということは、まさに、日本国内も完全なる自由競争市場、要するに経済上の戦争状態になる。日本国内の企業群が、弱肉強食の中に入ってしまう。「開国という名の死地へ出向く日本企業」ということになる。これを阻止することは、なかなか難しいようだ。

 ということで、今年もまたかなり悲観的であるが、
「基本無き政治主導による、静かなる内戦の顕在化元年」
が政治の世界の標語
「国民と乖離した自由競争という名の弱肉強食社会にエサとして飛び込む日本経済」
が経済界の標語になるのではないか。

 毎年のようにこれを付け加えているが、この標語は外れてほしい。外れることを強く希望する。今年は何か政変があり、その政変によって、また保守的な、愛国的な政権が出k内科ということをきたしている。しかし、今の民主党は、たぶん「負ける選挙」はしないであろうから解散などせずに任期いっぱい今のまま政権の利権を吸い尽くすであろう。韓国のように、政権を降りた瞬間に、今の民主党の幹部が何らかの罪で逮捕されるということもありうるのではないか。そこまでまったく日本の国家のことを考えているような政策が見えない。政治に寄り付く経済界にもそのヴィジョンが感じられない。その状況に安穏としていた国民が、そろそろ蜂起することになる。その速度によっては、私の予想は大きく外れるかもしれない。
 今年はどうなるのか。半分期待して、精一杯生きてみようと思う。

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4 平成23年版宇田川敬介国家論(4) 「憲法」のあるべき姿に関する私見

4 平成23年版宇田川敬介国家論(4) 「憲法」のあるべき姿に関する私見

 このブログのアップは平成23年1月5日である。昨日まで「国体」「政体」という内容を触れてみた。「国体」がしっかりしていて、「政体」がしっかりしていない場合は、常に日本においてそれなりの行動が起きていた。もともとの鎌倉幕府の設立も、その鎌倉幕府負の滅亡に起きた「建武の新政」もそうだ。当時の「民衆」鎌倉時代は、平民という概念はなくて、貴族が「民衆」であった。その民衆が蜂起して、前の政権を打倒した。しかし、そこに私利私欲があればうまくいかない。
  鎌倉時代の中期に発生した承久の乱は、その私利私欲が起こしたとも言い切れないが、それでも「大義」に基づくものではなかったのではないか。だから承久の乱は、京都側の軍が敗北した。もちろん、その時にも完全に鎌倉幕府の信任はなくなっていた。しかし、それまでに「京都貴族」がもっと信任を失っていたのだ。もともと「貴族」の支配がだめになったということが「幕府政治」の発生になった。それだけ摂関政治とそののちの平家の専横が「国体」の信任を失ったはずだ。その信任がまだ戻っていない間に、鎌倉幕府討幕を掲げてもそれは大義にはならなかったのだ。そのために承久の乱では鎌倉幕府が勝利した。その後、執権政治がうまくいくようになったのだ。しかし、元寇をはじめとする外圧とその対応の不振により、鎌倉幕府は完全に「国体」からの信任を失った。その時に自然発生的に起きた倒幕運動は、そのまま建武の新政という形で発生するのである。歴史は、後醍醐天皇の主導による建武の新政ということになる。しかし、たとえば「悪党」といわれる楠木正成の台頭など、それまでは歴史の表舞台に出てくることのなかった下層民衆(と言っては失礼かもしれないが)が活躍し、歴史になお残すことになる。
  この「下層民衆の台頭」というのが、一つのキーワードだ。ある意味では、この下層民衆が支配階級や為政者に近いところに入ることによって、臣民の意思がここに入るようになる。臣民の「個人の意思」ではなく、国体としての総意は非支配者が為政者に対してそれなりの意思を示していることになるのだ。その意思に応えられないような為政者は、為政者として失格である。しかし、被支配階級である下層民衆も、ただ無責任な要求は許されない。これが日本の「掟」というか「政治に関する考え方」だ。何といっても国体そのものは祈りの存在である天皇陛下によって象徴されているのであるから、下層民衆といえども、神の前で無責任は許されない。同時に無責任でないならば、その中の代表がしっかりと為政者として世の中を納めればよい。要するに「身分」「下層民衆」「被支配階級」ということは、そのまま為政者たりえないという資格喪失にはならないのだ。日本においては、国体によって為政者が決められ、為政者が国体の信任を得て国民(臣民)を統治するのである。逆に、その国体そのものが、自分を統治する者を決めるといってもかまわない。その時には身分などは全く関係なく、誰もがその機会を与えられているといってもかまわない。日本で最も許されないのは「国体」に対する無責任な発言であったり、無責任な内政であり外交だ。そのようなことをすれば、どんなに栄華を誇っていても、すぐに打倒されてしまう。それも、自分が支配したと思っている民衆に逆転されてしまうのだ。
  平家が源氏に滅ぼされた。しかしその平家は、保元・平治の乱で完全に言辞を駆逐したはずであった。伊豆国に流罪にした源頼朝という武将に滅ぼされる。これはまさに自分が滅ぼした相手に滅ぼされる最も良い例だ。鎌倉幕府でも、完全に貴族の世界から武士の政権に変わったはずであった。しかし、国体の信任を失った鎌倉幕府は、政権を譲り受けたはずの天皇によって、下層民衆である楠木正成などと一緒に滅ぼされる。その後にできた室町幕府は、被支配階級である守護代の織田信長によって滅ぼされる。まさに「下剋上」という単語の真骨頂だ。その後に、完全に被支配階級である、豊臣秀吉によって威勢が行われるようになるのだ。しかし、外交での大きな失敗と国益に反する出兵は、完全に豊臣家への信任を失わせ、徳川幕府が開かれることになる。徳川幕府が西郷隆盛や大久保利通など下層部氏によって討幕されたのは、昨年の大河ドラマの坂本竜馬などによって多くの人が知るところだ。戦前の軍閥政治もな辞。5・15事件、2・26事件などによって、日本の軍部独裁が起きた。もちろんこの時代は天皇主権とはいえ、実質的には天皇陛下そのものの意思によって政治がおこなわれているものではなかった。「立憲君主制」であり、同時に、軍部独裁が発生していれば、当然にその内容に関しては、天皇陛下の意向がうまく伝わらない状況になっていたのではないか。「軍部」という一部の意見で政治をしてしまい、国体を無視した内容は、そのまま戦争への突入とその戦争の敗北という「最も最悪な外交の結果」を持って日本に傷跡を残した。その結果は、現在のような「軍部」の否定と、それを止めることのできなかった天皇主権の廃止という結果になった。日本における現在の保守層は、これをGHQの指導ということをいう。しかし、実際にGHQの押し付け憲法であったことは間違いがないが、残念ながら、それを受け入れたのは、日本人そのものである。
  このように国体によって完全に否定された「政体」が、国体を脅かすような失政や外交の失敗を行うようになると、下層民衆からの下剋上が発生し、政治が解体するのだ。

  さて、その憲法に関して、日本では「憲法無効論」がある。しかし、私はそれは反対だ。今の憲法の内容に納得しているわけではない。しかし、国体の象徴である天皇陛下(昭和天皇)の御名御璽が記されている以上、それを否定するのは、国民として安易に行うべきものではないと思う。安易に「押し付けられたから」といって御名御璽の付された天皇陛下の意思を否定するのは、国民の行うべきことではないし、それを許してしまえば、今後も天皇陛下の御名御璽を付された内容を否定する輩が出てくるに違いない。憲法はそのために憲法そのものを変える規定があるのであり、これは自民党政権といえども、安倍内閣の時代までにその改正の手続き法まで何もしなかったということは、政権の怠慢であると指摘されても仕方がないのではないか。逆に、今安易に天皇陛下の御名御璽を付された文書、ことの憲法を否定することは、その後の御名御璽も「あの時代だから」「天皇の意思ではないから」などという無用の反論を許すことになり、それは日本という国体の乱れに通じるものであると考える。
  では、そもそも憲法とは一体何のか。
  私の考えるところ(もちろんここは完全に私個人の私見なのであるが)、憲法とは「国体を表す主権者の契約」であると考える。誰と誰の契約なのか。それは現在の人と「国体」との契約だ。国体とは、その交代で暮らす全ての人であり、当然に過去の日本人も、未来の日本人も、全ての「日本人」や「日本という国家」との契約である。そして、国体の中において「政体」がどのように行われ、どのように為政者を選び、そして、国体を壊さないようにどのように国民が、そして政体が動くべきかを決めるものではないのか。
  今までも、「国体」はその「国体の意思」として、「政体」の姿を変えてきた。上記のようにその時には、政体そのものが腐敗し、国体の利益に、そして国体の意思に反して、下層民衆が蜂起して政体を覆してきた。下層民衆がという主語であるが、その時には必ず「国家のため」という「大義」があり、その大義がなくなった瞬間に放棄した下層民衆もなにもすべてが滅ぼされてしまうのである。このように考えると、一昨年の政権交代も自民党はそのような状況で、「小沢チルドレン」という下層民衆によって覆された政権なのかもしれない。逆に、今の「民主党政権」も、戦国時代の豊臣秀吉や、織田信長を本能寺の変で横死させた明智光秀のように「私利私欲」「党利党略」だけで動いていれば、当然に国体の信任を得ることはできなくなってしまうに違いない。そのうえ、そのような政権交代が可能なように、日本国憲法はできているのである。
  日本国憲法は、このように「主権者」である国民もしくは天皇陛下と、「国体」との契約であると考える。あとは「不平等条約」であっても「条約」であるし、「悪法」といえども「法なり」ということである。逆に「日本国憲法無効」という主義の人は、速やかに憲法改正すべきである。逆に憲法9条に固執している人は、まず現実をよく見るべきではないのか。そのような「弱い」国を子孫に残したいのか。自分で自分の身を守れない人は、それこそ、誰かの庇護の基に生きるしかない。独立ができないような人は、その人の言うことに信用がないというのと同じだ。そのような経済評論家もいるが、それは「あまりの頭の悪さを国民に哂われているにすぎない」ということを、まさにコメディアンと同じように扱われているということをしっかりと認識すべきではないのか。
  では、どのように憲法を改正すべきか。ここは議論がされるべきであろう。今回はその内容まで、ここにはかなないようにする。その内容は、また次の機会にしよう。

  ここまで書いてきた「平成23年版宇田川敬介国家論」は、ここで今回は終了にしようと思う。次の機会(いつになるのだろうか)は憲法の改正に関して、その私案を書いてみたいと思う。
  明日からは、また、いつものようなブログを展開しようと思うのでよろしくお願いします。

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3 平成23年版宇田川敬介国家論(3) 「政体」のあるべき姿に関する私見

3 平成23年版宇田川敬介国家論(3) 「政体」のあるべき姿に関する私見

 今日は、1月4日のはずだ(事前に入稿しているので少し不安定です)。
  そうであれば、そろそろ仕事始めになる企業も少なくない。今年の場合、曜日の関係で1月8日が土曜日だ。ということは10日の成人の日まで休日といううらやましい人もいるのかもしれない。海外旅行などは、まさにこの時期に行うものであろうと思うが、私の場合、たまった原稿や書籍の原案を整理している。どうも年末年始という感覚は少ないものである。困ったことに、なかなかそのような感覚にならないのは毎日がなんとなく忙しいからかもしれない。「貧乏暇なし」とはよく言ったものである。最近の失業は「貧乏暇あり」だから困るのであり、なんとなく暇がないほうが良いように思うのかもしれない。しかし、実際は「暇があって収入がある」というのが最も良いのであって、なかなかそのような状況にはならないようである。
  そのように、雇用がうまくいかないのも「政治」が良くないからであることが間違いがない。もちろん政治だけが悪いわけではない。しかし、政治がそれなりに良くないからである。もちろん経済の内容は、経済界が頑張ることである。しかし、昨年の経済界のように政治の無策ということが、不均衡な相場を放置したということや、様々な政治的軋轢による経済の不振ということもある。昨年は、政治が経済に与えた影響が大きく、そのために経済がより悪化し、そして雇用が確保できなかったということもあるのだ。
  経経済の悪化というのはまさに、このような政治にかかわる場合もある。もちろん、リーマンショックが日本の政治家の責任で起きたなどとは言わない。当時の麻生政権はしっかりとした政治が主導的に行った財政出動で、リーマンショックをしっかりと回避の方向に向かわせていたのである。しかし、その経済政策を全て否定したのが民主党政権だ。財政出動はしっかりと補正予算という形で行っていたが、それを完全に否定し、子供手当などのバラマキ政策に変えてしまい、その分の経済効果がどうなったのか全く分からないという状況になってしまっているのである。
  バラマキが悪いとか、財政出動が良いというのではない。その時その時の状況に合わせた経済政策をしっかりと取らなければならないのではならないのではないだろうか。考え方の基本があっても、それが時代に即していない場合は変えていかなければならない。どうも今の政権はそのようなことができないようである。
  昨日の内容は「国体」ということをしっかりと書いたのである。「国体」とは天皇陛下に象徴されるが、実際はこの国の形であり、「日の丸」「君が代」もこの国の形を象徴するものである。「国体」ということで、「身体」を隅々まで矛盾なく言葉で説明せよというのは難しい。そこで、「象徴としての存在」がこの国の形を象徴する存在としてしっかりと国体を形作っているのである。当然に、政治を行う主体を兼ねることはできるが、それを行わないことも可能だ。日本の場合、国体を護持する天皇家皇室はしっかりとしているのであるが、政治を行う主体である「政体」はいつも変わっている。しかし、日本の朝廷はまったく変わらずに残っている。今の天皇陛下の先祖は、当然に神武天皇までさかのぼることができるが、われわれが日本史の時間に習うことのできる大和朝廷もつながるのだ。要するに今の皇室はまさに「大和朝廷」である。その朝廷は、まさに「日本」という国を形作り、その伝統と文化と国の形をしっかりと受け継いでいるのだ。
  話はそれるが(いつものことであるが)「日本」という国号を考えたのは「天武天皇」という説がある。実際のところはよくわからない。出典は、言わずと知れた聖徳太子だ。遣隋使の遣わした手紙に「日出ずる国の天使」という標記を行ったのである。その時代は中国は日本に対して「倭」という蔑称をつけられていた。自分たちでは「ヤマト」と言っていたであろう。多分「邪馬台国」という感じは別にして「ヤマト」という名前がしっかりとついていたに違いない。その自分の名前を使わずに「倭」という蔑称を使ってることに、聖徳太子が起こっていたかどうかは別にして、日本のことを「倭」と言わずに「日出ずる国」と表現したのは、素晴らしいことである。しかし、聖徳太子が国号を「日本」としたかどうかまでは分からない。この時代から50年以上後の世に、天武天皇がこの聖徳太子の手紙の文章から取ったとされる「日出ずる国」から「日の本の国」、「日本」という国号を使用したのである。
  その「日本」という国号を使用する以前「大和朝廷」以降、日本は国体が変わっていない。しかし、その政治の主体はかなり変わっている。古くは天皇親政であった。しかし、まず奈良時代、聖武天皇のことから、藤原不比等が律令制度を作り、その後太政官制度を制定する。藤原不比等は、今でいうところの官僚制度をしっかりとした形で作っていた。ここでも聖徳太子の冠位十二階を参考にしたという話はある。聖徳太子は非常に優れた政治家であったと思うし、古代のように記録があまり残っていない時代に、聖徳太子の偉業をしっかりと継承し、その偉業を利用して日本の形を作っているということに関しては、やはり天皇親政の内容も、また藤原不比等の太政官制もしっかりとした内容のものである。
  官僚制をしっかりと行うということは、当然に天皇親政を継続するのではなく、実際の政治は「臣民」で行うということを予定しているのである。
  その形が藤原家の専制になる。殊に、藤原道長・頼道の時代の摂関政治は、しっかりとした政体となっていた。「この世おば わが世と思う 望月の 欠けたることも なしと思えば」は、まさに藤原摂関政治の全盛を現した若として有名である。藤原北家がしっかりと力を持っていたのは、外戚と言って、藤原氏の姻戚関係に天皇がいるということで、その天皇陛下の権威、権力を外戚で血のつながっている藤原氏が行っていたことによるのである。外戚とは、今でも「外孫」という言葉があるが女性を媒介にしている親せきのことである。藤原頼道で摂関政治が終わってしまうのは、まさに女性の子供が皇室に嫁がなかったことによるものだ。その意味では政治は、しっかりと天皇家の権威に裏打ちされたものであった。
  保元、平治の乱以降台頭してきた平家も、まさにそのものを踏襲している。平安時代の後期から台頭してきた武家も、桓武平氏・清和源氏という。もともとの血筋が桓武天皇や清和天皇からの傍流であるということを意味しているのである。皇統から外れ臣下になったことにより苗字を持つことになり「平」「源」という苗字を賜ったのである。その平家といえども、平安後期になれば、当然に天皇家との外戚関係を持つようになり、権力を手に握るようになる。その平家は藤原摂関政治と同じように、天皇家の権威を使っての権力となった。
  その後、源氏(鎌倉幕府)・足利氏(室町幕府)・徳川氏(江戸幕府)は、天皇家との婚姻関係や外戚関係があるわけではない。しかし、彼らが政権を保有するというあかしである「征夷大将軍」は、まさに天皇から任命されるものであった。天皇家は、タイミングや解釈の問題はあるが、その各武士の主導の「政体」が力がなくなり、国民の信任が得られなくなったときに、天皇親政もしくは、律令制度を復帰して、その律令制度を利用した政治体制を間に挟んでいるのだ。鎌倉幕府の終わりは後醍醐天皇の建武の新政があった。楠木正成などが活躍した。また室町幕府の最後の将軍である足利義昭が織田信長によって追放されたのちに、織田信長は「左大臣」という律令官制の中に入って政治をしていた。織田信長は早くから「天下布武」という号を使っていたために、天皇性も否定する予定であったとか、武力で収めているので天皇家の権威は関係なかったということも言われている。しかし、後世のいまから見てみると、織田信長が「平家だから」など様々な話があっても、征夷大将軍を拝命しなかったのはなかなか思いが深いものもある。織田信長が本能寺で横死したのち、天下を治めた豊臣秀吉も、関白太政大臣という律令官制の中に入っており、その後徳川幕府がおこなわれる。
  徳川幕府の幕末、「尊王派」が幕府を倒すことになる。これはなかなか象徴的で、結局国民(当時は下級武士であったが)の意見が尊王となり幕府を注目しなくなった。そのために、幕府は自ら「大政奉還」を行ったのである。戊辰戦争は大政奉還後に国内平定のために行った戦争である。
  このように見てみると、やはり、政体としての幕府や官僚性(律令制のトップ)は、国体の意見としてその座から降ろされてしまうのである。
  では、明治以降はどうか。明治以降は立憲君主制である者の主権は天皇にあった。天皇陛下の主権を支えるものとして、諮問機関として国会があり、枢密院があり、そして御前会議があった。それらの意見は確実に国民の意見として天皇陛下に届けられ、天皇陛下がそれを決断し体現なさるという仕組みだ。だから戦後の現代においても天皇陛下が内閣総理大臣を任命するという、それまでの摂政・関白や征夷大将軍と同じ内容になっている。征夷大将軍は、臣下のものたちが戦争によって、要するに武力による争いによって実質的に勝利した軍の頭領が将軍に任命された。今の世の中では、選挙という「戦争」で勝利した政党の代表、要するに軍の棟梁と同じような状態のものが内閣総理大臣に任命されるのだ。
  逆に、政体は、国民の信任を得られなければ、または、ダメな政治をしたり、国体を壊すような行為をしてはだめだ。上記のように国体を護ることが一つの大きな内容である。もちろん、「征夷大将軍」とか「攘夷」ということを今の世の中に言うつもりはないが、不当に外国に情報したり、外交の失敗をしたり、ましてやマニフェストなどということを言って公約したのにかかわらず、何も実現せずに国民を騙して責任も取らない。
  「政体」の役目は、国体の護持だ。国体の考え方は、昨日のブログに書いている。逆に「政体」はその国体を守るためのものだ。そして、国民の生活を明るく豊かにし、心も豊かに平和安寧な毎日を送れるようにする。それは現代の政治だけではなく、将来の日本に対しても責任を負うのである。歴史というのは今行ったことの効果が50年後100年後に出るのだ。そのことをしっかりと認識して政治を行わなければならない。今だけが良くても意味がないのだ。将来の日本が壊れてしまう様な「時限爆弾」があるようでは、意味がない。孫子の代まで日本の国体を守らなければならない。それができないのであれば「政体」を交代すべきである。
  そしてその時は、一時的に逮捕律令や天皇親政に戻すこともあってよいのではないか。歴史はそのような状況を示している。今の民主主義がいつの間にか衆愚政治になってしまうと判断されているようでは、そのようになることを、日本人は支持しても良いのかもしれない。
  民主党の昨年の政治を見ていると、そのようなことを考える。今はそのようなことを考える団体やグループが少なくない。今年はそのような政体に関する内容を考えるべきではないのか。その一端は憲法の改正などの内容になるのかもしれない。
  政体に関しては、まだまとまっていないが、現時点でまとめればこのようなことになるのではないだろうか。

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2 平成23年版宇田川敬介国家論(2) 「国体」とは何かという私見

2 平成23年版宇田川敬介国家論(2) 「国体」とは何かという私見 

 昨日は、珍しく郷愁に浸った内容になってしまった。なかなか呼んでいても「まったくまとまりのない」文章であったと思う。正月の酒に酔った頭ではそんな感じなのかもしれない。まとまりのない文章を書くならば、はじめから何も書くなというお叱りの声もあると思うが、逆に松の内くらい好きにさせてほしいと思う甘えのここともある。私の心の中の「天使」「悪魔」は当然にけんかするのであるが、「甘え」が当然のように勝ってしまうのである。
  ということで、海外の経験から国体と政体ということを書いたつもりだ。
  そもそも、このようなことを書くことはまず少ない。日本人の間でも、普段の会話で「国家」とか「国体」「政体」を意識することなどはまずないのが普通だ。そのような「音」を聞くこともまずない。以前ラジオ時事対談の中のコーナー「松橋輝男のZ一リュウ(方へんに流のつくり)」という番組のコーナーの中で、「国民が天皇陛下を意識するときは、国家の危機のときしかない」ということを言っていた。「国民の大半が、普段の生活の中で国家や天皇陛下を意識することはまずない。それが意識されるということは、かなり大きな問題が起きたとき、国家を揺るがすような大事がおきたときなんです」という。
  われわれは、空気を吸わなければ生きていけない。しかし、普段「空気」「酸素」ということを意識することはない。それは毎日の中で何の不自由もなく存在するからである。空気は非常に重要でありながら、空気は意識されることがない。空気がすえないということは、すぐに死に直結する。意識した時は遅いのだが、その状態にならないと空気のありがたみはわからない。逆に意識するときは大変なときである。私の場合、数年来心臓の病をわずらっているのであるが、心臓の発作が起きると、あまりうまく息がすえなくなる。我慢している場合もあるが、あまり度が過ぎると倒れてしまう。しかし、発作が起きていない時はあまり意識しない。当然に自動車に乗って空気を汚すこともある。環境が大事といえども、そのことを普段から細心の注意を図ることはない。人間はそんなに普段から緊張していては、身が持たない生き物なのだ。
  天皇陛下を「空気」と一緒にしては不謹慎かもしれない。しかし、私にとっては国家というもの、国体というものは、そういうものという感覚が少なくないのかもしれない。普段、日本にいるときは、または普通の生活をしているときは、国家、国体に関して何も感じない。しかし、いざ国家そのものが問題になるときは、「国家」「国体」を意識することになるのである。天皇陛下もその天皇陛下に象徴される国体もまさに今意識される時期なのかもしれない。
  では、国民の多くに「天皇陛下」「国体」を意識させる事態とは何なのか。最近天皇陛下が「政体」の話題度でましになられたのは、小沢一郎元民主党幹事長の不敬発言であった。もともとは、皇室の中のルールに従い、1ヶ月前までの申し入れがなかったことから中国の時期主席候補習近平氏との石鹸を宮内庁長官が断ったことに端を発する内容である。その後、幹事長記者会見において、天皇陛下の内心を勝手に推測して言葉にするというものであった。天皇陛下の内心を勝手に推測でこくみんいたいしてはっするというのは、戦前の「統帥権干犯問題」以降の椿事であり、天皇陛下の政治利用ということまでも当時話題になた。そのほかにも、天皇陛下のお言葉に関して岡田外務大臣(当時)が口を挟むなど、とてもとても考えられるようなものではなかったと考えられる。民主党の不敬に関しては、最近でも、国会開設120周年記念式典で中井前国家公安委員長が「早く座れ」と野次を飛ばしたという事件も存在する。
  たかだか、政体で権力を持ったからといって、国体、日本国憲法上で言えば「日本国と国民統合の象徴」である天皇陛下およびその皇室に対して、不敬を働く、不敬発言をするということは、まさに常軌を逸しているといわざるを得ない。そのときに「他人と他人だから勝手にすればよい」とはなかなか思わない。「日本国の象徴」である人々(秋篠宮殿下といえども、皇位継承順位から言えば、日本国の象徴に近いと考えることが妥当だ)に対する不敬を、少なくとも私は(多くの人も同じと思うが)日本国そのものを否定されたかのような、汚されたかのような、不快な思いになる。そのような人が少なくとも大臣になっている民主党政権に関しては、さすがにおかしいといわざるを得ないのではないか。そして、それは「国体の危機」といってかまわない状態であろう。まさに私の貧困な頭から出てくる例で言えば、国体が政体によって呼吸困難になり、空気の重要さに改めて気づかされるということになっているのかもしれない。
  では、その「国体」とはいったいなんであろうか。非常に難しい。一言で言うことはできない。感覚的には非常によくわかるし、多くの人と共有しているものと考えている。しかし、なかなか難しい。たとえて言えば「故郷(ふるさと)」を一言で説明しろといって、難しいという感じと同じだ。単に出身地というものではなく、そこに存在する郷愁のような、懐かしいとか、落ち着くといった感覚を言葉にして伝えるのがどんなに難しいか。同時に、それがどんなに言葉を尽くしても伝わるものではないとも思っているのだ。私の場合、海外にいることもかなりあったので、その感覚でいえることは「日本人でいることがよかった」と思えることであり、世界のほかの国の人、および一部の日本人には通じない感覚的なものがある。私のような感覚を持った「日本人」の集合体であり、そしてその日本人の育んできた伝統、文化、言語、血筋、産業、慣習など、そしてその上に立脚している現代と未来の日本のすべて合わせて、そして、そこにある日本人の感情や気持ちの部分を大きく評価して「国体」というものであり、それを象徴するのが天皇陛下であり皇族であり日の丸であり君が代であると考える。
  よって、この象徴である天皇陛下を主権にしようと、その象徴、集合体の元となる一人ひとりを主権にしようと、その主権は変わるものではないと考えるのだ。日本の国体は、天皇陛下、皇室だけで育んできたものではない。しかし、その皇室が国民、国家のためにそして象徴としてあるべき姿を示し、模範を示すために、日々精進し祈りをささげているのだ。
  日本はもともと農耕民族であり、ヨーロッパにおける狩猟民族とは違う。ヨーロッパの王に対する考え方は当然に「狩猟」「戦争」に対する「武力王」であり「征服王」である。これは彼らの民族性について意見しているのではない。実際のところ、多民族国家(もしくはヨーロッパという陸続きの部分がすべてそうである)で、また農耕に適さない土地であれば仕方のないことであろう。上記に「国体は伝統や文化…」と書いたが、よい悪いという価値判断ではなく、まさに、文化の違いでしかないと考えられる。ただ、日本人であるわれわれにとって「違和感」があることは否めない事実だ。
  一方、農耕民族である日本人は、当然に農耕が人の生活手段だ。農耕は、人と獣の争いによって起きるのではない。もちろん、最低限の防御は必要であるが、農耕の中心は太陽と土と水の恵みによってできるものだ。要するに自然環境による成果物が農耕民族の生活の糧ということができる。しかし、古代日本は、残念ながら現在の日本のように科学技術が発展しているわけでもない。天気を作り出すようなことは今もできないが、気象衛星を打ち上げるようなこともできるわけではない。当然に、地面にいて肉眼で見える範囲で、足で歩ける範囲ですべてのことを予想しなければならない。後は経験則だ。当然に「わからないこと」は「神」のなすこととなる。農耕民族の族長は、当然に「祭祀王」という性格を持つ。要するに自然を超越した神の存在があり、その神の存在の中において祭祀を執り行うことによって民族を統治していたのだ。
  今の政治も「まつりごと」という。これはまさにこの「祭祀王」としての政治当地の名残であると考えられる。この性格は今も変わっていない。天皇陛下は毎日国家のため、国民のために祈りをささげている。それは日本という範囲を超えて世界全体の平和について祈りをささげる存在である。その政を「祭祀」と「政務」にわけ、その政務の部分が「政体」としてできているのだ。
  国家そのものの問題を語るときに、日本の場合は、その象徴が祭祀王であり、そして、日本の農耕民族の象徴であり、その文化であり、そしてその内容において、日本人はあまり戦いを好まず、平和で勤勉な国民性を持っているのである。
  この「国体」がしっかりしている以上、日本人は世界中(宇宙までは私の知る範囲ではない)どこに行っても大丈夫であるし、政体が多少おかしくなっても、国民が自動的にそれを修正する力があると私は信じている。

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短期連載 平成23年版宇田川敬介国家論(1) 私の経験から

短期連載 平成23年版宇田川敬介国家論(1) 私の経験から

 新春放談のひとつとして、普段考えていることをここに書いてみたいと思う。普段は、ニュースの解説を通して披露しているのであるが、まとめて書いてみることは少ないのではないか。そこで、今まであまり書いていなかった「国家論」をしっかりと書いてみたいと思う。私について国家とは何かということを書いてみたい。このような機会でないとなかなか書けないのではないかと考えているので、ちょうどよい機会なのかもしれない。
  あえて平成23年版としたのは、今後、変化する可能性があるということを意味している。要するに、「国家論」を語るにあたり、私自身も成長するのであるから、当然にその考え方は日々変化している。その変化の過程において、ここに帰しされているのは平成23年時点の私の国家論である。もちろん、今後変化するといえども、よほどのことがない限りにおいて、大幅な変更はないと思う。私が、突然共産主義者になることはまず考えなくてよい。しかし、人間である以上、「今後まったく変わらない」ということはないのだ。
  とはいえ、実際のところ、根本のところは変わらないと思う。ただ、今までなかなかそれをまとめて語ったことがないので、せっかくの機会でもあるし、正月からこのようなブログを読む人も少ないと考えるので、好き放題言いたい放題書きたいと思っているのだ。この文章の掲載は1月2日のはずだ。正月そんなときから、この小難しい文章を読むような人はまずいないという前提である。呼んでいる方には申し訳ないが、あなたは、よほどの物好きか、酔狂な方か、あるいはほかにやることのない方であろう。

  さて、能書きはともかく、国家論を語りたい。
  普段であれば、「国家には国民・領土・主権の三つの要素があり」ということをはじめる。しかし、それでは、まったく面白くない。そのような学術的なことは、せめて正月くらいは避けてみたい。どちらかというと「おとそ気分」の国家論をやってみたい。
  ということで、いつもと違うスタートで。「日本はわが母国である」これが最初の切り口である。日本人が日本を好きというのは当たり前のことだ。日本に関する帰属意識ということは、普通のことだ。この「愛国心」が話題になること自体、異常なことと考えるが、日本の場合は、残念ながら「愛国心」の話題をすること自体タブー視されている。これが国家の危機であろう。
  私は、幼少の時分から愛国的な思想を持っていた。たぶん父親の影響であったと思う。父は昭和2年生まれであったために、戦前の教育をしっかりと受けていたのである。教育勅語も神武天皇以来の天皇陛下の系譜もすべて暗唱できた。基本的に親子であまり仲はよくなかったし、何を考えているかもよくわからない父であったが、それなりに私への影響は強かった。その父の口癖は「ケトウに負けるな」であった。5人兄弟で私しか男がいないせいか、私には他の強大に言っていない内容をよく言っていたと思う。その中でもっとも印象に残っている言葉はそれだ。テレビで「トラ・トラ・トラ」という映画を見ているときの父の喜び方は、何度見ても同じ映画であるにもかかわらず、何度見ても無邪気に喜んでいた。その無邪気さは、ゴジラやモスラが戦っている特撮映画を見ているときとなんらかわらない、しかし、日本を強く意識したものと考えている。
  「日本はどうして負けたのか」という、小さいころの問いに父は「弱いから」という。「なぜ弱いのか」と聞いたところ「心が腐っているから・根性がないから」という。完全に戦前の精神論主義的な部分があったことも父の特徴であった。逆に「今は、根性のないものが多い」というのも口癖であったような気がする。実際、数十年の付き合いであるが、残念ながら、仲も悪かったのであまり記憶はなかった。しかし、その中において、そのような記憶が非常に強く残っている。「鬼畜米英」という単語を聞いたのも父の口からである。幼少のころからそのような話しを聞いていると、別に今の天皇制や、保守という人々の言うことに違和感がない。そのようなことが話題になること事態が違和感である。
  ただ、学校の教育とは、完全に父の教育は違った方向にあった。小学校のころに「空襲の体験をおじいさんやおばあさんに聞いていて作文しなさい」という宿題が出た。確か夏休みであったと思う。祖父は、満州軍に出ていたので、空襲の体験はほとんどない。結局父に聞くことになる。その父の言葉は、私にとっては印象が深い。「空襲といっても、東京の空襲は『エレクトロン焼夷弾』というやつで、大きな爆弾にたくさん小さな焼夷弾がくっついて、それが回りながら小さいのを撒き散らして町を燃やしてゆく。日本は木と紙の家だから、焼夷弾の中には、生ゴムと発火装置がついていて、そのゴムが家について燃える仕組み。それで火事で多くの人が死んだ」ここまでは、今でも聞ける空襲の話だ。父があまりうまくない絵で焼夷弾の形やそのばら撒かれる焼夷弾の中の設計図まで細かく書いたのには目を見張った。「その、生ゴムが金になるんだ。水を張った田んぼやため池に落ちた焼夷弾は、そのままゴムが燃えないで残る。そのゴムを集めて軍や自転車屋に売るんだ。これが金になった。空襲は対処方法を知っていれば、空から金が降ってくるみたいな感じだ。パパは田んぼの真ん中で胡坐書いて座っていたら、空は花火みたいにきれいだったし、終わってからは周りに生ゴムだらけで、すごかった」ということだ。
  当然に、私はそれを作文に書いた。当時小松先生という先生だったと思う。「何ですかそれは」という一言。小学生の私にはなぜ起こられたのか良くわからない。実際「父の実体験」である。それを否定する先生の言葉が信じられなかったのだ。「他の人に聞いて書き直せ」という先生の指示を完全に無視して、結局、私の空襲体験の取材の作文は「空襲で儲かった」という、今考えれば不謹慎、しかし、実際にそれを体験した人しかわからない話で終わってしまったのである。
  日本を語るときに「日本らしさ」ということを口にする人がいる。実際に、上記の「空襲の体験の作文」でもわかるとおりに、日本人の大多数は「それを体験していない」にもかかわらず「そのイメージ」を勝手に作り上げ、そのイメージから外れるものを否定する。空襲では悲惨で、逃げ惑ったというイメージを小松先生は持っていたと思う。しかし、小松先生は年齢的に空襲を体験した先生ではない。当然に、空襲そのものの悲惨さはわかる。しかし、「空襲体験らしさ」というものを勝手に作り上げ、実際に体験した人(父は、空襲時点で18歳である)の意見を排除できるものではない。
  当然に、第三者的にいう「日本らしさ」と「本当の姿の日本」にはある程度のギャップがある。そのギャップは、空想の世界の人と実体験の中にある人の違いがある。「こうあるべき」と「実際にある」は違うのである。
  では、逆に「実際にある」をすべて肯定してよいのか。これはこれで議論が違う。空襲体験は、実際のところ「過去」の「事実」でしかない。それを片方にイメージを操作するのは、非常に危険な情報操作だ。事実はすべて受け入れる必要がある。それをすべてみることによって、初めて真実に突き当たるのだ。一方「日本」に関する内容は、現在もしくは未来に対する内容である。それは、簡単に言えば、「こうあるべき」は「理想の姿」ということになろう。その理想の姿を否定することは、一定の価値観の否定であり、思想の自由の否定であろう。過去にあった事実の否定とはまったく違う。今でもネットや言論の世界ではさまざまな内容が入り乱れている。「日本は新の独立を勝ち取るべき」「自主憲法を制定すべき」「日本は中国の属国になるべき」「憲法9条を死守すべき」思想の自由はさまざまな考え方を包含している。
  そのように日本では何の制限もなく自由な思想が保障されている。その中には日本の国家か痛いという不思議な、帰属意識も何もない発想をする人もいるのだ。そのような発想の人は「世界市民」とか「グローバル」などさまざまな単語で日本ということを意識させないような感じになっているが、残念ながら、日本人には生まれながらにして日本人としての感覚や民族性が存在するのである。
  では、その「生まれながらにして持つ日本人の民族性」とはいったい何なのか。
  やっと国家論のような形になるが、日本は他の国と違う面白い風習がある。要するに天皇親政のわずかな時代を除き、基本的には政治の中枢、為政者を天皇陛下が指名・任命しその為政者が政務を執る。政権の交代もすべて天皇の任命で行われているのである。それだけの為政者指名してきた天皇は、自らを為政者として占めうすることは少なく、すぐに為政者を指名することになるのだ。この状態を、「国体」「政体」というように分けて話をする場合がある。天皇陛下および皇室の継続性を国体の象徴として、そして幕府や今の内閣総理大臣を政体の実行者として認識し、政務の責任もすべて政体の実行者が負うという考え方だ。戦前、いや今もそうであるが「国体護持」と「皇室の継続」は表裏一体のものとして多くの人に認識されている。イギリス流に言えば「君臨すれど統治せず」というものであろうか。私は個人的には「権威」の存在である皇室と「権力」の存在である「政体」が一致して日本という国を治めているという感じがしている。
  では、その国体はどのようなものか。もちろん天皇陛下および皇室が国体であるとは思っていない。国体は、日本そのものであり、それを象徴するものが天皇陛下であると考えているのであるから、当然に天皇陛下および皇族だけで国体が成立しているとは考えていない。それよりも国家そのもの、国体そのものがあるから天皇陛下・皇室皇族が象徴として君臨し、国民および国体は、それを守ることによって国体としての一体化を維持するという相互関係が存在すると考える。国体の象徴は天皇陛下だけなのかといえば、必ずしもそうではない。要するに「国家・国民の象徴」であることを必要としているのであるから、「日の丸」「君が代」「菊の紋章」などもその中に含まれると考える。このほかにも、歴史や伝統、文化、風土、自然などすべてがその中に含まれる。海外の人から見れば「日本らしい」とするもののすべてが象徴性になるだろう。私の経験で、非常に申し訳ないが、海外に長くいた後に、日本に帰ってきたとき、桜の花を見るだけで「日本」を感じた。すしとかてんぷらではなく、チェーン店の牛丼を食べただけで「日本に帰ってきた」と実感した。何も天皇陛下や日の丸ばかりが日本ではない。日本の象徴性は、当然にその個人によって多少の違いはあるものの、日本そのものに触れることがもっとも日本の象徴性を感じるときである。逆に、毎日日本にいる場合、和食も牛丼も「日常」の中に含まれてしまう。当然に「改めて」日本ということを感じる必要はない。その日本国内にいて日本を感じる象徴性は「天皇陛下」であり「日の丸」であり「君が代」ではないのだろうか。逆に天皇や日の丸を余り身近に感じない人は、それだけ海外で苦労をしていないという、うらやましい環境にある人なのかもしれない。
  ここで言うように、当然にその内容は相互関係が存在するのであるから、当然に、日の丸・君が代の否定は、まさに否定する人の「国民・国家・伝統・文化」への帰属意識がないということになるのであろうか。私の場合、それだけ海外での苦労がない人ということを感じる。団塊の世代という人にその傾向が多いが、実際、彼らが学生時代に、海外へ行くには預金通帳を見せなければならない状態であった。円は安く、海外などいきがるに行ける状態ではなかったのだ。逆に海外に行けば苦労が当然。また、はじめから日本は一人前の国として相手にされていなかったのだから、あまり日本人個人として苦労することはなかったのかもしれない。
  残念ながら若い世代は、そのような過保護な国際関係には存在していない。気軽に海外に行けるという状態は、一方で個人という状況での対処をかなり必要とされる。それだけではない。円安であった昔に比べ円高になっているということは、それだけ国際競争力を持って仕事をしなければならない。ハンディキャップなしに国際社会でノーガードの打ち合いをしなければならない。それも、われわれ世代では世界第2位の経済大国である。逆に発展途上国・新興国からの突き上げはかなり激しいものになる。その中における国際社会での個人の存在は、かなり苦しいものがある。当然に「日本に帰れば安心できる」という安心感があった。日本という国にありがたいと思うことも少なくなかった。
  団塊の世代もしくは左翼として活躍する人と違い、海外における「ジャパニーズビジネスマン」はみな、「日本」への帰属意識を悉皆と持っているのが特徴的だ。それは、日本を非常に強く批判している中国や韓国に行く日本人も、また、アフリカなどまったく日本と関係のない国に行く人も、みな同じだ。
  日本を否定する人の「グローバル」がいかに「ドメスティック」であるのかということはこれでわかると思う。実際のところ、日本人の多くは、「日本への帰属意識」をしっかりと持っており、一部狂信的な「日の丸君が代反対派」の動きを冷ややかに見ている。その姿こそ、まさに「日本」なのかもしれない。

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平成23年 あけましておめでとうございます

平成23年 あけましておめでとうございます

新年明けましておめでとうございます。

 本来ならば、皆様に年賀状などによってご挨拶するべきと思います。しかし、なかなかそのようなことは現実的にかなわないのです。まず、読者の皆さんの住所などを知らないので、この場を借りて新年のご挨拶をさせていただきます。
  昨年は、政治の世界では「試行錯誤」の年だったのかもしれません。
  一昨年夏の総選挙で政権交代をした民主党の鳩山由紀夫政権が6月に瓦解し、菅直人政権が生まれました。しかし、その菅直人政権もすぐに支持率が低下し、提出法案の成立率が30%台と、実に戦後最低の国会運営を行うような状態になったのです。この政治的空白を、どのように考えたらよいのかということを、一生懸命考えたのです。民主党の横暴、政権交代の準備ができていないという話もあります。しかし、実際のところそのような「頼りない」政権を国民が選択したことは事実です。その国民は、「私は投票しなかった」などといっても始まらない。そのような責任転嫁そのものが否定された一念ではなかったのでしょうか。今までは無責任な批判が簡単にできたのですが、そうではなくなった。批判し貸していなかった人が、政権をとればこのようになる。会社や団体の組織でもそのようなことは繰り返し行われてきました。しかし、それらが教訓として活かされず、「批判しかしない人の政権」で日本はまさに迷走したのです。
  では「何が試行錯誤」だったのか。このような政治状況を歓迎するはずはありません。国民はもっと違うことを民主党政権に期待したと思います。しかし、結局、私が上梓した「民主党の闇」で記載したように、民主党はうまくできなかった。批判しかしていない政党は、やはり批判しかできなかった、ということなのです。批判しかできないことは、鳩山政権下の国会答弁などでも「自民党が」などと言っていることで明らかです。日本人は、批判することにインテリジェンスを感じるようです。違う視点から見ているかのごとき目で批判者を崇める修正狩ります。しかし、根本原理や国家観、国家の将来をしっかりと考えていなければ政治はできないということを学びました。
  これを捕らえて「日本崩壊のはじまり」ととらえる人もいます。しかし、実際はどうでしょうか。日本の「政体」は完全に崩壊しています。民主党政権が完全におかしくしてしまい、日本人の生活は根本から危機に瀕しているでしょう。しかし、現在まだ「国体」はしっかりしています。では「国体」とは何か。なかなか難しい言葉ですが、この件に関しては、少し明日以降私の考えを述べさせていただこうと思っております。正月なので、何も書くことがないので、「国体・政体論」を普段思っていることで考えてみようと思います。
  翻って、国際情勢はどうなっているでしょうか。リーマンショック以降世界恐慌の影響は非常に大きいです。ベルリンの壁崩壊まで世界の機軸になっていた東西対立、冷戦構造が崩れ20年。現在は、中国の派遣と、アメリカの支配ということになっています。日本はそれまでの東西冷戦でアメリカとソ連の間に防波堤のようにいました。しかし、今は米中間の間に日本がいます。しかし、以前の冷戦構造のように完全に対立し手いるわけではありません。アメリカの国債を中国は大量に保有し、またアメリカは、中国の生産品を多く輸入しています。通信や情報の交換もかなり幅広く行われ、いわゆる「内心の対立関係」になっているのではないでしょうか。
  対立関係が表面化しているのは、イスラム原理主義とアメリカという軸、そして朝鮮半島です。日本にとってはいずれも非常に大きな問題です。イスラムは石油資源の輸入元ですから、日本の資源外交の要になります。一方で、朝鮮半島は、完全に隣国ですから、戦争が始まれば、少なくとも経済的に、下手をすれば人命や安全ということで影響が出てきます。
  上記「批判しかできない」民主党政権は、これらに関しても手をこまねいているだけです。その手をこまねいているだけのことは尖閣諸島問題や北方領土問題のような領土問題も同じ状況になってしまっています。とてもとても、日本人の許容範囲を守れる内容ではないのです。
  このような外交状況を見ても、どうしても「日本崩壊の始まり」論が強くなってしまいます。しかし、実際のところ、「日本の国体」はいまだに健全でしょう。衰退途上国と名指しされていますが、そのように感じているのは日本人だけかもしれません。考えてみれば日本は、国体がしっかりして、政体がうまくいかない状況も少なくなかった。たとえば明治維新。江戸幕府が日本と思っている人は、完全に日本崩壊と思っていたでしょう。しかし、尊皇派にとっては「新しい世の中の夜明け」と感じたに違いありません。長州藩は、一度蛤御門の変で皇居に対して弓を引きました。しかし、薩長同盟以降江戸幕府打倒で糾合し、討幕軍の中心を担いました。その後明治政府では日本陸軍の中枢を担い、山県有朋・乃木希典などを排出したのです。立憲政治の父伊藤博文も長州出身です。
  日本はこのように、「国体」がしっかりしていれば、政体の変更に関する混乱はあっても、しっかりと国の舵取りができるようになっています。今はその「政体変更」の「試行錯誤」ではなかったでしょうか?
  では、今年はどうなるでしょうか。毎年「年初放談」で今年の予想をしますが、その中で具体的な内容を記載したいと思います。しかし、日本は、悲観することはないと思うのです。一方で、「今ががんばりどころ」です。批判しかできないような政権を完全に排除し、国民一人ひとりが国について考える時期です。
  今年も、私のブログやメルマガがその一助になればと思っております。
 
  本年もどうぞよろしくお願いいたします。

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