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2013年1月

大阪体罰自殺事件とその影響(3) ポピュリズム政治の限界と生徒による記者会見の怪

大阪体罰自殺事件とその影響(3) ポピュリズム政治の限界と生徒による記者会見の怪

 今週は大阪の体罰自殺事件に関してブログを行っている。三部作にすることを一番初めに書いているが、今日は「生徒の行った記者会見」と言うことである。
 大阪の事件に関して、まず体罰そのものの問題はさておいて、派生した橋下市長の入試中止要請の問題が出てきた。木の葉視した市長の対応には各方面から疑問の声が上がったっことは昨日のブログの通りである。実際に、桜宮高校だけで入試を中止しても体罰の事件も何も無くなるわけではないし、当然に、この問題の根本的な解決に近づける問題ではないのである。ではなぜ行ったのか。あえて橋下市長を擁護するならば「一罰百戒」であろう。しかし、実際に他の高校や中学などでの体罰事件の調査も無く、単純に事件が発生しただけで一罰百戒を主張しても何にもならないのはいうまでも無い。
 さて、入試中止ということに関しては、もっとも過敏に反応したのは、桜宮高校そのものである。いや、高校の生徒たちまたはこれから桜宮高校を受験しようとしている生徒たちであろう。その子供たちを心配する声は当然に上がっていた。
 その声にこたえるように、桜宮高校で、運動部主将を勤めた3年生8人が記者会見して入試中止反対を訴えたのだ。もちろん、顔は写さない映像が流れたが、声は変えておらず、地元の人や関係屋は誰が会見を行ったかはわかってしまう構造である。
 そもそも未成年をテレビカメラの前に出させて橋下市長の話に対抗させると言うのは、あまりにもおかしな話としか言いようが無い。現役の高校生とこれから受験する受験生は被害者であることは間違いが無いが、実際に、その会見が何を意味しているのかは理解できない状態ではないのか。
 逆に、この記事のように「誰かがやらせた」としか考えられず、結局、その内容に関して逆効果になってしまった。結果として、これは報道されているが、教育委員会などは入試中止を受け入れ、橋下市長の意向がすべて通る結末を見ることになったのである。しかし、その原因となるこの会見は一体どのような意味を持つのであろうか。

尾木ママ怒り心頭!「誰がこんなことやらせたんだ」 桜宮高生徒が記者会見

 「誰がやらせたのか。とんでもない。こんな記者会見やらせるべきでない」
 いつもはニコニコしている教育評論家の尾木直樹が珍しく顔を真っ赤にして怒った。体育系2学科の入試中止が決まった大阪市立桜宮高校で、運動部主将を勤めた3年生8人が記者会見して入試中止反対を訴えたのだ。
 運動部の主将つとめた8人並べて「入試中止に反対」
 大阪市教育委員会が決めたのは、今春(2013年)の体育科(80人)とスポーツ健康科学科(40人)の入試を中止し、同じ定員を普通科に振り替えて募集をするという内容だった。主張が通った橋下大阪市長は「教育委員会が教育的な視点で素晴らしい決定をして下さったと思う」と高く評価した。
 ところが、市長会見の直前に運動部の主将を務めた8人の生徒が市役所内で記者会見を開き、入試中止の決定に反対を表明した。「なぜ高校生の私たちがこんなにもつらい思いをしないといけないのかわかりません」「体育科をなくしたからといって、クラブ活動のなかで体罰がなくなるとか、そういうことにつながらないと思う」「いま1つしかない一瞬のことを全部潰されているようにしか思えない」
 学校側や一部保護者の入れ知恵か
 これでは学校側は体罰自殺をどう反省し、生徒に教えてきたのか疑問を感じる。このVTRを見ていた尾木は「これが生徒のすべての声とは受け止められない。なぜこんな会見をやらせたのか。誰がやらせたのか。とんでもない。(会見をやるなら)生徒会長や部長が出るとか、生徒会長名で声明を出すべきです」と怒った。
 その背景として、尾木はこうも付け加えた。「この学校は体育科がメインで、強くなければいけない使命を背負っている。進学重点校の体育版です。橋下市長はそれがゆがんで出てきたと捉えた。校長の言うことを聞かない。校長の権限が及ばず、私物化されている。これは高校教育全体の構造で、全国の高校が自己点検すべき中身が含まれているんです。桜宮高は設置のあり方を見直し変えていく第一歩です」
 コメンテーターの館野晴彦(月刊『ゲーテ』編集長)「市教委にそれが期待できますか」
 尾木「(いじめによる生徒の自殺のあった)大津市教委よりはましです」
 生徒が入試中止を受け入れがたいと考えるのは、ある意味では当然かもしれないが、それを訴えるのが記者会見というのは自分たちの判断なのか。高校生がメディアを集めてアピールするというのはどこか不自然じゃないか。学校側や一部保護者の入れ知恵なのか。

J-CASTテレビウォッチ2013年01月22日15時33分
http://news.livedoor.com/article/detail/7338048/

橋下氏「批判受けても…」、募集中止で見解公表

 橋下徹大阪市長は22日、桜宮高体育系2科の募集中止に関する自らの見解を市ホームページで公表した。主な内容は次の通り。
 入試を止めるなんて市長の越権行為だ、横暴だとも批判されています。在校生や受験生、保護者には本当に申し訳ないと思っています。
 桜宮高校で直接聞いた生徒の訴えには、心に響くものがありました。学校を愛する彼らを否定するつもりは全くありません。しかし、桜宮高校は越えてはならない一線を越えてしまったことも事実です。暴力的な指導を生んだこれまでの流れを一度断ち切ることこそが学校再生につながります。
 現時点では実態の解明すらできていません。子どもたちを安心して迎え入れる体制にはないのです。このような下で入試を行うことは教育行政として許されないはずです。
 混乱を甘受してでも、批判を受けても、学校そのものを一から立て直すために、必要なことはやらねばなりません。

2013年1月22日(火)23時44分配信 読売新聞
http://news.nifty.com/cs/domestic/societydetail/yomiuri-20130122-01547/1.htm

 そもそも、被害者に対する意識と言うのは、「判官贔屓」という日本人的な感覚があり、権力者に対する反発意識があると言うことから、その内容が出てくるようになってしまうのである。
 さて、あえてここで「被害者」と言う単語を使ったが、さて、この問題の加害者と被害者は一体誰なのか。
 そもそもは、体罰をした教師が「加害者」で、自殺に追い込まれた生徒が「被害者」であった。対立の構造はクラブ活動か体育科の中における教師と生徒の関係がその中心にあり、教師の権力がそのまま大きくなることによって、抵抗できない生徒たち、特に、体育かとして体育で活躍する選手を育て、体育科の推薦で大学に進学できるような人を育てると言うその方針に沿った子供たちが暴力によって虐げられると言う建前が存在するはずであった。
 しかし、途中から橋下市長が出てきて「入試中止」を宣言することによって大阪市の予算を管理執行する市長と桜宮高校の教師と言う対立が出てきた。当然に市立高校において市の予算が執行されなければ学校の運営はできないのである。これは、抵抗できない状態であり、その意思決定において高校は市に対して対抗の手段がない(選挙で議員や市長を変えるしかないが、それまで予算がこないのでは結局手段が無いのと同じである)。と言うことは、当然に、それに従わざるを得ない。しかし体育科の入試を中止するということは、生徒たちの後輩が来ないということに他ならないし、また、これから受験しようとする子供たちにも多大な影響を及ぼすことになるのである。
 その「多大な影響」から、本来は対立の構図に出ていない「生徒」と「市長」と言う対立の構造を演出し、その対立の構図から意図的に教師をはずしたのが、この会見の意味合いであると言うことになる。
 そもそもの「体罰をした教師」は損害賠償請求または刑事告訴と言うことになり、法廷の場で争われることになった。しかし、それだけではなく、他の対立の構図を作ってしまったところに、橋下市制の失政が現れている。この連載の冒頭に書いたが、そもそもは死した市長はこの高校の「最高責任者」であり、対立の構造であれば、一番初めの加害者である体罰を行った教師の「管理者」でしかないのである。にもかかわらず、自分が被害者側で制裁を加えると言うのは、いささかおかしな話にしかならない。
 市長の姿勢がそうであるから、逆に、別な対立の構図が出てきて、いつの間にかわけのわからない話になってしまうのである。これでは物事の解決からは帰って遠ざかってしまい、まったく話にならないことになってしまう。
 今回のもんぢあは、教員そのものの体罰の事件と言うよりは、事件そのものの解決に関して根本的に解決する場合の話を中心に行ってきた。しかし、実際にポピュリズム政治では、物事の根本的解決にはつながらないと言うことのもっともわかりやすい例が出てきたのではないかと考える。単純にいえば、政治が自分の責任で政治を行うことができず、その政治が、ポピュリズムで動いている場合は、本来の対立の構図がゆがめられ、市民と学校と言う不思議な対立の構図が出来上がり、本来管理責任がある市長が市民の代表になって物事を話をする。責任者不在の話が出てきてしまう。まさに民主党政権の「政治主導」と同じ形が生まれてきてしまうのではないか。
 今回のこの問題を、個別の問題ではなく、一つ一つの点をすべてつなげて、しっかりと英字と教育を見てゆかなければならないのではないか。

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大阪体罰自殺事件とその影響(2) 橋下市長の対応は隠蔽体質を助長する批判のための批判ではないのか

大阪体罰自殺事件とその影響(2) 橋下市長の対応は隠蔽体質を助長する批判のための批判ではないのか

 昨日もこの問題を考えたが、この問題に関しては論点が三つ存在する問うことを記載した。ひとつは「体罰の定義」二つ目が「この問題に関する橋下市長の対応」そして三つ目が「生徒が行った記者会見」である。昨日は大別の定義として、体罰そのものの行為よりもその体罰以前以後のコミュニケーション能力と、もうひとつは、体罰を行うことの理由の問題ではないかと言うことを考えている。暴力に訴えることそのものの問題点と、一方で、体力が上がってくる学生の体力と精神のアンバランスの問題などもあれば、当然に何らかの対処が必要なのではないか。
 さて、この桜宮高校の問題は、実際は、その問題そのもの以上に橋下市長の対応がマスコミで注目を集めたのである。
 さて、なぜ橋下市長が注目を集めたのか。単純にいえば、「市立高校」の最高責任者は市長である。当たり前だ。実際に、今回このような事件が発生した場合も、その事件の少なくとも管理責任は橋下市長にあるはずである。大津のいじめ事件でも採集駅人は越市長が会見をした。しかし、橋下市長の場合は、自分の責任を認めるどころか、今回のもんぢあに関して「桜宮高校入試中止・部活停止」ということをいい始めたのである。
 そして、最終的にそれが決定されたと言うことに他ならない。これはこれからこの高校に入試を希望している子供たちや、この学校に現在在学している人の問題が発生するばかりか、その市立高校の責任を他に転化しているとしか言いようがないのではないか。
 そして、その会見のときの過激な物言いは、自殺した生徒の遺族の気持ちなどはまったく考慮しない内容でしかない。そもそも、私のようにテレビでその画像だけを見ている人にとっては「体罰をした高校の教師よりも、橋下市長の物言いのほうが暴力的に感じる」という感覚が存在するのである。
 同時に暴力はないにしても、予算を渡さないなど、権力をちらつかせて自分の言うことを聞かせるその手法は、まさに、権力をかさに来た「パワーハラスメント」でしかなく、この対応に関しては非常に非難が多く出ているのではないか。
 昨日も同じ記事を掲載したのであるが、その批判をしているテレビ番組のレポートを掲載する。

橋下市長の「桜宮高校入試中止・部活停止」生徒や受験生に責任押しつけるな!

    大阪市の市立高校で生徒が自殺し、その大きな要因が教師の体罰やパワハラだったと見られる問題で、橋下大阪市長が例のごとくエクストリームな改革案を発表した。「とくダネ!」によれば、部活動の活動停止、教員の総入れ替え、体育科の入試中止といった内容を含むそうである。
   橋下の考えでは、人の命が失われたことはまことに重大で、この学校は本来廃校にも値する。これまでの学校のあり方を一度すべて断ち切って変える必要があり、それなくして体育科にあらたな生徒を迎え入れることなどはできない。ツイッターでも「桜宮高校に求める生徒や保護者の期待の在り方も問題だった」とも呟いている。
先生がやったことで生徒が不利益おかしい
   「とくダネ!」のスタジオでは、橋下の考え方は滅多に見られないほどの大反発を招いた。出演者の発言を総じて見ると、悪いのは体罰や体罰教師であり、在校生や受験生には責任がなく、彼らに入試中止や部活中止などの不利益、あるいは「罰」を与えるのは筋違いだといったことである。
「(部活停止について)先生がやったことで、なんで生徒が被害被らなければいけないんだ」(司会の小倉智昭)
「関係ない受験生も不利益を被るのは、連帯責任という発想で、体罰に近い感じがして嫌だ」(古市憲寿・慶応大学院生)
「市長の判断は個人的には考えられない。生徒や家庭のあり方にも問題があったと言うが、受験する側に反省を求めないでほしい。(受験生側の判断で)受験をやめる人が続出するならわかるが、教員を全部代えるとまで(抜本的な改革を)と言っていて、さらに受験を中止する必要性がわからない」「生徒を受け入れ、部活をやりながら学校を変えていく作業をしたほうがいい」(中3の子供がいる笠井信輔アナ)

2013/1/17 13:36 j-cast
http://www.j-cast.com/tv/2013/01/17161550.html

 橋下市長の政治手法は、ポピュリズム的な意見に対して、その意見のもっとも過激な部分を発言し、徐々に譲歩すると言うような形になる。この譲歩の際にさまざまな責任転嫁を行い、その責任転嫁の中において、政治的な信条がぶれてゆくと言う手法である。ちなみにいうと、菅直人元首相も同じ批判手法であり、そのことが過ぎれば、自分のことを棚にあげて批判をしてし合うために「ブーメラン」が明らかになってしまうのである。
 この批判手法は、そもそも政治的な内容は一切なく、その政治的な部分を完全に無視して批判を行うような名要になってしまう。まさに「批判のための批判」の手法であり、もっとも政治的には軽蔑されるものである。
 橋下市長の一連の発言に関してこのようにいうのは、そもそも橋下市長は「体罰奨励」をしていたのである。上記にも示したように、市立高校の最高責任者が体罰を奨励すれば、その体罰の定義がしっかりとしていないのに、それをおおなっただけで、誤解が生じそしてその内容を実行すする教師がいてもおかしくないのである。体罰そのものを肯定する発言の内容の説明もせずに、単純に「批判のための批判」を繰り返し、その上予算と言う抵抗できない権力で言うことを聞かせると言うのは、まさに、旧東側諸国の独裁者の手法でしかなく、また、同時に、昨日記載した「体罰」の定義のそのままではないのかと考えるのである。
 要するに、普段のコミュニケーションもない、また、権力を使った暴力、そして、その処罰に対する納得する説明もない。当然にその罰に関するコンセンサスも、関係者の共通の認識もない。もちろん共通の認識がないことが生徒たちの記者会見という三つ目の論点につながることになるのではないか。そもそも、市立高校の最高責任者がこれでは、その下の教育の現場だけでなく、大阪市の政治も、そして、大阪市の政治だけでなく、橋下市長が代表を務める維新の会の政治も、まったく同じ内容になってしまうのではないかと想定してしまうのである。
 本来、体罰のような教育現場の微妙な問題であり、自殺者を出しているような微妙な問題である。もちろん、その内容は当然にこの桜宮高校だけの問題ではないのである。そして、この桜宮高校だけを処分しても意味がないし、その処分に公の考え方がなければ、当然に根本的な考え方にはならないのではないか。最高責任者が少なくとも大阪市立の中だけでも、問題の根本的な解決を行わなければ、話にならないと言うのが現状であり、再発防止にもならない。そもそも、教師の世界が閉鎖的であることから、今回と同じような隠蔽体質がより一層巧妙化するだけであり、生徒を護るどころか帰って危険な環境の中に入れてしまうことになるばかりか、その生徒を巧妙に追い込むことになってしまうのである。
 政治というのは、このようにその対処方法で、最大の問題になるのである。そして、市立などの場合は、当然に、その最高責任者は政治である。その責任者が、そもそも体罰の問題のことの本質を理解せず、場当たり的な過激な「批判のための批判」の手法を行うのであれば、大阪市において教育の問題の根本的な解決は程遠いし、また、その問題に近い問題の他の学校での隠蔽体質を助長するだけになってしまうのではないか。そのために、この問題をいかに考えるのかは、この、橋下市長の対処で何とかなるとは思えないのである。もちろん、代わりの解決方法があるわけではない。しかし、批判のための批判で解決する問題ではないのである。
 政治の対応に関しては、何がひつ世なのか。このような教育の問題に関して何を考えなければならないか。それを見なければならないと考えられるのである。

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大阪体罰自殺事件とその影響(1) 大阪「体罰暴行」自殺に関する「暴行」と「体罰」の境界線

大阪体罰自殺事件とその影響(1) 大阪「体罰暴行」自殺に関する「暴行」と「体罰」の境界線

 少し前の話になるが、大阪桜の実や孝行のスポーツ課で、教師がスポーツ部において体罰を行い、その体罰を国生徒が自殺をしたという事件があった。
 そもそもこの事件は「体罰」なのか「単純暴行」なのか、と言うことが最大の問題であり、教師が生徒に対して腕力で罰を加えることはすべて「体罰」なのか、そうではなく、教師から生徒に対する「暴行」と言うことがありうるのかと言うことを考えなければならないのではないか。そこの境界線は一体何なのか問うことからこの事件を見て生きたと思う。全てがすべて「体罰」で考えてよいのか。かなり疑問がある。
 さて、私が学生時代も「体罰」はあった。小学校の頃も、中学や高校に入ってからも体罰は当然に存在した。私があえて「体罰」として「暴行」としないのは、そのように考える根拠と言うか、しっかりとした考え方がある。
 まず、体罰を行った教師と、体罰を受けた生徒の人間関係がしっかりとできていたということである。普段は、笑顔で話し、ややもすれば馬鹿話も、また中学高校の時は男子校であったことから「エロ話」までもするような関係であり、その関係があることから、体罰はそんなに強い暴力ではなかった。その教師は、突然に教師と生徒の関係になり、そして怒っていたと考える。そして、その罰が終わった後には元の関係の戻ると言う感覚になるのである。そもそも、この「人間関係がある」と言うことが最大のポイントである。
 もうひとつは、われわれが体罰を受けるとき、その体罰がなぜけるのか、口頭の注意ではだめな程度の罰なのか、または、体罰を受けなければならない状態なのか、など、その内容がわかっていたのではないか。また教師は必ずそのことをわからせてから「体罰」を行っていた。
 要するに、「普段の人間関係」と「体罰を受ける意味」の二つがしっかりとして異端dえ、体罰を受ける側がしっかりと体罰を受け入れていたのではないか。そのようなことがしっかりとしていたので、当時の体罰は体罰であると言うことが甘利問題にはならなかった。少なくとも、われわれの学生時代には、体罰が社会問題化することはほとんどなく、社会問題化したのも今で言うモンスターペアレンツががたがた大騒ぎしたときと、日教組の影響しかなかったのではないかと考える。
 さて、今回の事件、そのような「普段の人間関係」があったのか。実際に「あったつもり」であって、そのような関係がしっかりとしていないことが最大の問題になっているのではないか。
 まずその事件に関することを少し考えてみたい。

橋下市長の「桜宮高校入試中止・部活停止」生徒や受験生に責任押しつけるな!

    大阪市の市立高校で生徒が自殺し、その大きな要因が教師の体罰やパワハラだったと見られる問題で、橋下大阪市長が例のごとくエクストリームな改革案を発表した。「とくダネ!」によれば、部活動の活動停止、教員の総入れ替え、体育科の入試中止といった内容を含むそうである。
   橋下の考えでは、人の命が失われたことはまことに重大で、この学校は本来廃校にも値する。これまでの学校のあり方を一度すべて断ち切って変える必要があり、それなくして体育科にあらたな生徒を迎え入れることなどはできない。ツイッターでも「桜宮高校に求める生徒や保護者の期待の在り方も問題だった」とも呟いている。
先生がやったことで生徒が不利益おかしい
   「とくダネ!」のスタジオでは、橋下の考え方は滅多に見られないほどの大反発を招いた。出演者の発言を総じて見ると、悪いのは体罰や体罰教師であり、在校生や受験生には責任がなく、彼らに入試中止や部活中止などの不利益、あるいは「罰」を与えるのは筋違いだといったことである。
「(部活停止について)先生がやったことで、なんで生徒が被害被らなければいけないんだ」(司会の小倉智昭)
「関係ない受験生も不利益を被るのは、連帯責任という発想で、体罰に近い感じがして嫌だ」(古市憲寿・慶応大学院生)
「市長の判断は個人的には考えられない。生徒や家庭のあり方にも問題があったと言うが、受験する側に反省を求めないでほしい。(受験生側の判断で)受験をやめる人が続出するならわかるが、教員を全部代えるとまで(抜本的な改革を)と言っていて、さらに受験を中止する必要性がわからない」「生徒を受け入れ、部活をやりながら学校を変えていく作業をしたほうがいい」(中3の子供がいる笠井信輔アナ)

2013/1/17 13:36 j-cast
http://www.j-cast.com/tv/2013/01/17161550.html

 今週は、ながなかひとつの事件を一週間やるつもりはないのであるが、それでも、音階のこの体罰問題でも「体罰の定義」「橋下市長の対応」「生徒の記者会見についての問題」の三つの論点を考えなければならない。本当は昨日国会が開会しているので、そのことを書きたいので、他の内容をしっかりと見ようと思うのであるが、そこまで長く引っ張るつもりはない。
 その上で、今回の問題は、まず体罰とは何かと言うことをしっかりと考え、そして、今回の問題がなぜ起きたのかということを考えなければならないのではないかと思うのである。体罰があることが体に教えこませると言うことで指導をあるものと、一方で、それ以上、要するに教師のストレス発散などとして行うのか。また、ある程度の暴力を使わないで不良などを指導できるのか、またはスポーツを強くすることができるのか。一方で、そうではなく、口頭だけで話をして強いチームを作ることができると思っているのであろうか。
 私自身は、この桜宮高校の内情を知っているわけではないし、そのような特別な情報がるわけではない。しかし、当然に教育を受けてきており、その教育の中において自分の経験が存在する。そして、私たちが体罰として問題にならなかった部分が現在になって問題になる可能性があるのではないか。
 その上で、ひとつは「教師側」の問題点があるし、もうひとつには「生徒側」が私たちとは違ってきて、体罰などに過敏に反応するのではないか。同時に、「保護者」などの問題もあるのではないか。
 単純に教師側の問題点から、その認識が変わったから、体罰に関してもまったくおかしな内容になってしまっているのではないか。もちろん、戦前は体罰などは日常であったと言うし、私たちのときも上記のように体罰は存在しているのである。しかし、教師側は、それらの経験があるのか。そもそも、その体罰に理由があるのか、その理由が生徒側も保護者側も納得できるものなのか。そもそも体罰をしなければならないことなのか。そのことをしっかりと考えるべきではないのか。そして、それらの中には教育勅語で言うところの「義勇公に奉じ」という「公」ここでいえば学校全体や学校を含む社会全体のために、その生徒が、そしてその教師が、そして保護者がどのように考えるのか。自分個人のことを考えるのではなく、全体のことを考えてその中の罰の意味が、これは体罰そのものだけでなく、口頭の注意を含めてしっかりと話をすればよいのではないか。
 実際に考えれば、この全体に対する義務感とその中の個人の役割、そして体罰を受ける理由がしっかりと共通の認識があれば、体罰そのものもないであろうし、体罰において問題となることもないのかもしれない。
 逆に、これらの理由なき暴力は、教師が生徒に対するものであっても単純に体罰ではなく暴行なのではないか。そのようなしっかりとした定義とその区別をして、それに対して問題を考えなければならないのではないか。そして、それらは簡単に言えば、普段からのコミュニケーションが取れているか、そして共通の認識が持てているかということではないのかと考えるのである。
 再度いうが、私は教育現場の人間でもないし、教育の専門家でもない。同時に、今回の事件の内情に詳しいわけではない。その上の一般の意見として、まずこのように思うのである。

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マスコミ批判に関する一考(127) 知る権利の濫用をしている内閣記者会の朝日新聞

マスコミ批判に関する一考(127) 知る権利の濫用をしている内閣記者会の朝日新聞

 先週はすべてアルジェリアのことに関してまとめた。イスラム教に関する内容はイスラム教徒が日本人に対してどのように見ているかなどを、少し触れていたので、その内容に関しては、反響が大きかったように思う。もちろん、イスラム教関係者に対する電話インタビューではもっとさまざまなことを聞いているのであるが、実際に、それをすべて書くこともできないし、そのインタビュー相手個人の意見などはなるべく避けて書いたつもりである。それでも、今までマスコミで語られていた事件の真相と違う部分が非常に多くあったのではないか。もちろん、このような内容は知り合いの人々にはお話しているので、そのうちにつたわることもあるのかもしれない。
 さて、今回の事件のようなときに、被害者・犠牲者の氏名の公表についてどのようにするかは、マスコミの間でもかなり悩むところである。
 基本的には、犠牲者の遺族が犠牲者を本人と確認するまでの期間は、名前などを公表しないのが「通例」である。あえて通例と書いたのは、基本的にこの部分に関してはルールは存在しない。また、当然に犠牲になった内容に関してもさまざまな内容があるので、なんともいえない部分なのである。
 犠牲になった原因が自然災害や飛行機事故の場合、そもそも「行方不明者」として名前が明らかになってしまう。これは、捜索の最中に生存を確認できる場合があるので、そのときに名前を確認しやすくすると言うことが目的である。実際にはテロであっても9・11の場合もそのような状態が使われた。基本的に瓦礫に埋まっている人の名前を呼ぶことによって、その行方不明者が勇気付けられると言うことを考えられたものである。
 一方、テロ、戦争など「人為的故意によって犠牲になった人」の場合は、そのような捜索の必要がない。いや必要がないのではなく、捜索の必要はあっても、人為的に「殺されて」いるわけであるから、事故や大規模なテロなどによる犠牲者とは違う。同時に、同じ環境にありながら犠牲にならなかった人がいる場合は、同じ環境にいながら生き残った人と犠牲になった人の差が出てしまう。そのために、「通例」として、遺族の確認が出てから氏名を公表することになっているのである。何しろテロ事件、特に人質事件の場合は、そこに一般人が捜索に行くということがないのであるから、捜索のことを考えたないようにする必要はないのである。当然に後は遺族のことを考えて行うべきではないのか。
 そもそも、遺族が遺体を確認していないのに香典やお悔やみの電報などが届けられてては、遺族に対して残酷すぎるであろう。一方、事件の国民的関心が非常に大きなところを考えれば、当然に、その内容が永久に使命の公表をしないと言うのも難しいであろうし、社葬など合同葬を行えば、そのときに明らかになってしまう。
 基本的にはこのような「通例」があるのであるが、内閣記者クラブ、特に朝日新聞は、そのような通例もなく、そして、遺族への配慮もなく、その内容を公表してしまったと言うことである。もちろん、その時点では遺族が犠牲者に面会していない状態である。

人質テロの犠牲者氏名公表求めた内閣記者クラブに批判殺到

 プラント大手「日揮」の日本人社員7人の死亡が確認されたアルジェリア人質事件。内閣記者会が事件の犠牲者7人の氏名公表を政府に申し入れたことを巡り、マスコミへの批判が相次いでいる。
 遺族への配慮など理由に公表を避けた政府に対し、記者会側の申し入れの根拠は「国民の関心の高さ」などだ。多くのネットユーザーからは「遺族宅に押し寄せて人権侵害するつもりなのか」「実名にこだわる意味が分からない」と厳しく突っ込まれている。
■「遺族へのいたわりはマスコミにないのか」
 アルジェリア人質事件に関して政府は2013年1月16日の発生以来、無事が確認された「日揮」の社員や、21日に死亡確認された7人について氏名など一切を公表していない。菅官房長官は「ご家族は大変悲しみ動揺しており、日揮と相談して氏名の公表は避けて欲しいということだった」と述べている。
 国は05年に閣議決定した「犯罪被害者等基本計画」を機に、事件被害者を実名・匿名のどちらで発表するかについて警察側に委ねている。近年は匿名発表のケースも増えており、政府は人質事件について遺族感情を優先させて身元情報を伏せてきた。
 これに対し、内閣記者会は1月22日、首相と官房長官宛に7人の氏名や年齢の公表を求める申入書を提出した。同会は首相や官房長官を中心とする首相官邸の動きを主な取材対象とし、全国紙やブロック紙、各テレビ局が加盟する記者クラブの一つである。
 その内閣記者会は公表を求める理由として?事件への国民の関心が高いこと?政府が公的に安否確認を行っていること?政府が情報収集、救出、帰国支援に全面的に関与していること――を挙げている。加えて2004年4月と10月にイラクで起きた人質事件の際、当時の政府は日本人被害者の名前を公表している、と指摘した。
 ところが、記者会側の思惑とは異なり、大いに反発を買っているのだ。政府に犠牲者情報の公開を要求した――というニュースが流れると、ネット上には、「遺族を晒しものにしてお涙頂戴記事を書きたいだけだろ」「遺族へのいたわりとか、節度というものはマスコミにないのか」「国民の関心が高いとかは余計なお世話。実名が必要な意味が分からない」といった意見が多く寄せられた。
 また、「政府の発表に頼らず、自社の責任で取材して遺族の了解とって実名報道すればいい」「メディアは本当に報道被害対策をどうにかしろ。放置したままだから、『情報非公開』の言い訳が説得力を持ってしまう」などのコメントもあった。
 この問題を巡っては、毎日新聞のベテラン記者のツイートにも批判や反論が殺到した。
  「亡くなった方のお名前は発表すべきだ。それが何よりの弔いになる。人が人として生きた証しはその名前にある。人生の重さとプライバシーを勘違いしてはいけない」
 こうした記者のつぶやきに対し、リプライの多くは「こういう報道の方針が一日も早く改まりますように」「実名じゃないと弔いにならないのか。勝手な理屈、勘違いとしか思えない」「ご遺族がいやならそっとしてあげてほしい。そもそも伝える側が判断することなのか?」といった内容だった。
「身元不明では問題を検証できない」
 極めて少ないながらも、ネット上にも内閣記者会側の姿勢を擁護する意見はある。「亡くなった人がどんな人でどんな思いで仕事をしていたのか、多くの人に知ってほしいと思う遺族もいるはずだと思うけど」などの声が寄せられている。
 メディア研究の専門家にも公表すべきだという意見は多いようだ。1月23日付産経新聞朝刊では上智大の田島泰彦教授(メディア法)が、
  「遺族への配慮は大事だが、(中略)身元が分からなければ、会社や政府の対応に問題がなかったかを検証することもできない。この先もずっと名前を出さないという対応には疑問が残る」
と主張している。
 毎日新聞の同日付夕刊では報道・人権問題に詳しいとされる田中早苗弁護士が
  「日本中が注目している事件であり、親族のほかにも心配している人はいる。政府はよほどの事情がない限り氏名を公表すべきだと思う」
と述べ
 青山学院大の大石泰彦教授(メディア倫理法制)は
  「遺族の意向は尊重すべき」
として生存者に限定した公表を求めた上で、
  「現場で何が起きたのか。政府や会社は対策を講じていたのか。それは生存者にしか語れない」
と話している。
 毎日新聞によると、人質事件に関してイギリスでは、イギリス人の死亡者の遺族が国を通じて実名でコメントを発表している。フィリピンでは、フィリピン人の生存者が報道機関の取材に写真付きで実名で答えているという。

J-CASTニュース 1月23日(水)19時19分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130123-00000004-jct-soci&p=2

 単純に「遺族感情」とマスコミの「知る権利」の問題である。しかし、そもそも「誰が死んだのか」と言うことは「知る権利」なのか?と言う疑問が生じる。
 今回の人質事件に関して、その事件の真相を知ることと言うのは重要かもしれない。もちろん、そのような現場に行く人にとっては、明日はわが身かもしれない状態であるから非常に大きな関心事であるし、当然に、本人が行かなくても親族がそのような立場にある場合は、事件が他人事ではないであろう。
 事件の真相を知ると言うことは、二つの目的があるはずで、ひとつはその原因を追究し、その問題の責任を追及するということである。もうひとつに関しては、再発防止と次の安全対策に対する備えと言う問題であって、その事件そのものに関する資料はそのことが最も重要な内容になるのではないか。そして、逆に言えばそれ以上の情報は、ある意味「興味」でしかなく、また、「野次馬根性」でしかない。もちろん、上記産経新聞の上智大の田島泰彦教授(メディア法)や毎日新聞の同日付夕刊では報道・人権問題に詳しいとされる田中早苗弁護士が主張していることも理解できないではないのであるが、しかし、その使命を知ることが、真相解明の何につながるのか、たとえば「日本人A」とか「甲・乙・丙」、または仮名を使うことで報道を行って、それで真相解明ができないという理論がまったくわからないものである。
 特に、上記に少し書いたが、そもそも遺族が遺体を確認していない状態で、政府や他の人が氏名を発表するとしても、「信じられない」「受け入れられない」となるのが本当の姿ではないのか。そのことをまったく考慮しない「知る権利の濫用」は許されるのか。
 本来、今まで通例とされているものの制度化は必要であると思うし、また、政府が発表していない内容に関して、そそれを公表すると言うことは、オフレコ会見などはまったく守られないということを「朝日新聞」は自ら示した形になっている。当然に、官邸はオフレコ会見をしてはいけないし、そもそも内閣記者クラブに対して取材制限を行う必要があるものと考えられるのである。
 今回の事件は、マスコミがわかりやすく「知る権利」を「濫用した」例であるといえる。そのために、このようなインターネット上で問題になっている。取材しやすいとかそのようなものではなく、本当に報道しなければならないことが何かがわかっていないと言うこと。氏名の公表が、事件の解明につながり再発防止につながると考えていること事態に大きな問題があるのではないか。
 マスコミへの監視はまだまだ必要である。

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保守的解釈による日本国憲法講義私案 第15回 日本人の神々対する考え方

保守的解釈による日本国憲法講義私案
第15回 日本人の神々対する考え方

 国体に関してさまざまなことを書いていた。
  そもそも国体に関して書いてきたのは、「憲法を変えることによって国体が変わらないのか」という疑問にあたったことによるものである。しかし、ここまで見てきたように、国体は、そもそも日本人尾の者が日本人として持ち続けているものである。同時に、その感覚は神武天皇以降の神話そして日本の歴史に彩られたものである。有職故実や伝統に関していえば、当然にそれらの継承をやめてしまえば、その内容がうまくいかなくなってしまうのである。しかし、日本人が日本人であり続けることに関しては、その内容はまったく変わることはない。日本人が日本人としてその姿を時代や環境に合わせて変わることはあるかもしれない。しかし、日本人が自分たちで作った法律によって、日本が失われるものではないのである。
  日本の国体そのものが神話からはじまった歴史によって形作られ、同時にその内容が見えてくるということになってる。当然に、それを象徴するというか、そのことを誰もがこれこそ日本だと思う人が天皇陛下であり皇室である。
  天皇陛下は、生き神様であるとされている。生き神様であるというのは、その神様そのものは継続するが、その神様が宿る肉体は、生きている人間と同じであると言う感覚を持っている。実際のところ、日本人はその多くはその同じ感覚を持っていると言えるのではないか。日本人が同じ感覚を持っているのと言うのは、まさに、日本人は誰もが、そしてすべての物事に神が宿っていると言う感覚を持っている。日本人が感覚的にキリスト教やイスラム教などの一神教に馴染めないのは、まさにその部分なのかもしれない。日本人は、キリスト教の教義や戒律などは全て理解するし共感もするが、どうしても、日本人は「死んだら仏様になる」とか、「米の中には七人の神様が住んでいる」などの内容を信じているし、そのような中で生活をしているということができるのではないか。その感覚と、唯一絶対の神がいると言うことを両立させること墓あり難しいと言える。
  日本の場合は、日本人一人ひとりの中に神が宿っている。もちろん、その神の中に優劣があり、その神々は神無月に出雲大社に集まって一年のことを話し合うらしい。日本人の神様の中において、その神様の中にある程度の序列があるとされているのである。
  さて、私が若かった頃、民俗学の新谷尚紀先生の書いた「ケガレからカミへ」という内容の本の抗議を受けたことがある。新谷先生は、現在でも時々テレビなどに出てくる先生で、なかなか面白いアクセスで日本というものを見てくる人であった。その人が日本の「神様」の本質を書いた本が「ケガレからカミへ」と言う本である。
  その根拠などは本に譲るが、基本的にエッセンスだけを書けば、日本人は神社に言って自分のケガレを出してくるというのである。そのようにいわれれば、われわれは、神社でお賽銭を挙げる時に、それを投げるのである。お賽銭箱の中に落としたり、あるいは初詣のときなどは遠くに投げて捨ててしまう。基本的に、神にささげるものではない。当然にお払いをするわけである。要するに、日本人は、神社に言ってその自分のケガレを神社に払ってもらい、そもそもの「ニュートラルな自分」に戻ると言うことになる。自分に戻れば、自分に宿っている神々がその力を発揮し、そして自分の念願が自分の枠の中でかなうと言うことになるのである。
  この考え方も、まさに、日本人特有の考え方であり、日本人がその中において日本人の神が宿っていると言うことが基本の考え方にある。その中において、日本人はケガレや邪心が就いてしまっているので日本人に宿ってる神々が力を発揮できないことによって甘利良い結果にならないと言うことになるのではないか。
  そのような考え方ができるのが、まさに日本人の内容なのである。逆に言えば、神社と言うのは、日本人のその地域のケガレの巨大な掃除機であり、万人のケガレを取る装置である。日本人は神社に言ってケガレを出すことによって、本来の力を発揮できる。神々は、その日本人の力を発揮させるために、人間から預かったケガレを浄化する装置となっているのである。それだけに、日本の神々は清潔を非常に強く望む。神々の住む場所、まさに「榊」「注連縄」で囲われた場所は神聖な場所として清められる。そのような場所で不浄なことをすれば、かえって神々にたたられると言う。もちろん、そのような場所で不浄なことをすれば、当然に不浄なことをすれば、その不浄なことが集中してしまう。神々がそのケガレの集積機能を失ってしまえば、その地域だけでなくその不浄なことをした人にケガレが集中してしまうことになるのである。
  このような感じが日本人である。
  その日本人神々のトップと言うか中心にるのが天照大神であり、その天照大神の子孫とされているのが天皇陛下である。天皇陛下は、そのことによって神々の子孫とされている。しかし、感覚的には「天皇陛下の魂が天照大神の子孫」であって、その肉体までがずっと存在すると言うものではない。魂そのものは、古墳の時代要するに奈良時代よりも前から、日本人は肉体と魂は別なものであると言う感覚を持っていたようである。古墳そのものがある意味で王権(地域の豪族としての支配権を含む)の継承の儀式のひとつであると言うことを考えれば、当然に肉体と魂、特に神々は別と言う感覚になるのではないか。
  日本人はそのように自分たちそのものも神が宿っていると考える。日本霊異記には、その肉体を失った神々が「鬼」として阿蘇山のカルデラのあたりで踊っていると言うことを記載している内容も存在する。鬼、霊は、そもそもそのような考え方による内容でしかない。特に現在のようなおどろおどろしい内容の霊の考え方ではないのである。
  さて、今日は日本の神社と神々の内容をこのように書いてみた。
  非常に簡単であり、その内容はあまり詳しくもないし、かなり概略的なものでしかないのである。しかし、その内容は、日本人の「魂」と言うところを語るには十分ではないのか。
  日本の国体を考えるときに、日本人の魂と言うことを無視して書くわけにはいかない。先日までの部分は天皇陛下と国体ということを書いてきて、前回、被支配階級、ようするに天皇陛下と皇族以外と日本人の感覚と言うことでその内容を書いてきた。
  しかし、日本人の魂は、その日本人の魂として存在する。その魂のレベルdえ、肉体が滅んでも魂が存在すると言う感覚が、日本人の「家」「名誉」と言う感覚を生み出すのである。個人主義、自分さえ良ければよいと言う感覚は、まさに「肉体的な」欲求であり、それは「魂的」な欲求にはなっていないということになる。しかし、その内容はまさに日本陣が「死んでしまっても魂は残る」という考え方が根付いているからに他ならないのではないか。
  その魂のことを考えなければ、日本の国体に関して語ることはできない。そこで、本来は憲法に関して考えるのであるが、これから数回は、魂のことに関してみてみたいと思う。

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韓国の韓国における日本依存のビジネスモデルとその政治的崩壊

韓国の韓国における日本依存のビジネスモデルとその政治的崩壊

 韓国経済が危なくなってきている。
 基本として、韓国と言う国家は、日本の技術を入手し、その商品を安く製造し、その上でそのしやすい商品を中国をはじめとした発展途上国に販売すると言うビジネスモデルで設けていた国家である。まあ、あえて技術の入手といっているが、その技術は買っているのか、出資して入手しているのか、技術者を雇用したのか、産業スパイ的に技術を盗んだのか、あるいはそれらを複合的に行っているのかは不明である。いずれにせよ、まともに開発費を負担することなく、またその開発にかんする失敗などの苦労をすることなく、また、その部分の人件費や開発経費をかけることなく、その部分を節約し「おいしいとこどり」をして、その部分を安く提供することでビジネスモデルを成立させていた。
 もちろん開発費のところだけではなく、為替部分もその内容が存在する。ひとつには円高である。いや、逆に言えばウォン安と言うことができるのかもしれない。ウォンが安いことによって、海外への直接投資は、当然に非常に大きな負担になるものの、片方で、輸出企業は非常に大きなメリットになる。少ない外貨で国内的な金銭が大きくなるだけでなく、もっとも大きなライバルである「オリジナル」日本との間における競争力が増すと言うことになる。円高ウォン安の場合、同じ経費であっても為替の差の分、韓国が有利になる。もちろん、何かを輸入するときはその分不利になるのであるが、それは、当然に慶喜が様なる事で吸収すればよいのであるから、その部分は大きな問題になるのである。
 もうひとつは、継続的な新規技術の流入である。当然に新規技術製品と言うのは、一代前や二世代前、または不要な技術を無視すると言うことに関しては、消費者は何も言わない。しかし、何世代も前になると、それはそれで問題である。当然に、便利な機能は最先端をいかなければならない。要するに、韓国のようなビジネスモデルを行うためには、「オリジナル」国家である日本との関係を維持し、日本から最新技術を入手(もちろん上記のように正規、不正規を問わないが)しなければならない。それが継続的に行われるためには、日本における韓国のイメージを浴しておかなければならないのではないか。
 しかし、昨年夏の李明博大統領の行動、そして安倍晋三首相によるアベノミクスでそのビジネスモデルが崩壊しつつあるのである。

日本人観光客激減の韓国 デパートやホテルの売上高など軒並み減少

 デパートやホテルは軒並み売上減少韓国であることを忘れるほど日本語が飛び交っていたソウルの明洞(ミョンドン)から、2012年10月以降、日本人観光客の姿が目に見えて減少している。昨年から日韓関係が冷え込んでいるのに加え、円安ウォン高が進んでいるためだ。これまで日本人観光客によって潤っていたホテル、免税店、デパートなどは大きなダメージを受けているという。
 韓国メディア「アジア経済」によると、ロッテデパートの昨年9-12月の日本人観光客による売上高は、前年同期より15%近く減少した。ロッテ免税店を訪れる日本人観光客数は、2010年は240万人、11年は300万人と大幅に増加していたが、昨年は310万人とプラス10万人止まりとなり鈍化傾向を見せている。
 韓国を訪れる日本人の多くが女性であるため、化粧品業界にもマイナスの影響が出ている。日本人女性に人気のある化粧品ブランド「ネイチャーリパブリック」の場合、2012年上半期の外国人による売上高は日本人が6割を占めていた。しかし下半期になると日本人と中国人の割合が入れ替わり、中国人が6割、日本人が3.5割、その他が0.5割となった。
 ロッテホテルやプラザホテルのような特級クラスのホテルも悲鳴を上げている。ロッテホテルソウルは10-12月の日本人利用客数が前年同期より3割減少し、その影響でホテル全体の外国人利用客数が2割減った。プラザホテルも10月以降、日本人利用客数が平均2-3割ほど少なくなった。
 デパートや免税店、化粧品ブランドなどの場合、日本人観光客の代わりに中国人観光客を獲得すれば売上は維持できるが、特級ホテルの場合は元々中国人の利用率が低く、代替需要が期待できないため影響はより深刻だという。
 一方、円安の影響で日本への旅行商品は人気を集めている。海外旅行専門サイトには、今年に入ってから2週間で日本行き航空券の予約率が前年同期より63%増加した。温泉を訪れる旅行商品も人気で、予約数は急激に伸びているという。
 日本人観光客の急激な減少は、韓国の観光産業に大きな影響を与えている。

韓フルタイム2013年01月20日17時30分
http://news.livedoor.com/article/detail/7331941/

【韓国BBS】日本は停滞中「ソニー>サムスン」の立場が逆転した

 韓国のコミュニティーサイト「eTorrent」の掲示板に「日本は停滞した中にいる」とのスレッドが立てられたところ、さまざまな意見が寄せられた。
 スレ主は、日本について90年代まで本当に越えることはできない壁で遠い存在であり、いまだに国家競争力やブランド力では韓国が押されている部分があるものの、それでも今では韓国はたくさんの分野で追いついたようだと述べた。90年代には「ソニー>サムスン」という感じだったが、今では立場が逆転したと指摘。しかし、これまでの経緯を見ると、現在は「サムスン>華為技術社(中国の通信機器メーカー)」という感じだが、10年や20年後にはまたどうなるか分からないと述べた。
 スレッドには、韓国のネットユーザーからスレ主におおむね同意するとの意見が並んだ。
・「サムスン1社だけを見ればそうですね。私たちはさらに多くの夢を見なければなければならない」・「サムスンは一例であり、映画やドラマなど大衆文化などの側面でも韓国が頭角を表わす面も見えたりもします。とにかく国家地位や経済力でもいろいろな側面で、日本に近づいたようですね」
・「日本は今、後退中なんですよ」
・「日本は依然として先進国で豊かな国だが、以前ほどの力がないのは確か」
 一方、日本の底力を侮ってはいけないとする声も見られた。
・「日本を無視してはいけません。明治維新の時、日本は突然変化し、ドイツやイタリアと世界戦争まで起こした国。絶対無視してはいけない国家です」
・「それでも依然として韓国のGDP×6=日本のGDP、韓国のGNP×2=日本のGNP」
・「サムスンだけが半島の自尊心で、サムスンだけが半島のあらゆることだと考える未開な愚民が朝鮮の大多数。今後絶対に日本を凌駕(りょうが)することはないだろう」
・「80年代末から90年代初め、日本に勢いのある時は、米国もけん制するほど威風堂々としていた。今と比べると想像できないレベル。それでも日本はまだ元気じゃないかな」
・「日本は強い中小企業が多いからね」
 さらに、日韓は同じような道を進んでいるといったコメントや韓国内のことを心配すべきだとするコメントもあった。
・「日本は少子高齢化、今後生まれる世代を担保として捉らえて、生き残っている国。もちろん日本は途方もない経常収支黒字のためにそれが可能なんだけど、韓国は…」・「むしろ、われわれはより深刻な状況…。そして、製造業も考えてみれば日本は源泉となる技術が多くの産業を支えているが、私たちは無に等しい」
・「日本は内需市場も韓国に比べてすごく丈夫で、私たちは日本が停滞している間に韓国を心配しなければいけない」
(編集担当:李信恵・山口幸治)

サーチナ2013年01月18日10時45分
http://news.livedoor.com/article/detail/7326023/

 韓国のビジネスモデルは、日本との関係を維持し日本の技術で韓国が製造し、中国と言う広大な市場に販売すると言うビジネスモデルで行っている。これができるのは、なぜかと言えば、韓国が中国との関係、もっと言えば北朝鮮との戦争中の国家であると言うことがひとつの要因である。
 戦争中であるために、その最前線には、日本の技術にかぎらぜう最先端の技術が多く集まる。その中で、「もう古くなった技術」を廉価で出して相手国に販売しても、それは軍事的な大きな問題になることはない。そのことを最もよくわかっているのは戦争をしている当事国である。そのことをわかった上で最先端の技術国から技術をいれ、その技術を生かして製品の販売をする。軍事のからみがあるからどうしても電気製品になってしまう。サムソンが大きくなってきたのはそのような背景である。サムソンが財閥であるとか韓国経済画などといっている人がいるが、その中における戦争と政治関係、そして中国や北朝鮮と国境を接している地理的な関係を無視することはできない。
 単純に国境を接しているだけではなく、その諜報活動がそのまま営業活動になる。日本のように軍事や情報、諜報活動に関してまったく無知な国民にはまったく何もできなくなってしまうのである。
 しかし、その技術力やその軍事力が、日本に向いたらどのようになるのか。単純に日本の技術力が入らなくなりまた日本との関係も悪化する。それだけでなく、日本の円高ウォン安が崩れ貿易そのものも崩れてくるのである。そして、もうひとつウォン安の間日本人観光客で潤っていた国内市場もそれができなくなってしまう。日本人観光客は、単純に言えば韓国国内の富の偏重のを調整していたのが日本人観光客と言うことができるのである。
 これが簡単に崩れてしまう。これは李明博大統領の「日本なんかいなくても大丈夫」という勘違い、というか、韓国の保守勢力の排他的愛国心と、日本の経済対策で崩れてしまったと言えるのではないか。そのことを、今まで日本が技術を搾取されていたと言うことを抜きにして、日本のマスコミはしっかりと記載している。本当に日本のマスコミはどこの国のマスコミなのかまったく不明である。
 日韓関係、特にサムソンを中心にした韓国経済に関してはこれからも大きな問題になるものと考えているが、このようなことが基礎になっているということを認識してもらいたいと思う。

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アルジェリア天然ガス施設人質事件(4) 法治国家日本の対応の限界

アルジェリア天然ガス施設人質事件(4) 法治国家日本の対応の限界

 今週は、一週間アルジェリアの天然ガス施設の人質事件に関して書いている。
 (1)では、キリスト教的価値観とイスラム教的価値観の違いと、その価値観が違うと言うことを意識してこれらの内容を考えなければならないと言うことを解説した。日本は当然にアメリカナイズされた日本の言論空間の中にあり、その内容が、キリスト教的な個人主義の中に入っていると言うことを考えている。そのキリスト教的なおじん主義の中に入っている日本の言論空間の中において、「イスラム教」=「悪」と言うレッテルが貼られているのではないか。そのような「変更的な価値観を持って」今回の事件を見ることは、まさに、事件そのものの真実を見誤る可能性があるのではないか。日本の外交そのものがすべてそのような価値観によって彩られており、そして、その保証をアメリカが行っている。アメリカと反対する国家は、同義語で日本を敵視する可能性があり、その内容をいかに考えるのか、と言うことが最大の問題になっているようである。第一回ではそのことを指摘したのである。
 (2)では、アルジェリアと言うよりはイスラム原理主義者と、イスラム穏健派(政府)と、そしてキリスト教などの外国の人々、そしてその中における無宗教者としての日本人の立場の問題を書いた。実際に、日本人が「宗教はない」という発言を海外ですることに関して、非常に違和感を感じているような人々が少なくないことは現在も否めない事実である。基本的に海外では「宗教」と「道徳」が同義語で使われることがある。宗教があると言うことは、人に対して道徳的なことをしない人でも神に対して冒涜はしないと言うことを前提にした内容であるが、残念ながら日本人はそのような感覚は存在しない。そのために、その感覚の違いから、今回のイスラム教原理主義者武装集団の行動に関してはまったく理解できないと言う幹事でしかないのかもしれない。
 (3)では、そのイスラム教過激派(あえて反政府と言う意味でイスラム教原理主義過激派を略して過激派と使う)に対して、アルジェリアがとった行動に対して、その内容に関することを考えた。実際に、アルジェリアの中に、一般に暮らしているアルジェリア国民の中にイスラム教徒は多くいるわけであり、その中にも過激派に一部共感する考え方を持つ人は少なくないのである。そのことは、まさに、今回の事件を放置することは、完全にアルジェリア国内の治安を悪化させるものである。特に、隣のリビア・そしてその向こうのエジプトなど、北アフリカイスラム教国家の多くは一昨年以来の「アラブの春」と言われる一連の反政府運動が発生し、その内容がアルジェリアにも迫っている。実際に、この中には民主化という名前のキリスト教的個人主義と、イスラム教的な集団主義の対立があり、その対立の根が少なくとも世界経済という国際社会の中の問題と、イスラム教と言う別な世界の間の接点が問題と言うことを指摘しているのである。
 この上で、日本の対応に関して考えてみよう。

首相「邦人救出に全力」

 安倍晋三首相は19日朝、官邸で開催したアルジェリア人質事件に関する政府対策本部会合で「アルジェリア政府に働き掛け、米英両国などと連携し、あらゆる手段で正確な情報収集をして、邦人の無事確認、救出に全力を尽くしてほしい」と指示した。同時に「事件は極めて卑劣で、断じて許されるものではない。強く非難すべきだ」と述べた。首相は同日未明、東南アジア諸国連合(ASEAN)3カ国歴訪の予定を繰り上げ帰国した。

2013年1月19日(土)6時51分配信 共同通信
http://news.nifty.com/cs/domestic/governmentdetail/kyodo-2013011901001053/1.htm

有能なスタッフ失い、無念…日揮幹部、涙浮かべ

 「まだ亡くなったという実感がわかない」。
 アルジェリアでのイスラム武装勢力による人質事件は21日、大手プラントメーカー「日揮」(横浜市西区)の安否不明だった日本人駐在員10人のうち7人もの死亡が確認され、無事を祈り続けた親族らは深い悲しみに包まれた。同社は今後、残る安否不明者の生存に望みをかけるが、懸命の情報収集を続けてきた同社幹部は同日深夜の記者会見で「多くの有能なスタッフを失い、無念の一言」と、涙を浮かべて悔しさをにじませた。
 日揮の遠藤毅広報・IR部長は21日午後11時45分頃から横浜市の本社で約70人の報道陣を前に記者会見し、「遺族の心情に思いをはせると、言葉はありません」と沈痛な表情で語った。
 遠藤部長によると、現地入りしていた川名浩一社長らがこの日、現地時間午前8時半頃(日本時間午後4時半頃)にイナメナス市内の病院に到着。安置されていた31人の遺体の中で病院側から「日本人ではないか」と言われた木製のひつぎに入った5遺体と対面した。その後、合流した日本人駐在員らが5人の顔を見て、間違いないことを確認したという。さらに同じ病院の別の場所に安置されていた2人の遺体も日本人の同僚だと確認。プラントで働いていた外国人スタッフ3人の遺体の身元も判明した。遺体は現地時間の21日中に首都アルジェに搬送されるという。

2013年1月22日(火)8時3分配信 読売新聞
http://news.nifty.com/cs/domestic/societydetail/yomiuri-20130122-00196/1.htm

自衛隊法の改正検討を、邦人救出・輸送で石破氏

 自民党の石破幹事長は20日の記者会見で、アルジェリアでの人質事件に関し、海外での自衛隊による邦人救出・輸送のため、自衛隊法改正を検討すべきだとの考えを示した。
 石破氏は「今の自衛隊法では、海外で動乱が起き、邦人が空港や港湾まで命からがらたどり着いた場合でも、(隊員の)安全が確保されなければ輸送できない。議論が必要だ」と述べた。
 自衛隊法では、海外での邦人輸送は、現地の安全が確保されている場合に限られる。手段は航空機か船舶で、陸上輸送は認められていない。武器使用にも厳しい制限がある。

2013年1月20日(日)23時23分配信 読売新聞
http://news.nifty.com/cs/domestic/governmentdetail/yomiuri-20130120-00991/1.htm

 上記のように、今回の内容をまとめたのは、これらの内容を受けて日本の政府の対応を見てみるということになる。安倍政権になって始めての「大事件」であるために、その内容は、まさに大きな内容になっているのではないかと考えているのである。なぜならば、官僚は民主党時代の感覚を持っており、まだ民主党時代の予算で動いている外務省の情報しかない状態での、安部政権での今回の事件対応はなかなか難しいのではないかと考えているからである。
 その上で考えてみると、まず、決定的に情報の量が少ない。そもそも、アメリカが行う場合は、攻撃の映像などが言えるし、その内容がほぼ再現できるレベルで出ていているのである。しかし、そもそもイスラム教国家、特にアラブの多くの国は、その国の情報の統制はしっかりと行われているので、それらの記録があってもそれらが情報として流出することはない。当然に、日本のマスコミも、アメリカのマスコミも、これらの取材許可は入っていないし、同時に、アルジェリアのマスコミもイスラム圏で有名になったアルジャジーラも一切報道を行っていないのである。
 日本政府は、これらに関してしかk利とした情報を得なければならない。以前、イラクで3人が拉致されたときも、日本政府はオランダ軍やイギリス軍の情報をもらっていた問い状態であり、日本が独自の情報網を持っていると言うことはまったくないのである。自衛隊法の改正などはまさにそのものでしかない。そもそも情報のないところで軍隊や武器を動かすことの危険性は、しっかりと認識しなければならない。そのために、日本政府は政府専用機を派遣する以外には手段がないと言うことになるのである。
 今回の事件で考えられるのは、まさに情報をいかに入手するのか、それも相手国などが悪意ではなく混乱、錯綜している中における正確な情報の入手、そして、上記に書いたような慣習の違い、宗教の違い、そして国民性や感覚の違いを基礎データとして、それらの内容をしっかりと認識した上での今回の事件のような個別の事件情報を入手しなければならないのでは内科と考えているのである。その意味では安倍内閣の前回の「日本版NSC」と言う構想は当然に必要なものであると考えられるのではないか。
 同時に、石破幹事長が提唱している自衛隊法の改正ももっとも必要である。よく考えれば、日本から派遣しなくても、ゴラン高原(これ果てたいが決まっている)またはソマリアの海賊対策としてジプチに自衛隊が派遣されている。そこからの情報もまた、そこからの救出、少なくともアルジェリア軍に合流して軍の動きをサポートしながら記録をとることなどはできるはずではないのか。
 日本は、性善説で、なおかつ相手を信用して情報も人質救出もしなければならない。法律もそのような内容ができているのではないか。しかし、緊急事態のときに法律を護って、人命を護れないことは少なくないのではないか。そのようなことをしていては政府としての役目を果たすことはできないのではないか。単純に考えれば、法律を無視しても、今回のような事件の時にはしっかりとした内容を考えなければならない。そして再発した場合、あまり好ましい設定でh内が似たような事件が起きた場合に、どのような対応をとるのか。その内容をしっかりと考えるべきではないのか。

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アルジェリア天然ガス施設人質事件(3) アルジェリア政府はなぜ軍事行動を行ったのか

アルジェリア天然ガス施設人質事件(3) アルジェリア政府はなぜ軍事行動を行ったのか

 アルジェリア天然ガス施設人質事件は、発生から数日しか経過していない19日に、アルジェリア軍が掃討作戦を行い、銃撃戦の上制圧したとしている。実際に、この文章w書いている辞典で、まだ天然ガス施設の中に安否が確認されていない人が3名いると言う話であり、また、天然ガス施設に残党が残っていると言う話であるが、それでも、アルジェリア政府は「掃討作戦終了」を宣言している状態である。
 実際に、ここのブログで人質の安否に関して書くことを使用とは思わない。なぜならば、当然にその現場を見ていないからである。現場に行った人々の報告と言うのが最も重要な内容ではないのか。
 今回はC級解説、と言うことであるから、その内容において、アルジェリア政府がなぜ軍事行動を行ったのか。そして、人質がいるのに銃撃戦を行ったのはなぜか、と言うことに絞って解説してみたい。
 その開設の前に、今回の事件で犠牲になった方の冥福をお祈りします。実際に、日本人七名のほか、無抵抗でなおかつ仕事をしている人が数十人、一部の報道によれば二三人も犠牲にんったと言う。宗教も国籍も違うが、そのかたがたのご冥福をお祈りしたいと思う。
では、まず、少々早いが、そのドキュメントを買いたい記事を読んでいただこう。

アルジェリア拘束 空から攻撃、人質混乱 制圧作戦どう展開

 ■地上部隊突入、激しい銃撃
 イスラム武装勢力に拘束された日本人らを救出するために強行されたアルジェリア軍による武装勢力の制圧作戦。報道や関係者の断片的な証言を基に、作戦がどのように始まったのかを再現した。
 アルジェリア軍が、同国南東部イナメナスの天然ガス関連施設への制圧作戦に着手したのは、17日昼頃(日本時間同日夜)。
 ロイター通信によると、治安当局はまず、軍用ヘリコプターからの銃撃などを開始。続いて地上部隊を投入し激しい攻撃を加えた。施設内にいた20~30人程度とされる犯行グループは激しく抵抗したもようだ。
 仏紙ルモンド(電子版)が掲載した脱出者の証言によると、娯楽スペースには最大600人のアルジェリア人の人質が拘束されていたが、最初の空からの攻撃でパニックに陥り、出口に殺到。犯行グループは人質らを制御できず、米国人1人を含む多数が脱出した。
 一方、犯行グループは関連施設からの逃亡を何度か試みたようだ。ラジオ・フランス・インターナショナル(電子版)によると、犯行グループが3度目の逃亡を図った際、アルジェリア軍が犯行グループの車列を爆撃。車列爆撃は、辛くも現場を逃れたアイルランド人男性の証言と一致する。これに先立ち、犯行グループは人質5人を連れて逃げだそうとしたが、軍によって押し戻されたという。
 治安筋によると、この時の爆撃で拘束された外国人25人が救出され、6人が死亡したという。
 制圧作戦開始から約5時間後、それまで犯行グループの声を報じてきた隣国モーリタニアの通信社は、犯行グループと連絡が取れなくなったことを明かした。
 全容が不明の制圧作戦。AP通信はその一部始終は米軍無人偵察機によって観察されていると報じている。
                   ◇
 ■制圧作戦ドキュメント(日本時間)
 ▼17日
 午後9時15分 「アルジェリア軍のヘリ2機が占拠拠点を攻撃、日本人2人負傷」と地元メディア
 9時46分 ロイター通信がアルジェリア治安筋の話として「日本人2人を含む人質25人が施設内から脱出した」と伝える
 10時17分 アルジャジーラ(英語電子版)が「35人の人質と15人の誘拐犯が殺害された」と伝える
 10時半ごろ 菅義偉官房長官がアルジェリア軍による攻撃開始の情報を公表
 11時3分 ロイターが地元情報筋の話として「人質6人と誘拐犯8人が軍の作戦で殺害された」と伝える
 11時45分 国営アルジェリア通信が「人質4人が解放された」と伝える
 ▼18日
 午前4時55分 国営アルジェリア通信が「救出作戦は終了した」と伝える
 6時ごろ ロイターが地元情報筋の話として「人質30人と誘拐犯の少なくとも11人が死亡した」と伝える
 7時50分ごろ 日揮が現地スタッフ78人のうち日本人3人を含む4人の無事を確認、74人(日本人14人)と連絡が取れないと発表
 午後3時ごろ 日揮が「外国人スタッフ2人の無事を確認した」と発表
 4時ごろ 安倍首相は「14人の安否が不明という状況に対応する」とインドネシアからの帰国を表明
 8時35分ごろ 日揮が新たに日本人4人と外国人7人の無事を確認と発表
 9時40分ごろ 共同通信が地元テレビの報道として「日本人2人を含む外国人8人の遺体が病院に運び込まれた」と報じた。日揮は未確認とした
 10時ごろ 国営アルジェリア通信が「650人近い人質が解放された。うち573人がアルジェリア人で66人以上が外国人」と報じた
 ▼19日
 午前0時5分ごろ 国営アルジェリア通信は「外国人人質132人のうち100人近くが解放された」と報じる

産経新聞2013年01月19日08時05分
http://news.livedoor.com/article/detail/7329134/

 情報によると、砂漠の中で、テログループが人質を連れて外に出ようとした行動を阻止するときに、そのまま銃撃戦になったと言うことである。実際に、日本の場合このような人質事件で、犯人が人質を外に連れ出した時に攻撃をするということはない。なぜならば、人質を連れ出すと言うときは、当然に相手も最も警戒しているときであり、そのときに攻撃をすれば双方ともに、また人質においてもかなりの被害が予想されるからである。
 一方、アルジェリア政府はそのようには行かない。そもそも、同じイスラム教の信奉者であり、そのイスラム教の教義から考えて、治安を維持しなければならない。彼らの目論見がそのままになってしまえば、アルジェリア内部においても、また首都などを含む都市部においても、イスラム原理主義過激派の活動が大きくなり、それは、数名の人質の命そのものよりももっと多くのアルジェリア国民の命や治安がかかった問題である。
 単純に、アルジェリア政府の軍事行動は、そもそもこのような事件が多発している地域なのか、日本のように治安の良いところで人質監禁事件が起きたのか、その事件頻度や治安状況、そしてその国の国情と国家の宗教観とテロ組織の宗教観の一致などが、今回のアルジェリア軍の行動の中には入っていると考えられる。
 十年位前と思う。南米のチリでフジモリ大統領が日本大使館の占領事件のときに銃撃戦を行ったのがかなり印象に残っているが、実際に、「テロとの戦い」と言うときになって、そのテロ組織そのものを射殺すると言うのは、日本以外の各国の当然の内容であることを日本人は熟知していなければならない。「人命は地球よりも重い」と言ったのはよど号事件のときの福田赳夫元首相であり、その対応は世界各国から非難されているが、それは日本の国情を考えれば当然の対応であり、同時にその日本の国情が世界各国の常識的な対応とかけ離れているのであると言うことを、日本人は認識しなければならないのではないか。まさに「日本の常識は、世界の非常識」である。そして、危険な思いをした駐在員の皆さんには、非常に申し訳ない言い方であるが、他の駐在員も含め、海外にいるときは、その国情に合わせた、その国の政府の対応が基準となり、その場合は人質の人命優先ではなく、国家の治安維持が優先になることがかなり多いことを考えなければならない。
 まさに、今回の対応では、人質が犠牲になったのであるが、その対応は、アルジェリアの国情を考えればやむをえないことであったのではないか。もちろん、他人事だからいえるのであるが、実際に、そのような国家に言ったときはそのような対応を覚悟していなければならない。その場合に、自分で自分のみを護るすべを最も知らない国民である日本人は、簡単にテロリストの標的になり、同時に、テロリストに「人間の盾」として使われてしまうのである。もちろん、海外に行くなと言うのではなく、海外に行くときは、それくらいの覚悟が必要であると言うことに他ならない。
 もちろん、今回の事件、そもそもマリ北部のテロリスト集団が、アルジェリア東部の施設まで砂漠を越えてきているということである。その背景を一仮と調べなければならないが、そのようにテロリストを根絶やしにしなければ、アルジェリアでは治安を維持できない、逆に言えば、イスラム教に帰依している人の中でも、テロリストたちに共感する人、そこまで行かなくても反政府的な考え方を持っている人は少なくないのである。特に、隣のリビア、隣の隣であるエジプトで反政府内戦が行われている状態であり、タダでさえ治安が良くない。その上、日本のように生みで囲まれているわけではないので、国共などは「ただの線」でしかなく、人は砂漠を越えて自由に行き来できる状態である。そのことを考えなければならないのではないか。
 日本政府は当然に日本の国情に合わせて、アルジェリアに遺憾の意を表明する。しかし、アルジェリア政府は、できる限りの対応をしながらも、その対応への非難を受け付けないであろう。これが、国際社会のルールであることを、そして外交であることを日本人は理解しなければならないのではないかと考えるのである。

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アルジェリア天然ガス施設人質事件(2) なぜ事件は起きたのか

アルジェリア天然ガス施設人質事件(2) なぜ事件は起きたのか

 昨日からアルジェリアの事件に関してブログでC級解説をしている。呼んだ方からは「イスラム教よりではないか」と言う声をいただいたが、実際に、日本の報道が「反イスラム教よりへの偏向報道」であるので、真ん中中立で書いているつもりでも、イスラム教より、と言うように見えてしまうようである。昨日も書いたが、私は特別にイスラム教に何か感慨があるわけでもないし、イスラム教を擁護しなければならない立場でもない。当然にイスラム教に帰依しているわけでもない。一応、ほぼ無宗教の日本人として中立に見ているつもりである。
 その上で、今回の人質事件はなぜ起きたのであろうか。
 いくつかの要因がある。直接的な要因は、フランス軍によるマリ北部イスラム過激派支配地域への空爆であるとされている。ここで使っている「過激派」は、まさに、昨日の定義の通りにマリという国家もしくはその北隣に隣接しているアルジェリアと言う国家の法律の支配に反抗し、反国家的な行動としてイスラム教の準拠した原理主義的な支配を行っている、と言う意味で「イスラム教原理主義に従った反国家勢力」と言う意味で使う。
 話を戻して、ではなぜフランス軍はマリ北部への空爆を行ったのか。
 マリは、数年前にクーデターが発生し、北部サハラ砂漠にかかる部分にイスラム原理主義者が独立支配を行っているのである。イスラム教の原理主義者は、昨日解説したとおりに、イスラム教に殉教することが、現世で生きていることよりも重要であり、神に召されることを幸せであると感じている人々である。その価値観は、自分だけに向けられるのではなく、異教徒を神の元に送る、またはこの世から抹殺しイスラム教を護ると言うことをしっかりとしているのである。
 マリもアルジェリアもイスラム教を国家国民の多くが占めている、いわゆる「イスラム教国」である。イスラム教の価値観は国家のほうの支配の中にさまざまはいっているはずである。しかし、当然に国家である以上、他の宗教に関することも配慮されているし、また、国家の経営と言うことを考えれば、キリスト教の国家などとの貿易と言うことは当然に必要な国である。国家の中に社会があるように、世界の中に国家を主軸とした社会が形成されている。それを宗教優先で国際社会を乱すことはできないのである。
 しかし、原理主義者たちは、その「国際社会を乱すことができない」と言うことを理解できない。何しろ他の人々がイスラム教に帰依していないことを理解できないのである。イスラム教ほどすばらしい宗教はないのに、なぜ他の国家の人々は、邪教に身をおいているのか、と言うのが彼らの主張だ。社会優先か、宗教優先かそのことがこの根本にある。

なぜアルジェリア人質事件は起きたのか?

 16日、北アフリカのアルジェリア南東部にある天然ガス関連施設で、日本人を含む約40人がアルカイダ系武装組織の人質に取られた。人質の正確な人数は依然不明だが、その国籍には、アルジェリア以外に米国、英国、アイルランド、ノルウェーが挙げられている。なお、イスラム過激派「イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ」が、アルジェリアの報道機関に犯行声明を出している。
 海外各紙は、人質事件の背景と今後の見通しについて詳報している。
【事件の要因1 フランスのマリ軍事介入】
 フィナンシャル・タイムズ紙によると、事件を誘発したのは、フランスによるマリへの軍事介入だという。アルジェリアに国境を接するマリは、その北部がイスラム過激派「イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ」(AQIM)に支配されている。マリ政府から要請を受けた旧宗主国フランスがAQIMの南進を阻止するために、14日から北部地域の空爆を開始しており、今回の人質事件はそれに対する報復だと同紙は見ている。ニューヨーク・タイムズ紙も、今回の事件をアルジェリアに対する報復とするAQIMの主張を掲載している。それによると、フランス空軍がマリ北部地域空爆のためにアルジェリア領空を通過することを認めたことに対する報復行為であるという。
 ただし、ウォール・ストリート・ジャーナル紙によると、フランス政府はフランス人人質の有無を確認できていないとしている。
また、ウォール・ストリート・ジャーナル紙は、南下を阻止されたAQIMが北進してアルジェリアに流れてくるのは自明であるとする見方(アルジェリア政府系の民族解放戦線幹部)を紹介している。
【事件の要因2 資金としての人質】
 ニューヨーク・タイムズ紙は、過激派組織の資金のかなりの部分が身代金によって賄われていると報じている。近年は、西アフリカの砂漠地帯で誘拐が頻発しているという。この点に関してウォール・ストリート・ジャーナル紙は、アルカイダ系組織が米国人を人質に取ることはまれであり、これまで比較的弱小と見られてきたAQIMに大きな変化があったとの見方を取り上げている。このことを裏付けるかのように、ニューヨーク・タイムズ紙は、本事件の実行犯が重装備であったと報じている。
【事件の見通し】
 ニューヨーク・タイムズ紙は、米国防長官が米軍による軍事作戦の可能性について述べたと報じている。他方、ウォール・ストリート・ジャーナル紙は、アルジェリアが米国の軍事作戦による人質救出に抵抗を示すであろうとする前CIAアナリストの見方を紹介している。また同紙は、アルジェリアが長年イスラム過激派と戦ってきた経緯があり、テロリストの要求を受け入れ、交渉に応じるとは考えられないとする見方を紹介している。

NewSphere2013年01月17日19時30分
http://news.livedoor.com/article/detail/7324363/

「この事件で、マリ介入が正当化された」仏首相

 【ワシントン=白川義和、ロンドン=林路郎】アルジェリアの人質事件で、米英両国はアルジェリア当局が関係国と事前に協議せずに救出作戦を強行したとして、同政府へのいらだちを強めている。
 米CNNによると、米政府は「人質の安全が第一」として慎重な対応を求めていたが、アルジェリア政府は米側に事前通告しないまま、軍事作戦を行った。
 米国人人質の安否情報も混乱している。パネッタ国防長官はABCテレビに対し、「何人拘束されているか、今は本当にわからない」と語った。米メディアが伝える米国人人質の数も「少なくとも3人」から「7、8人」まで幅がある。
 米政府高官はCNNに対し、アルジェリア当局の情報は信頼できないとの見方を示した。ロイター通信は、米国が情報収集のため、無人偵察機をアルジェリアに派遣したと報じている。
 キャメロン英首相も17日、アルジェリアのセラル首相に電話し、「事前に知らせてほしかった」と不快感を表明。その一方で、首相は議会で「責任はテロリストにある。我々はテロとの戦いでアルジェリアに寄り添う」と述べ、軍事作戦を直接批判することは避けた。
 【パリ=三井美奈】エロー仏首相は18日の演説で、「アルジェリアの人質事件はテロの脅威を示した。この事件で、フランスによる西アフリカ・マリ介入の決断が正当化された」と述べた。
 マリでの仏軍の空爆続行にはアルジェリア政府の協力が不可欠なため、仏政府はアルジェリア軍による軍事作戦を容認する立場だ。首相の発言に先立ち、マニュエル・バルス仏内相は18日、「テロとの戦いのさなか、批判は慎むべきだ」と述べた。
 アルジェリア政府は仏軍が今月11日にマリ空爆を開始した後、戦闘機の領空通過を認めた上、イスラム過激派の武装勢力の移動を阻むためマリ国境を閉鎖した。

読売新聞2013年01月19日00時26分
http://news.livedoor.com/article/detail/7328412/

 その根本の考え方から、イスラム原理主義者の支配地域に「フランス軍」が空爆した。まさに、イスラム教の人々のところに「キリスト教」が攻撃を加えたのである。今回の犯行声明に「フランス十字軍」と言う単語が存在するが、まさに、十字軍要するにキリスト教によるイスラム教に対する武力弾圧であり、まさに宗教戦争をさす。その報復と言う意味が今回の犯行声明には隠されていると言ってよい。
 当然に、まず「国際社会重視」のマリ、またはアルジェリアという国家に対する反抗。そして、その反抗の中において、キリスト教国との接点を交易すると言うのが彼らである。そのように考えれば、今回の日揮社員が人質となった施設は、天然ガス施設照り、その天然ガス施設は、そこからイタリア、ドイツ、フランスなどのヨーロッパ各国、まさに、キリスト教国への資源の輸出をしているのである。
 ここで突然であるがOPECの会議の冒頭の挨拶を書いてみたい。OPECの会議の一番初めに、参加国の多くは、アラビア語で標語を言うのであるが、その中に「アラーの神は、われわれイスラム教を信仰する人を救うために、われわれの足元に資源を出して、われわれの活動を助け」という言葉がある。OPECは、当然に経済的なことをいっているのに他ならないのであるが、一方で、イスラム原理主義者にしてみれば、その資源が、自分たちイスラム教徒を迫害する武器に変化し、イスラム教徒、特に原理主義者がこの世界から吐き出され、砂漠に追いやられる原動力になっているのである。
 天然ガス施設の攻撃と言うのは、まさに、イスラム原理主義者からすれば、「キリスト教」の接点であり、そしてイスラム教を迫害する「十字軍」の象徴なのである。日本人が巻き込まれたということに関しては、よく「キリスト教」とは関係がないと言う報道をされているが、その内容は、キリスト教を助けている象徴でしかないのである。同時に、当然な内容として日揮の社員には気の毒であるが、彼らは「キリスト教」の手先でしかないと言う解釈になるのである。
 日本人の中には、このような宗教的な内容がまったく関係がないとか、宗教的な内容を理解しない人がほとんどである。しかし、その内容を理解しないで、あるへリアなどイスラム教危険地帯に行くこと自体がリスクであると言うことを考えなければならない。イラク戦争のときに、イスラム過激派に拉致されたり、あるいは、反政府軍に殺された日本人がいるが、実際に、宗教的な価値観を理解しないでそのような行動をとることがどのようなことなのかは理解しなければならない。「人道」などといっているが、その「人道」と言う価値観そのものが、「キリスト教」的なものであって、「イスラム教的な価値観」と異なる場合がある。
 今回の事件で、最も教訓としなければならないことは「宗教への理解」と「宗教が違う場合の価値観の違いを理解すること」ではないのか。

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アルジェリア天然ガス施設人質事件(1) イスラム過激派と言う言い方について

アルジェリア天然ガス施設人質事件(1) イスラム過激派と言う言い方について

 先週のことになる。このブログでは鳩山元首相の訪中に関して書いたのでこの事件には触れなかった。しかし、鳩山元首相を「国賊」という発言が出た裏で、実は来たアフリカアルジェリアでかなり大きな事件が起きていた。アルジェリアにおけるイスラム過激派による人質事件である。
 さて、このニュースについては、今日から数日間連続でこの内容を書いてみたいと思う。実際に、テレビなどでは連日この事件の最新情報を行っているが、実際に、イスラム教に関する内容や、「過激派」と言う言い方そのものに関しても、少し気になるところがある。私も上記にもこれからも使うのであるが「イスラム教過激派」と言う単語はあっても、「キリスト教過激派」とか「仏教過激派」などという単語はない。キリスト教や仏教の人々が行動を起こした場合は単に「過激派」と言うのに対してイスラム教だけはなぜ「イスラム教過激派」と言うのか。もちろんそこにはそれなりの理由があるのであるが、その内容に関しても少し考えなければならないのではないか。
 それらに関して、少し丁寧にイスラム教ということに関してみてゆかなければならないのではないか。今回は、この事件を契機に、と言うことを言ってはよくないのであるしかなりの不謹慎であるとは思うが、このような報道や文章を出すタイミングとして事件を契機に、再度イスラム教に関して勉強しなおしてみたいと思うのである。
 今日は少し早いが、先にその契機となった記事を見て見たいと思う。

「脱出」「負傷」安否の情報交錯…アルジェリア

 アルジェリアの隣国モーリタニアのANI通信は17日、犯行グループの武装勢力メンバーの話として、アルジェリア軍機の空爆で、外国人の人質34人と武装勢力15人が死亡した、と報じた。
 武装勢力が一部の人質を車で移送しようとしたところに爆撃が加えられた、という。一方、ロイター通信は、地元関係者の話として、軍の攻撃で死亡した人質は6人で、武装勢力は8人だと伝えた。人質の安否を巡る情報は錯綜しており、在アルジェリア日本大使館などが確認を急いでいる。
 武装勢力メンバーはANI通信に対し、軍の攻撃後も拘束している外国人は日本人1人を含む計7人だと語った。アルジェリア軍は残る人質の救出に向け、空爆に続いて地上部隊も投入している。
 中東の衛星テレビ「アル・ジャジーラ」は武装勢力メンバーが「41人の人質を2か所で拘束している」と語っていたと報じたが、公式な確認はされていない。
 またロイター通信は、アルジェリア治安当局筋の情報として、日本人2人を含む外国人25人が施設を脱出したと報じている。
 アル・ジャジーラによると、「サトシ・キヤマ」と名乗る日本人人質が電話取材に応じ、「軍の発砲でけがをしたが具合は良くなっている」と語った。この人は武装勢力の監視下で電話に出ていた可能性がある。

読売新聞2013年01月18日01時47分
http://news.livedoor.com/article/detail/7324469/

<アルジェリア拘束> 「軍が攻撃開始」菅官房長官、緊急会見

 菅義偉官房長官は17日夜、緊急に記者会見し、同日午後9時10分に駐アルジェリア英国大使から日本側に、「アルジェリア軍が人質解放のために攻撃を開始した」と伝えてきたことを明らかにした。拘束されている邦人の安否について、菅氏は「被害状況を鋭意確認中だ」と述べた。
 バンコクに滞在中の安倍晋三首相は、(1)政府対策本部を至急開催する(2)正確な情報収集と集約に努める(3)邦人の無事の確認に全力を挙げる??ことを指示した。
 これを受けて、政府は17日夜、首相官邸で麻生太郎副総理を本部長とする対策本部の第2回会合を開催した。【鈴木美穂】

毎日新聞2013年01月17日23時01分
http://news.livedoor.com/article/detail/7324815/

 新聞記事は先週の記事である。
 先週の17日夕方、かなり多くのテレビ局が夕方のニュース番組で「緊急速報」などとして、人質事件の速報を行っていた。実際に、何が起きたのかわからない状態の中において、緊急速報は、余り余念をまぜることなく事実のみをしっかりと報じていたと思う。
 そのときの報道は「イスラム過激派による攻撃でアルジェリアの石油関連施設が占領され、そこで勤務していた日本人などが人質になっていた」というものである。
 さて、まず冒頭にも書いたが「イスラム過激派」と言うことに関して、今日は少し解説をしてみようと思う。
 そもそも「過激派」と「イスラム教」とは同義語ではない。私は得にイスラム教徒でもなければ、特別にイスラム教を養護しなければならない立場ではないが、実際にイスラム教徒であってテロに反対する人は数多く知っている。「イスラム穏健派」と言うようであるが、実際にそのようなことを言っても何をしても意味はない。そもそもイスラム教の人々と、アメリカをはじめとするキリスト教的な価値観、または、個人主義民主主義、基本的人権的価値観とはまったく違うものであると言うことでしかない。
 日本は、特に宗教的にキリスト教的な価値観があるわけではない。たぶん日本は宗教的にはニュートラルな状態にあるものと考えられる。クリスマスを祝いながらお初参りは神社で、葬式は仏教でと、特に宗教、特に宗教的な戒律を意識する人は、残念ながら日本国内の人口比率で言えば半数以下、少数派と言うことがいえるのではないか。多くの一般のの日本人は基本的には宗教的な価値観はあまり存在しない。それは、ある意味で日本国憲法によるものと、もうひとつはGHQによる価値観の捜査と言うこともあるが、同時に、日本人が週休的な価値観をあまり持つことが好きではない、そのような観衆を持っていないと言うことに他ならない。そもそも、信教の問題であるから、価値観の操作があったり憲法で決めたところで、その信教を持つことを習慣に持っている国民の信仰心をなくすことはできない。そもそも、外圧または法律で、内心の問題を変えることはできないはずである。そのことを考えれば、当然に日本は宗教的な信仰を大きく持つ国民性ではない。そのように考えれば、推古天皇のときに仏教が伝来しいても、また、戦国時代にキリスト教が伝来しても、それらが爆発的に進行し国民の中に入り込むと言うことない。江戸時代に、仏教は戸籍の変わりに門別帳を使用し、また、キリスト教は弾圧したので、歴史に名前が残っているが、実際には、それらの内容が国家的に大きくなるということはない。神社における祭りのほうが大きく、現在に伝わっているところは少なくないものと考えられるのだ。
 そのような日本人に、現在のイスラム教を考えるところは非常に難しい。しかし、実際に戦前「国のために」と言うことで特攻隊を組織したのと同じように、イスラム教は、基本的には、現在の世界そのものよりも、神々の世界を重視する。そして、神々の世界と神のために殉教することに関して何の抵抗もないのである。その内容はキリスト教のように自殺することを禁じると言う宗教からすれば「信じられない」「神々の冒涜」という感覚になるとしか言いようがない。
 その内容に関しては、イスラム教という宗教そのものがキリスト教的な価値観からは理解できない。そしてアメリカナイズされた日本の増すk実たちは、アメリカの顔色を見ながら、その価値観を「正」としながら、その内容を報道するので、どうしても「イスラム過激派」と言う報道をしてしまうのである。
 しかし、実際にイスラム教の価値観からすれば、集団のための自己犠牲と言うことに関しては、まったくそのことをいとわない宗教観があり、その宗教観の中においては、別に特別なことではないのである。しかし、その内容はとうぜんに一人の「死」という「基本的人権」を迫害する内容でしかないのである。よって、当然に静養飲酒主義的な価値観とも合致しない。ただし、この基本的人権、民主主義的な内容と言うことに関しては、イスラム教を主とする国々とまったく同じ内容でしかない。よって、「イスラム過激派」が、彼らの国においても「過激派」要するに「法律よりも自分たちの宗教的な価値観を重視する、反社会的、反国家的な集団」と言う意味ではその通りなのである。
 今回のケンは、まさにこのイスラム教の国家的に言ってもイスラム「過激派」と言う形によってでいている。それは、まさにアルジェリアではなく、隣のマリという国家において行われた政治的なクーデターと、それに伴って行われたイスラム教の殉教者的な事件であり、その価値観の中においてどのように対処すべきかと言うことの問題である。
 単純に「イスラム教過激派」と言う単語の中にも、どのような価値観においてイスラム教という宗教を考えるのか、そして、国家や社会を考えるのか、そのことを考えながら、しっかりと報道を見なければならないのではないか。

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マスコミ批判に関する一考(126) 中国でも評価されない鳩山元首相の訪中を批判できないマスコミ

マスコミ批判に関する一考(126) 中国でも評価されない鳩山元首相の訪中を批判できないマスコミ

 先週の私のブログは日中関係ばかりであった。
 中東と言うか北アフリカのアルジェリアで日本人を含む外国人のイスラム過激派テロ組織による人質事件が起きたために、先週のマスコミはその速報と近況報告ばかりであったと思う。しかし、実際に日本および世界ではさまざまなことが起きており、その内容をさまざまな角度から伝えなければならないのが、本来のマスコミの姿なのである。
 中東のイスラム過激派に関しては、先週犠牲者を出しながらも一応の結論を得たようであるので、その内容に関して、と言うよりはそもそもイスラム教と言うことからしっかりと解説をしてゆこうと思う。何しろ、このブログは「C級解説」なのであり、また、国会も現在は記載されていないので、その内容に関してさまざまな海外情報からの内容を考えて生きたいと思っている。
 さて、その中で日本にとってもっとも大きなニュースは、鳩山元首相の訪中と「国賊」発言ではないのか。私は、下記にある小野寺防衛大臣の「国賊」という単語よりも「売国奴」と言うほうがピッタリくるのであるが、その辺の日本語のニュアンスに関しては個人差があると言うことで何とかしたいと思っている。
 さて、この事件の経緯と、尖閣諸島をめぐる日中関係に関しては、先週のブログの通りである。問題は、この鳩山元首相の発言や行動に関して、日中がどのような評価をしているか。それをしっかりと伝えるのがマスコミの役目ではないのか。わたしもすべてのマスコミをチェックしているわけではないので、鳩山訪中に関して問題視している論調も合ったが私が見落としているだけかもしれない。しかし、少なくとも私の見る限り、アルジェリアの事件ばかりで、鳩山訪中、はっきり言って、中国における尖閣諸島の問題と、今後の日中関係への影響と鳩山元首相の行動を結びつけて報道する期間は少なかったのではないか。中には、尖閣諸島をめぐる戦争と言うような報道まではあるものの、その戦争にまでなる内容は、まさに鳩山元首相の行動の影響までしっかりと書いているのは、少ない。

鳩山発言「尖閣は係争地」…中国で評価のコメント見当たらず

 鳩山由紀夫・元首相が北京市内で16日、中国の全国政治協商会議ので賈慶林主席や楊潔チ外相らと会談し、尖閣諸島について「係争地であることを(日中)双方が認めた上で解決を探るべきだ」と述べた。中国の一部メディアは鳩山元首相の発言を紹介したが、同発言を評価するコメントは、ほとんど見当たらない。 鳩山由紀夫・元首相が北京市内で16日、中国の全国政治協商会議ので賈慶林主席や楊潔チ外相らと会談し、尖閣諸島について「係争地であることを(日中)双方が認めた上で解決を探るべきだ」と述べた。中国の一部メディアは鳩山元首相の発言を紹介したが、同発言を評価するコメントは、ほとんど見当たらない。
 人民日報系のニュースサイト「環球網」は16日午後10時10分付で、同ニュースを報じた。17日午前からコメントが集まりだしたが「注意しろ。日本人の策謀だ」、「領土問題は存在しない。古来から中国固有の領土だ」、「双方とも争議を認めず、両国の船がしばらくは関連海域で対峙する。そのうち、中国軍の力が真に強大になってから手を下すことになる」などの書き込みが続いた。
 鳩山元首相は自らの良心と信念にもとづいて発言したと考えてよい。ただし、「私は信じないぞ。日本はうそばかり」、「ずるい手段だ」などと、元首相首相の発言を「当局ぐるみの日本側の陰謀だ」と考えるユーザーも目立つ。
 ごく一部に「良心的な日本人だ。得がたい存在だ」と書き込んだユーザーもいるが、続けて「ただし実際には、釣魚島(尖閣諸島の中国側通称)に争議は本来存在しない。というのは、中国の固有の領土だから」と意見を表明した。
 少なくとも現状では、鳩山元首相に発言に触発されて、尖閣諸島の問題を「もう1度冷静に考えてみよう」という民衆レベルの動きが起きる気配はない。(編集担当:如月隼人)

サーチナ2013年01月17日10時37分
http://news.livedoor.com/article/detail/7322160/

「国賊」という言葉が一瞬…鳩山発言に防衛相

 小野寺防衛相は17日夜のBSフジの番組で、鳩山元首相が中国側に対し、沖縄の尖閣諸島をめぐり、「係争地である」との認識を中国側に伝えたことについて、「中国側は『実は日本の元首相はこう思っている』と世界に宣伝し、国際世論を作られてしまう。言ってはいけないが、『国賊』ということが一瞬頭のなかによぎった」と述べ、激しく批判した。

読売新聞2013年01月18日07時05分
http://news.livedoor.com/article/detail/7324868/

鳩山元首相の南京訪問、「政治ショーか」「日本政界と関係ない」など意見さまざま―中国版ツイッター

 17日午前、訪中している鳩山由紀夫元首相が、南京大虐殺記念館を訪問した。これについて、媒体各紙がこぞって記事を報じる中、“中国版ツイッター”と呼ばれる簡易投稿サイトにも、一般からの反応が殺到している。さまざまな角度から意見が出ているようだ。2013年1月17日午前、訪中している鳩山由紀夫元首相が、南京大虐殺記念館を訪問した。中国各メディアの報道では、鳩山元首相は16日夜に夫人を伴って南京入り。この日は漆黒で身を包み、厳粛な面持ちで館内を参観。犠牲者らの写真の前で両手を合わせて黙とうし、参観後には「友愛和平」と書をしたためた。
 これについて、媒体各紙がこぞって記事を報じる中、“中国版ツイッター”と呼ばれる簡易投稿サイトにも、一般からの反応が殺到している。さまざまな角度から意見が出ているようだ。
「また政治ショーかよ!」
「謝罪は行動を伴うべきもの。今回の鳩山の行動は、日本の過去の侵略や虐殺に対する悔悟を示している」
「本心ではどう思っているのだろうか。誰にもわからないね」
「誰もが心の中では罪悪を感じていても、首相在任中はそれを隠し通すしかないのだろう」
「鳩山、ひざまづけよ」
「これではまだまだだ。安倍が土下座するまでは」
「鳩山と安倍は同じ政党に属しているわけではないし、鳩山は日本の政界とはすでに一切の関係がない身分だよ」
「鳩山は間違いなく理想主義者。友愛政治に友愛外交を主張し、靖国参拝を批判し、日本の戦争責任を積極的に反省しようとした。そして、首相在任時は右翼の強烈な批判を浴びた。しかしながら、日本に1人でもこのような政治家がいて、首相にまでのぼりつめたということに、多少の安堵を覚える」
「ああ、彼が帰国した後のことが心配だね」 (翻訳・編集/愛玉)

Record China2013年01月17日14時22分
http://news.livedoor.com/article/detail/7323052/

 さて、中国は、基本的にさまざまなことをわかっている。いやわかっていると言うよりは、感じていると言うのに近い。よく言うことであるが、世界中で優秀な人物とされる人は1割いるとすれば、13億人の人口の中国の場合1億3千万人の優秀な人物がいる。ようするに、日本の人口と同じかそれ以上優秀な人物がいるのである。ある統計では、小児麻痺だけで1億2千万人いると言うのであるから、それだけで日本の人口と同じだけいると言うことになるのだ。人口が多いと言うことはそういうことだ。
 中国人は、基本的に自分に属している集団に忠誠を誓う人を尊敬し、裏切る人に関して別になんとも思わない。もっといえば、そのような「裏切る人物」を利用して自分の都合の良いように動くと言うのが彼らの現状である。私も、中国に4年もいたことから、そのような性質が少し身についているのかもしれない。なんとなく中国人の感覚が理解できるようになっているのである。
 さて、中国国内でも鳩山元首相の行動はまったく評価されていない。そのことは、なんと中国のブログ奴言ったーなどに書かれており、日本のマスコミもチェックしているのになぜかそれが報道されない。日本は日中新聞協定などがあって、「中国に不利になる報道はしない」そうである。それどころか、積極的に中国に国を売る報道をしているというのが驚きである。鳩山元首相の行動も、その行動を賞賛する場面は見ているが、残念ながら、中国でも批判されている内容を報道しないと言うのは、まさに中国の圧力またはカネに、または内部の中国帰化人などに屈した日本のマスコミの姿が見えるのである。
 台湾では、マスコミの中国化で10万人のデモが起きている。日本でそのようなデモが起きないのはなぜか?かなり不思議としか言いようがないのである。

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保守的解釈による日本国憲法講義私案 第14回 被支配階級としての国民から見た天皇陛下

保守的解釈による日本国憲法講義私案
第14回 被支配階級としての国民から見た天皇陛下

 かなり間が開いてしまった。前回と言っても12月の中旬になるのであるが、選挙で間が開いたということでこれまでのまとめをいている。その和えは国体論について書いていた。
  国体論に関しては第10回から連続で行っている内容であり、「日本国憲法を変えることによって国体は変わらないのか」第11回「国民の相違として存在する、日本国のあり方としての価値観」第12回「神々の話から見た皇室と国体」として、国体の話を続けてきている。今回もこの続きから、日本国の国体論について引き続き書いてみたいと思う。
  さて、国体といって現在までの三回の論文は全て「皇室と国体」ということを考えていた。しかし、東日本大震災のときに、今上陛下は「国民とともにある」と言うことを強く出され、またそのことを希望され、永木にわたって不自由な生活をされた。有名な話では被災地の人々が暖かい食事をできないということを聞き、缶詰で毎日の食事を皇后陛下ともどもされていたと言う話もある。また、被災地南相馬市において、原子力発電所の事故があり、雨水に放射能が混ざっている危険があると知りながら、犠牲者の前で傘をさすことはできないとして、雨にぬれながら黙祷をささげた姿は有名である。もちろん、天皇陛下がパフォーマンスでそのようなことをされるはずがなく、当然に天皇陛下の大御心の現れであると言うことがいえる。時の首相菅直人が、パフォーマンスで被災地をめぐり「もう帰るのか」と罵声を上げられ阿野とはまったく違う。天皇皇后両陛下が出向かれた被災地は、みな涙を流して喜んでいた。被災して避難所で「喜んでいた」と言うのは不謹慎かもしれない。しかし、以前にも私はブログでご紹介したと思うが、ある被災地の体育館に起居する老人に「私は家が流されたおかげで天皇陛下に手を握ってもらった。お前(私)は天皇陛下に手を握られてがんばってくださいと声をかけられたことがあるか。家はなくなったけれど、天皇陛下にあったのは名誉なことだ。一生の記念だ。」と涙を流して語っていた姿は忘れられるものではない。
  天皇陛下と被災地の話に関しては、以前にもかなりしているので、そちらに戻っていただくとして、今回は、「国体」=「天皇・皇室」と言う感覚ではなく、今度は国民の側に目を向けて考えてみたい。そもそも国民は「天皇陛下」または「皇室」をどのように考えているのか、そして、その考え方は国体という考え方にどのように影響しているのかと言うことである。
  国体とは日本そのものであり、その日本そのものの象徴が天皇である。ここでいう「象徴」は、特に日本国憲法を意識したものではなく、実際に日本人が毎日の生活の中で天皇陛下を天皇陛下として考えるときに、やはり「日本そのもの」と考えるということがいえるのではないかと言うことからきている。「象徴」と言う言葉が日本国憲法を想起させるのであれば「成り代わり」または「日本そのもの」という単語でもかまわない。要するに、「日の丸」を見て、または「君が代」を聞いて「ああ日本だ」と思うのと同じように、天皇陛下を見て「日本国だ」と考えるのが日本人ではないのか。実際に「元首だ」と考える人よりも、そのような難しい言葉ではなく「日本だ」と考える人のほうが多いと言えるのではないかと考えられるのである。このような「日本だ」と考える存在を「象徴」と言う単語で表すのであろう。
  さて、では日本人はなぜ天皇陛下を見て「日本だ」と思うのであろうか。
  まず、天皇陛下がやはり日本の存在であると言うことは間違いがない事実である。そしてその日本の存在であり、ある意味で心の中に「日本の顔」という言い方をしたら不謹慎かもしれないが、そのような存在であると考えるのではないか。天皇陛下は、それ以外の為政者、たとえば首相とか、そのほかの権威に当たる人物とは違い、このように生を受けられて、崩御されるまでずっと日本の象徴なのである。このように書くと「生き神様に対して不敬」と言うかもしれないが、実際に崩御と言う部分があるので、この表現はわかりやすく表現したと考えていただきたい。実際に「生を受けられて」と言う話ではなく、本来は、「天皇に即位される儀式をされた後に」天皇陛下として存在するのであるが、大体の場合は、生を受けられたときに「皇太子」として指名されるところもあり、天皇陛下になられると言う部分があるのだ。
  今回は、あえて国民に焦点を当てる。国民は、その儀式などは知らない。しかし、実際に皇太子様または、今で言えば皇族の各殿下、妃殿下がいらっしゃれば、そこに敬意を払うのはある意味で当然のことと考えている。また、天皇陛下が行幸されれば当然に、その地域は神聖な土地になった気がするに、また、天皇陛下や皇后陛下を見れば「何かオーラが違う」と言うような感じを受けるのである。これが一般の国民である。
  さて、この一般の国民が「当然のことと考える」というのが、まさに、日本の国民である。現在の日教組教育においては、完全に天皇陛下に関することは教えない党状態にな手いる。戦前のような教育を受けていれば、天皇陛下や皇室に敬意を払うのはある意味で当然と言うことが言えるのであるが実際の部分はまったく違う。要するに、日本人は何の教育を受けることもなく、また、何の予備知識もないままに、天皇陛下に遭い、天皇陛下を見ると、「敬意を払うのが当然のこと」と考えてしまうのである。または「何かオーラが違う」と考えてしまうのである。これこそ、日本人の日本人たる由縁である。たぶん、外国人が天皇陛下に遭遇しても、そのようなことを考える人はいないのではないか。たとえば、日本人が、エリザベス女王と会ったとしても「光栄である」と言うことは考えたとしても、それ以上に「敬意を払うのが当然」というような感覚を感じることはない。いや、もしも感じるとしても、天皇陛下に対する感覚とは明らかかに違うはずではないか。やはり外国の元首と、自分の国の「日本国そのもの」と言う感覚とはまったく違う感覚を持っていると考えるのが普通であると考えるのである。
  さて、日本は、神武東征以来、現在まで大和朝廷がしっかりとした統一王朝を現在までも引き続き日本を治めている。現在の皇室を「大和朝廷」と言う人はいないのであるが、実際に、政治を取っているといえば少なくとも戦前まで、また、現在も政体のトップダル内閣総理大臣の任命や大臣の認証をしているということを考えれば、現在も当然に「大和朝廷」は継続していると考えるべきである。伝説の正解で考えれば皇紀2600年を超える永木に渡るものであり、有史以降としても2000年続く統一王朝は日本だけといって過言ではない。
  このことは何も王朝がひとつの強大な力を持っていると言うことばかりではない。もちろん、天皇陛下のご威光が少ないとか、あるいは天皇陛下の知性がないと言っているのではない。しかし、日本の場合、ひとつの王朝をしっかりと守る「下部組織」要するに、被支配階級や中間支配階級がしっかりしていたと言ったほうが良いのかもしれない。ここでいう中間支配階級とは、当然に摂関政治のときの藤原家であり、平家であり幕府で生態を担った源氏、足利氏、徳川氏であり、また乱世であれば戦国の各大名のことをさすものである。どうじに、その下で働いた官僚(官僚と言ってよいのかどうかもわからないが)組織で働く多くの人々が、当然のごとくしっかりと仕事をしていたということがいえる。
  同時に、被支配階級の多くの国民、江戸時代で言えば「士農工商」の「農民」「手工業従事者」「商売人」は、特に天皇陛下と言うことを意識することなく、直属の上官、たとえば代官や奉行といった人々とよく連携し、ある意味で支配に協力しある意味で、不法な支配を跳ね除けて生活をしているのである。
  しかし、その心のどこかには、やはり「天皇陛下」は偉いし敬意を払わなければならない存在と言うことは考えているし、また、江戸時代であれば、将軍や武士と言う人々も当然に自分よりも偉い人々と言うことが考えられていたと思うほうが普通である。水戸黄門のドラマは作り物であるが、「この紋所が目に入らぬか」とかざした三つ葉葵(徳川家の家紋)を前に、悪代官もそれまで抵抗していた武士たちも、ヤクザまでもみながその場に平伏すると言うのは、まさに、この「敬意を払わなければならない存在」と言う感覚が強いことを意味しているのではないか。そして、それは何も「三つ葉葵の紋所」ではなく、戊辰戦争、特に鳥羽伏見の戦いのときになって、それ以上に、「錦の御旗」「菊の紋章」が最も強いと言うことを、その場にいない人でも多くの人がそれを知ることができた。まさに江戸時代の終焉と、特に戦いの激しかった会津若松城の攻防は、そのことを非常に強く国民に植え付けた。また、西南戦争によって、天皇陛下を支えていた西郷隆盛が敵対したときも、やはり、菊の紋章の強さは、群を抜いていた。まさに、それは菊の紋章が強いのではなく、菊の紋章に対して日本人が持つ経緯の心が、菊の紋章を持つ軍隊に対して引き金を引くことができない真理的な圧力として大きくのしかかることになるのである。
  同時に、その内容は、菊の紋章に対して盾を就く人間たちは「賊軍」として、世の中に対し得顔向けができない状態になると言うことを意味している。まさに、その日本人としての恥の文化が、もっとも高尚な菊の紋章を持つ天皇家の権威と結びついて、日本人の価値観に大きく作用していると考えるべきなのではないか。
  まさに、日本人は、天皇陛下が強いだけではなく、天皇陛下や皇室を敬う心そのものが、日本人一人ひとりの価値観として存在することが、当然の価値観として存在しているといえるのである。そして、その感覚は、まさに、日本人が「国体」として天皇陛下を日本国そのものと思う心とマッチしているのではないか。まさに、お袋の味を思えば、故郷を思うのと同じ。完全にそのような感覚を持っているのが日本人名のではないか。その日本人の当然の感覚こそ、まさに、「日本」の「象徴」としての感覚であると思うのである。そして、その日本人一人ひとりがしっかりと心の中に「大事なもの」として日本国、自分の母国、故郷、そして家族を思い、その中の日本人の共通の認識こそが天皇陛下や皇室であると言うことができるのではないか。
  もちろん、何度も繰り返すが、この文章は天皇陛下の権威を低く見ているものではない。天皇陛下を奉る日本人の被支配階級民の心の問題に焦点を当てたものであると言うことを改めて付記しておくことにする。

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阪神大震災十八年 私も被災者の一人としてあのときを思い出すと

阪神大震災十八年 私も被災者の一人としてあのときを思い出すと

 毎年恒例のようになってしまう。このブログを続けている以上、私にとっては一昨年の東日本大震災よりも、自分が実際に体験した阪神大震災のほうが大きな地震であったと言う感覚のほうが強い。
 日本は地震国である。当然に火山が多く、その恩恵としてきれいな景色に温泉などもあるし、また、さまざまな自然の恩恵も存在する。しかし、それらは多くの断層が有る日本という国に生まれ育ち、そして地震または津波などの災害と言う者を常に身近に感じなければならない部分があると言うことで考えなければならないのではないかと考える。
 東日本大震災のとき、私は東京にいた。震度5強と言う震度は、阪神大震災を兵庫県西宮市で迎えている私にとっては、あまり大きな震度には感じなかった。実際に、その直後に津波があったので、なんとも言いようがないが、地震の揺れだけで犠牲になった方は、東日本大震災よりも阪神大震災のほうが多かったのかもしれない。それだけ、あの地震は非常に強く感じた。本当に大変不謹慎ながらも、震度5強と言う震度で、私は「あまり大きな揺れ」とは感じず、多くの人が机の下などに隠れているにもかかわらず、私はソファーに悠然と座っていて、割れ物などを棚の上から床に下ろしていたのである。危ないと言われても、自分の感覚では「状態を起こしていられる間は大丈夫」という感覚があるし、建物そのものが倒壊するのであれば、それは震度の問題ではなくて建物の強度の問題である(実際に九段会館で犠牲になられた方もいるのである)から、そこは、ある意味で信用するしかないのである。
 逆に言うと、震度5強でそれくらいにしか感じないほど、阪神大震災の揺れはすごかった。はっきりと言葉で表せないが、残念ながら、居間まですでにあれから18年も経過しているが、人口の揺れも含めて、あれ以上の揺れを体験したことはない。もちろん、私が始めて経験したとか、寝ているときの不意打ちを受けたから動揺していたなどと言うものもあるが、その内容は、あまりにも衝撃的であり、私の人生観をも変えるものではなかったと思うものである。まあ、実際は、「地震だ、火を消せなんて標語無理だよな」などとくだらないことを考えていた。人間、生死の境にいるときは意外とくだらないことを考えるものである。愚にも就かないことが頭をよぎると言うが、まさに、このときの私がそうではなかったか。
 あの地震からもう18年も経つ。

阪神大震災18年 弟2人を亡くした消防団員「街の人を守る」

 あの日の伯父の叫び声が今も耳に残っている。「あかんぞ。弟2人は助けられへん」。燃えさかる炎は下敷きになった弟たちを残したまま、全壊した自宅をのみ込んだ。あのとき、幼かった自分は、その光景をただ見つめることしかできなかった。だから、僕は消防団員になった-。
 昨年10月、神戸市須磨区の市立太田中学校。壇上に立った隣接区の長田消防団員の柴田大輔(25)は中学生たちを真っすぐに見つめ、静かに語った。
 「自分は弟たちを守れなかった。だからこそ、自分の命に代えてでも、人を守っていきたい」
 大震災で焼け野原になった長田区海運町で生まれ育った。あの日のことは鮮明に覚えている。午前5時46分、強烈な縦揺れとともに木造2階建てのアパートが押しつぶされ、1階の自室で一緒に寝ていた両親、弟の宏亮=当時(3)、知幸=当時(1)=とともに下敷きになった。
 気がつくと、車で駆けつけた伯父が両手を血で真っ赤にしながら家具をどけているのが見えた。6時間後に自分が、父はさらに3時間後に救い出された。そのとき、「シュー」という音とともに、強烈なガスの臭いが鼻をついた。周囲から上がった火の手がすぐそこまで迫っている。「爆発する」。誰かが叫んだ。恐怖で体が固まった。
 倒れた家具などに足をはさまれ、身動きのとれない母の悲鳴にも似た声も聞こえた。「私のことはかまへんから、先に子供たちを助けて」。弟たちの声は聞こえなかった。
 最初の揺れから12時間以上たった夕方、母が救出された直後、自宅は炎に包まれた。弟たちの遺体が見つかったのは数カ月後だった。2人はどこかで生きていると思っていたから、信じられなかった。
 何度も「忘れたい」と思ったが、刻み込まれた記憶はどうしても消えず、忘れられない。目を閉じれば、あの日の悲惨な情景、「2人がどこにいるかわからへん…」と肩を震わせていた伯父の姿が浮かぶ。
 だからこそ、「人を助けたい」という思いが込み上げてきた。年齢制限をクリアした18歳の誕生日の翌日、平成17年9月16日に消防団に入団した。以来、会社勤めの傍ら、いち早く現場に駆けつけ、消火活動にあたった。消防団のイベントがあると、毎週のように参加し、住民たちの防災意識の向上も図ってきた。太田中学校で行われた講演会で、初めて自らの震災体験を語ったのも、こうした活動の一環だ。「大災害が起きたときこそ、普段のコミュニケーションが生きる」と地域住民へのあいさつは欠かさない。
 長田の街に震災の爪痕がほとんど見られなくなった今も、毎年1月17日が近づくと、必ず「あの日」の夢を見る。当日は、いつも一睡もできない。そのたびに心に誓う。
 「何かあったときに人の命を助けるのが、震災後を生きる僕のやるべきこと」。
 平成7年1月、兵庫県南部を中心とする近畿地方を襲った阪神大震災は17日で発生から18年となる。死者6434人、負傷者4万3792人、全半壊した住宅約25万戸…(消防庁まとめ)。未曽有(みぞう)の大災害を経験したことで、使命感を背負って今を生きる人たちの姿を追う。(文中敬称略)

産経新聞2013年01月12日20時03分
http://news.livedoor.com/article/detail/7310136/

 私からすれば、私自身は親族や大事な人と死別したわけでもないし、また故郷が一変したわけでもない。ある意味で外様が田頭その地にいて体験したと言う幹事でしかない。もちろん、生活の道具や愛用の品など無くなったものも多数存在するが、それだからと言って何が変わったのかといえば、私の心以外はそんなに大きく変わったものではないのである。
 しかし、多くの被災者は、この新聞の記事のように親や兄弟などの親族や、家を失っている。重いでもなくなってしまい、街も変わってしまったといえるのではないか。まさに、故郷を失ったと言う感じがする。しかし、私がそこで目にしたものは、悲しみにくれながらも、生き残った人たちで強く生きる姿ではなかったか。
 それから十八年。あのときの人たちの消息を聞くと、自分のこと世のように考えることが少なくない。別に私は外様であることは間違いがないのであるが、それでも、やはり、自分のことのように、感じてしまうものがあるのだ。
 はっきりいって「自分だけ安全な場所にいて、評論する」ということに対する批判があったのもこのときではないのか。被災者が着の身着のままで非難しているのに対して、毛皮のコートを着てレポートしたり、あるいは、レポートをするだけで、瓦礫の下敷きになっている人を助けもしないで立ち去っていったテレビカメラ(もちろんスタッフ)に対する批判は非常に大きなものがあった。もちろん報道と言うことを考えれば、そのことを見なければならないのは当然であるが、一方で、目の前の人道的な「人間として当然のこと」は報道人より以前に人間として考えなければならないことなのではないか。同様に、最近では、うまくいけば自分の功績、失敗したら他人に責任転嫁という風潮がさまざまなところで現れており、その内容が出てきているのは残念なことである。
 話はそれたが、阪神大震災。私にとっては何か大きく自分の中の何かが変わったときである。もちろんそのときのマイカルと言う会社の対応などにおいても、さまざま考えることがあったのは事実だ。その計絵kんがいかされて現在がある。彼ら、被災者で立ち直った人々も、過去を背負いながら、そのことの意味を感じながら、未来に向かってがんばってほしいものと思うものである。

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昨日のブログに引き続き、日中経済チキンレースの行方!?

昨日のブログに引き続き、日中経済チキンレースの行方!?

 昨日は鳩山元首相の訪中の報道にあわせて、中国の硬軟取り混ぜた外交、特に甲状腺に見立てた、古今東西でどこでも行っている相手の国(または勢力)に対する、内部分裂と疑心暗鬼にさせる「宣伝戦」の方法に関して、豊臣秀吉の小田原攻城戦、徳川家康による大阪冬の陣の例を挙げながらその内容を解説した。まあ、解説になっているかいないかは、その内容を読んだ方々が、どのように理解していただいているかということと、私の自己満足のレベルの問題なので、その部分に関しては、なんとも言いようがない部分であるが、一応、このブログの趣旨に合わせれば「C級に解説した」という感覚で捕らえていただければよいのかもしれない。
 さて、しかし、実際に戦国時代の攻城戦と違い、現在の国家間の「戦争」は、当然に国家の総力戦であることは否めない事実である。ここであえて「戦争」にかぎ括弧をつけたのは、戦争がなにも戦闘行為、単純に言えば人と人の殺し合いだけではなく、笑顔の外交の中にも繰り広げられている情報戦や、昨日のブログでも話題にしたが、鳩山元首相を呼んで領土問題を認めさせたり、あるいは南京大虐殺があったという前提で物事を話すことによって、日本の元首相が公式にそれらの歴史的事実を認めているということを示す「宣伝戦」が存在していると言うことを意味している。
 日本人の場合は、これらの情報戦や宣伝戦をどうも少なく、小さく捕らえてしまうところがあり、基本的には「殺し合い」以外は戦争と捉えない部分が存在する。しかし、実際に「殺し合い」は、これら外交交渉やあるいは宣伝戦の失敗によって戦闘行為がなければ物事が快活しない、単純にいえば、殺し合いを行わなければならないくらいに、国益を侵害されてしまい、日本国において国民が通常の生活または発展が望めないときに殺し合いが行われるのである。実際にそれらの内容がわかっていない人は「戦争反対」といいなあら「情報戦」「宣伝戦」「外交戦」において、安易な妥協をしてしまい、日本の国益を結果的に侵害することになってしまう。まさに、鳩山本首相をはじめとする民主党政権における外交がそのような内容になっていなかったか。もちろん、その辺が「都合が良い」と思われたから、当然に、鳩山首相が中国に招待されると言うことになるのであるが、その意味が正確に伝わっていない。もっと単純にいえば、中国が最も政治低に使いやすい「駒」であるから、経費をかけてでも鳩山元首相を呼んだのである。
 しかし、そのようなことをしても、日本人はああ利だまされない。日本人は中国人と異なりその国民の「自分で考える力」はしっかりとしているようである。その点が今日の話題、要するに、日本からの中国への投資が減ったと言うことにつながるのである。

12年対中投資3年ぶりマイナス

 【北京共同】中国商務省は16日、2012年の対中直接投資実行額が前年比3・7%減の1117億2千万ドル(約9兆8千億円)だったと発表した。前年割れは、リーマン・ショックの影響を受けた09年以来3年ぶり。経済発展を支えてきた海外からの投資の鈍化は中国の景気回復の足を引っ張りそうだ。欧州債務危機による世界経済低迷と中国の労働コスト上昇を背景に、外資系企業の間で中国進出見直しが広がったことが主因。

2013年1月16日(水)11時34分配信 共同通信
http://news.nifty.com/cs/headline/detail/kyodo-2013011601000979/1.htm

尖閣諸島問題、日中両国の貿易や投資に悪影響―米格付け機関

 2012年12月20日、米3大格付け機関のムーディーズは報告書「格付けの展望」を発表した。同報告書は、日中両国の島を巡る対立が「LOSE-LOSE」の局面を招くと指摘した。同報告書の内容は下記の通り。環球網が伝えた。
 中国の航空機が今月13日に尖閣諸島の上空に接近すると、日本側は戦闘機を派遣しこれを遮り、外交ルートを通じて中国側に抗議を表明した。これは日中の尖閣諸島の主権問題のさらなるエスカレートを示す出来事だ。双方の経済・格付けに大きな影響は生じていないが、両国間の貿易・投資関係が破壊されれば、双方にとって利益はない。
 緊張関係のエスカレートは、日本側により大きな影響をもたらしている。中国国内で日本製品不買運動が生じ、日本の9月の対中国輸出額は1.7%減少した。このうち自動車・大衆消費電子製品メーカーが最大の被害をこうむった。日本経済の成長は過去10年間にわたり輸出に過度に依存していたため、対中国輸出がさらに悪化すれば、日本経済の実力が損なわれる可能性がある。対中国輸出額の減少はまた、日本の貿易状況の悪化を引き起こす可能性がある。そのために今年9月、季節調整後の経常収支が初めて赤字に陥った。
 領土問題のエスカレートについて、中国も無傷ではいられない。日本との対立は、5月にスタートされた日中韓FTA交渉を脅かしているが、これは中国企業の輸出ルート開拓に不利な影響を及ぼす。日本は中国最大の輸入商品供給国だ。貿易自由化により中国人消費者はより安価な輸入商品を購入できたはずだが、交渉の中止によりこの利益が失われることになる。
 中国人の日本企業に対する反発も、日本の中国投資を脅かしている。中国商務部(商務省)が発表した外資系企業直接投資データによると、中国のすべての外資系企業直接投資に占める日系企業の比率は、約7%に達した(外資系企業の対中国直接投資は、香港やオフショア金融センターを中継地としているため、日系企業の比率が過小評価されている可能性がある)。中国の輸出成長と技術向上の多くは外資系企業によるものであり、外資系企業の直接投資が集中する地域では、1人当たりの所得増加率も高い。
 今後10年間、中国経済の成長は労働力の増加ではなく、生産力の強化に依存することになる。ゆえに日本の対中国直接投資の減少をもたらす日中両国の対立は、中国の長期的な生産力、富の蓄積を脅かす恐れもある。(提供/人民網日本語版・翻訳/YF・編集/内山)

2012年12月25日(火)15時1分配信 Record China
http://news.nifty.com/cs/world/chinadetail/rcdc-20121225016/1.htm

 さて、日本の中国への直接投資は1117億2千万ドル(約9兆8千億円)だったと発表されたらしい。実際にこの数字に関して信憑性があるのか、そもそも中国の統計であるから数字が正しいのか、それ以上に賄賂などを取っていないのかなどに関しては、非常に疑問の持つところである。しかし、増減に関しては、同じ統計を使えばよいと言うこと、同時に、昨年の統計と言うことで民主党政権の時代の統計資料であるということを考え合わせれば、何も無理にこの数字を政策的に変更させたと言うことも考えなくて良いのではないか。要するに、金額の細かいところはわからないものの、3%減少と言う部分に関しては、その幅には疑問があっても、減少傾向にあると言うことは間違いがない事実なのではないかと強く類推される。
 その上で、反日デモ、尖閣諸島問題が大きく影を落としていると言うのであるから、その内容はなかなか清国であり、中国において政治が経済の足を引っ張ると言う結果になったと言うことを意味している。当然に、日本は、それらの内容に関して非常に大きな問題をはらむことになり、その内容はなかなかの問題になるのである。
 中国の経済に関しては、当然にその内容が大きな問題になることはいうまでもない。そして、そのことが中国経済の足を引っ張ることになる。世界で最も投資意欲の強い国のひとつである日本が減少傾向にある、またヨーロッパもギリシア問題などで投資ができる余裕にない。アメリカがシュールガスなどの生産によって、アメリカ国内に製造業が回帰してしまい、中国に対する発注が減る。その上で貿易の安全性が護られないと言うことから、各国からの投資が東南アジアやミャンマー・バングラディッシュなどに移行すると言うことになれば、中国の居間まで存在した発展はなくなってしまう。中国国内が、消費大国になったとしても、その消費を行うための「原資」がどこにあるのかと言うことになり、その原資がなくなった瞬間に中国は完全崩壊をする可能性が高いのではないかと言うことを考えるのである。
 この辺は、私の著書「2014年中国は崩壊する」の中にも書かれていることになるのであるが、実際にこの本の中にあるエッセンス。要するに中国人の国民性と、中国人の消費性向、そして、中国人の面子の世界を考えれば、中国は「認識しながら破滅に向かってまっしぐらに進む」しかない。それを避けるシナリオは、いくつかあるが、最も簡単なのは「戦争」まさに「戦闘行為による破壊と再建」が最も良いと言う話になるのである。
 単純にニュースとしては中国の投資が減ったと言うだけである。しかし、今回のニュース解説。二日にわたって行ったのであるが、本当のニュースの革新は、いくつかのニュースをあわせて読みひとつの意味を見出すことができなければ、読むことはできないということになるのではないだろうか。
 当然に、本来報道はそれらをあわせた社説や解説を出すべきであるが、それらに関してまったく行わない日本の報道環境もおかしいと言わざるを得ない。

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非常に中国的な硬軟取り混ぜた日本への圧力に屈するな!

非常に中国的な硬軟取り混ぜた日本への圧力に屈するな!

 古来、団結の強い「攻城戦」を行う場合の常套手段としては、片方で強く出ながら、一部の人間に甘い条件を出して裏切らせるのがひとつの手段である。豊臣秀吉が戦国時代を終わらせた(よく「日本統一」と言うが、実際は、天皇によって日本は統一されているので、あえてこのような表現にさせていただくが)関東後北条氏との戦い、具体的には小田原城の攻城戦に関することである。軍神と言われた上杉謙信も、あの武田信玄も攻め込みながら滅ぼすことができなかった小田原城であった。北条氏政、氏直父子は、上杉武田をも跳ね返した小田原城の堅城と、現在の小田原市市街地のほとんどを含む小田原城の備え、そして、中にあるたくわえなどを考えれば、数年間は持ちこたえられ、その間に囲んでいる豊臣軍が軍規が乱れてくると言う考え方をしていた。
 しかし、この堅城に対して、豊臣秀吉はあまり力押しをせず、ひとつには石垣山という小田原城から見える玉の上に城郭を作り、長期戦をものともしないと言うことで小田原軍に圧力をかけながら、片方で松田憲秀や成田氏などを裏切らせ小田原城内の軍隊を崩していった。実際にマンネリ化したこう着状態においては、そのような規律の乱れが大きな亀裂を生む。まさにその内容が「疑心暗鬼」を産み、そして外の敵よりも中の裏切り者を探すと言うことに大きな力が咲かれることになるのである。
 これは、その後の大阪冬の陣でも同じ。大阪城に集まった10万人の浪人を非常によく整備していた。その意味では後藤又兵衛や真田幸村、木村重成といった徳川幕府からはみ出してしまった武将の指導力はすばらしいものであったと考えられるが、それでも、大砲を本丸に打ち込み、そして淀君そのものを和議に持ち込み、結局夏の陣で豊臣を滅ぼしてしまったのである。
 あえて、日本の例を挙げたが、中国やヨーロッパなどでも同じような例は少なくない。中世までの攻城戦において、このような内部の裏切りと、外部からの猛攻とのギャップで疑心暗鬼を生み出し、城を崩すと言う方法はいくらでも存在するのである。
 さて、本来国家観の戦争でこれは存在しない。実際に、日米の戦争で、日本人がアメリカ人に裏切ると言う話は存在しないのである。しかし、中国の場合は十分にそれが存在する。チンギス・ハンが中国を落とし元という王朝を打ち立てたとき、進んでモンゴル軍に加担した漢民族は少なくないのである。また、その元が力がなくなってきたときに、朱元章に加担した波乱軍もやはり同じ漢民族なのである。中国は伝統的に相手の中に入り込みスパイやそのような内容を行いながら、相手を裏切らせる、または相手から情報を江ながら戦ってゆくと言うのを伝統的に行っている。それは中国と言う国家、民族の特長であるといえるのではないか。

中国・人民解放軍指導部「戦争に備えよ」 「尖閣を念頭」の見方も

   中国人民解放軍の総参謀部が全軍に対して、「戦争にしっかり備えよ」との指示を出していたことが明らかになった。2013年1月14日付の軍機関紙、解放日報が伝えた。指示では、実戦に対応出来るように部隊を厳しく訓練するように求めている。この指示については、産経新聞や時事通信が、尖閣諸島の問題を念頭に、自衛隊との軍事衝突も意識しているとの見方を伝えている。

2013年1月15日(火)12時15分配信 J-CASTニュース
http://news.nifty.com/cs/headline/detail/jcast-161201/1.htm

解放軍と測量当局、共同で尖閣諸島の測量実施へ=中国報道

 中国メディア・中国新聞社は15日、中国の国家地理測量当局が今後軍の関係機関と共同で、沖縄県の尖閣諸島を含む中国が領有権を主張する全ての島の詳細な測量を実施することを明らかにしたと伝えた。
 記事は、14日行われた国家基礎地理情報センターの「地理測量情報白書」発表会に出席した同センターの李志剛主任へのインタビューで得られた情報を紹介した。
 李主任は、現在までに第1期海洋島測量プロジェクトがおおむね完了し、すでに6400の島の正確な位置を定めたほか、1:2000から1:10000までの測量図約5000枚を完成させたとし、今年6月ごろに測量データを公開する予定であると語った。
 李主任はさらに、第1期プロジェクトでは主に海岸線から100キロメートル以内の島の測量にとどまっており、大陸から300キロメートル離れた尖閣諸島は範囲外であったことを明かし、第2期の測量プロジェクトでは尖閣諸島を含む「全ての海域を網羅する」と語った。
 記事は、第2期測量プロジェクトの実施時期について「将来」という表現にとどめており、具体的には明らかになっていない。(編集担当:柳川俊之)

2013年1月15日(火)10時27分配信 サーチナ
http://news.nifty.com/cs/world/worldalldetail/sech-20130115-20130115_00011/1.htm

鳩山元首相が訪中
 【北京時事】鳩山由紀夫元首相は15日、北京を訪問し、中日友好協会会長の唐家※(※=王ヘンに旋)前国務委員と会談、尖閣諸島をめぐり鋭く対立する日中関係などについて意見交換した。鳩山氏の訪中は中国側の招待によるもの。 

時事通信社2013年01月15日23時41分
http://news.livedoor.com/article/detail/7316364/

 現在の日中関係は、改めてここで説明するまでもない。実際に尖閣諸島問題だけではなく、琉球独立まで目指し、また台湾の併合、うまく行けば日本語と併呑する勢いを中国は見せているのは間違いがない。もちろん中国の執行部が本気でそのように考えているのかどうかは不明であるが、その内容に関して、いわれていることは確かであるし、指導部やトップがそのように考えているかどうかは別にして、ある程度の保守派や中間管理職はそのようなことを考えている向きがあるのはいわれている通りである。
 そして、現在のような政権交代時、要するに政権の不安定なときにはそのような中間管理職の以降で国が動きやすい状態である。
 そのときに片方では軍備を強化し尖閣諸島に備えるようなことを言う、これは実際に尖閣諸島に向けた軍事拡大が行われたかどうかは不明である。しかし、そのような「宣伝戦」を行うことによって日本国内における不戦・反戦の機運を高めると言うことをするのである。そして、中国への妥協するような世論の創生を狙っていると考えられるのである。一方、中国は尖閣諸島の領有を狙っているのであるから、その周辺の実効支配を強めると言うことをする。そして、後北条氏の小田原攻城戦における松田憲秀にあたるのが「鳩山由紀夫元首相」である。中国は、鳩山氏をもっとも日本の中で「中国に裏切りやすい人物」と言うように思ったのであろう。そして、その影響力が元首相であるのでその権威を利用することが可能と考えたのではないか。そのような考え方そのものが、まさに、その内容を完全に同日に実行している。
 まさに中国が、ある意味で本気で尖閣の領有を狙っていると言うことがわかる。実際は、日中関係において、これが胡錦涛現国家主席が指導しているのか、習近平時期国家主席が指導しているのか、あるいはそのほかの人の独走なのかもわからない。情報によれば、鳩山元首相は唐元常務委員と会うと言うことであるが、実際には、なかなか大変なものである。逆にそのことを警戒する、そして、先覚の軍備と合わせて物を見ることのできない民主党の元政権、特に鳩山氏の周辺はあまりにも非国民的な動きではないのか。
 「全て歴史の中に答えがある」というのは、偉人の言葉。まさにそのような形になるのではないか。技術や通信手段移動手段が変わっても、人間は昔も居間も変わらない。中国人の気質、日本人の気質を考え、その人間と言うことを考えながら、外交を行わなければならないし、元首相であれば、その辺のことを考えて国家のために現在の外交の邪魔をするようなことをしてはならないのではないか。
 日中外交は、これらの中国の対応を見ながらしっかりと行わなければならない。

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売春禁止は違憲という主張をする韓国人の従軍慰安婦問題

売春禁止は違憲という主張をする韓国人の従軍慰安婦問題

 「面白い」言っては不謹慎かもしれないが、産経新聞の記事でなかなか興味深い内容が出てきたので、その内容に関して少し見てみたいと思う。もちろん、韓国と言う国家のそのものの体質は韓国人の気質などが現れているし、同時に、その内容に関しては日本と韓国の関係においてもその内容が明らかになってくるのである。
 韓国で、売春婦が40万人いると言う。もちろん、この数字に関しては産経新聞の記事に入れているものであるから、私にその真偽を確かめられても困る。しかし、数字の多い少ないは別にしても、韓国と言う国家がある意味で性風俗そのものが非常に安易な国家であると言うのは、私も体験上良くわかるものである。
 参詣の新聞記事の中に龍山駅という鉄道の駅名が出てくる。この周辺を「588(ウーパルパル)といい、まさに「飾り窓の女」の「紅燈街」のばしょである。ソウルの男性に「588」と言えば、誰でもが「好きですね」と言われる場所だ。もちろん私もいったことがある。所狭しと色窓が続きその窓の中に女性が座っている。自動車で通ったのだが、女性が窓の中から声をかけてくる。「私きれい」「遊んでいかない」という感じだ。ざっと数百件あると言うその色窓やは、確かに渡しぎったと木で「再開発指定」となっていたはずである。ソウルの友人に聞いたところ「李明博大統領がもともと現代開発であったために、経済対策は全て再開発になります。そのために、このような街は全て破壊してしまうのです」と少し残念そうなことを言っていたはずである。
 しかし、そのようなところにいかなくても、女性を「買える」場所はそのようなところにいかなくても良い。実際に、カラオケなどでも女性は十分に買うことができるし、また、キャバレーとかディスコに行けば、少し年かさの女性のほうから男性を逆ナンパしてくるのである。
 まさに、韓国ソウルは「性風俗」の町、そして「男性の天国」と言うことができる。そのために、韓国では「ソウル」を「親子・女性が楽しめる街」とするために、芸術やアミューズメントの顧問を置いているほどである。カジノと性風俗と言うのがソウルの名物。その内容では女性と子供の観光客は亡くなってしまう。そのために韓流ブームを作り、また、美容整形や韓国あかすりなど日本人の女性(オバサン)観光客の誘致を行ったのである。もちろん、その内容の発案は李明博大統領がソウル市長であったときであったのだが、その日本人観光客も李明博大統領の竹島上陸と天皇陛下への不敬発言で全て水泡に帰したと言える。
 そのような状態の中で、売春婦たちが、自分たちの「職業」をかけてさまざまな行動を起こしているようである。

性売買女性40万人…韓国で売春禁止は違憲か?

【外信コラム】ソウルからヨボセヨ
 韓国では近年、売春のことを「性売買」といい「性売買特別法」で取り締まりが強化されている。その結果、都心にあったいわゆる「飾り窓の女」の「紅燈街」もさびれる一方だ。先日、ソウル市内の龍山駅で降りたところ、駅前でピンクの明かりを連ねていたその種の店が全部姿を消し建設工事現場になっていた。
 龍山駅は国民皆兵で入隊する新兵たちが訓練所のある「論山」に向かうための集合場所で有名だった。つらい軍隊生活を前に「せめて一夜を」と、そんな由来で駅前にそんな場所ができたという説を聞いたことがある。軍隊をめぐってはよくある話だ。
 ところで「紅燈街」を無くしても他の場所に分散、多様化するだけで性売買は無くならない。「韓国ほどお金で性を買うのがたやすい国はない」(11日付、東亜日報社説)といい、性売買女性は全国で40万人にのぼるという。
 彼女らが当局の取り締まり強化に対し「われわれは性労働者!労働者に働く権利を!」と抗議デモする姿がよく話題になるが、今度は性売買容疑で逮捕された女性が法廷で「成人男女の私的な行為に法律が介入するのは違憲」と異議を唱えた。そのため憲法裁判所で是非が判断されることになったと、性売買問題があらためて大きな話題になっている。(黒田勝弘)

産経新聞2013年01月12日18時15分
http://news.livedoor.com/article/detail/7310007/

 職業選択の自由というのは、まさに日本の憲法にもある項目であり、当然に韓国の憲法にもそのことは存在する。資本主義経済の中においては、カースト制度を持っているインド以外において、ある意味で当然のことであり、また、職業選択の自由そのものが、その中においてすでに人権として認識されているのである。
 一方で、売春と言うのは、まさに性差別の温床であり同時に、女性に対する虐待のひとつと言うことが言われている。国連でもこれらの行為を「人身売買」というように名づけており、女性の人権委員会でさまざまな警告などを発しているのである。
 しかし、この二つが合わさったらどのようになるのか。まさに韓国の売春婦が「われわれは性労働者!労働者に働く権利を!」と抗議し、法廷で「成人男女の私的な行為に法律が介入するのは違憲」と異議を唱えると言うことになるのである。ある意味で、売春と言う行為を、男性の側から見れば人身売買であるし性差別なのかもしれないが、女性、特に積極的にこの売春婦を職業としている人々にとっては、立派な職業なのである。自分が買われるために、自分を磨き、自分をきれいに見せるようにしているのである。しかし、それらが法律で禁止されていると言うのである。40万人のうち何人が売春婦を職業として認識しているかは不明であるが、その中の一部はそのように認識しており、その中において法律が間違えていると言う主張をしているのだ。
 さて、韓国人の女性そのものの発想がそのような内容になっているのである。このような気質はまさに昔も今も変わらない。この内容は単純に考えれば、従軍慰安婦の中にも生かされているはずである。単純にいえば588地区の売春婦もカラオケのホステスもそうであるが、商売として外国人、相手が日本人であってもまったく官界がない。その良く行にプライドのようなものさえも感じることがある。同時に、従軍慰安婦もそのような感覚の女性たちがいたことは当然にありうることであるし、当時の日本軍の慰安婦が売春婦で構成されていると言うことも十分に考えられるのである。逆に、このような裁判が行われるのであれば、当時の従軍慰安婦に関してもその内容をしっかりと検証し「売春婦ではなかった」と言う証明を韓国側が行うべきではないのか。
 現代の韓国の女性たちがまさにそのような感じである。女性の気質はそんなに簡単に変わらないのではないか。現代の国情を見て、その国民性から歴史を見るということも必要なのではないかと考えるのである。

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マスコミ批判に関する一考(125) 中国で発生したマスコミの政府への抗議

マスコミ批判に関する一考(125) 中国で発生したマスコミの政府への抗議

 マスコミ批判に関する一考の平成25年第一回目である。ちなみにこの内容もすでに125回も続いているようである。あえて「要である」と言っているのは、この通し番号もなかなか信用できないものであって、重なっていたりぬけていたりする部分があるので、よくわからないものがあるのだ。
 その上で、平成25年の第一回目を何にするかと思ったのであるが、実際に、平成25年もいきなり日本のマスコミを叩きまくると言うのも良いのかもしれない。しかし、実は今度(宣伝ですが)祥伝社さまのご好意で、新聞に関する批判本を出版することになり、その内容に関してかなりさまざまなねたを放出してしまったために、なかなか日本のマスコミのことをその本が出るまでは出せないと言うことがあるので、なんとも悩ましいことである。
 そこで、マスコミと言うことで、とくにこの連載は「マスコミ批判に関する一考」ということで、強引に「日本の」と言う限定がないなどと嘯きながら、がんばってみると、なかなか面白い話が非常に多いのである。たとえば東アジア各国のマスコミの「日本右傾化警戒」記事などは、「右傾化」=「軍国主義」と言う論理の飛躍が出来上がっているところに非常に面白い内容が出来上がっているのであるから、なかなか面白い。その同じ論理をニューヨークタイムズまで行っている。逆に言えば、大東亜戦争および太平洋における日本海軍は、それだけ世界に衝撃を与え、そして非常に強く恐れられていたと言うことがいえるのではないか。日本の保守派の人々は「印象操作」などという批判もするし、私自身そのように思うのであるが、一方で、その保守派の人々とは別に、それらの批判派、戦前の帝国陸海軍の精強さを物語、戦後日本が軍隊を持たなくなって70年たつのに、その強さが彼らのDNAの中にしっかりと刻み込まれていると言う意味において、ある意味光栄と言うか面白いと言うことを考えてしまうのである。
 と言うようなことを記事に書いていると、やはり日本のマスコミの印象操作の話になってしまう。そこで、日本のマスコミと関係のない記事はないのかと探していると、やっと見つけたのである。今回はその記事に関して、後半少し意見を上げてみたい。

<中国> 記者スト宣言…ネット支持拡大 党幹部改ざん指示で

 【上海・隅俊之】腐敗の追及など改革的な報道路線で知られる中国広東省の週刊紙、南方週末の新年号記事が、メディアを管轄する同省共産党委員会宣伝部の※震(たく・しん)部長の指示で改ざんされた問題で、同紙の記者らによる抗議と、封じ込めを図る当局の攻防が激化している。記者たちは7日、※部長の引責辞任や謝罪を求めてストライキを実施。当局側は中国版ツイッター「微博」で記者たちの書き込みを次々と削除するなど、締め付けを強化した。しかし記者らへの支持はネット上で爆発的に拡大しており、当局側はさらなる対応を迫られそうだ。
 南方週末の本社前には7日午前、ネット上のデモの呼び掛けに応じた市民らおよそ数百人が集結した。周辺には多数の私服警察官が配置され、緊張が高まっている。
 この問題で、同紙の微博公式アカウントには「(記事が改ざんされたという)ネット上のうわさは事実ではない」との説明が6日夜、突然掲載された。これに対し同紙記者らは「(当局側に微博の)パスワードを出すよう要求された」と主張、当局の圧力で編集幹部が勝手に書き込んだと暴露した。その後、同紙の編集委員ら約90人が連名で「公式アカウントの書き込みはウソだ」との共同声明を発表。声明は数万回転送されるなど反響が広がっている。
 南方週末の関係者は毎日新聞に対し「特に前線の記者には、報道介入に対する怒りが強い。徹底的に闘う」と語った。
 当局側は、南方週末の記者たちの微博上の訴えや告発を次々と削除。微博では、「南」「方」「週」「末」のいずれの漢字で検索しても「関連法規により結果は表示できない」と表示され、問題についてまったく検索できなくなっている。ただ、微博では「一緒にデモをしよう」「宣伝部長は辞任せよ」など同紙を支持する市民の意見の書き込みが当局の削除を上回る規模で続いており、規制は事実上機能していない状態だ。
 中国メディア関係者によると、南方週末は3日付の新年号の記事で、憲法に基づく政治の重要性を訴える記事を用意していた。しかし、※宣伝部長からの直接の指示で、担当者が不在のうちに現状を支持する内容の記事に差し替えられ発行された。※宣伝部長は昨年5月、国営新華社通信の副社長から転任。「改革に積極的な南方週末の編集部に何度も介入してきた」(中国紙記者)と言われ、報道に対する姿勢が特に保守的と評される。
 習近平(しゅう・きんぺい)総書記による共産党の新指導部が今後、この問題でどのような対応をとるのかが注目されている。北京で4日に開かれた全国宣伝部長会議では、前中央宣伝部長で新たな政治局常務委員となった劉雲山(りゅう・うんざん)氏が党の政策や原則について「正確な立場と確固たる態度を持たせなければならない」と指摘、報道機関への指導を徹底するよう求めたばかり。今回の問題でも、新指導部が強硬姿勢をとる可能性がある。
 ※は「席」の巾が尺

 【ことば】中国のメディア規制
 中国には共産党機関紙、人民日報など「官製メディア」以外に、広東省の南方週末や上海紙の東方早報など独自報道をする地方紙(都市報)が各地にあり、読者の人気を集めている。ただ、いずれも編集幹部の人事権を持つ中国共産党委員会中央宣伝部の管轄下にあり、党体制の維持に不利な報道は検閲を受ける。11年に起きた高速鉄道の追突事故では、車両を地面に埋めるなど鉄道省の対応に批判が集まったが、宣伝部は国営新華社通信の記事以外を使うことを禁止、記者だけでなく国民の強い反発を呼んだ。

毎日新聞2013年01月07日12時05分
http://news.livedoor.com/article/detail/7291871/

南方週末、改ざんに抗議示す

 【北京共同】中国当局による記事改ざんで揺れる広東省の地元紙、南方週末は10日、今週号を予定通り発行した。論評面で他紙の記事などを引用しながら「一方的に強権で現状を変えようとすると無用な混乱を招く。絶対に行ってはいけない」と主張、改ざんに間接的に抗議の意を示した。改ざん問題には直接触れていないため、共産党宣伝当局も発行を容認したもようだ。今後も慎重に政治改革を求める主張をしていくとみられる。

2013年1月10日(木)15時54分配信 共同通信
http://news.nifty.com/cs/world/worldalldetail/kyodo-2013011001001178/1.htm

 中国と言うか中華人民共和国というところの共産党と言う組織は、情報を統制しそしてその情報の統制後に共産党のすばらしさをとくことによって、共産党政権の維持と共産党政府の延命を図っていたと言うことがいわれている。当然に、中国共産党は、その組織内に情報を管轄する部署がたくさんあり、その部署において情報をしっかりと管理している。しかし、鄧小平の改革開放経済以来、実は、完全に共産党の広報機関だけでなく、それ以外の内容の部分もあげられることができるようになった。ある意味で改革開放経済、そして天安門事件やそのほかの情報開示要求などから、中国の人民が徐々に情報の独自性を求めるようになっており、また共産党側も、すべての情報を一元で管理するとこはかなり難しいと言うことになっている。そのために、改革開放経済開始後しばらくたってからと言うことになるが、独自報道をする地方紙やタブロイド版などは、徐々に許可されるようになっていったのである。もちろん、そのきっかけは二つ。ひとつは改革開放経済による外国メディアの流入や外国人投資家の流入で、外国人相互通信などを認める話があったこと出る。しかし、それ以上に重要だったのが、「地域の経済情報」もっと端的に言えば、「お買い得チラシ」が、何も中国共産党で管轄しなくても良いと言うものになったのである。もちろん、この許可のプロセスにインターネットは関係ない。インターネットはもっと後の話である。
 それら「地方タブロイド」が徐々に、インターネットなどに情報を取られるようになり政治情報なども出るようになった。特に、一昨年の新幹線の脱線事故では、それらの情報とインターねとが最も共産党政府を苦しめたのである。そのことは、まさに、共産党をして「地方紙間でも情報統制の管轄を広げなければならない」と言う雰囲気を作り、その行過ぎた「共産党擁護意識」が、いつの間にか改竄介入と言うことになったのである。そして、改革開放経済によって、共産党の介入をはねつける力のある地方新聞社は、何しろ資本主義経済(実際は社会主義的市場経済らしいが)の論理によって自分たちの生活が成立しているのであるから、法律の禁止事項さえなければ「自由」を謳歌しているものであり、それまでの完成メディアのような管轄に屈することがなくなったのである。
 最終的には、力をつけた民衆が勝つのであろうが、このせめぎあいが習近平が国家主席になってからどのように変化するのかは最も面白いところである。
 ここで、本来ならば、このような情報統制の国に偏向している日本のマスコミと続けるところであるが、そこの部分は冒頭に紹介した本にお任せするとしよう。
 今回は火曜日であるが昨日まで連休であったために、火曜日であるが、この連載にした。

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臨時連載 宇田川版日本教育論(4)日本の徳育の復活を!

臨時連載 宇田川版日本教育論(4)日本の徳育の復活を!

 さて、日本での徳育がなされていないこと、そして、日本の徳育の現場であった家庭や地域社会がその機能を失いつつあり、また学校がその任に堪えられないどころか、その任に堪えうる教員を集めることもできない学校教育の現状を見てきた。実際に、「徳育」という立場から考えれば、はっきり言って日本の教育は完全に崩壊してしまっていると言って過言ではない。
  では、これを復活するためにはどのようにしたら良いのであろうか。今回は、そのことに関して、ひとつの「例示」としてその内容を考えてみたい。

  1 教育者教育
  そもそも、徳育を教育する者、要するに教育者が教育されなければならない。教育者の教育を行うというとなかなか難しいのであるが、実際の部分において、教育する側がなっていなければ、子供たちが徳育を受けられることはないのである。しかし、実際に教育する大人を教育できる機関、または教育者がいるのかと言う疑問にぶち当たる。その部分に関しては、実際は「四書五経」「戦前の教材」「教育勅語」などをしっかりと学ぶと言うこと以外はないのである。この連載において、論語の素読または教育勅語の暗礁ということについて書いたが、大人になってからは当然に意味を理解してそれを暗唱しまた実践すると言うことができて「当然」なのである。それは、文字の意味がわからず音で暗記する子供ではなく、大人は当然にそれらの内容に関して感じやその意味がわかると言うことができるのであるからだ。中国の古い官僚試験の中に「科挙」と言うものがある。もちろん、詰め込み教育の最も進化した形として批判的な見方が強くあったが、一方で科挙試験があった間は、中国の政府官僚組織にいくぶんかの道徳心なども存在し、たびたび、各王朝において「中興の祖」や「改革の士」が出現しているのである。まさに、そのようなことこそ、ある意味で文書による教育の賜物である。
  現在の教員試験は、ある意味で心理学などはしているものの、本人の道徳心やあるいは勇断への帰属心、集団を護るための「義勇」と言ったところなどはまったく問われていない。集団たとえばムラ社会や地域社会、もっと小さければ家庭であるし、もっと大きければ国家と言うことになるが、自分の所属する集団と自分の関係を規定する内容が存在しないことが、現在の教員において最も欠けている部分であり、その内容は、まさに現在の日本の最大の欠点にな手いると言って過言ではない。そもそも教員の中に国旗や国家と言う自分が所属する日本国を否定する人がいるのだから、そのような人に集団と個人の位置づけを教育できるはずがない。しかし、東日本大震災において、自然災害から集団を救うために犠牲になった人々の美談などを聞けば、当然にその部分が必要であり、それを教えると言うことの重要性が問われるのではないか。
  このようなことも考えて、徳育を行える教育者の教育(養成)が最重要課題ではないかと考えるのである。
 
  2 地域社会の復活
  教育者を教育しても徳育を実践できるのは学校だけと言うことになってしまう。単純にいえば、本来、徳育を子供たちが実践する場が社会でありその社会が経世sれていなければ、いくら耳学問で物事を考えたとしても、また習ったとしても、実地でできるとは限らない。そうなると子供たちの活動範囲の中において、徳育を実践できる舞台、要するに地域社会のコミュニティの復活が絶対に必要になるのである。もちろん、模範となる大人たちがいて、そして、それを指導する長老たちがいてと言う音がもっとも理想的である。ある意味で落語に出てくる「裏のご隠居」のような人々がいる町がもっとも理想的なのかもしれない。何かあればご隠居のところに相談に行き、日々の些細な相談も含めて街に人が集う、その中に子供たちがいると言うのが理想なのではないか。
  地域社会の復活は、ある意味で、そもそも大人同士の交流と言うことが必要である。そしてその中においてある程度の役割分担と序列があり、その役割分担と序列を護ることによって、ほかの者がその組織型の中に組み込まれると言うことである。要するに、ひとつにはとしか、そして核家族化ということが地域社会の破壊の原動力になったことは否めない事実であるが、一方で「裏のご隠居」的存在の平均化、そして平等化が、役割分担と序列を嫌ったと言う部分も地域社会の崩壊につながっていると言えるのではないか。それらを大人たちがしっかりと実践することによって、そして、その組織に加わることで、もちろん義務や責任も発生するが、社会の一員としての役目ができるということが、まさに、ひとつの大きな一歩になるのではないか。
  もうひとつは、地域社会の復活の「メリット」をしっかりと認識することではないか。基本的に地域社会における責任や義務を「面倒くさい」と言う人が少なくない。しかし、それらこそが「徳育」として子供たちの教育にもっとも必要なものであると言うことをしっかりと認識する必要があるのではないか。それらを地域社会が実践することこそ、もっとも必要な内容であると考えられるのである。
 
  3 親学の実践
  最も重要なのが家庭での教育である。実際に家庭での教育は、何も学校や塾で教えるかのごとき内容は必要がないと考えられるのである。では、家庭でもっとも必要なものは何か。単純いいって「子供との会話」ではないか。
  現在の親子関係で最も足りないものは、親とこの「相互理解」であると言うことがいえる。まさにその相互理解ができないときの対処法は「会話」しかない。実際にその会話は親のほうから子供のほうに行わなければならない場合が少なくない。実際に、親は、現在の自分の経験と現在の自分の知識を元に子供と接してしまう場面が少なくない。しかし、自分たちが子供の頃または自分たちが思春期の頃「親は何もわかってくれない」と言うような思いをした経験はないだろうか。現在の自分の子供たちもそのように考えている。実際に、親子なのだからその思考パターンなどは似ていて当然である。その当然似ている思考パターンが、親が自分の経験から、自分が子供のときにどのようなことを思っていたかを思い出し、その少し先を見ながらアドバイスすると言うのが最も良い話である。自分の詩型が「良い例」なのか「悪い例」なのかは別にして、その内容をしっかりと考えなければならないと言うことがいえるのだ。
  後は、親は子供に自分の姿を見せると言うことが最も良いのではないか。実際に「一緒に遊ぶ」「一緒に勉強する」もちろん忙しい仕事の合間で休みたいこともあるが、そこは少し子供のために時間を割くのはそんなに悪いことではない。進んで対話をし、自分の姿を見せ、そして、その中において一緒に何かをする。当然に、一緒に何かをすれば、子供は自分と似ていることを認識し、また子供も自分が親と似ていることを認識するのである。後は親が自分の行動で「徳育」を実践すれば、とうぜんにその内容が徳育となることになる。なお、たまに反面教師という場合もあるが、そこはほどほどに行うべきではないだろうか。
 
  このように見てくると、あえて一番初めに書いたが「日教組が」「左翼教育が」と言うことを書かなくても、実際に何がかけているかといえば「徳育」が欠けていると言うことになる。現在の居運たちそして日教組教育と言うものが「徳」のない集団であり、だから政治の世界における利権集団になり、また幅広い日本国内の内容を教えることもできず、偏向教育になってしまう。同時に、そのような教育を受けた人々が現在大人になってしまい、その内容が権利意識だけの塊となってモンスターペアレンツを作り出すと言うことになってしまう。しかし、それらは、まさに、自分の行動が子供に直接影響するという「親学」と言う考え方をすれば、当然に子供が親になったときに自分と同じようなモンスターになってしまうと言うことを考えれば、その社会性の欠如が問題になることは明らかであろう。しかし、日教組教育が徳育を放棄してきたことによって、まさに、集団性、地域性、帰属意識などがまったく理解できない大人が生まれてきてしまっている。そのことこそ、最大の問題なのかもしれない。
  さて、よく左翼教育などと言っているが、実際に、その内容を見ると「徳育の復活」と言うことを唱えるだけである程度解決してしまうのではないかと考えてしまうくらいの者である。教育とは「知育」「体育」「徳育」であると言うことをしっかりと考えることによって、その内容を考えるべきではないのか。
  今回は「徳育」と言うことに焦点をあてて、教育に関する短期連載を行った。今後もこのような内容をたまに行い、安倍内閣の目指す教育改革のひとつの個人的な提言として効果いす用と思う。

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臨時連載 宇田川版日本教育論(3)親学と学校教育と塾と徳育

臨時連載 宇田川版日本教育論(3)親学と学校教育と塾と徳育

 昨日「徳育」というものについて考えてみた。実際に教育勅語の暗唱ということに関しての意味を説明したのに過ぎないのであるが、実際に意味を知らない状態であっても、その知らない内容を暗唱しても非常に意味があると言うことをしていた。そのことが戦前の日本の道徳心と言うことにつながり、もちろんその道徳心があることが日本国がどんなに苦しい状態であっても一致団結して物事に当たるという原動力になったと考えられるのである。
  実際に、その内容は簡単に考えて、日本の教育の原点であると考える。ひとつは学校で、ひとつは、家庭で、ひとつは塾で、さまざまな教育を受けていた。また、大人になったら、「子は親の鑑」ではないが、実際に子供を育てると言うことに関し、その内容をしっかりと学びまた学んだ内容を伝えると言う方法を勉強しなければならなかったのではないか。そのことこそ、日本の教育の原点であると言えるのである。
  さて、教育の現場は実は四箇所ある。ひとつは「学校」「ひとつは「塾」そして「家庭」「地域社会」の四箇所のことを言う。何も教育問題と言って学校問題もしくは日教組問題ということと限定する気はまったくない。実際に教育の現場はこの四つもあるのだから、その四箇所の教育場所が四箇所ともに、しっかりとその特色を示して教育を行うべきであると考える。では、その「教育の特色」は一体なんであろうか。
  まず「家庭」での教育は、まさに、その個人差と言う人と人の違いを考えた上では、元も優れた教育の現場である。昔の科学と言うものはなかったかもしれないが、実際にDNAレベルで似ている人間が、自分の人となりを示すことまたは自分の経験や感じ方を生かすことをもって、子供を教育すると言うものである。その教育に関しては、当然に各家庭において基準が作られ、その家庭の基準において、社会とマッチングさせると言うことが必要である。その内容に関しては、食事作法や生活習慣などから、ある意味で「家業」のような社会で通用する技そして技術、または、料理屋家庭の味など、その生活全般から社会貢献まですべてに続くものであり、同時に、そこから生まれる価値観が存在する内容まで教育することができる。一方で、家庭の教育と言うことに関しては、当然に基準が各家庭ごとに行われることから、ごくまれに社会的常識と言う集合体から逸脱する部分が出てくる場合があり、また、その内容がかなり家庭と言う個人的な基準と趣向に左右される場合が少なくない。実際に、その内容に関しては、家庭と社会との違いで戸惑う子供たちも少なくないのと同時に、親がその違いを強調することによって過保護になったり、場合によっては、社会に対する攻撃性を持った「モンスターペアレント」になるパターンが出現する。家庭教育の問題は、その親の基準が社会から逸脱してしまったときに、「個性」で許される範囲と、そうではなく、社会からの逸脱として迷惑をかけてしまうパターンの葉境ができないこと、そして迷惑をかける場合においても、その親たちを止める「歯止め」ができないことなどがあげられるのではないか。要するにしっかりとした「家庭教育」を行うには、しっかりとした「親への教育」が必要と言うことになるのである。そのシステムがない限りにおいて、家庭教育だけにすべてを押し付けることは難しい。
  さて、次に「地域社会」である。地域社会は、昔はすごい重要な役割を持っていた。実際、日本は農耕民族でありその上、農耕における地域共同体単位に、いわゆるムラがひとつの集落を構成し、その小さい社会の中において生活が成立していたのである。当然に、ムラ社会の中の長幼の序や、あるいは社会風習のしきたりなどが存在し、その内容が地域性、特に季節や厳しい自然環境との共存を教えてくれているのである。これは、昭和の時代になっても同じであった。私などは子供頃に、駄菓子屋(今ではあまり見なくなったが)の近所などで、まったく知らないおじさんに良く怒られたりしたものである。最近では、子供のほうが怖くなったり実際に注意して何がおきるかわからないなどと言うものがあったが、昔は、そのようにして私が怒られると、親が一緒に誤りに行くなどと言う光景が良く見られたものである。地域社会は、そのように、本来は地域で暮らす人々に対して社会のルールを教える場所として、また、その中における「共同生活」の知恵や規則を教えるものとして子供に教育を施していた。逆に大人に教育を施す場合は、「村八分」などとして、一定の制裁を加えると言う形になっていったのである。一方で、地域社会は地域特有の内容なども行っていたために、祭り、盆踊りなどの楽しみも提供する場であったが、その中にもある程度普段よりも無礼講であるにせよ、しっかりとしたルールが存在したのである。しかし、この地域社会、近年、特に平成の世になってから徐々に崩壊しつつある。実際に、個人主義で、都会の中においては壁一枚隣の住人の顔も知らないなどと言うことが非常に多く、同じマンション内の殺人事件なども非常に多く出てきているではないか。地域社会は、家庭とかそのほかの者の王に何らかの規則や枠組み、法律などでできている集団ではない多面、本人同士、参加者の相互の信頼関係とその意識の向上がない場合は、簡単に崩壊してしまうと言うもろい部分を持っていると言える。
  さて、次に塾である。塾とは、基本的に「専門的な知識または対術、徳目の教育を行う同行の士の集まる場所」というかんじであろうか。最近単純に「塾」と言うと、一般には「学習塾」のことを指し、学習を目的とした同好の士の集まる場所として任意記されている。この場合は主に成績を上げるためのものであり、同時に、「知育」に特化したものであるといえる。一方、たとえば武道の道場や、茶道や華道の教室なども、この定義からいえば「塾」であると言える。現在の一般で言えば、塾は、ある意味でこの余蘊形になるが、昔はそうではなく、「世直し」や「社会知識を得る」などの塾も少なくなかった。このように書くとそんなものはないと言うかもしれないが、実際のところ吉田松陰の「松下村塾」や、シーボルトの「鳴滝塾」、緒方洪庵の「適塾」などはこれらにあたる。実際に、塾はある教師がいながらも動向の詩のサークルのような内容であり、その中において何を考えるんかと言うことが最も重要な内容になる。しかし、一方で塾は強制力があるものではない。そのために、優秀な技術を持った人がいても、教え方が下手であれば、当然にその内容はうまくいかなくなってしまうのである。塾としては、一方で経営と言うが稲が必要照り、その経営のために、本来の目的を逸脱した商業主義に走る場合が存在することは否めない事実なのである。
  そして、学校である。そもそも、古くは学校は政府のための勉強をする場所であった。また、武士のための学問所としては「足利学校」などが有名であり、これらは専門のことを学ぶのでありながら、一方で、政府のため(大名家のため)に学ぶ場所と言う感じがある。また広く学ぶために、塾のような同好の士と言うのとも少し違うような感じがある。しかし、明治以降の学校は、国民全員義務教育と言うことによって、ある意味において「家庭」「地域社会」の教育部分を引き受けながら、級寺子屋のような「読み・書き・そろばん」を教える。まさに「知育」「体育」「徳育」の「一般社会低な内容である初歩」を教える場所として、集団教育をさせると言うことがひとつの目的のようになったのである。実際に、同行の士でもなく、地域のつながりと言うだけでもなく、学力または何らかの学問と言うことで、同じ年齢の者ばかりがひとつの社会を形成し、その社会の中で同列に「知育」「体育」「徳育」を学ぶと言うのは、他の教育箇所にはないところであり、同時に、その内容に関しては「明治政府以降の政府が義務として国民に子供に教育を受けさせること」を忌めたものである。もちろん、成績の差や得て増えての克服なども必要であるし、同時に子供同士で助け合うなどの事を行うことによって徳育も教育できると言うことになる。昨日とり上げた教育勅語は、当然に、これらの内容であると言うことが言えるのではないか。そしてそのもっともふさわしい場所である学校において、「教育勅語」はそれを学び、実践する第一の場として道徳を実践してきたのである。
  さて、このように教育の場面を見てくると、なにもとく息がなくなったのは学校ばかりの問題ではない。実際に家庭内の教育の欠如や地域社会の崩壊と言うのがもっとも大きな要因になっているのではないか。それらの内容は、完全に現代人の学校依存を生みその上で学校が左翼的な教育を行うことによってより一層の道徳の欠如を引き起こしていると言う現実に直面するのである。実際に、道徳の欠如は、何も左翼ばかりではない、学校のいじめなどもまさにそのものであり、その中における教員たちの無責任体質は、協印鑑の権利意識だけで義務意識を存在しない彼らの感覚をしっかりと出しているのではないかと考えるのである。
  さて、この場面から、今後の「徳育」をどうすべきか。それは次回にまわすものとする。

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臨時連載 宇田川版日本教育論(2)徳育と言うものの考え方

臨時連載 宇田川版日本教育論(2)徳育と言うものの考え方

 さて、昨日の連載では「徳育」と言うことに関して少し触れた。同時に、その「徳育」が日本国内においてはほとんど行われていないという現実も少し触れてみたと思う。
  では、そもそも「徳」とは一体何なのであろうか。そして、「徳」を得るためにはどのような「勉強」をすることが必要なのであろうか。「徳」と言うものがわからなければ、そのことに関してまったくできるものではないのではないか。
  さて、「徳」と言うことに関しては、さまざまな定義がある。はっきりいってしまって、徳に関してはいえば、十人十色の解釈があっておかしくないと思う。実際に、それで問題はないのではないかと考えている。逆に「徳がない」人というのはどのような人であるのか、ということを考えた場合には、基本的に大体が一致する内容になるのではないか。基本的に「利己主義」「カネに汚い」「他人に迷惑をかける」「弱いものいじめをする」などさまざまな内容が出てくるようなきがする。要するに、ある意味で「徳」とは「徳のない状態でない人、またはそのない状態が少ない人」と言うことができるのではないか。
  古来中億の論語をはじめとする四書五経なども含め、日本における教育の中心は「徳」を身につけることであり、その媒体として「読み・書き・そろばん」が出てくる。基本的には徳を身につけるものの内容を得るための手段として言語、そして文字、そして計算を習うと言うことになるのではないか。それが教育の中心であった。そもそも、「読み・書き・そろばん」の題材となる論語などは、基本的にその意味を教えたりしているのではない。寺子屋に通う子供たちが、論語の意味を全て理解していると言うことになれば、それは大変なことである。しかし、逆に小さい頃から、その題材としてそれらに親しみを持っていれば、基本的に大きな問題は存在しないのではないかと考えられるし、また、子供も完全な馬鹿でもない。子供そのものはしっかりとさまざまなことを吸収する知識欲に飢えているといってよいのであるから、乾いたスポンジが水を吸うようにさまざまな内容を吸収してゆくのである。特に、興味のあるないようであれば、その記憶力などは非常に大きく出てくるものであり、論語そのものの意味を理解しないでも、論語の中の一説を素読できるほどにはなるのである。
  そもそも、「徳」とはこのようにして身についてゆくものではないのか。物事の善悪と言うのは、その善悪の内容を理解することではなく、善悪そのものとは別次元でその内容を理解しうる内容として入ってくるものであり、それらの内容が、「一旦緩急のとき」に人間の資質として出てくるものではないのかと考える。そして、その「にじみ出てくる性質」こそ、「人徳」を判断するための道具であると韓がられるのである。
  そのように考えると、「徳」とは、しっかりとした「社会性」と「教育」ということで身につくものということになる。もちろん四書五経でそれらのことを勉強していることは重要であるし、その内容に関してしっかりとした「知識」を得ることは重要である。しかし、それらはあくまでも「知識」でしかない。人徳は、その徳を実践してこそ毒になるものであり、知識として理解していることが人徳ではないのである。
  要するに論語または四書五経を読んで理解し、またはその背景知識を得ることは、単なる「知育」でしかなく、「徳育」ではない。「徳育」とは、それらの知識が仮になかったとしても、その内容を実践できるようにすることそのものが「徳育」であり、そして、その無意識の行動こそが「人徳」につながるものである。
  では、その徳とはどのようにして実践できるようにするのか。日本では明治維新以降「教育勅語」によって、その中の徳目を紹介し、毎日暗唱させていた。教育勅語は、天皇陛下が「自分はこのようにする」と宣言し「国民もみんな同じようにがんばりましょう」と言う内容である。その内容に関して、12の徳目があげられている。

1.親に孝養をつくそう(孝行)
2.兄弟・姉妹は仲良くしよう(友愛)
3.夫婦はいつも仲むつまじくしよう(夫婦の和)
4.友だちはお互いに信じあって付き合おう(朋友の信)
5.自分の言動をつつしもう(謙遜)
6.広く全ての人に愛の手をさしのべよう(博愛)
7.勉学に励み職業を身につけよう(修業習学)
8.知識を養い才能を伸ばそう(知能啓発)
9.人格の向上につとめよう(徳器成就)
10.広く世の人々や社会のためになる仕事に励もう(公益世務)
11.法律や規則を守り社会の秩序に従おう(遵法)
12.国難に際しては国のため力を尽くそう、それが国運を永らえる途(義勇)

 この12に徳目に関して、現在も基本的にはまったく現代も重要であることは代わりがない。この内容を、当時の「天皇陛下」が自分で行うから国民も一緒にやりましょうと伊呼びかけを行うというのはすばらしいものである。世界各国の国家元首の中において「自分もやるから、みんなも一緒に徳目を実行しましょう」というようなことを言うのは、かなりまれである。
  それらを朗読させること、暗唱させることによって、その内容を「無意識のうちに、意識の中に入れる」と言うことを考えるのである。この「無意識のウチに意識の中に入れる」と言うのは、よく「暗唱」売る場合に使われる手法だ。なにもすべての意味を知って暗唱しているわけではない。戦前の小学校一年生(要するに小さい子供という意味だが)が、この徳目や、そのほかの教育勅語の内容を全て理解して暗唱しているわけではない。基本的には、教育勅語というのは、徳目が書いてあるなどと言うのは、後になってわかる内容でしかないのである。しかし、その内容に関して子供たちはわからないながらも全て覚えるのである。そして、覚えて毎日暗唱する。意味はわからないでもとにかく覚える。覚えて暗唱することによって、無意識のうちに徳目の言葉が頭の中に記憶されるのである。
  実際に、それらの内容が頭の中にあれば、何かそれに関連する事態が発生したときに「あああのことか」「教育勅語で覚えているこのことだ」などというような内容になっているのである。特に意識していない内容を暗唱するのであるが、それが実際の現場で起きたときに、そのときこそ記憶の片隅にある徳億外力を発揮する。実際の現場で実践するときになって、そのときに徳を発揮できれば、何もしない、もしくは事後にそれらを学ぶよりもはるかに良いと言うことになるのではないか。
  実際に知識としてでもなく、無意識のうちに叩き込まれた「言葉の羅列」が、同種の内容が実生活で出てきたときにその時の行動の指針になる。実際に、寺子屋における「読み・書き・そろばん」で論語などを素読し、または、習字の手本にするのもまったく同じ内容であるといえる。単純に論語や四書五経が教育勅語に変わったということだけであり、その内容がある意味徳目12の羅列と言うことで洗練化されたということになるのではないか。
  さて、現代の教育においてこれら徳目はどのように学んでいるのであろうか。実際の答えは「NO」である。その内容は、まったく道徳など人間の徳目を書いているわけではないし教えてもいない。それどころか教えるはずの教員が、生徒と一緒になっていじめをしてみたりわいせつ行為をしたりと、ひどいものである。また、家庭教育ということが言われるが、実際に、両親共働きでなおかつ成績、要するに「知育」だけを変住して漢が、その数字で物事を図ると言うことになれば、徳はまったく教育する場所がない。ついでに、本来は、友人たちが説く奥などについて、そのような意識はないにしても、その会話を行う、その会話そのものが人間の特に非常に大きく作用するのであるが、その様な会話も、お互いが徳育を受けていないのであるからできるはずがないのである。
  実際に、何かをしなければならないのであるがその何かが何もできない状態になってしまっている。その何もできない状態ということを打破しなければ「無道徳国日本」になってしまう、いやすでになりつつあると言うことになるのではないか。
  その辺について、次回考えてみたい。

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臨時連載 宇田川版日本教育論(1)日本教育の現状

臨時連載 宇田川版日本教育論(1)日本教育の現状

 本日から、突然に日本の教育論を短期連載しようと思う。
  さて、なぜ今突然に「教育論」を行うのか。安倍晋三内閣が発足してしばらくたつ。安倍内閣ができる前に、安倍自民党総裁はすぐに「教育改革本部」を作り、日本の教育そのものに関する内容を行い始めたのである。もちろん、教育は「国家百年の計」であり、その国家百年の計は、まさに今の教育を受けた子供たちが大人になって、その価値観で自分の子供たちを教育すると言うことから、その教育に関する内容は、まさに国家の起訴を形作ることになる。
  安倍内閣は、いわゆる「アベノミクス」で経済再生をまず行う方針を打ち出している。当然に、経済再生は、喫緊の課題であり、すでにバブル崩壊後の細川内閣発足以来日本の課題であると言うことがいえるのである。しかし、よく考えてもらいたい、俗に「国家の要素」と言うときには「領土」「主権」「国民」(順不同)と三つの要素を挙げることが基本的になっていると思われるのであるが、実際に、この中に「経済」は入っていない。国民の生活を護るために経済政策をしっかりと行わなければならないのであるが、残念ながら、そのような経済再生政策そのものは、「国家の要素の直接」の問題ではないのである。
  これに引き換え「教育」は、まさに「国民」そして「将来の有権者」に対して、直接に協力を及ぼすものであって、その内容はかなり大きな内容になっていると言える。しかし、将来の有権者である子供の教育に関して、現在の価値観と非常に大きく変えてしまえば、それはそれであんぱつがくる。子供そのものが非常に有意義な教育を受けていても、それを理解できない大人が多い場合には、基本的には「子供」は選挙権がなく、理解できない大人が「選挙で反対票を投じる」と言うことによってその内容がおかしな方向にゆがめられてしまうことになる。
  その意味で、教育に関しては非常に大きく問題にしながらも、安定した政権の中において考えなければならないことなのではないか。
  と言うことで、今回は教育論を行う。しかしあまりにも唐突に教育論の内容が始まったと思う方もいるかもしれない。私のブログになれている人は、「ああ、またか」と思うのかもしれない。実際に、この時期に突然に行うというのは、まさに「私自身が海外に出張している」と言うことであり、海外の通信環境が不明なために、ブログの交信ができないと困るので、このような連載によって何とかしのいでいるのである。まさに、私の予定そのものによって非常に大きく左右される内容でしかないのである。そのことを考えていただけると、非常にありがたい。ちなみに、13日の夜に帰国予定である。よって、14日分まで予備でこの連載は続くので、そのつもりでいていただけると非常にありがたい。
 
  さて、これくらい前置きをしたので、今回は少し、現在の教育に関して、私の考えるところを書いてみたい。もちろん「左翼教育」などということもあるのであるが、それ以前に「実際の社会でなんの役に立つのか」と言うことと「子供の向学心をどの要に考えるのか」という二つの観点から物事を見てゆきたいと思う。
  まず、そもそも教育とは一体何なのであろうか。一般の教育とは「知育」「体育」「徳育」の三つの要素があると言う。「知育」とは当然に、現在の教育と言う意味で考えられている内容であり、今教育と言うと、この知育のところがもっとも大きな内容として考えられてしまう。偏差値や国際的な理数系の知識などの統計も全てこの知育に従った内容である。日本は、戦後この知育の部分は「詰め込み教育」と揶揄されながらも、それなりのしっかりとした内容が挙げられるのではないか。しかし、この「知育」の部分もいわゆる「ゆとり教育」によって、おかしな方向になってしまい、日本は徐々に「知育教育」もうまくいかなくなってしまっている。
  体育に関しては、特にいう必要はない。「健全な精神は健全な体に宿る」と言うこともよく言われることである。もちろん、私自身病気であるため「健全な精神」が宿っていないのかも知れない。しかし、実際に体育そのものは、やはり重要なものであることは間違いがいない。
  要するに「知育」「体育」と言う二つの教育に関しては、実践できているかどうかと言うことは別にして、その教育内容が重要であると言うことに関する理解は、一定程度出てきていると考えられるのである。もちろん、感情的な部分で、それらの理解を超える判断がなされる場合がある。いわゆるモンスターペアレントと言うものがまさにそのものの例であると考えるが、それらは、少なくとも、今回のこの文章内においては「特殊な例」ということで、今日の文章からは除外して考える。この連載中に一回は触れて老いたいが、その余裕があるかどうかはわからない。
  ところが、日本人は「徳育」と言う考え方に関しては、実はあまりしっかりと考えられていない。私も含めてであるが、戦前の「徳」と言うものの考え方がまったく理解できていないのではないかと考えられるのである。
  そもそも「徳育」と言うよりも「道徳」と言う教科そのものが存在しないのである。もちろん、この内容に関しては、GHQがどうこうとか、そういうことがあると考えられる。しかし、教科として道徳がなくても、家庭内、または地域社会内において人徳教育がなされててもおかしくはないのである。しかし、なぜか、日本人は「成績さえ良ければ何をしても良い」などという話になってしまってきているのである。戦前、もしくは戦前派の人々は、「馬鹿でも人徳者になってほしい」と考えていたのに対して、価値観が正反対になったと言うことが言えるのではないか。
  さて、この価値観の正反対になった原因こそ「敗戦」である。
  戦争と言うのは、当然に国家の非常事態であり、その国家においてある程度の価値観の統一がなされ、その価値観の統一の中において勝利を目指すものである。もちろん、価値観の統一と勝利を目指すと言うことであれば、スポーツなどの競技も同じである。しかし戦争の場合は、その勝敗の機軸は軍隊軍人の命のやり取りであり、同時に、その国家国民の生活そのものである。日本の場合は、敗戦を経験してもその主権の否定や奴隷または植民地になるような経験はなかったものの、一方で、戦前的な価値観そのものは完全に否定されたと思う。
  私の大先輩で、先日なくなった小沢昭一氏。私が高校二年生のときに、小沢氏が戦争についてこのように語っている。「戦争と言うのは、まさに、勝つか負けるかなんだよ。戦争している最中は、隣の人が死んだってあまり気にもしないんだ。そんなことよりも勝つために、仕方がないくらいに思っているんだよ。要するに、勝てば、良かったんだ。しかし、負けた。日本人は、それまで我慢してきたもの、抑えてきた感情なんかが全部噴出してしまうんだ。勝つために我慢してきたのに、負けたんだ。負けた瞬間に、何で俺たちは今まで我慢してきたかわからなくなってしまう。そのときに、人間はそれまでの価値観を否定するんだ。もちろん、価値観のだけでなく自分たちのしてきたことも何も否定する。良いことも悪いこともみんな否定するんだよ。わかるかい、人間の中から『絶対』って言葉がなくなるんだ。本当は心や精神や価値観は、常に絶対なモノなのに敗戦を経験した日本人は、全部その絶対のモノが絶対ではなくなるんだ。それが、価値観を喪失すると言う恐怖と、その恐怖に対する怯えが襲ってくる。その中で生きてくるんだ。君たちは今頃になって戦争が、とか、戦前と戦後を比較するが、そのときに生きてきた人は必死だったんだよ。でもね、負けた。その負けたと言うことが自分の中で成立かなくなって自分を否定する。敗戦を経験した人はみんなそんな悩みを持っているんだ。でも、その悩みを克服しないと、本当の戦争は終わらないんだよ。君たち後輩が本当に戦争を終わらせてくれるといいが、なかなか難しいと思っている」
  価値観の喪失と言うこと、その考え方が、まさに戦前の道徳感の喪失につながっているのではないか。そして、戦後生まれで、いまだに戦争や敗戦を引きずっている人が少なくないことは確かだ。小沢昭一氏が言っているように、まさに「良いことも悪いこともみんな否定」することが良いことと思っている人が少なくなく、その上で、道徳などの価値観に直接かかわることの「良いことと悪いことの選別」ができていない人が少なくないのである。
  まさにこのことが、日本の教育界の中では当然のごとく行われており、何しろ、良いこと悪いことどころか、国家や国旗まで否定する人が教員として子供たちに教鞭をとっている始末だから目も当てられない。
  この結果は、どうなるかと言えば、「知育」「体育」「徳育」の教育の三要素を完全に無視することになり、その内容は、まさに「知育」「体育」が本来は「世のため人のため」と言う至極当たり前の「道徳心」が亡くなってしまう。そのことが「ゆとり教育」の失敗、要するに、なぜ「ゆとり」が必要で、なおかつ「知育教育はなぜ必要なのか」という子供対の向学心を失わせてしまう問題につながっているのである。当然に、本来「徳育」があり、その「徳のために、ゆとりを使う」となれば、ゆとりそのものがあっても、子供たちは「興味のある勉強をする」と言うことになっていたと考える。しかし、その徳、もっといえば「知育を受けるためのモティベーション」がないと、時間は遊びに使われてしまう。遊びの中には、徳育につながらないものもあるし、まったく教育とは関係のないものも出てくる。そのことそのものはが、ゆとり教育を完全におかしくしたと言うことがいえるのである。もちろん「ゆとり教育」を行った政府そのものを護るつもりはない。徳育のない教育の現場でゆとりなどと言うことをいいはじめれば、どのようになるのか、政治や教育の現場を知っていれば当然に帰結が出るはずだ。にもかかわらず、その事も調査せずに、「詰め込み教育」批判を避けるためその場しのぎでゆとり教育などを行うから失敗するのである。
  根本的に、この問題を考えるには、「徳育」と言うことを考えなければならない。現状の教育の現場(学校・家庭を含む)は、まさにそのことが見失われているのではないか。
  本連載は、その「徳育」に関して、もう少し掘り下げてみてみたい。

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それぞれの仕事始め

それぞれの仕事始め

 1月7日は、政治の世界もさまざまなところで「仕事始め」があった。もちろん、今年の自民党は、正月から動いているのであるが、実際に、けじめとしては「仕事始め」は1月7日であった。通常は1月4日出るが曜日の並び方で7日からと言うところが多くあったようである。実際に、街も7日までは休み気分であったが、街も一気に活気付いたと言える。
 さて、政治の世界の仕事始めは、やはり年末の総選挙の結果がさまざまな内容で出ていているのである。当然にさまざまな団体などの会合や、あるいは自民党そのものの仕事始めなどで、その結果や今年の抱負、特に参議院選挙に向けての内容が語られることが多くあったのではないか。その様子が、ニュースとして流れてきているのである。
 実際に、このような報道は「政府」要するに安倍首相の動向がもっとも大きな内容になると考えられている。しかし、その安倍首相の動向といっても、現在の安倍首相は実際に政権運営をしているわけでおなければ、国会の審議をしているわけでもない。要するに、首相になり内閣を発足させたが「国会の洗礼」を受けていない状態である。その段階では、さまざまな話をしてさまざまな状態を聞いているものではない。反対意見なども聞いているのではないために、結局のところ、自民党の見解しか話していないし、また、衆議院総選挙の公約以外はなしているわけではない。要するに、どの会合でも実際に話している内容は同じになってしまう。
 マスコミはこのようなときに、基本的には、さまざまな政党の話などを取り上げる修正にある。今年はまさにそのような状態になってきており、さまざまな政党の代表がマスコミのなかに出てきているのである。
 今日は、ひとつの新聞、読売新聞の報道のみをあげて、その読売新聞が取材した各会合で、誰がどのようなことを発言したのかを見てみたい。

嘉田知事「針のむしろ…」と連合の新春の集いで

 連合滋賀の「新春の集い」が7日、大津市内のホテルで開かれ、連合滋賀が支持する県内選出の民主党の国会議員や県議ら約250人が、今夏の参院選に向けて決意を新たにした。
 昨年11月末に日本未来の党を結党した嘉田知事も出席し、衆院選で落選した前議員を前に、「私自身の様々な判断でご迷惑をおかけした。改めておわびしたい」と謝罪した。
 山田清会長が、衆院選で4人の前議員が小選挙区でいずれも敗退した結果について、「総選挙に対する危機感が欠如していたと苦言を呈したい」と振り返った。さらに、参院選に向け「働く者の最大のセーフティーネットは労働組合であるという自覚のもとに、組織拡大を推進する」と抱負を述べた。
 続いて、嘉田知事が登壇し、「いかなるご批判も受け止めたい。針のむしろに座るようなつもりで来た」などとあいさつした。

(2013年1月8日08時14分  読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/election/sangiin/news/20130107-OYT1T01502.htm

首相「うなずいていた」…海江田氏「これから」

 安倍首相(自民党総裁)や民主党の海江田代表ら与野党の党首が7日、都内のホテルで開かれた時事通信社など主催の新年互礼会に出席した。
 首相はあいさつで「今週中に緊急経済対策をまとめ、大型の2012年度補正予算を編成する。補正予算の一日も早い成立と執行が、最大の景気対策だ」と強調した。海江田氏は「賛成するか反対するかは中身を見なければいけない」と述べるにとどめた。
 壇上の首相が、海江田氏を見て、「何となく海江田代表もうなずいていた。(補正への協力に)期待をしている」と語ると、海江田氏が「これから」と発言する場面もあった。

(2013年1月8日09時12分  読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20130108-OYT1T00244.htm

私も一皮むけて出席…連合の新年交歓会で首相

 安倍首相「6年前に首相の時、私は(民主党の支持母体である連合の新年交歓会には)出席しなかったわけだが、今年はヘビ年。私も脱皮し、一皮むけて出席させていただいた次第だ」(連合の新年交歓会で)

(2013年1月8日11時07分  読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20130108-OYT1T00366.htm

 まず、何よりも嘉田未来の党代表である。総選挙直前に未来の党を作りながら、総選挙終了直後、小沢代表との不仲がささやかれ、阿部知子代表の指名をめぐって未来の党の分裂を招いた。実際に、滋賀県の県議会からは説明責任を求められており、同時に、未来の党の代表の辞任要求が出ている。これに対して、嘉田滋賀県知事は「いかなるご批判も受け止めたい。針のむしろに座るようなつもりで来た」というように答えていると言うことになる。
 一方時事通信社の新年会では、安倍首相と海江田万里民主党代表が鉢合わせすると言うことになっている。海江田代表との間では、当然に、その内容そのものの感覚を見ているということになる。実際に、補正予算や来年度予算に関する内容をさしているのであるが、実際に、参議院で過半数を持っていない自民党と公明党の連立与党に関して言えば、当然に、海江田代表の対応、もっと言えば民主党の産銀の対応と言うのは重要な政権もしくは予算のファクターになりうるのである。そのことを考えてか、その内容に関しての応酬がなされているようである。
 また、連合の新年会では、安倍首相は、基本的にあまり冗談などを言わない人なのであるが、「巳年にちなんで一皮脱皮して」など言うユーモアのあるスピーチをしたとしている。実際に、昨年までとは攻守ところを変えた内容になってきているのであるが、その内容に関して、さまざまな内容が出てきているのである。
 新年会のスピーチで話題を呼ぶようなサプライズがあることはめったにない。それだけに本音で話すことも少ないが、しかし、一方で「一年の計は元旦にあり」ではないものの、その仕事始めの一言と言うのはさまざまな部分で注目を集めるものである。この今回の発言が、一体今年を占う上でどのようになるのか。その件に関して、見てみたら面白いのかもしれない。

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レイプで死刑を求めるインドと警察官不足

レイプで死刑を求めるインドと警察官不足

 さて、インドに関する記事でなかなか興味深い内容が出てきている。
 インドで相次ぐ集団レイプならびにその後の暴行死について、女性保護の国民的議論が出てきていると言うのである。特に、過激な意見ではレイプ犯罪に対する厳罰化が要求されていると言うのである。
 さて日本の場合は
 (強姦)
第百七十七条  暴行又は脅迫を用いて十三歳以上の女子を姦淫した者は、強姦の罪とし、三年以上の有期懲役に処する。十三歳未満の女子を姦淫した者も、同様とする。
 (強制わいせつ等致死傷)
第百八十一条  第百七十六条若しくは第百七十八条第一項の罪又はこれらの罪の未遂罪を犯し、よって人を死傷させた者は、無期又は三年以上の懲役に処する。
2  第百七十七条若しくは第百七十八条第二項の罪又はこれらの罪の未遂罪を犯し、よって女子を死傷させた者は、無期又は五年以上の懲役に処する。
3  第百七十八条の二の罪又はその未遂罪を犯し、よって女子を死傷させた者は、無期又は六年以上の懲役に処する。
 (集団強姦等)
第百七十八条の二  二人以上の者が現場において共同して第百七十七条又は前条第二項の罪を犯したときは、四年以上の有期懲役に処する。
 と、三つの罪が加重される。基本的には「集団強姦致死罪」と言うことになるであろうか。基本的には「無期又は五年以上の懲役に処する」と言う条文(181条2項)が適用されることになるのである。
 ではなぜインドではそのようなことが「いまさら」問題になっており、同時に国民を巻き込んだ議論になっているのか。そのことは、日本とインドの違いが出ていると言うことが言える。

焦点:インドの集団レイプ事件、「世論過熱」に慎重意見も .

[ニューデリー 7日 ロイター] インドの首都ニューデリーで先月、23歳の女性が走行中のバス車内で男6人に集団レイプされ、その後病院で死亡した事件は、20分に1件のレイプ事件が発生しているという同国で、女性の保護に関する国民的な議論を引き起こしている。
 こうした性犯罪に対する迅速な裁判と刑の厳罰化を求める声が市民の間で高まる一方、世論に同調する形で法改正などを性急に進めれば、基本的人権が損なわれると懸念する声も上がっている。
 女性人権団体の多くは、事件によって巻き起こった抗議や怒りの声が、現実に変化をもたらすのではないかと慎重ながらも期待を寄せている。具体的には、性犯罪のために設けられた「スピード重視の裁判所」や、ニューデリーで新規の女性警察官を2500人採用する計画などが挙げられる。
 ただ一方で、法律の専門家や一部の男女同権論者からは、レイプ犯を死刑などの厳しい刑に処すよう求めることは、市民の自由を損なうおそれがあり、違憲だとの声も上がっている。インドに必要なのは新しい法律ではなく、警察や検察の改善が先だとの指摘だ。
デリー高等裁判所の元判事は「有罪判決が十分でないとすれば、それは法整備が不十分ということではなく、有罪を示す証拠が不足しているということだ」と語る。
 今回の事件では5人が殺人罪で訴追されており、7日にニューデリーの裁判所に出頭する。残りの10代の少年1人は少年審判を受ける見込みだ。しかし、南デリー地区の弁護士会は5人の弁護を引き受けないと発表。5人には未だに弁護士が付いていない。
<厳罰化に傾く世論>
 「容疑者や被告は、逮捕された時点から弁護士を付ける権利がある。これは完全に違法だ」。デリー人権法律ネットワークのコリン・ゴンザルベス氏は説明する。
 インドの多くの州では当局幹部らが4日、未成年でも成人と同じ裁判を受けさせられる年齢を16歳まで引き下げる案を支持すると表明した。これは、未成年なら最高でも3年の禁錮刑しか科されないことに世論の反発が強まったことへの対応とみられている。
 政府の委員会は、レイプ犯への死刑適用や化学的去勢の導入も検討しており、23日までに提言をまとめることになっている。
 一方で、インディアン・エクスプレス紙は論説で、世論の「過剰な」反応に警鐘を鳴らし、少年法の改正はいかなる場合も厳密な議論を経てからなされるべきだと主張した。
 同国の裁判所は未処理の案件が山積状態で、審理を終えるのに5年以上かかることも珍しくない。アルタマス・カビール最高裁長官が、性犯罪のためにニューデリーに導入した 「スピード重視の裁判所」は幅広い支持を得ており、他の州でも導入に向けて検討する動きがある。
 しかしゴンザルベス氏は、過去にも同じような裁判所があったが、疑わしい評決が下ったこともあるなどとして、懐疑的な見方を示している。

<スピード重視の裁判>
 インドは2004年、スピード重視の裁判所を1700カ所設立した。しかし費用がかさむことなどを理由に、昨年にこうした裁判所への財政支援は中止となった。一般的にスピード重視の裁判所は週6日開いており、休廷時間を短縮することで審理の遅れを解消しようとしている。
 ゴンザルベス氏は、有罪率が上がったことを認める一方で、急いで法手続きを進めるため、有罪判決がその後覆るケースもあると指摘する。「不公正に向かってまっしぐらに突き進む裁判も多かった」という。
 本当の問題は警察の不備や裁判官の不足にある、と同氏は続ける。国民1人当たりの裁判官の数で見ると、インドは米国の5分の1程度にとどまっている。
 インドの警察官は給料が安く、十分な訓練を受けていないことも多い。組織犯罪に関与しているケースさえある。人権団体からは、男性の警察官が性犯罪の被害者に対して無関心だと指摘する声も上がっている。
 同国の警察の多くでは、科学捜査の手段や専門知識も限られており、容疑者は強要された状態で供述を取られるという現状がある。このため裁判所は、不完全な証拠で被告を有罪にするのは困難だと主張している。
 国際人権団体「ヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)」は、レイプを含む性犯罪に対する法律や手続きの改正は、目撃者の保護や被害者への支援を強化することに重点を置いて行われなければならないと強調する。
 「性犯罪をめぐる法改正は必要だが、厳罰化という観点で進めるのではない」。こう指摘するHRWの南アジア担当ディレクターは「なぜ当局が捜査しないのか、なぜ有罪率が不十分なのかということこそ強調されるべきだ」と述べた。

(原文執筆:Frank Jack Daniel記者、翻訳:梅川崇、編集:宮井伸明)

ロイター2013年01月07日17時35分
http://news.livedoor.com/article/detail/7292853/

 さて、インドには三つの問題が存在する。ひとつには強姦罪と言うものの刑罰の希薄化。結局はこの集団強姦罪犯人も「殺人罪」で訴追されていると言うことは、当然に集団強姦罪などが刑罰が少ないということになるのではないか。
 もうひとつは、その捜査を行う警察官の少なさ。そして訴訟の遅さ、この三つがまさにインドの問題である。そのインドの問題は、まさにカースト制度という厳格な身分制度によって作られており、そのために、警察にしても裁判官にしても厳格な身分制度の中において行われる内容になってきている。しかし、近年、IT産業の勃興や新規事業の内容が出てくることによって、新しい身分が出てくる。また、カースト制度が徐々にインド国内で形骸化してゆくことによって、「職業選択の自由」が出てきている。それこそITで一攫千金を狙う人が増え、警察官などになるのは非常に少なくなったということがいえるのである。
 このことは、まさに警察の捜査権の弱体化を招き、検挙率や有罪率が少なくなるということが上げられるようになるのである。
 さて、日本の場合、インドのようなカースト制度はないが、一方で、警察官などの人口の減少は非常に大きな問題になってきていると言えるのではないか。日本も警察官の不足は上に深刻な問題である。警察庁のホームページ上では「警察官1人当たりの負担人口は、欧米諸国と比べて非常に多い。また、16年中の刑法犯の認知件数、重要犯罪の認知件数、110番通報の受理件数は、元年より、それぞれ1.5倍、2.6倍、2.2倍に増加した。これらにより、警察の事務量は著しく増大したにもかかわらず、地方警察官の条例定員数は、国や地方の財政が厳しいなどの事情により、同期間中に10%しか増加していない」と言うような指摘がなされており、また110番通報後5~7分たたないと現場に到着しない実態などが指摘されているのである。
 もちろん、「事業仕分け」で無駄削減は良いが、一方で無駄でない部分も削減してしまい、国家国民の安全が護られていないと言う話が出てきているのである。
 「他人の振り見て、我が振りなおせ」ではないが、インドの問題は対岸の火事ではない。国民の安全を護ると言う観点で、このようなこともひとつの問題点としてみてみてはいかがなのであろうか。

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今年の参議院選挙の「第二極」争いの激化

今年の参議院選挙の「第二極」争いの激化

 先日今年の年初放談で、今年の夏の参議院選挙に関する内容を出した。年初放談は、それなりの内容しかないのであるが、実際に、その産銀選挙の動きが出てきている。実際に、選挙というのは1年くらいゆっくり時間を掛けて行うのであるが、最近はマスコミ、特にテレビの内容などで大きく全体が変わってきたり論点が変わってくるので、時間をかけた選挙をする人が少なくなってきている。特にインターネットyマスコミによる選挙を考えている人は、しっかりした政策の有権者へ乗せ埋めいや、知名度のアップを狙うのではなく、「風(ブーム)」と「瞬発力」で勝負する傾向が大きくなってきてしまう。
 もちろん、候補の中には、そのような考え方をしている人も少なくないのであろうし、政治や選挙そのものを甘く見ている人が少なくないのであるが、最近では政党の選挙対策本部などもそのような考え方をしてしまう人が少なくなくなってきてしまったために、一時のブームで「連立」とか「政党の合流」または、そのブームが賞味期限切れになると「政党の分裂」と言うものがニュースになるようになってしまう。選挙だけのために離合集散を繰り返した場合は、当然にその内容はうまく行くはずがない。また、そのことが、少なくとも建前で大儀を語れればよいが、実際のところ、マスコミを含めて「選挙目当ての野合」などという話が出てしまう。そのために、選挙目当ての離合集散は失費することが多くなってしまう。その内容を見てみると、おかしな話である。
 そもそも、連立与党、と言うものは存在する。「大同小異」で日本を前に進めると言うことをし、どうしても譲れない重要政策だけをお互いに合意すると言う方法で行うことがある。連立与党が成立するのは、当然に、日本の社会が三権分立であり、与党そのものが行政権を持つ「内閣」を構成することによってできるわけであり、議院内閣制で累乗は内閣厚生のための「連立与党」は当然にうまく行くことになるのだ。そのことは、過去に連立与党を組んだ戦前からのさまざまな政党が証明しており、その「少異」の部分に踏み込むと、連立与党が崩壊すると言う形になる。
 最も近い例では、鳩山内閣のときの社民党がそうで、沖縄からの普天間基地移動を「重要政策」としていたが、鳩山首相がアメリカとの内容にかんがみ辺野古周辺への移転を表明したために、社民党は、連立与党を離脱する。そのことによって鳩山内閣が崩壊し菅内閣が発足するのは記憶に新しいところである。
 さて、しかし、今年の正月から見える動きは、「連立与党」ではない動きが出てきているのである。

橋下維新、今夏の参院選でみんなと共闘目指す

 日本維新の会の橋下徹代表代行(43)は4日、今夏の参院選でみんなの党との共闘を目指すことを明らかにした。維新側は候補者を育成するための政治塾を、みんなと合同開催する方向で打診。みんな側は正式回答を保留しているが、塾開催の構想について大筋では合意している。
 参院選では民主党の一部議員も巻き込み、野党一丸で自公政権に対抗する狙いがあり、橋下代表代行も「そういう方向でやりたいと思っている。二大政党制の中で野党が分かれていたら勝ち目はない」とタッグ結成を希望。維新の石原慎太郎代表(80)とも話し合い、了承済みという。
 両党は昨年12月の衆院選で政策協議を重ねるなど合流を模索したが、結局“破談”。28の小選挙区で候補者が競合し、票を食い合ったことで自民圧勝につながった側面もあるだけに、両党は今後、選挙協力なども行い、自公政権を脅かす体制を目指していく考えだ。
 橋下氏は大阪市長としての仕事始めとなったこの日、市職員らに向けた年頭のあいさつで「国政政党を率いる立場として、今年は政治的なポジションが強くなっていく。この立場で市長をやることにご理解いただきたい」と国政に重心を置くことを宣言。自身の参院選出馬は記者団に「市長を辞めて国会議員になることはできない」と、兼職可能への法改正が前提との考えを改めて示しながらも、意欲をのぞかせた。
 一方で大阪市政については「『前例がないからできない』では理由にならない」とサービス向上に努めると同時に、来年度にも大阪版規制改革会議を発足させることを明言。「自治体の『おバカルール』を変えていく」と、府市の条例や規制などを新たな会議で見直す方針を示した。今年も国政と行政の両面で大胆な改革を打ち出す方針だ。

スポーツ報知2013年01月05日08時05分
http://news.livedoor.com/article/detail/7287890/

参院選の野党共闘に民主意欲…同床異夢の様相も

 民主党の海江田代表は4日、三重県伊勢市内で記者会見し、今夏の参院選に関し「野党には、自民党に圧勝させないという共通の思いがある」と述べた。
 自民、公明両党による参院の過半数獲得の阻止という目標では野党各党の考えは一致しているものの、与党との距離感や、野党間の警戒心など、「同床異夢」の様相を呈しかねない要素もある。野党共闘に積極姿勢を見せる海江田氏が主導権を握ることができるかどうか、難題は多い。
 海江田氏は「野党協力は当然、野党第1党の民主党が軸にならなければならない」とも語った。12月の衆院選では、民主党と「第3極」の政党が競合して票を奪い合い、自公両党を利する結果になった小選挙区が目立った。参院選では、小選挙区と同様に1選挙区1人しか当選しない改選定数1の「1人区」が31選挙区あり、その行方が全体の勝敗を左右するとみられる。1人区を中心に野党共闘が必須だとの思いは、各野党とも共有している。

.最終更新:1月5日(土)12時18分
読売新聞 1月5日(土)12時18分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130105-00000443-yom-pol

 さて、ここであげられている内容は「連立野党」と言う発想である。連立野党という発想は、本来は議院内閣制の三権分立の世の中では成立しない。内閣を構成するメンバーとして大同小異があるのは良いが、反対するための「大同小異」があると言うことは、まさに、その後政権与党になったときに崩壊することを意味するのである。
 なぜならば、政権に反対するためには、当然に反対するための理由がある。しかし、その反対するための理由が、「反対のための反対」では意味がない。以前安倍第一次内閣、福田内閣の時代に、日銀総裁の承認人事に対して「天下り反対」と言う理由で反対のための反対を繰りかえして、当時の民主党は政権を空転させた。しかし、自分たちが政権を執った瞬間、郵政公社の社長を元大蔵事務次官斉藤次郎氏を任命すると言う、自己矛盾を起こしたのである。当然に、国民の信頼は失われる。反対のための反対で政治を空転させ、そのことによって日本そのものの国益を損ねたことが明らかになったからである。
 当然に「反対する」と言うことは、そもそもの政策の違いがあり、その政策の違いは、本来はイデオロギーや政党の綱領などの立場が存在する。逆な言い方をすれば、個別の案件で反対理由が一致することはありうるかもしれないが、一方で、すべての項目において安泰理由が一致すると言うことは、当然に、政策や政策の基本にあるイデオロギー、そして綱領にあたる精神の部分が一致していると言うことになる。要するに「政党が二つある必要が存在しない」と言うことになりそれならば、選挙目当てでなう、正式に政党が合併・合流すればよいのである。
 要するに、反対をするためには、反対するための理由が必要であり、その反対のための理由がどこかに言ってしまっている内容は、まさに、「反対のための反対」「選挙のための野合」となってしまう。まさに「連立野党」という不思議な枠組みになってしまうのだ。そして、そのことを「おかしい」と報道する人がいないことがまさにおかしな内容ではないのか。
 つい先日まで与党であった民主党まで、その「連立野党」に参加すると表明している。明らかに、民主党政権の時には対立していた相手との連立や雇うと言う存在そのものが「反対のための反対」でなく、しっかりと国民に訴える内容になるのか。また、その内容が、日本の政治を停滞させない、国益のための内容になるのか。そのことをしっかりと国民は見極める必要があるのではないか。

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日韓関係の悪化と安倍内閣の課題

日韓関係の悪化と安倍内閣の課題

 昨日までは、「年初放談」と言うことで、いつものブログと違って今年の概括的な事を書いてみた。実際に、年初放談に関しては、毎年の正月や隅にねたがないので、この内容を書いているのであるが、今年に限っていえば、年末に安倍内閣が発足したために、それまでの野田内閣からの変更そして、安倍内閣の目指す経済政策に関して、予算の組み換えや政策の変更などで、実際に三が日から国会や官庁は動いていると言ってよい。
 一方、今年は休みの日程の都合で、実質的に昨日の1月6日まで休みという人が少なくなかった。あるメーカーなどでは、クリスマス前から実質2週間の休みと言うようなところも少なくなく、ある意味で休みが覆いは良いものの、製造業が休みが多いと言うのは、それだけ景気の悪化や日本経済、特に日本の製造業の停滞を意味していると思い、ある意味で休み気分で正月休みが抜けきらない部分でありながら、経済そのものの再生が急務であることを意味している。日本は、ある意味でやはり製造業立国であり、ソフトやノウハウで世界の力を持ている国ではないのである。
 実際に、そのようにして経済政策を考えなければならず、同時に、その経済政策には、党派などを超えて、「景気を良くする」「日本を元気にする」と言うことに関しては、支持政党や党派、主義主張、イデオロギーを超えて、日本人で日本で生活をする人にとっては、また、将来の子供たちに元気な日本を残そうと考えている人にとっては、誰でも同じ事を考えるはずである。「イデオロギーによって、日本の経済を悪くしたほうがよい」などと考えている人は、基本的にはいないものと考えている。もちろん、一部の狂信的外国崇拝者には、そのような人がいるのかもしれないが、実際に、そのような主張が日本で通るはずがない。そのような考えから、ある意味で、日本の政府として最優先で取り組まなければならないものではないのか。同時に、景気が良くなることによって、東北の復興もしっかりと行わなければならないと言うことになる。景気が良いのと悪い場合とで、当然に東北の復興に関する内容もかわって来ることがよそうされる。復興は、当然にやらなければならない問題ではないのか。そのやらなければならない内容を行わなければ、当然に日本そのものがおかしくあるのである。
 そのように経済や復興と言うことをいているときに、正月3日から、外国からおかしな端が入ってきた。もちろん、そのようなときにはってくるのは、「小正月」要するに、中国式正月を正月休みとおもっている東アジアの国からである。

外務省幹部「適切な措置求める」 放火犯の引き渡し拒否決定に

 外務省幹部は3日、靖国神社の門に放火したことを認めた劉強元受刑者の日本への引き渡しを、ソウル高裁が認めない決定を下したことについて、産経新聞の取材に対し「遺憾だ。引き続き韓国政府に対して適切な措置を求めたい」と述べた。

2013.1.3 20:36 産経新聞
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130103/plc13010320370010-n1.htm

靖国神社放火の中国人 「日本へ渡さぬ」韓国高裁決定 条約不履行

 【ソウル=加藤達也】2011年12月に東京の靖国神社の門に放火したことを韓国で認め、日本側が日韓犯罪人引き渡し条約に基づく身柄引き渡しを求めていた中国籍の劉強容疑者(38)について、ソウル高裁は3日、劉容疑者を「政治犯」と認定し日本に引き渡さないとする判断を下した。韓国法務省は同日釈放、劉容疑者は中国大使館の車で施設を出た。近く中国に帰国する見通しだ。
 日本政府は3日、在ソウルの日本大使館を通じて韓国政府に抗議し、改めて引き渡しを求めた。日本の警察・司法当局の衝撃は大きく、日韓関係に影響を与える可能性がある。
 条約では引き渡しを拒否できる理由として政治犯などを挙げており、ソウル高裁の審査では犯行の「政治性」が焦点となっていた。
 判断でソウル高裁は、靖国神社について「国家施設に相当する政治的象徴性がある」と認定。劉容疑者が犯行動機として「韓国出身の祖母が(朝鮮半島の日本統治時代の)慰安婦で、謝罪せず責任を取らない日本政府に怒りを感じた」と主張している点をとらえ、「(慰安婦などに関する)過去の日本政府の認識と政策に怒りを感じ、日本の政策を変化させようとした」とし、「政治犯に当たる」と認定した。
 劉容疑者は12年1月、ソウルの日本大使館に火炎瓶を投げ込んだ事件の取り調べや公判で、11年12月に靖国神社の門に放火したと自供。警視庁が建造物等以外放火容疑で逮捕状を取得し、日本政府が引き渡しを求めていた。
 劉容疑者は大使館への火炎瓶投げ込み事件で服役。昨年11月に刑期を終え、高裁での引き渡し審査終了まで拘束されていた。中国政府は韓国政府に政治犯と認定し、中国へ退去させるよう外交圧力を強めていた。

2013.1.3 18:21 産経新聞
http://sankei.jp.msn.com/world/news/130103/kor13010318220003-n1.htm

中国外務省、ソウル高裁の決定を「歓迎」

 【北京=五十嵐文】中国外務省の華春瑩(フアチュンイン)副報道局長は3日、劉強容疑者をめぐるソウル高裁の決定を「歓迎する」との談話を発表し、劉容疑者が近く帰国するとの見通しを示した。
 華副報道局長は「中国政府は在外中国国民の安全と合法的な利益を守ることを重視している」と強調し、在韓中国大使館が劉容疑者に協力してきたとした。

読売新聞2013年01月04日00時16分
http://news.livedoor.com/article/detail/7285325/

 さて、靖国放火犯に対して、韓国の高等裁判所は、「政治犯」と判断して被疑者である中国人を中国に帰国させると言う事件が起きた。実際に日韓犯人引渡し条約があるのにかかわりながら、記事本文中をそのまま引用すれば「靖国神社について「国家施設に相当する政治的象徴性がある」と認定。劉容疑者が犯行動機として「韓国出身の祖母が(朝鮮半島の日本統治時代の)慰安婦で、謝罪せず責任を取らない日本政府に怒りを感じた」と主張している点をとらえ、「(慰安婦などに関する)過去の日本政府の認識と政策に怒りを感じ、日本の政策を変化させようとした」とし、「政治犯に当たる」と認定した」と言うことである。このようなときに日本側の主張だけを主張するのではなく、韓国などの主張の矛盾点を指摘し、その内容がおかしいと言うことを示す必要があるのではないか。
 さて、まっすぐに韓国の裁判所の主張を捉えて「靖国神社は政治的象徴性のある国家施設」と言うことである。ある意味で「政治的施設」ならば、日本の首相が参拝をしようとそれは「政治行為」になるはずである。当然に、その「日本の政治行為」に抗議をすること自体が、韓国による日本の政治低内政干渉に過ぎず、そのようなことを勧告裁判所が自ら認めたということになるのではないか。そのことはあまりにもおかしな話である。
 また「日本の政策を変化させようとした」と言うことに関しても、実際に、そもそも「中国人が」「日本の靖国神社に放火する」という「犯罪的手段」で政治を変えるということになるのは、おかしな話になるのではないか。
 要するに、韓国の裁判所は「暴力的犯罪で他国の政治を変えること」を企画し実行した者を政治犯罪と認定してそのものに対して、犯罪者引渡し条約を無視したと言うことになる。実際にこのような話は許されるものではないはずであるし、国際社会にこのことを訴えれば、韓国側の「法律無視」に世界世論がおかしな話になるはずである。
 日本政府は、そもそも「そのような韓国側の論理矛盾」をしっかりと指摘し、そのことを勧告だけでなく、世界各国に訴える努力をなぜ行わないのであろうか。日本の外務省の怠慢でしかない。そのような怠慢な内容を行う人々では、阿部内閣になっても日韓関係が代わるはずがないのである。
 外交を正常化するというのは、まさに「順法主義」を叱りと打ち出し、「論理的に正しいものに世界各国が味方する」と言うどりょを行うべきであり、そのための情報網や世界各国との関係を構築しなければならない。その内容は、日韓関係を再構築する植えれ野起訴になり、その過程において、今までの民主党政権と同じような前提の上での対応とは異なる内容をしなければならないはずである。それができないのであれば、残念ながら安倍内閣になっても、他の内閣になっても、日本の外交は「土下座外交」が継続し日本の「真の独立」はとおくなる。日本の独立と言っても、実際に、安全保障や武装、軍隊の創設ばかりではない、しっかりとした外交があってこその安全保障であり憲法改正であるはずだ。そのことは、参議院選挙の有無にかかわりになく、妥協すべきではないのではないか。
 このように考えると、安倍内閣の外交は、もっと強気、と言うかしっかりとした基準と相手の矛盾をつく形で「正義」を貫くべきではないのか。そのような提言を誰かがしっかりとすべきであると考えるし、世論もそれをああと押しすべきではないのか。単純に韓国が嫌いと過疎のようなものではなく、「相手の間違いを正す」と言う考えをしっかりとした外交をすべきではないのか。

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平成25年 年初放談(5)今年夏の参議院選挙

平成25年 年初放談(5)今年夏の参議院選挙

 さて、今年の年初放談も今日で最後である。明日は1月7日で松があける。そのことを考えると、年初放談と言いながら好き勝手なことを言っているのは、この辺で終わりにしておかなければならないのではないかと考えているのである。
  さて、昨日までに、「昨年の反省」、「政治」、「経済」、「外交」と見てきた。昨年は、このほかに「復興」と言うテーマをあげてみていたのであるが、実際に復興は結局何も進まなかった。現在も被災地に行けば、瓦礫が「撤去」されただけで、町並みの構築どころか生活そのものの債権がまったくできていない。いや、債権や構築が「できていない」のではなく「手がけていない」と言うほうが正しいのかもしれない。民主党政権の「日本国民無視」「日本破壊」ここに極まれり、と言う漢字であろうか。もちろん、破壊したのは地震や津波なのであるが、実際に、国民の生活を支えなければならない政府が、その国民が困窮している時に何もしないでいること自体が非常に大きな問題なのではないか。そのことは、まさに、日本国政府の政府としての機能停止ということが言えるのではないかということがいえるのである。
  そのことは、昨年年末の総選挙で民主党は国民の信頼を失ったと言うことができる。完全に国民の信頼を失った民主党は、海江田万里元経済産業大臣を党代表に、細野豪志前政調会長を幹事長にする夫人でその統制の建て直しをしている。実際に、民主党の支持母体である連合および日教組と言った組合勢力がその勢いを失っているものの、もともと、彼らは「労働貴族」と言われるほどの金銭感覚を持っており、同時に、その結束力は、数が少なくなったとはいえ、実際に強い結束力があると言うことになるのである。そのことを考えれば、彼らの党勢回復は実際に民主党としての基盤をどこに置くかということで決まってくるのではないか。
  要するに、「55年体制」と言われている政治体制があり、「保守」と「革新」がしのぎを削ったのであるが、自民党政権が、その政権運営において、特に政治そのものにおいて東西冷戦終結後「自民党そのものが支持を拡大するために左傾化」したと言うことになり、その左傾化した内容がいつの間にか、自民党そのものも左翼化、そして保守勢力を完全に失った形になってきてしまった。
  93年の一回目の下野は、まさに、その左翼的勢力(と言うよりは拝金的勢力)が、政治そのものをり喧嘩してしまい、左翼としてキャスティングボードを握るかのごとき内容で行ったのである。しかし、その内容は少数乱立の政党連合になってしまい、そのないようはとても政治を進められる状態ではなかったのである。自民党は、このときに完全に左翼主義者を切り離して置けばよかったのであるが、残念ながら自民党の中に、対東アジア談話を残すような人物を残してしまい、結局拝金的左翼が消えただけで、終わってしまった。このときの不完全な形は、後に「自社さ」政権と「村山内閣」の発足で出てきてしまう。これは、完全におかしな内容が出てきてしまうことになり、まさに、自民党が完全に保守政党の看板をはずして政権政党になることを選んだと言う評価になったのである。
  イデオロギー不在の日本の政治は、なんとなく推移することによっておかしな内容になってしまう。まさにイデオロギー不在の日本が、経済湯銭で世界で活躍するのかもしれないが、残念ながら、日本以外の国は宗教にせよ、倫理観・道徳観・そしてイデオロギーが存在し、日本だけがどこにも属さないわけのわからない「エコノミックアニマル」として、存在するようになってしまうのであるから、それではうまく行くはずがないのである。はじめのうちは自民党、保守政権の看板がまだ国際社会では生きていたが、徐々にその看板も薄れてしまい、民主党政権では完全に「日本は保守系の国」と言う感覚すら成果の共通認識ではなくなってしまった。そのために、日本の商品や経済までも信用を失い、その内容は、経済、そしてわれわれの生活まで直撃するようになるのである。
  これが現在までの状態。そして、この中において東日本大震災がおき、また、日本の多くは、口先だけの民主党政権に愛想を就かした。それだけでなく、愛想を尽かしただけでなく、内心の根底において「革新系政権では日本はおかしくなる」と言うところまで考える人が少なくなくなったのではないか。日本は、基本的に自民党政権化の中において行動経済成長を成し遂げ、所得倍増計画を遂行し、そして、世界第二位の経済大国になったのである。まさに、その実績は革新系成権が何を言ってもうまくいかない内容ではないのか。
  そのようなかなで行われた総選挙の結果が出た。実際に、総選挙の結果は、自民党の圧勝と言ってよいが、実際、自民党の得票数や得票率は増えていない状態を考えると、民主党系の投票が少なかったということに尽きるのかもしれない。もちろん、日本の保守勢力が力をつけたために、中道左派の人々が民主党やそのほかの政党伊投票に行くのをためらったと言うこともできる。しかし、それは自民党が支持を拡大したのではなく、民主党が指示を減らしただけ、もっと言えば民主党の固定票による議席数の「正味の数」がわかったと言うに過ぎない。多くの無党派層というものがどのように動くのか、そのことをしっかりと考えなければ話にならないのである。
  そのことが試されるのが、今年の7月にある参議院選挙であるといえる。
  さて、今回は、「年初放談」と言うことであるから、数字を正確に出さないまでも、参議院選挙における傾向の予想をしてみようと思う。
  まず、自民党。自民党は「自公で過半数」には達するものと考える。実際に、今回の参議院選挙の改選議席は、現在から6年前に安倍内閣のときに「惨敗」した議席数である。まさに参議院改選期121で39と言う数字は、参議院選挙で自民党では「惨敗」と言うことができる内容ではなかったか。実際に、当時は「消えた年金」などということが話題になり、また、マスコミの執拗な安倍バッシングはそれまでの小泉純一郎内閣の内容よりもはるかに脆弱な安倍内閣の力をなくした。この後に自民党政権はいわゆる「ねじれ国会」になり、それは3年前の参議院改選による民主党政権のねじれ国会まで続く状態になるのである。
  そのように考えると、現在、そのときよりもはるかに良い状態の自民党安倍政権は実際に、当時の内容よりも良い議席数が出てくるのではないかと考えられるのである。とはいえ、実際にマイナスの要因もあるしマスコミの安倍バッシングは、今回もかなり執拗に行われるものと考えられる。そのことから考えると、今回の総選挙ほど楽勝はできないであろう。そもそも、上記に示したように、参議院選挙そのものの内容は、総選挙の小選挙区制とはまったく違うものであり都道府県別の中選挙区制ということができる。その事は、「相手の批判、足の引っ張り合いで国会議員が決まらない」と言うことを意味しており、バッシングそのものの内容よりも、はるかに政治そのものの主張や政策の浸透が要求されることになる。
  逆に、このことは「安全運転」を標榜している安倍内閣にとって、非常に大きな問題になるのかもしれない。安全運転を「安全運転」と執るのか、あるいは「何もしていない」と捕らえるのかは、非常に大きな違いになるのである。そのように、「同じ現象であっても捉え方・報道の方法によって印象がかなり変わる」と言うのが、マスコミの行う印象操作であり、その印象操作に日本人が「まただまされるのか」と言うことが非常に大きな内容になるのである。
  さて、一方民主党はかなり大幅にまたも数を減らすことになると考える。単純にいえば、民主党は「すでに終わった」と言って過言ではない。政権政党として失格の烙印を押されたのはまさに、そのような意味である。自民党が四年前に政権を陥落したのは「一度民主党にやらせてみればよい」「自民党にお灸を据える」というような感覚であった。実際に、その感覚によるものであったために、「民主党がダメならば自民党に戻せばよい」と言うような感覚が存在したことは確かである。その感覚は、まさにそれまでの経済成長や日米関係など、現在の「戦後日本」を良いも悪いも作ったのは、自民党政権であったことは間違いがないのである。その実績を考えれば「また自民党に戻せばよい」と言うのは、楽観的で深く考えない人々の間では既定の方針だったのかもしれない。「民主党がココアでひどいとは思わなかった」という声は、民主党政権の時に良く聞かれた話である。そのように考えると「実績なく、失格の烙印を押された人々」は、まさに、そのような感じになるのではないか。そういえば、皮肉になるが第一次安倍政権の「再チャレンジ」も、反対したのは民主党である。彼らが再チャレンジできるのかは、かなり微妙である。
  そのように考えると「第三極」と言うのが、非常に注目される。もちろん、維新の会だけではなく、そのほかの第三極が「無党派層」を握るためにどのようにするのかと言うことが最大の問題になってゆくのではないかと言うことがあげられるのである。
  この場合に第三極そのものの内容をいかに考えるのかということが最大の問題になる。第三極そのものは、無党派層を当てにするが、無党派層は「支持政党がある」ものではなく、そもそも支持政党もなく非常に幅広く政治的な志向を持ってる帯状の集団である。その「どの部分を支持政党とするのか」と言うことが最大の問題であり、それ以上の内容ではないのである。まさに、支持政党としての「塊」ではなく「有象無象の集合体」という感じが、もっとも大きく政治を動かし、そして、政治と生活は関係ないなどといいながら日常の不満を政治にぶつけると言うことが日常で気に行われることになり、同時に、その内容こそ、今回の参議院選挙も、そして、昨年の総選挙も非常に大きな流れになっているのである。
  このように考えると、その内容はまさに大きな内容になってしまっており、そのことによって参議院の選挙が変わることになる。
  まさに参議院選挙の内容は、「この無党派層の動き」をどのように制御するのかと言うことが非常に大きな内容になってくるのである。そして安倍内閣も、民主党の海江田執行部も、そして第三極も、その内容をいかにするのか。それが最大の大きな問題になってくるのではないか。
  参議院選挙で日本の未来が変わる。そのことを心がけて、政治に興味を持ってもらいたいものである。
 
  これで、平成25年の「年初放談」を終わります。明日からは通常道理のブログ更新を行います。

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平成25年 年初放談(4)今年の国際関係に関する放談

平成25年 年初放談(4)今年の国際関係に関する放談

 さて、今年も国際関係によって日本は大きく変容することになるのではないか。日本は鎖国をしているものではないのである。そのために、どうしても国際関係の影響を受ける。「影響を受ける」と書くと良くないほうの影響ばかりを考えてしまうのであるが、実際には、良いほうの影響もある。今や日本は国際社会の中の日本であることは間違いがないし、エネルギーも食料も、日本は貿易をしなければ、その内容を維持することができない。
  当然に、日本は国際関係の中の日本という意味で、日本の中の政治や経済と同時に、国際関係をしっかりと見てゆかなければならなのではないか。
  その中において今年の国際関係に関することを放談としてみてゆこう。その前に、まず昨年の標語から。
 
  国際関係の標語平成24年
  「カオスの始まりの一年に対応できる政権を選択できるかが試される一年」
  「各国の変化に対して、日本は大国を利用する独自外交に切り替えを計れるか」
 
  昨年2012年ほど、世界各国の政権が交代または再選が決まったというように政権の枠組みが決まった年はなかったのではないか。一昨年年末の北朝鮮金正日主席が亡くなったことと、それに伴い息子金正恩第一書記の就任も、昨年の一連(金正恩第一書記の正式な就任は昨年の1月)と考えれば、まさにさまざまな枠組みが新しくなったといえる。北朝鮮をはじめとするいわゆる「6カ国協議」参加国である北朝鮮・韓国(昨年12月選挙、今年2月朴新大統領就任)・アメリカ(昨年オバマ大統領再選)・中国(昨年11月習近平協賛党総書記に交代、今年4月国家主席に)・ロシア(メドベージェフ大統領からプーチン大統領へ)そして日本も野田民主党内閣から昨年12月に安倍自民党内閣へと変わったのである。このほかにもイタリアやフランスも任期満了で大統領や首相が交代(イタリアの場合はもう少し違う観点もあるが、あえて触れないでおく)、またエジプトはいわゆる「ジャスミン革命」以来の暫定政権から新憲法制定まで、形式上はこぎつけた感が見えるのである。このほかにも、日本で話題になっていない状態でありながらも、政権の交代はかなり行われているという形になっているのではないか。
  日本の場合は「かえる」「変わる」というと必ず良い方向へと変わるものと考える習慣がある。日本の古来の習慣で、悪いことがおきると、天皇は暦を変えて、新しい時代とし、古い元号、古い時代とともに悪行や疫を葬り去るという感覚が存在していたのである。その感覚はまさに、日本独特の感覚であり、「変わる」ということが必ず「新しい時代」とし、その上で、どこか新しい感覚を持つような形になっているのである。
  しかし、実際のところは「変わる」からといって必ずしも「良いほうに変わる」とは限らない。そもそも民主党政権で「政権交代」などといっていながら、この三年間の内容はあまりにもひどいものであったということができるのではないか。実際に、他人を批判し単に「新しい」「変わる」などといっても、その内容は、実際に期待しているものとはまったく違う内容になる可能性も強いのである。いや、そもそも変わるといってよくなると限ったことではないというのは「世界の常識」であり、永きにわたり、統一の「大和朝廷」によって統一されている日本の政権がかなり稀有な状態にある子を日本人は知らなければならない。日本人のような感覚ならば、共産党革命における「改革」「革命」という枠組みで世界中が席巻されていたのかもしれない。日本の革命勢力が、いかに「日本人的な根底の感覚」で「世界の常識がなく」「かえる」ということにあこがれているのか、その辺のズレはかなり世界的に研究の対称になっていることを、ここで予断ながら紹介しておくことにする。
  さて、話を元に戻して、世界各国の政権が交代して「変わる」事は、まさに、「これから良くなる」のではなく、実際のところ「混乱(カオス)」が訪れるということになるのである。この感覚の中から考えると、まさに、日本そのものの対応は、かなり大きな問題にあんることになる。実際に、民主党政権に変わっていらい外交によって日本はかなりおきな失敗を繰り返してきている。実際のところ、鳩山政権による「普天間基地問題」、「温室効果ガス削減問題」、そしてヴィジョンの見えない「東アジア共同体」と外交面では失点続きである。失点と言うよりも、日本の外交の場合は完全に致命傷を負ったということにならざるを得ないような状態になり、日本そのものが日米同盟があるにもかかわらず、日本とアメリカの結びつきが希薄になり中国ばかり重視する世のなあになって言ったのである。特に「ルーピー」と言われた鳩山政権は世界の信用を失った。
  そのことは、単純に菅政権でも同様の問題が発生し、二転三転する発言と、福島原発事故の処理の最悪の政府対応は、日本に危機管理能力がないことを知らしめた。また、尖閣諸島沖中国漁船衝突公務執行妨害事件に関しては、法律にのっとった政治ができないことをアピールし、また対中国弱腰外交は世界の笑いものになった。この菅政権による弱腰外交は、他にも波及し、ロシアは北方領土の支配を強化し、北方領土内に軍隊を常駐させるにいたった。また、韓国も竹島の支配強化を図り、軍隊を常駐させるにいたった。
  後の野田政権では、観光に対して法的根拠もなく国宝級の歴史資料を見返りもなく返還し、また、李大統領の竹島上陸および、天皇陛下に対する不敬発言に対しても、しっかりとした講義を行うことができないというおまけつきである。民主党の外交は、利益を先渡しし、不都合なことがあると、日本国内でマスコミ相手に騒ぐだけであることから、相手国が完全に日本国政府を馬鹿にし、まさに、やりたい放題の量お問題や資源外交を繰り広げ、日本は多くの国益を失ったのである。単純に、これらの損失は「政権担当能力がない」とか「経験がない」で済まされる問題ではないことは明らかである。
  要するに、「変わる」世界に対応できない日本の民主党政権が昨年の年末にやっと変わったといえる。もちろん、その内容に関しては、かなりさまざまな問題があり、民主党外交(外交と言うよりは、何もできていないのであるが)の作った大きな「マイナス」をゼロに戻すところからであり、はなはだ不利な内容であると考えられるのであるが、それでも、民主党のときよりは期待ができるのではないか。
  しかし、一方で心配もある。日本が保守的になることは好ましいことである。しかし民主党政権のマイナスをゼロに戻す時に「アメリカ」「中国」「韓国」など日本との関係をあっかっせた各国との調整からスタートしなければならないこと、その上で、それらが不調に終わったときには、日本は、周囲をごまかしながら送球に日本独自の安全保障を構築しなければならない。まさに、昨年の標語の通りに、「日本は大国を利用する独自外交」要するに、「大国に依存する」民主党政権以前の内容ではなく、「大国を日本が主体的に利用する外交」を考えなければならないと言うことになる。
  その内容は、まさに、日本そのものの大きな外交方針の転換であり、戦後の国際政治の枠組みから一歩は乱すことにあんる。当然に、日本を依存させていたアメリカや、新たに日本を属国としようとしている中国などからはかなり強い有形無形、そして内外(日本国内からも)は発があるものと思われ、また、その外交を行うことになりかねないのであるが、その内容に関して安倍政権でできるのか、あるいは安倍政権が長期化しても、たとえば軍備、外交などマイナスからゼロに戻すだけで終わってしまうのか。そのことで、非常にかわってくることになるのである。もちろんこのことは、安倍内閣にその実力は意思がないと言っているのではない。民主党外交のマイナスがどれほど大きなものであるのか、また、われわれで見えいていない部分で何があるのかはまったくわかっていないのであるから、その部分をどのように評価するのかによって非常に大きな違いになると考えられるのである。
  さて、このように考えると、昨年の標語は双方ともに「当たっているか、当たっていないかもわからない」状態であるとしか言いようがない。標語そのものの問題は、実際に安倍政権が昨年の年末に誕生したばかりで、その片鱗も見ることなく本日に至っていることを考えれば、当然にそれらに関して、今後のことはわからないと言うことになる。他の国のように、政権が新しくなって、数ヶ月してその政権の方針が見えていれば良いが、実際そうではない部分が非常に大きな問題になるのではないか。
  さて、このように考えると、今年の標語も少し考えなければならない。実際に昨年変わった多くのくにぐにの「新政権」は、新政権の中において国内の対応をした後に、各国ともに外交を行うことになるのである。その外交の中において対日政策が今後決まってくるであろう。その対日政策が、「安倍内閣」としてその本質を見極めてから出てくるのか、あるいは、今までの民主党内閣の延長として、同じ日本政府として対応を決めるのかは各国によって異なる部分ではないのか。その部分を見ながら、安倍内閣による外交が決まってくるのではないか。
  現在のところ、7月の参議院選挙までは安全運転をするというのが安倍内閣の方針である。またその7月の参議院選挙の結果によってその後の外交は変わってくるものと考えられるが、実際に、憲法改正までこぎつけることができるのか、そこは微妙であると言える。
 
  それでは、今年の標語である。
 
  「保守政権による保守的な外交を行うための下地を作ることができるか」
  「日本政府が日本国としてのアイデンティティの確立を目指す一年」
 
  あえて、私自身、今回の安倍内閣の樹立で、7月の参議院選挙まで大きな変化はないものと考えている。実際に、現在の民主党政権の時の官僚の上層部で、自民党または保守的な考え方を持っている人々の外交に耐えられるとは思わない。実際に、しっかりとした外交を行うためには、鹿k利とした組織構築が必要である。今年はたぶんその組織構築で終わってしまうのではないか。民主党政権のように、組織も構築せずに、政治主導などといって常識外のことを大臣が言ったところで、民主主義の国家の中で政治が動くはずはない。それは他の政治も同じであるが、当然に外交に関しても同じことである。そのことを考えてみれば、当然に、そのことがわからなければ意味がない。
  安倍内閣は、前回の第一次政権のときに、官僚との対立で政治が停滞した部分が否めない。その反省がしっかりあるのであれば、外交に関しても、当然に、その下地となる組織作りを行うのではないか。また、そのようにしなければ、政治が前に進まなくなってしまう。そのことを考えて、このような標語とした。
  一体どうなるのか。そもそも、外交上の情報をしっかりと集めることができるのかどうか、そのことを考えて行うべきではないのか。

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平成25年 年初放談(3)今年の経済に関する放談

平成25年 年初放談(3)今年の経済に関する放談

 さて、経済の内容である。
  昨年から、このように経済に関する内容を分けて書いている。実際に、経済は私の専門ではない。しかし、その専門ではないものがこのように出てくるというのは、経済の回復もしくは経済対策そのものが非常に大きく政治を左右することになっているのである。しかし、そもそも経済というのは非常に難しい。
  経済といっても、政策として行われるのは「景気対策」「財政政策」「金融政策」の三種類が行われる程度であり、それ以上の経済への政治の介入はできないといえる。「為替」などは「金融政策」のひとつでしかなく、その内容をいかに実現してゆくのかということが最大の問題である。要するに政治が経済を浴するのは「間接的なコントロール」という手法で行う以外にはないのである。
  逆に、政治が経済を「落とす」事は簡単である。経済を「壊す」事も簡単なのである。単純に、増税、またはインフラの値上げ、沿い手増税に見合っただけの金融緩和や財政政策を行わなければ、当然に、経済は落とされるし壊されてしまうのである。経済は、当然に同質の者に関しては最終は価格競争になってしまうのである。その価格競争に関して、間接コストとしての税金が、または、インフラの値上げ、燃料代の値上げなどを行い、または為替が不利に動けば、価格競争が不利に動くことになる。価格競争を有利に進めるためには、間接コストに見合うだけのコスト削減を行わなければならない。限界までコスト削減を行えば、当然に、最終低には「解雇」以外にはないということになるのである。解雇をすれば、当然に市場が冷え込む。市場が冷え込めば、よし一層価格競争が激しくなり、そして販売をする絶対的な数が少なくなる。要するに「負のスパイラル」ができる。
  さて、民主党政権の特徴は「ばら撒き」ということによる「選挙対策」でしかなかった。しかし、選挙対策で「ばら撒き」を最後まで継続したことによって、負のスパイラルを断ち切ることができなかった。単純に言えば、「選挙対策の人気取りのために、国民の経済対策をおざなりにした」もっといえば「民主党の利益のために国民の生活を犠牲にした」ということになった。日本国民もまったく馬鹿にされたものである。経済対策をせずに、ばら撒きで満足するくらいの国民性と思ったか、または、ばら撒きさえすれば民主党に支持するとでも思ったのか。まさに、その内容こそ何も考えていない内容である。単純に、経済対策がまったくできていないことが、国民の不満になったのである。派遣村も結局何もできていない。「一に雇用・二に雇用」などといっていたにもかかわらず、雇用対策に関しては何もしていない。また何かしたとしてもその効果はまったくあがっていないのである。
  さて、そのような経済を予言できているかどうか、昨年の経済放言の標語はどのようになっていたのか。
 
 
  経済の標語平成24年
  民間による「民主党不況」への挑戦の序幕
  復興というまやかしと、自由化競争の狭間における増税という名の経済破壊とその反抗
 
 
  そもそも「民主党不況」という単語である。これは私が「民主党の闇」という本の中で最も最初に使った言葉であり、「マスコミ不況」と合わせて私がいつも考えていることである。マスコミ不況は、まさにねたみの報道により結局全体が「下方均衡」になってしまうということである。そのために突出した業績をあげた人に対して、その努力などをまったく見ることなく、何かねたみの感情で見てしまい、結局のところ、その内容はひどいものになってしまうのである。
  一方、民主党不況はそのようなものではない。民主党という政党によって、それまでの経済の破壊がなされ、共産主義的均分的平等がなされることによって、自由主義経済が廃れ、文化大革命当時の中華人民共和国、またはペレストロイカ以前のソビエト連邦のような経済になってゆく。その上で、ばら撒きというよりは配給経済と国家社会主義による経済の負のスパイラルが行われることになるのである。まさに、ワイマール憲法下の自由経済から、ナチスドイツの国家社会主義に変わる経済体制のような状況になってきているのである。
  しかし、当時のドイツ人よりも賢明な日本人は、政権を交代させた。安倍内閣が発足したのである。これは、まさに民間の「民主党不況」への挑戦であったのではないか。しかし、その民主党政権は、「復興」を題材にしたインフラの値上げ(電気代や燃料などの値上げ)と、増税(消費税増税)を行った。これにより経済は完全に破壊されそうになった。そして、それに反抗し、国民の生活が第一という政党ができ、そして、民主党政権が崩壊し、そして、安倍政権ができたのである。この「国民の生活が第一」は、実は国民の経済が破壊されるからといってできた政党ではない。実際に、民主党政権特に、鳩山政権のときは主体的にその行動を行っていた人々である。そのために、実は自分でしてきたことを自分で否定する形になってしまう。もちろん本人たちはマニフェストを行うという別な内容で筋を通したのであるが、そのことが通じるような日本国の国民性ではない。
  要するに、民主党不況という不況に対抗するのは安倍晋三政権になってからのことである。
  安倍内閣は、現在のところ、大規模の金融緩和を行うということになるのである。
  さて、問題はそれがうまくいくのかということが経済の問題になる。単純に、上記にあげたように経済政策は「景気対策」「財政政策」「金融政策」となっており、それぞれが、「経済産業省」「財務相」「金融庁(日銀)」が行うような感じになるのである。要するに経済対策を行うためには、「経済産業省」「財務相」「金融庁(日銀)」を全て統括しなければならない。それができるかどうかは、政治の問題である。しかし、日本の国民は、全てそれを期待しているのである。
  では、その期待はどのようになっているのであろうか。単純に、その内容は、まさに「綱渡り」ではないか。それだけ自民党以外の政権が行っていた経済的な損失は非常に大きい、日本経済につけた傷跡は非常に大きいということではないのか。
  あえて「自民党以外の政権」と書いたのは、バブル崩壊後の問題は、まさに「細川政権の国民福祉税と経済失政」が日々言いたことによるものであり、その後の羽田内閣による「予算も組めない少数政党」で政治の停滞があったことによってタイムリーなものができなかった。また、リーマンショックの後は、鳩山政権による「補正予算の執行停止」そして事業仕分けなどで、やはり政府が企画した景気対策を中止したのである。
  国民福祉税そのものや事業仕分けそのものの「政策としての是非」はここで言うつもりはない。それらは政治を語るときにその内容をしたら良いと思うのだ。しかし、実際に級芸な政権交代、そして、その政権交代に伴う継続中の政治的案件の中断、そして、その中断からすぐに次の政策を実行すればよいのであるが、中止してから、次の政策を行うまでのタイムラグは、どうしても政治的な停滞を起こすことになってしまう。何度も言うが、タイムラグなしに次の政策や今までの政策の延長で、同じ方向性の拡大を行うというのでれば、それは楽な話である。しかし、すべてをいったん中止して(日本新党の政権も民主党の政権もそのようにしたのであるが)、そこから検討して次の段階にステップするというのは、日本のバブル崩壊意向の経済の大きなマイナスになるのではないのか。
  さて、では今回の安倍内閣はどのようになっているのか。実際のところ、居間までお金融緩和に大きく日銀が舵を切った後に、インフレターゲットの2%の設定ということになったのである。当然に、同じ方向性の拡大だから仕事の継続性は存在する。また業務を中止することはしていないことになる。しかし、その方向性であったとしても、その具体的な内容や薦め方に関しても決まっていない内容である。もちろん、民主党のように「政治主導」などといっていないから、そこはうまく行くことになるのであろう。しかし、それでもいささかな混乱は当然に予想されることになる。
  その混乱はたぶん最小のところと思うが、一方で、現在の日本の経済が、この最小とも思われるが、経済と政治の混乱を許容できるということになるのであろうか。それは「NO」である。現在、やっとの思いで喫水線が出ている船に、普段ならなんともない漣が来ても、微妙なバランスが崩れ、そのバランスの崩れが、喫水線がやっとでている船が転覆・または沈没してしまう可能性があるのである。そのようにならないようにするための処方もまったくできていない状態。では、喫水線がやっと出ている「日本丸」をどのように護ればよいのか。
  その答えは、経済の専門家でもわからないし、また、歴史だけが知っているのではないか。基本的には、ベストではなく、そのときそのときのベターな選択をすべきとしか言いようがないのである。
  その上で、経済の標語を考えてみよう
 
  抜本的な改革に耐えられるだけの経済対策ができるのかが試される日本経済
  日本の経済の復興のための外交貿易政策ができるのか、政治と経済の連携が試される年
 
  まさに、そのような内容になるのではないか。
  実際に、どのようになるのか、現段階ではそれがわかる糸口もわからない状態になっているのである。その内容は、かなり綱渡りの状態ではないか。そのことをまさに、日本人が認識できているかどうかということ。その覚悟が日本人にあるのかということになるのではないか。

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平成25年 年初放談(2)今年の政治に関する放談

平成25年 年初放談(2)今年の政治に関する放談

 さて、それでは今年の政治についてである。
  はっきり言って、昨年までの放談とそして予想は非常に楽であった。民主党政権の特徴を考えていれば、簡単にそれらに関しては見ることができた。もちろん、誹謗中傷的に民主党が「サヨク」だからとか、あるいは売国奴だとか言うのは簡単である。しかし、実際に政治的な能力があれば、大きくその方向に舵が切られ、そちらに日本は強引に持っていかれていたであろう。
  しかし、民主党という政権は、そこまでの実力がなかった。もちろん、一人ひとりの政治家に能力がなかったということはない。実際に民主党の政治家といえどもそれなりの実力はあったし、また連合や日教組など、その支持層もしっかりしている。何しろあの民主党の政治の中であっても、民主党の支持を継続していたのであるから、その支持派、自民党の支持層などよりもはるかに頑強であったといえる。
  では、なぜ民主党の政治はうまくいかなかったのであろうか。それは簡単である。民主党という政党が、そのような政治的な統一性を持って作られた政党ではなく「反自民」「反自公政権」という発想でしかできていなかったということである。要するに「サヨク」で「売国奴」であっても、その人々がしっかりとした団結力で300議席を超える勢力を保っていたのであれば、そう簡単にその岩は崩れることはなかったのではないか。しかし、残念ながら、民主党政権は発足当初からその政治的、イデオロギー的な統一性がないということが明らかであったために、その内容はうまくいかなかったのではないか。そのことがわかっていれば、民主党の政権の得は「放談」といいながらも、その内容をよそう売るのは簡単であった。
  結局、政治を前に進める、要するに具体的な政策を示して前に進めるということをしてしまえば、もともと政策もイデオロギーも違う政党の内部が統一性が取れなくなるどころか、政党が崩壊してゆくということになる。他人の批判し貸していなかった人が、自分で何かを行うということになると、批判しているほど簡単ではないということに気づく。その「批判の簡単さと、具体的な構築の難しさの違い」は、まさにその政権の命取りになる。批判しかできていない人々の内容は、簡単にぼろが出てしまい、その上で、まったく話ができなくなってしまうということになる。
  私が予想する場合は、この愚たいていな方向性が見えるか見えないかということと、前に進めるところがあるかどうかということで物事が決まる。進めれば当然に、民主党は崩壊してゆく。それを率いてゆくほどのカリスマ性はなくなってしまっているし、イデオロギーが違うのに、統一性がもてるような話ができるようなものではないのである。その内容が見えれば、簡単に、物事の策が見えてくる。そして予想も簡単だ。だから、昨年までの民主党政権に関しては「なんとなくあたっている」という結果になっていたのである。
  しかし、今年からは難しい。
  現在は安倍晋三内閣である。同時に、その内閣は、私のブログで見えるように、完全に「オール自民党内閣」という感じの内閣にな手いるのである。今までの民主党内閣のように「やることも決まっていない、イデオロギーの統一性のない民主党」ではなく、何をするかも決まっている内閣なのである。まさに、「経済再生」と「教育改革」そして「憲法改正」を行う内容である。やることも決まっているのであるから、その内容は、かなり大きな力になる。
  しかし、逆にzべないかくで心配なのは「期待が大きすぎる」ことである。古来日本のことわざに「過ぎたるは及ばざるが如し」との言葉がある。まさに、現在の安倍内閣がそうではないか。日本の保守勢力、少なくとも「反民主党政権」という感覚の人々は、「自分の思い通りに安倍内閣は動いてくれる」ということを考えている。それは、身近な問題から、地域の問題まで「自分の問題を最優先で取り組んでくれる」と思っているに違いない。もちろん、安倍内閣といえども、すべての問題を完全にすべての内容をできるはずがない。当然に、どの問題を優先するかということで、他の問題は優先順位が下がる。しかし、そのことによって「身勝手な有権者」は、自分の順番を待つことができなくなり、そのために、「期待を裏切られた」という感覚を持つようになる。
  「身勝手な有権者」と「その身勝手な有権者を扇動する無責任なマスコミ」、そして「無責任なマスコミに便乗する民主党などの批判政党政治家」は、まさに、そのような感じになるのではないか。そのような勢力に押しつぶされるのか、そうではないのか。安倍内閣がそれらに対応できるのかできないのか。そのことが最大の問題ということができるのではないか。
  逆に言えば、安倍内閣が、そもそも「期待を裏切ったような内閣」にならないように、「優先順位を多くの有権者がわかりやすいように」しなければならないという感じに発表する。同時に、その内容をいかに考えるのか。それでもバッシングをするマスコミに関してどのように対応を行うのか。その対応に関して、何をするのかという事が大きな鍵になるはずである。
  さて、ここまでは、今までの流れを解説したに過ぎない。問題はこれからどうなるかを放談するのが、今年の「年始放談」である。ちなみに、安倍内閣の支持者には良くない感じになるのかもしれない。ご批判はコメントでいただければよいのであるが、実際に完全に楽観的な見通しではないことは明らかである。
  まず、安倍内閣の日程でいれば、当然に「参議院選挙」というものがあり、そこまでは安全運転内閣ということになる。当然に、尖閣諸島問題も、竹島問題も、靖国神社も、そして沖縄問題も棚上げとするであろう。実は、これらの問題は、当然にその内容を解決するには長期間の時間が必要であり、同時に、その長期間の間安定政権を維持しなければd系ない問題である。現在政権が自民党であったとしても、参議院での過半数を持っているわけではない、当然のごとく、安定政権ではないはずである。要するに安定政権でない間に時間がかかる、そして利害が対立する、そして外交関係にまで発展する問題を行うこと自体が、非常に大きな論点となり、その論点を抱えたままの参議院選挙となることは明らかだ。
  論点を抱えての参議院選挙を行うということは、まさに、「マスコミのバッシングの餌食」になるということである。このことは、単純に考えて、安倍内閣としてはマイナスになる。しかし、逆にやらなければ「安倍内閣はまた約束を破った」「また安く二参拝をしなくなった」「政権を執ったら竹島・先覚に手をつけなくなった」という、先鋭化した保守勢力からの突き上げを食らうことになる。
  要するに「先鋭化した保守勢力」も「サヨク化したマスコミのバッシング」も排除しながら、そして、何も手をつけずに優先課題を行うことが可能か。もっと言えば、それを待たせるだけのカリスマ性と、それを説明しないで我慢する忍耐力、そして鈍感力を安倍内閣が持つことができるのかということが最大の問題である。
  そして、現在首相補佐官に飯島勲氏、小泉純一郎元首相のときの秘書官が就いているが、それだけで大丈夫かということが最も重要なものである。そして、それ以上に自民党内に、それらを妨げる勢力があるということが最大の問題ではないのか。そのような「自民党内反執行部」を抑える力をしっかりと持ている内閣かどうか、そのことが最も重要ではないのか。
  ここ数年間、まさに政治が「劇場型」になってしまっている。その劇場型の政治は、まさに日本の国民が民主主義ができていなく、「衆愚政治」に慣れてしまった。その内容こそが最も大きな問題になるのではないか。ローマ政府が崩壊する直前に、まさに衆愚政治となり「パンとサーカス」という統治手法をした。それに気づいたときは、ローマは衰退の一途をたどっていたのである。まさに、その「衆愚政治」と「パンとサーカス」こそが、民主党政権であった。しかし、ローマ帝国と違うのは、情報が発達していたがために、早くその「パンとサーカス」から脱することができた。問題は、「衆愚政治」から日本国民が脱することができるか、ということであるが、残念ながら、日本人が衆愚政治から脱することは難しいであろう。要するに、衆愚政治の中で、安倍政権が「先鋭化した保守」からも「衆愚の温床である左翼化したマスコミ」にも負けずにできるのか。いや負けないだけでは意味がない。そのことを国民に納得させて、参議院選挙でより多くの国民の支持を取り付けなければならないであろう。それができるのかできないのか。どちらかというと、安倍晋三首相には、非常に難しいのではないか。安倍首相を支持している人には起こるのかもしれないが、単純に左翼化したマスコミだけでなく、先鋭化した保守も敵に回ったときに「サイレント」の中道保守の「声なき声」を聞きながら政治をできるのか。その中で、自分に自信を持って政治行うことができるのか。試されているはずである。そして、いささか力不足であるという結論がある。今すでに、さまざまなことに手を広げすぎているし、そのことの優先順位を自分の口で説明できていないのではないか。すでに、左右からのバッシングが始まりつつあるが、残念ながら、対抗するだけの陣容が整っていないし、その陣容も固まっていない。まさに民主党政権ほどひどくはないと思うが、自民党も完全な一枚岩ではないのである。
  そこで、今年の標語である。
 
  「サヨクと極右の声に左右されない政治が試される自民党政治」
  「日本国民が、秦重要なことをわかるのかそれとも衆愚政治に慣れ親しむのかが試される一年」
  ということになるのではないか。
  もちろん、あたるも八卦、あたらぬも八卦である。私のようなものの年始の放言である。このようにならないように、しっかりと保守勢力は、そして安倍政権を支持している人は、しっかりとした政治を目指したらよいのではないか。また、野党の多くは、当然に単なる誹謗中傷ではなく、政策、そして政権をとった場合を考えて批判をするべきではないのか。そのような「大人の政治」というか「当たり前の政治」を行うべきだ。そのためには、小選挙区制をやめ、誹謗中傷と足の引っ張り合いで政治が行われないような形をとらなければならないのではないか。
  日本人が「当たり前の政治」そして「民主主義」をできる国民に名手ほしいものである。

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平成25年 年初放談(1)昨年平成24年の反省

平成25年 年初放談(1)昨年平成24年の反省

 毎年恒例の年初放談である。
  毎年、この正月だけは好き勝手に占い師や預言者のごとき、今年の一年を予想しようと言うコーナーである。数年前はこれでも恥ずかしかったのであるが、昨年くらいからなかなか面白いと言うと思うようになってきてしまった。それでも昨年の予想の反省からしなければならない。
  昨年は、政治、経済、国際関係、そして復興に関してみてきたと思う。復興に関しては、反省も何も、希望的な観測としていたのであるが、残念ながら、復興に関しては飲酒等政権の間は復興はまったく進まなかったと言ってよい。実際に、私の予想以下の復興無視の政権は、さすがに日本破壊政権であった民主党の姿を完全に映し出したものであり、完全に日本人の被害者、被災者を無視したものであった。日本人の被災者は無視しながら、外国人に対する留学支援や、外国人も適用している子供手当ては行うのであるから、驚くばかりである。
  その政権が、実は昨年の正月の段階では、実は今年平成25年まで続くと思っていた。彼ら民主党は利権をほしいために、やっていたのであり、世間体や支持率などを気にしているとはまったく思っていなかったので、要するに、利権が自分たちのところに入ってきて、なおかつ、日本が破壊できれば、十分に自分たちの目的は果たせるのであるから、民主党のメンバーはそのようなことしか考えなかった。だから、そのメンバーが、途中で解散をするとは思っていなかったのである。その内容は、まさに外れていると思う。
  その上で、昨年の政治に関する内容を反省するために、昨年の内容をそのまま見てみることにしよう。
 
  政治関係の標語平成24年
  「更なるカオスへの突入と長いトンネルで政策の迷走」
  「各政治家一人ひとりが根本原理や原則論を試される一年」
  政治関係理由
  日本の政治は、自民党などの野党とは関係なく、民主党の「身勝手な解釈」と「何かに反対する」ということが、顕在化するといえる。この顕在化が、早くなれば早く行われるだけ、安定した政治の入り口が近づくのではないか。この内容が、まさに、大きな問題である。いつまで「身勝手な解釈」と「誰かに反対する」政治が続くのか。もっと言えば、その種穂が政権をとるための方便ではなく、それしかできないあまり力のない人々だったということが、日本人のもっとも大きな不幸ではないのか。
  一方、野党は。という声が聞かれる。残念ながら、野党に特筆すべきことはない。野党も二種類がある。ひとつは「確かな野党」を標榜する野党は、どことは言わないが、今までどおりに批判をしながら少数意見を代表して、発言や政治活動をすればよい。しかし、民主党に取って代わる野党、要するに次の政権を狙える位置にある野党、これもどことは言わないが、この野党は、単に批判をするだけの政治をしていては話にならない。要するに私が「民主党の闇」という本に書いたが、批判からは何も生まれないのである。そこで、建設的な政策を行うべきである。なお、その建設的な政治政策を行う前に、ここで野党の種別を行った事について言及する。「次の政権を狙える位置にある野党」という書き方をした。このように書くと常に短絡的に、「自民党と書けばよいのに」という人がいる。しかし、私の場合、次の選挙において自民党が単独過半数を執るとは限らないと考えている。その場合は、公明党たたちあがれ日本、みんなの党などの連立内閣になることも考えられる。その場合、連立に参加する政党は全て「次の政権を担える位置にある野党」といえるのではないか。

 さて、昨年の政治では、このように書いているのである。
  「更なるカオスへの突入と長いトンネルで政策の迷走」という標語は、なかなか当たっているのではないか。実際に、昨年はTPP、そして消費税増税と言うことをしていた。昨年の内容は、もともと鳩山・菅というまったくうまくいかない政権での混乱(カオス)があり、そのカオスが、もともと鳩山・菅は日本でのカオスであったのが、野田になって、「更なるカオス」要するに「民主党の中にまで派生したカオス」へと突入した。まさに、民主党の「マニフェスト」の完全なる違反と、その違反による民主党の分裂は、まさに、民主党の政治がより一層おかしな内容にした。まさに政治緒の者が長いトンネルに入った。そして、政治は完全に迷走したのである。
  野田内閣の1回の国会での法案通過は40%に届かない状態であり、ついでに言えば、その法案数は60前後である。昨年の最後に発足した安倍内閣を第一次の安倍内閣で「1年で放り出した」などといっていっているが、実際に、安倍第一次政権は100以上の法案を成立させているのである。そのために、野田内閣よりも効率よく法案を通していた、要するに政策実行能力があったということになる。
  もうひとつの標語を考えてみよう。
  「各政治家一人ひとりが根本原理や原則論を試される一年」
  まさに、この標語が当てはまったのは、民主党の人々ではなかったか。民主党の中にいて、その一人ひとりが、「民主党という政党に残るか、あるいは、自分の政治信条にあわせて原理原則にあわせて政治を行うのか」と言うことが試されたのではないか。その内容は、まさに、「政治家が選挙目当てで政治を行うことをいかに考えるのか」と言うことがまさに大きな問題になるのである。特に第三極と言われた人々に対して、書く既存正当の批判だけでよいのか、あるいはこの日本国をどのようにするのかをしっかりと見なければならなかったのではないか。そのことをしっかりと、試されたのが、年末の総選挙であった。第三極の総選挙は、まさにその訴えるの内容が何か問い事でしかなかった。その訴える内容が、批判しかないのに「ブーム」で当選した人は、「小泉チルドレン」「小沢ガールズ」「橋下ベイビーズ」と、まさに「本人の意思なき政治家集団」と言う意味で話が出てくるのである。その内容では話になるものではない。
  昨年の段階では、まだ「維新の会」や「未来の党(すでに分裂したが)」など、まったくわかっていなかったために、昨年の予想の中に具体的な名称は入っていないが、まさにそのものに関して、そのような感じになったのではないか。
  このように、昨年のは「完全」ではないが、ある意味でその傾向はあたっていたのではないか。まさに完全に、昨年の最後にあった総選挙までは導き出せなかったが、それでも、昨年の12月までの混乱の政治はうまく表せていたのではないか。逆に、この予想以上の「カオス」であり、また、そのカオス(混乱)によっての日本の国益の損失は非常に大きなものではなかったのか。そのような損失の詳細まではさすがに見えなかった。
  さて今年である。また、経済や国際という部分もある。それらに関しては、明日以降にするとしよう。何しろ正月早々から長すぎると嫌われるからである。
  と言うことで、今日はこの辺で。
  少々、正月ボケを治す程度の昨年の「放談」の反省からである。
 
 

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あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

今日は、さすがに、ブログを続ける気はありませんので。

ご挨拶だけです。

よろしくお願いします。

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