« 男性不況と男性の草食化、そして男性の女性化 | トップページ | マスコミ批判に関する一考(132) 開かれた皇室は野次馬の対象ではない »

保守的解釈による日本国憲法講義私案 第20回 日本国憲法前文第一文より

保守的解釈による日本国憲法講義私案
第20回 日本国憲法前文第一文より

 前回は、第一文を見ながら、その解釈がいかに左翼的教育者によってゆがめて伝えられたかを示した。今回は、第一文の解釈をしっかりとしてみたい。なお、前文は、日本国憲法発布の詔と同じ内容が書かれていることもあるために、重なる部分があることをあらかじめご了解願いたい。
  まず、文章と、その現代語的解釈文を見てみよう。「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」
  そして、現代文的解釈はこうだ。
  「日本国民は、普通選挙で選んだ国会の決議によって、諸国民と協和しながら日本国を「自由主義」の下で国益を追求し、政府による行為で戦争が起きないように気をつけながら、日本国民にだけ主権とその実現を許し、そのような憲法を作った。」

  まず前回も書いたとおりに、この「日本国憲法」の主語は「日本国民は」である。明治維新以降、このような文章の主語は、ほとんどが「朕は」という主語であった。そもそも主語にこだわるということ自体、あまち日本国憲法の学者は行わない。また、日教組の人々のこの憲法が「民主主義」という精神でできたなどということをいう人々がいる。しかし、単純に日本国憲法だけをこのように見ていう人々は、片手落ちでしかないことは明らかであろう。まず、この憲法の主語が「日本国民は」というようになっていたとしても、実際に「日本国憲法発布の詔」で「朕は」で主語ができている。そのために、「詔」と「憲法本文」の二つでセットになっており、詔が優先するという形になっていると解釈されるべきである。よく中学や高等学校で教えているように、「主語が日本国民となっているから民主主義」と言うロジックは、当時の法律解釈からすれば、主権が天皇にある状態では完全な無効の主張である。同時に、それは共産主義者の大好きな「革命思想」でしかなく、そのような考え方に毒された人は、「日本国憲法は無効」と言うことになってしまう。それはそうだ。天皇主権の時代に主権者でもない臣民が主語の文章を作ったとしても、それは法的に有効な文章ではないのである。これをクリアにするには、「詔」とセットで考えるべきであり、世の中にある詔を掲載していない、そして詔の解釈が行われていない憲法の解説書はすべて「片手落ち」であって、正確に日本国憲法を解釈できていないと言うことになるのである。
  さて、そのような前提で考えた場合は、この日本国憲法は、「天皇が主語」の詔によって「発言を認められた」国民と言う存在が、その集合体として主張をしたものであると言うことがいえるのである。
  では、その「国民」とは一体何なのか。
  その定義は主語だけでは書いていない。その先には「正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し」とある。要するに、「国民」とは。「国会における代表者を通じて行動できる者」と言うことができる。逆に言えば、「当時も現在も、日本国憲法における国民は、国会における代表者を通じて行動を行うことができる者、が日本国民としての資格を有する」と言うことになる。国会における代表者を通じて行動できる者、要するに、国会議員を選ぶことのできる人、つまり参政権を持っている人が、実は日本国民である。その日本国民の定義は、さまざまあると思われるが、実際に、その定義として「参政権の付与」は「国民としての認定」を意味するものである。この憲法の前文の第一文からも、在日外国人参政権の問題はおかしいと言うか、そもそも「外国人参政権」という単語そのものが、日本国憲法に予定されたものではないと言うことが言える。外国人参政権を付与したいのであれば、この前文の改正が必要と言うことになるのではないか。在日外国人参政権の話は、このように憲法的におかしなものであり、日本語のできない人々か、国語のセンスが乏しい人が、日本国憲法前文を読んで、それらに関して気づくことなく、主張いていると言うことになるのである。
  さて、もう少し文章を読み進めてみよう。「日本国民は」「諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保」するということになっている。
  この意味するところを考えてみよう。まず文章を二つに分けてみれば、日本国民は諸国民との協和による「成果」を確保するのである。要するに日本濃くみっは「成果を確保する」事が主目的であり、同時に「諸国民との協和」はその手段でしかない。もちろん、諸国民と対立し戦争をしていて成果が得られるとばかりは限らない。そのことは、当時の日本国民がわが故郷を見て最も感じているところであったはずだ。しかし、そのときに日本国民が目指したのは、諸外国の奴隷になることでも属国になることでもない。日本国民は日本公民として独立し、そのために、日本国民は国民と将来の国民のために「成果を確保する」、要するに国益を追求することを宣言しているのである。なにも、外国に「敗戦国」とさげすまれ、土下座外交を繰り広げてまで「協和」を行うものでもない。日本人は日本人としてのアイデンティティを維持し、そして日本人押しての誇りを持って外国と哀悼に協調を目指すことは「当然のこと」として考えられているのである。もちろん、実質として、敗戦直後、また現在も含めて日本人が弱く、安全保障も自分たちでできない「エコノミー・アニマル」でしかないこともあり、そのことによって威圧に屈することも十分になりうるのであろう。しかし、それらの外交は、この左翼的といわれた日本国県央ですら予定していない屈辱的な内容であると言うことを、外務省および外交を担当している人々は、そのことを意識すべきではないのか。
  もうひとつ書いてあるのは、「日本国民は」「わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保」すると書いているのである。これはまさに、日本国の中における「自由」が存在すると言うことを意味している。この日本国の自由は、まさに日本国民そのものの持てる権利として存在するものであると同時に、「自由」には、当然の「責任」が付帯すると言うことを意味している。以前にも書いたが、「自由」と「勝手」はまったく違うものであり、その「勝手」をそのまま行うことは許されていないのである。
  次に「日本国民は」「政府の行為」によって「戦争の惨禍が起ることのないやうにする」と言うことが書かれている。故脳bん章も正確に読み取ることにしよう。「戦争の惨禍」がおきるのは、二つの行為から成立する。ひとつは、日本の政府が行うパターン。もうひとつは、日本はまったく悪くないのに、相手が侵略をしてきたために、それを排除するパターンである。前者が「侵略戦争」後者が「自衛戦争」と言うことになろうか。現代は、このほかに「集団的自衛戦争」と「平和維持戦争」と仮に名前をつけておく。「侵略戦争」と「自衛戦争」については特に説明は必要ないと思うが、あえて整理しておくと「自己都合による戦争」と「他人の都合を排除する戦争」と言うことであろうか。侵略戦争は、まさに自己都合の戦争でしかない。要するに、そのことは憲法前文にいう「政府の行為」による戦争と言うことが言える。一方、「自衛戦争」は、まさに政府の行為によるものであるが、まさに正当防衛や、国民を護るための戦争でしかない。要するに、この自衛戦争は、政府が国民をっまおる義務、主権領土を護る義務があるとされているだけに、その内容は、当然に政府としての義務の履行でしかないとされているのである。
  一方、現代社会は、貿易などによって各国の資源を得ている。そのために、貿易や通商の安全を護ると言うことが、日本国の国益につながるものであると言うことができる。その内容は、まさに、主権・国民・領土を護るのと同じで国民の生活を護ると言うことになるのである。しかし、貿易を行うためには、平和でなければならない。平和は、貿易当事国だけではなく、シーレーン経過関係国全てが平和でなければ安全に取引ができないのである。そのために、第三国の平和が、日本の国益、強いては日本国民の生活を護ることにつながるのである。そのときに共通の敵に対して脅威がある場合は「集団的自衛権」になり、また、当該国において、内乱またはテロなどが発生した場合は、平和維持をおこなうための軍隊の出動が必要とされる。まさに「平和維持戦争」である。これらの「集団的自衛戦争」「平和維持戦争」に関しては、現在は実質的に日本国が日本国の独自の判断で行えるものではない。現在は、国連主導で行うものであるが、日本は軍備がないために、集団的自衛権を適用するかが議論になっている。問題は、集団的自衛権を主張せず、そのために、日本が世界の貿易の安全を享受できない場合は、文章的に戻ることになるが、「諸国民との協和の成果」を享受できなくなってしまうことになる。これはこれで日本国憲法の精神に違反する行為ではないのか。その場面の議論になた時にもう少し深く考えてみる。
  以上の考察から、日本は「侵略戦争以外」の戦争を、この前文の、少なくともこの文章において蜂起したものではないと言うことが言えるのである。私が学生時代、と言っても小学校の頃であったと記憶してるが、この前文で「日本は平和憲法」と言っているが、単純に侵略戦争をほうきs田に過ぎないことは正常な国語能力があればわかることである。
  さて、次の文章に移ろう。「日本国民は」「主権が国民に存することを宣言」するというのである。さて、現在の日本国憲法は国民主権であり、同時に、民主主義であるとされている。しかし、今回の冒頭に書いたように、日本国民が、自分で、自分たちに主権があると宣言しているのに過ぎない。この文章はあくまでも、「日本国憲法発布の詔」があるために、それまでの主権者である天皇陛下から国民への主権の「移行」が成立するだけであり、この文章だけを読んで、有効とすることはできない。まさに、中国が「尖閣諸島は中国の固有の領土」などということをいっていても、それは権利の警鐘も正当性の主張もないので認められないのと同じだ。それまでの主権者があり、その主権者が移行を認める文書があった上で日本国憲法で日本国民が宣言をするからできたのである。逆に、この憲法を「護憲」などといっている左翼主義者の人々は、一方的に宣言をするだけで、日本国民が主権者になったと思っているから、中国の一方的な宣言の尖閣諸島の料優先原野、韓国による竹島の不法占拠を理論的に、理性的に反論できないのである。
  このように憲法をしっかりと読めば、その憲法の精神は、現在語られているものと違うものであることは明らかである。同時に、現在語られているもので反論などをしていても、あまり意味のある行為ではないということになるのではないだろうか。
  次回は、次の文章にウチ利他いと思う。

|

« 男性不況と男性の草食化、そして男性の女性化 | トップページ | マスコミ批判に関する一考(132) 開かれた皇室は野次馬の対象ではない »

「経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/115684/56874223

この記事へのトラックバック一覧です: 保守的解釈による日本国憲法講義私案 第20回 日本国憲法前文第一文より:

« 男性不況と男性の草食化、そして男性の女性化 | トップページ | マスコミ批判に関する一考(132) 開かれた皇室は野次馬の対象ではない »