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マスコミ批判に関する一考(132) 開かれた皇室は野次馬の対象ではない

マスコミ批判に関する一考(132) 開かれた皇室は野次馬の対象ではない

 マスコミで「鉄板」と言われるねたが皇室のネタである。マスコミでは安全でなおかつ必ず読まれるネタとして「皇室」「北朝鮮」「ヤクザ」である。この三種類のネタ、このように並べると皇室には非常に不敬な感じを持つが、一つの共通点があることをお分かりだろうか。一般の人が非常に興味がありそして一般の生活では決して知ることのできない情報をマスコミのネットして提供されるのを待っている。同時に、そのねネタに関して、多少の誇張があっても甘利怒られることもなく、また、その報道の方法に関してはある程度国民全体のイメージがコンセンサスが取れていると言う特徴がある。ようするに、国民のイメージの沿った報道姿勢で、なおかつその報道姿勢にあわせたネタを、少し新しい情報を付け加えてデフォルメして伝えれば、読者はこぞってその記事に関して興味を持つのである。
 逆に私のような人であれば、そのような「手法」を知ってしまっているので、あまりそれらの手法に頼り切ってしまっている週刊誌のネタなどを見ると、かえってしらけてしまう。まさに「読者数を増やすための手法」と言うのは、見えてしまうと面白くなくなってしまう。そのために、この感覚のネタはあまり扱わないのである。
 さて、今回「マスコミ批判に関する一考」で考えたいのは、その皇室報道に関する問題である。現在、宗教学者の山折哲雄氏の月間新潮45に掲載した論文が非常にマスコミの中で話題になっているのである。その内容は「皇太子殿下のご退位」である。
 皇太子殿下に関しては、皇太子妃雅子様のご病気またはその後療養の様子などが、興味本位で報道され、また、そこからもれ伝わる「皇太子妃殿下が将来皇后陛下としてのお役目を果たせない可能性」などもいわれている。そのために皇太子殿下のためを思って「ご退位を勧める」という論部になっている。
 山折先生は、私も尊敬する宗教学者であり、その著書は何冊も読ませてもらっている。山折先生自身が、この様な論文を書かれること、またその専門的な見地である宗教的な感性から、神武天皇以来の日本国の神道的な指導者としての、そして日本国の象徴として(または元首として)の天皇または皇室と言う感覚から、「人間としての皇太子殿下・皇太子妃殿下」を考えて、その理想と現実との乖離を生める手法として何を考えるのかということになるのではないか。
 しかし、その「論文」を、最も扇情的にそして野次馬的に伝えているマスコミ、特に週刊誌はいかがなものだろうか。

皇太子さまに「ご退位」勧める論文が大波紋 「第2の人生を選ばれてもいい時期」

 山折氏の論文に多くのメディアが関心を寄せた宗教学者で、国際日本文化研究センター元所長の山折哲雄氏が、月刊誌「新潮45」3月号に「皇太子殿下、ご退位なさいませ」という刺激的な題名の文章を寄せた。皇太子妃雅子さまの病気療養が10年目を迎え、「第2の人生」を選ばれてもいい時期なのではないか、と投げかけている。
 思い切った提言に対して、「自分の意志でやめられるはずがない」「このまま雅子さまが皇太子妃としての役目を果たせないのなら、ご退位もやむを得ないのでは」と、議論が巻き起こっている。
 結婚のために王位を捨てた英ウィンザー公を例示
 「いま、皇室のあり方が揺れている」
 山折氏の論文は、こんな1文から始まる。「心が痛む」のが、「憂愁の度を深める皇太子・皇太子妃の沈んだ表情」というのだ。
 皇太子妃雅子さまが「適応障害」と発表され、治療に入ってから10年目。2013年6月にはご成婚20年目となるが、その約半分の時間を療養に当てていることになる。これを踏まえて山折氏は、皇太子ご一家のあり方に対して国民やメディアが「かならずしも暖かい眼差しをむけているわけではない」と指摘、「冷たい非寛容な視線へと転じていくかもしれない」と危惧する。そこで皇太子さまはご一家で「いわば第2の人生を選ばれてもいい時期」にきているのではないか」とし、これを「皇太子さまによる『退位宣言』」と表現。大胆な案を提示したのだ。
 過去にも、「週刊朝日」2012年11月23日号で同様の発言をしていた。朝日新聞元編集委員の岩井克己氏との対談で、皇太子さまの「退位宣言」に言及。「結婚のために王位と祖国を捨ててフランスに移り住んだ英国のウィンザー公という例があります」と補足している。
 皇室典範第3条は、「皇嗣に、精神若しくは身体の不治の重患があり、又は重大な事故があるときは、皇室会議の議により、前条に定める順序に従つて、皇位継承の順序を変えることができる」と定められている。だが皇太子さまはこれに該当せず、ほかに皇太子さまが地位を退くための法的な根拠は見当たらない。「一方的にやめる」というわけにはいかないようだ。
 それでも山折氏は、皇太子さまが秋篠宮さまに「譲位」され、ご自身は天皇家ゆかりの地である京都を「第2の人生の場」にされてはどうかと「進言」する。これで雅子さまの病状も回復に向かうだろうというのだ。同氏は「週刊現代」(3月9日号)の取材に「私があの論文(編注:「新潮45」に掲載された文章)を一番届けたいのは、皇太子さまです」と語っている。
 雅子さまの回復「長い目で温かく見守っていただければ」
 「山折論文」はインターネット上でも反響があった。ツイッターの反応を見ると、「これしか、皇太子ご一家を幸福にする手段はないのではないか」「議論されて良い問題」と理解を示す声が一定数見られた。
 メディア上でも賛否が分かれた。「週刊文春」3月7日号には皇太子さまの30年来の旧友が登場し「天皇陛下でさえ定年がないのに、皇太子殿下が『やめた、降りた』って言えますか」と怒りの様子で語ったという。論文では皇太子ご一家が、日本の象徴としての天皇家という「公」の部分よりも、プライベートな家族としての「私」を重視されているようだとしているが、この旧友は「健全な生活があってこそのご公務」と反論している。
 「女性セブン」3月14日号も大きく取り上げた。複数の識者からコメントが寄せられているが、高崎経済大学の八木秀次教授は「秋篠宮さまに皇位継承権を譲る」という点に賛成する。「皇太子さまは、ご自分の家族に精神的な重きを置かれているようで、本来、皇太子として果たされるべき役割ができていないように感じるから」という。長期療養が続く雅子さまが、このまま皇太子妃の役割を果たせなければ「皇太子さまのご退位もやむを得ないかもしれない」としながらも、「現実的には難しい」と答えたのは、元共同通信記者の橋本明氏だ。
 皇太子さまは53歳の誕生日に先立つ2013年2月22日の会見で、雅子さまが療養10年目を迎えたことについての思いを聞かれ、「快方に向かっている」としながらも「さらに療養が必要です。雅子の回復を長い目で温かく見守っていただければ」と話された。一方、治療が長期化していることで、いわゆる「セカンドオピニオン」を聞くというお考えがないかとの質問には、「東宮職医師団が大変よくやっていただいていますし…今のところセカンドオピニオンという考え方は特にございません」と述べられたという。

J-CASTニュース2013年02月28日18時28分
http://news.livedoor.com/article/detail/7455477/

 学者の論文とマスコミの報道はまったく違う。
 学者の論文は、当然に専門的な見地からその見地の立場での意見をしっかりとした見解を述べるものである。もちろん、専門的な見地と関係のない話をする学者もいないわけではないし、マスコミからの依頼を受けて自説を曲げたわけのわからないことを言う学者もいないわけではない。しかし、山折先生はそのような方ではないことは、今回の論文以外の専門の論文などを見ていれば明らかなことである。逆にそのような「まじめな」論文であるために、この論文の重みと言うのは非常に大きなものではないのか。私自身、この論文に別な専門的感知から反論もしくは賛同の意を表するだけの知識も見識もない。
 私がここでいえるのは、そのような「専門的論文」を受けて、「一般人」が騒ぎすぎと言うことではないだろうか。単純にいえば、「開かれた皇室」といういみは、皇室側が門戸を開くことであって、「一般人がこじ開ける」ものでもないし、「野次馬の目にさらし無責任な言論にさらす」話でもない。一般人および週刊誌各誌は、そのような野次馬的な好奇心の目でだけこの報道を行うべきではないということは間違いがないことなのである。
 そもそも、戦前もしくは戦後間もなくの間は皇室に関して一般人が語ること自体が不敬であるとされた。その上で、現在は皇室側がなるべく国民とともにあるように開かれた皇室を行っている。そのために国民の好奇心の目をある程度甘受するものであろう。しかし、逆に国民側は、「皇室がそのように甘受していただいている」という遠慮の感覚を持って、行うべきではないのか。
 女性宮家などの話もそうであるが、基本的に日本国民の象徴である皇室に関して、皇室関係者でもないわれわれ一般人が、このようなことに関してさまざま無責任な意見を言いすぎなのだ。そのようなことをいうこと事態、話題に上げること自体が「不敬である」と言うことをしっかりと認識すべきである。象徴である存在であるいじょう「無責任な井戸端話」などは行うべきではない。そもそも、自分の家に関して、家庭に関して誰かに何かを言われれば「他人の家のことをとやかく言うな」などと怒る人が、このような皇室のことに関してはさまざまいい始めること事態が、最大の矛盾である。
 今回の山折先生の論文は、専門的観点から責任を持った論評をしたものである。しかし、それを受けての野次馬的なマスコミに関して非常に不敬な人々である。もう一度皇室報道と不敬、そして「開かれた皇室」ということを、しっかりと考え直すべきではないのか。そのような議論のできる環境を整えないと、皇太子殿下の話や皇室のことを話すことじたいがはばかられるものである。

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コメント

な~んか大変みたいですけど、頑張ってください。  国民が全員「前のめり」だったってことです。

投稿: 澤木 信興 | 2013年3月 4日 (月) 21時28分

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