« 平成25年GW連載「日本における左翼的考え方の系譜と中国の影」 第2回 「左翼」という呼称とその思想の流れ | トップページ | 平成25年GW連載「日本における左翼的考え方の系譜と中国の影」  第4回 マルクス主義とその矛盾」 »

平成25年GW連載「日本における左翼的考え方の系譜と中国の影」 第3回 ロシア革命とヨーロッパの左翼思想

平成25年GW連載「日本における左翼的考え方の系譜と中国の影」
第3回 ロシア革命とヨーロッパの左翼思想

 フランス革命以降、王権神授説というよりも、そもそも王権や支配権に関して、神話や神々の権威が否定され、フランスサヨクによる生活権利を基にした共和主義が中心にある。そのときに中心になったのがプロレタリアートである。
  プロレタリアートとは、資本主義社会における無産賃金労働者階級のことをいう。
  基本的には、中世肩近代に移行する時期の家内制手工業から産業革命以降の工業時代において、最低賃金法によって守られた人々のことである。
  逆に法律によって守られなければならない人々であることから、下層階級という感覚を持つ。
  雇用する側の資本家階級を指すブルジョワジーと対になった概念である。
 
  ドイツの学者ロレンツ・フォン・シュタインが1842年に執筆・刊行した著書『今日のフランスにおける社会主義と共産主義』で、この語を資本主義体制下の生産手段を持たない貧困階級の意味で使ったのが有意の初出とされる。
  マルクスとエンゲルスは、1848年に刊行された『共産党宣言』の中で、「今日まであらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」という歴史観を述べた。
  その上で、近代ブルジョワ社会においては全社会がブルジョワジーとプロレタリアートに分かれていくこと(両極分解論)、そして最終的にはプロレタリア革命によってプロレタリアートが勝利し、階級対立の歴史が終わると本の中で記載している。
  これに対してエドゥアルト・ベルンシュタインは、著書『社会主義の諸前提と社会民主主義の任務』の中で株式会社制度のためイギリスやフランスにおいて有産層はむしろ増えていることを指摘し、『共産党宣言』の両極分解論を否定している。
  歴史はベルンシュタインのほうが正しいことを示しており、西欧先進国においてはプロレタリア政党は権力を獲得できなかったのにたいして、むしろプロレタリアートが多数を占めていないロシアや中国において革命が起こったのである。
  そしてそのロシア革命後のソ連が崩壊し、また、共産党一党独裁の中華人民共和国は改革開放経済を行い、そのほかの教案等政党も、多くはマルクス主義の政党綱領を捨ててしまっている。
  資本主義体制下で存続していた共産党をはじめとする数ある共産主義政党・社会主義政党も社会主義革命を目指した政党は、その利益を代表するとしたプロレタリアート概念を取り下げて、特定の階級を代表しない、いわゆる国民政党へ転じたのである。
  これによって全世界的にプロレタリアート政党というものはほぼなくなってしまっている。
  しかし中国共産党はいまだに憲法の中にマルクス主義を高くうたっているし、北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国は、いまだに実態として共産主義国家を行い革命のための先軍主義を行っているのである。
 
  このようにプロレタリアートが革命を起こして社会主義国家を作った最初の例が「ロシア革命」である。しかし、私はアマリロリア革命には詳しくない。
  そこで、いつものごとくインターネット上の内容を引用して解説して見たい。
 
  ロシアでは1861年の農奴解放以後も農民の生活向上は緩やかで、封建的な社会体制に対する不満が継続的に存在していた。
  また、19世紀末以降の産業革命により工業労働者が増加し、社会主義勢力の影響が浸透していた。これに対し、ロマノフ朝の絶対専制(ツァーリズム)を維持する政府は社会の変化に対し有効な対策を講じることができないでいた。
  日露戦争での苦戦が続く1905年1月には首都サンクトペテルブルクで生活の困窮をツァーリに訴える労働者の請願デモに対し軍隊が発砲し多数の死者を出した(血の日曜日事件)。
  この事件を機に労働者や兵士の間で革命運動が活発化し、全国各地の都市でソヴィエト(労兵協議会)が結成された。
  また、黒海艦隊では「血の日曜日事件」の影響を受け戦艦ポチョムキン・タヴリーチェスキー公のウクライナ人水兵らが反乱を起こしたが、他艦により鎮圧された。
  もちろん、これらの蔭に日露戦争で勝利を収めるためにスパイ活動に専従した明石元次郎大佐の活躍は見逃せない。
  しかし、今回の連載の趣旨からは外れてしまうのと、私にとっては思い入れが強いので、長くなってしまうために、ここでは涙を呑んで割愛する。
 
  こうした革命運動の広がりに対し皇帝ニコライ2世は十月勅令でドゥーマ(国会)開設と憲法制定を発表し、ブルジョワジーを基盤とする立憲民主党の支持を得て革命運動の一応の鎮静化に成功した。
  一方、労働者を中核とした社会主義革命の実現を目指したロシア社会民主労働党は方針の違いから、1912年にウラジーミル・レーニンが指導するボリシェヴィキとゲオルギー・プレハーノフらのメンシェヴィキに分裂していたが、ナロードニキ運動を継承して農民の支持を集める社会革命党と共に積極的な活動を展開し、第一次世界大戦においてドイツ軍による深刻な打撃)が伝えられるとその党勢を拡大していった。
 
  1917年2月23日、ペトログラードで国際婦人デーにあわせてヴィボルグ地区の女性労働者がストライキに入り、デモを行った。
  食糧不足への不満を背景とした「パンをよこせ」という要求が中心となっていた。他の労働者もこのデモに呼応し、数日のうちにデモとストは全市に広がった。
  要求も「戦争反対」や「専制打倒」へと拡大した。
 
  ニコライ2世は軍にデモやストの鎮圧を命じ、ドゥーマには停会命令を出した。
  しかし鎮圧に向かった兵士は次々に反乱を起こして労働者側についた。2月27日、労働者や兵士はメンシェヴィキの呼びかけに応じてペトログラード・ソヴィエトを結成した。
  メンシェヴィキのチヘイゼが議長に選ばれた。
  一方、同じ日にドゥーマの議員は臨時委員会をつくって新政府の設立へと動いた。
  ニコライ2世は退位へと追い込まれ、ロマノフ朝は崩壊した。
 
  3月12日に中央委員のカーメネフとスターリンが流刑地からペトログラードに帰還すると、ボリシェヴィキの政策は臨時政府に対する条件付き支持・戦争継続の容認へと変化した。
  機関紙『プラウダ』には
  「臨時政府が旧体制の残滓と実際に闘う限り、それに対して革命的プロレタリアートの断乎たる支持が保証される」
  「軍隊と軍隊とが対峙しているときに、武器をしまって家路につくよう一方に提案するのは、最もばかげた政策であろう。……われわれは、銃弾には銃弾を、砲弾には砲弾をもって、自己の持場を固守するであろう」
  などといった論説が掲載された。
 
  これに対し、4月3日に亡命地から帰国したレーニンは、「現在の革命におけるプロレタリアートの任務について」と題したテーゼ(四月テーゼ)を発表して政策転換を訴えた。
  その内容は、臨時政府をブルジョワ政府と見なし、いっさい支持しないこと、「祖国防衛」を拒否すること、全権力のソヴィエトへの移行を宣伝することなどであった。
 
  「ミリュコフ覚書」が引き起こした四月危機の影響もあり、この四月テーゼは4月24日から29日にかけて開かれたボリシェヴィキの党全国協議会で受け入れられ、党の公式見解となった。
 
  第一次連立政府で陸海相となったケレンスキーは、同盟諸国からの要求に応え、前線において大攻勢を仕掛けた。
  攻勢が行き詰まると兵士たちのあいだで政府に対する不信感はさらに強まった。
  7月2日、ウクライナにペトログラードの第一機関銃連隊は、7月3日、ソヴィエトの中央執行委員会に全権力を掌握するよう求めるための武装デモを行うことを決定した。
  7月4日になるとデモの規模はさらに拡大したが、政府とソヴィエト中央を支持する部隊が前線からペトログラードに到着し、力関係が逆転した。武装デモは失敗に終わった。
  デモを扇動したのはアナーキストであり、ボリシェヴィキは当初の段階ではデモを抑える姿勢をとっていた。
  しかし抑えきれないまま始まってしまったデモを支持する以外なくなった。
  デモが失敗に終わると一切がボリシェヴィキの扇動によるものと見なされ、激しい弾圧を受けることになった。
 
  この後、政権の混乱が続くのであるが、ペトログラード・ソヴィエトは10月12日に軍事革命委員会を設置した。
  これは元々はペトログラードの防衛を目的としてメンシェヴィキが提案したものだったが、武装蜂起のための機関を必要としていたボリシェヴィキは賛成した。
  10月24日、第二回全国労働者・兵士代表ソヴィエト大会が開かれた。
  冬宮占領を待ち、大会は権力のソヴィエトへの移行を宣言した。さらに27日、大会は全交戦国に無併合・無賠償の講和を提案する「平和に関する布告」、地主からの土地の没収を宣言する「土地に関する布告」を採択し、新しい政府としてレーニンを議長とする「人民委員会議」を設立した。
 
  モスクワでは10月25日にソヴィエト政府を支持する軍事革命委員会が設立され、26日に臨時政府の側に立つ社会保安委員会がつくられた。
  10月27日に武力衝突が起こり、当初は社会保安委員会側が優勢だったが、周辺地域から軍事革命委員会側を支持する援軍が到着して形勢が逆転した。
  11月2日に社会保安委員会は屈服して和平協定に応じた。
  軍事革命委員会は11月3日にソヴィエト権力の樹立を宣言した。
  ボリシェヴィキとともに武装蜂起に参加した社会革命党左派は、11月に党中央により除名処分を受け、左翼社会革命党として独立した。
  左翼社会革命党はボリシェヴィキからの入閣要請に応じ、12月9日に両者の連立政府が成立した。
 
  1918年7月4日から7月10日にかけて開かれた第五回全ロシア・ソヴィエト大会は最初のソヴィエト憲法を採択した。
  憲法の基本的任務は「ブルジョワジーを完全に抑圧し、人間による人間の搾取をなくし、階級への分裂も国家権力もない社会主義をもたらすために、強力な全ロシア・ソヴィエト権力のかたちで、都市と農村のプロレタリアートおよび貧農の独裁を確立すること」とされた(第9条)。
  また、ソヴィエト大会で選ばれる全ロシア・ソヴィエト中央執行委員会を最高の権力機関とする一方、ソヴィエト大会および中央執行委員会に対して責任を負う人民委員会議にも立法権を認めた。
 
  この大会の会期中の7月6日、ブレスト=リトフスク条約に反対する左翼社会革命党は戦争の再開を狙ってドイツ大使のミルバッハを暗殺し、軍の一部を巻き込んで政府に対する反乱を起こした。
  反乱は鎮圧され、左翼社会革命党は弾圧を受けることになった。ソヴィエト政府はボリシェヴィキの単独政権となり、野党は存在しなくなった。
 
  少し長くなったが、これがロシア革命の流れである。キーになる内容は入れたつもりである。
  一方で戦争や武装蜂起に関することは抜いて見たので、あまりつながらない部分がある人もいるかもしれない。
  しかし、このようにして、革命と議会(この場合はソヴィエト)の権力闘争であり、きっかけの部分はプロレタリアートのデモであったかもしれないが、最終は上層部の権力闘争で終わっているところが良くわかるのではないか。
  その指導者といわれる人、ロシア革命の場合はレーニンに当たるのであるが、その人物の内容が「ブルジョワジーの抑圧」「プロレタリアートによる革命(独裁)」ということになってきている。
  これが無ければ帝政独裁とあまり代わりが無いのである。
  そしてもう一つの特徴は、革命後の粛清である。
  ここには書いていないがトロツキーも粛清されているし、ニコライ二世とその家族も銃殺刑になっている。
  まさに、権力者の代わりになりそうなものを殺して地位を確定するということが共産主義者の粛清の目的であり、そのことによって恐怖政治を行うのである。
 
  日本の文化では、敗戦の武将も登用して重責につくという習慣があるので、これらの粛清に関してはあまり理解ができないのであるが、あまり日本人的ではない人々は内ゲバなどを行うのかもしれない。
  まさにそのことが、最大の大きな問題である。
 
  では、ロシアの国民をこのような革命に駆り立てた思想は何なのか。
  明日は、そのマルクス主義に関して考えて見たい。

|

« 平成25年GW連載「日本における左翼的考え方の系譜と中国の影」 第2回 「左翼」という呼称とその思想の流れ | トップページ | 平成25年GW連載「日本における左翼的考え方の系譜と中国の影」  第4回 マルクス主義とその矛盾」 »

「経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/115684/57252937

この記事へのトラックバック一覧です: 平成25年GW連載「日本における左翼的考え方の系譜と中国の影」 第3回 ロシア革命とヨーロッパの左翼思想 :

« 平成25年GW連載「日本における左翼的考え方の系譜と中国の影」 第2回 「左翼」という呼称とその思想の流れ | トップページ | 平成25年GW連載「日本における左翼的考え方の系譜と中国の影」  第4回 マルクス主義とその矛盾」 »