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平成25年GW連載「日本における左翼的考え方の系譜と中国の影」  第4回 マルクス主義とその矛盾」

平成25年GW連載「日本における左翼的考え方の系譜と中国の影」
第4回 マルクス主義とその矛盾」

  さて、昨日までは「左翼」と言う語源と、その語源からヨーロッパの中での思想史的な、非常に簡単な内容を記載してみた。
  そして昨日は、世界で始めての社会主義国家設立として出てくるロシア革命に関して、インナーネット上の情報を元に、その思想の流れを中心に追ってみた。
 
  そもそも「人が人を統治する」と言う内容に関して、その根拠と言うものは何かと言うことが最大の問題になる。
  古代から中世にかけては、神々による支配と言うことが言われてきた。ある意味で支配する人は、「神」または「神の啓示」があって、その神の意思にしたがって動いていると考えられていた。
  もちろんこのような考え方をすれば、宗教と支配階級が一体化するということが必要になってくる。
  しかし、その宗教と支配階級方入りするようになれば「政教分離」が話題になってくることになるのである。
  この政教分離と支配階級に関することは、基本的に政治の仕組みを深く語るときにその内容を記載してみたいと思う。
  なお中世の欧州では、この政教分離の流れから「王権神授説」が成立し、その王権神授説において、封建的か考え方から、絶対王政的な考え方に変化するのである。
  この歴史に関しては、一度ゆっくりと考え、日本の政治システムとの違い、そしてイギリスなどを模範とした「小選挙区制」がどうして日本に受け入れられないかと言うことを、宗教的な観点、または民族的な観点から書いてみたいものと思っている。
 
  さて、この絶対王政が国民の手によって覆ったのが、まさにフランス革命である。
  そのフランス革命が左翼の語源に大きくかかわっているということになれば、当然に絶対王政または封建的な支配関係、あるいは宗教的な感覚を持った支配と言うことは、左翼の対極概念上にあると言うことになる。
  もちろん「左翼」と言う単語は、議長席から見て左側であると言うことは、右に行くほど対極概念になると言うことを意味しているものであり、すぐ隣は「中道」であって、対極概念にはないことになる。
  しかし、類見において、支配階級の支配階級的な根拠付けを、神権または宗教的権威付けにおいて行うものなのか、あるいは非常に人為的なものに見るのか、と言うことから考えれば、当然に、その差は、対角線上にあるような完全な対極にあるのではなくても、その溝は非常に大きなものと言うことになる。
 
  近代法哲学の父であるイギリスの哲学者トマス・ホッブスは、何も秩序のない状態において、自然権なる不確定な要素によって、権利を十分に主張すれば隣人との権利の錯綜から「万人の万人による闘争状態」が発生すると言うことを主張する。
  そして、人間はそのようにならないために、社会契約を自然に行っているものとしているのである。
  この考え方はロック・ルソーと引き継がれて、社会契約説、そして現在の基本的人権の元となる考え方になっているのである。
 
  この社会契約説から、人間そのものに「自然権」という権利が生まれながらにして存在すると言う思想が出てくる。
  そしてその思想が進み「自然権はすべての人間において暴動にあるべき」と言うものから「自然権だけでなく人間に関する権利全てが平等にあるべき」と言うことが言われるようになったのが左翼思想である。まさに人間による個体差や能力差を完全に無視した内容と言うことが言えよう。
 
  そのもっとも中心的な理論がマルクス主義という考え方である。
 
  「マルクス主義」は、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスによって展開された思想をベースとして確立された社会主義思想体系の一つである。
  科学的社会主義ともよばれるらしい。
 
  マルクス主義は、すべての資本または資源を、当該存在社会の共有財産として接収しその資本を分配することによって、労働者が資本を増殖するためだけに生きるという賃労働の悲惨な性質を廃止し、すべての労働またはすべての結果が共有すると言うことが行われるようになる。
  その結果、労働または結果に対する分配の差が存在せず、平等に分配されることら、当該社会の中においては階級のない協同社会をめざすとしている。
 
  マルクスとエンゲルスは、1847年に設立された共産主義者同盟の綱領の起草を委託され、1848年に「共産党宣言」を書いた。
  その中に、彼らの政治的な考え方がある程度かかれていると考えてよい。
  現在まで続く共産主義者の頭の中の根本的な部分はここに存在すると言っても過言ではない。
  ちなみに、中華人民共和国憲法の前文にはいまだに「マルクス主義」という言葉が書かれており、その実現のために革命を継続するのが国是となっているのである。
 
  さて、「共産党宣言」に移ろう。なお、この本の解説を、ある意味で保守である私が刷るというのもかなり珍しい。
  基本的に、保守派の人々は共産主義とか革新と言う言葉そのものを「物忌み」してしまう性質があるからだ。
  しかし、その中華人民共和国のずっとご先祖様、孫子の兵法の中には「敵を知り己を知れば百戦危うからず」と記載されている通り、まず、左翼そして中国などの共産主義国的な思想を敵として考えるならば、そのことをしっかりと研究する必要があるのだ。
  もちろん、「ミイラ取りがミイラになる」ような馬鹿な真似にはならないように十分に注意しなければならない。
  さて、「共産党宣言」の中には、人類の歴史は、自由民と奴隷、領主と農奴、資本家と労働者などの、隠然または公然の階級闘争の歴史であると記載されている。
  そして、マルクスやエンゲルスが生きた時代からみた「近代社会」はブルジョワジーとプロレタリアートに民間人が分裂しつつあると記載している。
  この「共産党宣言」の中のプロレタリアートとは、自分の労働力を売って生活するしかない多くの労働階級者ということと定義されている。
  近代社会は一部の資本家であるブルジョワジーが、その資本と権力によって政治を専横し、そしてプロレタリアートを不当に迫害していると言うことになる。
  そして、そのプロレタリアートがブルジョワジーから政治権力を奪取し、ブルジョワジーを排除し、プロレタリアートが自分自身の生産手段などの資本を社会全体の財産に変えることを推奨すると言うものである。
  そして、そのように社会の発展がすすみ、労働量の結集によって社会の財産が増加することによって発展するにつれて、プロレタリアートとブルジョワジーの階級対立も、諸階級の存在も、そもそも、階級支配のための政治権力も消滅し、一人一人の自由な発展がすべての人の自由な発展の条件となるような協同社会がおとずれる。
  近未来的にその余蘊労働力が社会資本となることによって釈迦全体が発展する世の中になると言うことを高らかに宣言し予言したのがこの「共産党宣言」なのである。
 
  一見、すばらしいことが書かれているかのように見える。しかし、よく考えてもらいたい。
  そもそもプロレタリアートが労働力を売る相手が「ブルジョワジー」である。単純に考えれば、ブルジョワジーの解体は、労働者が労働力を売る市場を自らは介しているということになる。
  当然に残った資本家が労働量をよりやすい値段で買い取ることになり、残ったブルジョワジーが財閥化することになる。
  ここにおける格差は非常に大きなものとなり、武力や外圧でなければ解消できないほどの差になる。
  現在の韓国における財閥経済型の社会がまさに、この中途半端な共産主義になってしまっているのかもしれない。
  一方、そのような差がなくなるためには、ブルジョワジーに変わる労働の買主として「社会」という主体が存在しなければならない。
  当然に、社会そのものは法人でもなければ行政でもない、単純に社会契約説的な自然権の集合体でしかないと考えれば、社会そのものの厚生は、プロレタリアートを含めた本人と言うことになる。
  要するに、自分の労働力の買主が自分と言うことになり、労働者は労働対価を得る手段を失いかねない状態になる。
  その多面、当然に社会そのものが巨大な財政基盤と政治権力を持つことになり、その権力はそれまでのブルジョワジーと言われた資本化が多数あったものの集合体と言う、一極集中型の政治権力になってしまうのである。
  しかし、それだけの権力が存在しなければならない常態でありながら「プロレタリアートとブルジョワジーの階級対立も、諸階級の存在も、そもそも、階級支配のための政治権力も消滅」などするはずがない。
  当然に、新たな支配階級である「社会」と言うものが存在し、人々をより強力な権力、それも政治権力と経済的な権力の双方を併せ持ち、なおかつ立法と法の執行の権限を自由に操る「魔物」を作り出してしまうだけである。
  そしてそれが国家的な大きな力構造になったのが社会主義国家であるということがいえるのかもしれない。
 
  さて、先に進むことにしよう。
 
  マルクス主義というと、上記のような共産主義、そして唯物史観、そしてマルクス経済の三つの原理が中心である。
  ではその唯物史観とは一体なんであろうか。
 
  唯物史観とは、法律や国家、文化などの基礎にあるのは経済(生産と流通)だとする見方であり、そもそも民族的な意思や権力欲、収容的な価値観などをすべて否定し単純に経済的な価値観だけで歴史と政治を見てゆくという考え方である。
  1859年発行の『経済学批判』の序文において、彼は唯物論的歴史観を次のように説明した。
 
1.生産力の発展段階に対応する生産関係の総体が社会の土台である。

2.この土台の上に法律的・政治的上部構造が立つ。土台が上部構造を制約する。

3.生産力が発展すると、ある段階で古い生産関係は発展の桎梏(しっこく)に変わる。そのとき社会革命の時期が始まり、上部構造が変革される。

4.生産関係の歴史的段階にはアジア的、古代的、封建的、近代ブルジョワ的生産関係がある。

5.近代ブルジョワ的生産関係は最後の敵対的生産関係である。発展する生産力は敵対を解決する諸条件をつくりだす。それゆえ、資本主義社会をもって人間社会の前史は終わる。

 以上が唯物史観の要約である。
 
  まあ、仏教的に言えば、百八つもある煩悩のうち、経済的な煩悩のみが煩悩であるという考え方であり、色欲や権力欲などはすべて歴史的に無価値であるかのごとき内容であると言える。
  もちろん、経済的、物質的な考え方による戦争や政治権力闘争というものは否定はしないが、実際に、現在世界の多くの土地でおきている「民族対立」や、中東で起きている「宗教対立」は完全に説明できなくなってしまう。
  もちろん、世界の歴史の中においては、戦争と略奪と言うものはセットで考えられるものであり、その内容がどのようになるのかと言うことがひとつの大きな流れになってくるのであるが、しかし、逆に「略奪が目的」の戦争があったのかという考え方からすれば、この驚嘆な唯物史観は間違えていると言うより、人間と言う者をわかっていないと言うことがいえるのではないか。
 
  さて、もうひとつの「マルクス経済」については、著書『資本論』によって結実したと言える。
  マルクスによれば、人間が働くことによって生み出される「労働力の価値」(労働者自身と家族を維持するのに必要な生活必需品の価値)と、労働力が生み出すことができる価値、要するに労働によって生み出される生産物の価値とはまったく別物であるとしている。
  ある意味でこの部分はあたっている部分もないものではない。
  身を粉にして働いても、結果が出なければ、資本主義のところでは給与や報酬が払われないこともあるし、また、芸術家のように、労働そのものではなく感性などを売る場合は、その感性が莫大な価値を生み出すこともある。
  労働量と労働者の手にする価値とが同じものであると言うことが違うのは資本主義でも同じである。
  そこで、資本家は労働力を「労働力」の価値どおりに買ったとしても、支払う賃金を超えて価値、要するにその成果物として残るものが労働力移譲に価値があるものを生み出すように、その労働者を働かせることによって、超過分を無償で取得する事になる。
  この超過分(剰余価値)が資本の利潤の源泉である。
 
  土地所有者が資本家に貸した土地に対して得る地代、銀行が資本家に貸し付けた資金に対して得る利子などは、この剰余価値から支払われるものであると規定されるのである。
  剰余価値説に基づく資本主義経済の運動法則の解明は、労働者階級の解放、階級の廃止という共産主義運動の目標に理論的根拠を与えることになった。
 
 しかし、よく考えてもらいたい。
  実際に、資本家はそもそも労働者が生産物を作り出さない間にも労働に対して報酬を払っているわけであり、それを投資と言う。
  当然に労働者が働く場所に関しても、「投資」が行われ、またその投資に対する回収も必要となるのである。
  これらは、もともと自然にあるものではなく、人為的に整備される資本であり、ある意味臭いはブルジョワジー資本でありながら、ある意味においては社会資本である。
  社会資本が変えれば社会的な混乱は避けられない。まさに、銀行の倒産などによって連鎖倒産が発生するのは、ある意味であるし、マイカルが倒産したときも連鎖倒産はかなり大きくあった。
  業種に限らず、社会の中で活動を行っていれば、その社会活動の停止またはその社会活動の他者への移行は、そのブランク時期をも含み、社会的な影響を持つ。
  あえて「社会的影響」と言っているのは、ここで言う「社会」とマルクスが資本論の中で労働集積の場として存在させる「社会」が同じものであるからに他ならない。
  要するに、ブルジョワジーを圧殺した後の社会は、ブルジョワジーのいた頃の社会ではなく、その社会は、形が変容している内容となってしまっているために、新たな構造が必要となってくる。
  その時点において、「社会」そのものが「ブルジョワジー的な支配階級」になっており、プロレタリアートは常にプロレタリアートのままになってしまうと言うことが、マルクスにはわからなかったようである。
 
  このように考えれば、当然にこの仲の論理は、当初から格差を生み、なおかつ権力が集中したままの階級社会が前提となる。
  分配原資が、すべての民に十分になければならないし平和である中における人口の増加などに関する内容も一切考慮されていない。
  人口増加に関しては、中国は非人道的と批判のあった「一人っ子政策」を行うことになったが、実際にそのようなことを行ったとしても、間に合うものではなかった。
  まさに、共産主義経済システムの理論は唯物史観的なひとつの経済的欲望以外の欲望を抑えることはできず、また、同時に唯物史観的な経済的な欲望をも抑えることができず、社会主義国家における政治権力と富の偏重が行われることになるのである。
 
  さて、私のような人間でもこれくらいのことに気づくのである。
  過去の偉人たちはこの矛盾に気づき、なおかつ、この矛盾を修正し、そして新たな形を生み出してきた。
  明日はその考え方を見てみたいと思う。

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