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保守的解釈による日本国憲法講義私案  第25回 平和維持軍に進んで参加し名誉ある地位を目指す日本国憲法前文第6文

保守的解釈による日本国憲法講義私案
第25回 平和維持軍に進んで参加し名誉ある地位を目指す日本国憲法前文第6文

 実際に憲法において「平和」をうたっているように見えても、実際によく読んでみると、日本が完全にすべての交戦権を失ったものではないことが明らかになってきた。日本は、日本国を守ることに関して、または、ある意味において「平和を守る諸国民」ということでなければ、連携をすることは無いのである。ある意味において、日本で現在左翼的開始役の中で言われている平和主義は、ある意味において「日本が戦争をしなければ世界が平和になる」というロジックによって成り立っている。しかしこの左翼平和主義者のロジックは、ある意味において「日本が戦争をしなければ世界は平和である」という逆説的な内容が可能になる。このロジックの意味するところは何かお分かりだろうか。要するに「世界の平和を乱すのは日本」であるということになり、まさに現代の自虐史観の根源となっているのである。もちろんそのようなことは、「日本国憲法」には一切書いていない。本来は、前回記載したとおりに、日本は世界の平和を守るために、集団的自衛権どころか、ある意味で言えば世界の平和維持軍を自ら勝手ですかのごとき内容であるということが言えるのではないか。もちろん日本が侵略を行うものではなく、他国の侵略を許さない「平和維持」を「自衛権」の中で実現できるようになっているのである。
  一応前回の内容をここに改めて記載して見よう。
  <前回からの抜粋>
  「日本は日本と友好国に対してのみ平和主義を行う」という限定的平和主義の憲法であると読める。逆にいえば、現在解釈上で着ないとされている「集団的自衛権」は、実は「平和を愛さない国に対して、平和を愛する集団の自衛権を認める」と言うように考えた場合は、集団的自衛権を認めるということになる。これが、日本国憲法の前文の解釈になるのである。
  <以上前回からの抜粋>
  このように見ていると、現在集団的自衛権などで国会で論戦していることも、しっかりと憲法を、それも日本国憲法発布の詔から見てくれば、そして通常の日本語解釈の能力があれば、そんなに問題にはならないのではないか。都合のよいところで、前文に行ったり、都合のよいところで9条にしたりしながら、上記のように自虐史観的なロジックを混ぜ込むからおかしいのである。
  日本国憲法の前文は、第5文、第6文、第7文の文で第二節を形成しており、第二節で平和憲法といわれる内容が記載されているのである。では、その第6文は何が書いているのであろうか。
  憲法前文第6文(第二節)はこのように書かれている。
 
  「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」
 
  まず、文章を読むときに最も注意しなければならないのは、文章の主語である。日本語の場合は主語を省略することが少なくないのであるが、その主語を間違うとかなり大きな文脈の間違いをすることが出てくる。そこでこの文章の主語をしっかりと見て見よう。今回の主語は「日本国民は」ではなく「われらは」に変わっているのである。もちろん、ここに言う「われら」は「日本国民のことを意味する」とも考えているが、しかし、ここであえて主語を変えたのは、しっかりと意味があると考えるべきではないか。要するに、第5文において「平和を愛する諸国民と協力して」とある。ここで言う「われら」は、この文章の述語の部分で平和維持を訴えていることから、当然に、「日本国民」だけでなく「平和を愛する諸国民」も含まれると解釈されるべきでないのか。この主語の話しは、述語を見た後にもう少し詳しく見て見よう。
  その「われら」は、「国際社会において」「名誉ある地位を占めたいと思う」のである。では、名誉ある地位を占めるためには何をするのか。そのことが書いてある。まず「平和の維持」「圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」することに努力するのである。
  では、「平和の維持」はどのようにするのか。この方法は、ある意味において二つの方法がある。一つの方法は「外交」要するに「対話」もう一つは「武力による鎮圧」である。そして、この憲法の前文の中においては、その方法を限定していない。要するに、少なくともk年俸前文においては「平和を愛する諸国民」と一緒になって「平和を維持」するためのあらゆる行動をとることが可能ということになるのである。平和を維持するために何をすべきかということをしっかりと書くことが、最も重要な内容になっているのではないか。
  これは「圧迫と偏狭」というところでも生かされる。何より、この文章は一つの文章になっているのである。そもそも「圧迫と偏狭」というのはどういうことは。これはそもそも内政擁護である。この文章において書かれているのは、他国における内政の問題に介入し、それを開放せよ、ということを言っているのである。たとえば、あくまでも一例であるが、この憲法前文のままであれば、中国のおけるウイグルやチベットの圧制圧迫、民族弾圧に関しては、日本は「名誉ある地位を占める」ために、積極的に「平和を愛する諸国民」と介入すべきということになるのではないか。もちろん、この文章の述語の最終は「思う」であるということから、これは実現そのものを肯定または推奨しているのではないが、ある意味において日本国民の願望としてこの内容を記載しているということが言えるのではないか。
  この考え方は大東亜戦争における「民族の独立」と「八紘一宇」の考え方が現在の憲法の中にも生かされているのではないかと私は推測する。はっきり言って、当時、戦後の日本人たちは、自分たちが敗戦はしたが、しかし正しいことを行って力が及ばなかったと考えていたのではないか。その考え方は、戦後の植民地政策に対する反対ということにつながり、そして、宗主国の植民地に対する圧制に介入し民族解放のために日本が活躍するということを想定してたと考えるべきではないか。そのことを、GHQの目を盗んでうまくこの前文の中に取り入れたものと解釈すべきではないのか。この解釈では、現在の日教組などが一生懸命左翼的平和主義を根付かせているのにたいして、彼らそのものが憲法の基本的精神を全く理解していないということを示しているのに過ぎないのである。
  ここまで見てきたところで、この文章の主語「われらは」というところに戻って考えて見よう。これまで、日本国憲法はすべて「日本国民は」となっていた。しかし、この「日本国民は」という単語ではなく「われら」という一人称を使っている。この「われら」という一人称は日本国民を含むものの日本国国民に限定したのではないということを意味している。そのことを考えれば、ここの「われら」は単純に、「平和を愛する諸国民」というものが含まれるということになる。また、この主語に含まれるのは「諸国民」であって、「諸国政府」ではないところも注目に値する。要するに平和を愛する諸国民ということは、「圧迫と偏狭」の被害者であっても、日本の憲法の前文にある「われら」の中に含むことが可能だ。要するに、弾圧する政府に対して、その政府を妥当するような力であっても、「平和の維持」のため、または「圧迫と偏狭」の除去のために、日本は立ち上がり、その被害者と協力することを「思う」のである。
  この考え方は、現在で言うところの国連の平和維持軍などがそれに近いのかもしれない。平和維持軍の考え方を戦後すぐに日本は、植民地支配からの開放という観点でしっかりと行っていたということになるのである。それを憲法の前文に記載していたということになるのではないか。先進的な内容であるということができ、これこそ、日本の誇る内容である。あえてもう一度書くが、その平和維持や圧迫と偏狭の除去の手段が書かれていないということ、ようするに、国連軍による軍事行為も基本的には許されると解釈した上でこの感覚になるべきなのである。
  このような解釈をまげて、日本国民に平和憲法だから武器を持つことも禁止であるなどとといた日本の教育は、しっかりとまず文章を読む力をつけるべきなのかもしれない。

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