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マスコミ批判に関する一考(168) 「マスコミが騒ぐから政治利用にされてしまう」といわれ反論できない情けないマスコミたちへ

マスコミ批判に関する一考(168) 「マスコミが騒ぐから政治利用にされてしまう」といわれ反論できない情けないマスコミたちへ
 山本太郎参議院議員の不敬問題に関しては大きく分けて二つの問題点がある。一つは天皇陛下に対する不敬ということで、もう一つは天皇陛下の政治利用という憲法違反ということである。しかし、この問題点を整理できていないマスコミは、その問題の本質を全く報道できていないことにお気づきだろうか。まさに日本人の魂の中に大きな影響力を与えているのが天皇陛下の存在であり、その影響力が大きいこと、そして日本人が全員で守る存在であるからこそ、「けがれ」を近づけてはならないのであるし、一方でその影響力が大きいことから、政治的な内容をすると民主主義という憲法で定めた政治(政体)の原則を覆してしまう恐れがある。少なくともそこに大きな影響力を持つということである。
 この二つの問題点に関しては、実は根の部分は同じであり、「日本人に対する天皇陛下の影響録の強さ」ということに起因する。基本的には天皇陛下に対する認識の問題である。この問題に関して、私は一昨日のブログでかなり控えめに語った。
 しかし、ここ数日間のネットの言論などを見ていると「山本太郎擁護」が少なからずいることに驚く。「何が悪いのか」というような人々がいるし「法律などで決まっていないから何をしてもよい」という感じである。しかし、それは法律をどのようにとらえるのかということの問題になろう。規範などですべて書かなければならないのか。そうではないであろう。アメリカや中国のような多民族国家ではない日本において、言語慣習生活習慣に文化を共有している人々において、「不文律」ということがある程度共通の認識として存在することになる。これは、ある程度同一の文化性や常識という不文律が通用する相手でしかない。この問題を語れば、「文化」を共有しているのか「不文律」を共有しているのかということである。
 逆に言えば、山本太郎参議院議員に関しては、「書いてないからよい」という論理をしているということは、まさに規範性の欠如であり、そして、そのないようは、文化の共有ができていない、悪い言い方をすれば「日本人」としての常識がないということになるのである。あえて日本人という単語にかっこを付けたのは、批判している側が大多数であり、そしてその大多数の人々が保有している不文律こそ「日本人の文化であり、慣習であり、不文律であり、そして魂である」という意味で、国籍や制度的なことを言っているのではないという意味でとってもらいたい。
「政治利用はマスコミ」 手紙問題 山本議員が辞職否定
産経新聞 11月2日(土)7時55分配信
 参院議院運営委員会の岩城光英委員長は1日、園遊会で天皇陛下に手紙を手渡した山本太郎参院議員(無所属)を呼び、事情を聴いた。山本氏は岩城氏に対し「政治利用という意味は分からないが、品位を汚したなら参院に申し訳ない」と陳謝した。
 これに先立つ議運委理事会では、山本氏の行為が「極めて非常識」との認識で一致した。ただ、懲罰に値するかどうかは意見が分かれたため、5日の理事会で再び対応を協議する。戒告や登院停止などの懲罰動議は見送られる公算だ。
 山本氏は聴取後、記者団に「ルールに反しているという意識はなかった。議会のお沙汰は受け止める」と発言した。議員辞職は否定した。
 山本氏は、自らの行為が天皇の政治利用に当たるか否かについては、「マスコミが騒ぐことによって政治利用にされてしまう。利用しているのはマスコミだ」と持論を述べ、否定した。
 自民党内では山本氏が自発的に辞職しない場合、議員辞職勧告決議案の提出を検討する動きもある。ただ、参院で可決しても強制力はなく、岩城氏による口頭注意にとどまる可能性が高い。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131102-00000087-san-pol
 さて、今日のブログは「マスコミ批判に関する一考」である。
 上記では、今回の問題の本質に少し迫ってみた。大権を持った天皇陛下の影響力と、それを認める日本人の魂を利用しようとした罪は重い。
 しかし、そのことを普段からしっかり伝えることのできていないマスコミは、そのことをまったく一般に伝えることができない。単純に言えば、「山本太郎参議院議員の何が悪いのかを文章やテレビの電波で説明することができない」という現象ができている。何とかの一つ覚えのように「天皇の政治利用」という言葉を使う以外には全く巻あげておらず、そのことによって影響される日本人の不快感やその心に関することを考慮に入れた放送をまったくできないということになる。
 要するに、普段からマスコミ各社、特にテレビ放送がいかに天皇陛下に関して「正しい知識」「日本人の魂に従った放送」ができていないかということである。今回の問題を正しく、しっかりと批判できる人は、少なくとも天皇の大権や日本人に対する影響録をよくわかっている人、または憲法における天皇の政治的権能を持たないということに関して、右翼的または左翼的解釈であったとしてもしっかりと学んでおり、自分なりに理論家で来ている人ということになる。その立場によって批判の方法は違うものの、その内容にあkンして普段から理論化していない、または勉強を指定兄人は「何が悪いのか説明できないが、なんとなく不快感がある」というような解説をしている人は、基本的にいかに常にいい加減に天皇陛下や国体に関することを放送しその誤ったいい加減な情報を垂れ流しているのかということに他ならない。
 一昨日のブログに記載したが、教育の問題などに関しても、しっかりとした歴史を教えることができない。歴史的事実において、鎌倉幕府の開幕の時期をわざわざ、当時の上梓北天皇陛下の影響力など、歴史的な事実まで曲げて天皇を歴史から排除しようとしている。このようなことの違和感を死かk理と伝えられない。憲法にの第一章に「天皇」という章立てがあるのに、その章立てを説明できる人がいない。それを、しっかりと客観的にそして国際的にまで説明できる人がいないということに、そもそも問題がり、そのような人がマスコミの言論人として通用していること自体が問題なのである。
 そのようなマスコミであるから、「マスコミが騒ぐことによって政治利用にされてしまう。利用しているのはマスコミだ」(上記より抜粋)ということを山本太郎参議院議員に言われても、その言葉に対して反論がまともに出てこない。これは不敬な人間に対して、または憲法違反を平気で行う人間から「単なる扇動機関でしかない」マスコミでであるということを言われているのに過ぎないのである。それに反論できないのは、物事のほうン質をいかに報道していないのか、何もわかっていないで下らない常識や日本を破壊するようなことの片棒を担ぐことしかしていない、日本のマスコミの正体を、簡単に認めてしまったことに他ならない。それどころか、これを言われて矛を収めたり擁護に回るマスコミの言論人もいるのである。これでは呆れてしまうし、日本人の中の衆かにゃ文化、伝統そして不文律や秩序は完全に失われてしまうのである。それは中国型多民族集団主義社会に導こうとしているといわれても仕方がないのかもしれないが、同時にそれは、憲法に違反しているということをしっかりと主張できないほどマスコミも憲法に対して全く理解していないということに他ならないのではないか。
 このようなマスコミの言論に関して、または子の湯女マスコミ育ててしまった日本の国民、そしてその違和感を説明できない日本人を作り出してしまった日本の教育に関して、真剣に考え直さなければならないのではないか。

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