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マスコミ批判に関する一考(317) 「想像して書いた」ということが通用すると思っている新聞社のずさんな記事構成とマスコミの無責任

マスコミ批判に関する一考(317) 「想像して書いた」ということが通用すると思っている新聞社のずさんな記事構成とマスコミの無責任
 私のように「小説」と「ジャーナリズム」を両方行っている場合に、最も気を付けなければならないのは、「想像」ということである。
  歴史小説を書いている。実際に「我、台湾島民に捧ぐ 日台関係秘話」が、振学出版より明日発売になる。https://www.amazon.co.jp/%E6%88%91%E3%80%81%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%B3%B6%E6%B0%91%E3%81%AB%E6%8D%A7%E3%81%90-%E6%97%A5%E5%8F%B0%E9%96%A2%E4%BF%82%E7%A7%98%E8%A9%B1-%E5%AE%87%E7%94%B0%E5%B7%9D%E6%95%AC%E4%BB%8B/dp/4434225634/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1477120803&sr=8-1&keywords=%E5%AE%87%E7%94%B0%E5%B7%9D%E6%95%AC%E4%BB%8B
  さて、このように「歴史小説」というのは、常に「フィクション」が伴うものである。もちろん、私たちはなるべく「史実」に近づけて書きたいと思っている。できれば史実そのものを書きたいし、それをドラマティックに書ければ、さぞ面白いであろうという気がしてならない。しかし、残念ながら、基本的にはそれはできない。今回の小説であっても乃木希典や児玉源太郎、明石元次郎という日新日露戦争の英雄が多数出てくる。もちろん彼らの行動は、さすがに明治時代であるから、さまざまに残っているのであるが、しかし、場面場面の「気持ち」や「発言」まですべて残っているわけではない。そのように考えれば、例えば「児玉源太郎はこのように思った」などという文章は、すべて私の想像の中から出てくるものである。
  もちろん、その発言や思ったことなどは、資料などを読み込み、その人の性格というものはこのようなものであるというキャラクター設定を行い、そのキャラクター設定に基づいて、小説の中の事象が起きた場合、このキャラクターの人はどのように考えるのか、どのように行動するのか、どのような発言をするのか、ということをしっかりと、考えたうえで、その内容を記載する。当然に、「キャラクター設定外」のことをしてしまえば、その人は「おかしい人」というようになってしまうし、読者は当然に、「違和感」を感じることになる。小説の場合は、「心変わり」や「キャラクターと違う行動」をつける場合には、当然にその理由付けを行うということが原則となるのである。
  一方、ジャーナリズムは、そのような「想像」は、一切許されない。基本的には「事実」を伝えるものであり、その内容を「捏造」することは一切許されないのである。そのようなことをすれば「ジャーナリズム」としての信用を失い、なおかつ、そのような内容を報道したなどということになれば、他の真実の報道もすべて「嘘」というように見られてしまうのである。
  さて、今回そのような内容を考えたとき、東京新聞は「想像して書いた」というような記事が平気で出ているのである。はっきり言って「言語道断」である。もちろん、東京新聞の中にも連載小説はあるから、その部分ならばそれでよいかもしれないが、他の記事の部分でそのようなことをしてはいけない。
  では、なぜそのようなことになったのであろうか。
中日新聞記事に捏造、記者「想像して書いた」
 中日新聞は12日、5月に掲載した連載記事2本に誤りがあったとして、同日付朝刊社会面で「おわび」を掲載し、記事や見出し、写真を削除すると明らかにした。
 架空のエピソードを盛り込んだ記者の取材メモをもとに記事が書かれたことが原因としている。今後、この記者や編集幹部を処分し、同じ記者が書いた連載以外の記事についても調査する方針。
 誤りがあったのは、5月17日付と19日付の朝刊社会面に掲載された連載「新貧乏物語 第4部 子どもたちのSOS」。
 おわびでは、19日付の記事について、「教材費や部活の合宿代も払えない、などとした三か所の記述が事実でないことを確認した」としている。病気の父を持つ中学3年の少女が、「教材費も払えない」「バスケ部の合宿代一万円が払えず」などと記述した部分を指すとみられる。
 また、17日付の記事には、10歳の少年がパンを売るために「知らない人が住むマンションを訪ね歩く」などとした説明を添えた写真が掲載されたが、この写真は実際の販売現場ではなく、少年の関係者の自宅前で撮影したものだったという。
 同紙によると、8月末に少女の家族からの指摘を受けて調査した結果、取材班の記者1人が架空の取材メモを作成し、写真も記者がカメラマンに指示して撮影していたことが判明した。記者は「原稿を良くするために想像して書いてしまった」と話しているという。取材班のキャップやデスクらは、記者が書いた記事をチェックしたものの、メモは記事掲載時点で誰も見ていなかったという。
 臼田信行・名古屋本社編集局長は、おわびの中で、「記者が事実と異なることを自ら知りながら書いたことは到底許されません。深くおわび申し上げます」と謝罪した。この連載が6月に掲載された中日新聞社発行の東京新聞などでも当該の記事を削除する。
 ただ、おわびでは、19日付の記事で誤りがあったという「三か所の記述」が明示されていない。平田浩二・編集局次長は読売新聞の取材に対し、「関係者に迷惑がかかるので、これ以上は明らかにできない。デスクなど上司による圧力などがあったとは認識していない」と話した。問題の記者の所属や年次なども明らかにしなかった。
 連載は1月に始まり、第6部まで掲載。中日新聞は、今年度の新聞協会賞の編集部門にこの連載を応募していた。同紙は、ほかの記事に問題はないとし、連載を継続する方針。
2016年10月12日 13時10分 Copyright c The Yomiuri Shimbun
http://www.yomiuri.co.jp/national/20161012-OYT1T50066.html
 東京新聞の連載「新貧乏物語 第4部 子どもたちのSOS」という「記事」の中において、架空のエピソードを盛り込んだ記者の取材メモをもとに記事が書かれたとして、お詫び記事が掲載されたのである。
  さて、この件に関して上記の記事では
  同紙によると、8月末に少女の家族からの指摘を受けて調査した結果、取材班の記者1人が架空の取材メモを作成し、写真も記者がカメラマンに指示して撮影していたことが判明した。記者は「原稿を良くするために想像して書いてしまった」と話しているという。取材班のキャップやデスクらは、記者が書いた記事をチェックしたものの、メモは記事掲載時点で誰も見ていなかったという。<上記より抜粋>と書いている。
  さて、問題は何であろうか。
  「原稿をよくするために」ということ「カメラマンに指示」ということ、そして「記事をチェックしたものの、メモは誰も見ていなかった」ということ、そして、「問題の記者の所属や年次なども明らかにしなかった」ということ、そのうえで「連載を継続する方針」なのである。
  そもそも論として、「「原稿をよくする」ということは「記事に主観が入っている」ということであり、ジャーナリズムとして失格である。要するに「妄想を入れ込むような人が東京新聞の記者にいる」ということであり、それでは、「記事の信憑性は完全におかしくなる」ということである。
  新聞というのは、記事を書くにあたり、取材、そしてデスクによる取材内容のチェック、そして、記事のチェック、そのうえでキャップや編集委員による最終的な判断や校正、そして、校閲があって記事掲載となる。なぜか、この記事に関しては、そのデスクやキャップが「仕事をしていない」ということになる。また、「カメラマンに指示」ということは、「カメラマンは、事前に捏造を知っていた」ということになるのである。
  要するに「東京新聞は新聞社が組織ぐるみで捏造記事を想像して書いた」ということに他ならない。
  「新聞社が組織ぐるみで捏造する」というのは、はっきり言って以上である。基本的に戦争中の「大本営発表」と全く違わない内容であり、その情報をもとに判断する多くの国民をだます「詐欺」であるのに他ならないのである。はっきり言って「詐欺新聞」と揶揄されても仕方がない状態である。
  もちろん、中には「行き過ぎた」場合もあるであろう。しかし、その場合は「内部で自浄作用」が働き、そのうえで、責任をとる体制ができるはずである。同時に、政治や社会において、そのような事件が発生した場合には、「責任者」と言ってもっとも大騒ぎするのが「新聞」である。しかし、自分のところの「捏造・詐欺」になると急に何も言わず、すべての情報を「隠ぺい」してしまう。新聞が第三者や政府に対して「隠蔽体質」などと批判をするが、最も隠ぺいしているのは、少なくともこの事件の場合は東京新聞そのものなのである。
  そのうえで「責任をだれがどのようにとるか」もわからず、そして「うやむやのうちに」連載が継続されるのである。
  例えば、築地移転問題などでも、東京新聞は舌鋒鋭く「責任者は」「石原基都知事の責任は」などと言っているが、自分のところが「捏造記事」をすると、まったくだんまりでだれも責任を取らない「無責任体質」なのである。
  常々言っているように、日本のマスコミは「言論の無責任」であり、なおかつ「言いっぱなし」で「隠蔽体質」なのである。特に、このような記事に関しては「政治的な主張」なども何もなく、すべて妄想のうちして「日本は貧困であるかのような恥ずかしい印象操作」を行っている。そのようなことを「事実と無関係に」行うことが「新聞の役目なのであろうか」という疑問は、当然に出てきて良いのではないか。
  東京新聞などは、実際に自分たちの報道した記事による影響や社会的な内容に関して責任をもって言論を出さなければならず、同時に、その責任に関しては、しっかりと一般の公開して行うべきである。「ジャーナリズム」に「想像」は許されないのである。

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