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【土曜日のエロ】 舞台・芸術・映画など芸能活動におけるヌード表現の「エロ」との境界線は何か

【土曜日のエロ】 舞台・芸術・映画など芸能活動におけるヌード表現の「エロ」との境界線は何か
 土曜日のである。まあ、またもや個人的にエロのことを思う存分勝手に書く日が来たと、少し喜んでいる。基本的にエロというのは人間の本質であり、なおかつ人間の中の隠したい部分がそのまま出て来る。人間というのは、人種などに関係なく、少なくとも人間は動物である問い「本能的」な部分と、一方で社会的な生活を送る集団生活者としての「理性的部分」が存在する。人間は、基本的には社会的生き物として、理性的な部分を表に出し、本能的な部分をなるべく隠すことを行っている。勿論それが良いのかどうかということは別にして、少なくtも原始時代などはそのようなことはなかったと思うが、それ以降、日本で言えば奈良時代は平安時代から、それらの本能的な部分は完全に「秘め事」として、なるべく人目に受けないような形になっているのである。
  では、その中において、「本能的」な部分をどのように解釈しそして理論立てて「建前の世界」になるのかということを、人間は常に考えている。その考えこそが面白く、「本音」と「建て前」の懸け橋になっているのである。特に、秘め事として恥の文化を非常に強く持っている日本人のその内容は、非常に面白いし、興味深い。その興味深い部分をいかに考えてゆくのかということが、ある意味でお面白いのではないか。
  さて、今回は、その「本音の部分を建前の部分で隠す」という方法の中で「芸能関係」とか「芸術関係」として処理する方法に関して、その内容を見ているのである。
  さて、芸術の中で、ある意味で「女性の裸体」というものは、非常に芸術的であるとされている。ミロのヴィーナスを代表とする「裸婦像」は、その女性の曲線と、石でできているのにかかわらず「柔らかさ」を表現した内容に関しては非常に素晴らしい芸術性を持っている。もちろん、当時は写真などがないのである唐、本物の女性がヌードになって、そのモデルを務めたのではないかという気がしている。そのモデルを務めた女性が、sれほどの美人であったかは別にして、少なくとも現代に伝わるヴィーナス像でエロスを感じる人はいないのである。
  このように考えた場合、「何がエロなのか」「何が芸術なのか」ということに関しては、さまざまな解釈があるのではないか。
はるかぜちゃん出演の舞台内容変更、ヌード表現指導
 舞台「偏執狂短編集IV」を主催する劇団voyantroupeは、声優で女優の“はるかぜちゃん”こと春名風花(17)が出演する同舞台のヌード等の露出表現に対して警視庁から自粛の通達を受けたとして、公演内容の一部変更を公式サイトで発表した。
 同舞台は9日より上演予定だが、公式サイトは2日、「先日五月三十日付で警視庁から劇場に対して連絡がございました。公演内容に関しヌード及びわいせつ物の露出表現の自粛の通達であり、なんらかの処置がなされなかった場合、公演自体の中止処罰の対象となる可能性があると判断し公演内容の一部変更を決定いたしました」と発表。警察からの通達は、未成年者である春名が出演していることを問題視した一部からの通報を受けたものだったというが、同舞台の脚本・演出を手がける同劇団代表の宇野正玖氏は、他の出演者によるヌード表現はあるが、春名については「未成年の児童に対しては本人はもちろんご家族の了承を得て所属事務所へ出演のオファーをしたものであり、未成年者へヌードの要求をすることもございません」と説明。「これを一方的な見解で児童ポルノであると断じることをこそ、アート表現への迫害であると感じております」と訴えた。
 また、ヌード表現についても「ただ偏(ひとえ)にアートの美しさとしての表現」だとして、わいせつを目的としたものではないと主張。それでも、今回の通達を受け、出演者たちによるヌード表現についても「身体の部分を特定の色彩(銀)で覆うことに決定致しました」とし、春名がメインキャストを務める演目に関しては演目自体の中止を決定したとした。
 春名もブログを更新し、「応援してくださっていた皆様 本当に申し訳ありません」と謝罪。「いろいろ思うところはありますが、考えれば考えるほど心がこれからの舞台に集中出来なくなってゆくのでこれから本番終了まで、この事はいったん忘れさせてください。今は、新しい台本のことだけを考えます」と複雑な胸中を吐露した。
2018年6月4日 11時19分 日刊スポーツ
http://news.livedoor.com/article/detail/14812756/
 さて今回の内容に関して、この「偏執狂短編集IV」という舞台芸術も、また春名風花という女性も全く知らない。そのために、どのような内容で、どのようなヌード表現なのか全く知らない。知らないで偉そうにさまざまなことを言うといううのは良くないのかもしれないが、この記事の中の表現に、一つ注目すべきものがあるので、その内容を書きたくて今日はブログを書いているようなものだ。
  「これを一方的な見解で児童ポルノであると断じることをこそ、アート表現への迫害であると感じております」と訴えた。また、ヌード表現についても「ただ偏(ひとえ)にアートの美しさとしての表現」だとして、わいせつを目的としたものではないと主張。<上記より抜粋>
  まさにこの文章こそ、現在の「ヌード」に対する「エロ」と「芸術」の差がこの内容になっているのではないか。ある意味で「芸術として本人が認識している」かどうかということと、それを見ている人々が「そのヌード表現を見て性的煽情を感じるか」ということが非常に大きな内容である。ここに双方の主観があり、その主観と客観に差がある場合には、かなりさまざまな問題があるということになるんド絵ある。
  もちろん、その主観と客観が大きく書けな慣れている場合は仕方がないが、いずれも演じる者の主観と、見ている者の主観ということになり、その主観のぶつかり合いであるから感受性の者になるのである。同時にこの内容に関しては「客観的な基準」を作ることが難しく、なかなか大変なことになる問いことになる。
  単純に警察はそのことをよくわかっているので「苦情」に対して「自粛要請」にとどめている。本当にわいせつと思ったのであれば、わいせつ罪の関連の何かで取り締まればよい。しかし、基本的に「ある程度芸術性があると判断される」ということであると考えられるのではないか。
  さて、当然に「見る側の主観」の中には性的な感覚を持つ人が出てくると思う。しかし、その主観は「自分がエロいと自白しているのと同じ」ではないのか。ある意味で「ミロのヴィーナスを見て性的な興奮を覚える」という人がいて、ルーブル美術館からどこかの美術館が借りてきて展示会に苦情を言った場合、どのようになるのか、そのようなことに近いのでは中と思われる。
  ある意味で「自分がどこまでエロいのか」また「芸術をどこまで理解するのか」このことを見たいので、この手の苦情は「個人情報を公開」すべきではないか。そのうえで「正々堂々とエロの議論」をすべきである。

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