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【突然不定期連載4】私的明智光秀考 光秀は本能寺の変の後どのような日本にするつもりであったのか

【突然不定期連載4】私的明智光秀考 光秀は本能寺の変の後どのような日本にするつもりであったのか
 今週は、不定期連載として明智光秀に就て書いている。今までも小説を書いているときにこのようにすればよかったと正直少し後悔している。何もニュースばかりに固執する必要はなかったのではないか。そんな気がするのである。
  さて、今日と明日は本能寺の変に関してしっかりと考えてみたいと思う。その中で二つの疑問が、明智光秀を書くときにどうしても頭から離れないのである。そしてその二つの疑問こそが本能寺の変を解くカギになるはずである。その一つ目。「光秀は本能寺の変の後どのような日本にしようと思っていたのか」ということである。
  今までにもご紹介したように、信長は「唯物史観的合理主義で商業資本家」であり、光秀は「伝統歴史観的情緒主義で農業資本家」であったと考えられる。しかしそれだけであっただろうか。その合理主義商業資本家の信長は、積極的に外国を取り入れた。キリスト教を保護し、日本の寺社仏閣を壊していった。ある意味でその方が商業的には良いであろうし、またヨーロッパとの貿易は信長にとっては魅力であったはずだ。
  現在でも、海外を積極的に受け入れるという人と、日本の伝統文化を重んじるということになってくる。この二つの内容はうまくバランスを獲れればよいのであるが、残念ながら戦国時代の決定というのは、自分が特徴を持たなければならないし、寺社仏閣が本願寺や比叡山のように敵対的勢力になってしまう場合があるということから、そのことを容認できない状況が生まれてくる。つまり極端に西欧文化の取入れを行ってしまうということになってしまうのではないか。
  さて、この考えが現在も対立の目になっていることは皆さんも十分に承知していることと思う。その内容が保守と革新の対立の根になっているということも皆さんご承知であろう。良く信長は「天皇を排するつもりだったから殺された」というようなことを言う人がいるが、たぶんそれは違って、商業合理主義、世界商業資本主義は「天皇の上に世界帝王を作る」というようなことを考えたはずである。
  その「世界帝王」という考え鷹を光秀が容認できたのかということが最も重要な指針になるのではないか。
「麒麟がくる」京都でロケを 府内首長らNHKにPR
 2020年のNHK大河ドラマが明智光秀を主人公にした「麒麟(きりん)がくる」に決まったことを受け、光秀にゆかりのある福知山市の大橋一夫市長や亀岡市の桂川孝裕市長、京都府の城福健陽副知事らが5日、東京都渋谷区のNHKを訪れ、幹部に対し地元としてドラマ制作に全面協力する決意を伝えた。
 光秀ゆかりの京都府や兵庫県の自治体でつくる同ドラマ推進協議会としての活動で、会長を務める大橋市長は「撮影協力など全面的な支援を約束するとともに、地域の観光振興や活性化につなげていく」と述べ、決意表明書を木田幸紀放送総局長に手渡した。
 「麒麟がくる」は謎に包まれた光秀の前半生に焦点を当てるとともに、本能寺の変で主君の織田信長を討った「反逆者」とは異なる新たな光秀像を打ち出すとされる。木田総局長は撮影開始が来年の初夏ごろになるとの見通しを示し、「どこで何を撮影するかまだ分かりませんが、関西に行ったときにはよろしくお願いします」と話した。
京都新聞【2018年06月05日 22時50分】
https://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20180605000166/print
 現在にもある保革対立。その信長も光秀も、この天正十年に一気にいなくなってしまう。そして祖その信長の後継者となったの羽柴秀吉であった。あえて「豊臣」と使わないのは、この時代は羽柴を名乗っていたことと、豊臣というのは朝廷が与えた名前でその名字を名乗っていたころは、何となく変わってきていたという感じになる。秀吉は、この信長の「唯物主義的商業資本主義」を継承した。いや、彼こそ唯物主義的でなければならなかったといえる。つまり、農民出身の人が天下を収めるのであるから伝統とか歴史とかを重視するような状況では話にならないのである。
  これにまず対抗したのが、柴田勝家である。信長の宿老とはいえ、彼はそもそも信長のその危険性を察知し、若い頃は庶兄織田信広についていたし、また、彼は秀吉と事あるごとに対立している。太閤記では柴田勝家も悪く書かれていて守旧派の代表のように書かれているが、彼にそれなりの実力がありなおかつそれなりの力を持ていた事、人望があったことは、信長が彼を珍重していたことでわかる。柴田勝家自身、子供がいないというか、妻がなくて信長の妹市を妻にもらったのであるから、彼も子供に対する愛情は薄かったのであろうがそれが唯物主義的商業資本主義にはならなかった。敵に包囲されたときに、水を全員に飲ませてその後水甕を割り、背水の陣で戦って死地を脱した。そのことから「甕割柴田」とあだ名されたが、まさに「精神論的な武将」であり唯物主義とは対極にいたことがわかる。
  柴田勝家が賤ケ岳で倒れると、その後、秀吉と戦うのあ徳川家康である。家康は一度臣従するものの、その後豊臣政権をひっくり返すことになる。その家康のやりかたは、「鎖国」「出島」「幕藩体制」が基本となる。つまり、保守派の極論になるということであろう。
  この徳川家康が、たぶん明智光秀の理想に近かったのではないか。そう考える人は少なくなかったので、「天海が光秀であった」というような話になるのである。つまり、光秀は「天皇崇拝」というよりは「保守派」「外国人の排除」「農本主義」を行うということを考えていたに違いない。
  この観点から現在の亀岡市、また光秀が長く本城とした坂本城周辺の滋賀県大津市を見ていると「キリスト教の痕跡」がほとんどないことに気が付く。それどころか、信長が焼討した寺を、その後修復したりさまざまに寄進したりしているのである。「敵対する寺は潰す」という原則がありながら、その後信心を欠かさなかっただけではなく「キリスト教を入れなかった」ということが挙げられるのではないか。その後の江戸時代も同じような状況であったと考えられる。
  鉄砲のような最先端の技術を得ながら、日本はすぐにその改良版を作り、信長は諸説あるが三段撃ちのような戦法を編み出した。しかし、欲しいのは技術だけで思想や宗教まで取り入れ日本を破壊売るつもりがなかった。光秀はそのような世の中を作りたかったのではないか。京都からほど近いところでありながら、キリスト教の施設であるコレジオ、セミナリオを作らず、協会も置かなかったことが、その光秀の思想を裏付けているような気がする。そのことが現在の亀岡市や大津市からうかがい知る津子ができるのではないか。

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