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年末恒例今年の10大ニュース2008

年末恒例今年の10大ニュース2008

 平成20年、西暦2008年も残すところ後数日となった。大晦日と正月元旦となにが違うのか、と言われても、観念的な暦の違い以外特になにも変わらない。普通通りに陽は昇るし、風も吹く。古来、暦が変わるとは大変なことであった。太陽の神である天照大神命の子孫であり、収穫と暦を司る「現人神」である天皇陛下が、暦を変えることによって新たな収穫が始まるのである。日本は農業国家であり、その農業も基本は稲作である。その稲作は1年で種から収穫がありそこでリセットされて新たな種籾からの栽培がはじまることになっている。現代は、工場生産であり、365日いつでも何でもできるが、やはり農耕民族の性格と勤勉さが、特別な休暇と観念的な「ハレ」の日をほしがっているものである。
 さて、そんな状況はともかく、今年もおわろうとしている。そこで、毎年恒例の10大ニュースを見てみたい。毎年であるが、著作権などに抵触する恐れもあるが、読売新聞社の10大ニュースをこのまま引用する。
1  中国製ギョーザで中毒、中国産食品のトラブル相次ぐ 
2  福田首相が突然の退陣表明、後継は麻生首相 
3  ノーベル物理学賞に南部、小林、益川氏、化学賞には下村氏 
4  北京五輪で日本は「金」9個、競泳・北島選手ら連覇 
5  東京・秋葉原で無差別7人殺害 
6  後期高齢者医療制度スタート、保険料の年金天引きなどに批判 
7  元厚生次官宅襲撃事件で3人死傷、出頭の無職男を逮捕 
8  東京株、バブル後最安値を記録 
9  岩手・宮城で震度6強、13人死亡 
10  洞爺湖サミット、温室効果ガス排出量半減の長期目標 
11  「事故米」の食用転売判明、太田農相ら引責辞任 
12  房総沖でイージス艦と漁船衝突 
13 ガソリン税暫定税率が失効、値下げ始まるも再可決で復活 
14  大分県教委汚職で小学校長ら逮捕、県教委教育審議監も 
15  大相撲の若ノ鵬を大麻所持で逮捕、吸引陽性のロシア人兄弟力士解雇、北の湖理事長引責辞任 
16  「ロス疑惑」で三浦元社長逮捕、ロス市警拘置施設で自殺 
17  「ゲリラ豪雨」の河川増水で小学生ら5人死亡、被害相次ぐ 
18  中国産ウナギなどで産地偽装相次ぐ 
19  大阪の個室ビデオ店で放火、16人死亡 
20  緊急搬送の妊婦死亡、8病院受け入れ拒否 

 上記のうち、政治関連が5件なのに対して、事件事故が8件。ニュースというのは、もともと日常と異なるハプニングを伝えるものであり、その「ハプニング」とは、人生の中で悪い子との方が多い。そんなことをわかっているつもりでも、いざこのような形になってみてみると、年末に暗い話題が多いと感じてしまう。
 事件事故の中でも、あまりよくわからないものが少なくない。秋葉原の無差別殺傷事件と、厚生労働省もと事務次官殺傷事件、個室ビデオ店放火事件などは、やはり、このように改めてみてみると、社会そのものが病んでいるようにしか見えない。また、その社会をただすべき、教育の現場で不正が行われ、結局誰のための教育かわからなくなってきてしまっている。この社会の荒みは、食の安全という生活の根本的な部分をも蝕むことになり、その責任を負って大臣が辞任するようになってきている。
 このように見てみると、結局のところ、官僚も教育も、社会も食も、全てが不安になってしまい、政治不信や政府不信につながってしまっていることがわかる。政府がいくら良い政策を打ち出しても、結局のところ、それを実行する官僚・公務員と、それを受け入れる社会が荒廃していれば、実効性も・効果も少なくなってしまう。またその意味を分からせる教育ができていなければ、結局のところ、なに網膜は行かないということになってしまうのではないだろうか。
 小泉改革以来、このように考える人は少なくなかった。国家公務員改革などを断行すべく、政府はその路線を進んできた。公務員制度と族議員の関係を壊し、道路公団や郵便局を民営化し、その株式の売却益と配当の収入を得ることがぇきるような仕組みは整えた。しかし、安倍内閣・福田内閣・そして麻生内閣において、やはり私が何度も言っているように、これらを壊し、改革を進めた後の日本の姿が示されていない。もちろん、野党各党は政局、と言うよりは政策をまとめる力がないので、政府を非難しているばかりで、何の解決にもならない。しっかりとした政策論の争いではなく、霞ヶ関が作った政策を、実行するか非難するかという違いで、政治不信が募っている。昨今のアンケートでは、自民の支持率急落であるが、民主の支持率があがっているわけではない。完全に政治不信が募っているだけであることがこれら数字に表れている。自民側は「重く受け止める」としているが、民主党側も、与党の支持率低下が民主党支持につながらないことについて、しっかりと受け止めるべきであろう。
 さて、そのような政治不信は、経済成長にも影を落とす。ガソリン税の混乱もあった。ガソリンスタンド前の長蛇の列は記憶に新しいが、それがあっても、この年末にガソリンがリッターああ足り100円を割る店が急増している。政治不信は株価の急落も招く。株価などは、将来の安定成長に従った長期の安定投資がその基本になるのに対し、一部の投機的な投資家と、政治不信による将来の不透明が、結局株価最安値の更新という不祥事を起こしている。
 こじつけかもしれないが、政治不信と戦後政治の問題点が多く明るみにでた一年といえる。多くのマスコミでは、これを「自民党政治の終焉」と言っているが、民主党の多くの幹部は基本的に元自民党のもっとも自民党らしさを持った人々であったことを忘れてはならない。
 この戦後政治の「膿」を出したのは日本だけでない。アメリカも同じである。
1  米大統領選でオバマ氏勝利、米史上初の黒人大統領誕生へ 
2  中国・四川大地震発生、被災者1000万人超の未曽有の大災害 
3  米証券大手リーマンが破綻(はたん)、米国発の金融危機が世界に波及 
4  北京で五輪開催 
5  NY原油、最高値147.27ドルを記録 
6  ミャンマーでサイクロン被害、死者・行方不明者13万人超す 
7  インドの商都ムンバイで同時テロ、邦人1人含む163人死亡 
8  チベットで大規模暴動 
9  北京五輪の聖火リレー、世界各地で混乱 
10  インドネシアで鳥インフルエンザの死者100人超す 

 これが、海外のニュースのベストテンである。項目だけで判断すれば別であるが、市場経済への疑問と、戦後のアメリカ中心の枠組みや中国の国内の矛盾が明るみにでた。その場に応じて、大統領選挙というイベントと北京五輪と言うイベントで乗り切ったものの、やはり経済危機はどこも変わらない。中国も五輪バブル崩壊があったし、アメリカに関しては言わなくても良いくらいである。
 日本だけでなく、世界的な構造変化やバブル崩壊、政治不信というように、戦後の枠組みの構造疲労が出てきている。
 
 アメリカ大統領選挙ですら、あまり明るい話題とは考えていない。今年は清水寺で発表される今年の一文字は「変」であるとされた。オバマ大統領候補の演説で使われた「change」が大きな理由かもしれないが、実際これは「変」ではなく「戻」という感じなのかもしれない。構造の変化の前に懐古主義があることがある。オバマ大統領候補は、そのことを敏感に感じ取り、リンカーンの使用した聖書で宣誓を行うなど、様々な演出を行っている。
 中国もご他聞に漏れず、懐古主義的な政策が相次いでいる。北京オリンピック直前から民衆や少数民族への圧力を大きくしている。また台湾の新政権への連携の強化を図るがごとく行い、一つの中国という理念からチベットへの圧力も強化している。その情報統制は、まさに古い中国を思わせる。

 さて、今年の1月最初の文書で、私は2008年は「変革という名の懐古」となると予測している。少し長くなるが、今年の1月の年初放談の最後の段落をそのまま記載してみよう。
<さて、駆け足で信長の改革から関ヶ原の合戦を見てきたが、これを今の世の中に合わせてみよう。
 小泉純一郎内閣が「自民党をブッ壊す」として、様々な改革を行った。郵政民営化だけでなく、道路公団の民営化を行ったのも小泉内閣だ。省庁再編など、確かに信長的な改革を行った。しかし、この改革は痛みを伴った。山一証券にマイカル、三田工業など大手企業が次々と倒産し、それまでの企業形態が一変し、また雇用形態も変わってきたのである。しかし、この改革ではなく「痛み」に脚光が浴びてきた。旧勢力の巻き返しである。それが今であろう。だれが明智光秀で、誰が秀吉・家康であるかはわからないし、将来見返さなければ政界は得られないであろう。しかし、改革を進めすぎればゆり戻しが来る。いま自民党はその揺り戻しに必至に戦っている。
 そこで、人物的な魅力で関ヶ原のような戦いをしたのが昨年の参議院選挙であろう。安倍と小沢の人物的な魅力で自民党は敗れた。
 では、その民主党は、いまだにはっきりした政策を出していない。私は、その点に不満であるが、逆に家康的に政権をとってから固めてもいいのかもしれない。日本はそのような国民性を持っているといえる。もちろん、政治家である以上政策で戦ってもらいたいが、それを冷静に伝えられる人も少ない。
 関ヶ原の合戦のように、一回の合戦ですべてが決着するのならよいが、残念ながら現在は命のやりとりでないので、そうはならない。
 改革の反動が現在の反自民、民主支持の根底であろう。そうである以上、改革期にいわれる「変革」は更なる改革でなく、懐古主義的な妥協に陥ってしまう。

 今年は、ちょうどその分け目の始まりの年に見える。洞爺湖サミットや北京オリンピックなど、大きなイベントがあり、華々しい内容がある一方、大きな世界的な懐古主義が芽生えつつあることに留意すべきではないだろうか。>
 奇しくもこの予言が当たっている。少なくとも私はそのように考えている。その辺の占い師と違って、当たったことそのものを自慢するつもりはないが、何となくうれしいものである。2009年の年初放談も、当たり外れは不明であるが、一応やってみたいと思う。当たるかどうかはまったく分からないが。

 最後になるが、明るい話題で今年を締めくくりたい。
 ニュースの3位と4位に、ノーベル賞ラッシュと北京オリンピックでの金メダルラッシュが挙げられている。
 このように明るいニュースがあげられるのは非常に大きなものである。「懐古」ではないが、やはり日本は技術の国なのか。ノーベル賞ではやはり科学系が4人も受賞している。なんとなく、世界的な金融市場に流されてしまっているが、やはり、日本人は毎日クラゲを追って技術や研究を極める、そのような勤勉な姿が似合うのではないだろうか。高度経済成長時代の「技術立国日本」を再度目指す必要があるのかもしれません。少しバブルの時に「財テク」という単語で踊らされて以来、日本は楽をして金を稼ぐのに慣れてしまったのではないだろうか。3位と4位は、くしくも、そのような「楽をして」というのは無縁な「苦しい下積みと、毎日の努力」が良い結果になる。そんなことを感じさせたのではないだろうか。このニュースが上位に来ることは、日本人の多くの人の心の中に、そのような毎日の努力を称賛する心が残っているという感じもあるのかもしれない。
 
 いずれにせよ、2009年、平成21年もよろしくお願いいたします。

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惨劇・秋葉原通り魔無差別殺人事件と社会病巣

惨劇・秋葉原通り魔無差別殺人事件と社会病巣

 6月8日、午後1時過ぎ。東京都内でも観光地、そして有数のショッピングの場である秋葉原で、無差別殺人事件が発生した。青森出身の静岡県在住派遣社員である容疑者は、レンタカーの2トントラックで歩行者天国付近の通行人を3名をなぎ倒し、停車後奇声を挙げてナイフを持ち、その通行人と救助に当たった人、その後走りながら次々と通行人を刺し、そして5分後に逮捕されるまで死者7名を含む17名の死傷者を出した。
 日曜日の昼は、秋葉原の中央通りは歩行者天国で、多くの買い物客、観光客だけでなく、路上のパフォーマー(大道芸ではないらしい)、コスプレ(メイドを含む)などがいるだけでなく、外国人観光客も多くいる一大観光地といえる。外国人観光客も、日本の優秀な家電製品を買い物しながら、路上パフォーマンスやコスプレ、そして最近話題の「オタク文化」を堪能して、変えるのが常であるが、実際、安全なはずの日本のそれも観光地化している上、歩行者天国で警察官が多数配置されている秋葉原で、一種「テロ行為」(ニューヨークタイムスの記述による)とされる恐慌が行われるとは思わなかったであろう。韓国・アメリカを始め、今回の事件は世界各国の報道機関が写真入りで報道しているのが目につく。今回の事件はそれだけ異様でそして衝撃的であったといえる。

 今回、この文章はアメリカ大統領選挙における民主党候補がオバマ氏に決まったことを書こうと思っていたが、実際、この事件の衝撃の大きさと、最近増加傾向にあるこの手の事件、たとえば数カ月前の茨城県土浦市荒川沖駅前通り魔事件など、無差別・無軌道な凶行が多いことから、この事件や類似する事件について書いてみたい。

 最近の事件の共通項として挙げられるのが「まさかあの人が」という以外性と「でも、そう言えば不自然」という日常の中に潜む不自然さである。そして、内面的には、あまりえらそうにかけるような専門家ではないが、自己の世界観と近親者(親など)の世界観、そして、社会におかれている自分の立場とのギャップに耐えられなくなった個人が存在する。
 この種の事件を、たとえば暴力団やテロリスト(特にイスラムとは限らず、テロリストは存在する)であれば、以外性がないのかもしれない。今回の容疑者(あえてこの文中では固有名詞は避ける)は、基本的に一般人である。もちろん、暴力団やテロリストも人間である。と言うことは、一般人であってもいつ暴徒化するかわからない。よって、そのような枠組で語ることはできない。テロリストや暴力団、そして彼らが狙うような場所に行かなければ被害を防げるという、単純な問題ではない。
 問題は、今回の事件を分析することによって、誰が、いつ、被害者になるかわからないのと同時に、誰がいつ加害者になるかわからないということである。
 今回の問題は、そのような恐ろしさを包含している。現代人に潜む病巣が現れた事件ではないだろうか。

 今回の事件、キーワードがいくつかある。いつものようにそのことについて考えてみよう。私が考えるキーワードは「教育熱心な親と学歴社会」「派遣社員と格差社会」「インターネットのヴァーチャル社会とコミュニケーション」の三種類、そして、この三種類がすべてマイナスに向かったときにこのような事件が起きるのではないだろうか。
 
 「教育熱心な親と学歴社会」について。この問題だけで一つの話題になるくらいである。ここの問題は、日本における教育は、実は社会に出てから役に立たないということである。
 こう言ってしまうと、語弊がある。しかし、単純に勉強している内容がそのまま役に立つことは少ない。専門の業種を除き、小学校で我々が習った「円周率」を、この文章を読む一年以内に使った人はいるであろうか。微分積分や三角関数を、歴史の年号や漢文の「レ点」、習って、試験で使って、それっきりまったく使わなくなったことのなんと多いことか。
 しかし、これらのこと、要するにカリキュラムは日本の教育が間違えていることにはならないと考える。問題は「それら実際の社会生活では使わないこと」と通して「何を学ぶことができるか」ということ「何を教えることができるか」ということである。それらで数学や漢文に興味が出る子供がいるというだけでなく、それらを集団で学ぶこと、おとなしく授業を受けること、など集団行動や、数学的な考えるプロセス、漢文(中国)的な発想、歴史的な循環の思想など、実際に頭をどのように使うかを学ぶことが必要である。
 日本の教育で間違えているのは、高校野球などでは、努力や練習などプロセスを大事にするのに、学業になると急に偏差値や点数といった結果主義に陥ることである。そして、それが教育熱心な親によって引き起こされている。多少カンの良い子供であれば、自分の親がそれら学校で習う知識を使わずに毎日生活ができていることを見抜いている。その子供が「勉強すること」でなく「勉強の結果を残すこと」を、それらの結果が無意味な生活をしている親に強要され、それを、唯一の価値観であるかのように育てられるのである。
 この事件の容疑者というのではなく、この教育に関する矛盾は日本全国いたるところで行われており、また、学校という教育の場でも行われている現状がある。そして、この学力結果主義(と勝手に名称をつけるが)は、プロセスを教え、そして子供の考えるプロセスを評価することのできない教育者、俗にいう(先生)という存在と、それが正しいというようにインプリントされた親によって形成されているのである。
 このことを変えるには、教育を改革しなければならない。しかし、上記のように、結果だけを評価し、点数でしか子供をみることができない教育者が多い中では、どのような改革をしても無駄である。「ゆとり教育」の失敗はそこに由来する。教育改革の前に、教育者改革、その次に最も身近な教育者である親、家族の教育意識改革を行うべきであり、そのためには、社会全体を直さなければならない。2007年は空前の「おばか」ブームであったが、人の馬鹿を笑っていられない。普遍な価値観はない。知識があっても知恵がなければ生きていけない。そのことを誰が教えるのであろうか。

 「派遣社員と格差社会」についてである。格差社会は存在する。日本は、橋本内閣の金融ビッグバン以来、間違えた方向に進んでいるのかもしれない。もともと、「護送船団方式」といわれた金融の協調融資姿勢と、そこにぶらさがった企業の系列化が、一つの大きな問題になっていた。金融そのものが財閥化し、金融により、企業や技術が滅ぼされる時代ができてきていた。
 バブル経済に踊り、その後ショック的な不景気になった。この際に、経済合理化を旗印に終身雇用制度や国内の製造業は壊滅し、工場は海外に、そして雇用は派遣短期雇用となった。
 この姿が正しいかどうかは歴史が語ってくれるであろう。問題は、金融ビッグバンも、その後の小泉改革も、一つのこと、一つの部署に関しての改革は行えても、そこから派生する現象にまでフォローをしていない。その歪みが出てきていることは間違いがない。
 多くの改革により、企業は企業としての存続と維持を目指した。それにより経費を節減した。始めはタクシー券や接待交際費の節減になった。しかし、それで足りる量ではない。バブル期の金利で多額の借入を起こしているのであるから、よほどのことがなければならない。次は、生産コストなどの削減、そして最後に人件費の削減になる。
 人件費の削減には二種類あり、一つは製造部門の海外転出、もう一つは事務職の派遣社員登用である。
 この派遣は、人件費削減という項目で行われている。あまり意識している人は少ないが、派遣社員には退職金積立がない。そして、労働時間や条件によっては、保険や社会保障費なども必要がなくなっていたのである。これらがなくなることによって、企業としては総支出人件費の2割前後をカットすることができるのである。
 人件費のカットだけでなく、解雇の自由も保証されている。契約派遣社員は契約を更新しなければそれで終わりである。企業が最も嫌がる人的なつながりを、契約書という文書そのもので解決できるのである。その気軽さは、合わせて雇用だけでなく人間関係での希薄さや雑な関係を増長する。
 そして、雇用関係や人間関係の希薄さは、企業における「買い手市場」を形成する。これにより従業員というよりは派遣社員は社会的な弱者に追い込まれるだけでなく、最低賃金を軸にした雇用における価格競争が発生する。17世紀のイギリス産業革命における労働者と産業資本家の関係が、なんと200年もの月日を経ながら、歴史学習を拒否した日本という国で発生しているのである。
 解決策は、歴史にある。そこから産業革命を成功させた国、後発で急速な改革を支度に、そして二回の世界大戦が、その答えだ。その中から何を学ぶかが、現代の日本に必要である。しかし、必要以上の戦争アレルギーと歴史教育の拒否、自国自虐史観、そして、タブーの多い日本において、その答えを見つけ出し、現代の格差社会に当てはめ、日本独自の風習や習慣にカスタマイズして問題を解決する能力は、現代日本に存在しない。
 何よりも、格差社会が雇用「だけ」の問題であり、産業構造や金融機関の圧力を無視し、厚生労働省だけが縦割りで考えていること、そのこと自体が、日本学にとして、社会全体でこの問題を解決する能力に欠如していることが明らかである。

 第三に「インターネットのヴァーチャル社会とコミュニケーション」である。
 今回の秋葉原無差別殺人事件の特徴として、容疑者が携帯電話を経由したインターネット掲示板にこと細かに記載していることが挙げられる。事件当日、犯行直前まで書き込みがされていることに、違和感を感じる人が少なくないかもしれない。
 今から10年くらい前、あまり重要でないので細かい年月日は忘れたが、当時の森首相は、インターネットにおける革命を「IT革命」として、茂木担当大臣を任命した。これを「イット革命」とよんで、森首相を揶揄する言葉が多くあった。
 「IT」とは「インフォメーション・テクノロジー」の略語である。今までにもIT革命はあった。郵便でなくファクシミリで文章を送付することができることは画期的であった。そもそも飛脚が、前島初代逓信大臣により郵便制度が確立したのは、すばらしいことである。日露戦争の日本海海戦も、まずロシアの通信線を切断することから始まっている。
 情報の伝達の速度とその形式に関して、その重要性は多くの人が認識している。しかし、今回のIT革命はその意味とは少し異なる。
 今回のIT革命は、一つには「匿名性」と「仮想世界」の二つの特徴が存在するのである。
 匿名性は完全なものではない。表面上のものであり、これを過信して秋葉原事件以来威力業務妨害で無益な書き込みにより逮捕された人は少なくない。しかし、多くの人は、この仮想世界で「匿名」であると考えている。
 ではその仮想世界とは何か。実際、サーバー内部での人口的に作り上げた社会で、その中で、実際の人格と異なる人格が形成される。匿名であることは、この世界観の中で別人格の重要な要件の一つとなっている。
 実際のコミュニケーションができず、仮想社会の中でコミュニケーションを取れる人が少なくない。実際の世界と仮想社会の相互関係がうまく行かない人も少なくない。しかし、これは仮想世界の存在の問題ではなく実際世界の中における人格の問題である。
 なぜ、仮想社会ではコミュニケーションが取れ、実際世界では話ができないという人が多いのであろうか。様々な理由があると思うが、基本的には「傷つきたくない」という要求が大きすぎるのではないかと思う。と言うよりは、教育されてきた過程(仮想社会を使える人は、ある程度年齢が言っている人がほとんどであり、幼児などは少ない)で、傷つくことになれていない人、コミュニケーションの中で自分を律することが不得意な人が多いということである。
 誤解があるといけないので、あえて書くと、仮想社会になれてしまい、実際のコミュニケーションができない人ばかりではない。一部そのような存在がいるということである。しかし、逆に、一部にはその用名人が存在することは間違いがない。
 そして、仮想社会においていきいきと活動している人にもかかわらず、実際世界においてコミュニケーション不足になっている人に、コミュニケーションや人間関係を教育する機関は少ない。

 このように考えてゆくと、この事件は、教育の問題が大きく、同時に社会的背景が少なくない。上記に書いた通り、「誰が、いつ、被害者になるかわからないのと同時に、誰がいつ加害者になるかわからないということである。今回の問題は、そのような恐ろしさを包含している。現代人に潜む病巣が現れた事件」ということができる。容疑者をかばうつもりはもないし、社会的、刑事罰的制裁は望むが、同時に、このような犯罪を作り出した現代の日本社会を考えるべきである。
 刑法、刑罰について「教育刑論」というものがある。語弊や説明不足になることを恐れずに書けば、犯罪は個人が起こすものではなく、その犯罪者の育った環境やおかれた立場によって発生するものであるため、刑罰は、その犯罪者を是正構成させるために、一種の強制的教育をして執行されるというものである。これに対応する考え方は「報復刑論」というものである。
 私自身は、普段「報復刑」を主張しており、日本の刑罰そのものに不満があることもある。しかし、今回の事件をみるに、この犯罪者が教育刑としての刑罰が妥当なのではないかと考える要素は非常に多い。
 とはいえ、犯罪が許されるものではない。同じ境遇同じような環境であって、犯罪を犯さない人は少なくない。自分の境遇や環境に責任を転嫁して、自己の犯罪行為を正当化するなどはもってのほかだし、弁護人もそのような論拠で弁護をしてほしくはない。
 しかし、次の犯罪者を作り出さないために、社会の改善や、同じ境遇の人への保護策を考えるのは、重要なことであろう。そのことを縦割り行政で、場あたり的な規制で対応策を講じたようなつもりになるのは、政治の無作為外には言い訳はできない。このようなじ犯罪には複合的な事情があり、その政治的な解決を望む民衆は少なくないことを、政治に携わる人間は認識しなければならない。

 最後に、今回の事件の犠牲者の方々と、ご遺族の方々に深く哀悼の意を評し、このような他人事の文書を長々と書き連ねたことをおわび申し上げたい。 

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バイオガソリンの出荷始まる

バイオガソリンの出荷始まる

 日本ではゴールデンウィークとして連休となるこの時期に、かなり豊富に話題があるようになった。4月は選挙だったので、なかなか表に出ないで封印された内容が一気に噴出した形である。
 まずは安倍首相の初めての訪米と日米首脳会談。毎年連休の恒例事項となった外遊が、今回はアメリカとなった。この件に関しては安倍首相の帰国後に評価をした方がよいであろう。中国の温家宝首相との会談を先に行ってアメリカという異例の順序を含めて、話題があると考えられる。。
 一方趣味の話では、プロ野球の契約金裏金問題などが出てきている。このことから、高校野球の野球特待生制度が問題となっている。実際、高等学校は義務教育でもないし、野球という一芸に秀でた人が特待生になっても問題はないと思うが、野球と金という問題から神経質になってのことであろう。野球界は自分で自分の首を絞めて、野球のすそ野を狭めているようにしか思えない。
 さて、そんな中、バイオエネルギーの販売というものが4月27日から始まった。
 2000年の京都議定書を受けて、先進国は温暖化防止のため二酸化炭素の排出を制限されるに至った。そもそも、地球の温暖化は地球規模の問題で、南極の氷が溶けたり、異常気象が続いたりというように我々の身近な問題にもなってきている。日本だけでなく、オーストラリアの干ばつや、アメリカでの異常寒気、アジアでの暖冬などは、そのほとんどが環境の破壊によるものであるとされる。そのうえで、地球温暖化は、二酸化炭素の過剰排出による温室効果が原因とされ、この件に関して環境を題材にした多国間会議が開かれた。経済優先ばかりではなく、環境に関しても目を向けようという試みである。このような会議のなかに2000年に京都で開催された会議がある。この中で参加国間で、二酸化炭素の排出を制限することや、砂漠化の防止、海洋浄化、森林伐採の禁止などを挙げた内容で決められた。これを「京都議定書」という。
 さて、二酸化炭素の排出はどうして増えたのか。結果としていることは二つ。二酸化炭素が減るというのは 、化学的に行う場合を除き、植物による光合成で二酸化炭素が酸素に変化することが最も一般的である。しかし、世界各国どの国もその植物の光合成以上に二酸化炭素を排出しているのである。その理由の一つには、森林の伐採。要するに、二酸化炭素を減らす植物が減れば、それだけに酸化炭素が増える。森林の伐採は、都市化だけでなく発展途上国の農耕地開拓によるところも少なくない。そして、もう一つが化石燃料の燃焼である。
 化石燃料、要するに石炭や石油は、近代社会産業革命から現代に至るまでエネルギーの主役として100年間燃やされ続けた。この化石燃料は、工業用から自家用車までかなり広範囲に使われている。
 さて、前置きが長くなったが、森林の伐採と化石燃料の燃焼が、地球温暖化の元となる二酸化炭素の排出の主役である。
 そこで、化石燃料の代わりにバイオ燃料、要するに植物油による燃料化を考える、これがバイオ燃料である。バイオ燃料は、その原材料となる植物が生育の過程で光合成を行っているために、二酸化炭素が増えないと考えられている。厳密にはわからないが、化石燃料よりはよいというのは、何となく感覚的にわかる。
 このバイオ燃料に関しては、欧米ではかなり進んでいた。現在バイオ燃料に関しては、オランダやイギリスといった各国が推進しているし、オーストラリアでは10%以上はバイオ燃料を混ぜなければならないという規制があるくらいである。日本が模範とするアメリカでも、バイオ燃料80%のスタンドがあるくらいだ。車社会における燃料と環境の問題がかなり進んでいることがわかる。
 さて、4月27日から日本でもこのバイオガソリンの出荷がスタートした。実際にはこの報道は正しくない。今から20年ほど前、日本では「アルコール代替燃料のガイアックス」というアルコールによるガソリン代替燃料が販売されたことがある。日本のバイオ燃料の話をするときに、この「ガイアックス」に軽く触れる必要があるだろう。
 日本のガソリン、または軽油に関しては、仕入れ価格のほかにガソリン税、軽油税というものがふくまれている。軽油税で1リットルあたり約32円、ガソリンで約58円がその税額となる。しかし、これは道路目的税、最近改革がいわれている特別目的税であって一般会計ではない。いま125円前後するガソリンの半分はこのガソリン税と消費税ということになる。これら税金は、すべて日本国内にガソリンや軽油が輸入されたときに発生する。そしてこれは、小泉改革で道路公団が民営化されたのちも、公社の収入減になっている。
 この税金をめぐる攻防はすごいものである。これが道路目的税であって、環境や、一般に還元される関税でないということは、すなわち。ほかの石油製品、たとえば重油であったり、または灯油、ナフサ(石油化学製品の原料)などには反映されない。このことを使った事件が、「違法軽油」というもので、一つは重油を精製し直して軽油として出荷する。環境に悪い硫酸ピッチがたれ流しされて、環境問題になる事件も、多くは「脱税」で検挙されるものであり、それ以外の罪になっていないのが現状である。もう一つの違法軽油は、軽油に混ぜ物をするやり方である。実際、自動車は灯油などを混ぜても動いてしまう(エンジンなどの劣化は激しくなる)。そこで、軽油に灯油やそのほかの油を混ぜて販売する。当然に販売量100に対して混ぜ物をした分量たとえば50%灯油を混ぜていれば50%は軽油税を払っていないということになり、それだけコストが安く入ることになる。
 当然に、これらのことが行われるのは、軽油税が非常に大きいからである。あるガソリンスタンドチェーン店の社長は「実際にガソリンを売ってるんではなく、税金を売っているのに近い」というが、まさにその通りである。
 先に挙げた「ガイアックス」も、この税金に着目した代替燃料であった。アルコールはサトウキビからつくられるものであり、今回のバイオ燃料と何ら代わりはないが、このときの販売の動機は「ガソリン税の節税」であった。当時の税制は、軽油およびガソリンに関して税金をかけると限定的に記載されていたために、代替燃料に関しては特に規定がなかった。これを行った会社は、当時アルコールで車が動くという内容から、アルコールには軽油税やガソリン税という特別目的税がかからないと解釈し、その分安く提供するというコンセプトで販売を実現した。当時テレビなどでも話題になったが、結局は国税局の通達で、「車を動かす揮発油で、炭素を含むものは、その炭素地に従って分類して課税する」という内容が決定し、ガイアックス取り扱い者内部でも分裂があったことから、この計画は頓挫した。もちろん、アルコールからの代替燃料が、化石燃料よりも安ければそれほどの問題にはならなかったが、コストはかえって高くついたので、経済、経営面でも頓挫したといわざるを得ない。
 さて、今回のバイオ燃料は、2001年から資源エネルギー庁と環境庁が推進した環境燃料に関する研究会の答申と京都議定書からできたないようである。
 当然に、3%といえども植物油を入れることによって環境に配慮するということと、同時に入れすぎれば車そのものの性能に影響するという、自動車業界や運輸業界に配慮した内容となっている。
 3%はバイオガソリンを推進しているという国際的アピールと、今までの化石燃料を扱っている既得権業者の調整を扱ったものである。
 では、まずバイオ燃料に関して。日本以外の国々と日本とでは、当然に環境が異なる。植物油を使った燃料といえども、結局は輸入品である。日本の場合、現在の食糧自給率は40%でしかなく、植物油の原材料もすべて輸入品である。ましてや、ガイアックスのタイミングでやっていれば他に先んじていたが、上記のようにすでに後手に回っており、どちらかといえば高値買いをさせられている。あげくのはてに税制である。軽油税と化ガソリン税などの優遇措置がなければ、ただでさえ石油相場に翻弄されている石油業界が、植物油の相場も加味しなければならないという状況になる。国内の相場に円ドルの為替も含めると、四種類、五種類の相場によって動くことになる。
 ましてや、食料品の原材料である。1970年代の石油ショックのときにも、砂糖の値段が上がるという状況になったが、今回はトウモロコシや砂糖、菜種油などの高騰の原因になる可能性は少なくない。
 日本は、業界と役所の対応により、今回のバイオ燃料に関しては完全に立ち遅れた。もっと言えば、世界的に取り残されたといえる。燃料輸入国で、環境に関してもうるさい日本が、石油業界と自動車業界、運輸業界などによって、経済的にも燃料エネルギーの面からみても不利に取り扱われるという状況になっているのである。そのうえ、自動車燃料のみであり、ほかの燃料、たとえばボイラーを動かしたり、輸入のための船の燃料になる重油などはまったくのノーマークになってしまう。これは違法軽油の犯罪の温床を残してしまい、バイオ燃料と違法燃料の線引きが難しくなる。結局は大手の既得権業者だけがバイオ燃料の恩恵に預かるということになりかねない。
 この問題解決は、一つは石油事業の自由化であろう。もう一つは、燃料電池など、日本で自給できる燃料への転換。そして、税制と道路行政の改革ということの三点に尽きる。
 第一に、石油の自由化である。日本は石油輸入に関しても石油の販売に関しても許可制である。現在輸入業者は37社であり、一昨年お48社から10社以上減少している。これは、輸入に欠かせない備蓄タンクを占有していることが必須となっているが、石油タンクを新規に借りても、許可がなければ輸入できないので、結局単独で行えばカラ家賃を払うということになる。実質的な新規参入妨害を官庁が行っているという形式になる。
 それだけでなく、系列店の自由化も必要になってくるであろう。ガソリンスタンドも、そのほかの燃料も、すべての燃料が大手石油輸入業者かあるいは大手商社の参加に入っている。この解決としては、自由化、特にエネルギーに関するカルテル的な独占にかんし、独占禁止法を適用するなどの方的措置が必要かもしれない。または、逆にすべて官営にして食料品の米のようにすべて政府買い上げという手もある。結局は、新規参入者が少ないということは、当然に競争の原理が少なくなってしまい、価格の安定を欠くという現状である。
 石油業界は、完全に閉鎖的である。当然にエネルギー問題は政府の懸案事項であるが、日本の場合、中途半端に自由化。民間化され、中途半端に政府が介入している。この現状、つまり中途半端さをなくす必要がある。
 このことは税制などに関しても同じである。特に軽油税、ガソリン税に関して、特別税として扱われている状況に、いかに対処するかということである。今後導入が検討されている環境税に関しても同じで、それらに関していかに環境庁、資源エネルギー庁、経済産業省、国税庁が連携をとることができる化が問題となる。特に、道路公団民営化に当たって、その民営化会社の収入減が特別「税」ということに関して、改革の終盤になった安部政権では検討されなければならない課題であろう。
 道路行政でいえば、そもそも、道路の資産価値というのはいくらであるのかもまったく考えられていない。不動産としての価値が民間、民営化されているので割れば検討されなければならないはなしである。この点に関しては、後日機会があれば検討することにする。
 前後したが、最後の点として日本での自給燃料の研究である。食糧に関しても同じであるが、日本は資源やインフラに関しての自給率が低い。そればかりか、産業も空洞化している。各企業の経済合理性を考えればし方のない話であるが、逆に危機管理ということに関しては、最悪の国家といわざるを得ない。エネルギーも食糧もすべて輸入、つまり他国に依存しているのである。同時にシンガポールのような地形的な利益や金融的なそちもなく、企業は閉鎖的で、唯一誇れる技術は、経済合理化の掛け声の下で海外に放出している。今や海外に誇れる『資産』は、幻影でしかないということである。
 まずないと思うが、第三次世界大戦のようなことがあったら、それ以前のブロック経済のような金融制限が起きたら、日本は電気も食糧も、車による物流もない貧しい国になってしまう。
 バイオ燃料は、地球規模の環境という面では有効な手段の一つである。しかし、日本でバイオ燃料を推進するに当たっては、世界的な食糧需要との関係や相場に気にしながら行うか、あるいは日本で自給できる、せめて食品以外の素材植物からの原材料でバイオ燃料を作り出さなければならない。
 日本は外交は失敗している。特にエネルギー外交はまったくできていない。諸外国はエネルギーを求めて戦争までしているのにである。しかし日本には、まだまだ要求されるバイオ燃料を完成させるだけの技術力や資産は、日本に存在するはずである。バイオ燃料が日本という国家の枠を超えて地球レベルの問題で必要なことは明白である。しかし、やはり日本という国家の立場、国民の立場を考え、経済合理性だけを考えることもなく、当然に、日本の企業や業界の利益に翻弄されることなく、この課題を遂行しなければならない。
 政治、経済、学者、そして国民レベルでも、地球環境と、国家の問題のバランスを考えながら、これらの問題に目を向けて取り組まなければならない。特に、ガイアックスのけんを考えれば法整備や税制の問題を早急に処理しなければならないだろう。企業利益や自分の懐具合だけを考えている諸氏には、耳の痛い話かもしれないが、結局そのような諸氏がこのエネルギー後進国で、危機管理ができていない国家にしてしまったのである。これらの責任を感じ、改革に向けて率先した活動を期待する。

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ライブドア堀江元社長実刑判決

ライブドア堀江元社長実刑判決

 俗に言うライブドア事件、正確にはライブドア粉飾決算および風説の流布による株取引に基づく有価証券取引法違反事件で、ライブドア元社長堀江貴文氏(34)が懲役2年6カ月(求刑懲役4年)の実刑判決が出された。
 ライブドア事件に関して言えば、「時代の寵児」といわれた堀江氏が逮捕されるという2006年はじめの最も衝撃的な内容から幕をあける。その後、エイチアイ証券副社長で堀江の腹心といわれた野口氏が沖縄で自殺(いまだに他殺説が消えないが、公的には自殺)するなど、なかなか話題が多かった。その不可解な流れに関して言えばきりがないので、今回は裁判に関することだけを記載する。
 有価証券法は、そもそも有価証券を発行し一般証券市場において売買が予定される有価証券に関して、その有価証券の売買が正常かつ公平に行われるように規定された法律である。
 今回の罪は、有価証券の売買に当たり、自分の会社の売上を実態以上によく「粉飾」したことにより、有価証券の売買における株購入者に正常な判断をさせず、自社株を購入させたことによって、損害を与えたことが罪の主体となる。
 今回の粉飾は、ライブドア株の売却を、実質的に子会社「連結対象」の投資ファンドが売却したにかかわらず、その売上を計上したということに所以している。
 自社株の売却は、当然に資本金(または資本準備金)の経常であり、売上の経常にはならない。それを、外部団体である投資ファンドを利用することにより、売上の経常をしたのである。
 さて、まず投資ファンドとはなんなのか。投資ファンドが株式会社で、100%子会社である場合は、当然に株の売却は経常不可能である。一方、投資ファンドが株を買った場合は、投資ファンドの正確にもよるが、証券会社のように株の売買を目的とした会社であれば、その売上経常は可能である。
 ところで、ここでいう投資ファンドとはどのようなものであろうか。ファンドとは、日本語で「基金」と訳される。不特定多数から資金を集め、「基金」の目的に沿ってその資金を投資または融資し、その利益回収により基金団体の収益としながら資金出資者に対し配当を行う擬制法人である。要するに、本来であれば基金は目的があり、その目的に従った「投融資」を行うものであり、基金そのものが株を購入したことでは売上経常はできない。
 では、なぜそれが問題にならないのか。
 ここでいう「ファンド」は「基金」ではなく「匿名組合」という法人になっているためである。
 匿名組合とは、法律で特に出資者または組合員の指名または関係を公開しないことを予定した共同組合である。組合であることは、組合員資格が存在し「特定多数」となるために、特に不特定多数の被害者を出すことは予定されておらず、同時に、法人格を取得していることから、法人として活動することが可能である。
 組合であれば、組合員の相違により売上経常を行うことが可能であり、同時に組合員が匿名であることから、配当など人に知られない場合も少なくない。
 ライブドアは、「ファンド」という不安定な定義に、うまく匿名組合の秘匿性と基金の運用者の自由を合わせる、といえば非常に言い言い方であり、「良いとこ取り」をした。
 「良いとこ取り」の利益は、彼らが逮捕されるまでのライブドアの利益をみれば一目瞭然であろう。一方、「良いとこ取り」はそのまま「悪いとこ取り」になる可能性を秘めている。いざ裁判ということになれば、その悪いとこ取りがでてしまい、有罪確定どころか情状酌量もおぼつかなくなる。今回の判決が妥当ということになりかねない。一つの制度は、それでバランスがとれるようになっているので、そのバランスが崩れてしまえば、一方に有利になってしまう。その有利な内容は、いつ逆転するかわからない不安定なものになってしまいかねない。今回の裁判はそれを示した良い例であろう。
 さて、ライブドア事件は、当然に政治家に影響を及ぼした。この事件で名前が上がった政治家は少なくない。大きな金が動くと、かならず政治家の名前が出てくる。しかし、さすがに今回は裁判上で政治家の名前が出てこなかったようである。この点で、新しい裁判制度である「訴訟準備手続き」による争点の事前整理と集中審議は、関与した政治家にとっては非常に有用な内容になったと考えられる。要するに粉飾決算の認識と支持、そしてこれら行動の堀江氏の代表取締役としての責任に言及され、またその被害もかなり限定的に絞られて争点とされ、それ以外の関連状況や社会環境に関してはまったく争点とならなかった。
 名前の上がった政治家は自民党ばかりではない。マスコミは、堀江氏が総選挙に出たとき、広島3区に応援に出かけた武部勤自民党幹事長(当時)の映像などを出し、いかにも武部氏と堀江氏の癒着を描こうとしていたが、実際にライブドアに投資し資金を運用していた国会議員またはその関係者は与党に限らず野党にも多数いる。永田前議員による、いわゆる「ガセネタメール事件」で追及が止まっているのも、民主党はそれによる自爆がないといいきれないためであろう。
 また、投資をしていることそのものには法律的に問題はない。当然にそのことで代議士を攻めることはできない。自民党議員もだまされていたという答弁になった場合「グルになって犯罪行為を助長していた」と、感傷的に(亀井静香議員などはそのような発言をしているが)言うことはできるが、何か根拠を持った発言ができるものではない。
 せいぜい、そのような企業ができる環境をつくったというぐらいであるが、それは、ほかの犯罪でも同じであり、殺人や傷害なども含めて犯罪が起きたことを政治の責任にするのは議論の飛躍はなはだしい。
 さて、そういう意味で今回の判決は注目されていたが、結局多くの人が期待した政治家の関与や、大きな後ろの闇が明らかになったり、その話が出てくるようなこともなく、一企業とその経営者の経済犯罪ということで、一旦幕を閉じた。
 今後高裁で争われるが、これらのことが明らかになることはないであろう

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不二家事件について

不二家シュークリームの件

 10日。不二家は自社の販売するシュークリームの中に賞味期限切れの牛乳を使用したことを発表し、その後、洋菓子の販売をストップした。フランチャイズ企業に対する休業保証と、販売損失、廃棄損を含めて数十億といわれ、この販売休止の期間にもよるが、信用回復まではかなりの期間とかなりの経費が必要になると予想される。
 さて、しばらくなりをひそめていた「賞味期限切れ商品」や「異物混入食品」が、今回の不二家と、ミスタードーナツの異物混入の二つの事件で再燃する勢いである。
 そもそも食品の事件としては、雪印食品や雪印乳業の食肉偽装事件などが端を発し、雪印ブランドが消滅するという事件が発生した。この雪印の場合、食肉偽装という、輸入食品を国産と偽って販売し、補助金を搾取するという、食品の品質とは直接変わりのない事件と、牛乳の賞味期限を偽って販売するという食品の品質に直接関係のある事件の二種類が存在する。
 食品会社が事件を起こすと、どうしても食材の安心ということにつながるが、補助金詐欺など、食品の品質に関係のない事件に関しては、特に食品会社だからといって特質すべき問題ではない。ほかの業種でも十分にあり得ることである。
 社会的に問題があるのは、扱っている商材が食品であるということから、食品そのものの品質に問題があるとされる事件である。今回の不二家事件などは、まさにそのものであろう。
 さて、大きな問題になる場合は、一つのキーワードがある。それが「隠蔽」である。現在新聞市場には「おわび」と称したリコール広告が数多く発表されている。その多くはマスコミで事件として発表されていないものばかりである。この中には当然に食品のリコールも少なくないし、パロマや松下で問題になったガス器具、三菱自動車で問題になった自動車やタイヤなども含まれる。
 しかし、これらは社内の自主的な調査により、自主的に発表をしたものである。そうなると、なかなか批判をしにくい。
 実際に問題になるのは「知っていながら告知しなかった」という事実、つまり「事故の可能性があるのに知らせなかった」ということである。このことは防ぐことのできる事故を見過ごしたばかりでなく、同様の事件による拡大被害を予期させるということになり、その企業としての社会的責任をまっとうできないということになる。 
 では、なぜそこまでのリスクがありながら隠蔽工作をするのであろうか。ここには大きな理由が三つある。一つには慣習、一つには隠したことが明らかにならないという自信、そして債権者や株主からの避難である。個別にいえばもう少しあるかもしれないが、だいたい、どの企業でも共通しているのはこの三種類の理由であろう。
 一つ目の慣習は、経験と慢心によるものである。その経験と慢心には根拠がないことが多い。また、このことは食品会社でなくてもだれでもこの「経験と慢心」は存在する。たとえば電車やバスなどの公共交通機関の優先座席、最近優先座席近辺では心臓疾患の顧客のために携帯電話の電源を着るように言われている。飛行機などもそうである。しかし、その近辺で電源を切らない人が多い。飛行機の中でも電源を切らない人がいることがある。これは「自分一人くらい電源を切らなくても大丈夫」「優先座席の人が電源を切らないくらいで死ぬはずがない」といった、経験と根拠のない自信がある。そして、それが根拠のない自信であるということも認識しないことが少なくない。実際に、私も毎日電車に乗っているが、酔っぱらい以外前で倒れている緊急の患者をみたことがない。そうなると、いつの間にか「過剰に電話の電源や電磁波に恐怖を与えているだけでないのか」「実際は別で何か理由をつけているのではないか」というような感覚になってしまう。
 要するに、はじめのうちは注意していても、いつの間にか大丈夫と思って何とかなってしまう。その馴れがいつの間にか大きくなって事件になる。
 今回の事件も同じである。賞味期限切れの牛乳を使った。ここに故意があるかどうかわからない。しかし、一日くらいならば問題ないという勝手な判断が出てきてしまう。また、結果として事故事例がなければ、わざわざ発表する必要がない。そもそも、食べて消えてしまっているものに補償をすることもできない。ならば、「ばれないことだし」発表するのはやめようという判断になる。
 また、その事故が起きないという確信も彼らの中にある。牛乳の賞味期限がきょうだとしても、加工食品は加工日から6日となっている。つまり、今日で賞味期限切れになっている牛乳を使ったシュークリームも6日先まで食べることができる。本来であれば、牛乳の賞味期限に合わせて、今日が賞味期限のはずなのに、加工によって賞味期限が伸びるという減少が起きる。
 このことは不二家に限ったことではない。スーパーマーケットの総菜など、賞味期限ぎりぎりの肉や野菜を使って総菜として販売している例は少なくない。だから、インショップの弁当店に比べて総菜が安い値段で提供できるのだ。
 そのような根拠のない確信、つまり慢心と、これまでそのように加工していても事故がなかったという経験、そして、今回の事件も事故にならないだろうという経験によって隠蔽が発生する。
 次に、明らかにならないという自信。
 要するに、食品、商品事故が起きなければ外部から調査されることはない。また、食品の場合、流通過程や保存方法などによって商品の品質劣化の速度が変わる。
 要するに、ごく少数の事故が発生したとしても、それがイコールで製造者の欠陥と結び付けられるわけではない。要するに少数の事故であれば、「保存方法が悪かったのではないですか」などの応対と少々の「見舞金」でことが足りる。
 現に、今回の事件も内部告発があったことによって初めて明らかになったものであり、それまでは外部の者は一切わからなかったし、自己はなかった。今回の事件発生から発表までの2カ月間は、だれもが不二家の洋菓子が不良品であろうとは創造だにしなかった。また、対象商品はすでに賞味期限切れで処分されているか、またはすでに消費され、胃袋の中に消えているのである。ようするに、継続しているということは別にして、少なくとも11月製造のシュークリームで今後事故が発生することはない。
 また、内部告発があったとしても、本社まで影響するとは限らない。一工場や一営業所、または一個人の犯罪的行為として認識される可能性も少なくない。今回の事件のように社長の引責辞任まで発展するということは、組織的、継続的に行われていたということが、文書などの資料によって明らかにならなければならない。そうなる確率は非常に少ないといえる。
 そのうえ、縦組織がしっかりしている、または、社員の会社への依存度が高いということになれば、最終的には内部告発をしても損するのは従業員ということになり、当然に従業員が自分で自分の首を占めることはしないであろう。
 また同族経営というのも一つの確信につながる。要するに社内派閥ができにくい。社長の記者会見でもあったが、アットホームな社風は、そのまま反乱分子を包み込んでしまうということを意味し、社内対立ができにくい。つまり、上下関係の対立以外に対立はなく、その対立が従業員本人の首を占めることになれば、従業員同士の相互の監視体制が生まれ、内部告発は出にくい。
 今回の内部告発者は、その中に該当しない。一度退職してパートタイマーで働いている従業員が内部告発者である。要するにそこまで目が回らなかったのか。またはパートタイマーにも犯罪行為を受け入れる「愛社精神」が根付いていると思っていたのか。
 最後は債権者や株主からの避難。これは開設するまでもないだろう。人間誰しもそのような傾向はあり、そして会社の社長であればなおさら存在するプライドが、人間から理性と正直さをなくしてしまう。
 いずれにせよ、これらの落とし穴はどの企業でも持ち合わせているばかりでなく、人間ならば当然に持っている感情である。これらをいかに制御するかが企業の社会的責任というのは簡単である。しかし、事故も起きていない事案について罪を告白し、社会の避難を一身に浴びる勇気がないというのも理解できる。当然に、その立場にならなければわからない感情もあるだろう。
 消費者としては、これは企業が人間の集合体である以上、必ず起こりうる事件と認識し、同時に不二家特有のものではないと考えておく必要がある。雪印の事件のときに社内基準を制定した企業の中に不二家も入っている。
 また、これらの事件を教訓に内部告発者の保護の法律もできている。しかし、なかなか組織ぐるみの犯行が出てこないばかりか、企業によっては文書管理規定などの社内の締め付けを厳しくしている。それは社内犯罪を出さないためでなく、個人情報保護法などを名目に社員と情報の締め付けを厳しくしている。
 我々消費者は、これらの内容をみながら、企業を正しく評価する「目」を養わなければならない。自分の安全は自分で守る時代が来ているが、その安全は、食品などにも適用されている。

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2006年10大ニュース(国内)

2006年10大ニュース(国内)

 毎年恒例になった10大ニュースが発表になった。
 まず、その内容を挙げてみよう。

1  紀子さまが男子ご出産 
 9月6日、秋篠宮妃紀子さまが、入院先の東京都内の民間病院で帝王切開手術を受け、男のお子さまを出産された。
2  トリノ五輪、フィギュア荒川静香選手が「金」 
 第20回冬季五輪・トリノ大会のフィギュアスケート女子で2月23日、荒川静香選手が、金メダルに輝いた。
3 WBC、王ジャパンが初代王者 
 初の野球の国・地域別対抗戦「ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)」は3月20日、米サンディエゴで決勝が行われ、日本が10―6でキューバを破り、初代世界王者に輝いた。
4  安倍内閣が発足 
 安倍晋三氏が9月26日、第90代、57人目の首相に選出され、安倍内閣が発足した。
5  夏の甲子園決勝、37年ぶり引き分け再試合で早実が初優勝 
 8月20日、第88回全国高校野球選手権大会の決勝戦が駒大苫小牧(南北海道)と早実(西東京)の間で行われ、延長15回の激戦の末、1―1の引き分けとなった。
6  ライブドア事件で堀江貴文社長ら逮捕 
 東京地検特捜部は1月23日、関連会社の企業買収に伴い虚偽の発表をしたなどとして、ライブドアの堀江貴文社長ら4人を証券取引法違反容疑で逮捕した。
7  福岡で中2が遺書残し自殺、「いじめ苦」自殺相次ぐ 
 10月11日、福岡県筑前町の中学2年の男子が「いじめられて、もういきていけない」などと書かれた遺書を残し、自宅で自殺した。
8  日本ハム、44年ぶり日本一 
 プロ野球日本シリーズ第5戦が10月26日、札幌ドームで行われ、北海道日本ハムファイターズが4―1で中日ドラゴンズを下し、東映時代の1962年以来44年ぶりの日本一に輝いた。
9  秋田の小1男児が殺害され発見、子供が犠牲の犯罪相次ぐ 
 下校途中に行方不明になっていた秋田県藤里町の小学1年の男児(7)が5月18日、遺体で発見され、県警は6月、男児宅の近くに住む無職の女を死体遺棄容疑で逮捕(後日殺人容疑で再逮捕)した。
10  福岡市職員の飲酒事故で3児死亡、自治体で飲酒運転への懲戒免職広がる 
 福岡市で8月25日夜、一家5人が乗った車が、飲酒運転の同市職員の乗用車に追突され博多湾に転落、子供3人が水死した。

 今年は、10位までに比較的明るいニュースが上げられている。紀子様のご出産やWBCでの優勝、トリノオリンピックの荒川静香選手の得意技「イナバウアー」は流行語大賞にもなった。
 しかし、それだけではなく、子どもの犠牲という悲惨な事故が上げられていることにも注目したい。いつもの年ならば政治や経済の大きな問題が出てくるのであるが、今年は子どもの犠牲になった事件が出てきている。
 「秋田小学生連続殺害事件」は、虐待に関する家庭崩壊と、隣人関係における殺害事件である。これは一人の特異な無職女性の犯罪というのではない。その証拠に、この事件を契機に、家庭内の虐待殺人や事故が相次いでニュースとなった。今年は、家庭の崩壊、家族関係の崩壊というのが話題になった年である。後で記載するが、24位には奈良県の高一男子の放火、家族焼死事件などは、父親に対する反発からこのような事件に発展した。家族に対する愛情の欠如と、子どもへの過剰な期待、そして、その圧力に対する子どもの受け取りの欠如、そこに継母の関係など、複雑な家庭環境から高校一年生が自宅に放火するという事件に発展する。
 事件ではないが、「いじめ自殺」も大きな話題になった。いじめ自殺自体は、何十年も前から話題になっている。しかし、今年はそれが教育再生ということとあいまって大きな話題になった。文部大臣に対して「いじめ自殺」の予告手紙を出すということまで発展した。これは学校、教育関係の崩壊の結果と見て間違いがないであろう。やはり下位である15位に高校の必修逃れ問題が発覚したことが話題になった。高校が大学受験とその合格率を重視するあまり、受験と関係のない授業を割愛し、その単位の取得を甘くしていたという問題。そもそも、学校の役割を「大学受験と合格率」ということに絞ってしまった教育の現場が、人間形成と道徳の軽視ということにつながっているのではないだろうか。
 子どもを取り巻く環境である「家庭」と「学校」の崩壊が、話題になった一年といえる。この問題がそのまま「モラルハザード」を生み出してしまっている遠因のひとつになっているのではないだろうか。そもそも、このようなことは現在に始まったことではなく、これらが一般化し、そして顕在化したがために、事件として出てきたといえるのではないだろうか。ということは、現在社会人になっている世代や大学生の世代は、当然に、これら「学校崩壊」「家庭崩壊」の犠牲者が成人しているということになる。
 これが「ゆとり教育」だけの問題ではなく、社会全体の「ひずみ」があり、それを建前論で見て見ぬふりをし、現実にあわせた対策を採らなかった政府および現場(中川政調会長が発言した日教組も大きな責任があると個人的には思うが)はその責任を取らなければならないであろう。 
 どちらかといえば、現場がそれらの声を上げなかったことに大きな問題あがあると考える。これらの流れが「少子化対策」という「家庭環境改善」と「教育基本法改正」「教育再生会議」という「学校教育の改善」に目が向けられるのは当然のことであろう。
 これらの「教育基本法改正」に反対している諸兄は、現在のこの「いじめ自殺」や「家庭環境崩壊」をどのように考え、そして解決するつもりであろうか。まさかとは思うが、今までの自分のしてきたことや現状の子どもを取り巻く環境が「正しい」と考えているのか、あるいは、何も感じないのか。はたまた、それらに目をつぶり、自分の責任逃れと、今後の自分の職の確保という観点から動いているのではないだろうか。教師・教員はこれらについて「家庭」や「政府」にすべての責任を押し付けているのではないだろうか。その態度こそ、もっとも大きな問題ではないか、改善されるべき点ではないのだろうか。
 
 教育については、別に、政治の問題が少ないのも特長であろう。安倍内閣の発足(4位)しか10位の中に入っていない。政治に関心のない1年であったという。
 政治問題だけでなく、社会問題もない。ライブドア事件以外は10位以内に入っていない状況である。「耐震偽装事件」「県知事贈収賄事件」「駐車違反取り締まり強化」「民主党偽メール事件」「社会保険庁不正」「パロマ湯沸かし器ガスもれ事件」「村上ファンド事件」などもあったが、いずれも10位以下にランキングされている。これらをおさえて明るいニュースが選ばれたということは、それだけ、国民が明るいニュースを望んでいるということの表れではないだろうか。
 マスコミは、これら国民の要望に答え「明るいニュース」をもっと報じなければならない。
 今最も必要なのは「改革」ではなく「希望」なのではないだろうか。来年の指標にしたい。

 ちなみに11位以下はこうっている。
11  耐震偽装事件で姉歯秀次・元1級建築士ら逮捕 
12  北朝鮮核実験で制裁強化 
13  日本海側で記録的な大雪、死者100人超 
14  西武の松坂大輔投手が米レッドソックスに移籍決定 
15  高校の必修逃れ問題が発覚 
16  福島県前知事を収賄容疑で逮捕、自治体の不祥事続発 
17  北海道で竜巻、9人死亡 
18  駐車違反の取り締まり強化、民間監視員も導入 
19  サッカーW杯に日本が3大会連続出場、グループリーグ敗退 
20  埼玉の小2女児、プールの吸水口で事故死 
21  民主党の「偽メール」問題 
22  オウム松本被告の死刑確定 
23  パロマ湯沸かし器の事故死21人、企業倫理低下の事故多発 
24  高1放火で母子3人死亡、親を殺害する事件相次ぐ 
25  社保庁で国民年金保険料の不正免除問題発覚 
26  イラク派遣の陸自撤収 
27  各地で豪雨被害 
28  村上ファンドの村上世彰代表を逮捕 
29  小泉首相の在任日数、戦後歴代3位 
30  郵政「造反組」11人が自民復党 

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飲酒運転と危険運転致死傷

飲酒運転と危険運転致死傷

 先日、夏休みの終わりに痛ましい事故が福岡県で発生した。家族で無視を取に行っていた車に、飲酒運転の車が追突し、追突された車は橋から墜落。乗車していた幼い子供三人が犠牲となった。
 被害者の夫婦が、何度も沈んでゆく車の中に潜り、水の中から子供たちを救出するという努力もむなしく、子供三人を殺してしまったのと対象に、加害者側は現場から逃走し、同時に水を飲むなどして飲酒の証拠隠滅を図ったという劣悪さが、対象的に報道された。また、この加害者が福岡市の職員であったことから、行政の管理や規範意識の甘さが指摘されている。
 この事件を契機に、危険運転致死傷という罪を増設した改正道路交通法以降、一時的に飲酒運転が少なくなったが、その後、ひき逃げが多くなるという皮肉な結果を報道し、法の不備を指摘する声が多くなっている。
 そもそも、危険運転致死傷という罪の追加も、東名高速道路での事故により子供二人が自動車事故とそれに伴って発生した火災によって犠牲となったことから、全国的な要望と不公平感が高まり、道路交通法の改正に至ったという経緯がある。
 この事故は、加害者のトラック運転手がほぼ常習的に飲酒をしながら運転を行い、トラック輸送に従事していた。この事故のときも、アルコールを接種したうえで高速道路を運転し、前方の渋滞に気づかず、または居眠りを行い、渋滞のために停止していた被害者の車に追突した。運悪く被害者車の燃料に引火したために、後部座席にいた子供二人が犠牲になったというものである。
 日本、殊に地方の場合に飲酒運転を容認する風土があり。このことは、居酒屋やバーなどに駐車場があることでわかる。店側とすれば、ただでさえ少ない売上に対し、車であろうと来店客を増やそうという考えがある・同時に、帰りは運転代行などを雇えばよいことであり、そこから先は責任がないという意識が働いている。
 責任がないという意識から、顧客が車できているのか、運転するのかなどの確認をせずにアルコール類を出し、また、次も来てほしいために、客が「大丈夫」といえば、泥酔状態であっても運転代行を呼ぶなどの制止行為をせずに客を送り出す。そのような飲酒運転の悪の循環が存在するのである。そればかりか、これら行為または不作為が売上という自己都合に起因していることから、店内にいるときは当然に酒を勧めるということになる。その態様が強引かどうかは別にしても「すこしくらいはいいのではないか」という雰囲気を作り出し、アルコールの消費を促すのである。そうでなければ店の売上は伸びない。
 しかし、そもそも地方の経済は社会で成立している。県庁所在地などはよいが、外れてしまえばバスしかない状態であり、それも夕方には終バスになってしまう。アルコール販売を行うにしても、車での来店が前提になっているのである。東京や大阪などの大都市に限っての話をしても通じない。なぜならば、大都市にいる人も、そのような地方の車社会の環境で育った人が少なくないからだ。
 
 日常であれば、その日常を否定するのは難しい。いかにその行為が法律に違反していたとしても、それが日常であり、それがその人を取り巻く社会環境であるならば、その行為は犯罪になりえない。刑法を勉強していると、刑罰は、なぜ行われるのかという議論がされる。大きく分けて報復刑論と教育刑論の二種類が存在する。
 報復刑論とは、「目には目を」「人殺しには死刑を」という、被害者の被った痛みをそのまま加害者に行うというものである。基本的に、どの国であっても刑事事件の被害者や遺族の感情は報復刑ということになる。
 これに対して教育刑論とは、犯罪を犯したのは、個人の資質だけでなく、その加害者の育った環境が犯罪を作り出している。よって、加害者に対し、一定機関教育を施せば、加害者の犯罪行為はなくなるというものである。多くの国の刑罰はこの論拠に立脚している。懲役刑や初犯は刑罰が軽くなるという法廷の仕組みは、犯罪者に対する教育ということが念頭におかれているからにほかならない。特に、自動車事故の場合によく用いられる業務上過失致死と殺人罪が財形が異なるのは、同じに人を殺したとしても、過失で殺した場合と故意に殺した場合は、教育する期間が異なるというものである。
 上記の二つの事件も、加害者への教育と、刑罰による犯罪の抑止効果を狙った危険運転致死傷は、業務上過失致死と殺人罪の間に当たると位置されるものの、その内容はかなりあいまいになっている。
 
 道路交通法上、アルコールに対する規定は処罰が軽い酒気帯びと酩酊の二種類ある。呼気1リットルあたり0.15ミリリットル以上を総じて飲酒運転とし、1メートルの白線のうえを正常に歩けるか否かで酒気帯びと酩酊が判断される。
 ここに最大の問題がある。要するに歩けるかどうか、という主観的事象が混在しているのである。日本の場合、法体系で主幹事象を判断材料に入れることは少なくない。人を殺した場合も、殺すつもりであったのか、少し傷をるケルつもりであったのか、まったく危害を加えるつもりでなかったのかという主観(内心)の違いにより、殺人罪、傷害致死、過失致死の三種類に分かれ、量刑も最高刑で死刑、懲役15年、懲役5年とわかれる。
 要するに、それなりの客観的事実をそろえて、内心を取り繕えば、量刑が甘くなる可能性があるというものである。しかし、これは故意と過失の問題であり、なかなか取り繕えるものではない。
 危険運転致死傷と通常の交通事故、つまり業務上過失致死と問題は、いずれも過失であり、過失の態様を飲酒の関連並びに主観で判断するというもの。同時に、飲酒の内容は時間とともにアルコールが体内で分解されることより、時間を王ごとにその判断は難しくなり、量刑が軽くなる。

 では、どのようにするのがよいのか。当然い法律や政治的な解決は難しい。このような飲酒運転の自己が発生することをもって、政府を批判するのは間違いであろう。もちろん、福岡の事件の福岡市は別である。結局、人間個人の行動とモラルを法律や政治で帰ることは不可能である。たとえば、飲酒運転を死刑としても、死刑覚悟で飲酒運転をする人間が出てくれば、または、取り締まりが100%でなければ、要するに見つかる(罰せられる)可能性が少なければ、抑止力にならない。
 では、酒を禁止するとしても、アルカポネであるマイし、闇での飲酒が増えるだけである。機械的に飲酒を検知して車が動かなくなるとしても、何らかのほかの方法が発見されるであろう。飲酒させる店、居酒屋やスナック、バーなどを罰するというてもあるが、過失犯罪の報助というのも法体系的にいかがかと考える。
 結局は飲酒運転の免許再発行禁止や免許失効というものと合わせることと、危険運転致死罪の判断基準を下げる、つまり、主観による判断で分けるのではなく、客観的事実、たとえば、数時間前までに飲酒の事実があるなど、時間をおいた捜査でも判断可能な判断材料によって適用できることにすること、そして、ひき逃げが増えないように、救助活動を行った場合の減刑ということを検討すべきであろう。

 地方自治体は、この事件を契機に飲酒運転で検挙された場合の懲戒免職を相次いで発表している。神奈川県などは、同乗者に対しても戒告または免職という、共犯性を認める処罰規定を発表している。これら処罰規定は、客観的な基準によって、例外なく運用されるべきものである。今までの地方自治体は、例外規定が多かったが、今回の飲酒運転に関する事項は例外なく運用できるのであろうか。
 一つの裁判が別に行われている。小学校教諭が、飲酒運転で懲戒免職になった。市の教育委員会では、飲酒運転で検挙された場合は免職という規定があり、それを運用したものである。当該教諭の主張は、自分の1カ月前のほかの教諭は免職になっていないためv自分への処罰は重すぎるというもの。教育委員会は、この教諭、複数回の飲酒検挙があるといい、戒告処分の直後であったために厳格に規定を適用したという。
 人の範となる教諭がこのような裁判をしているのである。地方自治体の飲酒運転免職免職規定の運用はどのようになるのであろうか。

 いずれにせよ、道路交通法、及び運転のモラルについて、再度考え直さなければならない時期かもしれない。

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祝 秋篠宮紀子妃殿下男子新宮ご出産

 9月6日、今上陛下のご二男で皇位継承第2位にあらせられる秋篠宮紀子妃殿下が男子新宮をご出産された。皇室においては秋篠宮殿下以来41年ぶりの男子のご出産に、祝福ムードが高まった。

 皇室に男子が生まれたことは、現在の皇太子殿下の次の世代に皇位継承者ができたということであり、神武天皇以来の天皇家が存続することを意味する。

 もちろん、今上陛下の弟君にあらせられる常陸宮殿下はこれで皇位継承が遠くなるという一部報道がなされたが、基本的に殿下が現段階で皇位継承を望んでいたかどうか、そのことをことさらにいうのはおかしい。

 そのおかしいことがいわれるのは、今年春に皇室典範改正の論議が上がったことに由来する。

  皇室典範改正論議とは、小泉純一郎内閣が「聖域なき構造改革」をあげていたこと、同時に、現在の皇太子御夫妻には女性の敬宮愛子殿下お一人しか子供がなく、また皇太子妃雅子妃殿下は、その後長く御病気を患われて、長きにわたり公務をご欠席されていた。また御年齢も40を超えておりかなりの高齢出産となる。このことから、現在の皇太子ご夫妻に愛子殿下ほかのお子様のご出産は難しいものと判断される。

 ご二男の秋篠宮殿下は、これはこれで眞子様・佳子様の女子お二人となる。

 そうなると、今上陛下の直系のお子様が皇室を継がないことになり、将来的には皇位継承者がいなくなるという心配が出てきた。

 そこで、皇室典範を改正し、女性の天皇を認めるべきではないかという議論がなされたのである。

 この議論は、今までの小泉改革と同様に、電撃的に行われ、有識者会議が開催されるに至った。もちろん、発表されたのが電撃的であり、その懸念や改正の火種は政府与党内にあったのであろう。しかし、有識者会議は、何の前触れもなく突然に発起され、これもまた電撃的な速さ、というよりははじめから結論が用意されていた会議のように「女系天皇を認めるべき」という結論を出した。

 しかし、この有識者会議に皇族から反論がなされた。有識者会議に皇族の出席者メンバーがいなかったこと、非公式に「他人」の家系について議論するのは失礼というものである。第三者の私が聞いてごもっともな御意見である。

 その御意見がだされ、皇室典範論議がサイド活発化されてきたところで、秋篠宮紀子妃殿下の御懐妊が発表された。

 このことにより、皇室典範改正論議は一時下火になり、秋篠宮の新宮のご出産を見守ることとなった。

 

 このようなことがあったために、今回の新宮の性別は、そのまま、皇室典範改正論議、しいては皇室について書かれている憲法改正論議にまで発展し、戦後最大級の政局を迎え、なおかつ、戦後政治の転換期の一つの標となるところであった。

 ときあたかも自民党総裁選二週間前。安倍晋三官房長官の就任が濃厚とされ、またその安倍氏は時期総裁への立候補の所信表明演説に、次期内閣は憲法を改正するだけの強力なリーダーシップが必要と発言している。当然に皇室も聖域ではなくなっている。

 今回のご出産は、そのような天皇家に関する聖域性を守り、天皇家を政争の具に供しないに十分であった。

 

 皇室典範の議論は必要である。今回のニュースであるように、イギリスの国民などは、自国が女王陛下を頂いていることから、女系天皇を認めるべきという意見が多数挙げられている。今の時代「男女同権」が近代国家としてふさわしいというものである。

 男女同権が日本の天皇家において必要であるか、伝統に従って男子優先とするか、それは日本の歴史の問題であり、様々な意見が出るであろうことは予想される。その中には共産主義者が主張している皇室廃止論から、右翼系政治団体が主張する天皇主権制まで出てくるであろう。

 いずれも、一理ある話であるが、すべて皇室不在の議論に過ぎない。

 今回の新宮ご出産はそれらの議論をさせないのではなく、その問題を少なくとも数十年引き延ばすには十分である。

 小泉首相のインタビューで、「将来的には議論は必要であるが、来年皇室典範の改正を国会で議論すべき問題とは考えない」という。

 男子新宮が御生誕した以上、その議論をし、女系天皇を強硬に主張することは、新宮に対して失礼である。少し前のいい方をすれば「不敬」にあたる。現行の皇位継承者を配してほかの候補を立てるという解釈につながりかねない。現代であるからよいものの、奈良時代や平安時代ならば、そのまま戦争になる問題である。

 そのような大混乱、国論を二分する事態を避け、現行のまま皇位継承者ができた今回の事案は、単なるご出産という慶賀だけでなく、日本の危機を救った奇跡かもしれない。

 もちろん、その結果を目指して、「生みわけをした」などのうわさは絶えないが、祝賀ムードによりそのような声はかき消されてしまう可能性が高い。

 

 いずれにせよ、将来に不安があろうとも、今回のご出産は、素直にお祝いしたい。

 

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ヒルズ族盛衰期03  3 日本人の常識と「ムラ社会」の形成

3 日本人の常識と「ムラ社会」の形成

 日本人は常識という言葉をよく使う。入社した手のころ、簡単な失敗をすると「そんなこと常識だろ」と起こられたことも少なくない。しかし、この「常識」こそマヤカシに過ぎない。
 そもそも、常識とは読んで字のごとく「一般人が通常持ちうる知識」のことをいう。しかし、ここには「一般人」と「通常」という二つの不確定要素がある。
 一般人とは何か。何を持って一般とされ何を持って一般とされないのか、その基準はあいまいである。極端な事例はわかる。精神の病気を重度に患っている方が一般でないことはわかる。しかし、その境目は見えない。だれも定義できない。
 同じことは、「通常」という単語もある。何が通常で何が非常なのかはあいまいである。
 常識とは、要するにわけがわからないが、その特定小集団において共通する認識でしかなく、その小集団を出てしまえば「常識」などというものは一切通用しない。そして、大多数の日本人はそのことをわからず、自分の、または自分の属している小集団(家族やカップルという最小集団を含めて)の常識が、世界中、下手をすれば宇宙全体の普遍の真理のように思っているのである。
 たとえば、正月のお雑煮などは、地域によって持ちの形や汁の色が異なる。しかし、地域によってはそれが常識であり、その地域にあっていないものは常識がい、ようするに異端とされてしまう。
 正月で、多くの家庭は門松を飾る。家の玄関の横に竹と松をあしらった飾りをするのである。しかし愛知県豊田市にはその風習(常識)がない。門松の代わりに松明をともすのである。この地域ではそれが常識であり、門松を飾るのは非常識なのである。
 なぜ、このように常識にとらわれるのであろうか。これは、日本人特有の「ムラ社会」の形成とそのムラへの帰属意識がそうさせていると考えられる。そして、もう一つは日本人に宗教感がないので、その代わりに説明のつかないことを「常識」として片づけてしまうようになっているところもある。詳細なとことは、社会学や民俗学などの教授に任せればよいが、日本人の根本的な部分にそのような意識が流れていて、その説明のつかない部分に無理が出ている状態であることは感じ取れる。
 その「ムラ社会と帰属意識」が大きく作用しているのが日本人のグローバリズム、要するに国際化である。
 日本人が国際化というとき、まずは英語ということになる。日本語は世界でも特殊な膠着語に属する言語で、最終の意思表示を、文章の末になるまでわからない言語である。膠着とは膠でつけるという意味で、助詞または助動詞、それだけでなく、動詞や形容詞の末尾活用(五段活用など)によって、後ろに言語をつけるということのできる言語である。「~でなくて」というように、後ろの言語によって文脈全体を180度反対側の結論にすることができるのである。これに対して、英語そのほかの多くの言語は屈折語、つまり、最初に意思表示をしてあとで、理由を説明するタイプの言語である。正反対のことをいうにはHoweverなどの接続詞を使うのが一般的であり、動詞の活用も過去形ぐらいしかない。
 どちらが優れているというものではない。言語である以上一長一短があるばかりか、その国の風土や国民性、文化などに大きく左右する問題であり、優劣を語る問題ではない。ただ、いえることは、この言語体系が文化や思考を大きく左右しているということである。
 要するに、英語的発想の人は、割と白黒をはっきりつけたがるし、その結論に関して先に決める部分が少なくない。周りに関係なく自分の意見を先に述べる、または先に結論づけて話す傾向がある。
 一方日本人には、中庸を最良とする文化があり、折衷案がでやすい。結論を先延ばしにして、なかなか結論をださない。また、優柔不断と思われるほど周りの意見をよく聞く。 
 このどちらがよいということはない。しかし、言語と同様にこれほど大きく違う国民性を持つのである。
 さて、国際化、グローバル化といい、英語を習得している人々も、このような思考法や思考体系まで踏襲するわけではない。日本人的な発想、日本人的な思考のうえに技術、伝達手段として英語という道具を使っているに過ぎない。よって、英語的な会話ではなく、日本語的な会話を英語でしているだけになってしまい、結論のない会話をしてしまうことが少なくない。
 先ほど、言語や文化に優劣はつけられないといった。しかし、ことビジネスの世界では英語的発想、英語的思考法の方が、物事スムーズに進むようである。結局は前に進まなければならず、同時に結論を出さなければならない。そのようなときに、結論が後に来る思考法は、あまりよろしくない場合が少なくない。とうぜんに、「怪我の功名」というようなばあいもあるが、時間の空費があることは明白である。
 せっかくであるから、日本語はその特徴を生かし、芸術などの分野では最高と思われる。結論を出す前に修飾語をつけることができる。たとえば「白」と決定する前に「雪のような白」ということが可能である。それだけでなく、折衷案を出したいときには最高の言語であろう。まだ結論が決まっていないことを話すのに最高な言語なのである。
 そのような話はこの辺にして、言語から来る国民性は、もう一つ重要な特性を日本人に与えている。それは、結論をいわなくても通じる社会の形成である。それは、同じ社会状況で暮らす人間における共通認識を重要視し、本人の自覚を即して本人以外のものは最終の結論をいわない社会を形成したのである。このことは、「自主的に処理した」要するに「第三者からの圧力を受けなかった」または「他人の強制に従わなかった」ということを外形上つくり、外形上の台頭関係を維持できるシステムを構成する。
 しかし、実質的に上下関係が出来上がるということができるばかりではなく、同じ環境でなければ話が通じないために、同じ環境、同じ共通認識を持ったものだけが集まるという「ムラ社会の形成」を促進することになる。
 「ムラ社会の形成」は、共通認識のものだけが集まるという特徴を有する。このことによって、ムラの中だけで通用する知識が横行する。これが「常識」といわれるものである。
 そして、最も問題なのは「常識」にないことが発生した場合は、それを排除してしまうことである。このことにより「日本」という「ムラ社会」は、そのムラの外で起きている「常識」から取り残されてしまい、自分たちの独善的な知識だけで世界に進出しようとする。そして、その世界(ムラ社会の外部)進出で自分たちの常識が通用しないことを知り、大損をして、ムラに帰ってきてより閉鎖的な社会を形成するのである。
 そのような、日本ムラ社会の構成員は、逆に外の世界であるムラの外部の常識をそれまで拒み続けてきたのであり、そのために、外部の情報に対する対処の仕方を知らない。つまり、真偽の検査をすることなく猛進してしまうか、ハナから拒絶するかの対応となってしまい、裏をとるとか検証するということができないのである。
 そのうえ、何か事件があれば国という自分の所属する最大のムラ社会に補償を求める。ようするに自己責任の意識はまったくないのである。
 このような日本人ムラ構成員をだますのは簡単である。ムラの共通認識を持ちながら新たな知識を出し、不安をあおり、そして盲信させればよい。一人だ加入させることができれば、 ほか全体もみな引き込んでくれるのである。
 人間が集団をつくる動物である以上、ムラ社会の形成は仕方がないことかもしれない。また、そのことに関する利点も少なくない。しかし、そのことに関する欠点も認識し、その欠点を補う活動をしなければならないであろう。

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2006年のニュース (1) ヒルズ族盛衰記の1

2006年のニュース

 2006年のニュースをテーマごとにまとめます。国会新聞の記事とは別にどうぞ。

(1) ヒルズ族盛衰記

 2006年の重大ニュースのうちの一つに、確実に入ると考えられるのが『ライブドア堀江社長逮捕』であろう。
 この事件は、それまで強気な経営とマスコミ露出、そして拝金主義ともいえる金銭での支配による株式会社買収を繰り返したライブドアとその代表取締役の堀江貴文氏が、有価証券取引法の風説の流布や商法の粉飾決算などの罪に問われて逮捕されたという事件である。
 堀江氏は、それまでも自身の著書で有価証券取引に関する「金もうけ術」を展開したり、また昨年9月の総選挙に出馬するなど、話題性に事欠かなかっただけに、その話題の中心であり、現代の、ITバブルといわれるIT長者の代表格が逮捕されたことによる市場のショックはかなり大きかった。
 また、この事件では、キーマンの一人と目される関係者一人が沖縄で自殺している。この自殺については、当初から週刊誌などで他殺説をいうものも少なくなかったが、警察の捜査結果は自殺のままである。その自殺の裏には、ライブドアの錬金術に関し論だリングが必要な資金などが流入したとされる噂も取りざたされた。真偽は別にして、日本にいる通常の人々や捜査では、その資金の流れが不透明であるとされたことは確かである。そして、その流れのすべてが、海外を舞台にした投資ファンドの存在である。
 そして、この流れに関しては、多くの政治家も、そして資金を隠しているものも、そして、暴力団までが、この投資ファンドを利用しているというのである。もちろん、その利用が適法か、違法かは別にして、多くの日本人がわかっていない投資ファンドが舞台となったということは、着目すべきである。

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昨今の幼女殺害について

 昨今の幼女殺害については、非常に痛ましいものがありますね。
 まず何より、被害者の子供たちのご冥福をお祈りします。

 さて、昨今の幼女殺害と、昔の幼女殺害については、かなり違うものがあると思うのです。昔は、「身代金目的の誘拐」から「殺人」に変わるものがあったが、昨今のものは、そのほとんどが「わいせつ目的」から発展した「殺人」であります。いずれにしても「殺人を目的とした殺人」ではなく、「別な目的から証拠隠滅のための殺人」または「発作的な殺人」となっているのですが、その前の行為が「わいせつ」という故意が増えているのに非常に大きな問題があるのではないでしょうか。

 幼女趣味というのが増えてきたのにはいくつかの社会的な病巣があると考えるのです。幼女趣味の人の多くは「自分の思い通りになる」「何も(性に関する知識や男女関係を)知らない」という内容をそのまま性的な欲求になって現れているのです。
 要するに、逆な捕らえ方をすれば、実生活において「人付き合いが苦手」「女性と付き合う(中には話をする)のができない」というような状況にあるのではないでしょうか。

 昔は、このような人は少なかった。もちろんいなかったとはいませんが、そもそも、そのような「人付き合いが苦手」な人であっても、生活をする上で最低限の人との付き合い(会話)が無ければ生活ができなかった。しかし、現在はそのようなことはしなくても、生活ができるのです。

 このことは核家族化や隣近所との近所づきあいの欠如に端を発する地域コミュニティの崩壊が原因となり、その崩壊が社会的な犯罪抑止力を失ったことがひとつの原因となり、それが、インターネットの普及(といいつつこれもその一部ですが)によって、ヴァーチャル世界において自由に意思疎通ができるようになるというのが最大の問題になるのです。

 その上で、昭和60年の男女雇用機会均等法と女性の社会進出により、「家庭環境の崩壊」が一層進んだことは間違いが無いでしょう。

 そのころの子供は、会社員の父親・社会進出している母親と接することなく、当時「コンピューター通信」といわれていたインターネット(厳密には違いますが)による「電脳」の世界に生きて人との交流を学校という世界最小限、その中でも最低限の付き合いだけで済ませてくることができるのです。

 至極単純に、そのような人を「ステレオタイプ」してしまうつもりも無いのです。そのような人でもがんばっている人はいるのですが、そのような人の中で特異な人が犯罪に走る傾向が少なくないのは間違いが無いでしょう。

 逆に犯罪に走らない人でも「うつ病」が非常に多くなっているのも社会現象化していると考えられます。うつ病も幼女趣味も犯罪も、家庭環境と地域コミュニティの崩壊が原因となっているのでしょう。

 さて、対策提案ですが、

 簡単に言えば、社会コミュニティの復興と家庭環境の確立が必要でしょう。

 そのためには、時代に逆行するようですが、大家族制の復活なども言われるでしょうし、そのようなことをしなくても、地域コミュニティ、要するに近所づきあいが綿密に復活されれば問題はもう少し少なくなるのでしょう。

 しかし、それを言うことは、家庭に人がいるということ、であり、それが「ジェンダーフリー」の考え方と合致しない、平たく言えば「男女差別につながる」ということになるのではないでしょうか。

 そうすると、そもそも、「安全」を期待すること自体が不可能ということになるのではないでしょうか。

 日本人は「水と安全はタダと思っている」と言っている人がいますが、実際にそのことがタダでなくなる日が来るのはそお遠くないということになってしまうのではないでしょうか。いずれにせよ、女性(ここで女性と限るところに問題があるのでしょうか?)の社会進出と地域コミュニティの崩壊の代償の一つが、このようになってしまったのではないでしょうか。

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エスエム判事

いやいや実に楽しい、それでいてかわいそうなニュースです。

 熊本県熊本地方裁判所の人吉支部の判事42歳が、勤務時間中に携帯電話で「SM」メールを送っていたとして、退職しているという。現在はその判事が辞表を出しているが、調査に従って懲戒免職になるかどうか、いずれにせよ自宅謹慎中であるとの事です。

 SM系出会い掲載とで知り合った30代の女性に対して、勤務時間中にSMプレイに関する内容のメールを送付したり、または自分の姿を写した写真を出したり、その上、女性に調教料金を請求するといった内容。

 さて、この「愛すべき?」判事は、なぜいけないのでしょうか?

 至極単純に、SM趣味があるということで辞表または懲戒免職といったような内容にはならないでしょう。ちょっと変わっているかもしれませんが「思想の自由」は憲法で保障された権利であり、その思想の内容がSMであっても、おかしくは無い。もちろん、そのような人に人を裁くだけの資格はない、などという人もいるであろうが、そのようなことを言う人だって、人に誇れるほどの趣味ばかりとはいえないであろう。「隠れた趣味」というのは誰にでもあるものであり、その趣味が「合法的」であれば、人が非難するものではない。ましてや、「懲戒免職」などとなるものではない。

 では、

 ようするに、この判事は、「隠れた」趣味で無ければならないことを、「隠れた」趣味にしなかったこと、そして、それを「合法的でない」手段で相手に伝えてしまったことがこの人の問題である。

  記事にある中で問題となるのは、「自分の職種を明かし、法衣の写真などを送付し」と書いてある。これは裁判官行為規定に違反する行為である。一部の裁判官以外は、名刺も一般には送付しない。一部とは、破産や会社更生事件を担当する担当判事などで、直接事件に関する判断を行わない裁判官である。要するに裁判の公正を期するために、自分の職種などを明かすことは禁じられているばかりか、親族以外の歳暮中元も禁止されているのである。その上、報道によれば、裁判の内容などに関しても書いているというのである。

 次に、「職務時間中」という部分である。勤務時間中に、わいせつ行為を行えばよくないのは、他の会社でも同じである。昨今、会社の中において勤務時間中に個人的なホームページを見ていたり、個人的なメールを送付(受信はどうしようもないとして)したりは、罰せられ、それらの内容の監視を請け負う会社が出てきたりする。もちろん、その実効性や、程度の問題もあるが、その辺は、裁判所といえども一般会社と同じであるといえるのである。

 要するに、「隠さなければならないことを、隠さなかった」「職務時間中に行うという、羈束上良くないことをした」という二点が、彼の職歴に傷をつけたことになる。実際に、当がいないようであれば、「SM」でなくても処分されるのに十分である。

 しかし、これが報道されるには、「裁判官がSM趣味」ということにつきる。これが一般の会社員であればこのような報道にはならない。

 裁判官は人を裁く立場にある。要するに人格者で無ければならない。しかし、その人格者がSM趣味であり「破廉恥」であるということが問題とされているのであろう。そのような裁判官に裁かれるというのも・・・。特に、婦女暴行などの罪は、どのように判断してきたのかかなり気になるところである。

 しかし、先にも述べたとおりに、個人の思想の自由は憲法で保障されている権利であり、当然に裁判官にも適用される。別に趣味がどうであれ、仕事に問題が無ければ罰せられたり、非難されたりする必要は無い。今回は、「SM]ということではなく、「職務規定違反」ということで処分されたのである。

 そのようなことから考えれば、彼は、自分の職種を考え、それを「隠しながら」自分の趣味を完遂すべきではなかったのではなかろうか。

 ところで、このような職種の人に「SM」趣味の人は少なくない。その人がサディストかマゾヒストであるかはともかく、かなり「アブノーマル」であることが少なくない。それだけ社会のストレスを感じていると考えるべきなのか。それとも、逆にそのような性質の人が集まっていると考えるべきなのか。

 我々が、考えるべきは、どのような人物にも隠れた趣味があり、そして、聖人君子のような人格者ばかりではないということを自覚すべきではないか?

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倒壊の危険のあるマンション建設

 驚きましたね。建築士の詐欺

 姉歯という千葉県の一級建築士が建物の構造試験結果表を偽造して、それに従ったために、東京、船橋、川崎で21物件が「震度5」で倒壊する可能性があるとの事。

 借りている人はともかく、買った人は、ローンなんかも残って大変でしょう。法律的には民法717条が適用されて、土地建物不動産売買瑕疵担保責任という難しい条項で、購入そのものを無効とすることができるけれども、そのようなことをしたら、建築会社や不動産会社は間違いなく倒産してしまい、建物よりも先に会社がなくなるということになります。

 もちろん、それは最終的には姉歯という建築士の問題になるのでしょうが、そこに保証を求めたところで、どうにもならないでしょう。

 ということで、こういうことは「悪いことをしたもの勝ち」となりかねないのです。

 そもそも建物は、

 設計→監査→施工→販売 

 となって販売されるので、今回の設計で起きた不正は、当然にそれ以外の場所つまり監査や施工の段階でもわかるはずですが・・・。

 このような事件は、自分のところが大丈夫か?という気分にさせられると同時に、構造的に、安く建築し利益を上げたいという、建築会社や販売者の意向を設計や監査が見抜けなかった、または、それに同調してしまったということにもんぢあがあるのではないでしょうか?

 不動産業は、それだけ冷え切っているのですが。土地バブルがはじけて久しいのですが、不動産や建設業にいる人は、いまだに昔の記憶が抜けていない人が少なくないのです。

 

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