心と体

【土曜日のエロ】 「健康法としてのエロ」は有効か?という観点から見た「喜び組」の存在意義

【土曜日のエロ】 「健康法としてのエロ」は有効か?という観点から見た「喜び組」の存在意義
 政治の政界では、かなり悪者になっている北朝鮮の金一族であるが、ある意味において「科学の発展」や「非科学と科学の融合」、もっと言えば「ばかばかしいことを真剣に行うという壮大な無駄の中から生まれる貴重な発見」などは、基本的に、だれかばかばかしい独裁者による壮大な無駄遣いからしか生まれないということになる。日本の高度経済成長も、モーツアルトなどの芸術も、科学の発展も、日本の歴史学ではすべて経済合理性などの話で発展したということになる。しかし、そもそも「無駄」ということが最もすべての物を発展させるものである。そもそも戦争というのは完全に「無駄」の集合体であるが、戦争から発展したグッズは実は山ほどあるのではないか。ペットボトルや缶詰などは、当然のこと、ラップやカーナビなどもすべてその内容であるし、キャタピラーなども戦争から発展したものだ。
  さて、何も今日「土曜日のエロ」で戦争の話をすることなどはない。当然に「無駄」という中で、「健康法」は無駄に入るのかどうかはわからないが、その「健康法」という名称にした「エロ」ほど無駄なものはない。日本などでそのようなことをしてしまえば、当然に、批判の的であるし、そもそも犯罪になるのであろうか、しかし、独裁国家の独裁者が、自分の健康法だとしてエロを肯定することは、だれも否定ができない。科学者というのは、そのエロを科学の力を総動員して肯定する根拠を作り上げることになるし、また、倫理観や宗教観は、哲学的な意味を含めてエロを肯定することになる。
  まさに「生への執着」が「性への執着」に代わるのである。まさに「長生きの欲・煩悩」が、そのまま「性への欲と煩悩」とリンクする問うことになるが、これこそ「壮大な無駄」と「独裁国家」でしかありえない状況なのである。
  さて、北朝鮮の金日成主席の健康法は「少女との性交」であるという。まあ、若い女性との性交を健康法に挙げる権力者は少なくない。しかし、現代社会でそのようなことが存在するというのはなかなか面白い。
  その記事を今日は扱ってみようと思う。
金日成の健康法は少女からの輸血や少女との入浴など
 絶対的権力と富を手に入れた独裁者が、最後に求めるのが不老不死の肉体だ。己の命のためなら手段を選ばない。北朝鮮の初代国家主席・金日成の「生への執着」はどんなものだったのか。
 金日成は、健康管理、長寿に異常な執着心を持っていた。そんな金日成のために1976年に設立されたのが通称「金日成長寿研究所」。そこでは西洋医学と一線を画す、驚きの北朝鮮独自の医療技術が日々、研究されていた。後年、脱北した同研究所の研究者らにより金日成が試みたという健康法が明かされている。
 そのひとつが、北朝鮮北部から選抜された十代の処女たちからの輸血。処女の血には、白血球やヘモグロビン、良質なたんぱく質が豊富に含まれているからだという。処女の出身地が北部に限定されていたのは、「アメリカの侵略に遭わなかったため、血が汚れていない」という理由だった。少女たちは金日成との入浴も強要された。彼女たちから発散されるホルモンを吸収するためだという。
 また研究所では、鹿の角や高麗人参などを使用した精力増強剤のほか、冬虫夏草やオットセイのペニスなどを成分とする老化防止の秘薬も開発されていた。研究員らは、「それら秘薬の効果を確かめるため、金日成と同様の肥満体型の幹部たちを集めて人体実験を行っていた」ことを明かしている。
 国家の優秀な人材を総動員し、金に糸目を付けず妙な健康法に明け暮れた独裁者は82歳でこの世を去った。当時の北朝鮮男性の平均寿命67歳を大幅に上回る長寿だった。
※SAPIO2017年8月号
2017年07月16日 16時00分 NEWSポストセブン
https://news.nifty.com/article/world/worldall/12180-581065/
 北朝鮮北部から選抜された十代の処女たちからの輸血。処女の血には、白血球やヘモグロビン、良質なたんぱく質が豊富に含まれている<上記より抜粋>
  少女たちは金日成との入浴も強要された。彼女たちから発散されるホルモンを吸収するためだという。<上記より抜粋>
  さて、この二つの文章、何ともいい感じではないか。これをやらせてくれるならば、世界中、一気に北朝鮮を好きになるのではないか。まあ、まずは「少女との会話」というのは、少なくとも精神的に明るい材料である。基本的に「若者と一緒にいる」というのは、若者の感覚に近づくということであり、身体も自然とその内容に近いようにしようということになるのであるから、当然に、健康的ではある。また「性欲」というのは、当然に、「生命の源」であり、そのために「元気に生きる」ということから、それなりに健康にもなるのではないか。少なくとも「欲」がある人の方が生への執着があるのだから、当然に、長寿になるものだ。
  さて、いま日本では「健康寿命」ということが注目されつつある。長寿といっても寝たきりではなく健康で長生きしたいというのであろう。では、その健康での長生きという時に「健康で何をするのか」ということになる。基本的に金日成のように「独裁的権力者」であれば、死に際に子供ができてもその子供の成長や生活に問題があるとは思えない。その場合に、「子供を作る」ということが一つの「健康な状態の印」になり、その健康寿命において、非常に重要なファクトの一つになっているのではないか。
  さて、そのように考えれば、「少女との入浴」や「性交」(記事に性交はないが当然にやっていたと思われる)および「輸血」に関しては、長寿そのものというよりも「健康寿命」という面、特に「精神面における健康」ということに関して、かなり大きな方法の一つではないか。
  では何が無駄なのか。この「研究所」なるところで「科学的に証明しようとする」とろが非常に無駄ではないか。つまりは「金日成の性欲を肯定する論理」を作っただけであり、その論理を考えるだけの労力と知恵を他に使えば、もっと良いことになるのではないかという気がしてならないのである。しかし、逆にこのようなことをすること、つまりは「無駄を推進すること」こそ、様々な発展がある。問題は、この内容は「かなり高度な性の科学」であると思うが、それが「金日成の色ボケの結果」で終わってしまうことが悲しい。
  この論理を、ぜひ、日本でも広めていただき、老人の健康法として「少女との入浴」な度を取り入れてみたいものである。そのようなことをした方が「明るい老後」が待っており、そのために、頑張る人も少なくなくなるのではないかという気がしてならない。何も「少子化」などといっていないで、このようなことを考えることも、社会的な発展になるのではないかという気がしてならないのである。もちろん「ある一定の金額以上の納税者」とか決めなければならないとは思うが、「エロで経済と社会を発展させる」ということの先駆者こそ金日成なのかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【土曜日のエロ】最近エリート大学生に強姦事件が多発しているという大学教育の問題

【土曜日のエロ】最近エリート大学生に強姦事件が多発しているという大学教育の問題
 土曜日もエロである。
  時に「エロ」は犯罪を構成することがある。基本的に、本来であれば「子孫繁栄」は動物にとって普通のことなのであるが、しかし、「誰の子供」なのかということは非常に大きな違いがあるのである。今回は、そのことに関して、考えてみよう。
  さて、まず「性的な犯罪」というのは、基本的に、「主観による犯罪の構成」という、かなり難しい話になっている。本来、法律の運用というのは、「客観的な事実によって犯罪を構成すべき」であるというのが本来の法律の運用ということになる。しかし、性犯罪というのは、そのようなものではない。基本的に「セックス」そのものの行為は、「好きな人と行うのはよく、それ以外の人と行うのはよくない」ということになる。そして、その人を好きか嫌いかということは、、少なくとも「外形」ではわからない。要するに、「性犯罪」というのは、「被害者の主観」によって形成される犯罪であるということになる。
  まあ、何度かこのブログには書いているが、私の大学時代の刑法のゼミ(商法のゼミにも入っていたので、私はゼミが二つ単位をもらいました)の論文は「性犯罪における男女差別の実態と男性差別」ということが題材であった。
  男性が女性を押し倒して、制行為をした場合は「強姦罪」になる。
  第177条
暴行又は脅迫を用いて13歳以上の女子を姦淫した者は、強姦の罪とし、3年以上の有期懲役に処する。13歳未満の女子を姦淫した者も、同様とする。
 ここに、しっかりと「女子を姦淫したるもの」という表記が書いてある。暴行又は脅迫を用いるなど、一定の要件のもとで女性の性器に男性が性器を挿入する行為(強姦)を内容とする犯罪ということになる。まあ準強姦罪など様々な類型があるので、何とも言えないが、いずれも「男性が女性を」というように決まっている。
  では、「女性が男性を無理やり押し倒した場合」はどうなるのか。
  これは「強制わいせつ罪」という罪になる。条文は176条である。
  第176条
13歳以上の男女に対し、暴行又は脅迫を用いてわいせつな行為をした者は、6月以上10年以下の懲役に処する。13歳未満の男女に対し、わいせつな行為をした者も、同様とする。
 強姦罪と異なるのは、強制わいせつ罪の行為が「わいせつな行為」である一方で、強姦罪は「姦淫」であることであり、その結果、強姦罪の客体は女性に限られるのに対して、強制わいせつ罪は性別の制限はない。罪数を観念するとき、法条競合の特別関係にあたり、姦淫の故意が認められれば、強制わいせつは評価されず、強姦罪のみで評価されることから、強姦罪は強制わいせつ罪の特別法の関係にあるともいえる。
  男性が女性に姦淫した場合は、「3年以上」で、女性が男性を姦淫した場合は「6月以上10年以下」である。
  まあ、これが日本の「刑法」なのである。
「強姦魔エリート大学生」の共通点 空気は読めるが人生は読めなかった
 千葉大医学部生による集団強姦事件の公判が1月31日から始まった。エリート大学生らによる酒席での暴行事件が、昨年から続いている。性犯罪裁判を傍聴し続けているライター高橋ユキ氏が、昨年5月の東大生集団わいせつ事件と今回の事件の違いや類似点を指摘した。
 強制わいせつ容疑で逮捕された東大生と東大大学院生5人中、起訴された3人はいずれも起訴事実を認め、一審の執行猶予付き判決に控訴せず、確定している。
 千葉大医学部生の集団強姦事件では、集団強姦罪に問われた吉元将也(23)、山田兼輔(23)の両被告が飲食店のトイレで女性をレイプし、増田峰登被告(23)はその後に自宅で女性を乱暴し、準強姦罪に問われている。
「東大生らは被害女性を共犯の家に連れ込み、みんなで裸にしたりしたものの、犯行内容としては背中を叩く、ラーメンの汁を胸元にかける、肛門を割り箸でつつく、ドライヤーの風を淫部に当てるなどで、千葉大生のような強姦行為はしていません」
  一方で共通点もある。
 被告の学生らが「いずれも“場の空気”を大事にしすぎたこと」だと高橋氏は言う。東大生らは「場を盛り上げるため」に被害者を“オモチャ”にしたと法廷で語ったが、千葉大生も同様の供述をしている。
「山田被告が被害女性に酒を勧め、同被告と吉元被告の犯行後、現場を見た増田被告は“被害者がかわいそうだと思ったが、止めれば場をシラけさせてしまう”と思い、止めなかったと調書で振り返っています。とがめることは無粋だという空気が漂っていたんでしょう。彼らは協調性を発揮し結果的に逮捕され、約束されていたエリート人生から逸脱してしまいました。空気は読めるが、先の人生は読めなかったんでしょうか」
 山田、増田両被告は起訴内容を認めているが、吉元被告は「同意のもとだった」と無罪を主張し、徹底抗戦している。
2017年2月6日 17時0分 東スポWeb
http://news.livedoor.com/article/detail/12638208/
 さて、まずは日本の性犯罪に関する刑法の規定を見てきた。実際にこれだけ法律が違うということに驚くことになる。まあ、なぜか「男女平等」を言う人々は、このような「男性に対する逆差別」に関しては全く何も言わないのであり、本当に平等を目指しているのかフェミニスト的な女性の社会的上位を目指しているのかその辺は不明だ。いずれにせよ、「本当に男女平等とはどういうことか」ということをしっかりと考えてみるべきである。
  一方、最近、「高学歴の強姦魔」が多くなっている。
  もちろん、私たちの年代であっても強姦罪に問われる人は少なくない。しかし、学生時代の「強姦」という罪が何となく目立つのではないかという気がしないでもない。これはいったい何なのであろうか。
  私の個人的な持論である
  小学校やそれ以下でもよいのであるが、子供のころからしっかりとした性教育をしていないのではないか。性教育をしっかりしていれば、その行為の結果が何を生み出すのか、どのような結論になり、どのようになるのか、その辺までしっかりと学ぶことになる。実際に、「高学歴」というのは、極端な話「英語・数学・国語・社会・理科」のご科目が良くできるだけであり、人間的に成長しているとか、あるいは、人格が形成されているというものではない。また、受験勉強が重要視されてしまい、学歴社会的な内容が中心の勉強になってしまっているから、当然に、「人間教育」ということができていない。そのために、結局は「高学歴」でありながら、「人間的に問題のある行為」をしてしまうのではないか。
  もう一つは「行き過ぎた男女平等の教育」である。完全に「行き過ぎた」場合は、飲み会に男女平等であってもよいことになり、その時に、何らかの行為があってもおかしくないというようになってしまう。しかし、そもそも論として、男女は「別」なのである。それは肉体的な構造なども全く違うことになる。そのことから、「理念では平等」でも「肉体的には全く異なる」という状況が生まれてきてしまう。その時に性的な興奮があれば、このような犯罪になる。上記のように「学歴編重教育」がなされ、その時に人間教育ができていない状況になっていれば、このような「事件」に発展する。
  そのうえで、被告の学生らが「いずれも“場の空気”を大事にしすぎたこと」だと高橋氏は言う。東大生らは「場を盛り上げるため」に被害者を“オモチャ”にしたと法廷で語ったが、千葉大生も同様の供述をしている。<上記より抜粋>というような「集団心理」が働くことになるのだ。
  このためには、基本的に、子供にしっかりと「男女の区別」と「性教育」をする必要がある。小学校のころ、当然に効率の小学校であったが、やはり男性は「恥ずかしい」とか「悪いこと」と思いながら「エロ本」を見ていた記憶がある。そのような感じであったから、逆に、男女のことや性のことは学べたと思う。大人が、「必要以上に子供を子ども扱いにして、すべてを見せないようにする」ということが、かえって、このような犯罪の温床になっているのではないか。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

【土曜日のエロ】紳士の国イギリスに先駆けてオーストラリアで客も全員「全裸」のレストランオープン

【土曜日のエロ】紳士の国イギリスに先駆けてオーストラリアで客も全員「全裸」のレストランオープン
 土曜日のエロなので、「エロ妄想全快」でスタートしてみようと思う。人間の三大欲求は「食欲」「睡眠欲」「性欲」である。各宗教は、この三大欲求を抑制するということから始まる。仏教などは、これ以外のすべての欲求を「煩悩」といい、108の煩悩から「解脱」することを目指すというのである。当然に「欲求」がそのまま「理性を崩す」ということが一つの大きな問題になり「理性を崩す」ことが、そのまま「秩序を乱す」ことになる。食べたいという欲求があるから、必要以上の領土をほしいと思うし、またきれいな女性をほしいと思うから、あるいはイケメンをほしいと思うから、ほしいが「独占」に代わり、ほかを排除する。その排除が、嫉妬になり、殺人や場合によっては戦争につながるのである。
  では、逆に、秩序が保てれば、欲求はそのまま解放してもよいのかということが大きな問題になる。
 要するに「食べ放題食べてもなくならないだけの食料がある」とか、「いくら寝ていても、ほかに影響がない」ということになるのではないか。その中において「全員が裸でいても、性風俗が乱れない」のであれば「裸でいてよいのか」ということが最大の問題になる。
 さて、この「全裸レストラン」は、そこまでの意識があるのか、要するに「人間の煩悩と人間の秩序への挑戦」というような、壮大な目的があるわけではないと思う。しかし、それでも「全裸でレストランをやるのは面白いのではないか」という発想であることは、あまり奇異な部分を感じない。
 さて、いきなり「煩悩」から入ったので、エロの癖に高尚になった、と思っている人は少なくないのかもしれない。実際に文化的には、白人、欧米人というのは、にほんじんとちがって、裸になること自体にそんなに抵抗を示さない。もちろん、何の理由もなく全裸になるということはないが、しかし、日本にはまず存在しない「ヌーディストビーチ」や「トップレスビーチ」などは、やはり欧米人の発想である。
 北欧での経験だが、サウナに行って、欧米のスパなので、みなサウナの上着を着ている。ちなみに欧米のスパは、風呂も水着であり、まあ、温泉の温度のプールであると思っていただいた方がわかりやすいかもしれない。当然にサウナにおいてもそのような状況なのであるが、しかし、サウナから出て、北欧であるから雪の世界であったのだが、水風呂の代わりに雪の中に入ると、それまで来ていた水着を全てとってしまうのである。
 「裸になって体を冷やすのか」
 そう聞いたところ、「いや、そうではなく、せっかく外に出て太陽の光を海老ることができるのだから、少しでも多くの日の光を浴びるのだ」といったのである。
 北欧は、太陽が小さく、また少ない。そのために、太陽が出ている時間が少ないのdえ、っ陽の光を浴びるときはなるべき日の光を浴びたいと思う。それだけではなく、水着で隠している部分ですら「もったいない」とおもい、その部分まで火の光を浴びたいと思うようである。その「太陽の光」への欲求が優先であり、全裸を人前で晒して恥ずかしいというような感覚は、その欲求よりもはるかに小さいのである。
 では、オーストラリアの全裸レストランはいったいどうなのであろうか。
一足お先に“全裸レストラン”、客は全員裸&バーテンは裸エプロンに。
  先日、英国で初めて“全裸レストラン”がオープンすることがわかり、その知らせはすぐさま全世界に拡散された。多くの人たちの羨望の声が聞こえる中、オーストラリアがイギリスよりも早く“全裸レストラン”をオープンさせ話題を呼んでいる。
 すでに肌寒い夜を迎えている南半球のメルボルン。“全裸レストラン”のニュースを聞いてすぐに、地元のラジオ局は同様のイベントを企画、実現へと動いた。最も懸念されたのは、お客が本当に来るのかどうかだったが、驚くことにSNSや電子メールを通じて、参加希望とこの企画への賛同が多数寄せられたという。
 そして先日“全裸レストラン”の夢は叶った。白いローブを身に纏った多数の参加者に裸エプロン(※男性)のバーテンがウェルカムドリンクを提供。その後、全員を客席に案内する。英国の“全裸レストラン”は衝立てや仕切りなどでプライベートな雰囲気を保とうとするものだったが、このお店は大胆かつ豪快、堂々と皆全裸で飲み食いを始める。
 参加者の中には当初、加齢や病気などで自分が裸であることを気にしている人もいたというが、すぐにその懸念は取り払われ、「全てが受け入れられている」と肯定的な気分を感じたとのこと。食事の最後には全員裸で語り合い、写真を撮影するなど、得がたい経験を楽しんだそうだ。
 ネットでは「そこが楽園か!」「意外に楽しそう。行ってみたくなってきた」「うちの街でもやってくれないかな」「あらためて思うが不衛生だろう…」「愚かさに恐怖を覚えるね」と賛否両論の意見があるようだが、“全裸レストラン”は世界的流行への兆しを見せているようだ。
2016年5月30日 15時59分 ナリナリドットコム
http://news.livedoor.com/article/detail/11581348/
 参加者の中には当初、加齢や病気などで自分が裸であることを気にしている人もいたというが、すぐにその懸念は取り払われ、「全てが受け入れられている」と肯定的な気分を感じたとのこと。食事の最後には全員裸で語り合い、写真を撮影するなど、得がたい経験を楽しんだそうだ。<上記より抜粋>
 さて、日本のネットの中には、よく、「芸能人のすっぴん」に注目があり、SNSにそれらが出てくると、その内容がなんとなく話題になる。もちろん、賛否両論あり、すっぴんの方が綺麗という人もいれば、とてもとても見ることができないような人も少なくない。まあ、誰が、というのもあるが、基本的に「外見」の世界で「本音」と「建て前」がまるっきり違うということになる。
 今回のこの「全裸レストラン」は、まさに、そのものであろう。単純に「ドレスコード:全裸」である。そして全裸であることは、例えば、良い服を着ているとか、あるいは、高いネックレスや腕時計をしているという「世俗」の関係から解放された内容ということになる。「はじめのうちは恥ずかしい」というのは、そのようなもので「守られている」自分しか存在しないとにことになる。
 しかし、最後には、全員が「楽しんだ」のであるから、当然に、「守られていない自分」に自信が持てるのではないか。ようするに「全裸」であるということは、そのまま自分自身の「中身」と「全裸において見える外見」つまり「肌のつや」などが重要になる。そして、全員が「全裸」であれば、「裸であること」が日常化してしまい、そのために、恥ずかしさはなく、「中身」出勝負することになろう。
 日本でも「裸の付き合い」という単語がある。もちろん、日本の場合は比喩的な表現で使うことの方が圧倒的に多いのであるが、しかし、中には「一緒に風呂に入った」などということもある。そのようなときに「恥ずかしい」とか「地位」とか関係なく、当然に「本物の自分の本音」だけで語ることになる。本物の自分の中身に自信があったり、なくてもさまざまな経験者の話を聞くことができるという意味で、その内容はかなり大きなものになってくるはずだ。お互いがしかkりと「中身」で付き合うことができる。そうなれば「楽しい」「貴重な経験」となるであろう。
 「全裸」といえばエロというような話である。当然に、そのようなエロい心ではいてくる人もいるかもしれない。しかし、本当に恥ずかしいのは「中身の本物の時分」を出せないということではないか。そのように思えてならない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)