文化・芸術

【土曜日のエロ】 家賃は体で払うというイギリスの「家賃事情」とその内容をあまり苦にしていない住人たち

【土曜日のエロ】 家賃は体で払うというイギリスの「家賃事情」とその内容をあまり苦にしていない住人たち
 土曜日のエロの日である。最近は国会がなんだかわからないけれども全く政治を行わないので、なんだかおもしろくない。はっきり言ってこのブログでは「政局」を書くつもりは全くない。そのために、政治をやるはずにもかかわらず、政治を全くしない今の国会には何の興味もない。つまり基本的に、外交のことばかりになってしまうのである。
  当然に、「エロ」も自然と海外のネタが増えてくることになる。しかし、エロネタに関しては、海外のネタの方が面白い。なんといっても、日本では考えられないことや、日本では犯罪になることが平気でお子案割れている。もちろん、中国や韓国のような国では、ある意味文化的に強姦を行うような場所もあるし、また、レイプが結婚の条件になるところもある。少数民族やその国の国民性というのは、なかなか面白いところが少なくない。とくに、インドやイスラムなどは、その国やその国の宗教ではあたりまえという感じのあるところであるが、日本人の常識では考えられない部分が少なくない。そのために、その考えられないところを楽しむのも、なかなか面白い。
  学術的には「比較文化人類学」というそうであるが、基本的に「下半身の比較文化人類学」や、下半身の「宗教哲学」はなかなか興味深いところがある。なぜならば、人間である以上「下半身事情」だけは、文化や国家、宗教にかかわらず男女の関係において人間の共通の課題なのである。つまり、人間と祖の生活、そして死生観(特に生む方なのであるが)の比較ということに関して言えば、当然に、面白いことになってくるのである。
「家賃は体で」、住宅難の英国で増える「スケベ大家」
 英国では、住宅難が叫ばれて久しい。英紙 フィナンシャル・タイムズは2017年11月の記事で、「英国の住宅市場は破綻している」と書き、政府でさえもそれを認めていると伝えていた。同紙は主な原因として、移民の増加や一世帯あたりの人数が減ったことが、必要となる住宅数を引き上げていると説明している。
 一方、英紙 インディペンデントが今年1月に報じた記事によると、2017年の秋にイングランドの路上で生活していた人の数は、一晩あたり4500人となり、2010年から倍増した。
 このような英国の住宅事情で、高い家賃を工面できずに困っている人たち、特に若い女性を狙う特殊な入居者募集のクラシファイド広告が、クレイグズリストなどの無料広告サイトに増えており、社会問題化しているという。
 「親密な取り決め」や「お願いごと」と交換に家賃を無料にする、などの巧みな表現を使って、家賃の代わりに性的な見返りを求めているのだ。そうとは知らずに部屋を借りてしまったという被害が実際に出ており、大抵、お金のない学生などの若い女性がターゲットになっているが、男性が被害に遭うケースもあるという。「悪いことはしていない」と主張する大家
 英紙 ザ・サンは2月5日付の記事で、そして BBCは2月28日放送のドキュメンタリー番組で、この問題についてそれぞれ「おとり取材」をした様子を取り上げた。おとり取材をした記者はいずれも20代の女性で、クレイグズリストで見つけた入居者募集の広告主(大家)に連絡し、実際に会った。
 サンの記者が家探しをしていると装って会ったのは、寝室が1つしかないマンションで「ベッドをシェアする」ことが家賃無料の条件とする大家だ。しかし実際に会って詳細を聞くと、「体を抱きしめて添い寝」と言い出し、それ以上については「何が起こるか分からないけど様子を見てみようよ」と説得している。この会話の様子は、動画で同紙のサイトに掲載されている。
 サンやBBCの記者が話を聞いた大家の誰もが、「悪いことをしているわけじゃない」と話したという。しかし3月5日付の BBCの記事によると、家に住まわせる見返りに性的な行為を求めるのは売春への扇動行為とみなされ、イングランドとウェールズでは最長7年の禁固刑になる可能性もある。ホームレスになるのが怖くて
 BBCの記事では、20歳の時に、そうとは知らずに「家賃は体で」という家に住んでしまった、という女性にインタビューした様子にも触れている。
 大家とベッドをシェアするのが入居の条件だと気づいたのは引っ越した後だったという。体を触ろうとする大家を常に拒否しなければならなかったと話し、それ以上無理強いしてこなかった点については「大家に感謝している」とBBCに話した。
 この家に引っ越す前はホームレスだった女性は、またホームレスになるのが怖くて、結局長い間そこで暮らしたという。BBCの記者がこの大家に直接話を聞いたところ、女性が住み続けたということは嫌ではなかったはずだ、と答えたという。
Rent For Sex: Landlords Offering Free Rooms For Sexual Favours
 一方 ガーディアン>は4月2日、すでに住んでいる家で、大家に「家賃を下げるから」と言い寄られたり、家賃を滞納していた時に体の関係を迫られ、拒否したら追い出されたりしたケースなどを紹介している。警察に届ける人は非常に少ない
 慈善団体 レイプ・クライシス・イングランド&ウェールズのケイティ・ラッセル氏はガーディアンに対し、イングランドとウェールズの性犯罪法は性的な合意について、「その選択をする自由と能力がある時に、自分の意思で同意すること」と定義しており、「ホームレスになる恐れがある状況で、または住む場所を確保するという基本的な権利の交換として、誰かとセックスすることに同意することは、自分の意思で同意することと同じではない」と説明し、同意のない性的な行為は深刻な性犯罪だ、と述べた。
 しかし、このような行為を警察に届ける人は非常に少ない。ピーター・カイル労働党下院議員は2017年4月、大家がこのような行為を改めない場合は法の整備をしてこの問題を解決する、と BBCに強い口調で訴えていた。しかし同議員は前述のガーディアンに対し、この1年で有罪判決はおろか逮捕者さえも出ていないと語っている。
 ガーディアンによると、無料クラシファイド広告サイト「ガムツリー(Gumtree)」にもこのような広告がつい最近まで掲載されていた。しかしガムツリー側はカイル議員と協議したことを明かし、現在はブロックするシステムがあるとガーディアンに説明したという。カイル議員はクレイグズリストにも改善を求めるために連絡を取っているが、なしのつぶてだと語っている。
松丸さとみ
ニューズウィーク日本版 20180411
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/04/post-9939.php
  さて、今日の記事はイギリスの家賃事情である。まあ、しゃれた言葉遊びをするならば家「珍」くらいのことを書くのであろうか。
  「親密な取り決め」や「お願いごと」と交換に家賃を無料にする、などの巧みな表現を使って、家賃の代わりに性的な見返りを求めている<上記より抜粋>というのである。もちろん、日本などでこれをやれば少なくとも強制わいせつ罪、精神的抗拒不能な状態であるということを考えれば、強姦罪の適用も考えられるところであろう。当然にイギリスでも同様の犯罪を構成することは十分に考えられる。イギリスの場合、日本のように刑法という法律が成分によって出てくるわけではなく、過去の判例がすべてになっているんド絵、その判例によって日本における強姦罪やわいせつ罪に当たる犯罪を構成するということになろう。
  しかし、「性行為」は、その行為自体が客観的に禁止されているのではないために、この性行為が「同意」に基づいて行われた場合は、犯罪をこうせしない。このような場合、「恋愛感情」などということがあるが、当然に「金銭を目的にした」という場合もあるしオランダなどでは売春が合法化されているのであるから、そのことを考えれば非合法とはいえ、そのような金銭を目的にした性行為があってもおかしくはない。(犯罪を構成しないとは言っていない)しかし、強姦などとは異なる法体系になる。この場合も「家賃」だけではなく「住む権利」という「居住権」と「性行為」の関係性と、そこに恋愛感情、少なくとも「性行為をしてもよい」と考えているかどうかという合意形成の問題である。
  大家の誰もが、「悪いことをしているわけじゃない」と話した<中略>ホームレスになるのが怖くて、結局長い間そこで暮らしたという。BBCの記者がこの大家に直接話を聞いたところ、女性が住み続けたということは嫌ではなかったはずだ、と答えた<上記より抜粋>
  まあ、なんというか、「家賃」といえば強姦罪になる可能性があるが、これが言い方を変えて「家賃目当ての同棲」と書いた瞬間に、日本にもそのようなケースは少なくない。つまり、同じ現象でありながら、物事の解釈の方法やその呼び名においてその犯罪意識が異なる。もちろん、本当に嫌だという人もいれば、一方で「それくらいで済むならば家賃が安い方がよい」と考える女性(男性もあるようだが)も少なくない。そのように考えるべきなのかもしれない。
  このような行為を警察に届ける人は非常に少ない。<上記より抜粋>ということは、つまり、かなり普通のこととして受け入れられているということなのかもしれない。
  このように考えると、ある意味で「性行為を金銭の代わりにする」ということが古来より、さまざまな状況で行われていたことが明らかであり、なおかつ、その場合に、「解釈」によって変わる。これをどのようにとらえるのか、ということが、単に「女性の権利」というようなことだけではなく、社会的な事情まで甘味されるというような内容になったということになるのではないか。
  なかなか興味深いところである。

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【土曜日のエロ】 「エロスを通じ女性の内面を描く」という展覧会の開催について

【土曜日のエロ】 「エロスを通じ女性の内面を描く」という展覧会の開催について
 土曜日のエロである。「エロ」というと、私が男性であることから、基本的には女性のヌードなどをどうしても考えてしまう。しかし、「エロ」という行為が基本的には、男性と女性の双方の合意がなければなできないということから考えると、エロスは、女性側にも成立する感情である。この基準の違いは男性と女性の違いであり、男性の場合は、多くの場合「視覚的刺激」と「聴覚的刺激」によって、性的興奮を得られる人が多いという数字に関して、女性の場合は、「視覚的刺激」よりは「触覚的刺激」や「雰囲気・ムード」というようなプロせっすをだ指示にする人が多くそのために、その女性の感覚に関して男性が理解できない場合が多い。
  基本的に「男性側の女性の更衣室などの覗き」というのは犯罪的によく聞く話であり(もちろん、そのような犯罪が許されて良いものではない)、そのような犯罪体系が存在するのも、その視覚的刺激や聴覚的刺激によって満足することができるからであり、これに対して、女性の場合は、視覚的刺激によって性的興奮を得られる人が少ないので、「壁ドン」とかそのようなシチュエーションが非常に重要になってくるということになるのではなかろうか。
  もちろん、私の場合私自身が男性であることから、女性の感覚は死んでもわからないということになるのであるが、犯罪の体系や、その時の供述などを考えると、そのような結論になってしまう。シチュエーションを大事にするということから、女性の場合は「売春」のような犯罪においても、自分の好きな男性と一緒にいることができるし、また、その時の感覚が違うということになるのではないかと考えるのである。基本的に昔の人は、その男性と女性の特性をうまく活かしており、そのために、多くの「エロス」が発展してしまうということになるのである。そのエロスの発展は、そのまま、風俗につながるのであるが同時にエロスの発展こそ平和の象徴であり、平和ではない時期にはエロスの文化というのは発展しない。もっと文化的ではなく即物的に「子供を残す」というような行為になってしまうのである。
  さて、このように「文化的なエロス」であれば、当然に女性もそのことを楽しむことができる。そのことを展覧会にしたようだ。
東京女子エロ画祭:エロス通じ女性の内面描く作品増える
 女性が考える「エロス」を表現する「東京女子エロ画祭」が4日、東京都内で開かれた。アダルトビデオ(AV)の脚本家で作家の神田つばきさんらが主催し、今年で5回目。AVなどで表現されるような一般的なエロスとは異なる「生と性」を表現する作品が集まった。神田さんは「エロスを通して女性の内面を映し出す作品が増えた」と話す。【中嶋真希】
 同祭では、写真、アニメーション、映像など本選に選ばれた11作品が紹介された。中学生のころに好きな男子の腕の血管を見て妄想した男性器を描いた絵。中国人の祖母の纏足(てんそく)を見て感じた痛ましさを表現したイラスト。頼りないパートナーにいらだつたびに、毛が生えてきて毛まみれになってしまうアニメーション。女性の快感を表現した傘--。作家がどんな思いで制作したかを話すプレゼンテーションとともに作品を見せた。思春期の強い感情や、友人と語った妄想、老いと性のこと。赤裸々な告白に会場の女性たちが強くうなずく場面もあった。
 主催は神田さんのほか、映像作家の安藤ボンさん、グラフィックデザイナーのもも小春さんの3人。「女性を性の客体から解放し、主体側に立って自由に表現し、もっと(AVを)作る側に女性が増えたら」という狙いで、2011年からコンテストを開催している。
 今年は過去最高数の100点近い応募があり、その中から11作品が選ばれた。関係者は「質が高く、泣く泣く落とした作品も多かった」と話す。審査員と来場者の投票で、グランプリには、カメラマンのマキエマキさんによる昭和風のセルフポートレート「自撮りカレンダー熟女」が選ばれた。50代のマキエさんが、閉経で変わっていく体に戸惑い、「きれいな体を残しておきたい」と始めたシリーズ。前向きに自分の体と性に向き合う姿勢が高く評価された。審査員特別賞には、経験を通して強くなっていく女性を抽象的なアニメーションにしたふじたゆいさんの「巡る」が選ばれた。好きな人に染まっていく中、温かい思いと冷たい思いが巡って終わりがないということを表現した。
 表彰式を終え、神田さんは来場者に向けてこう話した。「(同祭を開くことについて)『またエロ?』とも言われた。なぜ、エロがけがらわしいと思われているのか。それだけエロの表現で傷つけられた女性が多いからだと思う。女性が傷つかないエロの表現ができるようになった時には(女性の性を表現した作品が)美術館でも展示ができる日がくるのでは。その時まで、みんなでがんばっていきたい」
理由を説明しなくて済むようになった
 だまされてAVに出演させられる強要問題が16年春に大きく取り上げられてから初の開催。神田さんは昨夏、「今年はどうしてもやらないといけないと思っていた。(男性本位のAVが中心の中で)こういう表現しかない世界では、女は一緒に楽しめない。逆の立場に立つものを作ることで、歴史の中に仕事が残っていく」と話していた。さらに、昨年秋に作品の募集を始めてから、女性がセクハラや性暴力被害に声を上げる#MeTooなどの運動も盛んになった。
 この流れを受けてなのか、今回は集まった作品に変化があったという。これまでは「男性はこう思うかもしれないが」という前提や、男性が楽しむ性を笑い飛ばすような視点があった。今回は女性が自身の内面と向き合うような作品が目立った。「制作を通じて女性を自由にしたいという願いを作家が吸い込んで、その先に進んでくれた」と神田さんは言う。今までは「なぜ女性のエロスなのか」と同祭を開く意味について説明を求められることが何度もあったり、男性から否定的な言葉をかけられて傷つくこともあったが、今回はそういったことはなかったという。女性が意欲的に表現するエロスが受け入れられつつあることを実感している。
 一方で、生中継されたニコニコ生放送では、女性差別的なコメントが目立った。「これがアート?」「全然エロくない」。男性目線の「エロス」とは違う表現に、戸惑う声もあった。
 それでも、神田さんはニコ生で放送する意義があったと考えている。「(差別的なコメントは)ありがちな世間の声であり、ふっと出る反応。男性の目を排除せず、オープンにしていく。見せたくない人にも見てもらって、評価してもらいたい」と話す。「発表の場は、外からも見える畑。どんな作品が来てもいいように、畑を耕しておくことが私たちの役目」
 今後は、アーティスト以外の女性たちとも、女性のエロスについて語る場を作っていきたいと神田さんは言う。「『どんなものをエロチックだと感じる?』と自由に話し合える場ができたら」。自由に話し合うことで、女性が求める表現が生まれることを望んでいる。
 
毎日新聞 20180309
https://mainichi.jp/articles/20180309/k00/00m/040/057000c
 「女性を性の客体から解放し、主体側に立って自由に表現し、もっと(AVを)作る側に女性が増えたら」という狙い<上記より抜粋>
  まさに、現在のエロというのは、男性の「視覚的」または「聴覚的」な刺激による性的興奮があるということが一つの原因になるのではないか。つまり「性的な興奮を受ける」ポイントが全く違うので、その部分御是正を、映像や作品の中でどのように行うのかということが最も重要なことになるといわれる。逆に言えば、女性は「単に客体になっているだけで、基本的に主体的なエロの主人公になることは少ない」ということになるのではないかという気がしてならないのだ。
  そのことは、女性の作品を扱っている監督、今回の主催者などもそのことを気にしているようで、そのことそのものが大きな問題になっているような気がしてならない。
  「(同祭を開くことについて)『またエロ?』とも言われた。なぜ、エロがけがらわしいと思われているのか。それだけエロの表現で傷つけられた女性が多いからだと思う。女性が傷つかないエロの表現ができるようになった時には(女性の性を表現した作品が)美術館でも展示ができる日がくるのでは。その時まで、みんなでがんばっていきたい」<上記より抜粋>
  まさに、このことが非常に大きなところではないか。片方で女性は矛盾しているのはある意味で「不特定多数にきれいな女性とみられたい」ということがある。「綺麗にみられる」ということが、そのまま男性の場合は「視覚的性的な興奮」につながるのであり、そのことは、男性の勝手な妄想の世界において形成されるのであって、そのことを止めることは基本的にはできないのではないか。その妄想を止めるためには「綺麗な女性でいないこと」ということが条件なのであろうが、そのきれいな女性ではいないということは女性そのものが許せない日以外ない。一方、女性の感覚からすれば、「綺麗でいること」と「性的な興奮」が完全に切り離されてしまっているということになるので、きれいでいることが性的な興奮につながる男性の思考がわからない。間に「プロセス」が存在し「雰囲気」がなければ、女性は興奮を感じないのであるから、そのまま「性的な興奮までつなげる」ということができないということになるのである。
  実際に、このような違いそのものが全く分かっていないということが大きな違いであり、その違いに関しては、「『どんなものをエロチックだと感じる?』と自由に話し合える場ができたら」。自由に話し合うことで、女性が求める表現が生まれることを望んでいる<上記より抜粋>というような雰囲気が必要なのではないか。
  その雰囲気をどのようにするのかということの第一歩がなければ、男女が「エロを楽しむ」ということがなかなか難しくなてしまう。一度この感覚は昔、江戸時代の表現が自由な時代に戻してしまうことが必要なのではないか。

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【土曜日のエロ】 太腿の写真店すらなくなってしまう「エロ」と「苦情」の限界

【土曜日のエロ】 太腿の写真店すらなくなってしまう「エロ」と「苦情」の限界
 土曜日のエロです。一週間あると様々あって、ネタには困らない。本当に、過剰反応しかしない日本の社会位は、なかなか面白いことが少なくないのである。
  日本がなぜこんなに「おかしな国」になってしまったか。もちろん、政治が行けないわけなのであるが、それは、自民党が悪いとか、民主党がダメとか、そういう話ではなく考えると、国民が「権利意識」に偏っているか「義務と奉仕」に偏っているかという形になる。現在の日本は「権利意識」に極端に偏っている。権利意識に偏っている人々は、自分の権利だけをさまざまな言いうだけで、他社のことを考えない。そのために、自分の権利だけでものを言い、そこに言いすぎだというと「いうことが悪いのか」「言論の自由」というような形になる。一方、「義務と奉公」が強すぎれば、集団主義に傾き、その中に入っていなければ市民権もなくなるようになってしまう。自分の自由度がなくなり、過ごしづらくなるのである。このように考えた場合、本来は「権利と義務」の十分なバランスが必要であり、各項目ごとに、様々基準の違いがある。「偏ること」が問題であり、権利に偏ろうと、義務に偏ろうと、あまりよいことにはならないのである。
  さて、今回の問題は、「お客様」という人がいて、その人が「ご意見」を言ったことによって写真展が中止になったという案件である。
  当然に、その案件に関して言えば、一つの基準は「法律」であると思われる。要するに「わいせつ物」であるかどうかである。法律違反であるということになれば、それは苦情が出てもおかしくはない。では、その写真が「太腿だけ」であった場合はどうなのであろうか。
  もちろんそこに性的な興奮を得る人もいるかもしれない。しかし、逆に「太腿を見せたい人」もいるかもしれないのである。そのように考えた場合、見ている人が深いというような「一人の権利」があるとした場合、その権利を優先するのか、あるいは、見たい人、そして見せたい人という人の「複数の人の権利」を優先するのかということになる。
ふともも写真展中止「お客様からのご意見を受け」
 太ももは、芸術か否か-。百貨店「池袋マルイ」(東京都豊島区)は3日までに、今月9日から開催予定だった写真展「ふともも写真の世界展」の開催中止を発表した。同イベントについては、ネット上などで「(被写体が)未成年者を思わせる」「デパートで開催するもの?」など批判の声が上がっていた。丸井グループ広報は3日、日刊スポーツの取材に「お客様からのご意見を受け、このような結果になりました」と中止理由を説明した。
 写真展は、女子学生の制服や水着を思わせる衣装を身に着けた女性の太ももだけの写真約500点で構成。主催の企画会社BACON(ベーコン)の担当者によると、これまで名古屋や大阪などで計7回開催された実績があるという。16年9月には「渋谷マルイ」でも開催されていた。
 同担当者は展示予定だった写真について「もちろん未成年のモデルはおらず、あくまでアートとしての扱い。これまでも苦情などを受けたことはなかったので困惑している」と述べた。今後は未定としているが、同社のツイッターアカウントには次の開催を期待する声も届いているという。
 
2018年03月04日 08時34分 日刊スポーツ
https://news.nifty.com/article/domestic/society/12168-03041057/
 さて、そもそも太腿の写真は。エロなのかということから考える。「エロ」である場合は、当然に、ミニスカートをはいて太腿を出している人は、「わいせつ物陳列罪」ということになる。このほかにも「うなじ」や「二の腕」などさまざまなところがあるのだが、それらもすべて「性的な関心がある」ということで問題になるのかもしれない。
  実際に、女性たちは、自分たちがそれが魅力であることを知っているから、ミニスカートを吐いているというのは、女性は、当然に自信が性的な魅力を出すことになる。当然に女性はそれを武器として使用しているし、男性は、その女性の魅力に反応するのである。しかし、その魅力に対して「不特定多数」の人に「性的な興奮だけで見られること」を良しとしない状況がある。それ以上に「そのように見ている人がいる現場を見る」ことが、嫌な人がることは事実であろう。一方で、そのように見る人に対して「面白がって見る女性」もいる。
  ではその差は何であろうか。単純に、「見る人」に余裕があるかどうかということになる。それは「自分に自信がある女性」は当然に問題がない。自身がある人は、「権利意識」にさいなまれることはないからだ、つまり、自分に自信がある人は社会的に確立したところがあり、その社会的な自分の中の確固たる自信の上に、自分の実力がある。そのように考えた場合、自信のある女性は、その人の社会的地位とかそういうことは別にして、その人の心の中に余裕があるかどうかであって、その余裕がなければ、権利意識に傾く。権利意識とはそういうもので「自分が」と異様なことが強ければそうなる。一方で、「自分に自信がある人」「自分の余裕がある人」は、その余裕の文、他人のことを考えることができるので、当然に、全体のことや他人のことを考えることができる。
  さて、その中において、これら「太腿の写真」のような「限界事例」が来ると、その人の内容が見て取れるのである。
  まさに、「人間リトマス試験紙」というような感じになるのではないか。この件は「エロ」という余地は「エロを媒介にした他者を考えられる人がそれだけ少なくなった」ということなのかもしれない。

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【土曜日のエロ】 「寒いのに露出しすぎ」といわれても反論をする「ファッション性」から見る「エロのファッション性」

【土曜日のエロ】 「寒いのに露出しすぎ」といわれても反論をする「ファッション性」から見る「エロのファッション性」
 土曜日のエロの日である。まあ、なんというか、毎週このブログを書くことを非常に楽しみにしているものであり、その時のネタをどのように選ぶのかということが一つの大きな問題になっている。
  さて、今日のエロは女性の露出についてである。女性の露出は「どこまでがファッション」で「どこからがエロ」なのか、ということはかなり大きな問題になる。そもそも、ヌードという状態を「芸術」または「ファッション」と位置付ける人も少なくないわけであり、またちょっと露出しているだけでも「エロ」を感じる人もいる。ここで出す話ではないかもしれないが、イスラム教のかなり戒律に厳しいところでは、女性の体のラインが、服の上から見えれば当然のこと、髪が見えたりあるは目以外の場所の肌が見えるだけで「エロ」を感じるということになっている。エロを感じるので、当然に宗教の悟りに邪魔になる。そこで宗教的に戒律を守って、女性は肌と紙を隠さなければならないし、また、男性と女性が同じ部屋に二人でいることを禁じている。これは、エレベーターの中なども入るということから、かなり厳格な内容になっているのである。
  このように考えた場合「何がエロで何がエロくないのか」ということにかんして考えてしまうと、なかなか前に進まなくなる。究極的に「エロ」とは「エロを感じるかどうかの社会的通念とそれに基づく主観によって決められる」と考えた方がよく、本人がエロくないと思てちても、見る側の主観によってエロかエロでないかが勝手に評価されてしまうということになるのである。これが「イスラム教」などの場合は、ある程度社会通念になっているし、また、日本の場合は「性器を露出した場合」というように法律や判例で出ているので、ある程度客観的にできることがあるが、「官能表現」特に「社会通念上性的な興奮を与えると判断される」となると、「だれが判断するのか」「これくらいで性的な興奮を感じるのか」など、そもそも「社会通念とは何か」というように、様々に物事が出てきてしまい、そのために、なにが問題で何が問題ではないのか、客観的に知ることはできないということになるのである。
  私は何度もこの連載だけではなく、ブログ全体で言っているのであるが、「主観によって処分をするかしないかということを判断することの危険性」を訴えているのである。つまり、「主観が食い違った場合の判断をどのようにするのか」ということが全く不明であり、そのことが見えていないということになってしまうのである。
  その「朱間の食い違いが現れた」事例が今回の記事になるのではないだろうか。
「寒いのに露出しすぎ」と嘲笑された愛され女優の反論がまさに正論
 気候にそぐわない服装で公の場に登場したことで難癖をつけられた女優のジェニファー・ローレンスが反論。「確かに」と頷きたくなる彼女の意見とは?
寒空の下、露出度高め
 最高気温が10℃を下まわるイギリス・ロンドンの寒空の下で行われた新作映画『レッド・スパロー』のフォトコールに、露出度の高いドレスで登場したジェニファー。このことがキッカケで、世間の一部の人々から「寒いのに露出しすぎ」と嘲笑されてしまった。
 ほかの男性共演者や監督らがニットやウールのコートなどを着込んで寒さをしのぐなか、ジェニファーは、有名ブランド、ヴェルサーチ(Versace)の胸元がざっくりと開き、深いスリットから脚が露わになったセクシーな黒いドレスを着用。
 同イベントが風が吹きすさぶホテルの屋上で行われたことを考えると、確かにものすごく寒そう…。
  ジェニファーの反論
 普段はあまりSNS上で発言しない彼女だが、世間からの批判に相当立腹したのか、フェイスブックを通じてこの件に反論。
 ジェニファーは、彼女の服装のチョイスを嘲笑する人たちに対し、彼女らしいユーモアも交えつつ、こんな言葉を返した。
 ワオ、この『ジェニファー・ローレンス、寒い中露出しすぎ議論』に関しては、どこから始めたらいいかもわからないくらいね。この議論は完全に馬鹿げているし、気分を害されたわ。
 あのヴェルサーチのドレスは素晴らしい1着だった。あんなゴージャスなドレスを、私がコートやスカーフなんかで隠すと思う? 
 私が屋外にいたのはほんの5分くらい。でも、あのドレスのためだったら雪の中に立ったっていい。だって私はファッションを愛しているし、あれは私自身の選択だったんだから。
 さらにジェニファーは、自分が何を着るかということよりも、もっと話題にすべきことがあるとしながら、こう呼びかけ。
 こんな議論は性差別的だわ。馬鹿げてるし、フェミニズムとは呼べない。
 私の服装のチョイスについても然り、誰かの言動や行動に、いちいち波風を立てて、さして問題ではないことを大袈裟に騒ぎ立てることは、私たちの社会にとって進歩とは呼べないはず。こんな議論は、本当に話し合わなくてはいけない問題に集中する邪魔になってる。
 しっかりして、みんな。私が着ている物はすべて、自分の意思で選んでるの。寒かろうとなんだろうと、全部、私自身の選択よ! 
 フロントロウが確認したところ、記念撮影の合間に確かに寒そうな仕草を見せていたジェニファー。それでも、上着を羽織らず、お気に入りのドレスでカメラ前に立ち続けた彼女のオシャレ魂には感服。
フロントロウ 20180222
http://front-row.jp/_ct/17149279
 「露出が多い」ということと「エロ」ということは必ずしも一致するものではない。単純に女性のビキニの水着がエロいのかといわれれば、ミスコンテストのすべてがエロくなってしまうことになる。そのように考えれば、「自分の意思かどうか」ということと、「それをもともと性的興奮を得る目的でそのような形にしたかどうか」ということが大きな問題になるのである。
  さて、上記の記事、実際に、記事を見ていただければわかる通り、確かに周囲の男性はコートなどを羽織っているにもかかわらず、ジェニファー自身は露出の多い服を着ている。逆に、周囲が厚着をしているだけに、その露出の多い服は目立つし、また、その服のファンしょん性が光るというもので絵あることは間違いがない。
  しかし、実際のところ「寒そう」に見えることも事実であろう。
  さて、この服装に対sて「寒いのに露出が多すぎる」と批判が出たそうだ。まあ、私個人としては「美しい女性が露出が多いというのは歓迎すべきこと」であるし、また、現在でもそうであるが「若い」という意味であれば、小学生など「子供は風の子」などといって、真冬に半ズボンをはかせているような学校が存在する。小学生ならば半ズボンやスカートというような露出が多くて、元気がいいと判断され、大人の女性になったらファッションで露出の多い服を着ていると、おかしいといわれるのは、何とも不自然な話ではないか。
  このように考えると、多くの人が「彼女は美しいから露出の多い服を着て見せつけているに違いない」という嫉妬の感情が見え隠れする。当然に、これらの「主観的判断」の多くの問題は「嫉妬」であると断言してかまわないであろう。特に「自分の意思で服を選んでいる場合」に対して、「批判している人はどうしても露出の多い服を着ることができないような体型であるか、または、体型を維持していても、寒い中で露出の多い服を着て出てゆくだけの自分のファッションセンスに自身がない」ということで、彼女に嫉妬の目が向けられているだけにすぎないのではないか。つまり「あの娘だけ目立って悔しい」というような、嫉妬の感情になっているのではないか。
  何度も言うが、私は男性であり、同時に、女性が冬であっても露出の多い服を着ることは大賛成で歓迎すべきであると思っている。それを妨害するものに「抵抗勢力」というような感覚を持つのはおかしなことではない。
  もちろん、第三者に「強制的に制服のように露出の多い服を着せられている」という状態とは違う。これも「ファッション」の一つであるということになる。
  「エロ」とは、このように「本人が芸術またはファッションと思っている状態」を第三社が勝手にそこに性的興奮を受けて作り出してしまうものではないのか。
  そのように思うのである。

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【土曜日のエロ】 レイプ犯の性器切断というインド女性と南アジアの習慣

【土曜日のエロ】 レイプ犯の性器切断というインド女性と南アジアの習慣
 土曜日のエロである。まあ、エロというと、さまざまに言われることになるのであるが、そのエロを考える際に、前回(先週)は、「エロと婚姻」ということを考えてみた。まあ、はっきり言って「婚姻」すれば、「エロ」が正当化される。このエロの正当化を考えて、婚姻を偽装するということを中国の14歳の女性が行った三重婚で親が逮捕されるというようなことになったのである。
  まあ、基本的に「婚姻」しても「エロ」をしたいという損新庄はわからないでもない。当然に「ハーレム」という外来語があるが、日本にも大奥というようなものや妾というような言葉がある通り、男性にとって、多くの女性を侍らせるというのは、ある意味で男性の夢なのであろうと思う。イスラム教などにおいては、「四人まで妻を持ってよい」というようなところが少なくない。そのために、「妻」を多く持つころは、ある意味で権力と金銭の所長でもあると同時に、女性がさまざまな意味で、保護されているというような状況になってくる。ある意味で、「女性が保護される弱い立場」というのと、「婚姻」というのは、観念上リンクしているのであろう。
  その意味で「男女雇用機会均等法」などから始まり、男女差別が徐々に「女性の方が逆差別的に強くなってきている」というような状況の場合、徐々に婚姻の率が少なくなってきていて、そのために少子化が進行しているのではないか。そのような観点から考えると、「少子化」が進んでいる国において、共通しているのは女性の社会進出であり同時に、女性の社会的な地位の向上である。そして、そのような場合は、女性が夜に遊べる場所が多く、「健全」というか「エロくない」、というよりも「女性好みのエロさ」が味わえるナイトスポットが増えるということになる。
  この定義に合わせて考えてみれば、例えば、日本の場合、少子化が進んでいるが、同時に、女性の社会進出が進んでおり、そのことから「ホストクラブ」のような女性のスポットが増えてゆく。もちろん、ホストクラブは「女性が男性に対して金を払う場所」であるのと同時に、「エロい雰囲気による疑似恋愛はあっても、それ以上の関係は基本的には少ない」のであり「女性が買う、男性が売る売春クラブ」とは異なるのである。今のところ「女性用のソープランド」の良なところはないので、なおさら、「セックスレス」が深まり、少子化が進むのである。
  さて、では「女性が社会進出をしない社会」ではどのようになっているのであろうか。
襲撃男の性器切断=23歳女性が反撃-インド
 【ニューデリーAFP=時事】インド警察によると、南部ケララ州の州都トリバンドラムで19日夜、23歳の女子学生が自宅で自称宗教指導者の男(54)に乱暴されそうになり、男の性器をナイフで切り取って反撃した。
 男は病院に運ばれ、報道によれば緊急治療を受けた。容体は安定しているという。
 女性は両親と一緒に住んでいた。男は儀式を執り行うためにしばしば家に招かれ、泊まっていた。女性は、男から数年間にわたって繰り返し暴行を受けたと訴えている。男を信頼しきっていた両親は乱暴に気付かなかったという。
 
時事通信社(2017/05/20-23:09)
http://www.jiji.com/jc/article?k=2017052000668&g=int
 記事が短めなので、なかなか面白い。というのは、雉から様々なことを想像してしまうのである。もちろん「妄想」の域を出ないのであるが、その妄想の域を出ない状況がなかなか面白いのではないか。
  さて、まず女性が保護される存在である場合、つまりインドの場合は「カースト」ということがあるし、イスラムの場合は女性は戒律によって社会への進出、戒律が厳しいところでは、マララさんの事件でも明らかなように女性が教育を受けること自体が間違いというような状況になっている。
  そのような状況において、女性のささやかな抵抗は、実は「性器の切り取り」なのである。
  実際に、社会的な地位が存在し無い情勢において、女性は社会に対して何らかのことを訴える機能は存在し無い。基本的に「社会的な地位」がないことは、基本的には「社会に口がない」ということであるから訴えることはできないということになる。その場合、女性は「されるがまま」なのか、といえば必ずしもそうではない。基本的に、女性は「社会」ではないところでその復讐をすることができる。
  例えば、男尊女卑の考え方があった日本の江戸時代は「三行半」という制度と、同時に、「駆け込み寺」という制度があった。その制度が、まあ、日本全体でどれくらい広まっていたかということは別にしても、そのような制度が少なくとも将軍の威光によって制度化されているということはなかなか面白い。要するに、社会制度を乱すことはできないが、逆に社会制度を乱さない範囲で例外的なことを認めるということにつながるのである。
  さて、では東南アジアから南アジアに関しては、例えば「タイ」「ミャンマー」「マレーシアの一部」「スリランカ」「インド」などにおいては「相手の性器を切り取る」ということがみとめられている。現在で言えば、「傷害罪」であるが、しかし、基本的には「社会的な地位がない」ので「プライベートな空間での復讐を認める」等いうことになっている。
  タイに美容整形があるが、実は「男性性器の復元手術」の技術である。同時にそのまま情勢になってしまう人も多いので、ゲイが多いという「歴史」がある。もちろん現代につながるものではあるが、そのような「切ってしまう文化」があることが原因の一つである。
  さて、インドの話。その文化が当然にインドの中にもあり、「家庭内では女性上位」「社会では男性上位」というような状況になっている。家という感覚が存在しているから、そのようなことがある。女性の社会進出が広まると、その家とかそういう「集団単位」でのつながりが希薄になり、そのために、国家観が無くなってしまったり、あるいは、少子化に対して鈍感になってしまったりする。一方、インドの場合は「カースト」というように「階級がある」それは血筋で決まっていることから、当然に、家という集団が一つの単位となり、その家の中では女性が上位になる。そのために、家の中で性器を斬られてしまっても文句が言えない。
  そのために、そのような文化の中で、「外部の人間が家の中に入ってきて暴行をした場合」というのが今回の者であるが「女性の処罰」に関しては書かれていないのが特徴ではないか。
  男尊女卑というようなことを言われていても、文化を調べればそのようなことはいくらでもある。まあ、エロも、男尊女卑の世界では、女性が支配していたということになるのではないか。

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【GWのエロ】風増営業が減少しているという「日本人の風習や遊び」の変化

【GWのエロ】風増営業が減少しているという「日本人の風習や遊び」の変化
 さて、せっかくゴールデンウィークなのだから、少しいつもの政治けいっざいとは違う話題にしてみようと思う。昨年であったか、この連休の特別の連載をすべて「エロ」でまとめたら、かなり好評であったので、今回は本日と明日の二日間だけ「エロ」に特化して書いてみようと思う。
  さて、このように特別に書くときには、いつも入れるのであるが、基本的に「エロ」は好きである。基本t系に「興味」とか「いやらしい」という点で好きな部分がある。しかし、「エロ」をめぐり、人間がさまざまなことをしたり、あるいは隠したりというようなプロセスや知恵、または正当化ということに関して、非常に面白く感じるのである。
  そもそも「エロ」ということ、つまり「性的な興味」がなければ、子供は生まれないわけであり、その子供がないということは「種として滅びてしまう」ということなのである。そのために、「人間が人間として種を残すためには、基本的にエロいことをしなければならない」ということになる。一方で、人間は「誰とでもエロいことをしてよい」というものではない。つまり、動物とか種の保存ということであれば、だれとでも手当たり次第に「種を残す」ことをすればよいのであるが、人間は、基本的には「社会性のある動物」であるために「社会としての秩序」を守るために、つまりは、社会性を維持するために「理性」が働き、そのことによって「誰とでも手当たり次第」にエロいことをしてよいというようなことにはならないのである。
  さて、このような状況の中において、「男性」は、いや「女性」もかもしれないが、ある意味で、動物の部分もあって「性的な興味」や「エロいことをして種を残す」ということを考え、少なくとも「誰とでもエロいことをしたい」という欲求がある。これは、仏教の言う108の煩悩のうちの「性欲」であり、これはある意味で捨てきれない宿命のようなものであろう。一方で、社会性を維持し、ある意味で崇高な目的をした理、あるいは人間の社会の中で、何らかの徳を積もうとしている。その行為は、そのまま「権力欲」などにつながり108の煩悩のほかの欲などに直結するということになるのである。
  まあ、平たく言えば「人間の動物の部分」と「人間の理性的部分」の境目をどのように調整つけるか、ということが最大の問題であり、その内容の「調整の付け方」がさまざまでなかなか面白いのである。
風俗営業、「性」を除けば減少の一途 年寄り増えて衰退に拍車
 風俗産業が衰退している。いわゆる風俗営業法に関連した営業は、いくつかの業種を除いて、減少の一途をたどっているのだ。
 風俗営業には大きく分けて、接待飲食等営業、遊技場営業、性風俗関連特殊営業の3種類がある。
   バー・キャバレーなど5年で4000店消える
 警察庁生活安全局保安課がまとめた「2016年における風俗環境の現状と風俗関係事犯の取締り状況等について」によると、接待飲食等営業は2012年には6万8558店だったのが、2016年には6万4599店と約4000店が消えた(以下、数字はいずれも年末時点)。接待飲食等営業は、いわゆる居酒屋から始まり、バー、キャバレー、クラブ、キャバクラ、料理屋、カフェなど飲食を伴う店のほとんどが含まれる。
 飲食関係の雑誌記者は、「飲食業は、景気の影響を受けやすい業種の一つ。その上、高齢化社会になったことで、客の年齢層が上がり、外食をしなくなった。キャバクラやクラブも企業の社用による利用が減少し、まさしく斜陽業種になっている」と指摘する。
 次は遊技場営業だが、中心はパチンコ店と雀荘、ゲームセンターになる。こちらも接待飲食等営業と同様だ。パチンコ店は2012年の1万2149店から2016年には1万986店に1000店以上がなくなった。雀荘は1万1450店から9176店に2000店以上が、そしてゲームセンターは6181店から4542店と1600店超が消えた。
 ギャンブル雑誌の記者は、「雀荘はゲームの影響がある。若者は麻雀よりもゲーム。しかし、もっとも大きな要因は、かつて雀荘の中心だった層が定年に達したことではないか。パチンコは若者層がギャンブルをしないという一面もあるが、パチンコとゲームセンターには共通の傾向がある」という。
 実は、パチンコ店もゲームセンターも減少しているものの、1店の規模が大型化している。例えば、パチンコ店では1店当たりの台数が2012年378.0台から2016年には411.9台に増加している。遊戯台が501-1000台のパチンコ店は2012年には2355店(19.4%)だったのが、2016年には2585店(23.5%)に増加、1001台以上の店も190店(1.6%)から287店(2.6%)に増加している。ゲームセンターも1店舗当たりの台数は72.2台から79.7台に増加、101台以上を設置する店が占める割合は28.3%から30.6%に増加している。
 つまり、「パチンコ店もゲームセンターも、顧客の減少を中小店の淘汰で、1店が大型化することで乗り切っている」(同)というのだ。
   急激に伸びる有料アダルトサイト
 では、性風俗関連特殊営業はどうか。こちらは2012年の3万133件から2016年の3万1892件に1700件超の増加となっている。しかし、これにも大きな特徴がある。性風俗関連には、店舗型、無店舗型、映像送信型、電話異性紹介と4つのカテゴリーがあるが、増加しているのは、無店舗型、映像送信型だ。
 店舗型には、ソープランド、店舗型ファッションヘルス、モーテル・ラブホテル、アダルトショップなどが含まれるが、そのすべてが減少している。一方、無店舗型には派遣型ファッションヘルスとアダルトビデオ等の通信販売があるが、派遣型ファッションヘルスは2012年の1万8119件から2016年の1万9856件に1700件超(9.6%)増加、アダルトビデオ等の通信販売は1138件から1267件に11.3%増加している。
 だが、これよりも大きい伸び率で増加しているのは、映像送信型で1879件から2536件に35.0%も増加している。映像送信型とは、インターネットの有料アダルトサイトを指すのだが、これが急速に増加しているわけだ。
 しかし、2017年初めに、無修正アダルト動画No.1を掲げる「カリビアンコム」という大手アダルトサイトが無修正の猥褻動画を配信したとして、AV製作会社の社長ら6人がわいせつ電磁的記録等送信頒布の疑いで警視庁に逮捕された。「この件は、アダルトサイト、特に無修正アダルトサイトに強い警戒感を与えた。無修正サイトは、徐々に減少していくだろう」(アダルト雑誌記者)と見られている。
 意見を聞いた記者の多くは、少子高齢化や人口減少という要因も挙げながら、「良かれ悪しかれ、風俗に元気がないということは、人間に活力がないということ。景気や賃金の問題があるのだろうが、生活がどんどん質素にこじんまりしていく傾向が強まっているような気がしてならない」と話していた。
2017年4月2日 16時0分 J-CASTニュース
http://news.livedoor.com/article/detail/12882005/
 さて、ある意味で「本能」と「理性」の間の部分が「風俗営業」というものではないか。もちろん、上記の記事の中にあるように「風俗営業」といっても様々な種類がある。まずは接待用の飲食店、上記によれば、いわゆる居酒屋から始まり、バー、キャバレー、クラブ、キャバクラ、料理屋、カフェなど飲食を伴う店のほとんどが含まれる<上記より抜粋>とある。もちろん、チェーン店の居酒屋が「風俗営業なのか」といわれるとなかなか難し所ではあるがしかし、「小料理屋」などは、何となく「接待用」ということもあるし「なじみの店」というような部分もある。もちろん「バー」「キャバレー」「クラブ」「キャバクラ」というような「女性が接待をする店」というようになれば、風俗の色が強くなる。特に女性が話し相手になるような場合は、「疑似恋愛」に近くなるのかもしれない。
  一方エロとは基本的に関係のないものもある。パチンコ屋やマージャン店、いわゆる雀荘やゲームセンターなどは、女性などは基本的に関係がない。これ等は「賭博」的な部分であり、「エロ」とは関係がないのである。
  もう一つは、「完全な性風俗」である。まあ「ソープランド」をはじめとした店舗型ファッションヘルス、モーテル・ラブホテル、アダルトショップなど店舗型の「性風俗」の店ということになる。
  一方、無店舗型となると、派遣型ファッションヘルスなどがあるということになr。
  さて、この「女性系の風俗営業」「店舗型風俗営業」が減っているという。
  警察庁生活安全局保安課がまとめた「2016年における風俗環境の現状と風俗関係事犯の取締り状況等について」によると、接待飲食等営業は2012年には6万8558店だったのが、2016年には6万4599店と約4000店が消えた(以下、数字はいずれも年末時点)。<上記より抜粋>ということになる。
  まあ、「女性系」である場合は「疑似恋愛」であるので「疑似」つまり「ヴァーチャルは、店に行って多額の金を払うよりも、もっと手軽に行う」ということと、「店に行くとによって様々な人にばれる」ということを避けるために「インターネット」によるものが増えてきている。つまり、「同じ疑似」であるならば「手軽」な方を選ぶという傾向である。
  これ等は、ある意味で、「手軽」とか「簡単」というだけではなく、ある意味で「人間としてのコミュニケーション力」が減ってきてるのではないかという気がしてならない。他のことを考え併せれば、つまり、結婚の率の減少などを考えると、基本的には「種の保存という本能」でも「社会性」でもなく、第三の「脳内満足」で足りてしまうという人が増えてきたということになるのではないか。そのことは、「社会」そのものも基本的におかしくなってしまう問うことになり、またコミュニケーション力の不足は、そのまま社会や海外競争力の減退を示すことになるのである。
  「良かれ悪しかれ、風俗に元気がないということは、人間に活力がないということ。景気や賃金の問題があるのだろうが、生活がどんどん質素にこじんまりしていく傾向が強まっているような気がしてならない」<上記より抜粋>
  つまり、移動手段がまだ杜甫しかなかった原始時代に戻ったような、そのような印象があるんである。単純に「風俗営業が少なくなった」ということだけで、そのようなことを言ってはいけないのであるが、ある意味で、「女性優位」や「男性の草食化」など、男性が「能動的に動く場面」が少なくなってしまうと、その分で、徐々に社会がおかしくなってくるのではないかという気がしてならないのである。
  まあ、杞憂であってほしいと思うのは、私だけなのかもしれない。

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【土曜日のエロ】「最も美しいおっぱい」という「美おっぱいコンテスト2016」が開催されるという情報に関して

【土曜日のエロ】「最も美しいおっぱい」という「美おっぱいコンテスト2016」が開催されるという情報に関して
 毎週楽しみな、土曜日のエロである。この文章にはタブーなくエロを書こうと思っている。実際に昔は政治や経済、それに国際関係を書いていたのであり、かなり固い内容の話をしていた。実際に、そのころの人々からすれば「エロ」を書くということ自体、信じられないというような人々ばかりである。s3いかし、あの当時から政治家には「下半身スキャンダル」が目立つようになる。正直な話し、「建前の話」ばかりをしていると、いつの間にか「本音」の部分が消えてしまうということになってしまうのである。
  また、中国や韓国の事情を書いたりもしている。しかし、その中にも当然に、「ハニートラップ」など、女性にまつわる話は少なくない。そのような「本能」の部分で話がすすむので、いつのまにか「本音」が出てしまう。それが「建前」の社会に秘密にしなければならないというようなことになり、いつの間にか火事が大きくなってしまうということになる。まさに、「秘め事」が「秘め事」であるがゆえに、大きな問題になるのである。
  要するに、「固い話」をすればするほど、実は私の周辺には「エロ」ネタが増えてくるという構図になってくるのだ。
  まあ、実際はそのようなものであり、人間というのは「表と裏」どちらかに偏るとおかしくなってしまう。そのために、必ずどこかで「帳尻を合わせる」ものなのである。この状況の中において、「エロ」を語るのは、逆に「表」の部分を「深く知る」道具であったのだ。もちろん、当時は、そのような「下半身スキャンダル」を、新聞や雑誌に書いたりはしなかった。「エロネタ」は、「表を深く知る」道具であり、当然に「裏」を書いて大騒ぎを起こすほど、下衆な文章は書かなかったものである。今のマスコミは、その辺のところの見境がない。はっきり言って、質が落ちたと思う。政治家は「知られてはいけないものを知られている」と思えば、それだけ警戒する。そしてそれを長く書かなければ、「信用」が生まれるのである。その信用で「表舞台の真相」を教えてくれるようになる。残念な柄、今のマスコミにはそのような「技」がないので、結局のところ本来最も重要な「表舞台の真相」も書くことができなくなってしまうのだ。
  さて、話はガラッと変わって、というか、こんなことを欠く気はなかったのに、いつの間にか流れでこのようなことを書いてしまった。
  さて、男性は「女性」のどこに魅力を感じるのであろうか。最近、同性愛者も多くなってきたのでよくわからないが、少なくとも、少し古い人間たちは「男は外に出れば七人の敵がいる」などといわれ、その上で「外で戦う」ことに対する「癒し」を女性に求めたのではないか。その「癒し」が、政治家など、「建前の部分」が強く出さなければならない人はより強い「癒し」が必要になる。芸能人も同じで、そのために年初から芸能人や政治家の「ゲス不倫」が多く報道されているような気がする。
  まあ、その「癒し」の象徴は「丸み」である。少し付き合いにくい人のことを「とがっている」と表現するが、逆に、やさしく癒される人に関していえば「丸くなった」というような感じになる。
  そして、その女性の「癒し」そして「丸み」の、最も強調される部分は「胸」要するに「おっぱい」と「尻」つまり「ヒップ」というような感じになるのだ。実際に「性器」に関しては、実は「隠している」のであるから、そのものが男性から見て「癒し」や「セックスアピール」になることはない。単純に考えて、「外見から判断できるところ」が女性の魅力になるのは当然である。
  その上で、その「おっぱい」の美しさを競う「コンテスト」があるというのである。
“最も美しいおっぱい”に注目高まる マギー&ハイファッション誌が審査で日本一を決定
 【美おっぱいコンテスト2016/モデルプレス=6月5日】日本一の美しいおっぱいを持った女性を決定する「美おっぱいコンテスト2016」の開催が発表。特別審査員にはモデルのマギー、世界的ファッションプロデューサー・ニコラ・フォルミケッティ氏監修のハイファッション誌「FREE MAGAZINE」などが務めることも決定した。ネット上では「これは気になる」「すごい審査」と早くも注目度が高まっている。
マギー「毎晩の日課」“美容装備”姿に反響「パック中すら美しい」
◆理想の“おっぱい”に格式ある「賞」を
 同コンテストは、女性ならではの美しいおっぱいを追求し、理想の“おっぱい”に格式ある「賞」を与え、名誉と名声を授与したいという願いのもと誕生した大会。アートに、クリエイティブに、ファッショナブルに、一言では言い表せない“最も美しいおっぱい”を目指して競い合う。
◆一次の顔審査は一切なし
 18歳以上(高校生不可)の女性を対象にし、一次審査は“おっぱい画像”(水着写真など)のみで審査が行われ、顔審査は一切行われない。
 東京・大阪・福岡の3都市で行われる2次審査、東京での3次審査を経て、9月末~10月初旬に行われるファイナルイベントにてグランプリが決定。なおファイナリスト&受賞者は「FREEMAGAZINE」への出演権を得ることができ、さらに上位入賞者には豪華賞品も贈られる。
 審査員はほか、一流カメラマン・ヘアメイク・スタイリスト、ランジェリーブランド「PEACH JOHN」スタッフが参加。6月4日より応募がスタート。
◆日本一の“美おっぱい”に期待高まる
 コンテスト開催が発表になると
 「美おっぱい、すごい気になる」
 「顔審査なしでおっぱいだけの審査ってすごい」
 「女子視点の綺麗なおっぱい、レベル高そうだけど興味ある」
など、早くも話題を呼んでいる。(modelpress編集部)
モデルプレス 20160606
http://mdpr.jp/news/detail/1589524
 さて、このコンテスト、まだあったわけではない。
  実際に、6月4日から募集しているという。しかし「気になる」のである。
  そもそも「美しいおっぱい」とは一体何なのか、どのようなものが「美しい」のか、ということに関していえば、かなり大きな問題がある。そもそも「人それぞれの好みと主観」があり、その「主観」が支配する中において「誰もが納得するコンテスト」を行うというのであるからなかなか大変なものであろう。
  さて、そもそも胸の形に関していえば、古来、日本の場合女性の胸の形は「お椀型」が良いとされている。まあ、説明するまでもないが、「お椀を伏せたような形」である。基本的に横から見て「三角形」ではなく「半円型」が良いとされている。ちなみに、エロく書けば、この「お椀型」がもっとも感度が良いとされているそうだ。しかし、女性の乳房の神経において、形によってそれほど差があるとは思えない。要するに、「お椀型」の方が、男性の手のひらを丸めた形に最もフィットするということになっている。そのために、「お椀型」がもっとも「感度が良い」とされており、女性の胸の名kたちの理想とされている。
  ということは「お椀型」だけではなく「大きさ」も重要ということになる。小さすぎれば手にフィットしなくなるし、大きすぎれば手のひらから余るということになる。要するに、日本の場合、女性の胸に関していえば「手で包み込む」ということを前提にした言われ方が最も強かった。
  しかし、ここまではかなりエロかったが、実際に「女性が女性を判断する」ようになってくる。古来の日本、とは当然に「江戸時代やそれ以前」ということであり、女性に関していえばブラジャーという下着は存在しない時代の価値観である。「古い」と思う人もいるかもしれないので、あえいて言うと、「小股の切れ上がったいい女」という言い方があるが、その言い方は江戸時代、特に元禄時代の女性の表現であり、現在ではどのような女性を刺すかわからないが、それでも「セクシャルアピールのある女性」という意味で、その言葉が使われることは少なくない。要するに、「意味は分からない」けれども「江戸時代の町人文化的な単語」を使うことは少なくないのである。例えば「年増女」という。今では40代であっても「アラフォー」などといっているが、元禄時代は24歳、要するに「年女二回目」を「年女を重ねた」ということで「年増女」といっていたのである。現在の熟女などとはかけ離れたかなり若い世代が「年増」といわれているのであり、今、私のようなおっさんが24歳の女性を捕まえて「年増女」などといえば、たぶん、平手打ちに三回では済まないであろう。しかし、その年増が、年齢が変わって今でも使われているのである。
  さて胸に関しても「時代」が変わって「女性が女性を判断する」時代になる。当然に、「女性の目から見た美しいおっぱい」というのが非常に大きなテーマになる。しかし、この女性から見た之「女性」というのもさまざまな種類がある。子供がいる場合、それも乳飲み子がいる場合、とキャリアウーマンで男勝りの仕事をしている場合ではまたく価値観が異なる。もちろん、夜の仕事をしている女性などは、全く違う話になるであろう。
  また大きさに関しても「女性は女性の胸をもまない」という前提で考えれば、「大きいほうが良い」というような感じになる。女性が「かわいい子」というのと男性が「かわいい」というのが根本的に異なるように、女性が見て美しいと思うおっぱいと男性が見て美しいと思うおっぱいは全く異なるのである。
  その上「おっぱい」は普通「見せる」ものではない。そこをどのように審査するのであろうか。
  まさにこの記事に関しては「興味が尽きない」のである。まあ、「コンテスト」で「結果が出たわけでもない」のに、これだけ語れるのであるから、私自身がいかに「エロ」かがよくわかる。まあ、それだけ期待しているし、またネットでも「期待が高い」ということだけは間違いがないようである。

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宇田川版日本の歴史と日本の神々の「主人公」 第5回 庶民の講談が作り出した「水戸黄門」こそ庶民の望む神の姿

宇田川版日本の歴史と日本の神々の「主人公」
第5回 庶民の講談が作り出した「水戸黄門」こそ庶民の望む神の姿
 この連載も第5回目くらいになってくると、なんとなく形が決まってくるものである。
  初めに卑弥呼を行って「日本のシャーマン」の在り方について、
  二回目に源頼朝で「武士政治」の根本は天皇の権威を利用したものであったということ。
  第3回で織田信長を通して「日本の抜本的改革者」の庶民の目
  、そして、4回目で菅原道真で、「怨霊となった場合の対処法」を考えてみた。
  さて、第5回目は。
  5回目を取り上げるのは、「水戸光圀」である。
  水戸光圀といってもあまりピンとこない歴史をあまり知らない人に関しては、あえて「水戸黄門」といえば、少し前の時代劇ファンならだれでも知っているヒーローである。
  さて、今回取り上げたいのは、「実像」としての「徳川光圀」ではなく、庶民のヒーローの「水戸黄門諸国漫遊記」の「水戸黄門」を取り上げたい。
  要するに、今回は「実在の人物が架空の人物として庶民のヒーローになる・・・・・・・・・。
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宇田川版日本の歴史と日本の神々の「主人公」  第4回 菅原道真と日本の怨霊とその怨霊が神になるまで

宇田川版日本の歴史と日本の神々の「主人公」
第4回 菅原道真と日本の怨霊とその怨霊が神になるまで
 歴史上の人物を違った見方で見て、それが日本の神々の意識にどのような影響を与えたかということを見る。
  そんな連載になってきた感じがするのでであるが、まあ、自分のペースで続けてみよう。
  ところで、日本で「神になった人」というのは誰であろうか。
  まずは、靖国神社の英霊(御霊)ということが言える。
  そして、東京で有名なのは乃木神社の乃木希典と東郷神社の東郷平八郎。
  その前になると東照宮といわれているが徳川家康が、また各地には上杉神社や武田神社などもある。
  この流れの初めはいったい何であろうか。
  日本では、いくつかのパターンで「神」になることができる。
  私自身の宗教観では、日本人はすべての魂に神というか精霊というか、要するに人間ではない神の世界の力が付着するとされている。
  神の世界の力が付着することによって、その人が社会の中における様々な力を有するとされているのである。
  そのために、まずはもともと王権などを持った精霊がある人は、そこで祀られる。
  天皇だけではなく、東照宮として徳川家康が、地域の守護ということでは武田神社や上杉神社も存在する。
  一方、一般人であっても数奇な運命を持った人が、その事件を二度と起こさないようにということで祀られる。
  靖国神社がまさにそうで、外国人が理解できないのは「戦争で戦った人を祀って平和を祈る」という感覚が、たぶん理解できないのであろう。
  そして、特殊な能力を持った人。
  東郷神社や乃木神社などは、軍ということでまさに特殊能力組といえる。
  そして最後に「怨霊」を「怨霊としないために」祀るということがある。
  日本三怨霊といわれる「崇徳天皇」「菅原道真」「平将門」がまさにその中になる。
  婚種は受験の季節でもあり、この中で菅原道真を考えてみたい。
 
  まずは一応伝わっているところで、、、、、、、、、、、
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宇田川版日本の歴史と日本の神々の「主人公」 第2回 源頼朝と天皇の権威とその権威に服する日本国民

宇田川版日本の歴史と日本の神々の「主人公」
第2回 源頼朝と天皇の権威とその権威に服する日本国民
 実質的に先週から始まった連載で、いまだに方向性は定まっていない。
  その内容で、まあ、日曜日だし、毎週月曜日にかなり気合を入れた有料メルマガも書いているから、なんとなく今のまま進めて、そのうち「あっ」というようなひらめきが出ればよいと思っている。
  ちなみに、将来的には、日本の神道の体系と皇室についてまとめてみたいと思うし、そのために今回の歴史の中の主人公についてさまざま見てゆきたいと思う。
  さて、今回の連載は「日本の神々の主人公」と題している。
  当然に、その神々の考え方は、日本の歴史の中においてしっかりとした内容になっているのである。
  そしてその歴史を踏まえて、文化や習慣が形成されるということになる。
  その文化が人を育て、そして新たな神々を考えるようになるのだ。
  そのように考えたら、人を見ることが神を見ることに近い。
  さて、そのように考えて、まず「人」に着目する。
  もちろん、この連載は、私の個人が行っているものだから、その順序などは私が自由に決めるのである。
  さて、その前提で物事を考えると、全会の卑弥呼について、今回は、一気に時代を飛び越えて「源頼朝」という人についてスポットライトを当ててみよう。
  なぜ源頼朝なのか。
  実は…というほどのことではない。
  1192年(建久3年)から1868年(明治元年)までの期間、日本は、途中の建武の新政を除き、日本の政治は「征夷大将軍」が行っていた。
  いわゆる700年継続する「武士の政治」である。
  その武士の政治の初代が「源頼朝」である。
  ここで問題になるのは、当時の日本人において天皇が神であるという意識がなかったのか、そして、その天皇の権威についてどのように考えていたのか、そして、・・・・・・・。
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