日記・コラム・つぶやき

【土曜日のエロ】 わいせつという概念が徐々に国際化してきていると感じるエロ事件の数々

【土曜日のエロ】 わいせつという概念が徐々に国際化してきていると感じるエロ事件の数々
 土曜日のエロである。やはりエロについてしっかりと考えてみたいと思う人も少なくないのではないか。さて、日本人が「エロ」を感じるとき、まあ、もちろん男性目線でしか話していないのであるが、その「エロ」を感じるのはどのようなときであろうか。
  実際に、「女性が完全に全裸で恥ずかしげもなく堂々としている場合」にエロを感じるであろうか。もちろん感じる人もいるが、日本人の場合は、その状況にあまりエロを感じない場合が少なくない。まあ、樽俎も女性が全裸で堂々といている、という場面が思い浮かばないかもしれないが、例えば、「混浴で、女性が入ってこないと思っていたら、女性が不通に入ってきて、男性がいないかのように堂々と入浴している」場合を想定してみよう。もちろん、女性は男性がいることを知っていながら「男性の好奇な目を気にしない」のである。その場合、女性はかなりのつわものであると思うが、同時に男性もかなり恥ずかしく、男性側がこそこそと出てしまう場合も少なくないのではないか。
  これは、一つには「堂々としている」ことによってそれを見ていること自体が「自分の方が恥ずかしい」ということを感じることになる。何しろ相手が恥ずかしがっていないのに、こちらがエロい目で見ていれば、自分の方が一方的にエロいということになってしまい、そのために、「エロいことを考えているほうが恥ずかしい」という状況になるのだ。実際に「目のやり場に困る」という言葉がある。その場合「見たくない」のではなく「見ている自分をエロい人と第三者に思われるのが恥ずかしい」ということにある。要するに、「堂々と裸体をさらしている女性」を見ている「自分が客観的にエロいと思われることが恥ずかしい」のである。そのために、「全裸」そのものが恥ずかしいものではないということになる。
  次に、「どうぞ」といわれると「素直になれない」という部分がある。これは「エロ」に対して「社会的に秘め事と思われいる」ことから、「堂々と裸身をさらされること」が「自分の社会的な常識や価値観に合致しない」ということになるのである。そのために「自分の中で困惑してしまう」ことになり、自分が恥ずかしくなってしまうということになる。
  要するに「自分がエロいと思われたくない」という「社会的存在としての恥ずかしさ」と「ひめゴトという自分の価値観との葛藤」という「自分の内面的に出てくる恥ずかしさ」の二面性がある。そのうえで、男性の下半身が勃起してしまっていた場合は、より恥ずかしくなってしまう。これは「自分の肉体的な興奮を知られてしまった」ということの恥ずかしさである。
  さて、これらを「恥ずかしくなくなる」ためには、「社会性」を失い、なおかつ「恥ずかしさに関する感覚を少なくする」ということが必要である。つまりは、「誰もほか人がいないときに見る」つまり「ビデオなどを一人で鑑賞する」場合は、これらの恥ずかしさが存在しなくなるのである。
警察は解明できるか エロサイト「カリビアンコム」の実態
 全容解明となるか――。
 無修正のわいせつ動画をネット配信した疑いで、台湾出身の女らが逮捕された。捕まったのは制作会社「ピエロ」の社長・陳美娟容疑者(67)とその息子夫婦ら6人。日本で撮影した裏動画を台湾の会社を通じてエロ動画サイト「カリビアンコム」に納品した容疑だ。この9年間で、台湾の会社はピエロに13億7000万円を支払ったという。
 ネットでエロサイトを閲覧すると「カリビアンコム」の文字を見かける。同サイトは日本のAV女優が性器モロ出しでセックスに励む映像が多数アップされ、有料で観賞できる。料金は30日間会員が49.5ドル(約5600円)から。丸見え動画は見放題だが、サイトの実態はなかなか見えてこない。
「カリビアンは15年前に開設され、広域暴力団と不良グループが運営しているといわれている。摘発されないのは日本の法律に触れないようサーバーを米国に置いているからというのが大方の見方。年間売上高は10億円を超えるそうです」(事情通)
■AV女優を“裏デビュー”させることも
 アップされている映像は4000タイトル以上で、ほとんどが裏モノとして制作されたもの。いわゆる“流出AV”はない。ジャーナリストの本折浩之氏が言う。
「撮影チームとカリビアンの間にエージェントが介在して映像を納品しています。素人が撮った映像でも10万~50万円で買ってもらえ、プロのAV女優なら軽く100万円超え。表モノを撮っているグループが“割がいい”という理由で、カリビアン向け裏映像も撮ったりします」
 最近は「Xビデオ」のような無料のライバルサイトが多いため、コンテンツ拡充に熱心。資金力にものをいわせて売れっ子AV女優を裏デビューさせている。
「カリビアンのバナー広告を張ったサイトから会員が入会した場合、そのサイトに数千円のインセンティブを払うなど気前の良さも有名。あちこちのサイトでカリビアンの広告を目にするのはそのせいです」(本折浩之氏)
 前出の事情通によると、警察がカリビアンの全容解明に乗り出す方針という。実態が判明する日も近い?
2017年01月14日 09時26分 日刊ゲンダイDIGITAL
https://news.nifty.com/article/domestic/society/12136-369446/
 当然に「ビデオ」で「もろ全てが移っている全裸」を見せることが、一つの商売になることは十分にわかる。しかし、日本では「わいせつ物」に関する法律があるので、その法律を守らなければならない。そのために「モザイク」という画像処理がなされるのである。
  しかし、その「モザイク」が、あることによって、日本人の場合は、「恥ずかしくない」状態で「集中してエロを見る」ことができるのである。
  もう一つは「女性が恥ずかしがる」ということが必要なのである。日本人は「恥じらいのある女性」が基本的には好きであり、まったく恥じらいがない女性は、「楽」ではあっても「面白くない」ということになる。そのために「恥ずかしがる女性」を求めてしまう。そのために「全裸で堂々としている」ことには、「エロ」を感じるのではなく「自分の恥ずかしさ」を感じてしまうことになる。逆に女性側が恥ずかしがっている場合は、「男性はエロいことを考える」ことになるのである。
  さて、この辺の感覚が「麻痺」しているのが「外国人」である。実際に、私の経験上、中国や韓国の売春婦が「恥じらい」を感じているのを見たことは少ない。基本的に服を脱ぐことに関して「商売」であるかのように、普通に服を脱いでしまために、日本人は「拍子抜け」してしまうことも少なくないのである。
  さて、そのような状況であるから、「エロビデオ」も当然に「無修正」ということになる。日本では、「わいせつ罪」になるものを、そのまま「無修正」ということで売ってしまうことで儲けていた。
  「カリビアンドットコム」というのは見たことがあるが、まさか、そこが無修正で捕まるとは思わなかった。まあ、差別的かもしれないが「陳」という苗字と、その販売先が「台湾」ということから、何となく「そんなものか」と思ってしまう。今日は延々と日本の男性の「エロく感じるシチュエーション」を書いてきたが、そうではない感覚の人に対して日本の会社がやっていれば、外国人といえども当然に罪を問われる。今回の記事は「警察がその外国人の感覚を解明できるか」ということが最大の問題であり、なかなか興味深いところである。

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【土曜日のエロ】今年もやります「土曜日のエロ」リベンジポルノの被害と、その内容に関する考え方

【土曜日のエロ】今年もやります「土曜日のエロ」リベンジポルノの被害と、その内容に関する考え方
 さて、土曜日しか読まない皆さん、あけましておめでとうございます。
  まあ、土曜日は昨年は一年通じて、「特集」や「ゴールデンウィーク」などを除き、土曜日のエロをやり続けることができました。いや、よかった。
  さて、この「土曜日のエロ」は、当然に「エロい話をする」ということももちろんであるが、しかし、「エロ」という「人間の本来の本性」を通じて、このブログが普段行っている「建前の政治論」ではなく、「人間の本性の部分を取り扱ってみたい」ということから、あえて「エロ」という、多くの人が「あまり語らないけれども、人間すべてが持っている本能的な欲求」という「本音」の部分を語りたいと思っている。
  同時に、「扱うものが汚い」と、それをまじめに語るとかえってきれいに見える。なんでもすべて「建前」の世界でしか議論も生きていることもできない現在の世の中の中に、「本音」で物事を語ることができたら、どんなに良いことであろうか。そのような感覚も少し感が手笑みる問うこともある。
  そのような意味で、あえて「誰もが好き」で、なおかつ「少子化問題の決定的な解決方法」でありながら「誰もがあまり、大っぴらに語りたがらない秘め事」をここで、題材に上げながら、社会を風刺してみてはいかがかと思うのである。
  さて、その意味で「エロ」を追求するのであるが、昨年は、三つの大きな潮流があった。一つは、世界各国で行われた「リベンジポルノ」である。これは、付き合っているときに、ヌードの写真などをとらせておいて、そのうえで、別れた時などに、そのヌード写真を被写体の承諾なしにネット上で公開するというものである。そして、もう一つは「ヌード担保の借金」である。これは中国の闇金融的な金貸しの手法であるが、借金をするときに女性のヌードを撮らせておいて、返せなかったら、それを公開してしまうというもの。昨年の最後には、「ヌード写真の公開」だけでなく「売春」まで強要されるということがあった。そして、最後に日本、日本では「AV出演の強制」というものである。あるAV女優が告白したものであるが、実際には影の社会問題になっているというものである。
  さて、この三つも問題の特徴は何か。
  一つは「ヌードを撮らせている」ということである。借金とAV出演の嬌声に関してはどうかと思うが、実際のところ、本意ではないにしても、少なくとも強姦などとは違って、自分で服を脱いで撮影におじていることは間違いがない。そしてもう一つは「公開」ということである。AVに関しても同じであるが、実際に、自分の「本意ではないところで公開されている」ということである。
  まさに、この二つが大きな問題になっている。
リヴェンジポルノ被害は、全米で1,000万人超にも及んでいる
 インターネットの急速な普及とともに日本国内でも深刻な社会問題化しているリヴェンジポルノ。被写体の承諾なしにセクシュアルな画像・動画をネット上に投稿、拡散することで、精神的ダメージや名誉毀損の被害を与えることを意図する行為だが、先日、米国でこのリヴェンジポルノに関する初めての全国調査の結果が発表された。
 「Nonconsensual Image Sharing」(=合意無きイメージシェアリング)と題されたレポート(リンク先PDF)によると、米国に居住する全インターネットユーザーの4パーセントにあたる約1,040万人がリヴェンジポルノの被害を受けた経験があるという。全調査対象のうち約3パーセントが、ヌードあるいはそれに近い自身のセクシュアルな画像・動画をインターネットに投稿すると脅迫を受けたことがあると答え、また2パーセントにあたる回答者は、セクシュアルな画像・動画を、承諾のないままインターネットに無理やり投稿された経験があるとした。
 さらにこのレポートは、同性愛者の方がヘテロセクシャル(=異性愛者)よりもリヴェンジポルノの被害者になる割合が高いという事実も指摘。いわゆるLGBT層の回答者の15パーセントが画像・動画をインターネットに投稿するとの脅迫を受けた経験があり、7パーセントは実際に投稿の被害を受けている。
 「史上初めてとなる全国的なデータ収集を行った結果、多くのインターネットユーザーがリヴェンジポルノの脅迫または実被害を受けている事実が明らかにされました。相手の合意なくセクシュアルな画像をインターネット上で拡散する行為は、破滅的で長期間にわたるダメージを被害者に与えます。そのためリヴェンジポルノに関する犯罪の頻度と被害者のプロフィールを正確に把握することはとても重要です」
 そう語ったのは、全国調査を行ったData & Society Research Institute(DSRI)の研究員、アマンダ・レンハート。ニューヨークに本拠を置くDSRIは、非営利団体であるThe Center for Innovative Public Health Researchと協働してリポートをまとめた。
WIRED.jp 20161231
http://wired.jp/2016/12/31/nonconsensual-image-sharing/
 今回は「ヌード借金」と「AVの出演強制」は、別な機会にすることにして「リベンジポルノ」に限って行うことにする。
  さて、
  リベンジポルノの特徴をもう一度見てみよう。
  リベンジポルノ(英: revenge porn)、あるいは復讐ポルノとは、離婚した元配偶者や別れた元交際相手が、相手から拒否されたことの仕返しに、相手の裸の写真や動画など、相手が公開するつもりのない私的な性的画像を無断でネットの掲示板などに公開する行為を言う。
  インターネット普及による情報化社会である時代においては、写真・動画がネット上で流出・拡散すると削除が困難となり、半永久的にネットに存在し続けるデジタルタトゥーとなりやすい。カメラ機能・ビデオ機能が付いた多機能携帯電話(スマートフォン)が普及したことで個々人が撮影と投稿を手軽に行える環境となっていることも、リベンジポルノ問題を潜在的に起こしやすくする要因の一つとなっている。
 無許可で撮影した他人の写真を投稿するのをプライバシー侵害として禁止する法律は各国で存在する。
 <ウィキペディアより抜粋>
  さて、この適宜でニュースを見てみると、米国に居住する全インターネットユーザーの4パーセントにあたる約1,040万人がリヴェンジポルノの被害を受けた経験があるという。全調査対象のうち約3パーセントが、ヌードあるいはそれに近い自身のセクシュアルな画像・動画をインターネットに投稿すると脅迫を受けたことがあると答え、また2パーセントにあたる回答者は、セクシュアルな画像・動画を、承諾のないままインターネットに無理やり投稿された経験があるとした。<上記より抜粋>
  さて、このことから見ていると、少なくとも、4%の人は恋人などにヌード写真を撮らせているということになる。実際はそれ以上であろう。実は、このリベンジポルノというのは、スマートフォンなどによって、カメラが最近身近にあるということが一つの条件になる。要するに「現像に出す」というときは、当然にヌード写真が他人の目に触れてしまうことになるので、そのことは、専門のカメラマンなどでなければできなかったが、今は、そのようなことをしないでも、いくらでもカメラが存在するということになる。要するに「ヌードを撮るカメラが身近にある」ということが一つの現象である。
  そのうえで、そのカメラを「多くの人が気軽に裸をとらせてしまう」ということにある。もちろん「見せたい」という願望がある人も少なくなく「綺麗なうちに裸をとっておきたい」というような感覚もあるのかもしれないが、しかし、同時に「その人と英会陰ではないという感化が希薄」であるということも挙げられる。「ほかのカップルがしているのに、自分たちだけしていない」とか「ヌードを撮らせてくれないというのは、本当に愛されていないからなのか」などといわれて、拒めないなどのこともあるのかもしれない。その意味では、ヌードは、昔よりも「身近なもの」になっているのかもしれない。
  逆にヌードが身近であるために、AVなどの「業としてエロを行ってるもの」がうまくゆかなく、経済的な問題が出てきているのかもしれない。
  もう一つは、ネットによってそれらの写真が気軽に「公開できる」ということになる。ネットの手軽さと匿名性は、当然に、大きな社会的な特性であるが、しかし、この場合は「誰がヌード写真を持っているかはわかっている」のであるから、当然に「匿名性」は関係ない。要するに、「公開手段が簡単になった」ということであり、昔のように写真を焼き増ししたり、あるいはテープをダビングするような必要はなくなったのである。
  逆に、「それだけ」すべてが気軽に行えるようになった」ということであり、芸能人などもその部分では非常に危険な状態になったといえる。
  この潮流は、なかなか終わらないと思う。同時に、このことが非常に大きく「エロの世界」に変化をもたらしていることもできる。今後「3D」や「VR」などが出てきた場合、新たな技術革新に対して、一つエロが一つ発展し、そして、「エロ」が「一つの社会問題」を作り出すことになる。
  まあ、結局は「ヌード写真を撮らせないこと」が最も重要なのであるが。

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あけましておめでとうございます

皆さま あけましておめでとうございます
平成29年
西暦2017年
元旦です
今年も、また出来れば毎日ブログをつづって行こうと思います
くだらない話も含めてまた書いてゆきたいと思います。
好評の「土曜日のエロ」も同様に今年も続けたいと思います。
このブログは、基本的には
私の書き物の練習ですので、
常に「書きっぱなしの見直しなし」です
誤字があっても全く気にしないということ
というのも当然に、書籍などの場合は
編集さんがしっかりと見直してくれますし
自分でも見直しますが
このブログに関してはそのようなことは一切いたしません。
その代り、その分本音があったり表現の稚拙なところがあったり
そして、その文章が本などになるとどのように変わるのか、
そんなところを比較できるようになっています
ということで、今年もよろしくお願いいたします。

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年末のご挨拶

皆さん

今年平成28年(西暦2016年)も
このブログにお付き合いいただきありがとうございました。
思えば、このブログは2005年に始め、
はじめのうちは何となく毎週のように行っていた文章を
いつの間にか毎日行うようになり、
またいつの間にかニュースをしっかりと甲斐悦するようになってきました。
また、さまざまな内容の情報を、さまざまな角度から
といっても、基本的には、私の独断と偏見で
その内容を書いているという感じになっています。
この文章は、私個人が何となく楽しんで行っているものであり
基本的には、個人の文章であり
また、実はピアノの練習と一緒で
自分のワープロの練習と、もう一つは文章を書く練習を兼ねて
毎日1時間、ネタ探しから文章を書くまでやっているものであり
それ以上のものでもありません
まあ、文章として、楽しみにしていただいている人には
大変申し訳ありませんが
基本的に、そのような「1時間でできる限り行う」ということで、
誤字訂正などは全くしない文章を書いているのです。
そのことをご了解いただいているものとして書いていますので、
まあ、このようなことを初めて読んだという方はご容赦ください。
ということで、
私個人の練習をメインにした文章でよろしければ
来年も続けますので
ぜひまたブログでお会いしたいと思います。
本年は大変お世話になりました。
来年もよろしくお願いいたします。

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【土曜日のエロ】 修学旅行中にデリヘルを呼ぶ教諭の「エロ感覚」と建前しか気にしない「教育委員会」の狭間

【土曜日のエロ】 修学旅行中にデリヘルを呼ぶ教諭の「エロ感覚」と建前しか気にしない「教育委員会」の狭間
 なかなか面白い事件だ。徳島県の小学校教諭が修学旅行中にデリヘルを呼んで、女性とトラブルになって警察に出頭したために、翌朝出ることができなくなったために、結局免職されたという事件。
  まあ、普通に言えば「修学旅行中にデリヘル呼ぶなんて不謹慎」というような感想になるだろうし、「最近の先生はなんていない」などという話になるのでしょう。まあ、もちろん、そのような話になるのが普通だし、私自身もそのように言うようにしている。しかし、そのような感想を出したら「土曜日のエロ」ではなくなってしまう。
  あえて言うが、「土曜日のエロ」という毎週一回のこのブログから考えれば、そんな話をしても面白くないし、物事の真相には近づけないであろう。今日は「批判覚悟」で、と言いながら、「エロ」の観点でこの事件ウィ見てみたいと思う。
  さて、単純に言っていくつかの考え方がある。まずは「修学旅行中の宿泊先の時間はプライベートなのか勤務中なのか」ということである。修学旅行中であってもプライベートであれば、別に「デリヘル」を呼んでもよいはずであり、そんなに問題にはならない。同時に「プライベート中に女性とトラブルになった」としても、そのようなことは少なくない。その都度すべて免職にしていては、とてもとてもおかしな話になってしまう。「女性とトラブルになった」などという話は、一般の会社員でも山ほどある。そんなことで皆さんも会社をクビになっていたら不満が出ることになろう。
  そもそも、先日別な記事で使ったが「ラブホW不倫の日教組委員長、雲隠れのち辞任…報道後は姿見せず」というような話もある。それならば、「不倫自体」で日教組委員長は「免職」されなければならないはずだ。なぜ、雲隠れで済んでいるのか、よくわからない。困ったものである。日教組というところは、この前提条件ならば階級主義で「差別主義」でしかないということではなかろうか。
  一方、その時間が「勤務中」という場合は「そもそもデリヘルを呼んだこと」自体がおかしい。逆に、そのようなことを行わないような状況になぜ「学校側が予防措置」をしなかったのかということも問題になるはずだ。単純に言えば、「小学校の修学旅行の引率教諭は一人部屋」であるということが、そもそもおかしくないかということになる。
  まあ、もう少し公判では「エロ」く考えてみよう。
修学旅行中にデリヘル=小学校教諭を免職-徳島
 修学旅行を引率中だった徳島県の小学校の男性教諭(28)が宿泊先でデリバリーヘルスを利用し、女性従業員とトラブルになったとして、同県教育委員会は10日、この教諭を懲戒免職処分にしたと発表した。
 県教委によると、男性教諭は同県石井町立高川原小学校の6年生の担任として、10月27日から1泊2日の関西方面への修学旅行を引率。宿泊先の大阪市内のホテルでデリヘルを利用した。その際、接客をめぐってトラブルとなり、女性従業員が警察に被害届を提出。示談が成立した29日まで事情聴取を受けていた。
 28日早朝になり、教諭の不在に気付いた校長が本人に電話をして事情を把握。児童らには「体調不良で同行できない」と説明し、旅行は予定通り続けたという。
 美馬持仁・徳島県教育長の話 大変遺憾で、再発防止に向け綱紀粛正に努める。 
2016年11月10日 20時59分 時事通信
https://news.nifty.com/article/domestic/society/12145-2016111000947/
 さて「女性とトラブルになった」ということだそうだ。要するに、教育委員会は「トラブルにならなかったら免職にしなかった」ということになる。なんとも平和な組織である。
  さて、
  もっとエロく考えてみよう。「接客を巡って」ということは「サービスが悪かった」ということでしかなく、その「サービス」とは何かということになる。単純に「旅行先」において、「その土地の女を味わいたい」というような男性的な欲求は少なくないであろう。この男性教諭はその欲求に勝てなかったということになろう。では「其の欲求」とは、単純に「制行為そのもの」つまり、「本番」であって「通常のデリヘルのサービス」ではだめだということになる。
  さて、ものは考えようである。「本番」を常に求めるということは「成人女性」ス君アクトも「身体が成人女性」でなければいけないということになる。つまりのところ「小学校教諭として、小学生に手を出すことはない」ということであり、最近、よく出てきている「小学校教諭が生徒にわいせつ行為」「盗撮」などということはないということになるのである。まあ、この教諭が「高校教師」となれば、かなり危険性が高いということになるのかもしれないが、「小学校教諭」ならば、よほど発達の良い生徒以外は「対象外」であって、「安全な教師」ということになる。
  なおかつ、「ソープなどの店に行く」という選択肢もあったはずだ。しかし、一応修学旅行であるから、「現場を離れなかった」ということになる。要するに「それだけ真面目であった」ということであり、そのためにうまくゆかなかったということになろう。
  逆に言えば、「小学校教諭としては、トラブルになって遅刻した以外は、何ら問題がない」ということである。しかし、残念ながら、「マスコミなどで報道されたので処分せざるを得ない」ということになるので、仕方がないのであろう。そのようなことであるから「勤務中なのかプライベートなのか」ということは、非常に大きな判断基準になるはずだ。
  同時に、そもそも徳島から大阪まで修学旅行に行くのに「一人の教諭の引率」ということはないであろう。つまり、ほかの教諭もいたはずであり、この教諭がそのような状況になっているということ、またはほかに出張などもあるのだろうから、「そのような性癖がある」ということもわかっていて「黙認した」のである。なぜ「一人だけが処分されるのか」ということは非常に疑問が残る。ついでに言えば、「遅刻」が原因ならば、ほかの遅刻をした教諭もすべて免職にすればよい。今週の火曜日のブログにあるように教諭は余っているのだから。
  それよりも「建前ばかりで正常な男女関係」を教えられない教諭が多く、「建前」や「マスコミの評判」を気にするというような学校ばかりにしてしまうこのような諸運がおかしいということになる。つまり、「教諭そのものよりも、徳島の教育委員会の方が、建前だけで人間の本質を分かっていない」ということになり、「そのような教育が異常な社会を作る温床となる」といううことになる。かなり過激な意見であることは自覚しているが、実際には、「エロ」を「示したうえで倫理観を教える」ような教育がなければならず、その部分をしっかりと見なければならないはずだ。そのような「明確な基準ができず、恣意的な処分が行われた」こと、つまり「エロを軽視する処分が行われたこと」を非常に残念に思う。

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【土曜日のエロ】 ヌード画像と引き換えに金を貸す「裸ローン」が中国で大流行するという、中国人の貞操感覚

【土曜日のエロ】 ヌード画像と引き換えに金を貸す「裸ローン」が中国で大流行するという、中国人の貞操感覚

 毎週楽しみな土曜日のエロである。今週もいろいろあった。G20に東アジアサミット、様々存在するし、その双方に関してまだ何も書いていない。しっかりと書かなければならないのであろうが、残念ながら、その日間がなかった。他に書くこともたくさんあるし、まあ、多くの人が興味があるかどうかということもまた違う話である。それにもかかわらず、やはり土曜日はエロである。
  そもそも、エロをなぜ多くの人が嫌がるのであろうか。私は嫌がっているのではなく、一部の「ノイジーマイノリティ」がうるさいだけで基本的にはエロは周囲がどうこう言うようなものではないはずである。昔はそうではなかったかもしれない。女性は弱い存在であるからなど、さまざまな話しがあったと思われる。しかし、よくよく考えてもらいたい。最近「女性が弱い存在」などといえば笑われてしまう。はっきり言って嘲笑の的だ。日本において言えば女性の方がはるかに強い存在であり、男性の弱さが最近では多く報道される。弱いというよりは「男性が女性っぽくなってきた」という気がしてならない。
  まあ、「男らしい」というのもはやらないかもしれないし、生き物の世界では、ライオンなどメスが狩りをして一家を養い、オスは基本的に何もしないのであるから、実際のところはそのような方が自然の摂理にはかなっているのかもしれない。
  しかし、まあ、そのようなことはさておき、そのオスライオンであっても「子供作り」はするのであり、まあ、やはり好きでない人はいないのである。要するに「いたずらに性的興奮を求める」ことがいけないのであり、なおかつノイジーマイノリティの人々は、「いたずらであっても性的興奮を掻き立てることがないであろう」人々ということであって、まあそのような意見が「うっとうしい」から黙っているのにすぎず、誰もそのことで嫌いになったり、品行方正になることはない。
  さて、今日は中国の内容に関して、「エロ」が金貸しの担保になるという話である。

風俗に沈められる女性も……ヌード画像と引き換えに金を貸す「裸ローン」ビジネスが中国で興隆中

 以前、本サイトでも報じたように、中国では「裸ローン」という新語が誕生している。
 これは今、中国の若い女性たちの間で広まっている新しい形態の借金で、金貸し業者が女性に金を貸す際に、担保として女性のヌード写真を撮り、返済しなかったり、滞らせたりすると、その写真をインターネットに流出させるというもの。完全に脅迫行為だが、業者側は「社会的・精神的制裁を加えることが目的」と開き直り、堂々と営業を続けている。香港紙「太陽報」(8月27日付)などによると、ある業者は身分証のみの場合は金利が週30%だが、ヌード写真があれば週22%まで下げる。ただし、金を返せなかった場合には、ヌード写真を親元や職場などに送りつけて脅迫するのだという。業者によっては、このような写真をネットで販売するケースも少なくないとか。
 実際に中国チャットアプリ「QQ」上などでは、裸ローンによって流出した若い女性たちの写真を売買するグループも暗躍しているという。こうした写真は売買されて拡散、“人肉検索”が行われ、ヌード写真に、学校名や勤務先、自宅の住所・電話番号などの個人情報が書き加えられ、さらに拡散・売買されているのだ。筆者が確認したものでは、ある女子大生のヌード写真数枚に携帯電話の番号と学校名が記されたものが、約300円で販売されていた。
 そんな中、裸ローンを行う金貸し業者による“新ビジネス”が誕生しつつあるという。前出「太陽報」によると、業者の中には、借金を返せなくなった女性たちに売春行為を強要するところもあるというのだ。地元紙の取材に答えたある業者によると、ネットを介して買春を希望する男性に彼女たちをあっせんし、そこで得た稼ぎを借金返済に充てさせるのだとか。借金返済に困った女性たちは、泣く泣くそれを受け入れるという。
 近年、中国で社会問題となりつつある裸ローンについて、中国版Twitter「微博」では多くのネットユーザーからコメントが寄せられている。
「まったく同情できない。金のためならなんでもするような女には、いい薬になるかもね」
「メールと写真だけのやりとりで済むなら、フォトショとか使って、逆に業者をだませそう」
「風俗業と金融業が融合した、新業態金貸し業者だね」
 裸ローンは、主に女子大生の利用者が多いといわれているが、果たしてその見た目や体形に条件はあるのだろうか? いずれにしても、写真はネット上から完全に消し去ることができない。その代償は、あまりにも大きいといえるだろう。
(文=青山大樹)

日刊サイゾー 20160905
http://www.cyzo.com/2016/09/post_29471.html

 さて、金を貸す時に、その担保となるものは何か。ということである。実際に、金を確実に帰す場合は、その金を返さなければより大きなペナルティが発生するというものであり、なおかつ、その価値観は個人によって異なる。
  江戸時代に、日本人がそのプライドや道徳性が高かったころ、商人が武士に金を貸した証文で「金品返還せざる時は、人前にて嘲笑されても苦しからず」というものがあった。要するに、人前で笑われるという行為が、金を返さない行為そのものよりもはるかにペナルティとして大きかったということになる。単純に言えば、それだけ武士というものは、それだけプライドを高く保ちなおかつその身分をしっかりと維持していなければならなかったということであり、他人に嘲笑されることそのものが、金がないことよりも苦しいことであるということに他ならない。なお、私ならば笑われて金を借りて踏み倒せるならばいくらでも借りるのであるが、現在はそのようなことではないようなのである。なかなか残念なものだ。
  現在は土地や骨とう品などすぐに換金できない資産を担保に入れることが多い。しかし、江戸時代、武士のようなプライドをかけるところでなければ、「女性」を型に入れて金を借りるということは少なくなかった。要するに「女郎契約」である。昭和の戦後、昭和33年4月1日以降そのようなことはできなくなっているし、明治時代以降公序良俗違反ということで女郎契約自体が認められていないことになっているが、しかし、江戸時代までは十分に成立していた。つまり、女性は金よりも価値があったということであり、同時に女郎は、貸した金以上のものを稼ぐ存在であったということになる。
  しかし、さすがに現在そのようなものはない。まあ、AVの世界ならば十分にあるのかもしれないが、現実世界でそのようなことは存在しないのである。
  しかし、中国では今でも生きているようだ。
  記事によれば「借金を返せなくなった女性たちに売春行為を強要するところもあるというのだ。地元紙の取材に答えたある業者によると、ネットを介して買春を希望する男性に彼女たちをあっせんし、そこで得た稼ぎを借金返済に充てさせるのだとか。借金返済に困った女性たちは、泣く泣くそれを受け入れるという。」<上記より抜粋>
  要するに現代版「女郎契約」であり、日本では昭和のやくざを扱ったドラマかあるいはAVくらいでしか存在しないものが中国では存在するという。ちなみに、記事にはないが韓国では、そのようにして集められた、要するに借金をして返せなくなった少女たちが鎖でつながれて売春をさせられ、その部屋が火事になって多数の少女たちが死ぬという事件が存在し、李明博時代に売春防止法之取り締まりが強化されたという。まあ、このような状況を見ても中国韓国は前近代的なのかもしれないが、同時にそれだけ「女性の身体の価値」を評価しているということにも他ならない。
  さて、これを「金貸しが悪い」と断罪するのは簡単だ。もちろん、おかしくないとは言わない。
  しかし、同時にその状態で「金を借りる女性がいる」ということを直視しなければならない。これは二つのことがある。一つには、金を借りなければならないような支出が若い女性に存在する。しかし、そのことは、何も中国人に限らない。日本にも若い女性が借金まみれになるなどというのは少なくない。買い物依存症など様々な内容が存在するのであろう。まあ、そのことは中国でも同様に消費社会になったということを意味しているのであろう。
  しかし、それ以上に「若い女性が安心して借りられる場所がない」ということである。そもそも共産主義国家であれば貨幣経済を否定しているのだから、そのような資本主義的金貸しなどは存在しないはずであろう。にもかかわらず、若い女性が金を借りるということは、それだけ、若い女性が活動し金を借りる場所がないということに他ならない。同時に、その金を借りる手段、つまり、資産や担保に出すものがないということになる。
  そして、「若い女性の裸の写真が価値がある」ということであろう。つまりそのことを行うことによって担保として価値があるということになる。少なくとも中国の場合は売春だけでなく、一人っ子政策などによって風俗関係はかなり厳しい、特に習近平政権になってなおさら厳しい状況になっているという。その中において女性の裸の写真は、当然に、徒歩が高いものとして認識されていることになり、なおかつ、その裸の写真が貸した金以上に価値があるということになるのである。
  要するに、女性の裸の写真を担保にしても大丈夫というようなことである。さて、男性目線から、さまざまな人のお怒りをかまわず書けば、「裸になる女性に全て価値があるのか」という議論がある。当然に上記のように写真をネットに流通させても、「売れる」つまり「買い手がなければ」金銭的な価値は出てこない。残念ながら、これは現実問題として、「担保価値」は「女性によって決まる」というような形になりかねない。美人という定義が同であるかは別にして(中国と日本の美人の感覚は違う)、美人は高く売れるので担保価値が高く、ブスは売れないので担保価値が低いのか、あるいは「金を返すための抑止力」として、存在しているだけなのか。その辺はかなり大きな問題になろう。同時に、泣く泣くでも売春に応じるということは、単純に言えば、その金貸しの方法がある程度定着しており、そのような貞操感覚でもよいということになる。単純に言えば、「一度売春をしてしまえば、また同じ方法で金を借りることができる」ということであり、「売春担保の金融」が成立するということになるのである。単純に言えば、それが現在の中国の等身大の「女性像」なのではないか。
  まあエロい男性にとっては悪いことではないのであるが。

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【GWのエロ】 悪女マリンチェの生涯はエロからの復讐劇という衝撃

【GWのエロ】 悪女マリンチェの生涯はエロからの復讐劇という衝撃
 GWのエロも今回で最後です。明日は日曜日でゴールデンウィークも最後であるから、基本的にはエロなどもせずなんとなく心安らかに過ごしていただいたらいかがか。まあ、あまりネタを出し過ぎると、こちらが来週以降ネタがなくなってしまうというようなことも心配しなければならない。
  さてそのように考えて、「GWのエロ」の最後は、歴史的ンあ「魔女」の話である。
  実際に「性奴隷」と記載すると、日本の場合すぐに「慰安婦」となってしまうが、実際に「性奴隷」というような人身売買は、世界各国で行われてきていた。その世界各国の中で「性奴隷」が、いつの間にか、「征服者」になって戻ってきて、そして復讐を遂げるというような話は少なくない。
  その中で、今回はメキシコのマリンチェについて紹介されている記事があるので、その内容をここで書きながら、「性奴隷」と「人身売買」と「復讐」というこの三つについて考えてみたい。
  さて、そもそもマリンチェという女性について、知らない人は記事を読んでいただくとする。簡単に言えば、メキシコのアステカの王の娘として育てられたが、王が早く死んでしまったので継母に奴隷として売られてしまい、その先でスペイン人に貢物としてささげられ、気に入られてスペイン人のアステカ占領の手助けをするという話である。
  そもそも「売られる」というのは、「厄介払いと金儲け」の両得でそのような状況が生まれてしまうのである。実際にどの国であっても「売られる」というのは「厄介払いと金儲け」であり、「厄介者」は、基本的には「血の薄い順番」というようになっている。その次は「役に立つかどうか」そして「金になるかどうか」という三つの基準で売られることになる。この意味からいえば、「疎ましく思われる」というのは、基本的に「相性」の問題であるから何とも言えないが、「役に立つかどうか」ということになれば、女性は労働力にはならない。また「金になるかどうか」という基準は「綺麗かブスか」ということになる。要するに、マリンチェは、労働力としてもダメであり、また、甘やかされて育ったのか、あるいは都市が若かったからなのか、技術などがなく、そして、綺麗だったということになる。この三つの基準は、日本の寒村において吉原等の遊郭に売られる時も基本的に同じである。この基準に従っていないのは、韓国というか朝鮮半島の国家が、中国というか大陸の帝国に、毎年3000人ずつ女性を送り込んでいた時だけであろう。朝鮮半島の国家は、「売春」を「外交の一種」と考えており「厄介払い」とは考えていない部分があるので、3000人の中に、「外交官」を混ぜるような感じになっている。
  実際に、女性が相手の懐深く入り込み、相手の司令官や王の寝室に入って意のままに動かすということを組織的に行おうとした、すくなくとも、半島に中国が攻め込まないようにしたのが、半島国家の「知恵」である。
  しかし、このマリンチェは、それを一人で、そして逆側の立場に立ってやり遂げたのである。
“性的奴隷”だった少女が30万人の都市を滅ぼした メキシコの産みの母、悪女マリンチェの生涯
 黒澤はゆまの歴史上の女性に学ぶシリーズ、第4話はアステカの悪女、マリンチェです。姫として産まれたのに母親に奴隷として売られてしまった彼女は、好色な男性の元を転々とするうちに極度に発達した人心掌握術を身につけます。男性の懐の中から世界を滅ぼした悪女マリンチェ。彼女は何を思い、生きたのでしょうか。(編集部)
   姫として生まれ、奴隷になった「こんな世界滅んでしまえ」
 女性にばかり、不公平と理不尽を強いられる毎日のなかで、そう願ったことはないでしょうか?この願いをまだ20歳にも満たない少女がかなえたことがあります。
 その名はマリンチェ。
 彼女は西暦1502年、南米のアステカ(現在のメキシコ)で生まれました。父親はパイナラという街の王で、マリンチェはお姫様として、蝶よと花よと育てられるはずだったのですが、幼い頃に父が死んだことから運命は狂い始めます。
 別の男と再婚した実母は、娘がうとましくなり、隣国のタバスコにマリンチェを奴隷として売り払ったのです。
 マリンチェは、アステカ人が好んだ比喩を使うと、金剛鸚哥(インコ)のように美しい少女でした。十代の前半だった彼女は、人手から人手へと渡り、その間に生涯かかえなくてはならない秘密がいくつも出来ました。
 王の目に止まり、性の伴侶にやがて、タバスコ王の目に留まり、王の側室になったのですが、彼は位が高いだけで、つまらない男でした。
 望まぬ男の性の伴侶をつとめる、隷従と屈辱の日々のなかで、一筋の救いの光となったのが、アステカの神話の一節です。
 「一の葦の年、白い肌の破壊の神、ケツァルコアトルが帰って来て、世界を滅ぼす」
 アステカ族は、この先住の神から文明と農耕を教わったにも関わらず、詐術にかけて追放したのです。ケツァルコアトルは去り際、東の海に船を浮かべながら、必ず戻ってくると予言していました。
 そして、マリンチェが17歳になった一の葦の年、西暦で言う1519年、数百年一度も破られることのなかった東の海の水平線を純白の帆で割って、本当に白い肌の男たちがやって来ます。
 白い肌の侵略者たち彼らは巨大な犬のような生き物に乗り、見上げるように背の高い人たちでした。手に持つ不思議な棒から、大きな音とともに火が噴くと、タバスコ王の兵隊たちは魔法をかけられたようにバタバタと倒れました。
 タバスコ王は恐れおののき、たちまち白い肌の男たちに降伏しました。彼は仲直りの印として、黄金や美しい布、そして20人の娘を献上しました。そして、この20人のなかにはマリンチェの姿もありました。
 他の娘たちが恐ろしさに泣き叫ぶなか、マリンチェの足取りだけが、密林を舞う色鮮やかな小鳥のように軽やかでした。ついに来たのです。神が。自分を迎えに。この悪しき世界を懲罰するために。
 コルテスとコンキスタドール白い肌の男たちは南米の黄金を求めてやってきた、コンキスタドールと呼ばれるスペイン人でした。首領はエルナン・コルテスという貧乏貴族で、一旗あげるため新大陸にやって来たのでした。
 コルテスはインテリで腕っぷしも強く、当時男の美徳とされたものは良心以外のすべてを兼ね備えた人でした。傲慢で、残虐で、マリンチェが待ち望んでいた神ぴったりの男だったのです。
 彼女は美貌と聡明さで、たちまちのうちにコルテスの心をとらえると、カカオ色の肌を押し付けながら、彼の耳にささやきました。
 「コルテス、私のふるさとアステカはここよりももっと豊かな土地よ。あなたをそこの神様にしてあげるわ」
 再びの愛人生活こうして、マリンチェはコルテスの愛人兼参謀になりました。
 彼女はもともとはスペインの食い詰めものの集団でしかなかったコルテス達をケツァルコアトルの化身と宣伝し、アステカ人を恐怖のどん底に突き落としました。アステカ人の宗教心は信仰深いなどという生半可なものではなく、彼らは自分のことを宗教という巨大な劇のなかで役割を演じる人形のようにとらえていました。
 太陽神が求めれば生贄を捧げ、神話のなかに自分たちの運命が滅びると書いてあるのなら、それに従う他ないのです。語学の才能に優れていたマリンチェは、スペイン語もたちまち習熟し、優秀な通訳ともなりました。
 常にコルテスの側にたち、神の言葉を伝える彼女のことをいつしかアステカ人たちは畏怖の念と共に「神の通訳」と呼ぶようになりました。
 アステカの偉大な王を騙し、服従させるそして、血なまぐさい3か月の旅路の果てに、コルテス一行はアステカの首都テノチティトランにたどり着きました。テスココ湖に浮かぶ都は、大きな蓮の花が咲き誇っているようで、その美しさにはさしものコンキスタドール達も声がなかったといいます。
 アステカの偉大な王、モクテスマ二世はコルテス達一行を歓迎し、赤い巻貝と黄金の首飾りを贈りました。アステカを全盛期に導いた偉大な王の、客人に対する接待は丁重で、敬意と愛情に満ちていました。
 彼自身、本気でコルテス達をケツァルコアトルの化身と信じていたからです。
 純粋な王の困惑しかし、それに対する、コルテスとマリンチェの言葉は、偽りと悪意に満ち、純粋な王を困惑させ続けました。そして、一トンもの黄金をだまし取った末に、王を自分たちのもとに軟禁し人質にしてしまいます。
 当然、王の家臣からは不満が噴出、スペイン人に立ち向かうよう王を突き上げるのですが、王は神への抵抗に対しては一貫して消極的でした。
 そして、アステカ人にとって最も大事な太陽神を祝う祭儀の最中、事件が起きました。王を慰めようと軟禁されている邸の回りに集まった群衆たちに向けてスペイン人たちが発砲したのです。
 群衆のなかには多くの貴族たちの姿もありました。詩や歌や踊りのなかで、その栄光が称えられ語り継がれてきた、アステカの高貴の血筋のほとんどが、この時に死に絶えました。
 それでもなお王は宥和政策を維持しようと、民衆に向けて平和を訴えるのですが、怒り狂った群衆の投げた投石を頭に受けて死亡してしまいます。マリンチェの言葉に翻弄され、国も財産も誇りも名誉も何もかもを奪い尽くされた果ての最後でした。
 30万人を擁した、世界最大級の都市が廃墟にその後、若き英雄、クアウテモックを擁して企てられた反乱によって、一時スペイン人たちは首都を撤退するのですが、スペイン本国やアステカに敵対的な南米諸国の兵を集めて軍を編成すると、再度侵攻。
 そして、3か月の激しい攻防戦の末、1521年8月、テノチティトランは陥落します。
 かつて30万人を擁した、世界最大級の都市は、完全な廃墟と化しました。
 戦闘あるいはスペイン人の持ち込んだ天然痘によって命を失ったアステカ人の死骸がそちこちに転がる、焼け焦げた街を歩きながらマリンチェの心に去来したのは、復讐を遂げたことの満足だったのでしょうか。しかし、同胞たちから魔女と罵られながら、彼女にはもう一つの歴史的役割が残っていました。
 悪女マリンチェの子供世界の滅亡を願ったはずの彼女のお腹には新しい命が宿っていたのです。コルテスとの子供であり、後のメキシコの主役となる、史上初めてのメスチーソ、征服者と被征服者の間の混血児でした。
 子供を生んだあと彼女はつきものが落ちたようになりました。自分を奴隷に売った母親と再会しても、「あなたは無知だっただけ」と鷹揚に許しています。後に、この母親はマリンチェの息子と共にキリスト教に帰依しました。
 マリンチェの若き死静かな若い晩年を過ごした後、1527年、マリンチェはわずか25歳でこの世を去りました。
 マリンチェは、古い世界を滅ぼし尽くした魔女だったのでしょうか?
 それとも新しい世界を生んだ女神だったのでしょうか?
 いずれにせよ、現在、マリンチェの子供たちは、彼女のことを、もう激しく憎んではいないようです。ベラクルスの街には、未来の象徴として彼女の像が建立されています。銅像のマリンチェは激しい怒りも憎しみもない、穏やかな目で、メキシコの行く末を見守っています。
ウートピ  20160211
http://wotopi.jp/archives/34457
 ある意味で、「性奴隷」だし、ある意味で「参謀」であり、ある意味で「復讐の鬼」である。その結果は、自分のいたアステカ王国を滅ぼし、そしてスペインの植民地に変えてしまった。それをわずか25歳までに成し遂げたのであるから、その内容はすごい。
  そして、そこの根底にあるのが神話である。
  「一の葦の年、白い肌の破壊の神、ケツァルコアトルが帰って来て、世界を滅ぼす」
  <上記より抜粋>
  実は、これら神話が、さまざまな心理的作用を及ぼし、そのことによって様々なハレーションを起こすことは、このマリンチェの例だけでなくても様々に存在する。例えば、インドネシアにおいて日本兵が「空挺落下傘部隊」で降りてきた時、当時ポルトガルやオランダに指揮されていたインドネシア兵は、「神話」を基に、日本軍に協力するようになる。彼らの神話の中に「空から白い兵が神に遣わされてやってきて、自分たちを苦しめる悪を滅ぼしてくれる」という神話があった。この神話と、現在軍歌で歌われている「空の神兵」とは全く同じ内容と言って過言ではない。インドネシア兵は白い落下傘で降りてくる日本軍を見て「神の使い」を連想し、空に向いていた対空砲をオランダいやイギリス兵に向けて撃ち始めるのである。
  さて、「性奴隷」と「人身売買」と「復讐」という事を語るとした。しかし、マリンチェを見ていればわかるとおり「性奴隷」は、実際に苦しいものであったのだろうか。ある意味で「相手の中に入り込む」要するに「貞操観念」が出来上がっていない場合またはそれ以上に優先する課題がある場合、実は性奴隷的な立場というのは、そんなに大きな障害にはならないのかもしれない。私は男性なのでわからないが、このマリンチェの場合、一つは「母に対する復讐心」そしてもう一つは「一人目のタバスコ王があまりにも魅力のない人物であった」ということからスペイン軍のコルテスが魅力的に映った。この場合「絶対値」で判断されるのではなく「相対値」で物事を判断するというようになっているのではないか。
  そして、「人身売買」に関しては、上記のように三つの基準で行われることになる。
  そして、コルテス。要するに、最も上層部の妻妾となった場合、「マリンチェはコルテスの愛人兼参謀」<上記より抜粋>というような立場になるのである。まさに女性の最も恐ろしい部分なのかもしれない。
  この編の「コルテス」の心理をうまく使ったものが「ハニートラップ」であり、女性その物を情報の端末のようにして動かすことになるのである。
  マリンチェの場合、それらのハニートラップや復讐の算段をすべて自分一人で行ってしまったということになる。そこが魔女の魔女たるゆえんであり、それ以外の部分は、その時の立場に応じて「相対的に自分の行うことを行った」ということと、同時に、「進駐軍を自分の復讐の道具にした」ということのほか何もおかしなことはないのである。
  しかし、「性奴隷」が一転して優位に立つというのは、まさに、世界各国でよくあること。女性の中には、このような逆転があるが男性は、意外と少ない。逆に常に男性は、現在のハニートラップも含めて「利用される側」であるのだ。
  まあ、それが世の中のバランスとして最も良いのかもしれない。

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【GWのエロ】アメリカでいわれている「ネットでよくある話」は児童ポルノなのか

【GWのエロ】アメリカでいわれている「ネットでよくある話」は児童ポルノなのか
 「ポルノ映像」という分野がある。実際に昔の「ポルノ映画」という分野の映像から「エロ本」、私の小学生のころは、それらのポルノ映像がなかなか見ることができないように、ビニールで覆われていたため、「ビニール本」などという呼称も存在していた。今ではアメリカのプレイボーイ者も本の発行を亡くしていたが、昔は、普通に週刊誌にヌードのグラビアが掲載されていたし、また、エロ漫画が掲載されていたものである。
  しかし、徐々にそれらの内容がなくなってしまい、また、女性の人権団体が強くなってきてしまったので、「女性のヌードの掲載ができない」というようになってしまった。昔は、テレビでも、女性のバストがそのままあらわになって出ていた。今では、乳首の部分だけをモザイクにして、かえって目立つつくりになってしまっているが、そこまで神経質になることなのであろうか。
  さて、このように言うのは何も「エロ」ということだけではなく「隠す」からなおさら「影に回って出てくる」ということにつながるのである。というのも、「本」「写真集」「ビデオ」「テレビ」等で徐々に「エロ」「ポルノ」が締め出されてしまう。そのために「ネット」ではかなり多くの「ポルノ画像」が出回っている。
  さて改めて、此処で「ポルノ」という単語の意味を確認しておく。
 
ポルノグラフィー【pornography】
一般に,性的行為のリアルな描写を主眼とする文学,映画,写真,絵画などの総称。略してポルノpornoともいい,伝統的な好色文学などと区別して近・現代的なものを指すことが多い。語源はギリシア語のpornographosで〈娼婦porn?について書かれたものgraphos〉を意味する。それはやがて,英語でいうobscene(猥褻(わいせつ))な文学のことになった。obsceneの原義は,〈scene(舞台)からはずれたもの〉つまり舞台では見せられないもののことであるという。
<世界大百科事典 第2版>
 要するに「性的な興奮を目的とした」表現であるといえる。要するに、そのような内容が「徐々に締め出されてしまう」ことによって、一つではネット世界で非常に大きなマーケットになってしまっているのと同時に、もう一つでは、そこに「歪んだ内容」が出てくることになる。それがアメリカでは「事件」に待ってしまうのである。
【海外発!Breaking News】12歳少女と性的画像をやりとり 逮捕の米21歳男「ネットではよくある話」
 このほど米アリゾナ州で、未成年少女2名との間で性的な画像やメッセージのやりとりを行っていた若い男が逮捕された。拘置所でメディアのインタビューにも応じ、大胆不敵な発言が注目を集めている。
 アリゾナ州メサ市でこのほど逮捕されたアーロン・トーマス・ユーザリー(21)。カンザス州のオーバーランドパーク警察から得た情報が功を奏しての逮捕であった。メサ市警の発表によれば、アーロンはインターネットで知り合った12歳の少女2名と携帯電話で卑猥な画像や動画をやりとりしていたとのこと。拘置所に身柄を送られたアーロンには25,000ドルの保釈保証金が設定されたという。
 アリゾナ州のメディア『12news.com』が伝えているところによれば、逮捕のきっかけとなったのは、1人の少女の母親が「娘と友人が長期にわたり携帯電話で見知らぬ男と不適切なやりとりを行っていたようだ」と警察に相談したこと。少女の携帯電話からはアーロンの全裸写真や飼っていた小型犬に局部をなめさせるなど性的なシーンを収めた動画が発見されたが、なんと少女が自分の裸の画像をアーロンに送信していたことも発覚した。
 そうしたやりとりは2014年9月から2015年2月まで続いたもよう。少女らとはアート作品を紹介しあうサイトで知り合ったが、アーロンは「自傷・自殺願望を持つ1人の少女を精神的に支えていた」などと主張している。ロウワー・バックアイ拘置所にて行われた『12news.com』との独占インタビューでは、不敵な笑みを浮かべながら「犯行を否認するつもりはないよ。それなりのことをしたからここに入れられてしまったんだし。でも悪いと知りながらどうしても止められなかった。なぜなら僕は彼女たちを真剣に愛していたから」などと語るのであった。
 もっとも「少女らと直接会いたいという気持ちは全くなかった」とアーロン。彼はインターネットの世界でのみ気が大きくなり、自分の願望や欲望を存分に広げるというタイプなのであろう。わが子だけは健全な環境で育てたいとどの親も真剣に考えるものだが、ネット上にはアーロンのような危険分子がゴマンとおり、あらゆる手を使って少女を誘惑しようとすることを忘れてはならないと警鐘を鳴らしている。
出典:http://www.12news.com
(TechinsightJapan編集部 Joy横手)
2016年4月16日 20時10分 Techinsight
http://news.livedoor.com/article/detail/11422668/
 米アリゾナ州で、未成年少女2名との間で性的な画像やメッセージのやりとりを行っていた若い男が逮捕された。さて、その男にインタビューができるというのもなかなか興味深いのであるが、それ以上にその男に認識がなかなか議論を呼んでいる。
  二人の少女と性的なやり取りを携帯電話でしていて、その携帯電話の中において、「自分の卑猥な画像」と同時に、「少女の裸の画像」もやり取りしていたという。
  彼はインターネットの世界でのみ気が大きくなり、自分の願望や欲望を存分に広げるというタイプなのであろう。わが子だけは健全な環境で育てたいとどの親も真剣に考えるものだが、ネット上にはアーロンのような危険分子がゴマンとおり、あらゆる手を使って少女を誘惑しようとすることを忘れてはならない<上記より抜粋>
  つまり、ネットであれば、当然に、そのようなことが多くなってしまう。もちろん、「ネット」を否定しても仕方がない。しかし、「ネット」「匿名性」ということは、そのまま「警戒心」が少なくなり、そのために「ポルノ画像」に近いもの、またはそのものの画像を、自分で相手に送ってしまうというような状況が行われる。もちろん、それが公開されれば非常に大きな問題になるし、また、そのようなことを普通は考えるのではないかと思うが、実際に、ネットに慣れてしまっていると、そのようなことに鈍感になってしまう。
  一般論として、要するにネットに限ったものではなく、「便利」が過ぎてくると、その「便利」に便乗して「犯罪」が出てくる。「便利」というのは、「本来自分がやらなければならないことを、細分化してその一部分を誰かに負担させている」状態である。要するに、その「誰か」の介在が多くなればなるほど、その中に「犯罪者」がいる確率は多くなり、その犯罪が行われる確率が高くなる。最初から最後まで自分一人で行っていれば、それは大変であり非現実的ではあるが、犯罪の確率は少ない。もちろん、すべて自分で行っているということは、「過失」の確率は高くなる。しかし、第三者による犯罪の可能性は少なくなる。しかし、そこに第三者が介在するようになれば、その中に、第三者分の利益が乗ることになるし、また、その中に、全ての人が善人である確率と、中に一人でも悪人が存在する場合の確立を考えなければならないということになるのである。
  まさに、そのことを考えれば「ネット」という「仮想空間」で、「不特定多数の人がそこに介在する空間」があれば、そこにある犯罪は未知数になる。しかし、同時に「仮想空間」であるから、自分が犯罪に巻き込まれてしまっていることに気付かないことも少なくないのである。
  さて、今回の内容は、この犯罪者のような人物が多数いるということである。そのことは、ある意味で「アップされたエロ画像を見ることができる」ということでもあるが、しかし、それは「犯罪として存在する様々な事象をどのように考えるのか」ということにもつながるのである。
  その様な警戒心を持ち、また持たせなければならない時代なのかもしれない。

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【GWのエロ】「ダンス」と「性風俗」の意味深い関係性とその規制の賛否両論とアジール性

【GWのエロ】「ダンス」と「性風俗」の意味深い関係性とその規制の賛否両論とアジール性
 「クラブ」がそもそも「ダンスを楽しむところ」という感覚は、一般にあるのであろうか。昔は「ディスコ」と言っていた場所であるが、高校時代屋大学時代には民に顔を出していた。もっとも言っていたのは浪人時代ではなかったか。どうもうまくいかない毎日の中に、その頃付き合っていた女性とともに行って遊んでいた。
  何しろ「ディスコ」といわれる場所は、「人目をはばからず女性と抱き合える」場所であり、その場所で、自分が誰なのかもわからずに遊んでいた。
  民俗学用語で「アジール性」という単語がある。聖域,平和領域を意味するドイツ語。英語ではasylum。ギリシア語の〈不可侵〉という語asylonに由来するアジールの制度は人類最古の法制度のひとつであり,特定の空間,人物,時間とかかわった人間が一時的に,あるいは持続的に不可侵な存在となる状態あるいはその場を示している。アジールの歴史は社会と法の構造,宗教と道徳のあり方によっていくつかの段階に分けられる。まず宗教的・呪術的な段階においては,ユダヤ教の祭壇やギリシア・ローマの神殿,ゲルマンの森などの神聖な場所や物と接触した人間が不可侵な存在となる状態を意味し,その場所に逃げこんだ者の人格や逃亡の理由は問われないし,動物でさえも保護される。<世界大百科事典 第2版の解説>要するに「世俗の権威や立場などから切り離された場所」であり、まさに、ディスコというのはそのような場所であった。要するに、その中に入れば、「政治家」「大学生」「浪人」「成功者」「失敗者」「落伍者」どれも関係なく、そのような立場から完全に切り離された場所だったのである。まさに「精神的な聖域」であり、ある意味で「治外法権」であるかのような場所のように感じていた事がある。
  実際に、「ディスコ」が「クラブ」に呼び方が変わって、昔と曲も変わりDJなどが入っても、この「アジール性」の部分は全く変わらないのではないか。現在、さすがにこの年齢になるとその様な場所にはいかないのであるが、まあ、あの時の感覚は今も覚えているものである。
  さて、そのアジール性は、私も感じていたように「治外法権的」な考え方になってしまう。そのために「違法」または「グレー」というような場面、そして、昨日マドンナのコンサートの件で長々と解説したような「非日常」を感じさせることが少なくなくなってしまうのである。要するに、「麻薬など違法薬物の取引」「媚薬などのグレーな薬品の使用」そして「難破した女性との性行為」などがあげられる。もちろん、「クラブ」の「ホール」で他人の前で女性と性行為をすることはないが、実際に「個室」を借り切ってそのようなことが行われるという話はよく聞く。まあ、その「個室」が大きくなったのが「ハプニングバー」といわれるものであり、なかなか風俗も様々に発展するということになるのではないか。
  さて、その「クラブ」の許可に関して、京都新聞が2月に書いた記事を、面白いので、今頃になって検討してみようと思う。
「踊る自由」なおグレー 警察かたくな「性風俗乱れ招く」
 若者らがダンスを楽しむ「クラブ」の営業を規制緩和する改正風営法の成立に伴い、クラブの終夜営業を京都市の祇園と木屋町両地区に限定する改正条例案が、17日開会の京都府議会2月定例会に提案される。風営法改正につながる国会審議や、大阪市のクラブ「NOON」の営業許可をめぐる裁判を通じて焦点になったのは、クラブなどのダンスカルチャーを規制対象とすることの是非だ。法改正で一部が緩和されるものの、あいまいな「特別遊興飲食店」という区分に取って代わり、京都府条例案でも「踊る自由」はグレーゾーンのままとなっている。
 「法改正は前進だが、地域規制が残り、実態にそぐわない」「新しい規制は重大な問題を含む。国会審議でも『遊興』が何か、という質問に警察庁は明確に答えてない」。風営法改正をテーマに11日夜、京都市左京区で行われたシンポジウムでは弁護士や刑法学者から批判が相次いだ。
 主な懸念は「遊興」の範囲のあいまいさに加え、地域の規制だ。大学のまち・京都では祇園や木屋町の許可地域以外でも昔からクラブが出店しているが、条例案では少なくとも4店が終夜営業できない。左京区で20年以上続く老舗店は、芸術のジャンルを超えたイベントや社会問題を扱うシンポも開き、「京都らしい文化の発信地」として全国に知られる。市内のドイツやフランスの政府文化機関と協力してアートの催しも行っており、店主は「防音工事を施し、近隣の理解も得てきた。風紀を乱す営業はしておらず、ダンス規制は時代遅れという多くの声を聞いてほしい」と訴える。
 法改正で風俗営業の枠からは外れたが、深夜に酒を飲みながら踊ることが「性風俗秩序の乱れ」を招くという治安当局の姿勢はかたくなだ。「NOON裁判」の弁護団に参加した京都市の石垣元庸弁護士は「指摘される騒音などの問題は個別法で対処できるはず。表現行為で文化的価値もあるダンスを、深夜に酒類提供を伴う場合は法や条例で規制するというのは一般感覚とずれている」と話す。
 11日夜のシンポにも参加した高山佳奈子京都大法学研究科教授は「警察からすれば、あえてグレーな部分を残し、優良店はお目こぼしをしようということかもしれないが、社会に危険を及ぼさない行為は処罰対象にはできないというのが憲法の考え方。『NOON裁判』では、クラブでのダンスは性風俗秩序の乱れをもたらさないとの判断も示され、実情に合った法改正が必要だ」と指摘する。
京都新聞  20160217
http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20160217000040
 風営法改正につながる国会審議や、大阪市のクラブ「NOON」の営業許可をめぐる裁判を通じて焦点になったのは、クラブなどのダンスカルチャーを規制対象とすることの是非だ。<上記より抜粋>
  ということだそうだ。まあ、正直に言うが「ダンスクラブ」の中には「良いものもあるし悪いものもある」ということが言える。実際に町の中の「社交ダンスクラブ」の中に性風俗に禁止するようなものがあるとはあまり思わない。しかし、中には、「老いらくの恋」に陥り殺人事件やストーカー事件に発展する場合も少なくない。要するに、そのダンスがダンスとして存在しているのか、あるいは男女の出会いの場として存在しているのか、ということが最も重要な分かれ道であり、その部分が問題にならなければ、話にならない。要するに、本来「クラブ」を一律に規制するというのは難しいが、逆に規制しなければ危険性が含まれることもこれまた真実であろう。
  要するに「踊ること」が重視されているのか、あるいは「アジール性」が重視されているのか。そのことが客観的に示されなければならない。例外はどのような場合にも存在し、その令外に対してだれの責任でどのように対処するのか?ということが最も重要で「許可をだせ」と言いながら、何らかの不都合な事実、例えば、性犯罪や麻薬犯罪、六本木の襲撃事件のように殺人や傷害事件が発生してしまった場合、その責任が「許可」ではなく「許可を出せ」といった人かあるいは「本人たちの自己責任」ということで終始し、行政の責任にならないのであれば、当然に、「許可」を簡単に取得できるようになるであろう。
  ようするに「許可」は出せといいながら「犯罪が起きれば行政の責任」というような身勝手な意見が多すぎる。そして、そのような中で、「行政の責任になるのだから」と言って「わいせつ行為や性行為」ができてしまうというのが実際のところではないのか。
  さて、ダンスというのは、実際に、「踊り」と思えば、「知らない男女がその時に会う機会ができる」ということになる。逆に言えば「踊り」から「性行為」につながることは少なくない。ましてやそこに酒が入れば、当然に、その様な危険が増す。そもそも踊りという激しい運動を行うときに、なぜアルコールが必要なのか?その辺も矛盾している。
  実際に、私の場合は「クラブ」は「男女が知り合うところ」であり、昔、江戸時代やそれより前に、村の祭りで、「逢引き」をしていたのとあまり変わらない、それが「年に一度の祭り」ではなく「毎日」場所的に「非日常」を作っている場所でしかないと思われる。場所的に非日常になるというのは、まさに、時代劇でしか見たことはないが、「吉原の遊郭」であり、それは「その中では女性の階級は決まっているもののお客さんの階級は一切不問」というような状況になってしまってる。遊郭の中は独自のルールがあり、そのルールですべての物事が動くという、そのような感覚になっているのではないか。
  まさに、その「遊郭」のように「アジール性の強い」クラブが存在してもおかしくはない。まさに、内部が不透明になっていれば、そのようになってしまうのである。
  さて、実際に、この論争がどのようになったのかはわからないが、しかし、た京都市の石垣元庸弁護士は「指摘される騒音などの問題は個別法で対処できるはず。表現行為で文化的価値もあるダンスを、深夜に酒類提供を伴う場合は法や条例で規制するというのは一般感覚とずれている」<上記より抜粋>とか高山佳奈子京都大法学研究科教授は「警察からすれば、あえてグレーな部分を残し、優良店はお目こぼしをしようということかもしれないが、社会に危険を及ぼさない行為は処罰対象にはできないというのが憲法の考え方。『NOON裁判』では、クラブでのダンスは性風俗秩序の乱れをもたらさないとの判断も示され、実情に合った法改正が必要だ」<上記より抜粋>というのは、まさに、日本人の民族や文化を全く無視した、内容である。逆に、このようなことを言っている人が、何らかの事件があると、まさに手のひらを反したように「人権」とか「犯罪抑止」などと都合の良いことを言うのである。
  要するに、実際に問題になるのは、このような「都合の良い人々の頭の中のアジール性」なのかもしれない。

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【GWのエロ】懲りずにまた芸能ネタ! マドンナのコンサートで女性を脱がしてしまったエピソードについて

【GWのエロ】懲りずにまた芸能ネタ! マドンナのコンサートで女性を脱がしてしまったエピソードについて
 さて、「裸」というと、日本人の場合「祭り」というような言葉が浮かぶ人もいるのではないか。基本的に、日本人の場合、「祭り」というと「ハレの日」という感覚がある。「晴れ着」というような「普段とは異なる服装をする」というのが、一つの内容になっているのであるが、同時に、祭りにおいて「肌脱ぎになって神輿を担ぐ男性」等、やはり「普段と違う」という感覚が存在するのではないか。まあ、「裸」で「祭り」といえば「裸祭り」と単純に繋げてしまうのではなく「非日常」という意味で「裸」をとらえることが日本人には少なくないのである。
  これに対して海外ではどうなのであろうか。もちろん、東南アジアや南米やアフリカの「裸で暮らしている民族」などは「裸」であることが「ハレの日」ではなく、単純に「日常」であるのだから、彼らにとってみれば、「服を着ること」が「非日常」になる。日本人のように「通常、そんなに豪華ではない服」を着ている場合は、「より豪華な服を着る」ということと、一方で「服を脱ぐ」ということが、一つの「ハレ」要するに「非日常」の表れになってしまうのであるが、日常が裸で暮らしている人々にとっては、「服を着ること」そのものが「非日常」なのである。
  一方やはり服を着ている人々にとっては「裸」というのはどのようなかんかくなのであろうか。北欧など太陽による日射時間の少ない地域は、日の光が出たときに浴びなければならないという感覚から「トップレス」になることは特に少なくない。しかし、それ以外の場合は、基本的に裸になるということは「非日常」の表現の方法の中にもあまりない状態なのである。
  逆に「裸」を「ファッション」の一つとして感がてえいるところがアメリカなどにはある。あまり良くわからない芸能界なので、何とも言えないし、間違っているかもしれないが、レディーガガなどは、裸と自分の「曲線」をうまく表現して「ファッション」としている。実際に、長いスリットの入ったスカートを着たり、あるいは、背中が空いたり、方が出ていたりというようなドレスであったり、それらは「肌を一部見せることによって美しさを表現する」というようなファッション的な考え方から、そのような服になっている。
  ちなみに、エロ的な考え方からすれば、当然に、「エロい目」線要するに「見えているところから見えないところを妄想する」ということが行われるわけである。逆に言えば、「女性」の見えない部分に関する、男性を引き付ける魅力を「見せない」のではなく「ヒントを与える」ことによって「より美しく表現する」というような状況になるのである。そして、それらは「普段」から行っていればただの露出狂であるが「パーティー」という「祭り」の一種で行われるから、素晴らしいのである。
  さて、長々と「祭り」と「裸」について、非日常というキーワードで書いてみたが、その非日常で「本当に裸にされてしまった女性」について、3月に話題になったので、その件について考えてみよう。
マドンナ、コンサートで女性ファンの服を脱がし胸が露わに
 現在、「レベル・ハーツ」ワールドツアーで世界中を駆け巡っている人気歌手マドンナが現地時間17日、オーストラリアでのコンサートでステージに上げた観客の女性ファンが着ていたチューブトップをズリ下ろし、胸が見えてしまうというハプニングが起きたという。MirrorやTMZなどの海外メディアが伝えた。
 インターネットなどに流れている動画を見ると長身のロングヘアの女性がマドンナの隣に立っている。マドンナはモデル体型の女性について「思わずお尻を叩きたくなっちゃうような女の子ね。それと引っ張りたくなる」と言うと、女性のトップを下に引っ張ったが、その瞬間に女性の胸が見えてしまうハプニングが起きた。マドンナはトップがずり落ちることを予測していなかったようで、女性の胸が見えるとし「あら、しまった!」と言って驚いた様子だった。
 一方、女性の方はそれほど慌てている様子はなく、すぐにトップを元の位置に戻している。マドンナが女性を抱き寄せ「ごめんなさい。セクハラだわ。私にも同じことしていいわよ」と伝えると、女性はマドンナに笑顔を向けてマドンナを抱き返しており、観客からも笑い声がこぼれていた。
 とんだアクシデントだったが、女性が辱めを受けたと感じている様子や怒っている様子はなく、茶目っ気を見せていたのが救いだったようだ。
2016年3月18日(金)15時0分配信 クランクイン!
http://news.nifty.com/cs/entame/showbizwdetail/crankin-4213401/1.htm
 たいそうな始まりから考えて、一体どんな記事が来るのかと思えば、マドンナのコンサートである。それもオーストラリアで行われたもので、日本ではない。
  しかし、コンサートという場所が「祭り」つまり「非日常」であるのは、オーストラリアも日本も同じようである。そのために、マドンナのコンサートにおいて「服を脱がされる」というハプニングに対して、「怒らない」ということが起きるのである。
  さて、この「ハレ」の内容に関して、注目したいところはマドンナの対応である。
  そもそも、マドンナが観客の近くにいるという状況でなければ、このようなハプニングは起きない。日本の場合は、芸能人であってもVIPで会っても舞台の上と観客席というように、完全に「敷居」を高くして、まったく違う状況にしてしまう。そのことは、単純に言えば、「芸能人と一般人の垣根が高い」ということを意味しており、「一体化」などということは当初から考えていないというような状況を想定しているのだ。しかし、それだけではなく、その後、「観客と、マドンナが、近く(手の触れ合う・服に手が届く)距離にいる」ということが、このエピソードの前提条件にあるということが分かっていなければならない。単純に言えば、日本のように垣根が高いところではエピソードができないということになってしまう。日本人は、その運営会社の過剰な安全意識によって「なんて損をしているのであろうか」というような感覚になる。
  そして、もう一つが、服を脱がせてしまった後の対応であろう。
  一方、女性の方はそれほど慌てている様子はなく、すぐにトップを元の位置に戻している。マドンナが女性を抱き寄せ「ごめんなさい。セクハラだわ。私にも同じことしていいわよ」と伝えると、女性はマドンナに笑顔を向けてマドンナを抱き返しており、観客からも笑い声がこぼれていた。
  <上記より抜粋>
  日本の芸能人で、コンサートなどの会場で、同じように何らかの過失で相手の服を脱がせてしまった場合、その女性に対して「私に同じことをしていいわよ」といえる芸能人は何人いるであろうか。もちろん、そのようなところだからカメラも多くあるし、このような記事が出ているということは、当然に記者もマスコミも少なくない。そのようなところで、自分に対して、それができる人などはほとんどいないのではないか。
 芸能人が客に対して、どのような考え方で接しているかということは、このような対応でわかる。単純に「ごめんなさい」ではなく、例えば、相手がやらないと分けっていても、このような声をかけられる事が「客と一体感を持つ」ということにつながるのではないか。それが「裸を見せてしまう」ということであっても、そのことが「一体感」ということがあると「感動を呼ぶ」のである。
  例は非常に不謹慎でなおかつ不敬なのであるが、東日本大震災の後、「被災者とともに」という大御心から、電気がなく缶詰などで生活をされていた天皇陛下と皇后陛下が話題になり、そして、そのお志に、多くの人が感動を受けた。マドンナが同じといえば、それは確かに不敬ではあるが、私たちは「天の上」とか「自分とは違う」と思った人が、「自分たちと同じところまで下りてきてくれた」ということに、最も感動をするのではないだろうか。天皇陛下とマドンナが同じなのではなく、その両方のニュースに接した私たちの「感動」の原因、方向性が同じということであろう。
  さて、同時に、この女性は抱き着いて怒らなかった。これはまさに「ハレの日」の非日常ではないかということになる。さあ、私たち悪者のエロには、「ハレの日」であれば、多少のことは許されるという知恵が出てしまった。しかし、それは、逆にマドンナくらいの人格者で、なおかつ一体化している人であるからできることであり、私たちのような人では、平手打ちの上警察に通報されることを覚悟すべきではないか。

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