日記・コラム・つぶやき

ヒ素カレー事件最高裁判決でる。裁判員制度と死刑判決について。

ヒ素カレー事件最高裁判決でる。裁判員制度と死刑判決について。

 4月21日。午後3時からの最高裁で、今から11年前の8月に起きたヒ素カレー無差別殺人・殺人未遂事件に関する判決がでた。被告人林真須美に対して二審の死刑判決に対する上告が棄却され、死刑が確定した。
 ヒ素カレー事件とはどんな事件だったか。
 11年前和歌山県の夏祭りにおいて、地域住民が皆で当番制で作っていた無料で出されるカレーに、林被告が砒素を混入し、その砒素中毒により、小学生・高校生を含む4人が死亡、17名が砒素中毒で入院加療となった事件である。その後の捜査で、林被告の自宅から発見された砒素と、混入された砒素の化学的な特徴が類似していること、林被告がカレーの鍋に一人で近づき鍋のふたを開けたと言う目撃証言があることなどがあがった。しかし、捜査から昨日の判決まで、状況証拠しかあげられず、客観的な証拠がなかったこと、そして、林被告が一貫して無罪を主張し、自供が得られなかったこと。それにより動機が不明であることなどが争点となり、また死刑という量刑が妥当であるのかということが注目された。特に、来月から始まる裁判員制度との関係で、様々なことが言われている。
 さて、ニュースや新聞を見ていると、様々な論点が整理せずに出されている。十数分の尺で様々なことを言わなければならないし、なにもわからないコメンテーターが目立ちたいばかりに新視点かのようにいろいろというので、まとまりがないのも仕方がないのかもしれないが、結局視聴者にわかりにくい報道になってしまっている。
 そんなことで、論点を整理しよう。
 まず、個別事件の死刑判決について、状況証拠と動機の解明なしでの有罪確定は妥当かと言うことである。
 第二に、状況証拠と動機の解明内情強での死刑という量刑は妥当かということであろう。
 二つの論点は似通っているかもしれないが、一つ目は罪刑論・刑法各論であるのに対して、二つ目は量刑論である。二つ目の論点には死刑廃止論という論点もあるのかもしれない。
 最後に、裁判員制度についての是非。すでに決まったことに関して、是非を問う必要はないが、運用と、そして裁判員として国民一人一人が考えなければならないことを、そして、その裁判員に影響を与える報道の公平性や責任と言うことも言及しなければ成るまい。
 恒例により、といっても最近ではあまりしていなかったが、私の個人的な意見から。まず、罪刑論に関しても量刑論に関しても妥当と思う。理由は後に記載する。裁判員制度に関しては、いろいろと言っているが、実際皆心の中で「無責任な」裁判の批評は行っている。法律の根拠などが無くても、マスコミの報道を元に様々な批評をしている。今、求められているのは無責任な発言の可否であろう。裁判員として、資料を見、捜査の報告を受けながら、責任ある自分の意見を言うことができるかということであろう。と言うことで、裁判員制度に関しても、影響のあるものではないと考える。
 一つ一つ論点を考えてみよう。
 まず罪刑論。つまりは死刑という刑が妥当かということである。
 日本は法治国家である。過去にも何度か書いてきたが、日本国民が刑に服さなければならないときには、それなりの手続きが必要だ。刑法上、その罪刑言い渡しが認められるのは、「罪刑法定主義」「違法性」「責任」が全て被告人において認められる場合でなければならない。
 「罪刑法定主義」とは、予告なしに逮捕されて有罪が決まることはないということだ。逆説的に言えば、法律としてあらかじめ、どのような行為をしたら罪になるのかと言うことが決められている。刑法ばかりではない。商法や有価証券に関する法規にも刑罰規定は存在するし、麻薬取締法・道路交通法など、刑法のように思われていても、そうでない法律も存在する。これら法律は、国会で審議され、少なくとも官報で公開されている。関係省庁に行けば、説明を受けることも可能だ。基本的に公開された情報であるということができる。公開された情報を「知らなかった」と言うことは許されない。要するに、法律で罪刑に値するという行為をすれば、罪刑が問われる。
 「違法性」とは、その行為が違法に行われたことかどうかと言うことである。同じ行為をしても、罪が問われない場合があるのだ。たとえばスピード違反。通常スピード違反をすれば免許取消などの処分を受けることになる。しかし、警察や消防・救急車・ガス水道電気の緊急車両は、緊急時に限って、赤色灯を点灯しサイレンを鳴らすことによって違反でなくなる。当然にスピード違反をしても、それが違法ではないからだ。電気・ガスなどの民間会社にも認められている。このほかにも、正当防衛も違法性がないと判断される。人を殴れば暴行・または傷害罪になる。しかし、相手がナイフなどをもってきていて抵抗しなければ自分が殺されるという時には、有る程度の抵抗権は認められる。同じ、人を殴ると言う行為をしても、違法性がないとして、罪にならない。このように公共の利益または、その行為を行わなければならない緊迫制の事由が存在する場合は、違法性がないと判断される。
 最後に「責任」である。その人に責任のない行為は、罰せられない。心神喪失状態で行った場合、精神病患者などは犯罪を犯しても責任能力がないとされる。ニュースなどでよく見るのは、重大犯罪などの報道の時に、精神鑑定を求めるのはこのことである。この場合、その犯罪者には責任がないということになり、刑法上は無罪となる。当然に、次に精神上の問題で、また犯罪になっては困るので、精神病院において加療され、その後も観察が付くようになるのであるが、前科が付かないなど犯罪者としては扱われなくなる。
 さて、今回のヒ素カレー事件に関して、検証してみれば、まず罪刑法定主義における財形に当たる。「砒素をカレーに混ぜて不特定多数に食べさせれば、人が死ぬかもしれない」という故意が存在する。ヒ素は間違いなくカレーの調理において過失ではいるものではない。ということは何らかの故意が働いたことは間違いがない。要するに「人が死ぬかもしれない」と思いながら「故意にヒ素を混入した」ということになる。これは、「殺意を持って人を殺した」ということで、殺人罪が適用される。
 なお、このときに、「故意を立証するために動機の解明が必要である」という考え方もある。動機がない場合は、過失である可能性もあるからだ。今回の訴訟においては「人を殺す意思」または「人が死ぬかもしれない」という認識が存在することを持って、そのための動機の解明がないことは殺人罪と断定するのに妨げにならないという判断を下した。通常、人を殺すという重大犯罪を行うには、それなりの動機があるものと考えられている。しかし、今回の裁判では、それだけの動機でなく、認識の身で足りるとしたのである。
 動機とは、当然に犯罪者(被告人)の個人の主観である。犯罪当時の主観の解明がなければ殺人罪を適用できないのでは、殺人罪などなくなってしまう。一つは、砒素を混入したという原因行為があり、もうひとつで、砒素を入れれば人が死ぬ可能性があるという認識があれば殺人罪を適用できるという判断である。私の個人的な考え方では、動機は、殺人罪における減刑事由に当たるが、逆に構成要件に含まれないと解釈している。要するに、動機がはっきりしていて、その動機に情状酌量の余地があり、同時に、第三者に殺人の被害者を出す可能性がない場合、殺人における量刑が減刑される場合があるという考えである。今回の場合、動機がはっきりしないということは、逆にいえば、林被告の場合、同一の環境になれば動機がなくても第三者を殺してしまう可能性があるという考え方も成立するのである。
 違法性については、申し分ない。少なくとも違法性阻却事由はどこにもないのである。また、責任能力に関しては、複数回の判断で能力があるとされている氏、また、第一審では黙秘を、第二審以降は無罪を主張できるだけの、能力が存在すれば、責任能力も当然に存在する。
 最後に、物的証拠がなく、状況証拠のみしか存在しないという論点が存在する。しかし、まず、カレーの中にまんべんなく、砒素を混入できるのは、カレーを製造した人の中にしか存在しない。その中において、一人で鍋の前にいた、また、目撃証言において林被告が鍋の前にいた時に湯気が立ったということは、ふたを開けたということを示す。物証に近いものとして、自宅から混入されたものと同じ化学成分のヒ素が発見されている。この犯罪の場合、混入できる人は限られている。その限られた中において、ほかの可能性を排除し、また、砒素の特性などの状況が特定できれば、犯罪被告人として問題がないという判断を行った。これは、通り魔殺人のように、不特定多数の人が犯罪を犯した可能性がある事件とは異なる。ある程度特定された犯罪可能性卸数の中における状況証拠は、当然に一般の状況とは異なり、その証拠性にも重要性を増すことになる。そして、それは、被告人を犯罪者とするに断定するだけの証拠性を有すると判断したものである。刑法の裁判の場合「疑わしきは犯罪者の利益」という原則がある。しかし、この犯罪の場合、千以上の状況証拠は、「疑わしき」ではなく、断定するに足る証拠であったと解するとのことである。
 すべての事件において、「状況証拠だけで犯罪が成立する」というものではない。今回の事件の特性がそのようにさせたのであろう。

 さて、次の論点で量刑論である。これは無期懲役ではなく死刑で良かったのかということである。
 日本の裁判の場合、殺人罪での死刑は、「複数人の殺人」「無差別殺人」「猟奇殺人」の場合に限られる。他の犯罪、たとえば強盗殺人など、ほかの要素と一緒になっていない殺人の場合は、そのような要件になっている。今回の事件の場合、林被告において殺人罪が適用されることが明らかである場合、当然に「複数人(四名)殺人及び複数人(二十一名)殺人未遂」ということ。地域の祭りに来た人にふるまわれるカレーであるということから「無差別殺人」であること。そして、釈放した場合に今後も同様の犯罪を犯す可能性が消えていないこと(謝罪の有無)(動機の未解明)。以上の状況から、死刑という量刑は、過去の殺人事件の裁判判例からみても妥当といえるのであろう。

 さて、最後に、この事件から裁判員制度を考えるということになる。
 裁判員制度とは、一般から選ばれた裁判員が、罪刑論及び量刑論の判断に関与するものである。今回の事件の場合であれば、その裁判員は死刑を宣告しなければならない。
 しかし、だれもが、いままでの裁判の判例に関して「打倒」とか「不当」といった意見を持っていた。テレビのコメンテーターなどは、裁判所をさばくかのごとく、自信を持って行っていたはずだ。
 そもそも、裁判になる前に、犯罪者扱いをして、社会的にさばくようなことも少なくない。松本サリン事件などはその最たる例である。そのような悲惨な事件があったにもかかわらず、いまだに無責任な論評を、刑事事件において垂れ流していし、それを受けて新聞の投稿欄などに、無責任に意見を投じている国民も少なくない。
 裁判員制度で最も考えなければならないことは、マスコミや国民一人一人の意見が「無責任であ会ってはならない」ということ。そして「責任を持って判断した人を、周囲が無責任に批判してはならない」という二つの原則ではないだろうか。
 マスコミそのほかの報道や国民の声、最近では、インターネット掲示板の意見など、無責任な論評が少なくない。それにたいして、左右された、判断をしてよいのか。また左右されないで法律に従った裁判を批判してよいのか。そもそも、そのような判断をした人を無責任に批評して良いのか。それまでに、判断を左右するような恣意的な報道を行ってよいのか。
 そもそも、刑事事件をワイドショー的に煽ることそのものが不謹慎でなはないのか。そこにおける無責任な発言を許してきた国民にたいして、裁判員という立場を充てることは、自分の意見ということに関して考えなければならない状況を作ったのではないだろうか。
 同時に、この文書でも過去に何度も言ってきたように、常識と法律を食い違っている人が少なくない。日本は法治国家であるのに、法律を無視した「常識論」が少なくない。正論が虐げられるようじゃ世の中では困るのである。憲法を無視して野党の党首が解散を軽々しく口にし、それを煽るマスコミに乗せられて、野党への政権交代を望むようでは、困るものである。
 そのような状況において、常に法律的にhんだんし、責任のある発言を求めるということは重要である。裁判員制度そのものに関しては、まだ初回であるし、国民やマスコミにそれだけの、インフラ、要するに法律に対する意識が全くかけている状態であるために、さまざまな試行錯誤も加えなけえばならないし、うまくいくとは限らない。しかし、そのような内容において、無責任な発言を許さない国民的な風潮が形成されるのはよいことではないだろうか。問題は、その国民的なインフラや法律に関する認識が形成される前に裁かれる犯罪者にえん罪が出ないようにしなければならない。

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大麻汚染広がる。身近な麻薬をどのように対処するのか

大麻汚染広がる。身近な麻薬をどのように対処するのか。

 最近、年末に書けて余りよい話題が少ない。大阪で発生したひき逃げ事件などは、政治などと無関係であるが、発生して欲しくない事件である。交通事故は非常に多くある。過失は誰にでもあると思うが、事故が起きたときの対処方法で、事故が事件に発展してしまうことがある。マスコミが報道するのは事件であるが、その事件でも、このような事件は避けられたのではないかと思う。被害者の冥福を祈ります。

 事件として、おもしろい事件もあった。ストリップ劇場で、露出しすぎるとして踊り子と経営者が逮捕されたという。私自身、ストリップ劇場はいったことがない。ストリップ劇場でなくても手軽にいろいろの物があるので間に合っている。しかし、ドラマなどでだいたい話を聞いて雰囲気はつかめる。しかし、ストリップのショーの最中に、露出しすぎるとして逮捕されたのはどうであろうか。ストリップ劇場は、女性の裸を見せる場所で、顧客もそれが目当てで入場している。ある意味自己の仕事をしていて逮捕されたのであるから、被疑者は納得行かないのではないだろうか。猥褻の度合いがひどすぎるという理由だそうだ。顧客との会いだで何らかの行為(書き方が難しいのですが)をさせていたとなれば、売春などの犯罪が成立するのでしょうが、ストリップ劇場で「猥褻罪」はなかなか。そもそも、閉鎖された空間内での「猥褻」行為で、なおかつ、顧客はそれを目当てに来ているという事で、被害者が存在しないような気がするのです。秋葉原のネットアイドルが公然猥褻罪で逮捕されたのとは違うような気がしますね。もちろん、程度のほどはわかりませんが、正直なところ、私は個人的に、ストリップ劇場側に同情します。

 被害者がある事件と、私の考えるところ、あまり被害者がいない事件。表題と異なる二つの事件を、あえて二つ挙げました。さて、最近大きく取り上げられているのが大麻の吸引または栽培と言う事件である。
 まずは、ロシア人力士が大麻吸引で相撲協会からの解雇処分になる、その次に二人のロシア人力士。次に白金台の主婦層に対する売買現場がテレビで大きく取り上げられ、イラン人11名が逮捕された。その後は、慶応大学や早稲田大学の学生が次々と、大麻栽培吸引で逮捕されている。ロシア人力士は別にして、白金台の主婦や慶応・早稲田と言った超一流大学の生徒、という知識人というか、一種のエリートにこれら麻薬が蔓延している事実に、ある意味驚愕する。
 以前、麻薬取締法違反で逮捕された人と話す機会を得た。「別に他人に迷惑をかけたわけではないから、犯罪とは知っているが、問題とは思っていない」覚醒剤の所持と使用で逮捕された彼はそういった。上記のストリップ劇場の論理だ。彼の場合、友人数人と覚醒剤を使用したという。友人を誘うと言う状況であったという。しかし、麻薬による幻覚作用は、時に他人を害する可能性を多く有しており、この件に関して彼の意見に同調するわけには行かない。
 ただ、私の場合、もう一つの疑問があがる。「よく買う金があったな」。要するに違法品の売買は、暴力団組織や外国人などが介入しているため、少量でかなりの金額になる。「いや、バイトで稼いだよ」。かれは、この覚醒剤により、会社を辞めホストになったという。絵に描いたような転落人生だ。
 
 この大麻の事件。栽培も吸引も含めて、結局のところ 
「麻薬と言われる物の常習性と幻覚による犯罪をどこまで認識しているか」
「麻薬購入に関しての資金源や、その購入資金の拠出」
「麻薬犯罪に対する国の対応」
 の点に凝縮される。
 ここは、一応国会新聞の文書なので、「麻薬は怖いものだ」「麻薬に手を出して悲惨な結果になった」などの犯罪抑止に関することを延々と続けるつもりはない。ただ、それらに関しては、前提にあると考えていただきたい。

 まず、麻薬について。
 私は、厳密に言うと違法なのかもしれないが、外国で経験したことがある。中国の奥地、少数民族の村において接待を受けたとき。鍋物が出てきた。民族の長は、もっとも高級な鍋であるという。名を桃源郷鍋だそうだ。やり方をここで詳細に書くと、犯罪の誘因になるので辞めておこう。いずれにせよ、その鍋を囲んだ人全員が麻薬を体内に入れる状況であった。
 薬が効いている間は、確かに「桃源郷」だったかもしれない。しかし、翌朝の吐き気と頭痛と倦怠感はさすがに閉口する。私の経験上、この苦しさを感じる人は終わるであろうし、薬が効いている間の「桃源郷」がある間を敏感に感じる人は中毒になるのであると感じたものである。
 そのときに、数名切り傷ややけどなどをしている人がいる。また幻覚で動けなくなる人もいたと記憶する。幻覚や正常な感覚でない状況におけるその人の感覚は、まさに制御不能であろう。

 麻薬が元で戦争が発生したことがある。いわゆる「阿片戦争」である。中国では、欧米列強が入国したときに東南アジアで入手した阿片を持ち込み、至る所に阿片窟と言われる阿片の吸引場を作った。阿片中毒を引き起こさせることにより、植民地支配を徹底しようとしたのだと言われる。その取引に日本が介在したとかしないとかはこの際問題はない。中国は、これに対して抵抗し(または余分に阿片が欲しくて輸送船を襲ったという説もある)、結局そのことが原因で戦争が発生した。欧米列強は、この戦争で勝利し、中国、当時の清王朝と条約を締結するにいたったのである。
 中国はこの歴史をふまえ、現代でも麻薬の使用(栽培・販売・吸引を問わず)や所持は極刑に処される。これは政府要人でも、その家族、親族でも変わらないのである。日本のような懲役とかではなく、国家を戦争に導く反逆罪の一種と考えられているからだ。
 
 逆に、大麻・麻薬に関しては使用に制限がない国があることも事実である。使用制限がない国は、使用場所を決めるなど、間接吸引を行わないような状況を意識することと、幻覚などにより犯罪を犯した場合の系が重くなるのである。

 麻薬に関しては、麻薬そのものの使用ではなく、幻覚や常習性と言った事から派生する犯罪および、麻薬購入資金に関する犯罪・または逃走(戦争)の抑止が最大のポイントといえるようだ。法律で規制すると言うことは、それだけ常習性などの依存度が強いと言うことで、使用そのものを規制する国が多い。
 なお、麻薬を使用することによる身体への影響は、事故責任の範疇と考える。

 さて、違法性の可能性の原因がはっきりしたところで、その資金である。昔から違法性の高い資金源は、そのままマフィアに流れるのが筋だ。「アンタッチャブル」という映画が好きである。アメリカで禁酒法が思考されていた時代に、アル・カポネ率いるマフィアと、捜査官エリオット・ネスの戦いを描いた作品だ。途中、ネスの仲間が殺されるなど、そうさという範囲ではなく、また現代の刑事物のドラマなどと違い、かなり動きがある映画だ。まだ白黒の時代、テレビドラマとして有名になったが、1990年代に映画としてリバイバルされた。見た人も多いのではないかと思う。
 映画の宣伝はこの辺にして、この話でわかるように、違法性の高い物は、マフィアの資金源になる。日本では広域暴力団か外国人であろう。違法性が高いと言うことは、違法であるという認識と、それだけでなくそこからしか購入することができないという、一種閉鎖商圏が成立する。閉鎖商圏とは、たとえば映画館の中やディズニーランドのように、入場して、その中で購入するばあい、高いと感じても買ってしまう心理商圏事を言う。閉鎖商圏になった場合、顧客は値段などの価値選択ではなく、買うか買わないかという選択肢しか存在しなくなる。完全な売り手市場だ。選択肢がそれしかないので、結局高い値段で購入する事になる。映画館の場内で高いと思いながらジュースとポップコーンを買ってしまう経験は誰でもあるだろう。
 違法性の高い商品は、まさにこの閉鎖商圏を使っている。物理的に入場券などが必要なわけではない。しかし、その人からしか購入することができないという心理的閉鎖商圏が発生する。このことは、ある程度の相場があるにせよ、麻薬などが高く、そしてマフィアの資金源に利用される大きな要因だ。
 上記の麻薬などを解禁している国の理論は、まさに、このことを心配し、違法とする方が、社会的にマフィアの資金源を作ることになるので危険性が高いという判断であろう。規制する物を最小限にして、資金源を少なくすると言う政策もある。その一事を見て、国の比較を行うことはおかしいという話になる。
 さて、そのように高騰する商品を資金源とするには、当然に常習性が必要になる。「あったらいい」から「なければならない」に購入側の心理が変化するという話になる。麻薬はその常習性・依存性が強い。また辞めるときの苦痛はかなりの物である。私の上記の経験でもそうだが、かなりの苦しみであるといえる。苦痛を和らげるために苦痛の原因となる薬を常用するという悪循環がここで発生することになる。そこに閉鎖商圏である。結局のところ、借金や犯罪をしても購入するという欲望が発生する。苦痛から逃れると言うことがそれを誘引する。 
 それだけでなく、違法行為をしていると言うことが、他の選択肢を狭めてしまう。違法行為を隠したいがために、第三者への相談機会を奪う結果になる。そのことが、より一層閉鎖商圏としての閉鎖の度合いを強める。マフィアからそのことを指摘されれば、他の違法行為も辞さないことになりうる状況なのである。
 マフィアの商売や資金源に、閉鎖商圏の理論を使うのかどうかと言うことは、異論があるかもしれない。しかし、実際に心理的閉鎖商圏が麻薬類の高額を招き、その価格の資金源としての役割を持たせてしまうことになる。

 さて、これらに対する政策である。と言っても、取り締まりはすでにしている。私もさすがに、今の日本で大麻や麻薬の合法化に踏み切れと言うほど過激な意見は持っていない。今の大麻の問題と暴力団の資金源としての機能を奪うには最も有効である。しかし、大麻で逮捕されたのは未成年も含まれている。たばこですら吸えない人が、麻薬というのはさすがにどうかと思う。
 解禁という手段はないとして、では、取り締まりの強化と言うことになる。しかし、警察の人員の都合上、そういうわけにも行かない。そもそも、大学の学校内で取引をしているなどとしては、通常の見回りなどで見つかるものではない。
 日本のように海で囲まれた国は、逆に漁船など小さい単位ではどこからでも荷物が入る可能性があることを示す。そのことは150年前の吉田松陰が、鎖国などと言っていても何の役にも立たないことを説き、そのまま、ペリーの黒船4艘で証明されている。
 さて、どうしたらよいか。
 私の私案では、取り締まりを緩くすればよい。いわゆる「アメとムチ」である。
 上記のように、きっかけはともかく。閉鎖商圏に陥って抜け出せない人が少なくない。この人たちをいかに閉鎖から抜け出し、麻薬を辞めさせるかと言うことが最も重要であろう。そのときに、違法性と犯罪者の汚名というもう一つの閉鎖商圏があることを指摘した。その閉鎖商圏をいかに取り払って、楽にさせることができるかという事が最も重要である。そのためには、単なるユーザーと販売者とでの取り締まりを変えてゆき、ユーザーを救出する手段を講じなければならない。このことは立法ではなく、刑事訴訟での情状酌量などをすればよい。もっと言えば、このような民間に浸透した犯罪に関しては、ある程度の司法取引も必要であると考える。日本の場合、権利意識が強いために、これらの方法はあまり使われない市禁止されている場合もある。それをいかに行うか、と言うことが最大の課題になる。そうさ協力をしても有罪は有罪。しかし、その罪に関して酌量があるとすれば、閉鎖商圏から抜け出せる人は少なくない。
 
 あくまでも暫定である。しかし、この暫定は、常習者ではなく大学生などが興味で吸引したという部分で、使えば効果的になるであろう。
 また、本来であれば、そのような条件になる前に、しっかりと道徳教育をすれば良いという考え方もある。だいたい、どんな教育をしても犯罪者という物は出てくるが、今回は、高学歴の大学生や有閑夫人。いずれも高い教育を受けたり、またはそれなりの生活水準を保っている人に汚染が広まっているという話である。ある程度ステータスがあれば、それだけ閉鎖商圏が効果を増す。また、今の高学歴教育とこれら道徳観念があまり関係がないということもいえる。戦後教育で道徳教育を行わなかったツケが、このようなところで出てきてしまっているのである。
 日本の教育に関しては、様々言うべき事がある。しかし、この大麻の問題と、教育を絡めるのは辞めたい。ただ、今の日本の教育では、高学歴と言うことが道徳や人格に結びついていないという事が明らかになったことは事実だ。教育改革の中心はこのようなところにあるのかもしれない。
 いずれにせよ、たぶんこの種の犯罪がなくなることはないと思うが、根絶を目指すと言うことで、政府も国民も心して考えるべきではないだろうか。

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硫化水素自殺に関する一考

硫化水素自殺に関する一考

 最近硫化水素による自殺が増えている。流行というと誤解を招くが、どうも自殺には流行があるようで、その時その時の自殺の方法に何らかの共通性があるように感じる。
 今回は、政治とはまったく関係がない話をしようと思う。何でも政治に関係があるといえばそれまでで、政治が悪いから自殺者が増えるなどとこじつけて話す人もいないではない。しかし、基本的には、同一の状況におかれた人がすべて自殺を「強要」されたわけではないので、実際に自殺と政治は関係がないと考える。
 政治と関係がないことをあまり書くのはどうかと、この一連の私の文書を読む人にいわれるのであるが、社会現象にかかる問題は、一考する必要があると考える。
 さて、ここに関して言えば、「自殺」ということと、「手段の選択」ということ、そしてその手段による「社会的な影響」ということの三種類の話から考えなければならない。
 まず「自殺」について。
 自殺に関しては、最近自殺の報道が増えたような期がする。実際に自殺の件数も増えているという。新聞報道などによると、最近の硫化水素自殺に関しては、その自殺に至る動機などが報道されることは少ない。報道の多くは、硫化水素が発生したことによって周囲住民が避難した、というような周辺の影響に関する記事が多い。しかし、実際その人が自殺という手段を選ばなければ、周辺への影響もないので、そのような報道にもならないはずである。
 自殺の件数と同じように増えているのが、あまり同期のはっきりしない殺人事件である。「そんなことで人を殺してしまうのですか」というような殺人事件が少なくない。昨年起きた横浜の裏サイト殺人事件のように、単に裏サイトで集まって、見ず知らずの人を強盗目的で殺してしまうという事件や、裏サイトでアルバイト感覚で関係のない人を殺してしまうということが多発している。無差別殺人または無差別とまでは行かないまでもサイトによる依頼殺人といった「個人的」そして「ゲーム感覚」の殺人が増えている。
 殺人と自殺は「人を殺すという意思」が他人に向かっているか自分に向かっているかということにほかならない。いずれにせよ「人を殺す」という意思が存在することに変わりはない。
 動機があるう場合は、その人の行動に理解ができる場合がある。人殺しを理解するといえばおかしいかもしれないが、自殺の遺書などを読んで、その人の自殺までの経緯を理解することは可能である。もちろん、奨励するわけでもないが、その人の自殺または殺人という行為に至った思考の順序をたどることは可能であり、同時にどこで「間違った」のか、振り返ることは可能であろう。
 しかし、動機がない場合はそれを理解できない場合が少なくない。いわゆる自殺サイトによる集団煉炭自殺などは、「自分をいらないと思った」など、まだ自殺を選択する必要がない状態で自殺をしているので、その行動は理解が難しい。
 いずれにせよ、人の命を奪うということは、完全に究極の選択肢であるといえる。いくつかの場合で理解できる場合が存在する。それでも賛否両論があり、避難されることを覚悟でいえば、死刑執行人や戦争の最前線にいる兵士、そして終末医療の医師などがそれに当たる。それ意外の場合で死を選ぶというのは、個人的にわからないでもないが安易なものではない。
 ではどうして「何となく自殺」「動機なき殺人」ができるのであろうか。私は単純に教育の問題と考える。現在の教育は「学歴」が重視するものの「社会性」があまり重視されていない。そもそも「学力」でなく「学歴」が重視される教育というのはいかがなものであろうか。学力があるから良い学校に入れるのではなく、良い学校に入るためのテクニックを学ばせる学校が少なくないという事実がある。
 そもそも学校は「社会性」「人間性」を学ぶところではないだろうか。では、その「社会性」「人間性」を教育できる教師はどれくらいいるのであろうか。これは学校だけではない。家庭でも同じ。過保護に育てば、物の大切さがわからなくなるという状態。社会性・人間性が育たなくなるし、知恵が出なくなる。
 また、社会での役割がわからなければ、自分の存在意義がわからなければ、その存在自体に疑問が出てくることが少なくない。人の大切さもわかるものではない。
 殺人事件などが起きれば、すぐにゲームなどというが、そうではない。ゲームをゲームとしてとらえることができないような教育をしている現状を考えるべきではないだろうか。やたらと、ほかのものに責任を転嫁しているが、実際日本の教育の問題が最大の問題であろう。

 次に、「手段」「自殺の方法」である。どうも連鎖するようである。心霊マニアでは「前に自殺した人が呼ぶ」などというが、はたしてそうであろうか。
 人は、単純に死に対して漠然とした恐怖を持っている。また、死に至るプロセスでの苦しみに対しても、漠然と恐怖を持っているものである。そして、その恐怖をなるべく少なく「死」という結果を得たいのである。「死んでも良い」は「苦しくて良い」ではない。自殺者はわがままである。概して、周囲が見えなくなってしまっているので、自殺という選択肢以外がなくなっている人が少なくない。客観的にみれば「死ななくていいのに」「やり直しができるのに」ということが、いつの間にかそれで終わりになってしまう人が少なくないのである。
 そのわがままな意思を持った人が「手軽で苦しまずに死ねる」となれば、それに飛びつくことは少なくない。
 硫化水素自殺は「手軽」であることは否めない。「まぜるなきけん」と書いた洗剤を混ぜたら良いだけである。苦しむかどうかは、私は知らない。いずれにせよ、その方法で死ぬことができるとわかって、なおかつ、かなり手軽に死ぬことができるとなれば、簡単にそれに手を出してしまう可能性は少なくない。
 しかし、自殺の方法はどうしても連鎖してしまうことが否めない。これは、手軽などの事情だけでなく、単純に「報道が次の自殺の引き金になっている」ということを考えなければならないであろう。報道の影響は、いわゆる犯罪の二次現象である「愉快犯」などでいうことができるが、自殺に関しても同じ効果が現れているといわざるを得ない。
 そしてその内容は自殺に関する方法まで影響を及ぼしているのである。報道に関しては、その辺の影響を考える義務があるのではないだろうか。

 最後に、その自殺による影響である。しかし、これは二つの観点が必要である。一つは「自殺」によって直接影響を受ける友人や親族などの関係。もう一つはまねして自殺するとか、硫化水素発生により関係ない人が中毒症状になるという影響である。前者を「直接的影響」とし、後者を「間接的影響・社会的影響」としよう。
 直接的影響に関しては、まさにそれまで存在していたものがなくなるのであるから、その影響は計り知れないであろう。特に心的影響まで含めれば、かなりの大きさになることは想像できる。このことについては、それ以上言う必要はないであろう。
 問題は社会的な影響である。自殺の方法によっては、その社会的な影響が少なくないものも多い。電車への飛び込み自殺などは、数万人に及ぶ影響を考えなければならないし、硫化水素でも同じである。
 また、自殺ということがでる社会的な影響に関しても、少なくないのは同じである。ことに「自殺の名所」などとなってしまっては、目も充てられない。
 それらを防止する手段が必要であるが、なかなか難しいであろう。一つには、日本に宗教館がないことが、不文律・道徳率の欠如を招き、その結果が今日の結果の一つになっていることは間違いがない。とはいえ、宗教に盲信して良いことはない。
 結論として「いいかげん」を勧める意外にはないのではないだろうか。そのことに関しては、今度ゆっくり開設するが、日本人は「責任あるいいかげん」が下手である。それを学ぶことがこの問題の解決につながるのではないだろうか。
 いずれにせよ、この事件を持って、強力な洗剤がなくなるのも困るし、ゲームなどが規制されるのも困る。根本的な問題を解決せずに、小手先だけの話をするのはいかがなものであろうか。
 

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2008年初頭放談 今年はどうなる

2008年初頭放談 今年はどうなる

 2008年あけましておめでとうございます。
 平成20年ということで、平成になってからすでに20年も経つのです。要するに「平成生まれの新成人」が出てくるわけです。
 学生時代、30代、40代といえば「おじさん」と思っていましたが、いま、そう言う年齢になってみると、自分では何も変わっていないつもりでも、若者の感覚がわからなかったり、体が思うように動かなかったり、と、なかなか「おじさん」になっている自分に気づかされるときがあるのです。昔私たちもそうみられていたのでしょう。
 今と昔も、その世代間格差はあまり縮まっていないような気がします。ただ言えるのは、昔と違って、今は若者が自分を世の中に出すための表現の「手段」が増えたのではないでしょうか。インターネットの普及やオーディション雑誌の拡販、一般人・読者モデル、投稿雑誌など、「参加型マスメディア」が増えたことと、それらの適度な匿名性は、一般人が容易に匿名で有名人になることを可能にした社会になったといえるのではないでしょうか。
 このことは、二つの現象を作り出してきた。一つはそれらを利用した犯罪の横行、「おれおれ詐欺」や「還付金詐欺」、あるいは「子供モデル募集詐欺」など匿名性を利用した犯罪が非常に大きくなってきて、一つの社会現象になっていった。
 一方、もう一つの現象として「社内犯罪告発」が多く出てきていた。昨年多くの話題になった食品偽装事件など、その事件の多くは社内告発によるものであり、これも匿名性の特徴である。内部告発に関して言えば、一般の話が表に出るということと、匿名性がある程度確保されているという二つの要件がそろわないと実現しないことで、昨年は食品偽装を始め多くの社内告発、内部告発が発生したのである。
 ここで改めて言うまでもないが、「食品偽装」が行われたのではなく、何年も継続した「偽装行為」がそれら内部告発で明らかになったのである。長年慣習として行ってきたことが、表に出て問題視されたということで、昨年事故が発生したわけではない。
 それでも、毎年恒例の清水寺の今年を表す漢字は「偽」という単語であった。どちらかといえば「偽」が「明らかになった年」であるが、なかなかそれを表す漢字一字がなかったので、「偽」という漢字になったのであろう。
 では、今年はどのような年になるのであろうか。

 今年は「変革という名の懐古」がキーワードになると考えている。

この後は、「まぐまぐ」からメールマガジンでお楽しみください。

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東京版ミシュラン発表される。

東京版ミシュラン発表される。

 フランスのパリに、レストランの各付け本であるミシュランという本がある。フランス料理などで「三ツ星シェフ」などというのは、みな、この本で評価された最高ランクである「三ツ星」の厨房で腕を振るったということであり、ある意味で、その技術や素材を選ぶ目を「利用者の代表」であるミシュランという本が評価しているということを示している。
 11月19日に、このミシュランの東京版が発表された。報道によれば、ミシュランのフランス人三名と日本人二名が覆面調査を行って得られた評価であるという。彼ら審査員は、ミシュランの基準に従い、一年半で約千五百のレストランを回り、そして厳正なる審査を行ったという。なお、審査基準は料理の味ばかりでなく、盛り付けやサービス、店全体の雰囲気、外国人の対応などまで挙げられるという。
 19日の発表では、評価されたのが百五十の店舗で、その中で最高ランクの「三ツ星」になったのは八店舗であった。
 残念ながら、ここで三ツ星のレストランには一つも言ったことがない。何でも、ランチで13000円以上も出さなければならないレストランなど、私のポケットマネーではとてもとてもいけるものではない。もちろん、それだけの金銭を持っていたとしても、行かないかもしれないが。ましてや、ディナータイムでは三万円程度の予算。家族四人で十二万円は、年に一回でも期が遠くなる。下手をすれば韓国やグアムに旅行できる金額である。
 個人的な愚痴はさておき、ミシュランの東京版は話題になっている。やはり、最高ランクの店には、一度でも行ってみたいと思うものである。
 ところで、この審査基準に関してであるが、店のサービスや雰囲気、外国人対応などは一定の基準があってしかるべきであるし、それがあって話になるのもわかる。しかし、味、素材に関して、フランス料理と日本料理を同じ基準で語ることができるのであろうか、と少し疑問に思いたい。
 ここから下の記述は、「三ツ星」レストランに、経済的な都合で行くことのできない、筆者の「嫉妬心」と思って読んでもらいたい。
 まず、食事は文化である。日本においては、食事は儀式であったという。動物であり、植物であっても他の命を犠牲にして自分の寿命をつなぐ、そのために「儀式」たりうるものである。
 フランスにはフランスの、中国には中国の、イタリアにはイタリアの、そして日本には日本の食文化が根付いている。その文化を単純に比較することができるのか、という疑問は大きい。今回もミシュランの三ツ星レストラン八件はこれら料理店が混在している。
 同じ日本料理であっても、日本料理の最高峰である四条司家の第41代当代の四条隆彦氏によれば、懐石料理などは日本の料理といえるが、寿司は江戸時代に開発された「ファーストフード」でしかないという。サンドウィッチがビリヤード(であったと記憶する)の最中に食事ができるようにパンに具を挟んだのがきっかけというが、江戸時代にご飯のうえに具を直接乗せる料理が開発された。単品で一食になりうるものが「どんぶり」で、一口で入るものが寿司となった。
 三ツ星の中に寿司店が2件入っているが、今でこそ再高級料理であるものの、その歴史は意外と浅い。約300年後、ファーストフードの伝統といって、マクドナルドやケンタッキーフライドチキンなどが、ミシュランの三ツ星に選ばれたようなものである。
 それでも、寿司と懐石が同列はまだ納得がいく。同じ日本料理であるから、同じ文化を共有しているからである。ハンバーグ定食とハンバーガーが同列というのと同じ考え方であろう。
 食事が文化といっている以上、フランス料理、中華料理と日本料理は根本的に異なる。
 フランス料理は、素材よりもソースの文化である。ひれステーキを頼んだところでヒレ肉そのものよりもソースの方が高いということは、高級料理店では当たり前のことである。日本におけるフランス料理で、ソースを宣伝するところは少ない。しかし、たとえばデミグラスソース一つつくるのに、食材をいかに使用しているか、ワインをどれほど入れているか、その材料費は確かにヒレ肉塊の値段を凌駕するであろう。しかし、日本の場合「肉」のブランドを重視するものの、ソースのブランドを重視することはない。ソース(たれ)が重視されるのは、焼き鳥とウナギとラーメンだけである。
 やはり、そこが日本文化なのであると思う。日本文化は、素材の味を大事にする料理である。調味料はなるべく使わない。素材そのものをいかにおいしく、そして素材に失礼でなく食するかということが重視される。素材をそのまま食することができるというのは、それだけ水がきれいであるということの証明である。これは、国土的に山岳地と海が近接しており、川の勾配が急であることと、同時にやはり、水を神聖化しているために水を汚さない文化になっていることが挙げられる。もちろん、山に森林があるために、汚染された土壌が流出しにくいということもあるだろう。
 日本料理が水が美しく素材の味を重視するということについて、先にコメントをいただいた四条隆彦氏が面白いエピソードと語ってくれた。
 魚にランクがあるという。もちろん日本料理の世界である。当然「山の神・海の神」というように、海の魚が高級とされていた。しかし、鯉だけは別格であるとされている。鯉は「滝昇り」でそのまま「竜」になると信じられていたようで、竜の子供は、海や山のような地上ではなく天界の生き物であるとされ、その子供は当然に基調とされたのである。儀式などに鯉が使われるのは、そう言うことである。そう言えば、鯉の口には髭があり、竜とよく似ている。
 さて、魚一つ、食材一つとってもこれだけの差がある。その料理法は、上記で記載した水の話と同じようにより一層奥深い文化を持っていることになる。それを比較しランクをつけるのはいかがなものかと思う。やるならば、料理毎、つまり寿司・和食・フランス料理というように分けてランク付けをしてもらいたい。
 ところでミシュランの効用も存在する。まずはサーブ椅子に関すること。我々、外国人が来たときにどのような店で接待するかかなり困ることがある。このときにこのような本があると重宝する。ミシュランで三ツ星のレストランを予約しました。といえば、悪い期がする外国人は少なくない。
 レストランの品格とは、基本的に味だけではない。上記のように料理には風土や文化が詰まっている。同様に食べる雰囲気や食器などにも最高の気配りがある。それらをあわせ、そして店主や店員の心遣いをあわせて全体がレストランの品格となる。その品格に関して、日本にはじめてきた外国人や初めて大切ない人を接待する人にとっての指針となるのは非常に有用である。そういう意味でランク付けをすればいいかもしれない。
 三ツ星であることが「おいしい」ということではない。また、三ツ星のフランス両氏が一つ星の和食より「良い」というものではない。やはり本当の味、本当の自分のお気に入りのレストランは、自分で見つけなければならない。
 最後に一つのエピソード。
 私の友人である「世界の歌姫」と言われる歌手がいる。彼女は、日本に来ると新橋の居酒屋を好んで指定する。一階などその中で歌い始めて大変な騒ぎになったことがある。彼女いわく、「居酒屋が最もおいしい和食レストラン」とのことだ。もちろん、その居酒屋はミシュランに名前は出ていない。

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あけましておめでとうございます

皆さんあけましておめでとうございます。

 めでたく本日仕事始めになりました。三賀日日中も何かと電話などもありましたが、あまり仕事をしなかったというよりは、やはり仕事にあまり意識が行かなかったので、なんとか、今日から新年気分を一掃しようと思っております。

 ところで、本日は、まぐまぐ!( http://www.mag2.com/) から「國會新聞編集次長の未掲載記事とニュース解説」というメールマガジンで2007年の大胆予想を披露していますので、よろしければまぐまぐ!から申し込んで読んでみてください。あまりに恥ずかしい予想なので、今回はメールマガジンだけにしています。

今年もよろしくお願いします。

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海外出張です

ただいま海外出張中です。

今日は韓国湖の後東南アジアを一周します。

面白いネタがあったら、また話をしますね。

今週週末に帰国予定です。よろしくお願いします。

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7月は忙しかった

いやいや

久しぶりです。

七月31日に赤坂プリンスホテルでエネルギーセミナーをやっていたので、かなり忙しかったです。まあ、なかなか大変だったので、しばらく更新をしなかったのですが、これからまた更新します

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ウィルコム ZERO-3買いました

私事ですが、

ウィルコムのZERO-3買いました。

なかなかこがたでいいですね。

少しの間、これになれるまで時間がかかりますね。

その間更新が滞るかもしれませんが、まっていてください。

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