日記・コラム・つぶやき

【土曜日もエロ】 「紳士のスポーツ」であるゴルフwシューズと帽子以外は全裸で行うという「解放感」

【土曜日もエロ】 「紳士のスポーツ」であるゴルフwシューズと帽子以外は全裸で行うという「解放感」
 土曜日もエロの日である。お盆の間一週間「お盆休みのエロ」を行ったので、これはこれでなかなか面白かった。まあ、やはりエロの内容に関しては、皆さんがなかなか楽しんでいただいているということになる。
  エロの記事の本質は、やはり人間の「本質的な部分」と「社会的な部分」をどのように折り合いをつけるのかということのさまざまな形態が出てきているということになる。もちろん「裸で欲望のまま」ということで、その後のことなどは全く影響を感じないということであれば、そのようにしたいと思う人は少なくないのではないか。しかし、社会的な部分がうまくゆかないことが多くなり、そのために、本質的な部分、つまりエロの本性を隠さなければならない。しかし、その隠す内容に関して、隠しきれない場合はレイプなどの犯罪になってしまったり「見たい」という場合は盗撮などの問題になってくる。これに対して、「見せたい」なども、ルールに従わなければ「わいせつ物陳列罪」などの犯罪を構成する場合がある。まあ、つまり人間が動物の部分を見せることは、そのまま、社旗の秩序を乱すということになり、犯罪を構成するというのが普通である。しかし、逆にそのような犯罪になっても、そのことをやめられない、そのような犯罪が無くなることはないということであるから、当然に、欲望または本能に負けてしまう人は少なくないということになる。
  一方で、「合法的に」自分の欲望を満たすということを考える人がいる。まあ、エロビデオ御見るなどはまさにその中の一つであろう。しかし、その中において、「ヌードで解放感を味わう」ということもその中にあるということになる。この「解放感」に関して言えば、開放感を「どこで」「どのように」して行うのかということが重要になる。ある意味で「解放感」とは「それまで服を着ていて行っていた内容をどのように行うのか」ということが大きな問題になる。
  今までは「ヌーディストビーチ」など、もともと裸に近い部分で行てきた内容がほとんどであったが、そうではなくなるべく「ヌード」とは想定のつかないところで「ヌード」で行うことこそ解放感が大きくなるのではないか。
豪州で「ヌードゴルフ」の大会、シューズと帽子以外は全裸
 (CNN) オーストラリア北部ダーウィン近郊のゴルフ場でこのほど、「ヌードゴルフ」の大会が行われた。参加した30人ほどのプレーヤーは、ゴルフシューズと日よけの帽子だけを身につけてコースを回った。
 「ワンダリング・ベアズ」と名付けられたこのイベントは、ヌーディストのブルース・ジェンセンさん(69)とその妻ジュリーさんが企画した。
 ジェンセンさんはCNNの取材に、「クラブ運営委員会の前でこのイベントについてプレゼンして、交渉には数カ月かかった。それでも最終的には裸でプレーする許可が下りた」と話す。
 ただ、委員会側は、クラブハウスから丸見えの8~9番フェアウエーで裸のゴルファーがプレーすることには難色を示した。結果として、この2つのホールは飛ばすことを余儀なくされた。
 それでもジェンセンさんは「今回は大成功だった。来年はこれらのフェアウエーでもプレーできるように働きかけていくつもりだ」と話している。
裸でのプレーには難しい面もある。とりわけ、重いゴルフバッグを運ぶ際には肌が擦れる危険性を伴う。
 参加者のひとりはカートを使わずに肩でクラブを運んだが、これが間違いだった。この男性は肩がヒリヒリするとこぼしていたが、それも笑い飛ばしていたという。
CNN.co.jp 20180809
https://www.cnn.co.jp/showbiz/35123673.html
 男女の関係で「ギャップ萌え」というものがある。間違いなく人間には「既成概念」というものが存在し、その既成概念に関してなかなかそれを打ち払うことができない状態であるということになる。その既成概念を取り払ったときに、相手の本質を見たような感じになり感情の起伏が大きくなる。これが「ギャップ萌え」である。
  これは男女間の人間に対する感情であるが、同様に、「シチュエーション」や「行為イメージ」に関しても「意外性」というのは、その状況でさまざまに考えることができてくる。
  「ギャップ萌え」「意外性」というのは、そもそも人間が本能的に次の展開を予想しており、その予想に反した時に、「学習」と「動揺」が生まれるということになる。まさにその内容でインパクトが強くなるということになる。
  さてそのような中で「ゴルフ」は、「紳士のスポーツ」といわれている。何しろ、「審判がいない」「自己申告でスコアをつける」など、自分の判断が優先される内容であるということである。もちろん「紳士の」といっているがそれは「女性を差別している」というものではないことは言うまでもない。今や全世界のゴルフ場で「レディースティー」が設置され、女性も楽しむことができるスポーツとして有名である。
  では「紳士」というイメージと「ヌード」というイメージは、まさに「ギャップ」なのである。その内容こそ、「解放感」がより大きくなるということではないのか。
  裸でのプレーには難しい面もある。とりわけ、重いゴルフバッグを運ぶ際には肌が擦れる危険性を伴う。参加者のひとりはカートを使わずに肩でクラブを運んだが、これが間違いだった。この男性は肩がヒリヒリするとこぼしていたが、それも笑い飛ばしていたという<上記より抜粋>
  まあ、つまり、「ゴルフバックを運ぶ困難さ」や「熱いゴルフクラブを肩に担いでやけどをする」という苦痛でも「笑い飛ばせるほど解放感があった」ということん位なるのではないか。まあ、その既成概念と、それに反抗しているという快感が、よし解放感を大きくしていることは明らかなのである。
  まあ、趣味の範囲であるが、「女性はどうしたのか」とか「クラブを振るときにもう一つのクラブはどう動いたのか」とか、「虫に刺されなかったのか」などさまざまな疑問はあるのだが、まあ本人が良ければそれでよいのであろう。もちろん許可があって行っているのであるから違法ではないし、第三者がさまざまに言うほどの話ではないのだが、しかし、その内容をどのように考えるのかということや、周囲がどのように見ていたかということなどを想像するのはかなり興味深い。

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【土曜日のエロ】 少女によるおオジサンのための少女売春の歩道が急増しているということの「少女への教育」の問題

【土曜日のエロ】 少女によるおオジサンのための少女売春の歩道が急増しているということの「少女への教育」の問題
 さて今週は、やはりというかお盆休み明けというのはなかなかニュースのネタが少ない。残念ながら、お盆休みのネタが少ないということは、基本的に世の中があまり動いていないのである。ネタがあまりないので、ブログの方は一週間「中国特集」ということにしてみた。まあ、中国特集をするというのは、多くの人が中国の源氏アの動きに関心がありなおかつ中国の軍拡や中国人の動きに対して警戒感をもって接しているのである。そのために、その内容に合わせ薪が少なくないということと、中国が今後どのようになるのかということが非常に面白く考えられるということになるのではないか。
  さて、先週は一週間「お盆休みのエロ」として、エロ記事を一週間まとめて行った。あれでエロのネタはなくなってしまったと思う人も少なくないのであるが、まったくそんなことはない。何度も書いている通り、エロのネタというのは、単純に言って、人間の本能に根差した内容である。つまり、片方で建前とか理性とか社会性とか堅苦しいところの内容が少なくないのに対して、一方で、人間には必ず本能の部分があるので、その本能の部分をどのように評価するかということが最も重要なのではないかと考えるのである。つまり「本能を刺激する」ということで、少なくとも購買意欲を煽るなどのことがあり、経済活動につながることが少なくない。つまり、その本能ビジネスがあるために、そこに犯罪がくっつてきてしまうということになる。
  「本能ビジネス」ということを言うと、全てエロではないかということになるが、しかし、実際はそうではない。例えば、「赤い色でポップを書く」などというのは煽情的な気持ちをうまく盛り上げるということで、本能美人酢になるし、「白菜の隣に鍋の道具を置いておく」などというような「衝動買い」や「ついで買い」などを誘発するのも、全て「本能ビジネス」なのである。つまり、男性情勢にかかわらずというよりは女性の方が「称号がい」や「スウィーツに目がない」などの「本能ビジネス」にかかりやすいのであり、これに対して、「男性の本能ビジネス」に「エロ」が多いということになる。
「ホ別3万、プチ5千円」少女サイバー補導急増
 インターネットで売春などを持ちかける書き込みをして、北海道警に補導された少年少女は昨年、56人に上り、前年の4倍以上に増えていたことが分かった。夏休みは、安易な気持ちから小遣い稼ぎのために売春に手を出す少年少女も多く、道警はこうした「サイバー補導」を強化している。
 「ホ別(ホテル代は別料金)3万、プチ(性交なし)なら5000円~1万」
 道警少年課の捜査員は6月、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)で売春をほのめかす書き込みを発見した。客を装ってメッセージを送り、会う約束を取り付けると、待ち合わせ場所の繁華街に現れたのは、まだあどけない顔立ちの少女だった。
 捜査員に囲まれ、動揺した少女は、その場を取り繕うウソを並べて涙を流した。日中は高校に通う真面目そうな少女だが、放課後や休日などを利用し、1日に複数人を相手にすることもあった。連絡を受けた保護者は「まさかうちの娘が……」と、現実を受け入れられない様子だったという。
 「友人の誕生日プレゼントを用意するため、5万円が必要だった。悪いことだとは分かっていた」。少女は売春の理由をそう説明した。捜査員は2時間にわたって犯罪に巻き込まれる危険性などについて説明し、少女を帰宅させた。
 道警がサイバー補導を始めたのは2013年。同年に20人、14年は1人、15年は1人、16年は12人を補導した。昨年は監視対象を出会い系サイトからSNSに移したことなどから、書き込みの発見が増え、14~19歳の56人を補導した。高校生が30人で最多だった。
読売新聞 20180815
https://web.smartnews.com/articles/2YerCRpTtyA
 さて、今回の内容は、まさに「本能ビジネス」の内容である。。基本的に「暗号」「略語」を使うというのはある意味で標準的な内容である。暗号や略語が通じるのは「同じコミュニティ」ということになり、そのために、何か犯罪をするなどの場合は、そのようなコミュニティビジネスを行うことになる。「ホ別(ホテル代は別料金)3万、プチ(性交なし)なら5000円~1万」<上記より抜粋>で、意味が分かる人がいるのかということになるんド絵あるから、なかなか大変なものだ。
  さて、まずこの犯罪の場合、、少女たちは「何をすれば金が儲かるか」ということを知っているということになる。そのうえで、「その場を取り繕う嘘を並べ」というように、何をしたら逃れられるかということもよくわかっているということになる。単純に「売春」でありながら、ばれた時に自分の身を保護する術を知っているという時点で、はっきり言て、大きな問題なのである。
  さて、ではなぜこのようなことになるのか。単純に言って、一つは男性が買うからである。つまり「需要と供給」ということになる。そこで、需要と供給のバランスができているからその内容がうまくできるということになるのである。その「供給」というのは、この女性自身の事であり、そして自分の意思でSNSにやっている場合が少なくない。もちろん、誰かにやらされている場合もあるが、この記事の場合などは自分でSNSに書き込んでいるのであるから、その主体は自分自身であるということになる。
  さて、自分で売春をする問う女性は、どのような女性なのであろうか。我々の世代の感覚の場合、「金(生活)に困っているので風俗営業に身をやつしている」という場合と「不良娘」ということの二つであった。勿論合わせ技的に、不良になって家を出てしまい生活に困るなどということもある。しかし、現代の場合は生活に困っているわけでもなく「ちょっと小遣い稼ぎ」的に簡単に風俗営業をする場合があると聞く。まあ、元文部事務次官のように貧困の調査をしているわけではないが、上記の記事にもあるように「小遣い稼ぎ」であり、連絡を受けた保護者は「まさかうちの娘が……」と、現実を受け入れられない様子<上記より抜粋>のように、と君生活に困っているということもなければ生活に困っている問うこともないのである。つまり「風俗営業」をする必要がないということになり、それなのにこのようなことをしているということは教育がおかしいということに他ならないのである。
  つまり現在の、特にその教育に関しては、学校教育と家庭教育において、そのような行為に対しての知識がしっかり教えられていない。このことが非常に大きな問題であり、ある意味で、「北海道における教員と親の少女に対する性教育と、性行為に対するリスクの説明」ができていないということになるのではないか。何か問題があると「隠す」ということになり「青少年育成のために何もしない」というようなことがまかり通っているが、そのようなことでは、このような犯罪が防げないのである。
  まさに現代教育の犠牲であり、なおかつその教育の中で育った「モンスター」なのではないか。つまり、このような少女たちにつかまった男性こそ被害者なのかもしれない。

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【お盆休みのエロ】 「性奴隷」という存在と秘密結社が存在するカナダの酒造メーカー

【お盆休みのエロ】 「性奴隷」という存在と秘密結社が存在するカナダの酒造メーカー
 お盆休みのエロも本日が最終回である。まあ、なんというかエロをこれだけ長く続けるとなかなか面白いものであるが、しかし、世界にはエロのネタが常に豊富にある。それも、我々の考えも及ばないエロのネタが少なくない。今回も山羊と性交した話や、大人のおもちゃで空港が閉鎖になった話など、さまざまな話題があって面白い。何度も書いているがエロというのは、片方では人間である以上、どの人間も同じ行為をすることによってしか子供を産むことができないし快楽を得ることはできない。そのことを考えた場合、人間というものが性交渉を行う場合に、同じ手段しかないということは間違いがないことなのである。一方、その内容を隠すというか、またはその性交渉ができない場合にどのようなことを考えるかということに関しては、さまざまな違いが出てくる。ここは文化や人間性の違いということになるのである。
  エロの世界は、ある意味で人間の欲望や本能をそのままむき出しにするということがあるのと同時に、そこに金銭が絡んでくる場合が少なくない。その金銭が絡んでくると犯罪やあるいは組織的な売春というような内容に変わってくるのである。
  エロの話は、そのようになると大きな組織的な話になるので、なかなか大変な話になってくる。ある意味で「個人的なエロ」という状態から「欲望産業」となってくる。門打は本人の意思で欲望産業に身をやつしている人ががいるならばよいが、そうでない場合も少なくない。
  韓国では、家出少女などを誘拐し、鎖でつないで売春をあせていたというような事件があり、その事件において、「性売買防止法」ができることになった。まあ、それまでは売春某違法に近いものがあったのであるが、残念ながら会ってないようなものである。その鎖でつながれあ女性たちが、火事で逃げることができずに犠牲になるということが非常に大きく報じられるというような状況になったのである。
  さて、このような状態、つまり「強制的に欲望産業の従事させる」ということが出てくることになる。そしてそれは古代から現代までまた洋の東西を問わずに行われるということになるのである。
女性を性奴隷にしていた米団体と関係、カナダ酒類大手元社長の娘逮捕
【AFP=時事】米国で24日、カナダ酒類大手シーグラム元社長の娘で同社の遺産相続人であるクレア・ブロンフマン被告が逮捕され、女性たちを性奴隷としていたとされる秘密結社とつながっていた罪で同日起訴された。米検察が明らかにした。
 慈善活動家のクレア被告は時価総額26億ドル(約2900億円)に上るシーグラムのエドガー・ブロンフマン元社長の娘で、ニューヨーク・ブルックリン地区の裁判所に出廷後、保釈金1億ドル(約110億円)を支払い保釈された。
 クレア被告は自己啓発団体を自称する「NXIVM(ネクセウム)」の幹部だった。NXIVMは女性メンバーを性奴隷として扱う秘密結社を運営していたとされ、女性らは指導者のイニシャルの焼き印を体に入れられていた。
 クレア被告はNXIVMに資金提供を行っていた疑いがあり、最大20年の禁錮刑と規定されている共謀による恐喝の罪、また最大15年の禁錮刑と規定されている個人情報を盗んだ罪に問われている。クレア被告の弁護士は、被告は「何も悪いことはしていない」と主張している。
 検察はまた、すでに性行為目的の人身売買と強制労働を共謀した罪で起訴されているNXIVMの創設者、キース・ラニエール被告を追起訴したことも明らかにした。
 ラニエール被告のイニシャルの焼き印を押されたNXIVMのメンバーは全裸で拘束され、入会の儀式を撮影されるなど、団体内で奴隷として扱われていたという。
 検察によるとラニエール被告が痩せた女性を好んだことから、一部メンバーは低カロリーの食事を強制された。また、メンバーはラニエール被告以外と一緒に寝ることを誰一人として許されていなかったという。
 
  【翻訳編集】AFPBB News 20180724
http://www.afpbb.com/articles/-/3183686
 今回の事件はカナダの事件である。まあ、カナダのシーグラムといえば、酒のメーカーとしてはそこそこ有名であろう。
  さて、先日中国の仏教のトップが性的虐待をしていたという記事を行った。その中におて「宗教などの権力が集中する場所で、なおかつほかの人がわからない世界においては、そのことを利用してエロに進む」ことがままある。今回も自己啓発団体を自称する「NXIVM(ネクセウム)」ということであり、「自己啓発」ということは、まさに、自分が気づかない内容を自分で行うということに他ならない。そのために「自分の新たな可能性」を開発することになり、そのことが、そのまま「自己の解放」につながることになる。その自己の解放が「精神の解放」ならばよいが「肉体の解放」になってしまった場合、当然に、その開放がエロに練ってくることになる。
 問題は、これが「欲望ビジネス」になり、大手酒造メーカーが金を出して組織して性奴隷を作り出していたということに他ならない。
  ラニエール被告のイニシャルの焼き印を押されたNXIVMのメンバーは全裸で拘束され、入会の儀式を撮影されるなど、団体内で奴隷として扱われていたという。<上記より抜粋>
  まさに、このような内容が書かれているのは、作り物のエロビデオか何かの内容であるかのような感じであり、そのようなものが本当にあったのかというのがなかなか興味深い。そしてそれが今まで気づかれずに行われていたという事と協力者がいたということ、そして、その協力者などは「何も悪いことはしていない」という主張をしている、つまり、自己啓発の一環や宗教上の儀式の一環として売春、性奴隷をしているのにすぎず、そこに罪悪感が存在しないということになるのである。
  この例でわかるように、これ等のエロの問題は「価値観の変貌」ということにあり、その価値観が変化したことによって、正義感も何もなくなるということになるのである。そしてこれはこれらのセミナーや宗教に存在するリスクであるということになる。

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【お盆休みのエロ】 「児童婚」というイスラム教特有の習慣とそれを許さない近代法治国家が抵触した場合の限界

【お盆休みのエロ】 「児童婚」というイスラム教特有の習慣とそれを許さない近代法治国家が抵触した場合の限界
 過去、というか歴史上、日本の場合結婚というのは「家」と「家」の間の結びつきを意味していた。そのために、本人同士の意思よりは親同志の家の関係が重視され、そのために、基本的には本人の意思などは全く関係なく、本人同士の結婚が決められていたということになる。それどころか、戦国時代初期の武家などでは、生まれる前から婚約者(許婚)が決められるなどのことがあったのである。まあ、そのように考えれば、「児童婚」というようなことがあっても、日本で信じられないなどと大げさに騒ぐことではないのかもしれない。
  ここに書いたように「個人」ということよりも「家」という感覚がある場合、当然に、「家」の事情が優先されるということになる。これが現代でも「家と家の結婚」という感覚があるのは、明治時代に制定された民法において結婚の年齢が女子十六歳、男子十八歳と決められ(現在は両性ともに十八歳に改正されている)、また学制によって「男女十歳にして責を同じくせず」と決められたが、しかし、それ以後も家長制度などが残されたためであり、戦前まで結婚の年齢は引きあがったものの家と家の結婚という感覚は少なくなかったのである。
  さて、このように「児童婚」ということに関して言えば、「個人の認識よりも優先される価値観がある場合」に、その個人に意識に優先されないということで、「児童婚」が行われるということになる。これは日本の歴史的な検証と経験的な内容から出される結論ということになるのではなかろうか。
  さてでは現在において「個人の人権よりも優先する価値観がある」というのは、いくつか存在するが、基本的には「民族的慣習」と「宗教的な儀式」ということになる。イスラム教など八まさにそのものであるが、それ以外でも「合同結婚式」など、髪の意思による結婚を認めているところがあるし、また、民族的なものでも、一夫多妻制のところや「誘拐婚」が現在も慣習として残るところがある。
  さて、今回の問題は「エロ」というよりは「結婚」というものが「個人の人権」が優先するのかあるいは「宗教や民族」が優先するのかということになる。
タイの11歳少女、41歳マレーシア人男性との児童婚に非難広がり帰国
【AFP=時事】タイで今週、30歳も年上のマレーシア人男性と結婚させられていた11歳のタイ人少女が地元に帰って来たことが分かった。当局者が11日、AFPに明らかにした。この少女の児童婚をめぐっては抗議の声が広がっていた。
 マレーシアでは16歳未満のイスラム教徒は、宗教裁判所の許可があれば結婚を許されるが、41歳の貿易業者の男性とこの少女の結婚はソーシャルメディアで話題となり、児童婚根絶の呼び掛けが再燃していた。
 結婚式は今年6月、国境をまたいだタイ南部ナラティワット県で行われた。少女の両親はマレーシアのゴム農園で働いており、タイ語が満足に話せない少女は男性の第3夫人とみられている。
 イスラム教徒が多数派を占めるナラティワット県の知事は、「マレーシアのメディアからの非常に大きな圧力」を受けて、少女が今月8日、マレーシアから同県に帰ってきたことを明らかにした。同知事によれば、この結婚は仏教徒が多数を占めるタイの民法では認められていないが、同県にあるイスラム評議会の庇護(ひご)の下で行われたもので、少女の両親は承諾を与えていたという。
 同知事は、「宗教法の下で結婚したのだから(この婚姻を無効にするために)私たちにできることはない」と述べた。
 ただ、相手の男性はマレーシアで結婚の許可を得ていない場合、禁錮6月の有罪判決を受ける可能性もある。
 
  【翻訳編集】AFPBB News  20180808
  http://www.afpbb.com/articles/-/3185791
 
 
 タイの11歳の少女と、41歳のマレーシアの男性が、イスラム教の宗教裁判所の許可があれば結婚するということになったとき、マレーシアのSNSを中心に反対運動が起き、結婚を許されないような状態になっているということになっているという。
  まあ、日本の常識的な判断から見れば、少々おかしいのではないかという気がしないでもない。しかし、一方でイスラム教という宗教の慣習であるならば問題がないというのであるから、それはその国で認められたということなのではないか。
 結婚式は今年6月、国境をまたいだタイ南部ナラティワット県で行われた。少女の両親はマレーシアのゴム農園で働いており、タイ語が満足に話せない少女は男性の第3夫人とみられている。<上記より抜粋>
  この中で「タイ語が満足に話せない」ということが、単純に言えば、「本人の意思によるものではない」ということが明らかであるということになる。しかし、一方で、宗教的な背景やあるいは、タイ人の少女のゴム農園の親たちと貿易商の男性との間で何らかのことがあったのではないかという気がしてならない。貧困とか、そういうことを考えた場合、もしかしたら、本人の意思よりもこのように裕福な家に行った方が幸せかもしれないし、また、イスラム教の一夫多妻制は、「生活ができない女性とその家族の救済」が目的の戒律である部分が少なくないために、本来この家族が生活に困っている場合など、この結婚そのものの成否ということが個人主義の価値観から合わないだけで、実はその土地の風土や経済状況からすればあっているのかもしれないという気がしてならない。
  実際に、私がタイの田舎に行ったとき、ホンダのスーパーカブ、それもかなり古そうなバイクに6人もの子供を乗せた母親と遭遇する。実際に、そのようなバイクが一台や二台ではなく、かなり多くの数の者が出てきているということになるのではないか。これは地方に公共交通機関のインフラが整っていないということもあるし、また自転車など自分で運転できるようなものも少ないという貧困の問題もあるであろう。そのように考えた場合、もしかすると、個人の人権を考えたことによって、かえって貧困の中に突き落とした可能性もある。
  もちろん、この男性が「異常なほどの小児性愛者」であるということも考えられるのであるが、まあ、その辺は全く伝わってきていないのでよくわからない。その辺の判断を宗教裁判所が行うということなのであろう。
  まさに、この問題は、「宗教」と「個人主義」の問題であり、宗教的な感知から考えれば、「宗教法の下で結婚したのだから(この婚姻を無効にするために)私たちにできることはない」<上記より抜粋>ということなのかもしれない。
  まあ、法律の問題でもあり、またその男性の資質の問題でもある。個別の状況を全て考えなければ、判断できない問題であり、単純にこの男性が小児性愛の変態であると決めつけることができないのである。そのような問題をしっかりと感がてえゆかなければ、いっぽぷ的な感覚の押し付けは良くないのではないか。

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【お盆休みのエロ】 インドにおける性的モラルの欠如はなぜ起きたかという中での「山羊との性交」で処罰される人々

【お盆休みのエロ】 インドにおける性的モラルの欠如はなぜ起きたかという中での「山羊との性交」で処罰される人々
 このエロのネタを探している中で、最も悩むのが性犯罪である。あまりにも犯罪というのは、扱っていて楽しいものではないし、また被害者感情なども含めて、様々な異論がある。単純にエロの立場だけで話をしてよいのかということが大きな問題なのかもしれないと思うことも少なくない。
  同時に、性犯罪は簡単に「男女差別」や「女性蔑視」というような考え方につながり、そのうえで、政治、それもくだらない政局論に使われてしまうことがある。このブログそのものが政治や経済や国際関係のニュースを扱うブログであると自負している部分があるのだが、残念ながらだらない逝去論に与する気は毛頭ないのである。政治はやはり政策を中心に語るべきであるし、その政策に関しても立場や考え方に立要塞があるということや、他の政策や関係論との間において、考えなければならない部分は少なくないのである。そのように考えた場合、女性蔑視などの話や社会的現象に関する内容はいくらでも話してよいと思うが、そのことでくだらない政局論をするような人々はある意味で軽蔑するものである。
  そのために、伊藤某というジャーナリスト志望の女が、山口某という毎日系の記者にレイプされたのだか、あるいは、自分から望んでいってうまく記者になれなかったからあとからレイプに切り替えたのか、いずれにせよ、そのような話にくみする気はない。まあ、国連に言ったりBBCで話をした理ご苦労なことであるが、そのようなことを主張したところで、結局、山口某などとホテルの部屋にいそいそとついてゆくような女であるということには変わりはないのである。その後どのような合意形成でどのような行為があったかの問題ではなく、そもそも、山口某との間において「人を見る目がない」つまり「ジャーナリストとして人を見る目がまた食できていない不適合者である」ということを自分からさまざまなところで広めていただければよいのではないか。
  しかし、そのような性犯罪といわれるものまたはその疑惑にあるものの中でも、笑えるものも少なくない。小児レイプが多い、インドの中で、少し異色な事件が出てきたので、その内容を見てみたい。
ヤギを性的虐待し死なせる、男8人を指名手配 インド
【AFP=時事】インド北部の警察は31日、妊娠したヤギに性的暴行を加えて死なせた男8人の大規模な捜索を行っていると発表した。
 捜索の対象範囲となっているのは、首都デリーから約100キロ離れたハリヤナ州メワット県。
 事件は先週、男3人が夜間にヤギを襲う姿を飼い主が目撃して発覚。地元の警部補はAFPに対し、「飼い主は当初、ヤギが盗まれるのを恐れて通報したが、目にしたことにショックを受けていた」と明かした。
 インドでは、英国の植民地だった時代に制定された刑法第377条で「自然の秩序に反した性交」が禁じられており、同性間の性交渉も違法とされる。容疑者らは、同条への違反に加え、動物虐待の容疑で指名手配されている。
AFPBB News  20180801
http://www.afpbb.com/articles/-/3184465
 さて性的対象が人間である場合、様々な議論になる。しかし、それが動物が相手で会った場合は、どのような議論になるのであろうか。
  インドでは、現在かなり緩和されたとはいえ、実はカーストのお問題が非常に多くあり、そのために、男女間で好きになった場合でもカーストがあるために結婚できないどころか、お互いに近寄ることもできないということは少なくない。
  現在も身分性があるということにおかしいと思う人も少なくないと思うが、日本でもいまだに家格が会うとか合わないといった話は少なくないし、同時に、先輩後輩とか年齢さとか、出身の学校、地域などにおいて差別的な感情を持つ人は少なくない。そのようなもののひどいもので、なおかつそのひどいものが社会的に認知されていると考えればあまりおかしなものではない。逆に日本も欧米も、そのようなものがあったにもかかわらず、そのような「しがらみ」を捨ててきたのであるということになる。捨てたことが先進的なのか、あるいは捨てないで保存し伝統を維持する方がよいのかということも含め、単純に価値観であるから、そのことに関してあまり様々なことを言うつもりはない。
  もう一つの問題として、インドの場合は非常に大きな身分制と同時に、祖の身分制度に合わせて考えることがかなり変わってくる。日本の刑法でも身分制度は以前にあり「尊属殺人」などということが考えられていたのである。そのために、古い人(団塊の世代以上)には、いまだにそのような傾向がある。
  そこで、下の方の人は「自分より身分の低いものに対して偉そうにする」ということが出てくる。日本で言う「先輩風を吹かせる」というのはまさにそのようなものなのである。そのような場合、歌風の者はまた下の者にということになる。最終最も仮想化いきゅになると「人間以外に物」ということが対象になってくるということになる。
  つまり、その対象が動物になるということも十分にありうるのだ。
  まさに「階層社会」の「下層階級」ということの「エロ」ということになる。今回の記事でそこまで読み込まなければ、なかなか話は理解できないということになるのではないか。つまり、この階級は最下層のカーストの人々が、何らかの関係で、性欲を発散させるために、ヤギを相手に行ったということである。そのことは当然に、「ヤギと性行為をすることのリスク」や「ヤギと性行為をすることの犯罪性」または、それ以外の性的な欲求を満たす方法の選択肢などがすべて排除されたということになる。
  それ以上に面白いのは、英国の植民地だった時代に制定された刑法第377条で「自然の秩序に反した性交」が禁じられており、同性間の性交渉も違法とされる、<上記より抜粋>という内容である。つまり、イギリスはそのカーストをすでに認識していてそれに従った鶏歩ができているということである。日本は、このようなニュースを行う場合にも、その国の風土や制度などはまったく報じない。そのために、それらの文化性などは全く無視して日本と同じ環境でこのような事件が起きたと思ってしまう。そのことが最も大きな問題なのである。
  これらのニュースの見方を少し考えないと、エロも語れないということなのかもしれない。

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【お盆休みのエロ】 寺で性行為を強要される中国の仏教における地位

【お盆休みのエロ】 寺で性行為を強要される中国の仏教における地位
 中国の題名ながらまずはイスラム教に関して語ることから今日はスタートしよう。イスラム教の戒律であ、女性は、男性の正常な判断力を奪う者として、女性の魅力を外に見せてはいけないということになっている。イスラム教の中においては、男性が社会的な生き物として男性同士の社会が形成されている。これは女性蔑視というものではなく、砂漠の中のキャラバンとオアシスの世界の中において、男性が主体となる席亜を築き上げている。実際に部族を守るためには賊などから身内を守らなければならず、その守るための武力は男性でしかない。当然に「非常事態」を想定し行動プランや命令系統が出来上がることになり、その中において自分の部族を守るということになる。部族を守るために、男性を中心にした秩序作りをしていた。その男性の判断が崩れるのは女性であるということになり、女性はその魅力を出してはいけないということになったのである。
  さて女性の魅力を出している者として、イスラム教では、髪を隠すようになっている。基本的には目と手の甲以外の部署を見せることはできないということになっているが、徐々に緩和されている。アジアなどでは、髪だけを隠している女性は少なくない。
  要するに、女性の髪がない場合は、女性の魅力がないとされている。では、出家した女性、つまり「尼僧」はどうなのであろうか。
  中国の有名寺院では、住職が尼僧に性行為を強要しているという。ある意味で、「尼僧」ということが別な性的な興奮を起こす可能性もあるし、また、中g久におけるセクハラにつながっているということになるのではないか。その上、住職という僧籍のトップが、部下の尼僧に対して強要するということになる。つまりセクハラ明けではなくパワハラというような状況も生まれてくることになる。
  ここにもう一つ、中国には複雑な問題が出てくる。中国は共産主義であることから、「唯物史観」の価値観がある。中国においては基本的には宗教は二の次であり共産主義が最も大きな内容になっている。ある意味でイデオロギーが宗教化しているのである。その宗教化している中で別な価値観を打ち出すことはかなり難しく、その中におけるパワハラは、まさに強制力を伴うということになってくるのである。
中国有名寺院の住職が尼僧らに性行為強要か、当局が調査開始
【AFP=時事】中国家宗教事務局は2日、有名な仏教寺院の住職で、中国共産党の諮問機関の委員も務める僧侶が複数の尼僧らに対し性行為を強要していたとする告発を受けて、調査を開始したと発表した。この疑惑は、中国におけるセクハラ告発運動「#MeToo(私も)」の一つとして注目を集めている。
 調査対象となっているのは、首都北京郊外にある龍泉寺の学誠住職。疑惑が明るみに出たのは、今週インターネット上に浮上した僧侶2人が書いた95ページにわたる文書がきっかけだった。
 この中で僧侶らは、龍泉寺の財政難を訴えるとともに、学誠住職が女性少なくとも6人に宛てて、性交渉を持つよう誘惑または脅迫する不適切なテキストメッセージを送ったと指摘。うち4人が住職の求めに応じたという。さらに住職は、自分との性行為は仏教研究の一環だと言い聞かせ、女性らの「マインドコントロール」を図ったとしている。
 これに対し龍泉寺は1日、文書は証拠を捏造(ねつぞう)したもので、学誠住職と同寺の名誉毀損(きそん)を狙ったものだと非難した。
 学誠住職は中国仏教界の著名人で、ソーシャルメディア上では数百万人のフォロワーを抱える。
 龍泉寺は仏教と最新の科学技術の融合でたびたびメディアに取り上げられ、昨年には念仏を唱えたり助言を与えたりする身長約60センチの「ロボット僧侶」も導入していた。
 
  【翻訳編集】AFPBB News 20180802
http://www.afpbb.com/articles/-/3184866
 六人に性交渉を求める脅迫ともとれるメールを送り、四人はそれに応じたという。問題は宗教家というのは、それらの性行為を宗教家神の世界と結び付けて説明するという、役職や知識を使った「建前」を使って隠れ蓑にするということである。
  単純に、性的なものを含めすべての煩悩を振り払って悟りを開くことが本来の僧籍にあるものの務めであるはずが、いつのまにか、その僧籍にある地位露、目に見えない世界をそのままうまく理論立てて「性的な欲求を求めるための大義名分」にし叩てしまっているということになる。
  自分との性行為は仏教研究の一環だと言い聞かせ、女性らの「マインドコントロール」を図った<上記より抜粋>
  現在でも「自己啓発セミナー」や「霊的な相談受付」あるいは「オカルト」などの話の中で、このようなことが多いのは、まさに「目に見えない世界を使って、自己の欲望のための大義名分化」を諮っているものであり、そのようなものに興味がある人などが簡単に騙されるようあ状況になっているものだ。単純に、このケースでは6人のうち4人が性行為を行っているということになれば、「大義名分化の成功率が66%」ということになるのである。
  実際に目に見えないことで、自分では判断できないことに関して、その内容が、目に見えないことにしてしまう。世の中の「陰謀論」や「オカルト論」の多くは、「わからないことを納得するための道具」であり、その道具をうまく使った内容をコントロールできる人にマインドコントロールを受けているという感じになってしまっているのである。そのことに気づかないで、得意げに陰謀論を叫ぶ人を見ると、ある意味でかわいそうになることが少なくない。
  さてエロに戻そう、基本的に唯物史観の中国において、その中で宗教ということをやっていること自体、日本やほかの国の宗教家のような高尚な感覚はなく、ある意味で「占い師」というような感覚の方が強い。まあ、仏教といえども中国の中では、まじめにやれば「カルト教」になってしまうのである、そのような中において、性的な関係を迫られるというのは、ある意味で、カルト宗教で教祖に率先っして体を開く女性たちに近いものを感じる。まさにこのような中国の仏教を見ることで、カルトの内容が見えてくるのではないか。そして同時に、共産主義というものをしっかりと勉強しなければならないのではないか。

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【お盆休みのエロ】 コンドームを洗って使う人々がいるたえにWHOがコンドームを無料で配布するかも入れない

【お盆休みのエロ】 コンドームを洗って使う人々がいるたえにWHOがコンドームを無料で配布するかも入れない
 お盆休みのエロとして、今週はエロと下ネタ満載の一週間にしてみようと思う。実際に、休み期間中などというう者は、自分の欲望に正直に生きてみればよいと思うし、また、社会性を多少失っていても、なんとかなると考えられる部分がある。何しろ会社など就業とは異なるところがあるのだから、最高な一週間ということになるのではないか。
  さて、そもそもエロをなぜ扱うのか。
  このブログのことを皆さんは政治や経済、あるいは国際関係論のブログであったりあるいはニュースの解説のブログであるというような認識を持っている。確かにそのような一面は否定できない。しかし、誠司も経済もまた国際関係も全て「人間」が行っているものであり、その人間の性質によって、全く異なる内容になるのである。その人間の本質を考えるためには、その人間性を知ることが必要なのである。
  しかし、その人間性を知ることはかなり難しい。そもそも人間というのは、「社会的生き物といての理性」と「種の保存を考える本能」と二つの内容がある。この二つが、通常は「建前」と「本音」というような感じ位なるのであるが、その建前と本音を、そのように使い分けるか、また建前だけでも話にならないし、本江だけでは動物と一緒になってしまい社会的な生き物はなくなってしまう。このことをイギリスの思想家ホッブスは著書『リバイアサン』のなかで「万人の万人による闘争状態」ということになり、また、釈迦はその宗教の中で「百八の煩悩」という言い方をしている。その欲望をいかに制限するか、そして建前の中に取り込むかという事が、最も大きな政治の内容になるのではないか。
  例えば、戦争。領土を広げるというのは、為政者本人の欲望の部分がある。しかし、現在では経済的不公平感や宗教などを理由にしている。この「理由」は基本的には「建前」なのであり、まあ何とも言いようがない。その建前をもとに、さまざまな人が動き戦争になるのである。戦争などの場合はこの建前を「大義名分」というのである。
  さて、エロになると、さまざまなことが「大義名分」というようなことで正当化されたりする。その正当化をどのように行うのか、そのことが最大の問題になる。特に戦争ということになれば「闘争心」という本能だが、「エロ」は個人的な「性欲」を考える話になるのである。
コンドームを洗って再利用しないで、実態踏まえ注意喚起 米
 (CNN) 性行為の際に使ったコンドームを洗って再利用しないでほしい――米疾病対策センター(CDC)が最近、こんな注意喚起を出した。
 CDCはその背景について、「こんなことを言うのはそういう人々がいるからだ」と説明する。
 そもそも、なぜコンドームはスーパーの袋のように再利用してはいけないのか。CDCの性感染症(STD)予防部門の疫学研究者、エリザベス・トローン氏は、再利用すると機能を果たさないからだと説明する。
 「コンドームは大半の性感染症の感染を防ぎ、全ての性感染症のリスクを低減させる。ただ、その効果があるのは正しく利用されたときだけだ」「コンドームの再利用や複数回の使用といった誤った利用法は、コンドームの破れや滑り、漏れにつながり、防護効果を低減させる」(トローン氏)
 もしあなたがコンドームを洗う一人だったとしたら、世界保健機関(WHO)が味方になってくれるかもしれない。WHOはコンドームの効果的な使用法の適切な教育の必要性を説くとともに、再利用のニーズを感じさせないような無料または低額でのコンドームの配布も必要だと訴えている。
CNN.co.jp 20180808
https://www.cnn.co.jp/fringe/35123529.html
 さて今回の内容は「エロ」という本能と「経済」というような内容ではないかという気がする。
  コンドームというのは、基本的に避妊具であり、同時に疾患対策として感染症を減少させる有効な手段である。基本的に感染症の多くは粘膜によって感染する。ウイルスの中には、空気感染のようなものから血液による感染などもあるので何とも言いようがないのであるが、性病の多くは性行為による粘膜感染になる。粘膜感染とは当然に粘膜が直接触れることによって感染するものであり、当然に性行為などによってそれが顕著にみられることになる。その粘膜からの吸収によって病原菌に感染するということになる。そのために粘膜が直接接触しないようにするのがよく、コンドームのように、ゴムまあはそれに代替する製品によって、粘膜が直接接触しないようにすることは、もっとも有効な手段ということになる。
  と、ちょっと堅い話をしたが、実際にそのようなリスクがあっても、性欲を見たしたいというのが、エロの本質である。さて海外の場合コンドームはかなり高級品である。世界でも日本の某メーカーの者が最も良いとされ、私など、海外に行くときにお土産として持ってゆくとかなり喜ばれる。あまり考えたことはないが、コンドームは各国で産業になっているものの、日本の製品が薄型でなおかつもっともよいということになっている。しかし、公行ゴム製品であることから、関税率が高い。トランプ大統領の好意によってアメリカなどはコンドームがより一層値上がりしているのではないかと壱岐がしてならない。そのために、「もっとも性欲を豊富に持っている貧困層の若者」が、コンドームを買うことができないということになるんである。
  「コンドームの再利用や複数回の使用といった誤った利用法は、コンドームの破れや滑り、漏れにつながり、防護効果を低減させる」<上記より抜粋>
  つまり、「複数回使用」というようなことをしても、満たしたいのが「性欲」であるということになる。逆に、その性欲を満たすために、「経済」とのバランスが崩れている。つまり、コンドームを買えないということは、それ以外の金額を払うこともないということであり、当然にレイプなどの犯罪も増えるし、また、売春などの犯罪も増えるということになる。ある意味で、性欲を満たすということと、同時にその場を提供するということ、そして、そのための道具をそろえるということによってある程度の性欲のはけ口を費汁とするということもあるが、一方で、その性欲のはけ口を「安全かつ秩序だって」行うことをしなければならない。このように考えると、「完成売春宿」つまり、江戸時代の「遊郭」のようなものが「必要悪」として考えらえるが、それを多くの人が認めるだけの社会的土壌があるのかということになるのである。
  いずれにせよ「欲」を我慢することを強要し秩序を追いえるのか、あるいはその欲をしっかりと出させて、他の部分でまじめにさせるのか。少なくともWHOは、後者の方を選んだということではないかという気がしてならない。

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【土曜日のエロ】 16歳の女子高生の接客という「犯罪」と「欲望」と「青少年保護」

【土曜日のエロ】 16歳の女子高生の接客という「犯罪」と「欲望」と「青少年保護」
 土曜日のエロである。この土曜日のエロの場合、普段の皆さんの観点ではなく、「人間の欲望」という観点から物事を書いてみようと思う。当然に「欲望」を抑え。平等な社会を実現するために、近代法治国家以降、法律による統治が行われ「法の下の平等」ということが言われるようになっているのであるが、残念ながら、その「法の下の平等」が理解できなかったり、あるいは、理解はしていても欲望の方が勝ってしまった場合に、犯罪ということが起きるのである。
  もちろん、経済犯罪の場合は、欲望が勝ってしまっているというだけではなく、例えば飢餓に瀕している人が最低限の食料を窃盗する場合など、欲望といっても「生存」をかけたものがあると思われる。しかし、「性犯罪」の場合は、そのような生存権というものは存在せず、間違いなく「欲望」と「法の統治」との兼ね合いに問題になるのではないか。少なくとも「欲望」以外に、性犯罪を正当化?する論理は存在しない。この論理構造は、以前の紹介したイスラム教、サウジアラビアで女性が自動車を運転できなかった戒律の論理と同じで、「女性は存在自体が男性の思考能力を迷わせるもの」という論理構造しか存在しないということになる。
 さて、そのような論理構造の場合、「一生を棒に振ってもよい」というような美しい女性がいるのかということが大きな問題になる。実際に、美少女も美男子も、その人の成長や環境の変化に応じて、人間の身体は変化してしまう。もちろん、経年編も有れば、一方で不摂生などによる変化も存在する。その場合「美少年・美少女」というカテゴリーは、実際は、「その人の中で一瞬を切り取ったもの」でしかなく、その「一瞬」に対して「一生」という期間を棒に振るというのは、なかなかわりにあうものではない。まあ割にあうあわなあいで犯罪を犯されてもあまりよいものではないのであるが、一方で、その割に会わないということにプラスして「性犯罪者」という不名誉がつくことによって、犯罪処罰以上の問題が生じることになる。
  それでも、「その一瞬の美しさと遊びたい」という心は存在するというのが、エロの原点なのではないか。
16歳女子高生をホテル派遣“接客”させる
無店舗型「JKビジネス店」で16歳の女子高校生を働かせていたとして経営者の男が逮捕された。
逮捕されたのは無店舗型JKビジネス店「リフレAI$」の経営者・南学容疑者。警視庁によると南容疑者は先月、18歳未満と知りながら16歳の女子高校生を東京・新宿区のホテルに派遣し、接客させた疑いが持たれている。
南容疑者はツイッターで「かわいさアイドル級の女の子専門店」などと店の宣伝をしていて、店では18歳未満の少女が他にも8人ほど働いていたという。
調べに対し、南容疑者は「女の子たちにカネを稼げる環境を作ってあげたかった」などと話し、容疑を認めているという。
日テレNEWS24 20180719
http://www.news24.jp/articles/2018/07/19/07399092.html
 さて、今日の記事は16歳の女子高校生を「いかがわしい」接客をさせていたということである。まあ、犯罪であり、その内容からすれば「JKビジネス」というものをしているこの逮捕をされた男が悪いことになっている。
  しかし、よくよく考えてみると、この逮捕された男が女性を拉致監禁し、無理やり接客をさせていたのであれば、まあ、昔の奴隷商売のように、男性が一方的に悪いということになるのであろうが、しかし、実際に、「18歳未満の少女が他にも8人ほど働いていた」ということである。このように考えると「需要」と「供給」があり、男性側もそれを求め金を払う客がいるのであり、また一方で、女性側も「拉致監禁されたわけでもなくここで金を稼いでいた」ということになる。
  つまり「女性の経済的欲望」ということと男性の「性的欲望」ということがうまくマッチしてその商業が成立していたということに他ならない。
  一応犯罪としては、未成年に性的な営業をさせていたということであり、それは「意思発達が未成熟なうちに、そのような行為を行わせた」ということになるのであるから、その内容は「未成年は基本的に自分ですべての物事を決めることができない」という前提になっているのに対して、男性側は、青年であってそれらの悪意を喪ているということになる。
  さて、ここでいつもならば「女性側の問題」を指摘するのであるが本日は少し違った角度にしてみよう。なぜこのような女性がいるのであろうか。男性の場合は欲望ということがしっかりとある。上記に書いたように欲望に負けた真理があったり、あるいは、このような「商売」が「合法である」と誤解したというような話もあるだろう。一方で、女性側は、「経済行為」ということであり、そのせい行為又はいかがわしい接客ということが「経済的に見合っている」と考えているということにすぎない。つまりは、性に関する知識またはリスクがしっかりと考えられていないということに他ならない。これは「青少年育成」の観点から、女性に対して(男性もであるが)それらの性教育がなかったということや男性の陽公方移管する知識がなく、またそのことに関する教育がなされていないことによる問題があると考えられる。もちろん、そのような行為そのものを商売にする人を否定するものではない。本気で商売にしている人は立派である。しかし、いっぴうで小遣い稼ぎ的にそのようなことを行うというのは、あまりよいことではないのではないか。しかしこのような犯罪が出てくるたびにあるんは「女性の軽い小遣い稼ぎ感覚」でしかない。
  もちろん、女性側がその武運が軽くなれば男性の欲望に対するハードルが下がってくる。一方で「青少年保護」なる内容がきつくなれば、それだけあードルが下がってゆく、守ってもらえる感覚がいつの間にか依存にありそのままこのような犯罪につながるという構造。この「青少年保護」の在り方が大きな問題なのではないか。
  もちろん、私自身はハードルが下がる側ではあるのだが、ある意味で、その辺の社会の在り方、もっと言えば「危険を見せない」のではなく「性行為などを見せたうえでリスク感覚を育てる」という感覚が必要なのではないか。

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マスコミ批判に関する一考(402) 取材力が無くなった現在のマスコミの記者たちの「大幅な劣化」

マスコミ批判に関する一考(402) 取材力が無くなった現在のマスコミの記者たちの「大幅な劣化」
 刑事ドラマで「現場百回」という言葉を聞くことがある。犯罪に関しては、当然に最も証拠があるのは現場である為に、捜査に行き詰まった場合は現場に行って操作をするということが基本である。つまり現場に足を運ぶことが基本ということだ。
  さて、犯罪捜査を行う意は現場に行くのが基本ということはどういうことであろうか。少々くどくなるが、実際に「捜査をする」ということは何を意味しているのであろうか。捜査とは、その犯罪時の状況を証拠や状況証拠から考えて、なるべく真実に近いものに再現または想定を行い、そのうえで、犯罪時における新犯人を追及することである。もう少しマスコミ批判に近い内容で言えば、「真実を追求する場合、その現場においてその環境や証拠を見なければわからない」ということを意味しているのである。
  しかし、最近のマスコミは、新聞であってもテレビであっても全くそれらの努力をしない。もちろん「営利企業」のマスコミが、そのような予算をふんだんに持っているかどうかは別にして、少なくとも、無駄のない範囲で、現場に足を運び、その場所の環境を想定し、そのうえで、真実を追求する姿がなければ、「真実の報道」などはできるはずがないのである。しかし、残念ながら、そのような「現場に行かない記者」が増えているのである。
  というのも、基本的にネットやSNSで取材してしまったり、あるいは誰かがブログなどでアップしている写真を使ってしまい、それで円ば写真のような話をしているのである。一つには、写真さえあれば、現場に言ったかのように「偽装」できるのである。インタビューも、SNSなどで適当にとればよく、実際にその現場までいかなくても「手抜き」の取材によってなんとかなってしまうのである。あるていどぶんしょうのかこうぎじゅつのあるひとならば、本社の社屋から一歩も出ることなく、事件記事を一つ作れてしまう。これが今の現状なのである。
  しかし、「真実には現場にしかない」「ネットの中はあくまでもヴァーチャル(仮想空間)でしかない」のである。
共同通信「岡山の爆発」で偽映像=実は中国か
 共同通信社は11日、岡山県内で起きた爆発の様子だとしてユーチューブ上や契約社などに配信した動画が、実際には中国で起きた別の爆発事故の映像とみられると発表した。既に動画は削除したという。
 西日本を襲った豪雨により、同県総社市のアルミ工場で6日、浸水が原因とみられる爆発が起きた。同社によると、翌7日、取材中の記者が爆発の様子を撮影したという地元男性から動画の提供を受け、配信した。
 しかし、外部からの指摘で、動画は2015年に中国で起きた爆発事故の映像と酷似していることが判明。改めて提供者に確認したところ、「他人からもらった」と説明を受けたという。
 同社は「撮影状況や内容の確認に万全を期すことを徹底し、再発防止に努める」とコメントした。
 フジテレビも、8日放送した番組の中で総社市の工場爆発の様子として伝えた複数の提供映像が事実ではなかったとして、11日までにホームページ上で訂正し、おわびした。
  時事通信社(2018/07/11-22:20)
https://web.smartnews.com/articles/2SefZefyxbD
 先日のの岡山県内で発生した爆発事故についてである。実際に、アルミ工場のマンガンに集中豪雨の水が付き、そのマンガンが化学反応によって爆発したと思われる(報道による)爆発事故についてある。
  この爆発の原因は、2015年に中国の天津で発生したマンガンによる爆発事故と、「爆発の原因」は全く同じであり、工場そのものの細部の写真であれば、基本的には同じかもしれない。しかし、中国の方は「火事における消防の知識の欠如による放水によってマンガンが化学反応を起こし爆発した」というものであり、なおかつ、その後も連鎖反応を起こしてかなり大規模な爆発になっている。中国政府の公式発表の犠牲者と、ネットなどの写真によって数えられた遺体の数があわないなど、さまざまな問題が生じている状態である。同時に、放水であるということと、洪水によるものでは全く状況が異なり、その周辺の写真なども異なる。そもそも中国の方は倉庫であり、アルミ工場とは異なる場所であるから被害の態様も全く異なるはずである。
  このように文章だけでも全く異なるものなのに対して、「違う」という判断がつかず、そのまま「他人からもらった」という写真を掲載してしまうということになる。つまり、現在の共同通信には、現場に行って確認するとか、情報の出所を確認するといったリテラシーに関して全く感覚の無い人が記者として行っているということを意味するのであり、その感覚の欠如が「誤報」を生む土壌になっている。
  さて、上記の記事で問題になったものは、単純に「共同通信」と「フジテレビ」がお詫びをしたということでしかない。しかし、「取材もろくに行わないで、間違った言論を垂れ流し、事実ではないことを記事に敬愛した記者に対する責任と処分」は全く書かれていないのである。
  現在の新聞マスコミに「誤報」「捏造」が多いのは、まさに、このように「現場には全くゆかない」「ネットの中の仮想空間の中で仮想の記事を書いている」「仮想空間でしか取材を行っていない」その上「間違えても責任を負わない」ということの連鎖によって「無責任な仮想の記事」が出来上がっていることになる。つまり、取材をしたのではないから、敷かkりとした真実の者ではないし、現場の空気感もまったく見えてこない。そのような内容で、政権批判をしたり、あるいは現場の批判を行っても何の意味もない。単純ン「頭の中のファンタジーを記事にしているだけ」でしかない。個人の意見の洗脳装置にマスコミがなってしまっているのである。
  そのようなマスコミが必要なのか。この事件は「取材で現場に行っていない」問うことから、そのようなことを示唆する記事なのである。

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【土曜日のエロ】 「東京芸大よ、お前もか!」という声の聴かれる「ミスコン中止」で言われた「芸術とは何か」

【土曜日のエロ】 「東京芸大よ、お前もか!」という声の聴かれる「ミスコン中止」で言われた「芸術とは何か」
 土曜日のエロである。今週は個人的なことで言えば、月曜日から関西に出張していたために、結構世の中のことに疎くなっている。それでも、落語家の桂歌丸師匠が亡くなられたことと、ロシアのワールドカップで、日本が敗退したことはさすがに知っているということであろうか。
  桂歌丸師匠といえば、「笑点」である。まあ、はっきり言って、この笑点1969年からということで、わたしと同い年。それをずっと現役で出続けていたのであるから、なかなか大変なものであると思う。私の半生分、全てを笑点に出ていたのであるから、なかなかである。「笑い」ということに関しては、ベルクソンという哲学者が「笑い」という本を書き、人間の本質としての笑いを分析している名著があるが、まさに、その中の「誰の罪にもならない笑い」を追求し、同時に、楽太郎師匠(現六代目円楽師匠)には、「自分をネタにしてよい」という「自虐的な笑い」を追求する。まさに、「藁氏のすべてを知っていた巨人」ではなかったかということが考えられる。
  さて、そのような中でも土曜は「エロ」を追求する。そもそも「エロス」とは、ギリシア神話で出てくる愛の神様の名前であり、世界生成の際にカオス(混沌)に続いてガイア(大地)およびタルタロス(深淵)とともに生まれたとされる。人間の美女プシュケを愛し,彼女を憎悪してやまないアフロディテの妨害にもかかわらず万難を排して彼女と結婚して,霊魂の人格化された存在にほかならない彼女を神々の仲間入りさせたとされる。
  さて、このような神の存在がいる。「神」が「人間と結婚して神々の仲間入りをさせる」のであるから、ギリシアでは大変なのであるが、逆に、それだけその人間の女性は「魅力的であった」ということになる。
  その「女性の魅力」とは、もちろんない面もあるが、一方で「外見」もあるのではないか。外見で第一に判断し、そのうえで、内面に振れて、真の愛を理解する。では、その「外見の重要性」は、現在でも必要なのではないか。
東京芸大の学園祭でミスコン中止「「企画してしまったことを浅はかであったと痛感」
 9月上旬に開かれる東京芸術大学の学園祭「藝祭」で開催予定だった「裏ミス藝大」が中止されることが明らかになった。藝祭実行委員会が6月21日、学生課を通して学生全員宛にメールを送り、中止を決めた経緯を説明した。
 藝祭には、「ミス」と「裏ミス」のコンテストがある
 藝祭では、「ミス藝大」と「裏ミス藝大」の両方が開催される予定だった。「ミス藝大」は毎年開かれている名物企画で、通常の「ミスコン」のような女性の見た目などを評価するコンテストとは違い、男女問わず参加でき、モデル、美術、音楽でチームを組み「ミス藝大」という作品をつくることで「美」を追求するというのが狙い。作品は人ですらない場合もある。
 藝祭実行委員会のTwitterでは「藝祭のミスコンは一般的な大学のように容姿だけでは判断しません。毎年テーマを設定し(設定しない年もあり)、出場者およびチームがそのテーマをそれぞれの解釈で表現します。その中で魅力的なものを皆さんに投票で選んで頂き、グランプリ等が決定します」と説明されている。
 対して、今回中止が決まった「裏ミス藝大」は、通常の女性の容姿やふるまいなどを評価する、いわゆる従来型の「ミスコン」を見たいという学生の要望に応え、今年企画されたものだったようだ。
「企画してしまったことを浅はかであったと痛感」
以下、「裏ミス藝大」の中止を知らせるメールだ。
======
本企画の開催が中止となった経緯をご説明いたします。
本企画についてのメールを送らせていただいた後、様々な意見をいただきました。
賛成や出場を希望される意見も多数ございましたが、本企画に対し、懸念を示された方もいらっしゃいました。
本企画の参加資格が女子学生のみであること、また、外見から人の内面や人自身を判断するということが、
「女性は美しくあるべき」というような、強迫的な観念をもたらしてしまうこと、そして、様々な価値観を持つ学生が集まり、芸術を学ぶ藝大という場において、このような企画が催されることに対して、強い危機感を持っていらっしゃいました。
このような経緯を経て、意見をくださった方々とイベント課、企画課を交え、内的な意見交換会を行いました。
そして、交換会において、本企画の発案のきっかけとなった、「ミス藝大」企画に関する意見ポスターについての言及もありました。
意見ポスターには、今まで通り「ミス藝大」を続けてほしいとの意見もございましたが、反対に、「普通の」ミスコンが見たいという旨を、女性に対するハラスメント的な言葉遣いで書かれているものもございました。
上記のような意見が学生の声として正式に受け入れられるとは思わなかった、という声をいただき、意見を取り入れ、企画してしまったことを浅はかであったと痛感いたしました。
今回の件は、毎年開催されている「ミス藝大」企画について再考する機会でもありました。
男女問わず、様々な価値観で「美」を表現する「ミス藝大」は、藝大らしいミスコンだと言えます。
学生の皆様にも「ミス藝大」企画の意義について考えていただきたく、以上の内容を共有させていただきました。
 「裏ミス藝祭」中止を受けた反応は
 Twitter上では、様々な意見が飛び交った。
 「このように他者の意見を取り入れ、丁寧な内容のメールを送る企画課も、意見を臆すること無く言って伝える藝大生も、私は本当に素晴らしいと思います(
 「ミスコン」のあり方にも変化が
 「ミス・アメリカ」のように従来の一律的な「美しさ」の定義を見直す動きも世界中で起きている。痩せ過ぎモデルの活用を禁止する法律がフランスで施行されたり、少し太めの「プラスサイズ」モデルが雑誌の表紙を飾るようになってきたりした。「どんな見た目でもそれぞれの美しさがあるんだよ」というメッセージが各地で発信されている。それは「ボディポジティブ」ムーブメントと言われている。
 女性の美しさを競うミスコンは、その動きと逆行していてジェンダーの観点でしばしば議論となる。対象者を戸籍上の女性に限定したり、国籍を限定したり、「女性はこうあるべきだ」という考えの押し付けになったり...。美しさの多様性が叫ばれる時代の中で、美人コンテスト(ミスコン)をする意味を藝祭の実行委は問い直した。
井土亜梨沙/ハフポスト日本版
6/23(土) 18:08配信 ハフポスト日本版
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180623-00010005-huffpost-soci
 女性の魅力というのは、当然に、「内面」もあるが「外見」も重要である。当然に「美しさ」の基準は、人によって違うものである。「蓼食う虫も好き好き」ともいうが、まさに、威勢に対する好みというのは全く子なるものであるし、その「好き」になる基準も「内面」と「外見」のバランスもそれ是れこどなるものである。
  そのように考えた場合、「外見」しか審査しない「ミスコン」はどうかという声もある。一方で、「せめて外見だけでも」というようなことが必要な状況になってくるのではないか。それにもかかわらず、現在は「ミスコン」をしなくなってっ来ている。もちろん「内面を審査する」などということは論文試験などがなければとてもできるようなものではないし、それは、コンテストで決められるものではない。そこで「せめて外見」というようなコンテストが行われてきていたにもかかわらず、徐々にミスコンをやめるような状況になってしまっているのである。
  さて、なぜこのようになってくるのであろうか。
  単純に「めでる」ということができなくなってしまっているのではないか。一つには、女性がなぜか強迫観念に駆られるなどということが言われているが、しかし「ミロのヴィーナスが薄くしい」として美術品をめでるようなことは中止されない。つまり、「女性を神の作った美しい芸術の一つ」として「見て楽しむ」ということができなくなってしまい、いつのまにか、全ての女性と男性が「「自分が主体でなければならない」というような「自意識過剰な状態」になってしまっている。その上、「あいに行けるアイドル」のように、いつのまにか芸能人も身近な存在になってしまい、またゲームやスマホなどの発展によって「ヴァーチャル」または「銀幕の中」と「現実世界」の区別がつかなくなってしまっているということになっているのである。そのために、男性側ではそのような犯罪が増え、祖いて女性側では、井伊式で、ミスコンに出てもいないのに自分のきれいでなければいけないというような強迫観念に駆られる結果になるのである。
  さて、このようなことは、本来、「芸術を学ぶ」東京芸大などは、最後の砦ではなかっか。人間の美しさを、または醜さを芸術として表現する。勿論ミスコンはモデルではないが、しかし、そのような「目」を持っているはずの芸大ですらそれを放棄してしまった。彼らは、どのように芸術を、そして外見から内面を抉り出すような表現をするのであろうか。
  この一つの流れは、実にくだらないし、またこのようなミスコン中止になるような流れの本質こそ、人間の心を狭く醜いものにしているのではないか。

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