日記・コラム・つぶやき

【土曜日のエロ】 「東京芸大よ、お前もか!」という声の聴かれる「ミスコン中止」で言われた「芸術とは何か」

【土曜日のエロ】 「東京芸大よ、お前もか!」という声の聴かれる「ミスコン中止」で言われた「芸術とは何か」
 土曜日のエロである。今週は個人的なことで言えば、月曜日から関西に出張していたために、結構世の中のことに疎くなっている。それでも、落語家の桂歌丸師匠が亡くなられたことと、ロシアのワールドカップで、日本が敗退したことはさすがに知っているということであろうか。
  桂歌丸師匠といえば、「笑点」である。まあ、はっきり言って、この笑点1969年からということで、わたしと同い年。それをずっと現役で出続けていたのであるから、なかなか大変なものであると思う。私の半生分、全てを笑点に出ていたのであるから、なかなかである。「笑い」ということに関しては、ベルクソンという哲学者が「笑い」という本を書き、人間の本質としての笑いを分析している名著があるが、まさに、その中の「誰の罪にもならない笑い」を追求し、同時に、楽太郎師匠(現六代目円楽師匠)には、「自分をネタにしてよい」という「自虐的な笑い」を追求する。まさに、「藁氏のすべてを知っていた巨人」ではなかったかということが考えられる。
  さて、そのような中でも土曜は「エロ」を追求する。そもそも「エロス」とは、ギリシア神話で出てくる愛の神様の名前であり、世界生成の際にカオス(混沌)に続いてガイア(大地)およびタルタロス(深淵)とともに生まれたとされる。人間の美女プシュケを愛し,彼女を憎悪してやまないアフロディテの妨害にもかかわらず万難を排して彼女と結婚して,霊魂の人格化された存在にほかならない彼女を神々の仲間入りさせたとされる。
  さて、このような神の存在がいる。「神」が「人間と結婚して神々の仲間入りをさせる」のであるから、ギリシアでは大変なのであるが、逆に、それだけその人間の女性は「魅力的であった」ということになる。
  その「女性の魅力」とは、もちろんない面もあるが、一方で「外見」もあるのではないか。外見で第一に判断し、そのうえで、内面に振れて、真の愛を理解する。では、その「外見の重要性」は、現在でも必要なのではないか。
東京芸大の学園祭でミスコン中止「「企画してしまったことを浅はかであったと痛感」
 9月上旬に開かれる東京芸術大学の学園祭「藝祭」で開催予定だった「裏ミス藝大」が中止されることが明らかになった。藝祭実行委員会が6月21日、学生課を通して学生全員宛にメールを送り、中止を決めた経緯を説明した。
 藝祭には、「ミス」と「裏ミス」のコンテストがある
 藝祭では、「ミス藝大」と「裏ミス藝大」の両方が開催される予定だった。「ミス藝大」は毎年開かれている名物企画で、通常の「ミスコン」のような女性の見た目などを評価するコンテストとは違い、男女問わず参加でき、モデル、美術、音楽でチームを組み「ミス藝大」という作品をつくることで「美」を追求するというのが狙い。作品は人ですらない場合もある。
 藝祭実行委員会のTwitterでは「藝祭のミスコンは一般的な大学のように容姿だけでは判断しません。毎年テーマを設定し(設定しない年もあり)、出場者およびチームがそのテーマをそれぞれの解釈で表現します。その中で魅力的なものを皆さんに投票で選んで頂き、グランプリ等が決定します」と説明されている。
 対して、今回中止が決まった「裏ミス藝大」は、通常の女性の容姿やふるまいなどを評価する、いわゆる従来型の「ミスコン」を見たいという学生の要望に応え、今年企画されたものだったようだ。
「企画してしまったことを浅はかであったと痛感」
以下、「裏ミス藝大」の中止を知らせるメールだ。
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本企画の開催が中止となった経緯をご説明いたします。
本企画についてのメールを送らせていただいた後、様々な意見をいただきました。
賛成や出場を希望される意見も多数ございましたが、本企画に対し、懸念を示された方もいらっしゃいました。
本企画の参加資格が女子学生のみであること、また、外見から人の内面や人自身を判断するということが、
「女性は美しくあるべき」というような、強迫的な観念をもたらしてしまうこと、そして、様々な価値観を持つ学生が集まり、芸術を学ぶ藝大という場において、このような企画が催されることに対して、強い危機感を持っていらっしゃいました。
このような経緯を経て、意見をくださった方々とイベント課、企画課を交え、内的な意見交換会を行いました。
そして、交換会において、本企画の発案のきっかけとなった、「ミス藝大」企画に関する意見ポスターについての言及もありました。
意見ポスターには、今まで通り「ミス藝大」を続けてほしいとの意見もございましたが、反対に、「普通の」ミスコンが見たいという旨を、女性に対するハラスメント的な言葉遣いで書かれているものもございました。
上記のような意見が学生の声として正式に受け入れられるとは思わなかった、という声をいただき、意見を取り入れ、企画してしまったことを浅はかであったと痛感いたしました。
今回の件は、毎年開催されている「ミス藝大」企画について再考する機会でもありました。
男女問わず、様々な価値観で「美」を表現する「ミス藝大」は、藝大らしいミスコンだと言えます。
学生の皆様にも「ミス藝大」企画の意義について考えていただきたく、以上の内容を共有させていただきました。
 「裏ミス藝祭」中止を受けた反応は
 Twitter上では、様々な意見が飛び交った。
 「このように他者の意見を取り入れ、丁寧な内容のメールを送る企画課も、意見を臆すること無く言って伝える藝大生も、私は本当に素晴らしいと思います(
 「ミスコン」のあり方にも変化が
 「ミス・アメリカ」のように従来の一律的な「美しさ」の定義を見直す動きも世界中で起きている。痩せ過ぎモデルの活用を禁止する法律がフランスで施行されたり、少し太めの「プラスサイズ」モデルが雑誌の表紙を飾るようになってきたりした。「どんな見た目でもそれぞれの美しさがあるんだよ」というメッセージが各地で発信されている。それは「ボディポジティブ」ムーブメントと言われている。
 女性の美しさを競うミスコンは、その動きと逆行していてジェンダーの観点でしばしば議論となる。対象者を戸籍上の女性に限定したり、国籍を限定したり、「女性はこうあるべきだ」という考えの押し付けになったり...。美しさの多様性が叫ばれる時代の中で、美人コンテスト(ミスコン)をする意味を藝祭の実行委は問い直した。
井土亜梨沙/ハフポスト日本版
6/23(土) 18:08配信 ハフポスト日本版
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180623-00010005-huffpost-soci
 女性の魅力というのは、当然に、「内面」もあるが「外見」も重要である。当然に「美しさ」の基準は、人によって違うものである。「蓼食う虫も好き好き」ともいうが、まさに、威勢に対する好みというのは全く子なるものであるし、その「好き」になる基準も「内面」と「外見」のバランスもそれ是れこどなるものである。
  そのように考えた場合、「外見」しか審査しない「ミスコン」はどうかという声もある。一方で、「せめて外見だけでも」というようなことが必要な状況になってくるのではないか。それにもかかわらず、現在は「ミスコン」をしなくなってっ来ている。もちろん「内面を審査する」などということは論文試験などがなければとてもできるようなものではないし、それは、コンテストで決められるものではない。そこで「せめて外見」というようなコンテストが行われてきていたにもかかわらず、徐々にミスコンをやめるような状況になってしまっているのである。
  さて、なぜこのようになってくるのであろうか。
  単純に「めでる」ということができなくなってしまっているのではないか。一つには、女性がなぜか強迫観念に駆られるなどということが言われているが、しかし「ミロのヴィーナスが薄くしい」として美術品をめでるようなことは中止されない。つまり、「女性を神の作った美しい芸術の一つ」として「見て楽しむ」ということができなくなってしまい、いつのまにか、全ての女性と男性が「「自分が主体でなければならない」というような「自意識過剰な状態」になってしまっている。その上、「あいに行けるアイドル」のように、いつのまにか芸能人も身近な存在になってしまい、またゲームやスマホなどの発展によって「ヴァーチャル」または「銀幕の中」と「現実世界」の区別がつかなくなってしまっているということになっているのである。そのために、男性側ではそのような犯罪が増え、祖いて女性側では、井伊式で、ミスコンに出てもいないのに自分のきれいでなければいけないというような強迫観念に駆られる結果になるのである。
  さて、このようなことは、本来、「芸術を学ぶ」東京芸大などは、最後の砦ではなかっか。人間の美しさを、または醜さを芸術として表現する。勿論ミスコンはモデルではないが、しかし、そのような「目」を持っているはずの芸大ですらそれを放棄してしまった。彼らは、どのように芸術を、そして外見から内面を抉り出すような表現をするのであろうか。
  この一つの流れは、実にくだらないし、またこのようなミスコン中止になるような流れの本質こそ、人間の心を狭く醜いものにしているのではないか。

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【土曜日のエロ】 エロネタの宝庫韓国の新聞から「女子中学生の下着の色を白と決めた地学校」の話題

【土曜日のエロ】 エロネタの宝庫韓国の新聞から「女子中学生の下着の色を白と決めた地学校」の話題
 土曜日のエロの日になった。さて、突然テレビの話をするが、東京の深夜番組で、火曜日深夜(水曜日未明)に放映している「やれたかも委員会」という番組が面白い。毎回相談者が来て、昔の男女の思い出を語り、その時に「やれたか」ということを話しを聞いてその可能性を話をするというものである。
  人間誰しも、過去に様々な選択肢があり、その選択肢の中において、あの時ああしていればと考えることがある。それを、ドラマ形式で行うというのは、なかなかよい。そしてそれを「男女の関係でやれたかもしれない」という観点で編集しているのは、なかなか面白いのである。深夜に文章を書いている私にしてみれば、この番組は、普段マスコミを一反している私にとって、そのような態度とは全く逆で楽しみの一つである。
  あの時、青のようにしていれば、、、私の人生の中でも様々ある。もちろん「やれたかも」という話もたくさんあるのであるが、まあ、そのようなことを繰り返して現在があり、それを肯定するということが必要なのではないか。
  さて、この「エロ」の話はまさにその中の一つである。エロというのは、人間の本性が現れることであり、同時に、それを建前という人間の中野自分を飾る部分との間において、かなりの葛藤があり、その手前でとどまるかあるいは、その一線を超えるかということgの大きな分岐の物語である。もちろん、そのことがあることによって、さまざまなドラマがあるのだが、なかなかとどまれる人は少ないので事件になってしまうのである。
  おちろんそれがすべて「やれたかも」であるかどうかは別問題である。実際に、甲の記事に関しては「下着をめぐる校則」である。まあ、韓国はエロネタの宝庫というのは、一つには、「建前で飾る部分が少ない」と意ことに他ならない。ある意味で「本音や本能のままに生きている」といって過言ではないかもしれない。うらやましいとも思うし、本当にそれでよいのかとも思う部分がある。当然に、校則など、「行為」ではなく、何らかの「視界の範囲の話」であっても、そのことをいかに考えるかというときに、さまざまな葛藤があるはずなのだが、残念ながら韓国はその辺が少ないので、面白いのかもしれない。
白い下着着用定めた校則、韓国の女子中学で生徒らが反発
 釜山(プサン)の女子中学校で下着を含む服装検査の方針を明らかにしたところ、生徒らが反発して校則改正を積極的に要求してきた。
 釜山有楽(ユラク)女子中学の生徒らは14日に臨時代議員大会を開き、「白い下着」の着用を規定した校則に対し不当だという内容の建議事項を採択して学校側に伝達した。これに先立ち12日には校長との対話を通じ時代にそぐわない校則を改正してほしいという意見を伝えた。
 「下着規制」をめぐる論争は今月初めに夏の制服を着用するになってから起きた。学校側が下着が透けないよう白い下着を着るようにし、下着を含めた服装検査方針を明らかにすると、生徒らは学校が個人の下着まで決めるのは人権侵害だとして反発した。
 生徒らは校内に「下着が透けることが扇情的でしょうか? そのように考えること自体が問題ではないのですか?」「私の下着が不便ですか?」「何を着ようが私たちの自由」などのメッセージを書いた付せん紙数百枚を貼り付けた。
 学校側は生徒らの団体行動にブレーキをかけ付せん紙を剥がそうとしたが、こうした措置は非教育的という内部からの指摘により議論に入った。学校側はまず校則改正の可否に先立ち生徒たちに下着の色を自分で決めて着るようにする臨時措置をした。
 有楽女子中学校側は父兄と教師を対象に生徒の下着と関連した校則改正に関する意見を求め、概ね生徒らの考えに共感していることが把握されたと明らかにした。これを受け有楽女子中学校は近く下着の色を規定した校則改正の可否を決める予定だ。
2018年6月17日 13時7分 中央日報
http://news.livedoor.com/article/detail/14877498/
 韓国がどうこうというような話は別にして、そもそも「下着」に関する校則というのはどうやって検査するのであろうか。まあ、上記にあるように女性のブラジャーに関して、白い服に透けるか透けないかということは、ある程度目視できるのであるが、下の下着に関しては、スカートをめくらなければ検査できない。その辺のところがまずあるのではないか。
  また「白い下着でなければおかしい」というような話は、何であろうか。昔の日本では「エレキギターを弾いている人は不良」というようなイメージがあったようだが、現在はそんなことはない。実際に、成績が良い不良は、少なくとも私の出身校にはたくさんいたのである。そのように考えれば、「大人の考える学生らしさ」と「子供の現実の世界」とはかなり乖離があるということになるのではないか。
  もちろん、「白い下着」というのは、なかなか良い。実際は、白いカッターシャツに最も透けないのはベージュか灰色であって、白は帰って目立つ。実際に、女性の肌が真っ白、それも下着と同化する場合は良いが、肌の色が黄色人種で、白い布に張り付いた場合は少し黒っぽく見える。その時に白い下着は帰って目立つことになるのである。単純に、下着が煽情的であるというのであれば、「白いシャツ」という制服をやめればよいのであって、下着の色を強制する、それも変えて目立つ城に統一すること自体がおかしい。ある意味で、「かえって目立つような色合いの下着にした」ということが言えるのではないか。それを「学生らしさ」などといって共生していたようにも思えるない世づえしかない。まあ、私のようなオジサンになってくると、そのようなところを見るのもよいのであるが。
 生徒らは校内に「下着が透けることが扇情的でしょうか? そのように考えること自体が問題ではないのですか?」「私の下着が不便ですか?」「何を着ようが私たちの自由」などのメッセージを書いた付せん紙数百枚を貼り付けた。<上記より抜粋>
  この中で「そのように考える音自体が問題」というのは、まさにその通りで、何を考えているのであろうか。なかなか興味深い。いつもこのコラムでは書いているように、「エロ」を想定する人の方がエロいのであり、規制される側はそのような認識がないということの方が大きい。いつものことであるが「大人の論理」というのは、そのような本音の部分を建前で押し切ってしまう部分があり、そこには「青少年保護」の名目で自由は存在しないのである。
  まあ。韓国でもそのような議論がやっと始まったのかと思う。日本は、どうなのであろか。

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【土曜日のエロ】 「内面の美しさ」を審査するために水着審査取りやめという「ミスコンテストの死」を選んだ「ミス・アメリカ」

【土曜日のエロ】 「内面の美しさ」を審査するために水着審査取りやめという「ミスコンテストの死」を選んだ「ミス・アメリカ」
 土曜日のエロの日である。
  今週を振り返っていると、まあ、12日の「世紀の会見」といわれた、米朝首脳会談がほとんどすべての話題をとってゆくかと思っていた。しかし、実際のところは、その後「新幹線の受難」という感じで州の中盤から公判が終わった感じだ。正規の会見に関しては、まあ、有料メルマガの方に書くので、ここであまり書く気はしないが、まあ、わたしから言えば、一つは、少なくとも今まで誰も行わなかったことをトランプ大統領がその指導力の下で行ったということは事実であり、その後のことは、またスタッフがしっかりと行うものであろう。もう一つは、批判する人などが多いが、批判する人たちは「それならば君ならばできたのか」と聞かれればできなかったに違いない。まあ、会見が終わってから批判するような人は、所詮その程度の人物でしかないということである。
 「新幹線受難」というのは、事件の概要だけ言えば、新幹線の中でなたを振り回して無差別に人を殺す若者がいたということ。止めようとした兵庫県の会社員が犠牲になってしまい、非常に残念なことであると思う。また、西日本の新幹線では、52歳の介護士が管理用の梯子から線路内に侵入し、走ってくる新幹線に突っ込んで衝突した。しかし、このことを無視して新幹線は走り続けてしまったので、安全性に対する問題として避難されている。まあ、一週間に二つも新幹線に関する事故があるというのはなかなか珍しい。そいえば、新幹線内の死傷事件というのは、数年前に新幹線あいで焼身自殺をした男性に巻き込まれて、女性が死亡した事件に次いで珍しい内容であり、一方新幹線への飛び込み自殺というのはなかなか数が少ない。そのように考えた場合には、新幹線でこのようになるのは「受難」の週であったということができる。まあ、安全帯悪が万全ならば、という声があることは承知しているが、逆にこれrだけ事故が少なければ、今まで通りでよいというような「新幹線安全神話」のようなものが出てきてしまうのではないか。
  まあそのような中での「エロ」を語るのは、なかなか雰囲気が違うような気がしているが、それにもめげず「エロ」を語る。いや、人間の「内面」を見るためには、逆に「エロ」を語らなければならないのではないかという気がしている。
「ミス・アメリカ」が水着審査取りやめ、内面の美しさ重視へ
 アメリカで100年近い歴史を持つミスコン「ミス・アメリカ」が、水着審査を廃止すると発表しました。
 「ミス・アメリカ」への参加資格を持つのは、アメリカ国籍の17歳から25歳までの女性で、全米各州で行われる地区予選や水着やインタビューによる審査を経て選ばれます。
 主催者は5日、“今年9月に行われるコンテストから水着での審査をやめ、リーダーシップや知性など、より内面の美しさを重視する”と発表しました。
 「もう外見的な美しさでの審査はしません」(ミス・アメリカ主催者団体 代表)
 主催者のSNSには、「バイバイ、ビキニ」、「我々は水着を捨て、新しい時代に入る」とのメッセージが掲載されています。
 今回の決定について、ハリウッドから広がった反セクハラ運動「#Me Too」の影響も認めつつ、「今の社会の空気を表したものだと思う」としています。(06日09:24)
2018年06月06日 09時59分 TBS
https://news.nifty.com/article/world/worldall/12198-038516/
 さて、新幹線の殺傷事件で思ったのが、「人間、外見と内面が違う」と思ったのは、わたしだけではないはずである。実際に「目が行っている」とか「挙動がおかしい」と猪野は、その現場にいるからわかることであり、写真などでわかる話ではない。22歳の眼鏡をかけた男性が、実際になたを持って人を推そうなどということは、なかなか想像できない。まあ、アメリカでは、何の変哲もない高校生が銃をもって学校を襲うのであるから、そんなことを言っていられないのであるが、実際に、「性善説」で「平和ボケ」している日本の場合、多少挙動がおかしくても、まさか命にかかわるような襲撃があると想像する人はほとんどいない。
  「外見と内面」ということは、当然ん「ミスコンテスト」でも同じことであり、「ミス」つまり「女性」のコンテストにおいて、「内面が」などということを言い始めたら、審査をどのように行うのか、まったくわからない。実際に「外見」であっても「蓼食う虫も好き好き」であって、さまざまな意味で、その人の個性や好き嫌いはさまざまであろう。その上「内面」などというものであれば、基本的に演じることはできるし、また、その内容をどのように解釈するのかということが最も重要になってくる。まさに、審査員との「相性」というkとが最も多いな話であり、「ミス」で選ばれた人の「一般の人々やテレビや雑誌で見ている人との解釈の乖離」がかなり大きくなってくるのではないか。
  ハリウッドから広がった反セクハラ運動「#Me Too」の影響も認めつつ、「今の社会の空気を表したものだと思う」<上記より抜粋>
  というようなことになれば、実際に、今後「民族における」ものが出れば、当然に民族などを考慮して「肌の色ごとの審査」とか「各民族別の審査」などというようなことになってくるであろうし、また、「ニューハーフ」や「整形美女」というようなところまで考えなければならなくなってしまう。つまり「コンテストをして人を比べること自体が悪」問うような感じになってしまい、まさに「コンテストそのものの死」を意味する決断をミス・アメリカは行ったということになるのではないか。
  基本的に「ミスコンテストはミスコンテストでこういうものである」というようなことを考えておかなければならないし、どのような世界でも「差別」がないということ自体が「逆差別になる」ということになるのではないか。現在のこのような風潮は、私は全く歓迎できない。

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【土曜日のエロ】 舞台・芸術・映画など芸能活動におけるヌード表現の「エロ」との境界線は何か

【土曜日のエロ】 舞台・芸術・映画など芸能活動におけるヌード表現の「エロ」との境界線は何か
 土曜日のである。まあ、またもや個人的にエロのことを思う存分勝手に書く日が来たと、少し喜んでいる。基本的にエロというのは人間の本質であり、なおかつ人間の中の隠したい部分がそのまま出て来る。人間というのは、人種などに関係なく、少なくとも人間は動物である問い「本能的」な部分と、一方で社会的な生活を送る集団生活者としての「理性的部分」が存在する。人間は、基本的には社会的生き物として、理性的な部分を表に出し、本能的な部分をなるべく隠すことを行っている。勿論それが良いのかどうかということは別にして、少なくtも原始時代などはそのようなことはなかったと思うが、それ以降、日本で言えば奈良時代は平安時代から、それらの本能的な部分は完全に「秘め事」として、なるべく人目に受けないような形になっているのである。
  では、その中において、「本能的」な部分をどのように解釈しそして理論立てて「建前の世界」になるのかということを、人間は常に考えている。その考えこそが面白く、「本音」と「建て前」の懸け橋になっているのである。特に、秘め事として恥の文化を非常に強く持っている日本人のその内容は、非常に面白いし、興味深い。その興味深い部分をいかに考えてゆくのかということが、ある意味でお面白いのではないか。
  さて、今回は、その「本音の部分を建前の部分で隠す」という方法の中で「芸能関係」とか「芸術関係」として処理する方法に関して、その内容を見ているのである。
  さて、芸術の中で、ある意味で「女性の裸体」というものは、非常に芸術的であるとされている。ミロのヴィーナスを代表とする「裸婦像」は、その女性の曲線と、石でできているのにかかわらず「柔らかさ」を表現した内容に関しては非常に素晴らしい芸術性を持っている。もちろん、当時は写真などがないのである唐、本物の女性がヌードになって、そのモデルを務めたのではないかという気がしている。そのモデルを務めた女性が、sれほどの美人であったかは別にして、少なくとも現代に伝わるヴィーナス像でエロスを感じる人はいないのである。
  このように考えた場合、「何がエロなのか」「何が芸術なのか」ということに関しては、さまざまな解釈があるのではないか。
はるかぜちゃん出演の舞台内容変更、ヌード表現指導
 舞台「偏執狂短編集IV」を主催する劇団voyantroupeは、声優で女優の“はるかぜちゃん”こと春名風花(17)が出演する同舞台のヌード等の露出表現に対して警視庁から自粛の通達を受けたとして、公演内容の一部変更を公式サイトで発表した。
 同舞台は9日より上演予定だが、公式サイトは2日、「先日五月三十日付で警視庁から劇場に対して連絡がございました。公演内容に関しヌード及びわいせつ物の露出表現の自粛の通達であり、なんらかの処置がなされなかった場合、公演自体の中止処罰の対象となる可能性があると判断し公演内容の一部変更を決定いたしました」と発表。警察からの通達は、未成年者である春名が出演していることを問題視した一部からの通報を受けたものだったというが、同舞台の脚本・演出を手がける同劇団代表の宇野正玖氏は、他の出演者によるヌード表現はあるが、春名については「未成年の児童に対しては本人はもちろんご家族の了承を得て所属事務所へ出演のオファーをしたものであり、未成年者へヌードの要求をすることもございません」と説明。「これを一方的な見解で児童ポルノであると断じることをこそ、アート表現への迫害であると感じております」と訴えた。
 また、ヌード表現についても「ただ偏(ひとえ)にアートの美しさとしての表現」だとして、わいせつを目的としたものではないと主張。それでも、今回の通達を受け、出演者たちによるヌード表現についても「身体の部分を特定の色彩(銀)で覆うことに決定致しました」とし、春名がメインキャストを務める演目に関しては演目自体の中止を決定したとした。
 春名もブログを更新し、「応援してくださっていた皆様 本当に申し訳ありません」と謝罪。「いろいろ思うところはありますが、考えれば考えるほど心がこれからの舞台に集中出来なくなってゆくのでこれから本番終了まで、この事はいったん忘れさせてください。今は、新しい台本のことだけを考えます」と複雑な胸中を吐露した。
2018年6月4日 11時19分 日刊スポーツ
http://news.livedoor.com/article/detail/14812756/
 さて今回の内容に関して、この「偏執狂短編集IV」という舞台芸術も、また春名風花という女性も全く知らない。そのために、どのような内容で、どのようなヌード表現なのか全く知らない。知らないで偉そうにさまざまなことを言うといううのは良くないのかもしれないが、この記事の中の表現に、一つ注目すべきものがあるので、その内容を書きたくて今日はブログを書いているようなものだ。
  「これを一方的な見解で児童ポルノであると断じることをこそ、アート表現への迫害であると感じております」と訴えた。また、ヌード表現についても「ただ偏(ひとえ)にアートの美しさとしての表現」だとして、わいせつを目的としたものではないと主張。<上記より抜粋>
  まさにこの文章こそ、現在の「ヌード」に対する「エロ」と「芸術」の差がこの内容になっているのではないか。ある意味で「芸術として本人が認識している」かどうかということと、それを見ている人々が「そのヌード表現を見て性的煽情を感じるか」ということが非常に大きな内容である。ここに双方の主観があり、その主観と客観に差がある場合には、かなりさまざまな問題があるということになるんド絵ある。
  もちろん、その主観と客観が大きく書けな慣れている場合は仕方がないが、いずれも演じる者の主観と、見ている者の主観ということになり、その主観のぶつかり合いであるから感受性の者になるのである。同時にこの内容に関しては「客観的な基準」を作ることが難しく、なかなか大変なことになる問いことになる。
  単純に警察はそのことをよくわかっているので「苦情」に対して「自粛要請」にとどめている。本当にわいせつと思ったのであれば、わいせつ罪の関連の何かで取り締まればよい。しかし、基本的に「ある程度芸術性があると判断される」ということであると考えられるのではないか。
  さて、当然に「見る側の主観」の中には性的な感覚を持つ人が出てくると思う。しかし、その主観は「自分がエロいと自白しているのと同じ」ではないのか。ある意味で「ミロのヴィーナスを見て性的な興奮を覚える」という人がいて、ルーブル美術館からどこかの美術館が借りてきて展示会に苦情を言った場合、どのようになるのか、そのようなことに近いのでは中と思われる。
  ある意味で「自分がどこまでエロいのか」また「芸術をどこまで理解するのか」このことを見たいので、この手の苦情は「個人情報を公開」すべきではないか。そのうえで「正々堂々とエロの議論」をすべきである。

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【土曜日のエロ】 「パパ活」がアプリになってゲーム感覚になるという女性の感覚

【土曜日のエロ】 「パパ活」がアプリになってゲーム感覚になるという女性の感覚
 土曜日のエロである。個人的に言うと、今週は何かかなり忙しく、結構疲れた感じだ。何か結構忙しかったような気がする。基本的には、「一度怒らせたトランプのご機嫌を取る北朝鮮と韓国」という、なんだかよくわからない構図。国内の関係は、いまだに「モリカケ」だそうだ。まあ、時計の針が完全に止まったままの、なんだかわからない状態になってしまっていて、日本の政治の「劣化」を感じないわけにはいかない。
  まあそのような中でも、やはり「エロ」は不滅である。
  基本的に「男女」が出会うということは、なかなか難しい。実際に私のような年齢、まあ、言わゆる「中年」には基本的に出会いの機会というものはないし、また、もしもであったとしても、その後うまく続かないのである。「続かない」というのは、単純に「ジェネレーションギャップ」によるものがあり、双方が相手に気を使って話題が合わなかったり、あるいは、生活の循環の中に共通項が見いだせなくなってしまう。この場合、その男女を結び付けるものは「ある程度の強制の環境」、まあ、仕事関係とか、あるいは師弟関係、などがあるということか、あるいは「体の関係」及び「金銭的関係」しかないのではないかという気がしてならない。
  もちろん、全てにおいて例外がある。しかし、さまざまに考えてみれば、そのような感じになってしまう。そして、そのような関係を推進するのが「パパ活」である。まあ、、「パパ活」などという事はそもそも何なのかよくわからないが、以前この土曜日のエロで、イギリスのパパ活に関して取り上げたことがある。まあ、単純に言えば「女性のパトロン探し」であり、このような「優れた文化」は、すぐに日本にも上陸するようである。
  日本にこれらの「性的文化」が上陸した場合、基本的に「簡易性」と「拡張性」が出てくる。日本というのは、漢字からカタカナひらがなを作ったり、あるいは、トランジスタからカーラジオを作るなど、「小型化」「汎用化」「利便化」ということが特徴の加工を行う文化に強い。そのために、この「パパ活」も意外な変化を日本で行っているのである。
ゲーム感覚で簡単に利用の出会い系アプリ、“パパ活”の温床に
 現在、出会い系アプリは多種多様に登場していて、実際に結ばれる男女も増加している。しかし、マッチングアプリが市民権を得て流行しているとはいえ、「負」の側面がゼロとはいい切れないのも確かだ。
 その1つが「パパ活」の温床となっていることだ。ウェブメディア「Japan In-depth」編集長の安倍宏行さんが言う。
「『パパ活』とは昔の『パトロン探し』で、お金に困っている若者が金銭的に支援してくれるパトロンを探すということです。日本でも『シュガーダディ』『ペイターズ』『HICLASS TOKYO』といったアプリは若い世代がパトロンと出会う機会を生み出している。スマホの普及によってこうしたアプリに簡単に登録できるし、ネットに慣れ親しんだ若い世代はゲーム感覚で簡単に利用しています」
 実際に「パパ活」をしている25才OLが打ち明ける。
 「表向きは『平凡な毎日にときめきがほしい』としていますが、本当の目的は援助交際です。私は『シュガーダディ』など複数のパパ活アプリを使って、2人のパパをキープしています。このアプリの登録男性には70代や80代もいて『お互いが信頼できる関係になれば支援します』とストレートなメッセージが来ます」
 2017年6月には渡部篤郎(50才)主演で「パパ活」をテーマにしたドラマも放送されたが、現実には危険も多い。
「若い子は出会い系アプリに驚くほど警戒心がなく、悪い大人たちの毒牙にかかりやすい。1対1で会ってお酒も入れば危険なことも起こりやすい。若い子ほど出会い系アプリの危険性についての教育が必要です」(安倍さん)
 また、出会い系アプリは「不倫」の温床との指摘もある。超実践派恋愛コンサルタントのSaiさんはこう語る。
「出会い系アプリは火遊び願望のある人たちの利用も多い。そういう人たちはフェイスブックなどのアカウントと紐づかないアプリを使います。既婚者であることを隠してアプリに参加する人も結構いるんです」
 実際に火遊びを経験したことがあるパート主婦(39才)が言う。
「夫と倦怠期で疑似恋愛したくて出会い系アプリに登録しました。大人なので体抜きの関係は難しく、好印象の男性とすぐ不倫関係になり、夫ではない男性から手ほどきを受けて、自分がまだまだ現役の女と認識できました。手軽に浮気できるので、私の周りの既婚者は結構出会い系アプリを利用しています」
 しかしここにも危険が伴う。既婚者の女性看護師(43才)が声を震わせる。
「私は出会い系で知り合った人とは、最初は衆人環視の安全なところで会うことを心がけています。友人から聞いた話だと、体の関係になってから性行為をこっそり撮影されてネットに流出されたり、別れ話を切り出したら相手がストーカーになったこともあるそうです」
 パパ活や不倫に限らず、見知らぬ人と直接会うことにはリスクがある。婚活コンサルタントの澤口珠子さん(40才)は、「当たり前のことに気をつけることが大事」と指摘する。
「婚活パーティーや合コンに詐欺師や体目当ての参加者がいるように、出会い系アプリにも一定のリスクはつきものです。初めて会った人の家にいかない、車に乗らない、簡単に住所や勤め先を言わない、お酒を飲みすぎないなど、当たり前のことに気をつけることが大切です」
※女性セブン2018年5月24日号
2018年05月15日 07時00分 NEWSポストセブン
https://news.nifty.com/article/domestic/society/12180-028436/
 日本でも『シュガーダディ』『ペイターズ』『HICLASS TOKYO』といったアプリは若い世代がパトロンと出会う機会を生み出している。スマホの普及によってこうしたアプリに簡単に登録できるし、ネットに慣れ親しんだ若い世代はゲーム感覚で簡単に利用しています<上記より抜粋>
  まあ、あまり詳しくは知らない。そもそも「パトロン」になれるほど金持ちでもない。同時に、そこまでの女性が出てくるのかというような疑問もある。しかし、このように「スマホのアプリ」で気軽にできるのであれば、何となく考えてみたくなるというのが人情である。単純に「わざわざの活動」ではなく「スマホで手軽に」ということが最も良いところではないか。
  そのように考えると、例えばニュースアプリや、SNSの中に、出会い系と思われるようなアプリの広告が非常に多くあるような気がする。
  「手軽に浮気できるので、私の周りの既婚者は結構出会い系アプリを利用しています」<上記より抜粋>
  「友人から聞いた話だと、体の関係になってから性行為をこっそり撮影されてネットに流出されたり、別れ話を切り出したら相手がストーカーになったこともあるそうです」<上記より抜粋>
  まあ、はっきり言って「手軽さ」の中には、当然に「危険」が潜んでいるということになる。手軽であるからといって、そうではないという反論もあるが、ネットというのは、やはり、「匿名性」「仮想性」があることから、このようなことになりやすい。そう考えた場合に、「パパ活」がいつの間にか「性産業」に代わってしまうことは十分にありうることだ。ある意味でうらやましいし、ある意味で、男性であってもあまりよいということではないのではないか。
  まあ、「出会い」がこのように簡単になってくるというよりは「リアルの社会で、出会いが無くなった分、ヴァーチャルで手軽に行い、リアルなリスクを招き寄せる」ということになるのではないか。

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【土曜日のエロ】 現在の人妻の不倫OKサインの三つのルールがネット上で話題になっているという人々の興味

【土曜日のエロ】 現在の人妻の不倫OKサインの三つのルールがネット上で話題になっているという人々の興味
 土曜日のエロの日である。まあ、毎週最後にこの内容を書くのである。はっきり言って、今週はなんだかわからないが、疲れる、それも、風邪をひいてしまって、あまり調子が良くないので、何となく大変な感じなのである。今週は、日大の反則タックルの話が話題になった感じだろうか。まあ、青の問題は「潰せ」という単語の解釈の問題であろう。解釈はその場の雰囲気や環境によって変わってしまうので、このような文章で解釈できるものではないのに、なぜかネットでもマスコミでも集団で様々なことを言っている状態である。困ったものだと思う。この反則タックルの事件は、私はあまり語りたくないので、あまり触れないことにしよう。そのほかは、米韓首脳会談があったなどあるが、あまり大きな動きはなかったような感じである。
 さて、「禁忌」という言葉がある。基本的には「タブー」という言葉をこれに当てることが多い。絶対にしてはいけないことということであり、これは何も不倫ばかりではなく其の外でも同じことである。最も誰も傷つかない言い方をすれば、童話「鶴の恩返し」のお婆さんであろう。「絶対にこの部屋をのぞいてはいけません」言われて、覗いてしまう。覗いてしまったことによって、その利益を亡くしてしまうのであるが、「禁忌」というのは「人間の興味」ということと、一方で「理性」ということの限界の戦いの中の一コマであるといえる。
  さて、「不倫」である。単純に、もともとは「金曜日の妻立ちへ」というドラマの時の「倫ならぬ恋」という単語から「不倫」という言葉ができたもので、あまり古い言葉ではない。昔は「間男」というような単語があったり、あるいは「不義密通」というような言葉があったので、そのようなことにはならない。この「不倫文化」に関しては、日本の婚姻制度が通い婚であったことからもそのようなことはそんなに大きな問題に名はなってこなかった。「源氏物語」などは、まさに、「不義密通」の見本市のような物語である。これが、徐々に問題になり、江戸時代になると「絵島事件」などのように、世の中を騒がせることになるのである。
「3つのルールを守れば不倫OK」という人妻 衝撃ルールに賛否が相次ぐ
 パートナーを裏切る不倫問題。けっして許される行為ではないが、少なからず容認派がいるのも事実だ。そういった人の中には「不倫のマナー」があるという。
 このことについて、女性限定匿名掲示板『ガールズトーク』のとあるトピックが話題になっている。
■「不倫OK」のための3つのルール
 不倫容認派である投稿者の女性。家庭の外で愛し合える人がいたほうが、心に余裕ができて結婚生活がうまくいくとの持論のよう。
 しかし、それには以下の3つのルールを守る必要があるという。
(1) 家族にバレないこと
(2) 家計を圧迫しないこと
(3) 家庭をないがしろにしないこと
 れらのルールを守りさえすれば「心に余裕ができて家族に優しくなれる。心に余裕があると不満も溜まりづらい」と訴えた。
■「バレない不倫=不倫してない」
 投稿を受け、掲示板では批判の声が相次いだ。
 ひとりの女性から「じゃああなたはそこを守った上でなら旦那さんに浮気されてもいいんですね?」との質問が寄せられたが、投稿者は
 「問題ないでしょ。そもそもバレなきゃ不倫してようがしてなかろうが同じでしょ。知らないんだから。不倫してたらきっと旦那は家で優しくなる。私にバレなければ、ただの『優しい旦那』になるよねそれって」
 と回答。それでも不倫はバレるとのコメントには
「できないのはあなたの旦那が頭悪いからでしょ」
 と反論。不倫が問題なのではなく、バレることが悪との考えのようで「バレない不倫」「不倫してない」はほぼイコールだと持論を述べた。
 また、家族の幸せが最優先との考えから遊びの不倫はOKという投稿者だが、一方で離婚については「離婚は論外。選択肢のひとつにすら出てこない」と語っている。
■「不倫の基本だよね」
 コメントの大半は投稿者への批判が寄せられているが、一方で「理解できる」との声も。
・私はバレなきゃいいと思う。嫁の立場でも、遊びなら別にいいかな。遊びならね
・私も主さんと同じ考え! なかなか子供が出来なかったし、だったら人生楽しもう!って不倫に前のめりになってた。でも、子供が産まれたらその一歩が踏み出せなくなった
・まあどうせやるならねぇ これくらいしてくれないとね、不倫の基本だよね
■どんな理由があっても不倫は悪?
 バレなければ不倫ではないという投稿者。しかし、その意見に納得できない人は多いだろう。
 しらべぇ編集部が全国20代~60代の男女1,357名を対象に「不倫」について調査したところ、全体の45.0%が「どんな理由があろうと、不倫は悪だ」と回答。
(cニュースサイトしらべぇ)
 不倫に「仕方ない」「遊びなら」「バレなければ」という理由は通用しないようだ。
 「心に余裕ができれば家族に優しくなれる」と語る投稿者。不倫があっても手に入れたい家族の幸せとは何なのだろうか。
(文/しらべぇ編集部・シマウマ姉さん)
【調査概要】
方法:インターネットリサーチ「Qzoo」
調査期間:2018年2月9日~2018年2月13日
対象:全国20代~60代の男女1357名 (有効回答数)
2018年05月13日 06時00分 しらべぇ
https://news.nifty.com/article/item/neta/12189-20161616961/
 なぜ「不倫」が良くないのか。基本的に、自分には妻も子供もあり、そこに対する「義」が生じる。しかし、その「義」を裏切るのであるから基本的には「不義」であるとする。しかし、実際にイスラム教のように一夫多妻制の状況もありまた、日本でも妻妾制度があったので、男性側は、そのようなことに名はならないのである。一方、これに対して、女性側は浮気をしてはな不義をしてはならないというのが一つの内容になっていた。
  男性というのは、その相手がいても、他の女性に対して興味が出てくることがある。なおかつ、それが「禁忌」であることから、当然に「あえて禁忌を破ってみたい」というような欲求を考える場合が少なくないのである。
  このように考えると、男性が不義密通をするというのは、ある意味「本能的」なものなのかもしれない。当然に、男性は「一人でも多く自分の子孫を残したい」という動物的本能を持っていることから、その内容が非常に強い。一方、女性側は受胎することに制限があることから「少しでも強い子孫を残したい」というような感じになっており、「誰でもよい」というような話ではなくなってきている。つまり、女性が男性を選ぶ状態になり、一度決めた相手よりも「優秀な遺伝子を持った男性」が出てきたときに乗り換えたいというような欲求が出てくる。
  そのうえで、「個人的な快楽の追求」が存在する。快楽の追求は、男性も女性も「エロス」の中に存在するのであるから、その快楽は追及されることが出てくるのではないかという気がしてならない。その快楽の追求の場合は「遊び」つまり「余興」であるから、そこにはルールが出てくることになる。
(1) 家族にバレないこと
(2) 家計を圧迫しないこと
(3) 家庭をないがしろにしないこと
 れらのルールを守りさえすれば「心に余裕ができて家族に優しくなれる。心に余裕があると不満も溜まりづらい」と訴えた。<上記より抜粋>
  この内容は、単純に妻たちが「不倫を遊興の一つ」として認識しているということにすぎない。同時に、そのような倫理観を認められない人が45%いるというのである。まあ、何とも言いようがないところなのであるが、この統計の隠された意味は、「快楽として男女関係を見ている以上、不倫はなくならない」ということではないかということなのである。そして女性がそのように認識し始めているということではないだろうか。
  もちろんその善悪は個人の判断によるものでしかないのである

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【土曜日のエロ】 何が女性蔑視なのかよくわからない自民党議員へのバッシングと少子化問題

【土曜日のエロ】 何が女性蔑視なのかよくわからない自民党議員へのバッシングと少子化問題
 今週も土曜日のエロの日がやってきた。まあ、なんというかエロのネタを扱ったからといって、すべてがエロとばかりではないところが大きな問題である。京のネタもそうであるが、「少子化」という問題は、基本的に日本の社会構造として存在している。片方で、「我々の世代は年金がない」とか「労働人口が少なくなった」などということを言い、そのうえで、労働人口の少ない状況で「経済の悪化」ということを言っている。単純なものではないか、経済は、様々な理論や何かがあるが、しかし、最終的に落ち着くところ、一人当たりの生産力に、労働人口を乗したものでしかない。そこに投資をして、というような話があり、また金利や配当というような話があることは十分に承知しているが、それらの「投資」や「配当」も生産したものがなければ、何も生まれない。生産したものが販売され、利益を上げ、その利益を投資に対して配当しているのであり、何を言っても生産と労働人口ということは外せないのである。
  では、その「人口を増やす」ということはどうしたらよいのか。
  日本では、現在少子化ということで、人が少なくなってきており、そのために例えば公歴亜においてその一人当たりの高齢者を支える労働人口が減っている。もちろん、一朝一夕に解決できるものではないが、しかし、将来ということを考えれば、「子供を増やす」ということしか解決方法はない。では、その「子供を増やす」ということはどういうことか。法的には、移民の受け入れや養子縁組など様々にあると思うが、しかし、実際にそれらも「子供という生き物」があるから成立するものであり、子供がいなければ、養子縁組もできない。つまり「子供」を生まなければ、根本的な解決にはならない。
  では「子供を産む」ためには何をしなければならないか。もちろん科学の発展や医学の進歩によって、「人工授精」「試験管ベイビー」というような話があることは承知しているが、しかし、一般には「子供を作る行為」つまり「エロいこと」をしなければ、子供はできないのだ。
  もちろん、夫婦ではない女性に対して、だしぬけに「子供を作ろう」などといえば、セクハラといわれる可能性があるが、しかし、一方で夫婦という法的にもそのほかの関係でも、子供を作れる状況にある人にとっては「子供を作ってほしい」と願うことは、少子化に悩む社会の政治担当者としては当然のことではないのか。
自民・加藤寛治氏「必ず3人以上の子供を産んで」 発言を撤回
 自民党の加藤寛治衆院議員=長崎2区、当選3回=は10日の細田派(清和政策研究会)会合で、結婚披露宴などの席で「新郎新婦は必ず3人以上の子供を産んでほしい」と呼びかけていると言及した。
 加藤氏は「世の中には努力しても子供に恵まれない方もおり、そういう方に無理を言うのは酷だ」と前置きしつつ「結婚しなければ子供が生まれず、人様の子供の税金で(運営される)老人ホームに行くことになる」とも発言した。
 加藤氏の事務所は10日夕、「決して女性を蔑視しているわけではないが、そのようにとられてしまう発言だった」とのコメントを出し、発言を撤回した。
 
産経新聞 2018.5.10 23:45
  https://www.sankei.com/politics/news/180510/plt1805100059-n1.html
 
 
  「子供を産みたくてもできない人がいる」というのは、肉体的な問題やけいざいてきなもんだいなどのことであり、それは社会的な問題ではないか。
  さて、では世の中の「少子化」という問題において、「夫婦」という二人単位のところで「三人以上子供を産んでほしい」というのは、少なくとも社会や政治を担当するものとして、おかしな発言なのであろうか。最近の世の中の批判に関して言えば、「解決策のない批判」「対案の無い批判」があまりにも横行している。今回この加藤という議員の発言に対して、誤解を受ける可能性があるというが、では、この批判をしている人々は、「少子化問題をどのように解決するつもり」なのであろうか。
  基本的に「夫婦に対して子供を作れ」ということは「セクハラ」なのであろうか。
  では、新婚夫婦の祖父母や父母が、「孫の顔を見たい」という願いは、セクハラなのかということになる。三人ということであっても、それは「二人以上ということ」でしかなく人口を減少させないということに他ならない。夫婦に「子供をたくさん産んでほしい」がなぜセクハラ、なぜ、女性蔑視なのか、全く理解できないのである。
  男性が子供埋めるのであれば、女性だけにどうこうということになるし、また、祖の子供を女性が過程に入って育てるべきだというのは、暴論で女性蔑視といわれても仕方がないことかもしれないが、そのようなことは言ってはいない。つまり、参院以上の子供を男性が育児をしてもかまわないのである。そのような状態で「子供を作る」ことだけで、「女性蔑視」となる発想がよくわからない。
  現代は、「権利」ばかりを主張し、「義務」を全く考えない。もちろん子供を産むのは「義務ではない」ことは十分に承知しているが、残念ながら、子供がいなければ社会が崩壊するのであり、そのことを政治家という立場の人物が願うのは何がおかしいのであろうか。全く理解ができないのである。
  つまり「女性蔑視」といっている人々の方が「女性しか子供が産めない」「女性が家庭にはいて育てる」などと「差別的な感覚を持って、女性蔑視の観点から問題視しているだけ」であり、なおかつ、他人を批判するだけで「少子化に対する解決策や対案を出しているわけではない」のである。それは「誰からも愛されない僻み」にしか見えないのである。
 まあ、そのように過剰に反応するような人がいるほど「エロ」が社会的に追いやられているということなのかもしれない。

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【土曜日のエロ】 自宅でノーブラ女性が五割を超えているという統計を見て我ら男性が思うこと

【土曜日のエロ】 自宅でノーブラ女性が五割を超えているという統計を見て我ら男性が思うこと
 本日は子供の日である。本来は「こどもの日」であるから「青少年の健全な育成」に置けるように、土曜日にかかわらず「エロ」はやめるべきではないのかというような意見があったことを先にお伝えしておく。しかし、逆に「こどもの日」だからこそ「健全なエロ」を書くべきではないのか。という思いの方が強いので、土曜日にエロをしっかりと行いたいと思う。
  そもそも、子供がどうして生まれてきたのかということを考えるべきではないのか。基本的に、日本人に限らず「種の起源」「自分の生まれてきた起源」などは知りたいと思う。そのような「起源」に迫ることの重要性は、本来はしっかりと教えなければならないのではないか。その「行為」を「エロ」としてしまっていて「起源」の話などは全く考えていないというようなことは「快楽の方だけを見て自分のルーツを知ることを妨害する」かのような状況になってしまっているのではないかという気がしてならないのである。
  さて、その意味で言えば「なぜこの男性と女性が結ばれたのか」ということがかなり重要になる。もちろん、女性に、そして男性に何らかの魅力があって、お互いが魅かれあわなければ子供などは生まれない。いや、そもそも子供のできる行為をしなければ、子供はできないのである。
  その意味では「女性のどこにひかれたのか」という男性側のことが必要になる。もちろんここは男性の趣味の問題が非常に大きく存在する。女性の好みといっては失礼かもしれないが、まあ、男性において、女性の魅力をどこに感じるのか、また、女性において男性の魅力をどこに感じるのかということは非常に重要なことということになる。
  その意味で、「おっぱい」というのは、かなり重要な「要素」の中の一つであろう。もちろん、祭主的には性格とか、生活習慣とか、育ちとか、しぐさとかある。またファーストコンタクトは、基本的には顔とか、声とか、そういうことも様々にあるのではないかと思う。しかし、「エロ」を語るときに、声・顔というような状況ではなく、「体」という要素に対する好みというのは、基本的に男性が女性に対して言うことは少なくても、実際に存在するのである。
「ブラ離れ」ただいま進行中 自宅でノーブラ5割超、「外出OK」も3割
 締め付けや食い込みなど、長時間の着用に抵抗のある人も少なくない「ブラジャー」。
 そのため、ノンワイヤータイプやカップ付きインナーといった開放感を押し出した商品も増えてきたが、自宅ではブラジャーをしない女性が55.6%いる――。J-CASTニュース調べでこんなことがわかった。
   橋本マナミさん、川栄李奈さんも公言
 J-CASTニュースは2017年3月13日~18年4月27日の期間、女性を対象に自宅でブラジャーをしているか調査を実施。合計4311票が得られた。
 最多は「いつも外す」が全体の45%。そのほか「時々外している」は11.4%、「ノーブラどころか裸族」は10.6%と、「ノーブラ派」が半数を超える結果となった。
 芸能界でもタレントの橋本マナミさん(33)や元AKB48の川栄李奈さん(23)、元サッカー日本女子代表の丸山桂里奈さん(35)が自宅ではノーブラ派と公言している。
 さらに、ノーブラでの外出に抵抗がない女性も一定数いるようだ。
 ニュースサイト「マイナビウーマン」が16年11月23日に発表した調査結果によると、33.7%の女性がノーブラで外出できると回答。ノーブラで出かけることができる範囲を聞くと、「最寄りのコンビニ」「街のスーパーマーケット」などが挙がった。
 今後はリラックス感を重視してブラジャーを着用しない、もしくは代替品を選ぶ「ブラ離れ」が進むかもしれない。
2018年04月28日 19時30分 J-CASTニュース
> https://news.nifty.com/article/economy/economyall/12144-327310/
 本日は、常勤取り上げた記事の性質から、「胸」「バスト」「おっぱい」ということに関してしっかりと考えてみよう。
  まずは、「おっぱいがなぜ好きなのか」ということを聞いて、しっかりと答えられる人は少ない。単純に、「お母さんの記憶」というようなことを言う人もあるが、それならば女性よりも男性がことさら「魅かれる」のはなぜかということが説明にならなくなってしまう。
  ここからは私の個人の見解を述べよう。
  以前から考えているが、男性は女性の「柔らかさ」に魅かれる人が多いのではないか。もちろんその柔らかさをどこに感じるかということは、さまざまであると思う。しかし、柔らかい、ということが、そのまま、女性らしさにつながっている感じがするし、また、その女性らしさが、男性の癒しにつながっている感じがある。女性が「やせすぎている」場合に、あまり魅力を感じない男性が少なくない。何度も言うがこれは個人の見解なので、当然に違う人もいる。しかし、フランスのパリコレクションのモデルで「やせすぎている女性を使わない」とした男性社会は、やはり、女性の「線」ではなく「曲線」に魅力を感じていると思うのである。
  その女性の「曲線」の最も象徴的なのが、というか、身体の中で最も曲線を出していて、なおかつ服の上からも最も分かりやすい場所が「おっぱい」「バスト」であり、もう一か所が「おしり」「ヒップ」というところのような気がする。最近、いや少し前か、エステサロンのコマーシャルで「くびれ」をかなり強調しているところがあったが、くびれも、女性らしい曲線でありなおかつ、そのバスっとヒップの間においてその二か所ん曲線を最も強調する場所であるというような気がするのである。その「バスト」の強調を行う「くびれ」は、バストとヒップの曲線を強調しながら、その曲線をより一層強める「もう一つの曲線」となるのだ。
  そして、その曲線は「女性の柔らかさ」の象徴である。
  さて記事に戻ろう。
 その「バスト」に関して「ノーブラ」が増えているという。さてノーブラの魅力は「女性の柔らかさ」の強調にある。もちろん、薄い洋服の場合、乳首が透けて見えるなどということがあるが、そのことに関しては、さすがに女性の方もわかっていてケアしている。要するにノーブラでも大丈夫な服装になっているのである。これに対して、「バストが大きい人の揺れ」は、強調されることになる。つまり、支えるものがないのであるから、揺れが強調されることになる。そのようなところに男性の目は敏感になっている。つまり、胸の形がわかること以上に揺れが強調されることが「柔らかさ」の協調になり、男性がより一層喜ぶシチュエーションになるのだ。そのことがわかっている人々に関しては「女性的な魅力」の演出、そうではなくても自分の解放感ということで、ノーブラ主義の人が増えている。もちろんそのようなシチュエーションに耐えられる服が開発されているということがあるが、まさにそのことが女性をより魅力的にしているのである。
  まあ片方で「ジェンダー」とか「セクハラ」とか言われており、男女同権が言われている時代に、片方で女性がその柔らかさを強調するというようになっているのは、何かの皮肉なのかもしれない。

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マスコミ批判に関する一考(391) 政治だけではなくスポーツの世界でも出入り禁止になる刺し新聞の「捏造癖」

マスコミ批判に関する一考(391) 政治だけではなくスポーツの世界でも出入り禁止になる刺し新聞の「捏造癖」
 マスコミ批判において、私が政治記者出身であることから、どうしても政治に関することが中心になってしまうということになる。もちろん、政治に関する報道は、その報道によって有権者の自由意志が形成され、それによって民主主義が形成されることになる。よって、自由意志の前提となる情報に関しては、当然に高度な公平性と中立性が求められることになるのである。その意味で、政治の報道が変更または捏造報道である場合は、そもそもの民主主義に大きく抵触することになり、そのことに関しての社会的罪、つまり、民主主義の破壊という意味でのマスコミの罪は重いということになるのである。それだけに、マスコミに対する監視の目は厳しいし、また、この連載においても、当然にその内容に関して厳しく話をすることになるのではないか。
  しかし、一方でマスコミが、すべて「作り物」や「偏った意見」をしてはいけないというつもりは全くない。まずはドラマやアニメなどは、基本的には作り物であり、また、その作り物であれば、何らかのメッセージ性があっておかしくはない。私も現在では歴史小説作家になっているが、実際に考えることは、その小説を書きながら、中には、資料にないところを「捏造」というか「創作」しながら書くのは、ある意味で普通だ。もっと言えばファンタジーなどのアニメなどに関しては、すべてが創作であるから、当然に、「創作・捏造」であったとしても、そこに大きな問題はない。また、偏ったという意味で言えば、スポーツ観戦などは、当然に、「偏った」報道になる。サッカーの日本代表の試合などは「頑張れ日本」と言って、日本に偏った応援をした放送をしても、少なくとも日本の放送局がそれを行ったところで、誰も文句は言わない。敵国であっても「日本のマスコミが日本びいきであって当然」と思うものである。まあ、勝敗によって受け取る感想が違うが、しかし、別に許せないほどのことではないはずだ。このほかにもバラエティ、特に、漫才やコントの番組などにおいては、多少風刺の部分があったとしても、そのことに関してあまりクレームがつくものではない。
  では、スポーツ選手のプライベートの部分はどうなのか。スポーツ選手ではなくても、芸能人や政治家なども含め、その人のプライバシーに関していえば、「捏造」などをしてはいけないのではないか。
  しかし、それをしてしまったところが朝日新聞なのである。
朝日新聞、「張本智和」誤報で協会出禁に 〈水谷隼と握手せず〉
 日本男子でナンバーワンといっても、まだ14歳の少年である。大新聞に礼儀を知らない奴だと書かれては張本智和選手も立場がないだろう。怒った日本卓球協会が朝日新聞を記者会見から締め出した一幕とは。
 ***
 桜も満開を迎えた3月30日の夕方、日本卓球協会では、平野美宇選手のエリートアカデミー修了とプロ宣言を発表した。が、記者たちの関心を引いたのは会見のペーパーにあった一文である。
〈朝日新聞デジタルの取材及び本件報道はご遠慮申し上げます〉
 いったい、何をやらかしたのか。運動部のデスクが言う。
「卓球協会が問題にしたのは、ニュースサイト『朝日新聞デジタル』に掲載された3月10日の記事です」
 その記事は、すでに訂正されているが、当初はこう書かれていた。
握手していた
〈日本卓球協会の宮崎義仁・強化本部長は10日、「日本代表の選手らに対し、試合時のマナーについて注意喚起をした」と明らかにした〉
 そこで実際の例として、
〈1月の全日本選手権の男子シングルス決勝では、優勝した張本智和(エリートアカデミー)が、試合終了後に対戦相手の水谷隼(木下グループ)と握手せずに、ベンチに駆け寄った。この点について、協会は張本を注意した〉
 これにすぐ反応したのがSNSである。そこでは「張本批判」が相次いだという。
〈相手を馬鹿にするようにでかい声出したりとか卓球の偉い人から注意されて当然だよ お前のそーいうところが水谷選手と違うところなんだよ〉
 折しも記事が出た当日は、カタール・オープンのシングルス準々決勝で、張本はライバルのカルデラノに0―4で惨敗。試合後、本人は泣きに泣いて悔しがっていたという。
翌日に「書き換え」
 ところが、朝日の記事は誤報だった。試合(1月21日)では、優勝の瞬間、張本はコーチの父親に駆け寄ったものの、すぐに水谷と握手を交わしている。
 張本選手の母・凌さんも言うのだ。
「親としてはこんな記事は見たくありません。智和は水谷選手とちゃんと握手していますよ」
 記事に登場する宮崎強化本部長によると、
「あの記事は、張本が握手しなかったと卓球協会がレクチャーしたかのように読めるので、我々まで批判されたのです」
 卓球協会の抗議に、朝日は翌日「握手」があったと訂正したが、記者会見からの締め出しは、そのペナルティというわけである。
 そこで、朝日新聞社に聞くと、なぜか間違ったわけではないと言わんばかり。
「弊社の担当記者は日本卓球協会の説明に即して記事を書きました。その後、同協会などから指摘があり、記事と見出しを一部修正・加筆しました」(広報部)
「書き換え」で済ませられるのなら、財務省もこんなピンチにならなかったのに。
「週刊新潮」2018年4月12日号 掲載
2018年4月16日 5時58分 デイリー新潮
http://news.livedoor.com/article/detail/14584031/
 マスコミに関していえば、上記のようにスポーツなどにおいて偏向した、というか、日本人が日本人の選手を応戦することに関して、ある程度許容されている。その内容は、日本人選手を日本が応援するのは当たり前であるという、基本帝に世界共通のコンセンサスがあるということになる。
  コンセンサスに関していえば、例えばドラマやアニメーションが「創作」であるということもある程度のコンセンサスがあり、露骨な思想誘導などがない限りにおいては、あまり批判は存在しないであろう。しかし、スポーツ選手などのプライベート(広い意味で、試合そのものではないという意味にとっていただきたい。今回の件は、試合後の握手の有無が問題になっているが、その握手そのものも狭義では試合、またはルールの部分ではないということから、あえてプライベートいう言い方にしている)においては、当然に、選手個人の権利と人権の範囲であり、その評判などは、当然に個人の評価になる。その部分は「一般に知らないことを報道する」ということであるから、当然に報道であり、なおかつ、基本的には公平で中立的、そして事実でなければならないということになるのではないか。例えば、外国の選手に対し、当然に、試合中は日本の選手を応援するのであるが、一方で、試合が終われば、その選手に対して敬意を払い、また、何か問題があれば中立的に話をしなければならないのではないか。もちろん、日本の報道機関の場合は、日本の常識に照らして報道してしまうために、外国において問題がないことを日本の常識では批判してしまう場合があるが、それはある程度許されることではないか。
  さて今回の場合は、そのようなものではない。日本の選手に対して「捏造で批判的に報道した」のである。
  〈相手を馬鹿にするようにでかい声出したりとか卓球の偉い人から注意されて当然だよ お前のそーいうところが水谷選手と違うところなんだよ〉<中略>ところが、朝日の記事は誤報だった。試合(1月21日)では、優勝の瞬間、張本はコーチの父親に駆け寄ったものの、すぐに水谷と握手を交わしている。<上記より抜粋>
  さて、これを捏造と言わずしてなんというのであろうか。このことによって、卓球協会の抗議に、朝日は翌日「握手」があったと訂正したが、記者会見からの締め出しは、そのペナルティというわけである。<上記より抜粋>
  ということになっている。
  朝日新聞の問題は、そのような捏造癖だけではない。その捏造癖で自らの嘘を認めることなく他人に責任転嫁をし、そのうえで、開き直るということである。まさに言論の無責任以外の何物でもない。上記の記事においてもそのことが指摘されている。
  朝日新聞社に聞くと、なぜか間違ったわけではないと言わんばかり。
「弊社の担当記者は日本卓球協会の説明に即して記事を書きました。その後、同協会などから指摘があり、記事と見出しを一部修正・加筆しました」(広報部)<上記より抜粋>
 このような言論の無責任があってよいのだろうか。
  これが朝日新聞の本性である、。このような新聞を読んで事実を知ったような気になっている読者自身が、まずは事実を知るべきではないのか。

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【土曜日のエロ】 元新聞記者の知っている「色仕掛け取材」の実態とマスコミの実態

【土曜日のエロ】 元新聞記者の知っている「色仕掛け取材」の実態とマスコミの実態
 土曜日であるからエロい話をしようと思う。基本的に「エロ」位はなしというのは、人間の本性が出てくる。人間だれしも、それは老いも若きも、男も女も、美男美女ブ男醜女であっても関係なく、「エロい」ことは大好きである。LGBTなどが話題になっているが、基本的にそれは「エロいことの相手」の問題であって、その行為そのものが好きか嫌いかという問題ではないのである。
  では、当然に、そのエロいことは「人間の本性」に従って話をされることになる。つまり、「エロ」の話をしているときは「本音」の話が出てきやすい。「実は、あの話はね」などという話は、ベッドの中のピロートークで話されることが多く、自分の性的関係にあった相手に対して、心を許した時に、そのような話が出ることが多い。当然に、その時の話しをする場合、その人の「本音」や「本性」が現れるのであり、当然に、そこに理性の内容が少しはあったとしても、人間としての本音が出やすい環境にあるのだ。
  そのように考えた場合、エロの話をできる環境ということは、非常に強い関係を構築しているものであり、なおかつそのような話ができる環境を作り出すことこそ、孫観k寧世が大きく作用することになる。
  さて、もちろんネット上で、いくら「土曜日のエロ」であるからといって、秘密にしていい話を出してしまうことはないと考える。しかし、一方で、私であってもそのような関係にあった場合は、秘密にしなければならない話などをしてしまう可能性は少なくない。もちろん、そのような「相手がいれば」ということであり、そのような関係はしばらくご無沙汰しているのであるが、それでも、私などは甘い方なので、意外と簡単に話してしまうのではないかという気がしてならない。
  さて、そのエロを使うというのは、何も「ハニートラップ」だけではない。例えば「穴兄弟」というシステムが存在する。これは、本当の兄弟でも何でもないのであるが、「穴」を共有しているということになる。何か同じものを好きになったり、同じものを共有したりという場合、そこに仲間意識が強くなるのであるが、その「共有」が「穴」という場合、そこには「相手の好み」や「相手との会話の共通性」などがあり、また人間関係の和の共有性や環境の共有性があるので、十分に心を許せる場合が少なくない。もちろん、それを利用してくるスパイ盛ることは間違いがない。
  さて、本日は、この「エロトーク」を中心にした内容を考えてみなければならないのではないかという気がしてならない。
テレ朝・宇賀なつみアナ、財務省セクハラ問題で自局に憤り「テレビ朝日の対応は良くなかった」
 テレビ朝日の宇賀なつみアナウンサー(31)が20日放送の同局系「羽鳥慎一 モーニングショー」(月~金曜・前8時)にアシスタントとして生出演し、18日に事実上更迭された福田淳一・財務省事務次官(58)からセクハラ被害を受けていたとして、テレビ朝日の女性記者が週刊新潮に音源などを持ち込んだ問題について、同局に憤りを見せた。
 女性記者は1年半ほど前から数回、取材のため福田氏と1対1で会食をする機会があったが、そのたびにセクハラ行為を受けていたため、自衛手段として発言内容を録音するようになったという。今月4日にも福田氏から連絡を受け1対1での飲食の機会を設けたが、セクハラ発言が多数あったため、発言を録音。後日、上司に相談し、行為を報じるべきだと申し出たが「本人が特定されるおそれがある。報道は難しい」などと諭され、同局で放送することはなかった。
 宇賀アナは「そもそもセクハラ被害って家族や友人にも言いづらいこと。それを上司や会社に言うのはすごく勇気がいったはず。その時点でのテレビ朝日の対応は良くなかった」と自局の対応に疑問を呈していた。
 
スポーツ報知 20180420
http://www.hochi.co.jp/entertainment/20180420-OHT1T50098.html
 先週くらいから、セクハラが問題になっている。改めて「セクシャルハラスメント」というものに関して考えてみよう。大辞林によると「労働や教育などの場において、他者を性的対象物におとしめるような行為を為すこと。特に、労働の場において、女性に対して、女性が望んでいない性的意味合いをもつ行為を、男性が行うこと。性的いやがらせ」というような定義になっている。また「法務省」のパンフレットにはこのように書かれている。
  男女雇用機会均等法では「職場において、労働者の意に反する性的な言動が行われ、それを拒否したり抵抗したりすることによって解雇、降格、減給などの不利益を受けることや、性的な言動が行われることで職場の環境が不快なものとなったため、労働者の能力の発揮に重大な悪影響が生じること」と定義しています。また、厚生労働省の指針ではセクハラを次の二つのタイプに分けています。
●対価型セクシュアル・ハラスメント
 職務上の地位を利用して性的な関係を強要し、
 それを拒否した人に対し減給、降格などの不利益を負わせる行為。
●環境型セクシュアル・ハラスメント
 性的な関係は要求しないものの、職場内での性的な言動により
 働く人たちを不快にさせ、職場環境を損なう行為。
<以上抜粋>
 さて、ここは「土曜日のエロ」なので、財務事務次官の話などをするつもりはない。しかし、上記のように、「人間の本能や本性がむき出しになるために、エロを使ってはないを聞き出す手法」というのは、普通に行われている。実際に、なぜか主張の重要な場所に女性の記者が多いが、しかし、そこの局長や次官、大臣が女性になってしまうと、急に記者クラブから女性の姿がいなくなった例などは枚挙にいとまがない。はっきり言って今回の話は、「マスコミは何をいまさら言っているのか」と意ことになり、まあ、私が次の事務次官であれあ「記者会見以外の記者との接触をすべて禁止する」というようなお触れを出すことになるであろう。そのようにいて困るのは、結局マスコミ側である。まあ、テレビ朝日が、全てのマスコミラハブにされるということになるのであろう・
  そんなことはとにかく、なぜこのようなことが出るのかといえば、「エロの前では、当然に、本性が出てしまう」ということになる。もちろん、「エロ」を共有する人は「本心」まで見られてしまったというような感覚になる。文字通り「裸の付き合い」なのであるから、いまさら隠し事をしていないということになってしまうのではないか。
  さて、実際に、このような取材はかなり行われているものであり、そのまま、ベッドまで共有する仲になって、特別な情報を得ている人もいるし、中には「私は○○さんの女よ」と自慢げに話すような女性記者のつわものもいる。テレビに出ている女性キャスターで、少々ベテランになっているが、「・・・・(ピー――――)・・・・・」というようなことをして、ネタをとってきたような人もいるくらいだ。
  まあ、実際にほかの社会でもそのような世界はある。そして、その中には「エロの仕事利用」ということに他ならないのである。まさにそのことが「禁止」されるのか、あるいは「奨励」されるのか、あるいは「何となく今まで通り」になるのか、面白いところではないかと思う。

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