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マスコミ批判に関する一考(331) 「マスコミ不況」と同じ論理によって「不公平感」を演出し「復興全体を遅らせる」マスコミと野党の「から騒ぎ」になぜ国民は怒りを感じないのか

マスコミ批判に関する一考(331) 「マスコミ不況」と同じ論理によって「不公平感」を演出し「復興全体を遅らせる」マスコミと野党の「から騒ぎ」になぜ国民は怒りを感じないのか
 3・11及び福島の復興ということに関して、日本人はあまりにも神経質になりすぎてはいないだろうか。
  さて、今回問題になっているのは「DASH村復興」である。そもそも「DASH村」とは、アイドルグループ「TOKIO」のメンバーが人の住まなくなった古民家を修築し、田畑を耕したり、炭をおこしたりして、自給自足の田舎暮らしを実践して人気を集めた日本テレビ系バラエティ番組「ザ!鉄腕!DASH!!」の舞台になった山里<下記記事より抜粋>である。
  私などから見れば、一視聴者として、「田舎暮らしの素晴らしさ」や「先人の知恵」などがあり、また農業や自然暮らしの良さを伝える良い番組であったし、やはり日本の原風景がそこにあるような気がする。そもそも、そのような内容が番組として成立するくらい、私たちは「田舎暮らし」ということがなくなってしまっているのではないか。宮崎駿監督のアニメの風景が、どことなく、我々の心の中に「郷愁」を感じさせるものの、私たちはそのようなところに住んでいたことは全くない。私などは生まれも育ちも東京の23区内であるから、そもそも否かというのは存在しない。しかし、たぶんではあるが、日本人の中には誰にでも「日本の田舎暮らし」ということが頭や魂の中に残っていて、その中にあるものを、そのような暮らしの映像が刺激するようになっている。私にとっては都会が故郷でありながらも、どこか田舎暮らし、それも日本の原風景に憧れを持つものになってしまっているのである。
  さて、そのような「郷愁」に誘われて「DASH村復興」ということが言われても何らおかしくはない。しかし、そのことを行政の人が言うと、なぜか問題視してしまう。マスコミは必要以上に騒ぎ立ててしまう。結局、マスコミが騒ぎ過ぎてしまうために、「一歩ずつ」でも復興が始まるということが、いつのまにか「遠のいてしまう」のである。特に「DASH村復興」のようにテレビで全国的に人気のある番組であり、そして、アイドルグループだけではなく、その番組やその番組で行っている活動の共感者矢ファンが多かったということは、すでに3・11から6年が経過しようとして、その記憶が徐々に薄れつつある状況であるのにかかわらず、「多くの日本人が関心を持ってもらうチャンス」を自ら失ってしまうということは、復興そのものの芽を摘んでしまうのではないか。その意味において「マスコミの騒ぎ杉」ということは、本来控えなければならないのであるが、日本のマスコミはそのようなことが全く分かっていないのである。
TOKIOも「寝耳に水」? 「DASH村復興」論が歓迎一色でない理由
  「DASH(ダッシュ)村の復興を後押ししたい」
 政府高官の唐突な発言が福島県の自治体に波紋を広げている。
D ASH村とは、アイドルグループ「TOKIO」のメンバーが人の住まなくなった古民家を修築し、田畑を耕したり、炭をおこしたりして、自給自足の田舎暮らしを実践して人気を集めた日本テレビ系バラエティ番組「ザ!鉄腕!DASH!!」の舞台になった山里。場所は福島県浪江町の山間部・津島地区の外れにある。「あった」という方が正しいかもしれない。
  副大臣が「個人的な考え」として表明
 この場所は2011年3月の東京電力・福島第1原発事故で大量の放射性物質が降り注ぎ、今も住民が原則立ち入れない「帰還困難区域」にある。事故当日もTOKIOのメンバーが滞在して番組収録の準備をしていたが、津島地区全域が立ち入り禁止になったのに伴い、「村」での撮影は中断。その後は無人の離島や各地の農村などに舞台を移して番組が続いている。
政府は帰還困難区域がある浪江町や大熊、双葉、富岡などの町村ごとに1か所の「特定復興拠点」を設け、集中的に除染を進めて5年後に避難指示解除を目指す方針。だが、津島地区は海岸に近い浪江町の中心部から25キロ以上離れた孤立集落で、住民自身が「『復興拠点』に選ばれる可能性はほぼゼロ。地域は消滅するしかない」として、多くの住民は「ふるさと喪失」の慰謝料などを求め、集団訴訟を求め争っている場所なのだ。
 発言の主は、原子力災害現地対策本部長を務める高木陽介・副経済産業大臣。事故で避難を強いられた自治体の避難指示を解除するかどうかを最終判断する政府の実質的な責任者だ。
 地元紙などによると、高木氏は17年1月11日に新年のあいさつ回りで地元新聞社2社を訪れた時に、帰還困難区域をめぐる政府と自治体の協議は「簡単に進まない」と説明。その一方、「個人的な考え」と前置きして「DASH村の復興に向けた手立てがあるのではないか。近く県や町と協議を始めたい」と語ったという。
  住民のさらなる「分断」を招くことに?
 今は原生林に囲まれた廃虚になっているDASH村が、帰還困難区域の「復興のシンボル」として本当に再生できるのか。地元紙の報道の翌日にこの問題を報じた毎日新聞福島版によると、浪江町の馬場有町長は地元紙の報道当日に高木氏と東京都内で会談して同様の説明を受け「津島の住民の希望になる」と歓迎したという。
 だが、事はそう簡単ではない。番組の当事者である日本テレビの番組プロデューサーである島田総一郎氏は「知らぬ存ぜぬとは、まさにこのニュースの事。そもそもDASH村は、誰かのものでは無いですし」とツイッターで発言。一時は番組のホームページで原発事故による村の「汚染度調査」などを公表し、将来の撮影再開に含みを残していた同社も、「(高木氏の発言は)まったくの寝耳に水。(将来的に)DASH村を舞台に番組を再開することはまったく考えていない」(広報部)とコメントしている。
 浪江町は町の面積の8割を帰還困難区域が占めており、合併前は独立した村だった津島、大堀、苅野の3地域のそれぞれに「復興拠点」を設定するよう求めているが、仮にDASH村がある津島地域だけに復興拠点を置くことになれば、住民のさらなる「分断」を招くことになりかねない。
 政府関係者は高木氏の発言について「あくまで個人の考えとして発言したと聞いているが、ここまで報道されれば撤回はできないのではないか」と困惑している。政府は1月下旬から、町と合同で住民説明会を開く予定で、高木氏が出席するかどうかも調整中といい、その場でも発言の真意を問う声が出そうだ。
2017年01月29日 16時00分 J-CASTニュース
https://news.nifty.com/article/domestic/society/12144-288716/
 「マスコミ不況」という単語がある。
  実際に、「法律に違反しているわけでもない」のに、「不公平」とか「道義的におかしい」とか、不毛な議論をマスコミが行い、その「不毛な議論」をもとになぜか、スキャンダルがでっち上げられ、そのうえで、全体が停滞してしまうというような現象である。この最も典型的な事例が「居酒屋タクシー」といわれるものである。
  さて、「居酒屋タクシー」について知らない人もいるかもしれないので、一応ウィキペディアから抜粋しておこう。「居酒屋タクシー(いざかやたくしー)とは、乗客に酒と肴を提供するタクシー事業におけるサービス、ないしそのサービスを行うタクシーのことである。主に、上得意客を獲得するための利益供与として行われる。2008年に日本の中央省庁に勤務する公務員が利用していたことをマスコミや野党などが取り上げ、公務員の倫理に照らして不適切なものであるとする批判がなされ、最終的に悪質な事案について33人の職員に懲戒処分が下されたほか、タクシー事業者にも道路運送法違反で行政処分が下された。」
  さて、タクシーが自分の料金で「遅くまでお疲れ様です」といって、缶酎ハイを一本差し出し、そのタクシーに乗った客が、それをもらって飲んだところで、別におかしなことではない。そもそも、タクシーの場合は客が運転するわけでもないので、飲酒運転には当たらないし、また、タクシーなどは列に並んでいるのだから、何も「利益供与」などという必要は全くない。それにもかかわらず、「懲戒処分」や「道路運送法違反」などというのは行きすぎであるし、そのことを報道したマスコミそのものが、なぜそんなに騒いだのかは全く不明である。
  マスコミが「不公平」「道義的」などといって騒ぐときは「嫉妬」からくることがほとんどである。しかし、そもそも論として、例えば居酒屋タクシーであっても、ほかの会社でも深夜にタクシーを使う客に対してそのようなことがあったかもしれないし、そもそも関西のタクシーなどは飴玉やポケットティッシュのサービスは普通に行われている。寒中杯だけが悪いというのも何の根拠もないのだ。しかし、このことによってタクシーそのものの利用客が減ってしまったし、また、官庁も深夜までの残業がなくなってしまう。まあ、目立ったほどではないにしても、缶酎ハイの売り上げも下がったであろう。そのようにして「マスコミが違法でもないのに騒いだことによって、結局経済が低迷する」という事態が発生するのである。
  今回の「DASH村復興」に関しても全く同じであり、そもそも、「DASH村復興」ということがきっかけになって全体がうまくゆけばよい。そもそも、行政が行うにしても、どこかに拠点を作らなければならないし、また、同時に多数の場所で始めることは、物理的に不可能であるのだから、そこは順番が出てくることになる。その時に、たまたま、「DASH村復興」などと、日本全国的にテレビで有名であった場所を「象徴的な場所」として選ぶことは何ら問題がないはずである。
  そもそも、そのことに問題を感じるのであれば日本テレビのバラエティ番組が、その場所を選んで放送をしたことそのものが「不公平」であり、その不公平を完全に棚にあげてしまって、そのうえで、行政だけを攻めるというマスコミのやり方はあまりにもおかしいのではないか。
  はっきり言って。「二重基準(ダブルスタンダード)」の見本のような感じであり、あまりにもおかしなものになってしまう。
  それどころか、今回のこのことをもって、「では全体ができるまで福島の浪江町に関しては復興の事業は行わない」ということ菜決定がなされたらどのようになるのか。できるところから始めるのが本来の内容ではないかと思うが、そこに不公平感を感じるようであれば、それは「では全体を行わない」という結論になってしまうのではないか。そのような決定がなされて、福島の人は全くおかしいとは思わないのであろうか。
  行き過ぎた嫉妬の報道は、「できるところから復興する」という当たり前のことができなくしてしまっている。それも、「当事者ではないおせっかいなマスコミ」によって、そのようなことが行われてしまうのである。本来、国民はそのことをマスコミに対して怒らなければならないのではないか。まさに、この事案に関していえば、「マスコミが復興を遅らせようとしている」ということである。それに怒りを感じない人はいないのではないか。

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マスコミ批判に関する一考(324) 一部の学者の自分たちに都合のよい学説を取り上げて大多数の意見を無視する「世論づくり」の見本

マスコミ批判に関する一考(324) 一部の学者の自分たちに都合のよい学説を取り上げて大多数の意見を無視する「世論づくり」の見本
 先日ある勉強会において、「若者に国防を学ばせるためにはどうしたらよいか」ということを真剣に議論した。そもそも「若者」といわれる人の中に20代30代社会人ということが入っていたが、その定義が正しいかどうかは別にする。まあ、議論していたのが60代が中心であったことを考えれば、私自身であっても若手で通っているのであるから、その定義で「相対的」な観点からすればおかしくないのかもしれない。
  そのうえで、「若者は最近は向学心があるので、興味を持たせればよい」という意見があった。しかし、一方で「そもそも学問の基礎となる部分が異なる場合があるので、その部分を考慮し仲ればならない」という意見も存在する。
  さてでは何が異なるのであろうか。まず若者は三つの点で国防などの「国家観」を必要とする議論ができないという。その三つとは「1、行き過ぎたリベラリズムの教育により国家観的な観点や集団主義的な観点が存在しない」「2、個人主義教育と権利教育が強く残ってしまい義務や責任意識が希薄なために自分が我慢して社会のためにコミュニケーションをとることを苦手とする」「3、戦後教育により、軍、宗教、イデオロギーに関してはタブー視してしまい、それらをしっかりと教育されていないことによって、話す前提が存在しない」ということである。
  これらを解消するためには、まずは教育を正さなければならないが、それは「国家百年の計」ではないものの即効性はない。そのことから考えると、「現在の若者に興味がある方法で訴える」ということが必要であるということになる。そこでいくつかの方法論が検討される。
  「1、物語・小説・アニメ・映画などによって訴える」
  「2、陰謀論・オカルトなど空想世界を交えた話として興味を持たせる」
  「3、お笑いや至近な例を挙げてたとえ話を中心にしながら重要性を説く」
  そののちに「若者の向学心に合わせて、情報を提供する」ということが重要であるということが検討されることになる。
  さて、その際に重要なのが「若者が何に関心があるか」ということである。その情報はネットまたはマスコミに頼らざるを得ない。少なくとも議論をしている60代コミュニティにおいて、その感性は「通常の会話の中からは知ることができない」のであるから、その部分を外部からいれなければならないのである。
  しかし、現在のマスコミの意見をそのまま入れてしまうと「逆効果」がありうるということなのかもしれない。
  今回は「逆効果」の事例を見てみようと思う。
AKB48のせいで若者が恋愛しない!?「クローズアップ現代」の珍説にファンが憤慨
 若者が恋愛しない理由の一つは「AKB48の握手会」だった?
 そんな珍説が11月24日放送の「クローズアップ現代+」(NHK)で紹介され、ファンの怒りを買っている。同番組では“婚活”の名付け親で知られる社会学者の山田昌弘・中央大学教授が、現代の若者が恋愛を避けている理由を解説。そこで登場したパネルに、恋愛にブレーキを掛ける要因として握手会が載っていたのである。アイドル誌のライターが憤慨しながら話す。
「そもそも芸能人を疑似恋愛の対象にするのは昭和の時代から当たり前の行為であり、現代に限った話ではありません。それにアイドルのファンは生身の女性を興味の対象にしている時点で、恋愛に興味がない層とは決定的に異なります。カップルや家族連れで握手会に参加する人も珍しくないですし、女オタクを巡って男性ファン同士が揉める痴話ゲンカも日常茶飯事。そういう実情を知らないでアイドルを語るのは実に迷惑ですね」
 番組では山田教授が「恋愛が憧れからコストとかリスクになる時代になってきました」としたり顔で解説。しかしコストが理由で恋愛を避けるのであれば、握手会に10万円超をつぎ込むファンの存在は明らかな矛盾となるはずだ。その点について前出のアイドル誌ライターが解説する。
「山田教授の著書によると、恋愛を面倒くさいと考える若者たちは、1000円出すだけで握手できるAKB48を選ぶとのこと。しかし現実の握手会は待ち時間が異様に長く、数々の規制やルールに縛られるなど相当な忍耐を強いられるため、絶対に握手するという強烈な意思が必要です。ただ山田教授にとってそんな現実はどうでもよく、現代の若者をステレオタイプにハメるための題材として、握手会が格好のネタなのかもしれません」
 社会学では自分の目で現場を見て回る「フィールドワーク」が必須のはず。ぜひ山田教授も一度、AKB48握手会の列に並んで、ファンが発する熱気を実感してみるべきではないだろうか。
(金田麻有)
2016年12月05日 05時59分 アサ芸プラス
https://news.nifty.com/article/entame/showbizd/12104-71333/
 さてさて、またNHKである。
  まあ、今回は「偏向報道」ではあるものの「政治的な偏向」ではなく、まあアイドルの内容であるから、少々気が楽な書き方になるのかもしれない。
  NHKのクローズアップ現代は、国谷某というキャスターがやっているころから、平気で「社会の片隅の意見を、さも、社会全体の意見であるかのような扱いで報道し、国民視聴者を誤った方向に誘導するポピュリズム番組」として名高く、その「射会の片隅の例外的な事象」が、最終的には「ヤラセ」「捏造」という形になったので国谷某が罷免された内容である。
  まあ、「片隅のことをクローズアップ」するという意味では当たっているのかもしれないが、それならばクローズアップ現代ではなく「クローズアップ異端児」とか「クローズアップ極論」というような題名にすればどこからもお叱りを受けるものではあるまい。
  さて、今回あったのは「同番組では“婚活”の名付け親で知られる社会学者の山田昌弘・中央大学教授が、現代の若者が恋愛を避けている理由を解説。そこで登場したパネルに、恋愛にブレーキを掛ける要因として握手会が載っていた」<上記より抜粋>ということである。当然に握手会を楽しみにしている「疑似恋愛を楽しんでいるアイドルファン」は、このようなことを言われれば怒り狂うに違いない。
  「実情を知らないでアイドルを語るのは実に迷惑ですね」<上記より抜粋>という意見が出るのは当然である。まあ、アイドルそのものは生身の人間であり、その名魔ミニの人間に対して疑似恋愛をするのは、当然に吉永小百合のファンを「サユリスト」と呼んでいた時代から全く変わらない内容である。それをことさら現代のアイドルばかりにしてしまうというのは、あまりにもおかしな話であり、「頭の中の妄想で勝手にイメージを固めて、レッテル貼りで決めつける」手法は、政治的な解説を行っているときと全く変わらないNHKのお家芸である。
  「山田教授の著書によると、恋愛を面倒くさいと考える若者たちは、1000円出すだけで握手できるAKB48を選ぶとのこと。しかし現実の握手会は待ち時間が異様に長く、数々の規制やルールに縛られるなど相当な忍耐を強いられるため、絶対に握手するという強烈な意思が必要です。ただ山田教授にとってそんな現実はどうでもよく、現代の若者をステレオタイプにハメるための題材として、握手会が格好のネタなのかもしれません」<上記より抜粋>
  さて、山田教授に関していえば、それは「山田教授の研究不足」で終わる話である。問題NHKのディレクターなどがAKBの握手会などに参加し、その内容を取材しながら、この山田教授の意見を取り入れて「クローズアップ現代」として放送したことではないか。つまり、現場でフィールドワークをしているはずの記者やディレクターが、そのことを知りながら「あえてレッテル貼りをし若者をステレオタイプ化」すること、そのうえで「アイドルビジネスを悪役にしてしまい、若者の婚期遅れの責任転嫁に使用とする誤ったポピュリズム誘導を行った」ということになりかねない。いや、今までのNHKの報道からすれば「NHKはそのような偏向報道を行うというステレオタイプにはめる良い道具を提供してくれた」ということに過ぎないのである。
  まあ、政治的な部分などを含め、「偏向報道の権化」ともなってしまっているNHKからすればAKBのファンくらいから何を言われても怖くはないのかもしれないが、しかし、そのような報道を行うことそのものが、NHKの信用や、放送内容のリテラシーの問題から非常に大きく「全体の信用を棄損している」としか言いようがないのではないか。そのようなことで日本の放送メディアは良いのであろうか。
  単純に、この放送はNHKということは、外国でも「衛星放送」で見られているということである。そのことを考えて、「しっかりとしたフィールドワークに裏付けされた内容を放送すべきではないのか」という疑問、そして、そのようないい加減な番組に受信料を払わなければならないのかというような疑問が浮かぶのである。

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マスコミ批判に関する一考(323) 取材ならば何でもありというマスコミの「特権階級意識」が取材モラルを崩壊させているという一例としてのタクシー内プライバシーのテレビ公開

マスコミ批判に関する一考(323) 取材ならば何でもありというマスコミの「特権階級意識」が取材モラルを崩壊させているという一例としてのタクシー内プライバシーのテレビ公開
 覚せい剤使用の疑いでASKAが再度逮捕された。まあ、覚せい剤事案に関して言えば、本人の問題があり、また、その内容に関して「報道を行う」ことはある程度理解もする。ある意味で「芸能人」という「公人」は、その行動が政治家などよりもはるかに「注目」されているのであり、その他絵に「報道」そのものが「一罰百戒的」な感覚になっているところがある。
  同時に、さまざまな意味で「興味」をそそる報道であって、その「興味」に対してさまざまなことを「コメンテーター」なる人々が語ることができる。その部分が「一罰百戒的」であって、実際のところ、一人の芸能人の覚せい剤事案そのものは、社会的影響はほとんどない。有名人が犯罪を犯したという「興味本位」の部分以外には、まったく関係がないということになってしまうのである。
  さて、そのうえで、その取材というのはさまざまな意味で「加熱」する。しかし、「取材」そのものが「ルール」を無視したり、あるいは興味本位だけで、なんでもありというような状況であれば、それはそれでかなり人い状態になってしまうのである。
  まさに「芸能人に関する報道」であって、片方で「一罰百戒的に社会的な影響力を考慮した報道」を行うのであれば、当然に「取材方法」も「報道姿勢」も「興味本位」ではなく「社会的な影響」を考慮して行われるべきではないか。
  しかし、マスコミというのは、どうも「その部分」つまり「社会的な使命」という部分が完全に欠如してしまっているのである。ある意味において、そのようなモラルなどを気にしていたら「スクープが取れない」というようなこともあるのかもしれない。しかし、逆に、そうであるからこそ、「スクープをモラルを守ったうえでとる」ということが必要であり、それでこそマスコミが使命を果たしたことになるのである。取材そのものや報道する内容など、それらがしっかりとできていることが最も重要であり、そのことができていないで、つまり「社会的なモラルw守らない」で「他人(芸能人)のモラル違反を報道しても何の説得力もない」ということになるのではないか。
  その辺のことも「わからなくなってしまっている」のが、現在のマスコミである。
ASKA容疑者、車内映像提供のタクシー会社が謝罪
 覚醒剤を使用した疑いで歌手ASKA(本名・宮崎重明)容疑者(58)が逮捕された事件で、警視庁組織犯罪対策5課が、同容疑者が逮捕直前に滞在していた都内のホテルを家宅捜索し、パソコンやUSBメモリーなどを押収していたことが11月30日、同課への取材で分かった。また、同容疑者が逮捕直前に乗車したタクシーの社内映像がテレビで放送されたことで、タクシーグループのチェッカーキャブはこの日、「ご迷惑をおかけした」と謝罪した。
 問題の映像は、タクシー車内に設置されたドライブレコーダーで28日の逮捕直前に記録されたもの。ASKA容疑者が東京・恵比寿でタクシーに乗り込み、運転手に自宅までの道順の説明と、降車の際のやりとりが映っている。
 この映像の放送が、インターネットを中心に物議をかもし、30日放送のフジテレビ系「バイキング」では坂上忍が「あのタクシーに乗ってる映像を、使うこと自体どうなの? ああいうの流しちゃっていいのかな」と疑問を呈した。
 これらを受け、都内の無線タクシーグループ「チェッカーキャブ」が公式サイトで謝罪声明を発表した。ドライブレコーダーについて防犯や事故究明に活用する目的があると説明。その上で、外部への映像提供は、刑事訴訟法の規定に基づく捜査機関からの文書による照会などといった場合だけという。しかし、今回、グループ加盟社が提供してしまったという。
 レイ法律事務所の河西邦剛弁護士は、今回の問題について、「通常、タクシーの中で、録画されて公開されると想定されていませんし、事件に関係のない映像なので、報道に提供する必要性もありません」と解説。その上で、「ASKA容疑者にプライバシー権の侵害で訴えられ、損害賠償責任を負う可能性は十分にある」と話した。
 一方、テレビ局関係者は「被疑者ということで、放送には問題がないという判断なのでしょう」。河西弁護士も「テレビ局には報道の自由がありますので、プライバシー侵害とは一概に言えない」としている。
 また、タクシー会社を監督する国土交通省は、今回の件について「詳細は把握していない」とした上で、「道路運送法に違反しているとはいえない。ただ、情報管理という部分で指導する可能性はある」とコメントした。
 
[2016年12月1日7時59分 日刊スポーツ]
http://www.nikkansports.com/entertainment/news/1745627.html
ASKA容疑者乗せたタクシー映像、テレビ放送は「誠に遺憾」 国交省、業界団体に管理徹底を通知
【画像をもっと見る】 覚せい剤取締法違反の容疑で逮捕された歌手のASKA(本名:宮崎重明)容疑者が、逮捕直前に乗ったタクシー車内の映像がテレビで放送されたことについて、国土交通省は12月1日、「誠に遺憾」とし、映像の適切な管理の徹底について、タクシー・バスの業界団体に通知したと発表した。
 映像は、ASKA容疑者が逮捕直前に自宅まで乗ったタクシーの車内で撮影されたもので、マスクを着けたASKA容疑者が「駒沢通り分かりますよね?」など運転手とやりとりする様子や、車内でスマートフォンを見る様子などが映っていた。テレビ局に映像を提供したタクシー会社が加盟するチェッカーキャブ無線協同組合は11月30日、「関係者に大変なご迷惑をおかけした」と謝罪していた。
 国交省は「ドライブレコーダーの映像は、事故調査など安全確保のために活用されるべきにも関わらず、趣旨に反して乗客のプライバシーに配慮することなくマスコミに映像が提供されたことは誠に遺憾」とし、タクシーとバスの業界団体に対して、乗客のプライバシーを十分に配慮し、適切な管理を徹底するよう求める通知を出した。
 
ITmedia ニュース 20161202
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1612/02/news064.html
 そもそも、今のマスコミは、「言っていることをすべて書いてしまう」という癖がある。昔のマスコミはそうではなかった。「知っていること」「言っていること」をなるべく書かないで、そのうえで真実を聞いて報道するというのが普通の報道であった。要するに「表面に出てくるのは氷山の一角でしかない」ということであり「報道を行うことによって真ん中の真実は巧妙に隠されてしまう」というような状況になってしまうということを恐れ、表面上の問題は基本的には報道しないというのが普通の報道だった。
  しかし、現在のマスコミは全く違う。例えば覚せい剤事案に関して、芸能人が覚せい剤を使って逮捕されたというのは「表面」の事象でしかなく、本来は「覚せい剤の入手経路」や「金の流れ」などをすべて解明し、「巨悪」を明らかにするのが「社会悪」をなくすというマスコミメディアの使命である。しかし、残念ながら現在のマスコミの質はかなり劣化し、芸能人一人の単独事件であるかのような話ばかりであり、その後ろの巨悪や真実に迫る報道をしない。
  所詮、芸能人といえども、「個人」でしかなく、組織的なものではない。その後ろにある、覚せい剤の密売組織などに入っていれば、さまざまな法幢ができるのであろうが、芸能人個人、それも、その芸能人が「旬を過ぎた」のであれば、なおさらその交友関係なども少ないので、なかなか大きなネタには当たらない。そのために「プライバシーまで公開しなければネタもスクープも存在しない」ということになるのである。
  さて、このない湯に関して、単純に言えば、「タクシー会社」も「メディア」も両方おかしい。タクシー会社に関しては、すぐに謝罪会見を行うのと同時に、国交省は「ドライブレコーダーの映像は、事故調査など安全確保のために活用されるべきにも関わらず、趣旨に反して乗客のプライバシーに配慮することなくマスコミに映像が提供されたことは誠に遺憾」とし、タクシーとバスの業界団体に対して、乗客のプライバシーを十分に配慮し、適切な管理を徹底するよう求める通知を出した。<上記より抜粋>となっているが、テレビ局関係者は「被疑者ということで、放送には問題がないという判断なのでしょう」。河西弁護士も「テレビ局には報道の自由がありますので、プライバシー侵害とは一概に言えない」としている。<上記より抜粋>となっている。つまり、「モラルのない報道をしたことに関しては法的な責任はない」ということになるのであろう。
  しかし、そもそもそのような法幢姿勢そのものがマスコミの劣化を招いているのであり、どうじに「社会悪を放置する」ということにつながっているのである。
  このような状況を皆さんは許せるのであろうか。

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マスコミ批判に関する一考(320) 自分たちの考えた結果でなければアメリカ大統領選挙でもアメリカ国民の意に反して「番狂わせ」と報道する日本のマスコミの「内政干渉」と「不見識」

マスコミ批判に関する一考(320)  自分たちの考えた結果でなければアメリカ大統領選挙でもアメリカ国民の意に反して「番狂わせ」と報道する日本のマスコミの「内政干渉」と「不見識」
 先週のビッグニュースといえば、もちろん、アメリカの大統領選挙である。この大統領選挙は、その結果によってアメリカだけではなく、世界の情勢に大きく影響する。特に、日本の政治や経済に関してはかなり大きな影響があるということになる。そのために、この大統領選挙に関する報道は、かなり詳細かつ正確に、そして、検討するのであれば、さまざまな方面から意見を求めて、しっかりと検討してもらいたいし、その結果を知ら得てモラタいものである。
  そもそも、このような「海外の元首」などに関する情報は、日本の国民の意思が届くものではない。当然に、日本にいるアメリカ人は、アメリカの大統領選挙に投票権、参政権があるが、しかし、日本人にはアメリカ大統領選挙に関して参政権は保有していない。そのためにアメリカの大統領はアメリカ国民が決めるものであって、日本人が意見をさしはさんだり、結果に関して、さまざまなことを言うものではないのである。
  本来は、しっかりとその結果を予想し、また、その結果を生み出したアメリカ合衆国国民の考えていることやその考えのトレンドに関して、しっかりと分析をし、そのうえで、その分析に基づいて、「日本はどのようにすべきか」を検討し、対策を打つための重要な「情報」をもたらさん開ければならない。それができないのであれば、はっきり言って、マスコミの海外支局、ことに今回の場合はアメリカにある支局は「何の役にも立たない」という結果になってしまっており、そのための情報を日本人は必要とするのである。
  しかし、海外にある日本の支局というのは、どうも「日本人がほしがる情報」を「日本人の考えに従って与える」ものであり、「海外の真実」をしっかりと伝えるものではなくなってしまっている。要するに「日本人の総意」という名前の「マスコミの願望」をおしつけ、その「マスコミの願望に従った情報をもたらす」機関になってしまっている。その「従った情報」は、「必ずしも実地の情報」にしたがって出ているものではないので、そのために、「かなり高い確率で予想が外れる」ということになっているのである。
  単純に、今年、大きな流れが二つ存在した。イギリスのEU離脱とアメリカの大統領選挙である。
  この二つに関して、日本のマスコミの多くは、「二つとも外れ」なのである。「日本のマスコミを見ていて、その反対側になると結論を出しておくと良い結果になる」などと、ここ数日間話し合った外国人に言われてしまった。まあ、結果的にそのようになっているのであるから、反論はできないものの、実に、日本人として恥ずかしいものである。
  その「最も恥ずかしい」のが「NHK」である。なぜならば衛星放送で世界にその結果を流しているのである。はっきり言って何とかならないか?と考えてしまう。
米大統領選 トランプ氏が勝利 「驚くべき番狂わせ」
 アメリカ大統領選挙は過激な発言で話題を集めてきた共和党のトランプ氏が民主党のクリントン氏に勝利し、アメリカメディアは「驚くべき番狂わせだ」と伝えています。トランプ氏は「分断の傷を修復し、ともに結束していくときだ」と演説し、次期大統領として激しい選挙戦で分断された国の融和をはかる考えを示しました。
 アメリカ大統領選挙は8日、全米で一斉に投票が行われました。
 アメリカのABCテレビによりますと、トランプ氏は28州を制して、当選に必要な過半数を超える278人の選挙人を獲得し、民主党のクリントン氏に勝利しました。
 過激な発言で話題を集めてきたトランプ氏は、「アメリカを再び偉大にする」というスローガンを掲げ、現状に不満を抱く有権者から支持を得ました。
 トランプ氏は日本時間の9日午後5時前に次の副大統領になるペンス氏や家族とともに地元ニューヨークで支持者の前に姿を現し、「先ほど、クリントン氏から電話を受け、われわれの勝利を祝福するものだった」と述べ、勝利を宣言しました。
 そのうえで「クリントン氏はこれまでこの国に尽くしてくれた。今こそこの分断の傷を修復し、ともに結束していくときだ」と述べ、激しい選挙戦で分断された国の融和をはかる考えを示しました。
 また、「あなた方をがっかりさせないと約束する。われわれは素晴らしい仕事をしていく。あなた方の大統領になれることを楽しみにしている」と述べ、次期大統領就任に向けた決意を表明しました。
 一方、民主党のクリントン氏は18州と首都ワシントンを制して218人の選挙人を獲得しましたが、トランプ氏から「既存の政治家」と位置づけられたほか、「富裕層の代表」とも見られ、国務長官在任中に私用のメールアドレスを公務に使っていた問題が再燃したこともあり、幅広い支持を得られず、トランプ氏におよびませんでした。
 アメリカメディアは「アウトサイダーのトランプ氏が有権者の不満を力に変えて驚くべき番狂わせを実現した」と伝えています。
 トランプ氏は、政治家として公職に就いたことがなく、軍人としての経験もない初めての大統領になります。
   最高齢の大統領誕生へ
 トランプ氏は、1946年6月14日生まれの70歳で、これまでで最も高齢の大統領になります。
 これまで、最高齢で大統領に就任したのは、第40代、ロナルド・レーガン元大統領です。1981年1月に就任したときの年齢は、69歳と349日でした。トランプ氏は、来年1月20日の就任式を、70歳と220日で迎えるため最高齢の大統領が誕生することになります。
   政治家・軍人の経験なし
 これまでに、政治経験がなく大統領になったのは、アイゼンハワー元大統領など3人で、トランプ氏はアイゼンハワー元大統領以来、56年ぶりとなります。ただ、アイゼンハワー元大統領は大統領に就任する前、軍の最高司令官を務めていますがトランプ氏は軍人としての経験もなく政治経験、軍人としての経験がともにない初めての大統領になります。
   2人目の外国生まれのファーストレディー
 トランプ氏の妻、メラニアさんは、2人目の外国生まれのファーストレディーとなります。
 これまでに、アメリカ以外で生まれたファーストレディーは、第6代のジョン・クインシー・アダムズ元大統領の妻、ルイーザ夫人、ただ1人でした。メラニアさんは、旧ユーゴスラビアのスロベニア生まれで、アメリカに渡ってファッションモデルとなったあとトランプ氏の3度目の妻となりました。
NHK 11月9日 17時34分
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161109/k10010762331000.html
 記事に従ってみてみよう。
  そもそも、この表題、恥ずかしくないのか。「驚くべき番狂わせ」とは、二つのことを意味している。一つは、「番狂わせ」である「番狂わせ」とは「予想外のことが起きて、順序が狂うこと。勝負事などで、予期しない結果になること。」という意味である。つまり、「順当にいけばクリントンが当選していた」ということを暗に言っているのである。要するに、「アメリカ国民の言いをNHKは事前にすべてわかっていて、そのうえで、NHKの意思に従ってまたは、その調査結果の通りに行けば、クリントンが当選していた」という意味である。はっきり言って、何様のつもりなのであろうか。アメリカ国民が自分将来をかけて決めた内容に関いて、そのないよが「日本国のNHKが考えたものとは違う」と言っているのである。なんでアメリカ国民はNHKの考えた通りの結果ではならないのであろうか。NHKなど、日本の政治に関しても性格んそして両論併記で物事をまともに報道できないようなところである。それにもかかわらず、結果に関して「番狂わせ」とはよく言ったものである。
  イギリスのEU離脱に関してもそうであるが、実際に、その国民が国家の未来を考えて投票した毛化である。その結果に関して「自分の予想を押し付け」そのうえで「その通りにならなければ批判する」というのは、思い上がりも甚だしい。そのよう報道を衛星放送で海外に流さないでもらいたいものだ。はっきり言ってNHKのニュースそのものが日本の恥である。
  そのうえ「驚くべき」ということを言っている。
  つまり、「トランプ当選の結果を全く予想していなかった」ということであり、そのことは、そのまま「NHKがしっかりとアメリカにおいて深部まで取材をしていなかった」または「その取材ができていたとしても、その分析ができていなかった」ということなのである。要するに「自分の取材をしない思い込みで出した予想がその通りにならなかったことによって驚いている」のだから、「NHKのニュースは取材に基づいて行われたものではない」ということになるのである。
  まさに「神頼み」か「直観」でニュースを報道し、その結果をアメリカに押し付け、そして思い通りにならないと、批判的な法幢を行うということである。こんな恥ずかしい報道はあるだろうか。もしも、ほかの国が日本に対してこのような報道をしたら多くの人が起こるであろう。そもそも、そうやって起こっているから日韓関係などは急速に冷え込んだのである。
  その批判的な内容も、「最高齢の大統領誕生へ」「政治家・軍人の経験なし」「2人目の外国生まれのファーストレディー」の三種類である。まあ「最高齢であるかどうか」つまり、年齢は「しっかりと政治をしてくれればよい」のであり「若ければよい」というものではない。また「経験なし」というのは、過去にレーガン大統領などもそのようなところがある。実際に、そのような人をアメリカ国民は選んだ、逆に言えば、ほかの政治や軍人の経験がある人がいなかったということでしかない。そのうえ「2人目」というようなことになっているのだから、過去に先例があることを批判しなくてもよいはずだ。
  要するに「批判」もいい加減でありなおかつ「政策的な内容」つまり「選挙期間中の発言に基づく検証」もされていないのである。NHKは、「年齢」や「経験」「ファーストレディーの出生地」で大統領を予想したということであり、政策や実行力、その年齢までの人生経験などでは予想していないということに他ならないのである。
  まさに、日本の政治報道の「悪癖」がすべて出てきてしまったかのような恥ずかしい報道。NHKはいい加減にしてほしいし、改革ができないのであれば、報道を辞めるか解散をしてもらいたいものである。

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マスコミ批判に関する一考(315)NHK情報番組で紹介された「イノシシの刺身」に関するネットを中心にした批判の一端と報道者の責任

マスコミ批判に関する一考(315)NHK情報番組で紹介された「イノシシの刺身」に関するネットを中心にした批判の一端と報道者の責任

 今回はNHKの問題である。ネットでも話題になったイノシシの刺身について、NHKの「あさイチ」で西表島の郷土料理として番組の中で紹介したということに関する反響がなかなか大きなものであったという。
  まあ、実際のところ、マスコミ批判の中でも「偏向性」「やらせ」などと違って、この問題は「取材不足」というところに属する問題であり、まあ、あまり批判してもどうかと思うが、しかし、一方で下記記事の中でも批判されているように、「NHKを信用して体調を崩したらどうなのか」ということも心配されるのである。
  さて、イノシシを食べるという習慣は、少なくとも明治維新前、「牡丹」として肉を食べる数少ない動物がイノシシであった。もともとも京都の公家の社会では、「四足」は下品なものとして全く食さなかったのである。そのために、牛などは全く食べなかったため肉として食べるのは、イノシシであった。このほかに、武家では馬を「桜」と称して食べていた。肉の色が赤く、その肉を花の形に盛り付けて「花を食べているので四足の動物を食べているのではない」という建前である。この食べ方は基本的には「鍋」であり、貴族の世界などでは「鍋」を「膳」に出すわけにはいかないのあで、大鍋で煮つけた後に、それをお椀に盛り付けて出すというような出し方であったらしい。もちろん、私が貴族公家の出身ではないので、すべて資料で見たりあるいはその関係の人に聞いた話でしかない。一方、武家や、あるいは猟師などはそのまま鍋から食べていたようだ。
  江戸時代後期には、イノシシは「薬」の一種として使われていた。関西落語の「池田のイノシシ買い」というものなどは、イノシシを性病の薬として紹介している。イノシシの鍋が身体を温めるものとして存在するのかどうかということが最大の問題であることと、他の食材にはないビタミンBが豊富に含まれていることが「薬」として役立っていた根拠であるようだ。
  さて、基本的に「イノシシ」を食べること自体は、昔から日本国内で行われていたもので、現在でも伊豆や奈良などで、私自身牡丹鍋を食べたことがある。しかし、「刺身」というのは、やはり特殊であるのか、あるいは出すにしてもかなり細心の注意が必要であろう。その辺の「注意喚起」をせず、一般の名物料理のような紹介の方法をしていることに非常に違和感があるということになる。

NHK「イノシシの刺身」に批判殺到! 専門家も注意喚起

 9月27日放送の朝の情報番組『あさイチ』(NHK)で、“イノシシの刺身”が紹介され、放送後に「公共放送なのに危険すぎる」と批判が殺到する騒ぎが起きてしまった。
 イノシシ料理といえば鍋が一般的だが、沖縄県西表島の郷土料理として同番組で紹介されたのはイノシシの刺身。このなじみのない食べ方に疑問を抱いた視聴者が続出した。
 番組を見ていた『メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学』(光文社刊)などの著書がある科学ジャーナリストの松永和紀氏は、放送内容にいち早く反応。ツイッターで「イノシシの生食は、肺吸虫症、E型肝炎等のリスクがあります。絶対に生で食べてはいけない」と生で食べる危険性を語り、「イノシシの刺身の許可制度などあるはずもなく、提供しているのがわかれば厚労省のガイドラインに沿って“生はダメ”と指導しているそうです」と主張した。
 番組終了間際、有働由美子アナウンサー(47)が、放送内容に疑問を抱いた視聴者からのFAXを読み上げた後、「西表山を管轄する八重山福祉保健所によりますと、イノシシの生食は、保健所が申請を受けつけたお店でだけ提供ができるとのことです」と説明し、対象外の店では食さないよう視聴者に注意した。
 松永氏はこれにも反応し、「保健所はなにを根拠に許可するの? ウイルスは眼では見えません。一頭ずつ、さまざまなウイルスの検査をして確認している? 寄生虫を目視で全部チェック? 無理です。野生鳥獣の生食は危険です」と再び注意を促していた。
 この話題は多くのネットニュースにも取り上げられ、松永氏のツイートも拡散。「公共放送なのに危なすぎるわ」「牛も豚肉も生肉NGなのに、なんでもっと危なそうなイノシシ紹介したんだろ」「もっと責任もって放送してほしいわ」という非難の声が多数上がっている。今後のNHKの対応に注目したい。

2016年10月01日 15時00分 日刊大衆
https://news.nifty.com/article/entame/showbizd/12205-24840/

 要するにNHKの記者が、「イノシシは牡丹鍋などで食べる」ということ、つまり「食べられる」ということと「刺身」という珍しさで「飛びついた」ということに他ならない。もちろん、背景には、「珍しい食べ物」を視聴者が望んでおり、その内容を伝えたということであろう。
  一方、視聴者の感覚は全く異なる。単純に言えば、NHKが放送しているのだから信用できる。安全に違いないというような感覚であり、NHKの記者の「珍しいものに飛びついた」というような感覚とは全く異なる内容ではないか。
  実際に西表島ではイノシシの刺身を食べさせる店がある。いや、西表島だけではなく、本当に親しい常連客ならば、「裏メニュー」として食べさせるところは少なくない。しかし、問題は「なぜ裏メニューなのか」ということが最大の問題であり、そして、そのような内容がしっかりと検討され裏を取った内容でなければならないのではないか。逆に言えば、それだけの取材をしていないでお「見つけたから」出してしまった問うことに他ならないのではないか。
  ネットの反応は、上記の記事のほかにも「NHKなのに…」というものがほとんどであり、まあ、中には「NHKが陰謀で日本人を殺そうとしている」などというものもあったが、そのよな極端なものやNHKをはじめから敵視している書き込みを除いて、やはり、NHKの取材または報道に関する姿勢そのものを批判するものが少なくない。「公共放送なのに危なすぎるわ」「牛も豚肉も生肉NGなのに、なんでもっと危なそうなイノシシ紹介したんだろ」「もっと責任もって放送してほしいわ」という非難の声<上記より抜粋>というものが多かったのは、上記の記事の通りだ。
  単純に言って、これらの内容に関していえば、「生肉」の危険性などを認識したうえで物事を行わなければならない。もちろん、食中毒の事件が起きたとしても、その食中毒の事件がNHKが起こしたわけではない。しかし、報道によって客が増える、そのことによって「危険部位」の提供が多くなるなどの危険性が予想されるので、その部分をどのように担保するのか、あるいは「そもそも危険なもの」として、その内容をしっかりと調べるのか、そのような「ケア」をすべきではないのか。ということが問題の一点なのである。
  要するに「報道の無責任」という内容がこの中に入ってしまっており、それを政治や、経済ではなく、このような情報番組の取材においても指摘されてしまっているということであるといえるのかもしれない。取材、報道する側はそれをしっかりと認識いて報道を行う責任を感じてほしいものである。

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マスコミ批判に関する一考(314)アイドルという「真実を見せられない」偶像に頼り切っているテレビの実態

マスコミ批判に関する一考(314)アイドルという「真実を見せられない」偶像に頼り切っているテレビの実態

 いつもは偏向報道とか、ヤラセなどを書いているが、少々角度を変えて、芸能ということに関してみてみよう。もちろん、私自身が芸能に詳しいわけではないので、何とも言いようがない部分もあるし、また芸能に関しては、さまざまな人が様々な意見を持っているので、私の意見に関して賛否両論あるのではないかと思う。
  さて、「役者」という職業カテゴリーがある。芸能人というのも一つのそれであろう。役者というのは、当然に「役を演じる者」であり、その内容は「演じる」ということが前提である。「演じる」というのは、当然に、「誰かが作った役どころ」を演じることがその仕事である。当然に「役」と「本人」が異なることは当然であり、「役者」としての評価は「いかに役を演じられるか」つまりは「自分を捨てられるか」ということに尽きると考えられる。
  逆に言えば、「役者」は、「本当の自分」を見せないことが最も重要なのであろう。私などが「ドラマは作り物であるから」と書いているのは、まさにそのようなことが基本にある。もちろん「風刺」などということは十分にありうるが、それ以上の内容は全く存在しないのである。
  一方、「歌手」というカテゴリーはいかがであろうか。もちろん「役者」とは基本的には異なるものの、やはり作詞家・作曲家の作った世界観を「歌」を通して「演じる」ということになる。歌唱力、という言葉が「音程」や「声量」だけでなく「情感」などをうたいこまなければならないというようになっているのは、まさに、そのような状況からではないかと考えられるのである。
  要するに「報道」「ドラマ」「歌番組」とカテゴリーがわけられるうち、「ドラマ」と「歌番組」に関していえば、報道とは別に「演じる」ものであり、同時に、「ほんとのことを」「本当の自分」を見せなくてよい、いや「見せないほうが良い」というような感じではないかと思うのである。
  さて、普段の「マスコミ批判に関する一考」であれば、ここで「報道」の方に話が進むのであるが、今回は、そうではなく「アイドル」というほうに向かってみたい。さて、そもそも「アイドル」とか「モデル」という職業はどのようなカテゴリーなのであろうか。その内容などを含めて後半に触れてみたいと思う。

アイドルはスッピンを見せてはいけないのか 柏木由紀「バケモノ」説で浮上したAKB論争

 芸能人にとってはある種の「タブー」とも言える「スッピン」の話題がテレビ番組で赤裸々に語られ、話題になっている。しかも、AKB48の主要メンバーでもある「ゆきりん」こと柏木由紀さん(25)について、後輩メンバーが「バケモンみたい!」と言い放ったから、ただ事ではない。
 一方で、「まゆゆ」こと渡辺麻友さん(22)については「すごいきれいでビックリしました」という声も。同じグループ内でも、「スッピン」の「バケモノ」度は大きな差があるようだ。
 「ゆきりんさんのスッピンは、すごいたまげた感じで...」「スッピン」をめぐるやり取りがあったのは、2016年9月21日未明放送の「AKBINGO!」(日本テレビ)。「まゆゆvsゆきりん最強アイドル決定戦!」と銘打って、「どちらが最強のアイドルなのか、チームに分かれて徹底討論」するという内容だ。
 渡辺さんチームの倉野尾成美さん(15)が
 「スッピンがとってもかわいくて見とれてました」と口火を着ると、柏木さんチームは「ゆきりんさんのスッピンもかわいい!」と応戦。ほどなくして渡辺さんチームの西野未姫(みき)さん(17)が
 「ゆきりんさんのスッピンは、すごいたまげた感じで...」と割って入った。柏木さんは止めようとしたが、そのまま西野さんは
 「うちのまゆさんは、スッピンも変わらない。純白な感じでもう、真っ白なキラキラオーラを放ってる感じ」などと渡辺さんを絶賛する一方で、柏木さんについては
 「(柏木さんと)舞台を一緒にやっていて、ゆきりんさんはメイク(の時間)が長いとかスッピンがすごいとか聞いてたんですけど、やっぱアイドルだし、そんなスッピンがやばい人なんていないだろうと思ってたんですよ。で、(柏木さんは)朝来たら、なんかもう、すごい、バケモンみたいな!」などとまくし立てた。
 一方、渡辺さんチームの小栗有以(ゆい)さん(14)が
 「今日のメイク前の顔を見たんですけど、すごいきれいでビックリしました」と加勢すると、西野さんは
 「オーラで言ったら、真っ白と黒い。言うなら、こっちが白米。(柏木さんは)玄米!玄米!」と追い打ちをかけ、柏木さんは
 「この人やだー!」と悲鳴をあげた。
 「アイドルにスッピンは関係ないもん」柏木さんは
 「スッピンはまた別なんだって。アイドルにスッピンは関係ないもん」などと反論を試み、柏木さんチームも「関係ない!関係ない!」と同調したが、司会の村本大輔さん(35)に
 「スッピンは関係ない?ゆきりんのスッピンはブサイクって認めてるようなもの」と指摘され、「撃沈」していた。
 柏木さんは21日夜、この「バケモノ」の件がネットニュースで拡散されていることを泣き顔の絵文字つきでツイート。その中で、
 「でも放送観ながらわたしも親も爆笑してたから、後輩たちグッジョブ」とも書いていた。
 かつてはAKB48のメンバーが「スッピン」で報道陣の前に姿を見せることもあった。その一例が2009年の紅白歌合戦のリハーサルで、写真を撮ることもできた。篠田麻里子さん(30)は本番と大きな違いがない一方で、前田敦子さんは本番と大きく異なる表情を見せていた。

J-CAST ニュース 20160923
http://www.j-cast.com/2016/09/23278857.html

 さて「アイドル歌手」というものが出てきたのはいつのころからであろうか。基本的に、戦前から「きれいな女性のブロマイド」というものは存在し、憧れの芸能人を手元に持っておくということは少なくない。私の祖父が言っていたが「高峰三枝子が慰問に来て」などと軍隊の時の話をしていたが、実際に、「戦意高揚」のために、軍隊において「歌手」が歌を歌うなどということは普通であり、当然に日本だけのことではないのである。
  しかし、「アイドル歌手」というのは、そのようなカテゴリーとは違う。戦前のブロマイドになっていた人々は、あくまでも「役者」または「歌手」であり「演じること」または「歌うこと」で自分を捨てるということができる人々であり、なおかつその内容に関していえば、普通の人ではできないことを行っていた人々であることは間違いがない。
  しかし、80年代後半から「歌手」とか「役者」ではなく「モデル」または「アイドル」というようなカテゴリーがでる。つまり、「演じる」ことに重きを置かれなくなった人々が出てきたのである。
  ちなみに、それはアイドルばかりではなく「モデル」というカテゴリーも同じだ。要するに「自分を見せる」ことが重要であり、その「見せる」為の手段の一つとして「歌」や「ドラマ」または「ファッション」をつかうカテゴリーができてきたのである。このカテゴリーの人々こそ、まさに、現在の中心であり、これらを総じて「タレント」と言っているような気がする。
  さて、この人々は「よりよく見せる」ために、本来は「自分を見せる」ことなのであるが、いつの間にか「化粧」や「整形手術」(だれとは言わないが)などを行い「見せること」に特化するようになる。そして、「ファンの持つイメージ」に合わせて「自分を隠す」職業になってゆくのである。
  さて、上記の記事はそのような「アイドル」の代表的な存在の中のAKBに関する記事であるが、実際に「すっぴん」要するに「化粧をしていない状態」が「化け物」なのか「アイドルをやっているときとあまり変わらない」のか、ということがでてくる。もちろん、「テレビタレント」と言ってしまえば、そのようなものはどちらでもよいのかもしれない。しかし、その「作り物」に慣れてしまい、その「作り物」とかした自分自身を見せることのできない人が、現在はバラエティ・情報番組などで、ニュースに関して意見を言い始めるのである。これでは「何が本物なのかわからない」ということになる。その「作り物社会」に慣れてしまったテレビ関係者が、まさに、多くなってきてしまい、「スッピンはまた別なんだって。アイドルにスッピンは関係ないもん」<上記より抜粋>というようなことになってしまうのではないか。
  まあ、そのような「一事が万事」というような内容こそ最大の問題なのである。

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マスコミ批判に関する一考(312) 中立公平のできない「プロフェッショナル感覚のないマスコミ」の報道する世田谷一家殺害事件を扱った番組の問題点

マスコミ批判に関する一考(312) 中立公平のできない「プロフェッショナル感覚のないマスコミ」の報道する世田谷一家殺害事件を扱った番組の問題点

 世田谷区で2000年に発生した「世田谷一家殺害事件」について覚えているだろうか。私も間違ってしまうとよくないので、この内容に関してはウィキペディアから引用する。
  「世田谷一家殺害事件」
  世田谷一家殺害事件(せたがやいっかさつがいじけん)とは、2000年に東京都世田谷区の一家4人が殺害された事件の一般的な呼称。警視庁による正式名称は「上祖師谷三丁目一家4人強盗殺人事件」。
 2016年9月現在も、犯人の特定・逮捕には至っておらず、未解決事件となっている。
 また、捜査特別報奨金制度対象の事件に指定されている
<中略>
 21世紀を目前に控えた2000年12月30日午後11時頃から翌31日の未明にかけて、東京都世田谷区上祖師谷3丁目の会社員宅で、父親(当時44歳)・母親(当時41歳)・長女(当時8歳)・長男(当時6歳)の4人が殺害された。隣に住む母親の実母が31日の午前10時40分過ぎに発見し、事件が発覚した。
 この事件は、20世紀最後の日に発覚した、大晦日に差し掛かろうとする年の瀬の犯行だったことや、犯人の指紋や血痕など個人を特定可能なもの、靴の跡(足跡)の他、数多くの遺留品を残している点、子供もめった刺しにする残忍な犯行、さらに殺害後に長時間現場に留まった可能性が指摘され、パソコンを触ったりアイスクリームを食べたりするなどの犯人の異常な行動、これらの多くの事柄が明らかになっていながら、犯人の特定に至っていないことでも注目される未解決事件である。また、年の瀬に発生した殺人事件という時期柄もあって、一年を振り返る区切りとなる年末近くになると、警視庁による情報公開が行われ、マスコミが話題に取り上げることが多い事件である。
<以上ウィキペディアから抜粋https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%94%B0%E8%B0%B7%E4%B8%80%E5%AE%B6%E6%AE%BA%E5%AE%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 この事件は、発生当時から、マスコミでは様々な報道がなされている。しかし、この事件に関しては手掛かりがあまりにも多く、また、犯人の特定ができていない未解決事件として注目を集めている内容である。
  この事件を扱った、番組がBPOによって「重大な放送倫理上も問題があるお」とされたのである。

放送倫理上重大な問題=テレ朝「世田谷殺人」特番-BPO人権委

 放送倫理・番組向上機構(BPO)放送人権委員会(坂井真委員長)は12日、2000年に東京都世田谷区で起きた家族4人殺害事件を扱ったテレビ朝日の年末特番について、「(遺族に対する)公正さと適切な配慮を著しく欠き、放送倫理上重大な問題があった」と指摘する勧告を出した。
 番組は2014年12月28日放送の「世紀の瞬間&未解決事件 日本の事件スペシャル『世田谷一家殺害事件』」。米連邦捜査局(FBI)の元捜査官が、遺族女性と面談し、犯人像を導き出すという内容だった。
 女性は、面談の中で元捜査官の「強い怨恨(えんこん)を持つ顔見知りによる犯行」という見解を否定したが、過剰な演出と恣意(しい)的な編集で、賛同したかのように事実と異なる放送をされたと申し立てていた。
 同委は「女性が精神的苦痛を受けたことは確かだが、人権侵害があったとまではいえない」と判断した。
 テレビ朝日のコメント 勧告を真摯(しんし)に受け止め、今後の番組制作と放送に生かしてまいります。
 女性は東京都内で会見し、「勧告の中身は十分に気持ちをくんでくれたもので、うれしく感じた。メディアはあらかじめ立てた仮説にとらわれず、真実を伝えてほしい」と話した。 

2016年09月12日 18時58分 時事通信
https://news.nifty.com/article/domestic/society/12145-2016091200526/

 そもそも、未解決事件の犯人を「無責任に」予想するというような番組は、マスコミの最も得意とするところである。しかし、この内容に関して、「遺族」や「第三者」などに配慮が欠ける部分があることは間違いがない。
  そもそも論として、単純に、「犯人」の人権が守られるのに「被害者」や「遺族」の人権が守られないということに非常に強い矛盾を感じるのは私だけではあるまい。少し話はそれるが、「死刑廃止」に対して、「被害者は殺されてしまっているのに、犯人は生きていられる」ということに関してはいかがなものかという意見がある。もちろん「生きて罪を償うべき」という意見もあれば「冤罪の可能性」というものも存在するが、しかし、実際に冤罪の可能性のない殺人犯で、なおかつ「無差別殺人」のような「事件までのいきさつに何らの過失のない人の命が奪われた」事件において、また現行犯逮捕で基本的に弁明の余地がない事件においてまで、その加害者の命を奪わないということの方が「法的公平性」が侵害されている気がする。弁護士は、そのような状況においてまで「無罪を勝ち取る」ことによって「自分の職業的名誉」が出てくることになるから、死刑廃止にこだわるかもしれないが、職業的な名誉で親族などを殺された遺族感情を侵害するのはいかがかと思う。また、「冤罪」に関しては「捜査」の問題であり「量刑」の問題ではないのではないかと思う。
  さて、死刑廃止に関しては、より精度を高めて、一度しっかりとおこなうことにするので、ここでは今回のブログの文章に関連のあるところで、その文脈に沿った形の意見表明で止めておくことにする。
  さて、この「加害者」への「人権意識の過大な保護」と「被害者や遺族に対する人権意識の軽薄さ」が、今回のマスコミの事件を増長させているのではないかという気がしてならない。
 この世田谷一家殺害事件に関しては、犯人が特定できていないから仕方がないにしても、前々から言っているように、なぜ「加害者」の親族や加害者の関係者を「テレビで出演させない」のかということ、もう一つは、このような事件が発生して利害関係が成立する。その「利益を得た人」に対してなぜアクセスをしないのかということが最大の問題である。そのへん、「遺族」ばかりを出演させて「さらし者に」にするマスコミの良識がもっとも疑われる事案ではないのか。
  同時に、この事案において言えば「被害者」と「遺族」を出して、そのうえ「見解を否定する」ということ、つまり「捏造」をしているのであり、「公平な報道」ができていないことになっている。普段は、政治的なことに関いsて「公平な報道」ということを言うが、この場合は「加害者と被害者の公平な扱い」という子意味において、まったく違う感じになってしまっているということになるのではないか。
  実際に「どちらかに寄った報道」のほうが楽であることは間違いがない。しかし、『楽』ということで妥協をしていたリ、予算などで妥協をしていては「プロ」ではないのである。まさに、現在のマスコミは「プロ」ではない報道や番組制作が続いてしまっているのである。自分がどのように思おうと、どのように考えようと、多くの人がいる中において『マス(集団)』のこみゅにけーしょんをはかるには、すべての人にしかkりと中立公平な立場で伝えなければならない「使命感」があるはずであり、その「使命感」を実現してこそのプロフェッショナルな部分が完全に欠如しているのが現在のマスコミなのではないか。
  プロのマスコミがなければ、民主主義は滅びてしまうし人権も実現できない。それこそ、現在の社会の問題点ではないのか。

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マスコミ批判に関する一考(311) NHKの受信料に関してそもそも「払いたくなるような番組をNHKは作っているのか」という疑問をなぜ誰も出さないのか?

マスコミ批判に関する一考(311) NHKの受信料に関してそもそも「払いたくなるような番組をNHKは作っているのか」という疑問をなぜ誰も出さないのか?

 月曜日のマスコミ批判である。さて今に始まったことではないが、NHKがおかしい。もちろん、NHKは国営放送ではない。しかし、国民からの受信料でできている番組であるから、当然に、国民の求めている番組を作る必要性がある。ノンライであれば「公平性」というよりはそれ以上に「日本的」な番組が作られるべきである。何も、韓国のドラマとか、反日ドラマを行う必要は全くないのである。
  ましてや「報道番組」において「偏向報道」をすることは絶対に許されない。そのことに関して、過去に「ニュース9」の大越キャスターや、「クローズアップ現代」の国谷キャスターなどが、番組から降板させられていることは、ある程度NHKにも自浄作用があるということになる。しかし、実際に、その報道内容に関していえば、そのようなキャスターそのものの鋼板などで終わる話ではなく、「体質としての偏向」つまり「批判精神こそジャーナリズムの本領」という「誤ったジャーナリズムの定義」に翻弄されてしまっており「政府に対して批判的に接することを重視して中立公平な報道を行うことを放棄してしまう」というような状態になっている、その体制に関して全く感覚が存在しない。
  一方、ドラマなどに関していえば、昔の「ラジオドラマ 君の名は」など、「ドラマが始まると銭湯がガラガラになる」というような伝説になるようなドラマを作ることができないでいる。実際に、歌番組にしても、ドラマにしても、基本的に「国民の価値観の多様化」に対応しきれていないのが現在のNHKというか、ジャーナリズム全般の問題であり、そのような状況にある内容こそが最大の問題ということになるのである。
  そもそも、毎年この時期になると紅白歌合戦の出場歌手や内容、な愛によっては司会者やサプライズにかんして話題になることがある。しかし、そもそも「紅白歌合戦」そのもののコンセプトも、またステータスもいずれもおかしくなってしまってはないだろうか。単純に、「人気のある人を出す」ということが、そのまま、その年のステータスとは関係のない人を出演させるということになり、結局、歌の多様化にも対応できていないことになる。そのような状況で、NHKが存続できるのか、そもそもそのことが最大の問題ではないのか。

ワンセグ携帯、NHK受信料の支払い義務なし 地裁判決

 ワンセグ放送を視聴できる携帯電話を持っているだけでNHKに受信料を支払う義務があるかが争われた裁判の判決が26日、さいたま地裁であった。大野和明裁判長は「携帯電話の『携帯』は、放送法が規定する受信設備の『設置』にはあたらない」とし、支払い義務はないとの判断を示した。
 訴えていたのは埼玉県朝霞市の男性市議。市議側によると、ワンセグ放送による受信契約を巡り、受信料を支払う必要がないと判断した判決は全国初という。
 裁判では、ワンセグ機能付き携帯電話の所有者が、放送法64条1項で受信契約の義務があると定められている「放送を受信できる受信設備を設置した者」にあたるかが争われ、NHK側は「『設置』とは受信設備を使用できる状態に置くことを意味し、一定の場所に設け置かれているか否かで区別すべきではない」と広義の「設置」にあたると主張した。
 大野裁判長は判決で、ワンセグ機能付き携帯電話などを使った放送を規定した放送法2条14号では、「設置」と「携帯」が区別されていると指摘。2条14号より前に制定された64条1項の「設置」の定義が再検討された形跡はなく、従前通りの解釈をすべきだとし、「放送法64条1項の『設置』が『携帯』を含むとするNHKの主張には相当の無理があると言わざるを得ない」と述べ、契約義務はないとした。判決後、市議は「NHKには契約者への返金を含めた真摯(しんし)な対応をしてほしい」と話した。

朝日新聞 2016年8月26日18時29分
http://www.asahi.com/articles/ASJ8V5RD7J8VUTNB01T.html

ワンセグ携帯にも「NHK受信契約の義務」 高市総務相

 さいたま地裁が8月、ワンセグ放送を受信できる携帯電話を持っているだけではNHKの受信料を支払う「義務はない」と判断したことについて、高市早苗総務相は2日の閣議後記者会見で「携帯受信機も受信契約締結義務の対象と考えている」と述べた。
 裁判では、ワンセグ機能つき携帯電話の所有者が、放送法64条1項で受信契約の義務があると定められている「放送を受信できる受信設備を設置した者」にあたるかが争われた。高市氏は「NHKは『受信設備を設置する』ということの意味を『使用できる状況に置くこと』と規定しており、総務省もそれを認可している」と説明した。
 NHK広報部は2日、朝日新聞の取材に「現在、控訴の手続きを進めている」とした。高市氏は「訴訟の推移をしっかりと見守っていく」と述べた。
 
朝日新聞デジタル 20160902
http://www.asahi.com/articles/ASJ924GTRJ92ULFA00T.html

 さて、受信料。
  ワンセグ機能がNHKの受信に関してついているが、しかし、「携帯電話の『携帯』は、放送法が規定する受信設備の『設置』にはあたらない」<上記より抜粋>という法律の解釈により、ワンセグ機能においてNHKの受信料を払う義務は存在しないという判決が存在するようになったのである。
  さて、あえて、ここでは法律の解釈そのものには立ち入らない。そもそも法律で保護されているというような放送局があるということは、そのこと自体で「独自性」ではなく「国営放送」であり、「独立性を語る資格は存在しない」というものである。単純に、「視聴者の受信料で行っている」というようなことをNHKは主張し、放送の合間にも流しているが、実際に、その受信料そのものは、国民が(場合によっては日本人以外の場合もあるが)の人々が、「日本国の法律に従って」放送される内容を、その放送を受信する権利として受け取っているものであり、その内容に関しては「設置された受信機」によって行われるというのが、放送法の内容である。そのために、携帯電話に付属でついた昨日であるワンセグ機能は、そもそもユーザーが好んで欲しがった機能ではなく、携帯電話会社が勝手に付したものであり、受信機そのものの内容を全く意図していない。ということで、受信の意思をもって設置したものには当たらないということになるのであろう。ある意味で、「設置」という単語にこだわった判決としては妥当であり、同時に、そのような状況になることを予想して法律を変更しなかった政府の問題であろうし、またその自体を予想していなかったNHK経営陣の怠慢によって引き起こされた判例であるということになる。
  さて、そんな法律の解釈はとにかく、そもそも「受信料を払っている人々の欲しがっている情報を出しているのか」ということが問題ではないのか。
  法律の解釈をめぐる何かのことを言うべきではなく、そもそも「放送を聞きたいという意欲のおこらない番組ばかりをつくり、そのうえ強制的に受信料をとってゆく」ということ自体が大きな問題なのである。もちろん、伝統芸能や『教育内容』などに関しては、単純にそのような内容ばかりではない。しかし、教育内容であっても「道徳」や「国家」あるいは「神話」や「日本人としての誇り」をしっかりと子供たちに伝えるような内容になっているのであろうか。その内容をみて、日本人が日本人のために「素晴らしい」と感じ「金を払いたくなる」ような内容になっているのか、そのようなことをまず考えるべきである。
  現在、受信料を支払っている人に関して「義務だから支払っている人」はどれくらいの割合なのか。逆に「払わなくてよいならば払わない」という人はどれくらいの割合いるのか、一度アンケートを取ればよい。そもそも高市大臣も「民意」をしっかりと受けてNHKを改革しなければ、所管大臣としてその役割を果たしたことにはならない。つまり、今まで「NHKの制作側の意向で勝手に受信料を野放図に使い続けてきたつけ」があり、そのツケそのものを、受信料の支払い拒否ということで、受信者が拒否しているということに過ぎないのである。
  まさに「価値観の多様化」に対して、NHKが自分たちの「勝手な主張」をいかにして来たか、そのことによって視聴者がいかに不満を感じているのかということを、NHK自体が法律の上に胡坐をかいてしまって、まったく感じなくなってしまっている。そのことが最大の問題になっているのではないだろうか。

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マスコミ批判に関する一考(310) 毎年変わらない「感動の押し売り」と「偽善による障碍者虐待」のオンパレードと言われる24時間テレビ

マスコミ批判に関する一考(310) 毎年変わらない「感動の押し売り」と「偽善による障碍者虐待」のオンパレードと言われる24時間テレビ

 さて、本文を書く前に、前提として、病気または怪我、または先天的な疾患などで、体が不自由な人のことを、総じて「障碍者」といい、その体が不自由な部分を「障碍」と表記する。もちろん、この表記そのものが良いか悪いかという議論はあるが、今回、この文章そのもののしゅだっは、その単語の使い方ではないということ、同時に、私の友人の中の「障碍者」の人々に、その表現方法を聞いた時に「障碍でいいんじゃない。私たちは気にしないから。か○わ(さすがに差別用語と私も思う)とか言われても、気にしない。問題は単語ではなくその人の気持ちだから」と言われたことの、二つの理由から、「障碍者」という単語を使うこととする。なお、記事に関してはその単語を直さないでそのままにするので、そのことはあらかじめご了解願いたい。
 さて、単語に関する前提を書いた。その上で日本テレビの24時間テレビに関しては毎年のように「偽善」というようなことを言われている。まあ、「障碍者」を出したところで、そのことそのものが悪いことであるとは思わない。実際にパラリンピックなど、障害があることそのものをものともせず、人前に出て、活躍している人は少なくない。
  私も心臓を病んでいることから、種変には障碍者や病人の友人は非常に多い。もちろん、その中に、「障碍を気にしない」という人が少なくない。もちろん、事故や病気で後天的に「障碍」を持ってしまった人に関しては、その「障碍」に漢詩てコンプレックスに感じる人も少なくない。しかし、その人々であっても「障碍があること」になれ、なおかつ障碍があったうえでの生活に慣れてきてしまえば、その中で生活をするということになる。もちろん、障碍はないほうが良い。しかし、そうなったことを悔いて一生涯過ごすよりも、そうなったことを受け入れて、前向きに生活をしたほうが良いのではないか。障碍者全員などはとてもインタビューできるものではないが、しかし、私が聞いた一部の障碍者の人々はそのように言っているのである。
  では、彼らが最も「ムカツク」と思っていることは何であろうか。
  「私たちはくるしいとは思っていないけれども、その私たちに、苦しいでしょ、つらいでしょ、と言って新設を押し売りし、かわいそうというような同情を押し売りし、そのうえで偽善的に金を設けている人たちを見ると、腹が立つ。完全に私たち(障碍者)を利用している金儲けだ」
  さて、このような訴えの矛先は結構少なくない。もちろん、町の中の募金活動などの中にも存在するし、また、グループホームなどの介護の現場でも聞くことがある。しかし、毎年この時期、世するに9月の初めになると、その矛先は「24時間テレビ」に向かうのである。なかなか面白い現象である。

両足マヒの少年が「富士登山」 「24時間テレビ」に「虐待」指摘相次ぐ

 2016年8月27日、28日に放送された「24時間テレビ」のワンシーンが、ネットで物議を醸している。
 問題視されたのは、事故で両足が不自由になった少年が富士登山に挑戦する、というコーナー。企画の内容もさることながら、無事登頂した少年が疲労困ぱいした様子を見せたためか、「どうみても虐待」との指摘が上がっている。
 スタジオから「達成感はないの?」
  問題のシーンは、28日16時ごろに放送された。大事故で一時は下半身不随になったものの、懸命なリハビリを続けて歩けるようになった12歳の少年が富士登山に挑戦した。コーナー名は「両足マヒになんて負けない! 少年と家族が挑む富士登山」だ。
 悪天候の中、少年は雨に打たれながらも無事登頂した。しかし、登り切ってもなお笑顔を見せることはなかった。一緒に登っていた父親と母親が背後で感極まって涙を流す中、「頂上登ってみてどう?」「達成感はないの?」といったスタジオ側の質問に真顔で「寒いです」とだけ答えた。
 ツイッターには、こうした映像を見たネットユーザーから、
「虐待に近い気がする」
「どう見ても児童虐待です」
「虐待を見た気分です」との指摘が次々と書き込まれた。さらに、天候を考慮して企画の「中止」を求める声も多かった。
 3年前の富士登山企画でも批判が...この数分後に一瞬流れた中継映像もまた話題を集めた。カメラは、体力を使い果たして立てなくなった少年を父親が抱きかかえたり、頭をなでたりする様子を映す。
 しかし途中、父親が少年のキャップを勢いよく払い取ったため、「(父親が)子を殴ったのではないか」とツイッターなどで指摘された。
 この映像は、少年を抱きかかえた父親が地面に倒れこむシーンや父親が少年の頭をなでるシーンがカットされて、ツイッターに拡散。まとめサイトが「怒鳴られてブン殴られる」「指示に従わない障害者を殴る」といった見出しで取り上げた。ただ、J-CASTニュースがあらためて放送された映像を調べた限り、「怒鳴られて」とか、「指示に従わない」という状況は確認できなかった。
 「24時間テレビ」は、過去にも「富士登山」企画を打ち出し、同じような批判を受けたことがある。2013年に、東日本大震災で被災した子どもがお笑いタレント・イモトアヤコさんと富士登山に挑戦する、というコーナーだった。
 このときは、子どもたちは無事登り切ったが、「悪天候なのに引き返させなかった」、「マイナーでハードなコースを選んだ」などといった批判が相次いだ。
 「24時間テレビ」は毎回、こうした問題が指摘されるが、今年は28日の裏番組、NHKのEテレ「バリバラ」が「障害者の感動ポルノ」と指摘するなど、例年にもまして風当たりが厳しかった。それでも、平均視聴率は15.4%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)と高く、国民的な関心を集めているのも事実だ。
 J-CASTニュースは、今回の富士登山企画の反響について、日本テレビに取材を申し込んだが、「広報担当者が全員不在」ということで、回答は得られなかった。

J-CAST ニュース 20160829
http://www.j-cast.com/2016/08/29276334.html

 大事故で一時は下半身不随になったものの、懸命なリハビリを続けて歩けるようになった12歳の少年が富士登山に挑戦した。コーナー名は「両足マヒになんて負けない! 少年と家族が挑む富士登山」だ。
 悪天候の中、少年は雨に打たれながらも無事登頂した。しかし、登り切ってもなお笑顔を見せることはなかった。一緒に登っていた父親と母親が背後で感極まって涙を流す中、「頂上登ってみてどう?」「達成感はないの?」といったスタジオ側の質問に真顔で「寒いです」とだけ答えた。<上記より抜粋>
  さて、ここで書いてわかることは「なぜ富士山に登らなければならないのか」ということである。もちろん、テレビ的には、「障碍者が障碍の身体をおして通常の人でも厳しい富士山の登山を成し遂げた」ということで「感動」が生まれると計算したのであろう。しかし、よく閑雅てもらいたい「富士山を登山しなければならない必然性があるのか」ということが重要だ。
  例えば、その人の親しい人や大事な人が富士山の登山と何らかの関係があるというような場合、いや、これは富士山である必要性はなく、例えば、クラスのみんなが遠泳をして渡り切るところを、自分は障碍者であることを理由でさせてもらえなかった。それをテレビなどスタッフ(要するに助ける人)が大勢いるという前提で、それも、それまでのドキュメントなどで、「遠泳の練習」などを行い、そのうえで、「クラスの仲間と同じことができた」というのであれば、それなりに理解も得られることができる。要するに「みんなおと同じ」ということが「障碍を克服する」ということにつながる、少なくとも健常者はそのように思って障碍者を見ている視点があるからだ。
  しかし、そのようなものは全くない。ただ「感動を押し売りするために」無理難題を吹っかけて、虐待しているのに過ぎない。そのような事前の思い込みも何もないから、当然に「達成感がない」ということになる。『必然性がないことをやらせる』ということは、まさに「障碍者を利用している」ということにしかならない。そのうえ、それで寄付金を募っているのだ。これを「偽善」と言わずしてなんというか。それ以上に「やらせ」の最も悪質なものではないのか。
  もしも、そうであっても、出戦車全員を含め「完全なノーギャラ」で寄付金がかなり多額になるというのであればそれもあろう、しかし、結局のところ「テレビ局は莫大な利益を上げ、出演している芸能人もただくなギャラをもらっている」ということになる。そのようなもので「感動」するのだろうか。
  さて、ついでに言えば、なぜ「障碍者」を交えた「討論会」は24時間テレビで行われないのであろうか。はっきり言うが「障碍者に、普段思ていることを言わせてあげる」ことが最も重要ではないのか。結局「マスコミが仕掛けた健常者目線の押し付けの偽善」がマイトス続くこと、この番組自体が「障碍者虐待」ではないかと思うのである。

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マスコミ批判に関する一考(307) ヤラセがなくなると番組が作れなくなってしまう現在のテレビ局というのはいったい何なのだ

マスコミ批判に関する一考(307) ヤラセがなくなると番組が作れなくなってしまう現在のテレビ局というのはいったい何なのだ
 月曜日はマスコミ批判である。
  今週は、オリンピックの解説について、ちょうどよい記事があったのでそれを行おうかと思っていたのであるが、しかし、まあオリンピック真っ最中にわざわざ書かなくてもよいかもしれないと思い、オリンピックの記事は少し後に行うことにした。
  まあ、「解説者が…」という記事なので、先週の選挙の記事と同じになってしまう。それでは、読者の皆さんも同じような記事ばかりになって退屈ではないかという気がしてしまう。それならば、少々毛色の変わった記事を出した方が皆さんもお喜びになるのではないかというような気がしたのである。
  ということで、今回は、ちょうど皆さんも夏休みであろうし、その期間、普段は見ないテレビを見ている人も少なくないのではないかと思い、バラエティ番組に関しての「ヤラセ」を扱ってみることにした。
  そもそも「バラエティ」は、「フィクション」である。
  よって、ドラマと同様に「演出過多」があっても許されるような状況であると思われる。しかし、最近のバラエティ番組は、ある意味で「情報番組」との垣根がだんだんと消えてきてしまっている。というよりは、テレビ局は、基本的にすべての番組に関して「ボーダレス」になってしまっているような気がしてならない。
  「報道番組」とか「情報番組」とか「バラエティ」というのが無くなってしまい、いつのまにかすべてが「ワイドショー」になってしまっている。かろうじて「歌番組」と「旅番組」と「ドラマ」がほかの番組と別れているようである。しかし、最近ではワイドショーや情報番組の中に旅番組特に、日帰り旅行のようなものが少なくなくなってきてしまっており、徐々に浸食されているような気がする。
  バラエティならば、「多少の過剰な演出」があってもなんともないような気がする。例えば、リアクション芸人が、熱くない「熱湯風呂」や「おでん」で大袈裟に熱いといって騒いでみたり、面白くない芸に対して大袈裟に笑ったりしても、基本的には許される範囲である。というよりはその「大袈裟」が「バラエティ」の「笑い」につながるのではないかというような気がしてならない。
  しかし、徐々にこれが情報番組になってしまった場合は、それではダメな場合が少なくないのである。しかし、このダメという言葉、わざと曖昧な表現を使ったのであるが、その内容に関しては後半でお伝えすることにする。
『モニタリング』、視聴率1ケタ転落は「ヤラセがなくなったから」!? 業界の“ねつ造遺伝子”とは
 木曜夜の人気番組『ニンゲン観察バラエティ モニタリング』(TBS系)に不穏なウワサが立ち上ったのは今年5月。制作を手がけるプロダクション「HI‐STANDARD(ハイ・スタンダード)」の社長であり、番組の総合演出を務めるA氏が、法人税法違反容疑で東京地検に告発されていたことがわかったのだ。
 同社長は2014年12月期までの2年間に、架空の制作費を計上することによって約2億7,900万円の所得を隠し、法人税約7,100万円を脱税したという。
「この告発を受け、A氏は税理士を通じて『当局の指導に従い、不足していた税額を納めるなど是正に努めております』とコメント。事態は収拾したかに見えましたが、企業コンプライアンスが問われるこの時代、甘くはありませんでしたね」(業界関係者)
 A氏の名前、さらにはプロダクションの名前が、いつの間にか番組のエンディングで流れるスタッフロールから外されていたのだ。12年、深夜の30分枠でひっそりと始まった『モニタリング』。その開始当初から制作を主導していた、いわば功労者は、自ら招いた失態で、番組を去ることになった。
「SNSの時代、こういった悪評が流れるスピードが格段に速くなりました。あっという間に全国を駆け巡りますからね。その影響でしょうか、7月14日のオンエア分は8.2%(ビデオリサーチ調べ、関東地区/以下同)と、1ケタに転落。今まで11~12%が当たり前だった同番組では異常ともいえる事態です。代わってここ1年ほどレギュラー回では2ケタになることがなかった裏番組『とんねるずのみなさんのおかげでした』(フジテレビ系)が久しぶりに10.6%という好成績。少し潮目が変わってきたのもかしれません」(芸能ライター)
 脱税問題の裏では、フジテレビの追い上げも始まっていたようだ。しかし、この一件は意外と根深いと語るのは、テレビ局のディレクターだ。
「脱税容疑をかけられたA氏が、もともと在籍していたテレビ制作会社は、日本テレワークです。ここはかつて、『発掘!あるある大事典』(フジテレビ系)の『ねつ造』事件を起こしたことで知られる、ブラックプロダクション。納豆のダイエット効果をでっちあげたことで、総務省が調査に乗り出し、結果的に放送打ち切りまで発展しました。番組を制作した関西テレビ放送はスポンサーに逃げられ、視聴者から苦情が殺到、社員の処分を余儀なくされるなど、当時大問題となったキッカケを作った会社なんです」
 この騒動が勃発した07年、同A氏は自ら代表を務める「HI‐STANDARD」を立ち上げている。
「たびたびヤラセ疑惑がささやかれてきた『モニタリング』ですが、業界内には『そもそも総合演出を手がけていたA氏の中に、“ねつ造遺伝子”が組み込まれていたのかもしれないね』なんて言う人もいますよ」(前出・ディレクター)
 現在は先述の通り、A氏もくだんの制作会社の名前も外され、一掃されたかに見える『モニタリング』だが、新たに生まれ変わったところで数字は厳しいだろう。裏番組『みなさんのおかげでした』との視聴率対決の戦況がどう変わるのか、注目していきたいところだ。
サイゾーウーマン / 2016年7月31日 12時45分
http://news.infoseek.co.jp/article/cyzowoman_20160731_5631712013/
 さて「バラエティ」はなぜ「大袈裟なヤラセ」が許されるのか。それは「大袈裟なヤラセ」そのものが「笑いの対象」であるからに他ならない。要するに、バラエティは、「笑いをとる」ことがその目的であることを視聴者も合意の上で番組が作られているということになる。もちろん、いちいちその合意がしっかりと撮れているわけではないし、アンケートなどを実施しているわけでもない。しかし、「バラエティ」というのはそういうものであるというような「暗黙の合意」が実は存在するのではないか。
  しかし、最近の「情報番組」ということになれば、それは違う。「情報番組」といううカテゴリーは視聴者に情報を提供する番組であるということになるのであるから、その情報番組の扱う情報は「正確さ」を要求される。
  情報と関係のない所に関しては多少の演出は許されるとしても、肝心の情報そのものに関しては「正確さ」が重要な番組選択の要素となるのである。
  さて、「バラエティ」が「情報番組」に進化してしまった状況において、その内容は基本的には、「正確な情報」が期待されているということになる。
  当然に、何かを行えば「専門家の意見」が重要になり、また、その専門家の解説や理論的な説明が必要になってくるということになるのである。
  さて、上記記事に挙げた「モニタリング」という番組は、まさに「バラエティ」から「情報番組」の垣根のちょうど間くらいを行き来している感じの番組である。
  「人間観察バラエティ」と銘打っている番組であるが、その「人間観察」は、何らかのテーマがあり、そのテーマ性の中の心理状態やリアクションを見て楽しむということになる。
  「楽しむ」だけならば当然に「バラエティ」である。
  しかし「観察」となってしまうと、その内容は急激に「情報番組」となってしまう。
  そのために「通常の日本人ではありえないリアクションや反応」をしてしまえば、「面白い」けれども「情報性」が失われ、観察というような形にならなくなってしまうのである。
  「たびたびヤラセ疑惑がささやかれてきた『モニタリング』ですが、業界内には『そもそも総合演出を手がけていたA氏の中に、“ねつ造遺伝子”が組み込まれていたのかもしれないね』なんて言う人もいますよ」(前出・ディレクター)<上記記事より抜粋>
  このようなうわさが出てしまうと、基本的には「やはり面白さは作られたもの」ということになり「情報性」が失われ「情報性を求めてチャンネルを合わせていた人がすべてサル」というような結果になってしまうのである。
 さて、あえて言うが、「バラエティ」出「ヤラセや過剰な演出」があっても良いのではないか。では何がいけないのかといえば、当然に「情報番組」にしてしまったり、あるいはバラエティを「アカデミック」にしてしまい、その伴雲のカテゴリーをボーダレス化してしまったことに最大の問題がある。実際に視聴率をとるために、番組をいじって、結局番組を面白くなくしているというのが現状ではないか。本来「面白い番組」ならば視聴率は取れるし、また「正確な情報」であれば「情報を欲しい人は必ず見る」のである。しかし、いつのまにか「面白いバラエティ」ではなく「視聴率が取れるバラエティ」になり、また、「正確な情報番組」ではなく「スポンサーが喜ぶ過剰な演出をする偽情報番組」に変わってしまっており、それを見破る視聴者がテレビ離れをしているという状態ではないのか。
  まさに「視聴率至上主義」がおかしくしているというような気がしてならない。そしてその状況が「番組の不正」を作り出しているのではないかというような気がしてならないのである。
  テレビ局は、何か根本的なところを変えなければならないのではないか。そのような気がしてならない。

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