経済・政治・国際

毎年恒例2009年10大ニュース

毎年恒例2009年10大ニュース

 もうこの時期かと思う。今年も早かったような、それでも様々あったような、そんな一年であった。そこで、毎年恒例の10大ニュースを見てみたい。また今年も、読売新聞社のホームページから無断で借用する。差し支えがある場合は、思う氏でくださいますようお願いいたします。
<国内>

1  衆院選で民主308議席の圧勝、歴史的政権交代で鳩山内閣発足   

2 日本でも新型インフルエンザ流行   

3  「裁判員制度」スタート 

4  日本がWBC連覇 

5  酒井法子容疑者、覚せい剤所持で逮捕 

6  天皇陛下即位20年   

7  高速道「上限1000円」スタート 

8  イチロー選手が大リーグ史上初の9年連続200安打   

9  巨人が7年ぶり21度目日本一 

10  「足利事件」の菅家さん釈放 DNA鑑定に誤り 

<海外>

1 新型インフルエンザ大流行、世界で死者相次ぐ 

2  オバマ米大統領が就任 

3  マイケル・ジャクソンさん急死 

4  米GM、クライスラーが相次ぎ経営破綻 

5  ノーベル平和賞にオバマ大統領 

6  北朝鮮が弾道ミサイル発射 

7  韓国で射撃場火災、日本人客10人死亡 

8  中国新疆ウイグル自治区で暴動、197人死亡 

9  南太平洋、スマトラで大地震相次ぐ 

10  世界陸上、ボルト選手が3冠 

 さて、国内のニュースから見ると、例年に比べて明るいニュースが多い事に気づく。新聞で言う社会面の記事が、インフルエンザ(2位)、覚醒剤(5位)、足利事件再審(10位)と三つしかない。それに比べてスポーツのニュースが多い。事に、一時斜陽とまで言われた野球の話題ががんばっている。WBCもイチローも日本の野球が世界で活躍しているという話だ。ベースボールと野球が違うといわれ、日本の野球は通用しないと言われていた。しかし、近年、アメリカメジャーリーグがレベルが落ちたという指摘もあるが、日本が差が少なくなった。
 私が学生時代、ヤクルトスワローズに「ホーナー」という現役メジャーリーガーが入団した。入団早々、ホームランを量産連発し、「満塁でも敬遠」という噂まで出てきたのだ。このとき、球団の所有会社であるヤクルトの株価も高騰し、ホーナー効果という単語まで出てきたのである。しかし、その都市も翌年もヤクルトは優勝できていない。残念ながらメジャーリーガー一人ではチームを優勝させることはできなかったのである。そのうち、ホーナーの成績も下降し、ホームランを量産できなくなった。日本人投手がホーナーの弱点を徹底的に攻めたため、ホーナーも打てなくなってきたのだ。
 日本人は、データとそれに基づく訓練とでチーム全体が問題に対処する。技と技の争いであり、匠が勝利する。アメリカは、まさに力と力の対決だ。相手がどうあっても真ん中で勝負する。
 今回の野球のイチロー選手もWBCも、いずれも技が力を制した例であろう。逆に、力であれば、年齢とともに衰えが出てくるが、技は時間とともに円熟味を増す。イチローの記録などは、まさにそのことを教えてくれるのではないだろうか。現在メジャーリーグは30球団有るが、その多くの専守を越え記録を作るというのは、実にすばらしい。
 そのアメリカとうまく言っていない政権を作ったのが日本だ。一位はやはり政権交代だと言うことになるが、その後の迷走は、あまりにもお粗末だ。来年首相交代など、今までと同じ轍を踏むのではないかと思う。
 そのアメリカでは、<海外編>でいくつかの「政権交代」が行われた。2位のオバマ大統領は解説の必要はない。日本と同じ政権交代だ。日本でもオバマ大統領の演説集がよく売れた。小泉元首相、鳩山首相と同じ「スローガン」「わかりやすい」「リスクを言わない」の三拍子だ。小泉元首相は、郵政選挙を行いその際に離党者を多数出しながらその矛盾を解決した。自民党という政党を分裂させても、政権公約を断行したのだ。一方、オバマ大統領と鳩山首相という日米の現在の指導者は、そのようにできていない。わかりやすい、単語と耳障りのよい公約、安易な単語では、価値観が多様化した国民の要望に応えることはできない。
 政治のことは、今日は辞めておく。新年早々、また政治に関することを多数書かなければならないからだ。年末くらい、政治でないことで終わりたい。すでに仕事納めも終わっているのだ。
 さて、オバマ以外にも「政権交代」が行われた。一つは避けようがない事実の中での「交代」だ。「キング・オブ・ポップ」と言われたマイケル・ジャクソンの急死である。毎年10大ニュースについて書いているが、個人の死が10大ニュースになるのは珍しい。それだけ、マイケル・ジャクソンが作り出した音楽の与える影響は大きかったということだ。下手な政治家よりもずっと多くの人にメッセージを伝えることができたであろう。マイケルにとって、もっとも大きく音楽の力を示したのが「ウイ・アー・ザ・ワールド」であろう。日本で言うところのプロダクションやレコードレーベルという既存の枠を越えて、世界平和を歌った企画は、誰でもができることではない。今年になって核廃絶を宣言したプラハ宣言が、ノーベル平和賞になったが、それでもマイケルの企画よりも何十年も遅れているのだ。そのマイケルの死は、音楽における一つの時代の終わりを物語る。もちろん、音楽の世界が無くなるわけではない。「キング」がいなくなった。新たな時代になったということだ。
 もう一つはGMやクライスラーの相次ぐ倒産だ。これは、二つの「政権交代」の象徴であり、一つの「交代の予兆」かもしれない。二つとは、小さく考えて、アメリカ、世界における自動車産業の「世代交代」が行われたという事。二つ目は、「自動車産業という事業そのものの交代」。そして、「資本主義経済の行き詰まりの予兆」を示していると思われる。
 まずは自動車産業の世代交代だ。アメリカ車といえば、大きく見栄えがよいが燃費が悪いという印象だ。私が子供の頃「アメ車」は、すべての大きな者強い者の象徴であった。しかし、「大きく強い」ということは、無駄も多いと言うことになる。自動車では大きな、頑丈な物がもてはやされた。早いこともしくは大量輸送手段としての自動車の存在が大きかった。しかし、自動車そのものの利用が、集団から個に変わることによって、小型車の時代になってきた。また、その中に、自動車道路の整備が進むと言うことも一つの要因となった。道路が整備され、悪路が無くなったこと。パーソナルカーがすすみ、女性の運転者も少なくなかったことなどから、自動車の小型化が進んだ。昔、私の子供の頃は、悪路、無舗装の砂利道なども少なくなかった。そのような道路で今の自動車を走らせれば、すぐに自動車が故障した。そのときは、アメリカ者の大きく頑丈な自動車が必要であったのだ。一方で、アスファルト舗装がほぼ全てでできた場合は、当然にそれだけの大きさや頑丈さは「ムダ」になってしまう。今年流行語にもなった「事業仕分け」は、当然に「ムダ」をなくす事が目的であるが、実際はこの「アメ車」のムダと同じ、昔は必要であったが、今は「そこまで」必要ではないムダが少なくないのだ。当然に、「そこまで」というだけなので、完全に不必要という物ではない。ダムなどもその辺の問題になる。
 ムダの話はこの辺にして、アメリカ車はその時代の変化やニーズの変化について行かなかった。ムダはムダを生み出す。結局人件費やそのほかの経費も大きなムダになってしまい、ムダの方が大きくなってしまうと、会社が倒産する。逆に、トヨタ自動車など小型車やアスファルト舗装、もっと言えば時代にあった自動車を作る会社にとって変わられてしまうのである。
 次に、自動車産業そのものの終焉だ。2000年の京都議定書の通りに、地球の温暖化そのものが大きな問題だ。当然に、化石燃料の燃焼と言うことが大きな問題になる。また、ゴミ、リサイクルの問題が出てくる。結局自動車産業そのものが脱皮を迫られている。その脱皮は、化石燃料からの脱皮であり、一方で巨大なゴミからの脱皮だ。化石燃料そのものの問題はエコカーという新たなカテゴリーを迫られている。まだできている物ではない。自動車産業そのものが全体で模索中であるという。
 一方で、ゴミの問題も大きい。中古車というだけでなく、古タイヤなどは大きな問題となる。そもそも、自動車のリサイクルは進んでいない。中古車という市場があるので、リユースはできているのかもしれないが、その部品のリサイクルが進んでいないのは知られていない。それが大きな問題となっている。
 アメリカは大きな市場だ。自動車にとって大きな市場が、この化石燃料という環境問題と、一方でゴミの問題の二つがアメリカを象徴する企業の倒産という劇的な問題になる。自動車産業そのものがおかれている現在の立場が、徐々に変わってきている。この倒産の問題はそのような地球レベルの前に「強制終了」させられたといえる。ここは、上記のムダの多さとも無関係ではない。
 最後に「資本主義経済の行き詰まりの予兆」ということだ。昨年の10大ニュースであるリーマンショックの影響がこの倒産の引き金だ。これこそ、この問題の象徴だ。「銭で銭を買う」というこの構造そのものが、実体の製造業に深く食い込み、そして、そのなかの生殺与奪の権利を握るということになる。その生殺与奪の権利者の死は、そのまま自らの死を意味する。
 資本主義経済そのものが、拝金主義になってしまう可能性を示唆している。では、資本主義でなく、社会主義や共産主義がよいのかというとそうではない。すでに中語気やソ連の崩壊、東西ドイツの統一そのものが、それを示している。しかし、資本主義が万能ではないことを今回の事件は示した。「政権交代」といえば、それに変わる勢力が必要になる。今のところそれに変わる勢力はない。しかし、資本主義が完全でないことは多くの人がわかってしまったのではないか。
 大きな意味で「王者が変わる」といえば、ボルトの世界記録もその中の一つだ。<海外>では「政治」ではオバマ大統領、「経済」では自動車産業、「エンターテイメント」ではマイケル・ジャクソン、「スポーツ」ではボルトと多くの分野で、「政権交代」が行われた。

 最後に、今年を一言で現せば「交代」である。まさに、そのものズバリであろう。日本でも世界でも様々な内容が変わった。「交代」は期待と不安の交錯である。期待が大きければ、不安や失望も大きくなる。不安は将来に対する内容である。「交代」はよくなる可能性もあるが、いっそうの悪化の可能性も捨てきれない。その道筋を示せば、各人が予想できる。その予想の結果はすべてが期待のままであるとは限らない。政治の世界でも混乱が少なくないし、日本経済では、すぐに日本航空の再建問題が待ったなしの状態になっている。世界でも、日本ではわからない、アフガニスタンやイスラムの世界の大きなウネリが出てくる。オバマ政権になってイラクの撤退が公約であったが、それでイスラム社会との関係がよくなったものではない。テロが無くなる日は遠いのだ。

 来年は、逆に「交錯」の年になるのではないか。このことは、来年の年初放談までに、少し勉強したい。

 今年もいろいろとお世話になりました。皆様のご指導とお引き立てにより、何とかこの活動を続けています。来年もよろしくお願いいたします。

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天皇陛下と政治に関する事項

天皇陛下と政治に関する事項

 しばらく、間があいてしまった。
 少し疲れたというか、何となく様々なことをしなければならず、まさに「先生でも走る」季節である。
 我々小物は走るだけでは飽きたらず、飛び回ったり、地中に潜ったり、夜討ち朝駆けと大変である。

 12月4日に、鳩山政権初の国会が閉会した。
 それまでに、鳩山政権の内政の政策と財政の問題に関して記載したと思う。
 本来ならば、次は外交の問題だ。日本が一つの国家として存在するに当たり、当然に外交は必要なファクターである。
 外交には二種類の内容がある。
 単純に平時と戦時である。通常外交と安全保障と表現した方がわかりやすいかもしれない。
 しかし、このようにしている間も、「内戦」という戦争形態を含め、戦死者がでていないことはない。
 1945年以降、戦争と無縁なのは日本だけかもしれない。逆に言えば、第二次世界大戦及び太平洋戦争終戦後、地球上から専科が消えたことは一度もない。
 日本は、そのようななかで貿易立国としてエネルギーと食料の多くを海外からの輸入に頼っている。
 この状態での外交政策は、貿易相手国との間の平時外交と、
通過地域や隣国などで戦争が発生している場合の、戦時外交を使い分けなければならない。
 平和憲法とか話し合いとか、机上の空論ではなく、実際に硝煙の臭いと銃弾が飛び交う横を安全に通り抜けることを考えなければならないのだ。

 そのような状態の中で、日本は日米関係、日中関係という二つの問題を抱えて迷走している。
 特に、安全保障という観点からみた、普天間問題は、迷走を通り越して、不安と苦笑しか出てこない。
 欧米人がもっとも嫌う日本人の癖がでているようである。
 玉虫色の解答で、結論を出すことができない。
 日本人がもっとも得意であり、そして欧米人からもっとも嫌われる方法。
 「いいとこ取り」は「悪いところが残る結末」を迎えると言うことをわかっていない。
 民主党は、後は責任転嫁であろう。
 自民党が変な合意をしたなど、自分の決断できない状態を棚に上げて、第三者を批判する。
 国家対国家の交渉で、片方の国家の内輪もめを露呈するほど恥ずかしいことはない。
 それを「恥ずかしいと思わない」性向が日本人にはあるらしい。
 広い意味で、国際社会慣れしていない、ムラ社会の延長線上を脱していない。

 さて、外交に関して、普天間の問題が一段落したらまとめようと思って、間があいてしまった。
 これは15日、日米関係に大きな亀裂を残し、将来に禍根を残す可能性を残す選択をした。
 鳩山政権は日米関係と社会民主党を天秤に掛けて、結論を出さずに先延ばしにした。
 このことは、もう少し後からまとめて書いてみたい。

 そうこうしている間に、もっと大きな問題が出てきた。

 「天皇陛下の政治利用」である。

 事の顛末は、

 11月26日に、中国習近平国家副主席が12月14・15日来日の際の天皇陛下との会見希望を外務省が申し込む。
 これに対して、宮内庁は宮内庁の内規であり2004年に天皇陛下が体調を崩されてきた後に守り続けてきている
1ヶ月前までの申し込みがない場合の会見を断るとした、1ヶ月ルールによって、会見を断る。

 12月4日に、平野官房長官が宮内庁に出向き、「中国は重要な国であるから会見をお願いしたい」と申し入れる。
 これに対しても宮内庁は1ヶ月ルールを元に断る。

 12月11日に、平野官房長官が再度命令。宮内庁は天皇陛下の健康状態を留意した上で「特例として」会見を行う方針とする。
 この決定に際し、羽毛田宮内庁長官は「天皇陛下の政治利用という重大な懸念が生じる」と会見し、世に問題を提起する。

 12月13日、渡辺周総務副大臣はテレビ朝日の番組内で
「今からでも会見を中止すべき。中止できない場合は特例を今回1回にすべき」
と、鳩山内閣ないで初めてこの問題に対して見解を示す。

 12月14日、これより前、中国韓国を歴訪し、胡錦濤国家主席に対して140人の民主党随行議員一人一人と握手、
写真撮影を行い、また、韓国で李明博大統領との会見で天皇陛下の訪韓を安易に約束してきた小沢一郎幹事長が記者会見。

「天皇の国事行為は内閣の助言と承認で行うものだから、官僚が決めた1ヶ月ルールに縛られる必要はない」

「天皇の体調が悪いならばほかの優先度の低い国事行為を止めるべき」

「天皇陛下本人ならば、会いましょうと言ったはずだ」

「長官は辞表を出してから言うべき」
 という。

 これに対して羽毛田宮内庁長官は、「天皇陛下の政治利用が内容につとめるのが私の役回りで、辞めるつもりはない」と応酬。

12月15日、鳩山首相は習近平国家副主席が来ているときにこのような騒動で残念、と不快感を示す。

 そのような中24分間、天皇陛下と習近平国家副主席との会見が行われる。

 さて、この顛末でまず、私の結論を申し上げよう。
 「言語道断」の一言だ。
 もちろん民主党政権と小沢一郎幹事長に対してだ。
 そして、同時に羽毛田信吾宮内庁長官に対して、その役割を公言した上で、現在の官僚不信の潮流の中、
役目を忠実にこなし、そして不正に対して問題を提起する姿勢に、感服する。
 官僚と一口に言っても、このようなまじめな、そして国家に忠実な人がいるということに、誇りを持つ感覚だ。
 民主党・自民党というのではない。
 宮内庁という役所の特殊性から、天皇陛下に忠実に、曲がったことに対しては意見を言う姿勢は、
国民の多くが好感を持てるのではないだろうか。

 一方で、行政府の長である大臣。このことに関してコメントを出したのは亀井静香金融担当大臣しかいない。
 あとは、まともなコメントを出さない。
 もちろん、小沢一郎を支持もできないし、一方で、小沢を否定もできない。
 全く政治家としての主体性がない。この件に関するコメントを出せない人々を「大臣」と仰いでいる日本国民が、
他人事のようにかわいそうになってくる。
 これでは、小沢ファシズムを止められる人がいない。
 
 さて、例によってこの結論に至る問題点を指摘してみよう。

 第一に、天皇陛下の政治利用とは何か。
 歴史的に見て、小沢一郎は何が間違えているのかを検証する。

 第二に、今回の特例会見がもたらす日本の不利益は何か。
 具体的には、中国だけ特例を認めてよいのか。
 では、たとえば明日、ロシアの大統領が面会を求めてきたら、どのように対処するのか。
 過去に1ヶ月ルールによって断った諸外国にたいしてどのように申し開きをするのか。
 予想してみる。

 第三に、民主党政権の危険性。
 先に挙げたように韓国でも天皇陛下訪韓を話題にしている。
 また、それは民主党幹事長でしかなく、内閣の構成員ではない。
 実質的支配者という構造と、天皇陛下を利用するしたたかさの裏を探ってみる。

 第一に天皇陛下の政治利用についてだ。

 天皇陛下とその権威を政治的に利用してはならない。
 歴史の中において、元々はシャーマニズム的な指導者が民を治めていた。
 その神の権威から、徐々に現世の力が強い者が為政者になった。
 為政者は徐々に世襲を望みそのためにやはりシャーマニズム的な神権授受を理論のより所とした。
 封建制そして絶対君主制は、語弊はあるかもしれないがそのような構造でできている。
 これは、ある意味すべての人類がそうでないと気づきながらも、現在王制が残っている国は、大なり小なりその理論の中にある。

 誤解があると困るので、あえて付け加えると、私は、この神権授受説またはそのほかの王権の起源説に関し、否定するつもりもない。 近代民主主義国家において「前近代的」という批判をする人もいるかもしれないが、私はそうは思わない。
 まず、近代社会の大きな流れの中で、もっとも早く産業革命を進めたイギリスは、現在も王制が残り、立憲君主制が政治の基本だ。
 王制や帝政が前近代的と批判するのは、その本質と政治の基本を理解できない人々の言うことだ。
 とはいえ、実際に神権があるとも思っていない。
 残念ながら戦後教育は天皇陛下を「現人神」とは教えていないし、また、宗教的信仰心も少ない。
 しかし、政治は人が人を治める行為であり、その中に人間心理のより所が必要な場合、
王制は間違いなくプラスに作用し、国民全体の意志の一致を見ることができる。
 そもそも、日本の戦後とイラクの現在と、なぜここまで違うのか。
 イラクには地下資源もあるのだ。
 年代や地域的な要因、部族・民族の関係。様々な要因があるが、戦後の混乱期に、天皇という心のより所があった国と、
宗教的または政治指導的カリスマであったフセインを失い、
新たなカリスマ探しをしなければならなかったイラクという差があったことも否めない。
 日本の現在の復興に、天皇陛下の存在そのものが、当時の日本人の心の中にあったという事だ。
 そのことが、「日本国民統合の象徴」という憲法の第一条に現れている。
 もちろん、戦後教育を受けた日本人にとって、当時の日本人と同じような意味合いを理解することは不可能なのかもしれない。
 しかし、憲法第1条に日本の象徴というだけでなく、国民統合の象徴と復唱してかかれているのは、
特別な意味合いがあると考えるべきだ。

 さて、話がかなりそれたが、天皇陛下の政治利用に戻ろう。
 今までの論理から、天皇陛下が、文献上、神武天皇以来現在まで2600年以上継続しているのは、
 その歴史の期間日本国民が、日本と名乗る前から、シャーマニズム的もしくはそのほかの意味合いを含め、その権威を維持していた。
 中には混乱期もあったり、直系でなくなったり、南北朝に分かれたりと、様々な歴史がある。
 しかし、少なくとも有史以来、血筋が途絶えてはいない。その権威の利用のために、降嫁や外戚などもあったが、
一応血筋は残っている。少なくともこれだけ残り、継続している家柄で、国家において特別な立場にいる家柄は世界にはない。

 これは、天皇家そのものが偉大であるとか、天皇家が神の家柄だから護られているという話も出てくる。
 しかし、現実的に言えば、それだけ、日本人は長期間にわたり天皇家の権威を認めてきているのだ。
 それは、国民もしくは時の為政者に、その権威、権能、存在意義を必要とされた、
消極的に言えば、邪魔と思われなかったのである。

 歴史を見ればわかるとおり、第日本帝国憲法ができるまでの期間、その多くの為政者の役職は、天皇陛下の役職である。
 摂関時代の摂政・関白も、武家社会の長将軍も、征夷大将軍が正式名称だ。
 明治になっても、しばらくは律令官制を使用していたのである。
 考えようによっては、現在の内閣総理大臣も天皇陛下に任命されるのだし、国会の召集も解散も天皇の勅語によって行われる。

 さて、その権限、権能の起源は、多くの国民が天皇陛下を尊重するという内心にある。
 逆に言えば、天皇陛下は、日本国民すべての人の内心に、規律として存在すると言ってもよいのかもしれない。
 語弊があると問題なので、その内心での存在は天皇陛下やその関係者が望んで行うものではなく、
日本国民が共通に持つ価値観の中に存在するのであろう。

 では、その天皇陛下が政治的な活動をした場合は、どのようになるのか。
 それは、多分内心に従い、もしくは内心の価値観を強く否定する一群として、多くの人に影響を与えることになるであろう。
 それは、従うことも、反発することも含め、影響は大きく、無関心とする日本国民がもっとも少数派になる。
 その影響力は、現在の政治家のそれとは比較にならない。
 理屈や理論で理解したイデオロギーと、少なくとも有史以来千年を越える伝統において
「魂に刻みつけられた」価値観とは比較そのものができないであろう。
 当然に、是非・肯定否定は別にして「天皇陛下」に関する影響力は、日本国民にとって多大な者があると言わざるを得ない。

 私自身、個人の意見として、日本国憲法の規定を無視すれば、天皇陛下ご自身が政治に参加することは禁忌であるとは思わない。
 多分、下手な政治家が独裁的に政治をするよりも、よいのではないかという期待さえ持つ。
 とくに、一人の個人としてご意見を申されるのはおかしいことではない。
 しかし、上記のように、その影響力を考えれば、軽々に個人的な意見を申される事もできない。
 ましてや、その影響力を知る諸外国からみれば、天皇陛下のお言葉は日本政府が肯定否定するのは別にして、
重い意味を持つ事が予想され、同時に、その言動の与える日本国民に対する影響力を無視することはできない。
 逆な見方をすれば、当然に天皇陛下は、よほどのことがない限り、誤解を与える表現をしてはならない。
 同時に、個人攻撃や、政治に関する内容の発言に慎重にならざるを得ない。
 天皇陛下個人の考え方を無視しながら、その影響力の大きさから政治的な発言を控えていただくしかない。

 実際に、歴史に即して考えてみよう。
 明治憲法下の日本は、主権者が天皇陛下一人であった。
 内閣などもすべて決定ではない。
 逆に言えば、天皇陛下の言葉は、その時点で拘束力を持った。
 大政奉還後明治維新や西南戦争などは、すべて明治天皇の決断によって行われた。
 今、NHKのドラマで話題になっている日露戦争までは、明治天皇の英断によって決行された。
 それは、戦争ばかりではない、武家社会から国会設置間での改革、殖産興業と商業の自由化による富国政策、
江戸時代の不平等条約から脱却し、日英同盟まで実現、
国債を発行しての日露戦争戦費調達による政治・経済における外交、大津事件など外国の圧力に屈せず法を守った司法、
郵便(逓信)の確立による情報改革、そして陸海軍の強兵政策などがそれだ。
 すべてがすべて、天皇陛下が起草立案したのではない。
 しかし、富国強兵や法律の遵守など、大前提となる基本政策を「詔(みことのり)」として出してきたのだ。
 天皇陛下が政治に参加したとしても、それが即問題になることではないことの例だ。

 逆に、これの取り扱いを間違うと、大きな問題になる。
 戦前の軍縮条約を巡る統帥権干犯問題は、まさにその最たる例だ。統帥権干犯とは、軍隊の統帥権は天皇陛下に属する。
 これを、天皇陛下の詔勅無く、内閣が勝手に軍縮条約に合意するのは不謹慎だ、ということだ。
 この統帥権干犯問題は、軍部が声を大きくして内閣を責め立てた。
 この議論に天皇陛下本人の意思は介在していない。
 しかし、今回の小沢会見と同様、軍部が「天皇陛下の意志を推測」して発言した。
 この事件を元に、軍縮条約派と、軍拡派に分裂し、軍拡派が民間人出身の内閣総理大臣を殺害する事件が発生する。
 これを5・15事件という。
 これがクーデターと言われないのは、主権者が変わっていないからである。
 犬飼毅内閣総理大臣は大日本帝国憲法下では内閣総理大臣でしかなく、主権者は天皇陛下である。
 よって、単に事件でしかなく、クーデターとは言われない。
 しかし、これより、軍人が内閣総理大臣になることが多くなり、軍部の派閥争いがそのまま政争につながることになる。

 5・15事件以降の日本がどのようになったのかは、誰でもが知っている。
 結果としての是非は別にして、日本国土を焦土と化した戦争を止める力はなくなったのだ。
 このことは、軍部の「裸の王様」ぶりを露呈する。
 同時に、天皇陛下そのものの偶像化とそれにあわせた崇拝強制が行われる。
 天皇陛下に対する偶像かと崇拝の是非ではなく、宗教的強制崇拝と、行きすぎた取り締まりの強化は、
冷静な判断力を失わせ、情報を排除し、そして催眠的過激行動に動く可能性が強くなる。
 カルト宗教団体のテロリズム的無差別殺人や、終末論的集団自殺などはすべてそれである。
 これは最近では「カルト宗教」という少数集団であり、テロリズムも外国の事と思われがちであるが、
実際日本赤軍事件やオウム真理教事件など身近な刑事事件として発生しているのだ。

 現在の天皇陛下の政治利用に、そこまでの宗教制があるとは思わない。
 しかし、実際、明治維新の時の明治天皇も同じだ。
 不謹慎かもしれないが、明治天皇にそこまでの宗教制がなかったから、
「錦の御旗」に対して、白虎隊をはじめとする会津若松城はあそこまで抵抗し戦争したのだ。
 この政治利用と宗教的カリスマは、時間を追うごとに高まりを見せ、そして極端になってゆく性格があるのだ。

 当然に、そのようなことにならないように、天皇陛下及び皇室の各殿下・妃殿下には
「言いたいことが言えない」「自分の希望を自制しなければならない」という多大な負担と犠牲を強いながら、
日本国と国民統合の象徴としてご公務についていただいている。
 逆に、それに反し、自己の恣意的な感覚によって、天皇陛下の行為や言行を政治利用することは絶対に禁じられており、
またそれは、主権者としての国民の総意である。

 では、今回の事件において何が政治利用であったのか。
 そもそも、政治利用とは、政治的に天皇陛下を利用することである。
 これは、特定な考え方、特定な宗教(一部神道をのぞく)、
特定なイデオロギー、特定な政党、特定な国、特定な個人への偏った言動を天皇陛下にさせると言うことだ。
 天皇陛下は「言論の自由」「思想の自由」「宗教の自由」を基本的人権として保証されている日本国民の象徴である以上、
その基本的人権の自由を阻害する行為をしてはならない。

 例として、今回のことを挙げれば、中国だけを特別扱いし、もしくは民主党政権の時だけルールを変えるというのでは、
中国、もしくは民主党という特定の国、もしくは特定の政党、もしくはその両者の底流にある特定のイデオロギーのみを
「特例」とする事になる。
 それは、併せて言えば、ほかの思想を持つ多くの国民の「思想」「言論」「宗教」などの自由、
つまり基本的人権を阻害する行為になるのだ。

 このような理由から、
天皇陛下の政治利用は、歴史的にも憲法という考え方からしても最もつつしまなければならないことであるといわざるを得ない。
 そして、今回民主党政権の行った行為は、明らかに天皇陛下の政治利用であり、
同時にそれは日本国民の一部もしくは多くの「基本的人権」や「自由」を阻害する行為を天皇陛下を
「利用して」行ったということを自覚すべきではないだろうか。

 第二に、今回の特例会見がもたらす日本の不利益は何か。
 すでに、この理由は説明した。まず日本の不利益は、日本国民が自らの基本的人権を踏みにじられたということである。
 それは、日本国民として多大な不利益であると同時に、小沢という人物の独裁という限りなく大きな弊害を生むことになるであろう。
 もうひとつは、国際社会の中において、日本国そのものがどの国とも仲良く行うという原則が崩されることである。
 私は「Will」の1月号の中の論文で「小沢一郎は外交音痴である」という意味のことを記載している。
 海外で仕事をしあ人であるならば、皆実感していることであると思うが、
日本は日本国という政府と天皇陛下が各国と公平に付き合うことによって、非常に多くの国の政府と関係を良好に保っている。

 中国などは旧ソ連の各国やインドの人の入国を喜ばない。
 このことは空港のイミグレーションで時間がかかるという非常に単純な内容でいやがらせが行われる。
 また、菅ノックなどは、いまだに北朝鮮と戦争中ということから、
インドネシアや中国など、北朝鮮と国交のある国に対してはビザがなければ入国ができない。
 しかし、日本はいずれもそのようなことはないのである。
 これも、戦後55年体制と呼ばれる日本政治の公平な外交のたまっものであり、同時に天皇陛下の公平な対応による効果であるといえる。

 今回の、措置により「中国を快く思っていない」国があるとすると、「日本は中国だけを特別扱いした」ということになる。
 当然に、日本を敵対視ではいかないまでも、あまりよい関係を継続することを拒むようになる。
 現在、げんじてんのかちかんでは、中国と関係を良好にすることはよいのかもしれない。
 しかし将来何があるかは全く予想がつかない。
 中国が小国になる可能性もあるし、分裂する可能性もある。
 中国がほかの国、日本と関係の良い国と交戦状態になる可能性もすべて否定はできないのだ。
 そのような状態の中で、「公平さを欠いたた外交」がもたらす損失は計り知れない。
 ましてや、日本が貿易立国であり、また、資源や食糧の多くを海外からの輸入に頼っている以上、
そしてその輸入が海上輸送で多くの国の沿岸や領海、経済水域を通り、
そして、公海上を多くの国によって平和に保ってもらわなければ、それらの国家の存立基盤そのものが崩れることになる。
 その場合、日本の国民の生活が、今回の行為だけで崩れ去ってしまう可能性がある。
 具体的にいえば、極端な例で、石油が全く入らなくなり、食糧も輸入食材がなくなるということもありうるのである。

 今回の天皇陛下の特例会見で、それを支持しまた小沢一郎の会見内容を支持する人は、これらの危険に対してどのような対処を行うのか。
 私はこの文書およびほかの文書などでも、つねづね主張しているが、民主党は、将来の日本の形を全く新していない。
 その場限りで権力とその権力に群がる人や金をもてあそんでいるにすぎない。
 それでこの国が保てるのか。国の将来像に合わせて、これらのリスクに対して説明をしなければならないのではないか。

 第三に、民主党政権の危険性だ。
 すでに鳩山政権に関して黄色信号がともっている。
 俗に「3K」といわれているが、基地問題、経済対策そして献金問題だ。
 これらが足を引っ張り、鳩山政権はあまり長続きはしないと言われている。
 一方、実質は小沢一郎の傀儡政権であることもすでに国民のしれるところだ。
 上記のように、今回の問題で閣僚がだれ一人として声を上げない。
 鳩山政権の閣僚は、すべてが今回の特例会見を「当然の帰結」と考えているのであろうか。
 もしも、そうであれば、民主党が政権党である間、日本は絶望的な国際関係の中を生きてゆかなければならなくなるであろう。
 私は常々「民主党は言論統制によって政権を執った政党だ」と論評している。
 いまは「政権を維持している」に変えなければならないかもしれない。
 今回の件ではっきりしたのは、その「言論統制の主体は小沢一郎だ」ということである。
 民主党政権の危険は、この傀儡政権構造と小沢ファシズムにあるといって過言ではない。
 そして、その精査く決定プロセスが、一部のパフォーマンスをのぞき、すべて密室で行われていることだ。
 密室の決定と言論統制が一人の人物で一致する。そこに権限が集中すれば、これはファシズム的独裁が発生する。
 そして、直接の批判を受けないように傀儡政権を打ち立て、常に逃げ場を確保する。
 このやり方は、もっとも批判を受ける政治手法であろう。

 その人物である小沢一郎が天皇陛下を「自分の手駒のように」扱いだした。
 繰り返しになるかもしれないが、小沢の会見にもあるとおりに、天皇の内心を推測で発言し、反論を封じる。
 また、国事行為や皇室行事の優劣を、会見よりも低いと見なす内容は、許されるものではない。
 戦前ならば「非国民」として処罰されているであろう。これら会見内容は、まさに巨大権力を笠に着る傀儡政権正当化の手法にほかならない。

 このことから考えられるのは、民主党政権は鳩山首相でない首相でも、
天皇の権威を利用することによって事故の正当化を行う可能性がある事を示唆する。
 内閣の助言があればそれでよいのだ。
 たとえば「国会はもう少し長くした方がよいと天皇も言うはずだ」
「自民党政権はよくないと天皇陛下も言うはずだ」などと「内閣の助言」で会見される可能性がある。
 統帥権干犯問題と同じ事が、現代に起きる可能性がある。
 そして、民主党小沢一郎幹事長はそれを行う可能性を示唆したと見るべきであろう。
 自己都合で「内規」「ルール」「慣習」を破ってもかまわないというのであれば、政治献金問題も何もない。
 思い起こせば「微罪で大騒ぎ」などとして、西松建設献金問題を切り抜けた小沢の反省が全くないことがよくわかる。

 ヒトラーもはじめは大統領の権威を笠に着て様々な政策を行った。
 大統領を兼務し、授権法が成立するまでは、一応言論統制と、国会審議そして大統領例による緊急施行で切り抜けた。
 そこにルールなどはなく、ヒトラーという後の独裁者の意志だけで行われていた。

 戦前の日本も同じだ。
 軍縮条約の締結により加藤友三郎が批判された後、軍部が統帥権干犯問題を持ち出した。
 統帥権干犯とは、軍隊は当時の日本の憲法では、天皇陛下直属であり、軍備に関する内容もその天皇陛下の統帥権の範疇であるというもの。
 にもかかわらず、天皇陛下の意志を確認せず軍縮条約に調印したのは天皇陛下の大権を汚すものだということだ。
 この議論に実際の天皇陛下の意志は示されていない。今回の小沢一郎のように、在野の諸氏が勝手に天皇陛下の内心を推測し、議論をしていた。
 このことから5・15事件で犬飼毅内閣総理大臣が暗殺され、軍人が内閣総理大臣を兼務するようになる。
 徐々に軍事政権になり戦争に突入する歴史だ。

 科学の進歩などにより、その背景はかなり異なるが、政治は人がやることだ。
 結果として、政治家の発言内容や人間の決断がすべてを決済する。
 少し話はそれるが、小説家で「失楽園」で有名(私はそれ以外知らないのだが)な渡辺淳一氏は、
「科学には継続性があるが恋愛には継続性がない」という。
 科学には、前の科学者が失敗した内容を踏襲する事ができるし、
その結果が公表されれば時間や空間を越えて同じ失敗を同じように繰り返すことはない。
 しかし、恋愛はそんなものではないという。
 お父さんが失恋したから、息子が同じタイプの人を好きになって同じ失敗を繰り返さないという事はないというのだ。
 「だからおもしろい」と氏はいう。
 これは、数年前今は別なことで話題になっている日本航空の機内誌で読んだ話だ。
 とってあるわけではないのでうろ覚えもよいところだ。
 詳細な部分の過ちは許していただきたい。
 私の記憶に関する謝罪はとにかく、政治も同じなのかもしれない。
 そうならないように、政治や歴史を「科学」としてとらえるようにしている。
 大学で政治学や歴史学が学部学科で存在するのは、そういうことであろう。
 逆に言えば、それらをしっかりと学んでいなければ、人間は恋愛で失敗するように同じ失敗をすると言うことだ。

 さて、戦争になるのは、上記の繰り返しになるかもしれないが、大権を笠に着た政権と、言論統制、そして権力の集中だ。
 それら国内の矛盾がたまったところで、排外理論と責任転嫁が発生し、戦争が発生する。
 そして、それらの決定プロセスは、大概の場合密室でろくな議論もなく決定している。
 逆に、日本の場合だけかもしれないが、広く議論を行った日清・日露戦争に関しては、周到な準備も相まって幸い勝利している。

 ここで「大権を笠に着た政権」つまり、現在の民主党は、今まで「民意」という不確定な大権をうまく誘導していた。
 しかし、鳩山政権の危機「3K」により、そのより所となる民意も支持率の定価とともに使えなくなってきた。
 鳩山献金問題などは、説明責任を果たしていないとする「民意」が80%を越えているのだ。
 それでも説明責任を全うしない民主党政権は、すでに民意から切り離された存在と言える。
 そこで、天皇陛下の意志が出てくる。
 上記の統帥権干犯問題のごとき、陛下の意志を推測で口にするのは、問題視しないほうがおかしい。
 事に、統帥権干犯問題の場合も、一足飛びに天皇陛下に言ったのではなく、日本海海戦の功労者、東郷平八郎元帥をまず担ぎ出した。
 今回も平野官房長官が鳩山・中国・小沢などを繰り出して宮内庁を恫喝したのと同じだ。

 密室の決定や傀儡政権にかんしては、すでに何度も語ってきているとおりであるし、言論統制は様々なところで出てくる。
 これだけそろっても「憲法9条があるから戦争しない」といえるのか。
 戦闘行為はないかもしれないが、諸外国と険悪な状態になることは十分に予想され、また、相手に戦闘行為を受けないという保証もどこにもないのだ。
 旧日本海軍連合艦隊司令長官山本五十六は、適度な軍事と外交努力により日本の安全を守るべきとしていた。
 国内機運がそのような考え方を許さなかったために、
乾坤一擲の真珠湾奇襲になるのであるが、最前線の連合艦隊司令長官が戦争回避派であった事実は、歴史家の知るところである。
 今の民主党の外交や安全保障政策にここまでの見識があるのか。
 アメリカの意志を袖にしながら、日米安保条約の上にあぐらをかいているのではないか。
 それらを小沢ファシズムの傀儡政権に秘めているのではないだろうか。

 天皇の国事行為も、中国が大事という判断も、その決定プロセスを明らかにし、そして議論を行うべきであるが、
今回の小沢記者会見はそのような雰囲気ではなく、完全な威圧でしかない。
 大権を扱い、国の大事を判断する政治家のそれとは大きく違う。
 そして、その小沢に身内でいさめる人がいない現状は、旧ドイツ第三帝国のナチス党や、旧第日本帝国陸軍の派閥争いのそれに近いものを感じる。
 そして、それらの中に、上記に挙げた山本五十六のような先見性を持った国家の大計を感じることはできない。

 話がそれてしまうが、民主党政権の危険性は、これら独裁と外交政策における孤立化にほかならない。
 このことはすでに多くの場所で主張してきているが、
一方で、今回はそのことを天皇陛下を使って正当化する行為ということなのであるから、より一層許しがたい行為といえる。

 最後に、この問題に関し、国民もマスコミも、おおむね民主党の対応を非難している。
 しかし、それらは感情的なものばかりであり、
このような日本国の存立基盤と外交、そしてそれに伴う日本の将来の姿を現した「将来のリスク」という観点から論理的に行ったものは少ない。

 批判する側も、もう少し理論的に、そして理性的に感情論でなく批判をしなければならない大きな問題ではないだろうか。
 当然に、感情論的な非難が多いから「そこまで言わなくてもよいのではないか」という論調が出てきてしまうのだ。
 日本人の「いい加減さ」一昔前の流行語では「ファジー」と言っていたが、その性格が最も悪いほうに向かった例ではないか。

 いずれにせよ、
民主党政権はこのことを放置せず、しっかりとした国民への説明をし、悪いことがある場合は、当然に責任を果たすべきではないだろうか。

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民主党政権の財源確保、事業仕分けスタート

民主党政権の財源確保、事業仕分けスタート

 11月11日、奇しくも1が並んだ日に、民主党政権の一つの「生命線」である事業仕分けがすたーとした。新聞各紙が報道しているが、その見出しは「10事業500億円削減」(12日読売新聞)などである。二日目、三日目も同じであるが、結局序盤で概算要求通りの結論がでたのは1つしかなかった。
 私は、前回の文書で、民主党政権の大きな政府が、国家社会主義であるという事を書いた。「Will」という雑誌、たぶん1月号には、小沢一郎の目指すものとドイツ第三帝国の亡国の歴史の一致について記載してある。掲載の案内は確実になったところで記載しよう。
 国家社会主義は、それは国の方針であるからその内容の是非や個人の主義はどうでもよいが、当然にメリットとデメリットが存在する。メリットは、国民にとって何もしないでも生活できるというものだ。国によるバラマキで、生活することができる。一方で、税金で配布した中から税収を得なければならないという財源問題。民間で無責任状態ができることによる国家への権限集中。これらがデメリットだ。ナチスドイツは、このデメリットを解消するために東方への領土拡張を進めた。実際国外からの歳入がなければ、財政破綻は見えてくる。当然に、貿易の活性化などがあればよい。石油などの地下資源や、その国でしかとれない農産物のような産品での貿易が成立すれば、難しくない話だ。ドイツは、残念ながらそれらはなかった。当時の世界経済はブロック経済で、各国が植民地化または隷属国化した国を使っての経済であった。世界情勢から言えば、当然に、いつか世界のどこかで権益がバッティングする状況になり、戦争になったことが予想される。その中で、国家社会主義化し国内矛盾が出てきた「新興先進国」である日本・ドイツ・イタリアが戦争を始めた。新興先進国であったために、国内の急激な変化において様々な矛盾ができた。それを外に持って行かなければ、国内矛盾で破綻がくる。本来の先進国は植民地などにその矛盾を押しつけたが、新興先進国ではそれができなかった。
 さて、ドイツ第三帝国が戦争に向かったいきさつは、歴史が物語っている。歴史はそこから教訓を学ばなければならない。上記のいきさつから見えるのは「国家社会主義は財源が問題」ということだ。そして、今民主党政権はその問題に直面しているということである。
 鳩山民主党の公約は、先にも挙げたが、「ムダ使いを減らせば財源は問題がない」というもの。要するに、もともと大きな政府であった日本が、小さな政府にしなければならなかったのは、ムダ使いが多いからだ。というのが、民主党の論理だ。そのことから行われたのが事業仕分け会議である。鳩山首相にして、この政権の最も重要な部分の一つといわしめたのも、結局は民主党の根本原理の正否がかかっているからにほかならない。単純に言えば、「大きな政府実現」と「自民党と官僚はムダばかり」という二つの政治の柱の正否がここにかかっているといえる。
 さて、その事業仕訳であるが、賛否両論ある。今まで密室で行っていた予算折衝がみれてよい、今までの事業のムダが見えてよいというものもある。一方で「魔女裁判だ」「いじめだ」という批判も少なくない。
 私が思うところ、「国民不在」「利用者不在」の会議であると思われる。
 まず形式は、政治家数名と有識者という一般人数名が、担当の財団や独立法人、省庁官僚を呼びだして質問を行い、多数決で事業仕訳すると言うものだ。
 この仕分け方法に関する問題点をいくつか考えてみよう。なお、この中には、民主党議員や一部の民間仕分け人の言葉遣いや態度はのぞくものとする。疑似の進め方やそれら態度に関することを言い始めると、枚挙に暇がないだけでなく、個人攻撃になるからだ。
 さて、第一に問題点は上記の通り、最終ユーザーの意見が反映されていないということだ。結局、官僚と議員の従来の概算要求折衝に幾分民間人を入れて公開しただけである。
 第二に、その民間仕分け人の選抜基準だ。なぜこのようなメンバーになったのか。なぜ、モルガンスタンレーの外国人が入っているのか。明確な説明は存在しないし、説明があっても納得がゆくものになる期待は薄い。
 第三に、多数決だ。多数決は民主主義の原理原則かもしれない。「廃止」「存続」のような二元論的な結論ならば、それもよいのかもしれない。しかし予算削減や事業見直しなど、多種多様な結論があるときに、多数決はいかがなものであろうか。最高裁判所でも、少数意見の公表はあるのだ。
 第四に、その結論に対する判断基準だ。多数決で多様な判断結果があるのに関わらず、その判断基準は曖昧だ。基準のない審査は、恣意的に陥りやすい。けっか「人治国家」になりやすい一面を否定できない。
 第五に、その法的な性格だ。
 この「行政刷新会議」は、あくまでも予算策定のための参考意見であり、この後「政治的な決断」というのがあるらしい。単純に考えて、「では何のためにやるのか」というのが今一つ判然としないのだ。その上、この会議そのものは当然に「国会の承認を得てできた会議体」ではない。なぜ、この「非公式会議」が「国全体の予算について」会議しているのか、その法的性格が全く分からない。もっと言えば、前原のタスクフォースと全く変わらない。成果に関する責任がないのだ。
 
  概説的には、上記五点だ。いつもは三点でまとめているが、さすがに鳩山政権の問題点は、三点くらいでまとまらない。日本が法治国家あると思っている人にとっては、耐えられないいい加減さである。

  私は、この臨時国会で、鳩山政権の基本姿勢批判の三部作ぜ、前回の「国家社会主義」今回の「財政不安」そして次回「不審外交」で書こうと思っている。なので、今回の五点であまり長々と行うつもりはない。今回はいつもより詳しさがないかもしれないが、御殿に関して簡単にその問題点を解説してみたい。そのうえで、本来「国家が行う事業」に関する理想を考えてみたい。
 
  まず第一の問題点「最終ユーザーの意見が反映されていない」である。そおそも「国家の予算は国民のために使われるべきもの」である。その国家予算の使用方法に関して、その最終ユーザーの国民は仕分け会議での意見がいえない状態である。「公開している」といえどもそれは単に「傍聴者」でしかない。国の事業は、その国の事業を利用する国民がいることを考えなければならない。たとえば「農道事業が道路公団と二重で無駄」というが、実際、農道を必要とする人がいるのだ。国道は、人の流れを優先するものであるのに対し、農道は農林水産業の人員や物資を重点に道路を考えるということだ。同じものでも目的が違うことによって、管轄が異なることは、一般企業で少なくない。たとえばマイカルの店舗で、ティッシュペーパーを売る。「食品売り場の雑貨コーナー」「十セかつ品の雑貨コーナー」「薬局」様々なところで売っている。店頭で何かの宣伝個配っている場合もある。店を出て駅前ではパチンコ屋が配って言うのは日常茶飯事だ。それでも各コーナーで売っている。これは「顧客の利便性」を考えてのことであり、同じ商品で各売り場にあって「在庫が無駄」ということにはならない。ましてや「外でパチンコ屋が配っているから売ること自体無駄」とはならないのだ。
  国家事業の無駄は「設計費など各項目の中に含まれている無駄」を見つけることであり、いきなり、農業従事者でもない人が、農業のことも知らず「農道事業は無駄」と廃止することではないはずだ。そこには農民の物資の移動や、農具の輸送ということが全く考えられていない。逆に農業のことが分からない人が判断するということになれば、国土交通省と農林水産省の関係も同じで老。国土交通省は農業の利便性や一次産業の保護に関する内容まで検討して国道の計画を行うのではないのだ。道路は、日本の物流の根幹であり「人」「物」「金」を運ぶ役目がある。その運ぶものによって管轄が異なってしかるべきと思う。個別に事業に含まれる無駄(調整費や設計費・調査委費)などの詳細を行うのが刻印の願いではないのか。
  そもそも、これら公共事業の「無駄」は、公共事業における入札の不正などの事件によって提起された問題であり、その事業を象徴をまたがったことによって行ったものではないのである。農道に関しては安倍内閣時の緑資源財団事件などもあるが、しかし、それは「不正」「犯罪」であって事業そのものの問題ではない。
  文部科学省の各事業や宇宙開発、スーパーコンピューターの研究費などもそうだ。私自身分からないこともあるが、実際「世界における日進月歩の技術の世界」において「技術貿易立国」日本が、技術力の探究を失ってしまえば、日本の経済はどのようになるのか。基本的に、民主党の事業仕分けからは「日本をどのような国にするのか」という政治家として最も必要な信念や理念が全く伝わってこないのだ。
  国民は政治の理念や、政治による将来の生活の安定もしくは幸福を追求している。幸福追求県は憲法に規定された権利である。その幸福が、経済・技術などに支えられているのが日本経済の内容であり、同時に、資源のない日本、食糧自給率のない日本にとっては重要のファクターであるはず。それらのことを国民に示しながら、その観点から事業仕分けを行わなければならないのではないだろうか。
  そうでありながら、国民不在で「国会議員と仕分け人といわれる民間人」が、「官僚」と話(一方的な質問)をしている姿を見て、国民は何を期待できるのであろうか。
 
  第二に、その「民間仕分け人の選抜基準」である。
  民間仕分け人の選抜基準やその発言の権限は一体何なのか。インターネットなどでその人選はわかるのかもしれない。しかし、その「民間仕分け人」は、各事業のことをどれくらい研究し、どれくらいわかり、どれくらいその利用者の顔を浮かべているのであろうか。全く分からない。
  私は、コンサルタントとして様々な会社の会議に行くことがある。私がそれなりに説明をするのであるが「何で外部の人が」ということを言われることが少なくない。それは「外部からの意見を受け入れない」というのではなく「会議に出ている前提(知識や専門性)が違う」ということを言っていることがほとんどだ。「ユーザーや代理店の視線で」と発表することによって、会議の場は一変して話を聞く態度に変わる。とかく専門性の高い会社になればなるほど、専門的な内容が多くなり、同時に、外部からの意見はわからなくなる。業界用語を使ったり、マニアックな特徴を個性とみている場合が少なくない。実際は、専門家でしかわからない有用性は必要がない場合がすくなくない。しかし、その特徴があることで、「次の一手」につながることが少なくないのだ。一つの商品からの発展の系譜がほかの商品と全く異なる発展の仕方をすることが少なくないのは、よくあることだ。厳密には違うかもしれないが、マッキントッシュコンピューターがよい例だ。マックというと、ウインドウズに駆逐された感があるが、実際は、グラフィックや音楽の世界では幅広く使われていた。コンピューターの中のことはよくわからないので、なぜそうなのかは分からない。詳しくはそれこそ家電専門店に聞いてもらいたい。しかし、その発想が、「I-POD」につながり、携帯音楽プレーヤーになる。それはコンピューターとしての発展ではなく、そのコンピューターの音楽に強いという特性が、別な経路に発展した例であろう。
  現在の民間仕分け人の「経済合理性を追求した視点」「外部の意見」は、これら別敬津の発展を完全に封じてしまう。それは、その仕分けの方法だけではなく、仕分け人個人個人の資質や、各事業に関する見解、意見などが明らかでない。そもそも、その分野での専門家とも思えない。もしも専門家であるならば「各項目で」もしくは「省庁担当で」仕分け人は変わっているはずだ。すべてにおいて研究している、すべての事業分野を熟知している人などはいるはずがない。大体のマスコミが「こんな事業もあったんだ」と感心する中、それを判断する仕分け人がすべてを知っているとは思えない。また、その民間の仕分け人が、たとえば農道や、府中の施設を視察したという話は聞かない。
  「一般の国民の目線」というが、では、民主党が反対していた「裁判員制度」と何が違うのか。「素人が素人の意見で」というならば、「素人でも判断できるだけの説明と調査、もしくは調査報告」があってしかるべきであるが、それらは全くない。いんしゅ等の議員数名が作った資料があるだけだ。
  マニフェスト尾そうであるが「国民目線」とか言っている割には、「独z年敵秘密すぎ」が貫かれていることを国民は知るべきである。事業仕分け人の選抜はまさにそのものであろう。
  第三に、多数決だ。
  多数決は万能ではない。民主主義に生きている以上はそのことを考えなければならない。ナチスドイツも民主主義と多数決から生まれた独裁政権だ。基本的に多数決は「是非」の二者択一のときに、行う方法論といえる。多数の意見が混在する場合は、当然に意見が割れる。その時にとりまとめをどのようにするのか。その基準も決まっていない。実際に多数決の結論とは違うとりまとめ結果になったものもいくつかあった。私自身、この事業仕分けはパフォーマンスに過ぎないし、初めから「結論ありき」の内容であるから、仕分け人がどのような投票をしても、結局同じ結論になったであろう。これではそもそも多数決の意味がない。
  もともと意見が多様に分割するために、多数決になじまないうえに、その結果を踏まえない結果が出ることも受け入れるようでは、話にならない。
  そもそも、民主党は民主主義の政党ではない。一党独裁を目指した国家社会主義であるということが、私の結論である。この事業仕分けのような場でもその内容が出てきているのではないだろうか。
  第四に、その「結論に対する判断基準」だ。
  上記のように多数決になじまないし、その多数決の結果を無視した内容の結論が出ているものもある。しかし、それは、ただ単に「結果の多面基準」が全く示されていないことに由来する。そもそも、各事業において「どのような結論を出すのか」ということに関して、その選択肢の種類が分からない。アンケートで言う自由意見のコーナーのようなものだ。選択肢があってないような話でしかない。
  基準のない裁定は「恣意的」であるとのそしりを免れない。本人がいかに公平なつもりであっても、その基準が示さない以上、何の話にもならない。日本の場合憲法上に「罪刑法定主義」があるために、法律で決められた内容以外で逮捕拘束されることはないのだ。今回の事業仕分けそのものが裁判とも罪刑法定主義とも言わないが、実際に判断基準と判断結論の種類が決まっていない内容の説明を行うことそのものがナンセンスである。これならば、密室で会議して、結論を各省庁に示せばよいことであり、わざわざコストをかけて、パフォーマンスを見せる必要はない。もちろん、民主党という政党が国民にアピールするためにパフォーマンスであることはわかるが、国家予算で一政党のパフォーマンスをしてよいのか。この基準そのものが「公私混同」もはなはだしい。
  このようなことがあるので、官房機密費の内容がまた問題になる。私自身、政府が高い専門性を必要としている以上機密費は必要であるが、今回の事業仕分けのように「民主党の選挙アピールを国家予算で行う」ということはいかがかと思う。
  もう一つ問題がある。「予算計上見送り」という結論だ。そもそも「事業整理が必要」「予算計上見送り」となった場合、その施設や事業整理はだれが行うのか。まったくわからない。事業整理は「政府である内閣」が行うことであるのに、その「内閣所属の行政刷新会議が、事業整理を勧告」とはどういうことか。結局この日本語に「主語」「述語」が抜けていることに気づかなければならない。誰が誰に対して物を言っているのか。政府の機関が政府に対して言っている。自分で自己完結している打kであり、その会議を通して鳩山政権の事業整理の作業地帯を明らかにしているだけである。単純に鳩山政権は「政治主導が官僚に対して」云っているつもりかもしれないが、内閣そのものが政府であるという自覚がないのは問題だ。「予算計上見送り」という結論も同じだ。結局、では「系女子ない施設はどうなるのか」という疑問が全く答えられていない。これから建築する物に関しては、それで通じるのかもしれない。しかし、現在すでに運営している施設に関しては維持費が必要だ。当該維持費に関して、その維持費の不足での事故や施設の陳腐化が発生した場合に、政府はどのような対策をするのか。
  「天下りをやめさせることが条件」という結論もどうか。彼らの生活は保証しなくてよいのか。結局継続している事業の「経過措置」が全くできていない。その結果の責任についてはどのようになるのか。
  最後にその「法的な性格」である。
  まさにこれも、民主党の一政党のアピールをしているだけであろう。だから国会で審議ができないし、その法的な性格もはっきりとしない。
  法的な性格がはっきりしないということは、そもそも「その経費はだれに帰属するのか」「問題が発生した場合の責任の所在はどこか」といったことが問題になる。「行政刷新会議担当」として大臣がいたとしてもその予算は、象徴のように存在するものではない。国会予算の歳出は、国会での承認を必要とするが、それがない会議体が、国家予算の概算尿級に関する内容を行う。上記のように「事業仕分けで予算の執行停止」になった場合の継続案件の後処理は、どのようにするのか。その結果で事故が発生した場合にどのような責任をだれが取るのか。そこは明らかにすべきだ。結局「法的性格」「責任の所在」が明らかでない部分で、「無責任な発言と結果」になってしまうのである。
 
  そもそも、国家事業は「収益性」ではない。「将来性」がありながら「収益が追い付かない」内容が最も重要な内容だ。宇宙飛行士の毛利衛氏が言っていたが、入場者数が増えていて利用者も増えている。にもかかわらず公共事業だから収益は今一つとなる。そこを金銭面だけで判断するというのは、いかにも「国家事業」が分かっていない。
  「国家事業」と「国営事業」が全く分かっていないのは、民主党の特徴だ。国営事業ならば収益性を追求すればよい。だから郵政は民営化されたのだ。一方で教育や研究施設や道路事業などは、収益性の問題ではない。それを分からずに同じ度台で判断すること自体「ナンセンス極まりない」のである。
  私自身は「無駄」が「ゆとり」であり「景気対策」であると考えている。一部の無駄が景気の起爆剤になることは多い。逆に「犯罪」とくに「談合や横領」は強く取り締まらなければならないであろう。民主党の今回の事業仕分けはその辺が全く分かっていない。国家事業を「国営事業」と間違えている。中国共産主義の内容とあまり変わらない。改革開放までの中国経済がどのような道をたどったか。歴史をよく勉強すべきである。
  「民主党」の政権になって、結果として国が滅ぶということがないようにしなければならない。

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プライベートブランド商品のデフレスパイラル

プライベートブランド商品のデフレスパイラル

 最近PB商品という単語を読く耳にされるのではないでしょうか。
 ご存じの方も少なくないと思うが、正式名称はプライベートブランド商品である。
 先日よりニュースをみていたら、大手スーパーイオンが880円のジーンズ発売、西友が850円、
ドンキホーテが690円でジーンズを販売しているという。
(値段間違えていたらごめんなさい。ニュースをみたときの記憶だけで書いています。ご指摘をいただきましたら訂正いたします)

 鳩山政権になってから、政治のことばかり記載していた。
 ここらで少し、経済に関する記事も書いてみたくなった。
 今回は経済の話題にしてみたい。
 ほかにも書かなければならない事は、非常にたくさんある。
 政治の世界では、概算要求が過去最大の90兆円を超え、閣内不一致が顕著になりつつある。
 鳩山首相は、赤字国債の発行を容認し、すぐに発行ができないならば政権公約の一部断念もあるという。
 そもそも、補正予算をいくら削っても、来年の予算には回せるが、再来年の予算には回せない。
 政策実行が、赤字国債の常習化にならないように気をつけなければならない。

 しかし、日本そのような重要案件がありながらも、今回は経済について書きたい。
 そもそも国会新聞には「経済面」が存在しない。
 国会新聞は、与党面・野党面・国際面・公務員面・地方面で構成されている。
 国会と経済とはあまり関係がないというスタンスである。国が経済活動の中心になれば、それは統制経済になる。
 日本が資本主義経済で、自由経済である以上、それはあり得ない。
 要するに現在の資本主義経済下に置いて、政府が主体となった経済はあり得ない。
 ましてや、立法府が経済の主体にはならないのだ。
 立法府で審議されるのは、あくまでも財政であり、国が事業収益を挙げることは、基本的には存在しない。
 この論理からすれば、経済の記事を書いた瞬間に、「ボツ記事」なのである。
 国会新聞において、これが許されるのは「財政」と「景気」(株価・物価指数など)である。
 財政の中には、税収と歳出、その中でも補助金や助成金行政が含まれる。
 よって、プライベートブランドと言った瞬間に「完全なるボツ確定」なのである。

 しかし、最近、必ずしもそうではないのではないかと考えている。
 韓国の政府高官で大学教授と話したことがある。
 李明博大統領の経済政策がふるわず、支持率が落ちた頃の話だ。
 景気は大統領の政務とは関係ないのではないか。
 私がそう質問したところ、彼はこう言ったのである。
 「政治に関係する人はそう思っています。
 しかし、国民は、自分の生活をよくするために大統領を選んだので、景気が悪くても、
地震が起きても、戦争が起きても大統領の責任です。
 そしてその処理は、最も重要な大統領の仕事です。
 だから、行政のすべての大権を大統領に託しているのです。
 問題は、国民が景気が悪くなる事をしながら、国民がその責任を転嫁する事でしょう。
 でも、その国民に選ばれたのが大統領ですし、大統領も国民なのです。」
なるほど、その通り、としかいえなかった。 

 さて、経済問題を書く事に関して、かなり脱線してしまった。
 しかし、今の政局も同じだ。子供手当で政権交代実現というのは、単純に経済、
と言うよりは家計という小さい単位で政権交代がなされたことを意味する。
 本来は切り離される経済と政治が、国民の認識の中では一体化しているという事になるのだ。
 ただし、その選択が必ずしも正しいとは限らない。

 今回はプライベートブランドがはやる理由という、純粋に経済的な話から、何とか政治の話につなげてみたい。
 
 少し話がそれたが、話をプライベートブランドに戻そう。
 プライベートブランド商品の特徴は、「ノーブランド」「安い」の二つだ。
 そもそもプライベートブランドの反対語はナショナルブランドである。
 ナショナルブランド、つまり、通常商品は、メーカーが開発費やオリジナリティを付加し、メーカーそのもののブランドを付して販売する。
 メーカーは、メーカーだけで流通させると販売量が少なくなるので、問屋・卸業者を通して、各地の小売業に販売を行う。
 これらナショナルブランドの流通は、当然に中間マージンが含まれ、それらを勘案して「希望小売り価格」いわゆる定価が設定される。
 この「中間マージン」には、「中間業者の利益」や「輸送コストや輸送コスト」だけでなく、
「ロス高」といわれるものやあらかじめ値引き販売を予想して「値引き高」を含んでいるものもある。
 「ロス高」とは、食品などのブランドで説明すれば、「売れ残り廃棄商品」が出てくる。
 これは中間業者や小売業社、どの段階でも発生する可能性がある。
 食品だけでなく、衣類でも、秋物を冬に販売するわけには行かないので、期間が少し長くなるだけでロスは存在する。
 このほかにもサランラップや乾電池などは「品質保持期間」として表示されているものが多いので、読者のみなさんも確認することができるはずだ。
 これらが、新規商品と定番商品では大きく変わってくる。
 製造に関しても販売予測がつくものと全くの新商品では異なる。
 結局そのロス高の設定が、新規商品のキモとなる。
 チラシなどに記載された「10%引き」などは、ほとんどこの希望小売り価格に対する比率である。
 ロス高との関連で言えば、このような値引きは、売れ残りというイメージがあるかもしれない。
 衣料服飾品の「秋物大バーゲン」などはそのイメージを増大する。
 しかし、定番商品でも値引きができるのは、ロス高が当初設定よりも生産調整で少なくすることができるため、値引きが可能になるのだ。
 食品で売れている商品がチラシの目玉商品になるのは、まさにこの現象であるといえる。

 一方、プライベートブランドは、小売業が独自に小売業のブランドを設定し、そのブランドを付して販売する。
 基本的には委託製造であり、小売業社が全品買い取り(余剰生産分をのぞく)ということになる。
 製造者からみれば、特定のブランドを付した商品を、ほかの小売店で販売することはできないからだ。
 製造数全品買い取りは、当然に製造業においてロス高がなくなるという事だ。
 同時に、製造業者は、作った分をすべて買ってもらえるので、広告宣伝費などの余分な経費を必要としなくなる。
 一品あたりの利益幅は少なくても、それだけ製造完売数量を持つことができるので、売り上げそのものは拡大する。
 リスク無く、予定利益を得ることができると言うことだ。
 小売業は、その分安い仕入れ単価で仕入れることができる。
 自分が不良在庫を抱えることになれば、赤字になる可能性もある。
 しかし、実際は必ず「売り切る」事のできる商品であるために、その心配はいらないという事になる。
 具体的には、新商品や趣向品は行わず、誰でもが手を出す定番商品をプライベートブランドとして販売するのだ。
 リスクが少なく安い仕入れ単価の消費であれば、販売価格を下げることができる。
 小売業のブランドと、価格を訴求力とするので、包装資材なども最低限のものでよい。
 このことによって商品の低価格化を赤字にすることなく実現できるのだ。

 逆な見方をすれば、ナショナルブランドが使用していた広告宣伝費や中卸などは必要が無くなる。
 極端な言い方をすれば、製造業者と小売業さえあればよいと言うことになる。
 極論かもしれないが、卸業者の役割や、広告宣伝の企画などは必要はない。
 そこにあるのは、小売業のマス・バイイングパワーでしかないのだ。

 このプライベートブランド商品が、価格競争を始めると言うことになる。
 プライベートブランド商品の場合、競争は、価格と品種(アイテム数)の二種類で競争は可能である。
 このアイテム数による競争は、様々な商品の低価格かという事になる。
 小売業もすべて買い取りになるのだから、不必要な売れ残りが懸念される商品を出せば、損をすることになる。
 アイテム数の競争は、販売統計と、そのアイテムにおける顧客のブランド志向。
 そして、その商品のプライベートブランド化で売り切れるかどうかという「読み」が必要な作業だ。

 一方で「低価格化」は、単に「製造コスト」「製造者利益」「物流コスト」「小売業利益」のいずれかを圧縮すればよいことである。
 しかし、この低価格化は、そのまま企業利益の圧迫を意味する。
 下手をすれば、商品単品では黒字でも、施設費や設備の減価償却をあわせれば赤字になる商品も出てくるであろう。
 それでも、売り上げと「安売り」の魔力は抗しがたいのが現状だ。
 売り上げがあるという事が、会社規模そのものの指標になるし、それは、一方で、会社の与信につながる。
 本来は利益と利益構造が与信であるが、日本の場合必ずしもそうならない場合が少なくない。
 売り上げと取引先の与信が、与信につながるケースが少なくないのだ。
 その与信で新たな借り入れが可能になる。しかし、その借り入れの金利は、現在のゼロ金利であるから維持できる場合が少なくない。
 別な言い方をすれば、与信枠の借入金を返せる十分な「利益」が保証されないケースも少なくないのだ。

 さて、まず、簡単に価格競争になった場合の問題点を、会社経営と金融機関の与信の問題でみてしまった。
 そこまで行くつもりはなかったのであるが、成り行きで書いてしまった。

 プライベートブランド商品が蔓延したときのリスクと、国家経済に及ぼす影響を、このようにみてみることにしよう。

 まず、中間業者の仕事がなくなるという危険。次に、低価格化によるデフレの進行。
 そして、デフレ経済における金融金利の問題と会社与信ということが挙げられる。

 まず、中間業者の仕事がなくなるという事に関して、少し考えてみたい。
 大多数の消費者にとって、大型ショッピングセンターによるプライベートブランド商品の販売は好ましいことかもしれない。
 しかし、大型ショッピングセンターに行かない消費者にとっては、そのこと自体何の関係もなくなる。
 中間業者の役割は、商品を一度ストックして、小ロットで小売店に卸すことが挙げられる。
 大型ショッピングセンターもあるが、商店街の個人商店もある。
 中間業者の活性化は、そのことによる商店街個人商店の活性化につながる。
 これは言い過ぎかもしれないが、逆に、中間業者の凋落は、個人商店の死滅・商店街のシャッター通りを意味する。
 なぜならば、個人商店への流通経路が破綻するからにほかならない。大型ショッピングセンターへの偏重と商品在庫の集中になる。
 当然に製造業者にとっても、それは販売チャンネルの縮小となる。
 これにより、極端に言えば大型ショッピングセンターの寡占化につながるのである。
 東京などの大都市にいれば、必ずしも層ではないかもしれない。
 しかし、地方のシャッター通りと山の中の大型ショッピングセンターをみれば、一目瞭然といえる。
 駅前に集中する老人や自転車商圏の商店街の切り捨てになってしまう。

 一方で、大型ショッピングセンターにも、問題が生じる。
 問題は大きく分けて二つ。
 一つは低価格の定番商品しか売れなくなる。
 結局はプライベートブランド商品よりも安くナショナルブランド商品を売れなくなると言う問題。
 上記のように、ナショナルブランドは、はじめから中間業者や広告宣伝料などの利益をパーセンテージで織り込んでいる。
 当然に、そのパーセンテージを崩して、また広告宣伝をやめて大型小売店に卸せば、
製造量が違うために中小の製造業者よりも安い値段の商品供給が可能だ。
 しかし、大型小売店にすれば、全品買い取り在庫の自社ブランド商品を売れ残りにするわけにはいかない。
 結局のところ、プライベートブランドよりも安くナショナルブランドを売ることができなくなると言うことだ。
 イオンなどは、このことを避けるために「トップバリュー」と「ベストプライス」二つのプライベートブランド商品を作るという苦肉の策を行う。
 あえて、苦肉の策というのは、ふたつのブランドの全品買い取りは、当然にリスクを含むことになるからだ。

 もう一つの問題としては、この要にして製造業そのものが疲弊してしまえば、新商品の開発が遅れると言うことである。
 現在のアメリカの産業構造がそうだ。
 以前GMの破綻に関して記載したときに書いたが、アメリカは安い商品をとるために、軍需と異なる商品の製造がない。
 アメリカは金融と軍需産業(自動車や飛行機)しかないのだ。日本も同じになる可能性がある。
 多くの商品を低価格化するためには、当然に人件費の安い国での製造と言うことが出てくる。
 中国を始め海外の製造拠点は少なくない。
 これらが産業の空洞化の原因となっている。
 この空洞化が、「本物の空虚」になってしまったとき、日本の製造業は海外しかなくなり、軍需産業のないアメリカ製造業と同じになってしまう。
 日本は、その技術力と新規開発力が大きな力であり国際的な競争力の源だ。
 技術力は中小企業が中心になっている。
 機械化された製造で技術力は生み出されない。
 その機械を仕入れれば、外国でも同じ品質の製造が可能だ。
 よって、機械化できない手工業分野が、日本の技術力の根元となる。
 それら高技術の中小企業の部品で作ることが、日本商品全体の品質の向上と、低価格化に貢献している。
 一方で、新規開発力は、主に応用力だ。
 全く新しいものを生み出すのではなく、既存のものの改良や性能向上は日本のお家芸である。
 それまであったラジオをトランジスタラジオとして小型化し、カーラジオに組み込むなどは、日本らしさの象徴であろう。
 現代で言えば、液晶テレビなども日本の技術が世界トップクラスであるし、
ボーイング社の飛行機の6割は日本の技術力の結晶と言われるほどである。

 話は少しそれたが、プライベートブランド商品の販売には、これら日本の長所を活かす、成長させる要素はない。
 あるのはコスト削減という、経済的な要因である。
 同時に、中間企業や製造業の利益の圧迫は、これら日本の製造業の資金的余裕を奪う可能性がある。
 このことは日本の産業構造がおかしくなるだけでなく、中間業や製造業の雇用や従業員関係者の所得も減ることになる。
 結局、消費者の所得を減らしてしまう事になる可能性があるのだ。

 この辺から、低価格商品発のデフレ進行の話題になる。

 小売業者は、プライベートブランド商品の販売を行う。
 そのときの切り口は「安い」である。
 品質や機能などが打ち出されるのではない。
 その安さ追求のために、製造業や中間業が仕事が無くなることはすでに書いた。
 彼らだけではなく、広告宣伝の会社なども当然に仕事が減る。
 ブランドが無く、商品の品質や機能性の広告がなければ、安いと書いたチラシやポップで十分である。
 当然に、これら仕事が無くなった、もしくは減った業者の従業員の所得は少なくなる。
 プライベートブランド商品が少ないうちはよいが、
岡田克也外務大臣の親族が経営するイオンのような5000アイテムもラインナップとしてそろえるのでは、各業態に影響がでる。
 結局大型小売業がプライベートブランドを作ると、その大型小売業で同種の商品が売れなくなる。
 高機能や高品質のも商品が売れなくなると言う状況が生まれる。

 これは「安いから仕方がない」から「それでよい」に変わる。
 なれてくると言うことはそういうことだ。
 高品質や高性能は「不要な機能が付いている」と排除することになる。
 結局新規商品開発のモティベーションが無くなる。
 これは新規商品を作り出す能力を奪うだけでなく、高機能に対する消費者の購買意欲を削ぐことになってしまう。

 現実をみてみよう。
 たとえば、今コンピューターでネットブックというものが人気だ。
 ある通信会社と契約をすれば、1円で手にはいるということで、学生や若い営業マンを中心に広がっている。
 ネットブックは、当然に機能が限られる。
 私は所有していないのでわからない部分も多いが、CDロムなどがついていないし、ハードディスクやメモリの容量も限られている。
 私などは、購入しても使えないかもしれないと思う。
 しかし、学生などは、これで用が足りてしまう。
 コンピューターの「ハイエンドモデル」などは必要がないという事になってしまう。
 一方、そのような低価格ノーブランド商品がないのが携帯電話の世界。
 携帯電話は、今やワンセグでテレビが見れることが標準のようになっている。
 メールやインターネットは通話と同じ普及率だ。
 これに関しては、未だに高機能が求められる傾向にある。
 携帯電話は、結局通信機器であり、電波の使用と言うことがあるために、ノーブランドは作りにくい状態にある。
 同時に携帯電話の反則金などがなければ、なかなか低価格かは難しいと言うこともある。
 価格帯が高くなれば、購入者の意識も高くなり、当然に高機能を求めることになる。
 片方には安いという価格と、消費者の可処分所得の問題があるが、
携帯電話には、そのことよりも長期間使用と、高機能が求められ、それが購買意欲をかき立てることになる。

 このようにみてくれば、プライベートブランドが、社会全体のデフレを牽引していることが見えてくる。
 これだけでなく、これは「売り上げ」は延びるものの、「小売業の利益」も消してしまう。
 単純に言えば、「プライベートブランド」という名前を借りたダンピング競争でしかない。
 このことは、一見一人勝ちしているように見える小売業の従業員も、給与が頭打ちになるということを意味している。
 そして、そのことは「社会的勝者」が少なくなる「ダンピング地獄」いわゆるデフレスパイラルに突入することになる。

 金融与信と言うことになれば、与信は返済原資が基本だ。
 要するに売り上げではなく会社の利益をいかに返済原資に充当するかという事が与信の基本だ。
 会社の通過金銭の総量を担保とするものではない。
 マイカルは、年間売り上げ2兆円を越えながら倒産した。
 これは有利子負債を返済することができなかったからにほかならない。
 社会的状況や倒産の理由は別にして、売り上げが金融の与信と関係がないことは明らかだ。
 ちなみに売り上げの大きさは、販売点数の多さと比例する。
 要するに、販売戸数に従って得られる仕入れ割り戻しなどは、売り上げに依存する。
 一方、金融与信は売り上げではないということだ。
 そして、プライベート商品は「売り上げはあっても利益を取れない」という現象を発生させる。
 通常であれば、売り上げが多ければ利益も多いと言うことがいえるのであるが、この場合、必ずしも層でないという事ができてしまうのだ。

 このことは、金融機関による追加融資の縮小を意味するだけでなく、金融機関内部における「貸し倒れ引当金」などの経費
(引当金の積み増し)をかけることになる。
 当然に金融機関そのものの経営指標も悪化することになってしまい、
中小企業などに対する貸し渋りがよりいっそう拡大する可能性を秘めることになる。
 これは、金融だけでなく日本国内の市場の縮小や、景気の後退を意味することにつながる。
 中間業者などの業績不振が重なればなおさらのことだ。
 ましてや、亀井大臣の主張する金融モラトリアム(支払猶予)が行われれば、金融機関そのものの経営危機に発展する。

 以上の状況から、社会的に影響がでる規模の大型小売業において、プライベートブランド商品の販売は、そのような影響がでる可能性がある。
 実際、いくつかの商品を展開しても何ら問題はないのかもしれない。
 しかし、これらの継続は、顧客消費者の値頃感の変化となって徐々に経済をむしばんでゆくことに変わりはない。
 私自身「安い」ということは悪くないと思うし、それら商品を購入する。
 また、富裕層はそのようなことに関係なく高級品を買うのかもしれない。
 しかし、これらが「行き過ぎた」場合、たとえばプライベートブランド専門の安売り店ができてしまうなどのことが起きれば、
ここに書いてあることも、現実味を帯びてくることになるであろう。

 このことを、今の民主党政策に無理矢理押し込めてみよう。
 経済政策の欠如が鳩山政権では言われているが、それに当てはまることもあるからだ。

 まず「無駄を省く」ということだ。無駄を省くのはよいことかもしれない。
 しかし、それは、小売業で言えばプライベートブランド専門でよいと言うことを意味する。
 ムダ使いを奨励するわけではないが、ある程度の「余裕」がなければ、ニッチ産業まで潤うことはない。
 よって、当然に無駄を完全に省いてしまえば、新規事業や新規政策の実現ができなくなり、国際競争力が無くなる。
 また、そのことは、貿易立国日本の経済が破綻すると言うことに近い意味を持つ。
 問題はムダかムダでないかの判断だ。
 「ムダ」を省くのは「ムダ」であるからであり、「ムダに見えてムダでないもの」の処理をどうするかは疑問だ。
 上記のように、新規商品の開発費や無体財産権、広告宣伝費など、関連費用や事務費を「全部ムダ」といってしまっては、世の中が回らない。
 過去に「ノーパンしゃぶしゃぶ」が話題になり、民間の官僚接待が問題になった。
 このことにより、それまで接待で潤っていた全国の「盛り場」が一斉に灯りが消えたのだ。
 風俗店やクラブの衰退は、そのまま外国人の進入を許す結果になり、昔の盛り場は、今外国人の覚醒剤の密売場所となっている。
 どうじに、外国人キャバレーなどになって、売春行為やぼったくりバーが横行するようになった。
 要するに、灯りの消えた風俗街は、すぐに犯罪の温床になったのだ。無駄を省くという内容が、同じ事にならないとは限らない。
 犯罪の温床は無くても、失業者を大量に排出する可能性はある。
 今のままでも、ダム工事就労者の今後の雇用の保障はないのだ。
 そして、その原因行為の「ムダ」の基準は明らかにされないのである。
 「マニフェストに書いてある」で失業する労働者の保護策は、もっとも「ムダ」ではないのであろうか。
 ましてや、マニフェストにこだわって、景気対策を中止しながら、新たな景気対策の補正予算を組むなどというのは完全な「ムダ」でしかない。

 もう一つの政策的論点は、デフレスパイラルだ。
 これら安売りをしながら社会全体の景気回復は、企業への資金投入や、新規事業開発費の補助がメインとなるべきだ。
 子供手当2万6千円を配っても、プライベートブランド商品ばかり購入されては、景気浮揚につながらないことは明らかだ。
 とはいえ、消費者心理として考えれば、2万6千円しかないのである。
 限られた収入を上手に活かすには、安価な商品の購入となる。
 上記のように安価でないものには、多くの場合、広告費や開発費の償却が含まれる。
 消費者にとっては安い方がよいという思考が働く場合に、これらに対する購入費用のアップは、それこそ「ムダ」なのだ。
 少なくとも子供手当は一部を除く景気対策にはならないという結論になるのだ。
 実際、これらに対しての実質的な検証がなければ、国費(税金)を無駄に使うことになる。

今回は、政府の政策に関する内容ではない。
 しかし、プライベートブランド商品も、政府政策も、
いずれもしっかりとした検討や社会全体の景気ということを考えなければならないということだ。
 ただ手前勝手な理論では、全体を崩壊させてしまう危険がある。プライベートブランド商品も「ほどほど」にすべきではないだろうか?

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2兆5169億の補正予算執行停止と反企業政策

2兆5169億の補正予算執行停止と反企業政策

 10月6日、仙石由人行政刷新担当大臣が、麻生が行った大型補正予算のうち2兆5169億円分を執行停止とすると発表。これに対して、鳩山首相は、上積みを支持するという異常事態が発生した。
 私がここで「異常事態」と評したのは、当然にそれらの措置に問題があるからだ。いつものごとく早速問題点の把握から行ってゆこう。
 第一に、国会で決議をとった予算を、勝手に執行停止できるのかということだ。国会の決議はそんなに軽いものであったのか。第二に、どうしてそこまでしなければならないのか。単純に言って、「民主党のマニフェスト実現のため」ということであるが、国会の予算を市瀬伊藤の公約実現のために左右してよいのかという事もある。第三に、景気対策をどうするのかという事だ。もともと、この補正予算はリーマンショックからの回復のための起爆剤である。それをやめると言うことは、当然に、それに変わる景気対策が必要になる。これらをやめながら、菅直人副首相が発表した雇用対策を別途行うというのは矛盾している。ましてや、「内需拡大」といって国民に金をばらまきながら、企業を非難するのは、その金の使う先に問題があるとしているのと同じだ。亀井静香金融大臣の「大企業が家族間殺人を起こさせている」というのは、あまりにも稚拙な批判である。しかし、それらの感覚が現在の内閣を支配しているという事には間違いがない。
 
 これら論点を細かくみてみよう。第一に、国会で決議をとった予算を、勝手に執行停止できるのかということについてである。まず、この内容について結論から先に見てみる。簡単に言って、民主党は憲法違反の行為を平気で行い、なおかつ三権分立の原則を踏みにじる政党である。今回のこの件も、完全に憲法違反である。日本国憲法では、第七章の「財政」という章で国家の歳入と国費の支出に関して、規定されている。これについては下記の通りだ。
 
  第八十三条 国の財政を処理する権限は、国会の議決に基いて、これを行使しなければならない。
  第八十五条 国費を支出し、又は国が債務を負担するには、国会の議決に基くことを必要とする。
  第八十七条 予見し難い予算の不足に充てるため、国会の議決に基いて予備費を設け、内閣の責任でこれを支出することができる。
○2 すべて予備費の支出については、内閣は、事後に国会の承諾を得なければならない。

 結局、国費歳出に関しては、当然に国会の議決要件である。これらは内閣の行政権には属していない。第87条に「予見しがたい予算の不足」、要するに補正予算に関する内容が記載されているものの、これに関して支出の停止や執行の停止を規定しているものではない。要するに、補正予算として国の財政を行う場合は、当然に「国の財政を処理する権限」に含まれることになる。そして、それは国会の決議によって行われなければならないということになるのである。
  では、行政府たる内閣は、どのような権限を持ているのか。
 
  第六十五条 行政権は、内閣に属する。
  第六十六条 内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する。
○2 内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。
○3 内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ。
 第七十二条 内閣総理大臣は、内閣を代表して議案を国会に提出し、一般国務及び外交関係について国会に報告し、並びに行政各部を指揮監督する。
  第七十三条 内閣は、他の一般行政事務の外、左の事務を行ふ。
一 法律を誠実に執行し、国務を総理すること。
二 外交関係を処理すること。
三 条約を締結すること。但し、事前に、時宜によつては事後に、国会の承認を経ることを必要とする。
四 法律の定める基準に従ひ、官吏に関する事務を掌理すること。
五 予算を作成して国会に提出すること。
六 この憲法及び法律の規定を実施するために、政令を制定すること。但し、政令には、特にその法律の委任がある場合を除いては、罰則を設けることができない。
七 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を決定すること。
 
  これが、憲法に規定された内閣の権限である。この中には「すでに執行が決定されている予算の停止」は含まれていない。鳩山内閣はどのような権限で、「補正予算の執行停止」を行っているのであろうか。
  私の個人的な推測は「どうせ国会決議を行っても過半数で通るのであるから、関係ない」という国会の軽視思想がその中にある。これは、国会の決議に関する冒涜であるとしか言いようがない。そしてこれらの思想は独裁につながるのである。
  この思想は「ナチスドイツ」が独裁政権に移行するプロセスによく似ている。ナチスとは国家社会主義ドイツ労働者党のことである。1919年結成された政党で、徐々に国会内での勢力を拡大していた。党の思想として一貫して存在しているのは「アーリア人至上主義」、「反ユダヤ主義」、「反共」、「指導者による独裁」等であり、ヒトラーの著書「わが闘争」が党の聖典視された。一は少数政党であったが、ヒトラーの入党により、その巧みな話術と、ゲッペルスによる情報祖須佐の巧みさによって、政党の支持は広がっていった。1933年1月30日、ヒトラーはパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領よりドイツ国首相に任命されて政権を獲得した。同時にナチス党幹部であるヘルマン・ゲーリングが無任所相兼プロイセン州内相に任じられた。ゲーリングはプロイセン州の警察を掌握し、突撃隊や親衛隊を補助警察官として雇用した。これにより多くのナチスの政敵が政治犯として収容所に収容された。ヒトラーは組閣後ただちに総選挙を行ったが、2月27日にドイツ国会議事堂放火事件が発生した。ヒトラーはこれを口実として「民族と国家防衛のための緊急令」と「民族への裏切りと国家反逆の策謀防止のための特別緊急令」の二つの緊急大統領令を発布させた。これにより国内の行政・警察権限を完全に握ったヒトラーは、ドイツ共産党に対する弾圧を行った。ドイツ中央党など中道政党の賛成も得て全権委任法を制定し、独裁体制を確立した。その後、ドイツ国内の政党・労働団体は解散を余儀なくされナチス党による一党独裁体制が確立した。
  現在の日本の政治状況に酷似していることにお気づきであろうか。「独裁者」と言えば、日本ではほぼ必ず「アドルフ・ヒトラー」が出てくる。しかし、ヒトラーといえどもドイツ国内に反対派は存在したのである。同時に、ヒトラーは軍事的なクーデターなどで独裁を行ったのではなかった。上記のように、第一次世界大戦後のドイツの法律に従い、選挙で過半数を取ったのだ。このプロセスでできたのが、「宣伝と演説」である。私は著書「民主党の闇」のあとがきで、下記の通り記載しているが、これが現実のものとなりそうな勢いだ。
  「 「宣伝の天才」と言われたゲッペルスは、広告宣伝に関してこのようなことも言っている。「もっとも速度の遅い船に船団全体の速度を合わせる護送船団の如く、知識レベルの低い階層に合わせた宣伝を心掛ける」というのだ。要するに、詳しく内容を説明せず、キャッチフレーズ化し、不満・疑問・欲望を遠まわしに刺激し暴発させることに乗せられて、民主党を支持しているとすれば、それはわれわれ国民を「知識レベルの低い階層」と認識しているからに他ならない。
 彼の発言とされた言葉で有名なのは、「嘘も百回言えば真実となる」という言葉だ。しかし、所詮嘘は嘘でしかない。また、キャッチフレーズはキャッチフレーズでしかないのだ。そんなゲッペルスが宣伝し、国民的熱狂を作り上げたナチス・ドイツの末路は、歴史が押してくれる。また、そのナチス・ドイツを押し上げたドイツ国民は、東西ドイツの分裂ということになるのだ。
 歴史は、なんでも教えてくれる。しかし、その歴史を「物語」としてしまい「現代の政治」と結びつけて考えられる人は少ない。しかし、このように並べてみると、小沢一郎から始まる民主党のプロパガンダがいかに「危ない」ものであるのかがよくわかる。
 これを危険なものとしないのは、簡単なことだ。具体的な政策として、しっかりと検証をすればよい。「やめてから考える」などといって、白紙委任をしてしまえば、結局国民はその政策を検証する機会を永久に失ってしまうことになる。これこそ「独裁政治」の入り口である。」
  国民の、理性ある監視を必要とするのではないだろうか。
 
  第二の論点に移る。第二に、どうしてそこまでしなければならないのか。要するに、過去の補正予算を執行停止にすることの意義は何なのかということである。
  群馬県の八ツ場ダムに関しても同じであるが「選挙のマニフェストに書いてあるから」という。
  9月24日の産経新聞の記事から抜粋する
  国交相 八ツ場ダム予定地視察 知事らに陳謝も中止方針変えず

 建設中止が明言された八ツ場(やんば)ダム問題で、前原誠司国土交通相は23日、建設予定地の群馬県長野原町を訪れ、工事の進捗(しんちょく)状況や水没地区の代替地を視察した。大沢正明群馬県知事など自治体側からは、中止宣言撤回を求める声が相次いだ。しかし、前原国交相は「誠に申し訳ないが、白紙に戻すつもりはない」と、中止の姿勢をあらためて強調した。
 ただ、一方的な中止表明に地元の反発が相次いだことについては「配慮に欠けていた面が多々あったことをおわびしたい」と知事らに陳謝した。

  要するに、民主党はマニフェストに書いてあれば何をしてもかまわないということになる。もちろん選挙そのものの政権公約であはあるが、その政権公約に関してサイド「反対派を交えて議論する」姿勢は感じられない。この態度が独裁政権への道の一歩である。
  今回論点としている補正予算の執行停止に関しても同じである。「無駄を省く」は非常に素晴らしい。しかし「先に政権公約の財源ありき」という考え方でよいのかということだ。もっと言えば、「子供手当のために地方の経済の活性化や景気対策を犠牲にしてよいのか」というぎろんである。補正予算は、そもそも、リーマンショックから始まる世界同時株安とそれに伴う景気の悪化に対する起爆剤であった。これを執行停止し、国民へ野バラ巻きを実行するというのはいかがなものか。
 昨年の景気状況を見てみると、リーマンショック以降、もちろんそれ以前からの不景気感もあって、製造業者が生産調整に入った。生産調整とは言うものの、要は生産中止の工場を作ったという事だ。特に自動車産業がその中心であったが、自動車ばかりではない。日本の基幹産業の一つが自動車生産であったという事が明らかになっただけである。自動車産業は、主に北米や中国での販売や景気に左右される。もちろん日本企業であるから日本における販売が機軸であるが、それだけではなく、北米や中国と言った消費大国における新車の販売台数がもっとも大きな経営指標になっている。その片方の中国は、オリンピックバブルの崩壊によって、消費が低迷した。それまで屑鉄などをかなり高値で買っていて、日本でも公園の遊具などが撫すまれる事件が報道されていた。しかし、それらもなくなり、中国における景気は低迷した。実際中国は、貧富の差が激しく、富裕層は景気に関係がないのである。しかし、中国人は見栄とメンツを気にする民族であるため、高級車しか売れない。日本の売りである大衆車は、これら富裕層には購入されない事情がある。大多数の都市部中間層は、やはり景気低迷においてかなり打撃があった。もちろん、地方の貧しい層は、まだ馬車の時代である。自動車よりも先に必要なものは少なくない。何より、地方農村部で自動車を売るためにはガソリンスタンドとガソリン配送の安定的な運輸環境を作ることが咲き。次に通常の車が走ることのできる道路の整備が必要になる。
 もう一つの指標であるアメリカは、リーマンショックの中心である。そもそもリーマンショックにより、アメリカの金融と基幹産業である自動車が不安定になった。基幹産業の悪化は、即、国民の生活水準の低下を招く。共産主義国のように、国から生活費全額を必要十分に配給されない限り、産業の衰退は国力の衰退を意味する。そして、それはまず贅沢品の買い控えや予備品の減額化から行われる。自動車はまさにそのものである。ましてや日本車は性能がよいために、かなり耐久年数があるのだ。ちなみに、個人的なことで申し訳ないが、私の車は、もちろん国産車我だ、購入八年で走行距離12万キロであるが、未だに調子よく走っている。
 これらの国際状況から、日本の景気が低迷し、その対策として補正予算が組まれたのである。補正予算に関しては、「今の論点ハンドブック」に詳しくかかれている。総花的に予算配分したもので、特に景気を左右する企業の設備投資や、待機児童に対する保育園の整備費、派遣労働者の再就職斡旋やスキルアップに関する補助金である。
 今問題になっているダム工事も、ダム工事本体だけでなく、工事関係者の仮住居や休日の地域での消費など、ダム工事そのもの以外でも当然に景気対策になる。それだけでなく、それで潤った地方経済が、新たな経済対策や産業創設を行えば、当然にそれらの経済効果は予算以上のものとなる。中止すると言うことは、それらをすべて中断すると言うことだ。当然に、それは、地域経済における資金の流動性を止めてしまうと言うことになる。それまでの投資などが完全にムダなものとなり、地域経済はかえって不況が襲うことになる。八ツ場ダムに感して言えば、工事を中止して残るのは、誰もいない廃墟と、長野原地区の住民の対立、そして群馬県北西部の不況だ。
 商売を行うには川下(消費者)を重要視しなければならない。一方で、国全体の景気をよくするには、川上から金を流さなければならない。金も水も上から下に流れる。上に流せば、設備投資や部品工場・下請けなどが活性化する。製造が大きくなれば、雇用の確保もできる。一方で川下からの資金注入では製品の購入にしかならない。その場合に、不良在庫などの処分や中古品の売買も行われるために、部品工場や雇用の確保にはつながらない。内需拡大のために、一時金を入れるのは場合によってはよいが、定期的な消費者への資金注入は、勤労意欲の減退と中古処分の販売現場、そして、限られた収入での消費のためにダンピング競争を引き起こす。これらは、新製品の製造者の経理を圧迫し、新商品開発などを困難にする。これにより環境に関する新商品や新技術の開発が困難になる。鳩山首相が打ち上げた二酸化炭素25%削減などは、夢のまた夢になってしまうのだ。
 これらの影響が推定されるに関わらず「マニフェストに記載されている」という理由で、国会を含む公の審議もなく、密室で執行停止をしてよいのか。それは、まさに「消費者がイコールで有権者である」という方程式以外にはないのである。小沢一郎型の選挙民に対する利益誘導がまさにこの原点になっている。田中角栄首相の時は、地域に対する資本投下でよかったのかもしれない。地域企業とそれを頂点にする組織票がしっかりしていたからだ。しかし、国民の多くが浮動票となり、同時に比例代表制による政党名の選挙がある場合、候補者個人での集票ではなく、政党とその政党に関する顔の選挙になってしまう。政党のイメージを挙げるためには、国民に対するばらまき以外にはない。マニフェストというのは、単に政権公約でしかない。もちろん、そのマニフェストは、国会審議によってできたものではない。当然に前回の総選挙までは野党であったのだから、国政に携わって現実的に適合されてできた公約でもない。それらが検討し尽くされていないという事は、当然に実現した後の景気動向や、他の分野への影響なども審議し尽くされているとは限らない。言うなれば「机上の空論」でしかない。その「実現のため」に、景気対策を中止するのは、単に、来年控えた参議院選挙に対する集票としか考えられない。
 まとめて言えば、民主党は、政権を執って国会を軽視し、自分の政党の選挙対策のために、景気対策を中止したという事になる。また、その方法は、先に結論有りきで、反対派など幅広く意見を聞くことなく、言論を封殺して独裁的に行われているという事である。逆な味方をすれば、それらばらまきがなければ、国民の支持を得ることができないという味方もできる。一時の人気と、自民党への逆風だけで長続きするはずはない。補正予算の部分でも、沖縄基地の移転問題や防音壁工事などで閣内は不一致である。同時に、マニフェストに記載された内容であるに関わらず、インド洋の給油活動継続を長島昭久防衛政務官が言及するなど、日本における重要政策が一致していないことはすでに明らかになっているのだ。これら国会決議を覆し、憲法違反を犯してまで、政党の選挙対策を行うと言うことは、公私混同であり、道義的に非難されるべき事である。ましてや、その民主党は麻生政権が一時金を給付する時には「国費を使った選挙対策」として非難していたはずだ。そもそも、政党のことよりもまず固化のことを考えるべきではないだろうか。これらの方策および執行停止が、国のためになるのであろうか。
 第三の論点に移る。第三の論点は、景気対策をどうするのかという事だ。当然に、これらを行えば景気が悪くなる。この補正予算を目指してかず多くの企業が新しい企画を行っていた。その中には少子化対策や環境の企業も少なくない。国際的な企業の問題になっていることも少なくない。たとえば、沖縄米軍のグアム島移転に関しては、日本だけでなく、当然にアメリカ企業やグアム島関係者、それだけでなく、沖縄の米軍による安全保障を得ている国々、たとえば韓国や台湾・フィリピンなどもすべてが関係してくる。沖縄の問題は沖縄だけの問題ではなく、東シナ海と日本海を中心とした国々の安全保障の問題なのである。当然に、移転に関してはこれら関係諸国の企業も関与する。沖縄米軍のグアムの移転先住宅の建築に関して、韓国の企業が企画書を挙げて相談に来たことがある。これら企業は「日本国政府の政策の継続性」を信じて動いており、必要であれば先行投資もする。その信用の中には、自民党も民主党もない。あるのは日本国の信用であり、日本国国民の誠実性だけだ。鳩山政権はこれを見事に破壊した。国内ならば「自公政権が悪い」「官僚が悪い」と他人に責任転嫁すればよいことであるが、国際社会ではそうはいかない。
  話が国際問題に会ってんしたが、企業とて同じことである。今年の4月時点で、本年の見通しを立て、6月にほとんどの会社が株主総会によってその見通しや収益予測を発表する。その時点で、補正予算が発表されていれば、そのことを織り込んで事業予測を行う。その事業予測は、「政府政策の継続性」ということを前提としている。鳩山政権はこれを見事に打ち壊した。政権交代によって新規の予算から帰るのではなく「継続案件を中止する」ということになるのだ。それにより日本経済がどれだけの損失を被るのか。
  9月27日にテレビ朝日がゴールデン2時間半で、「緊急スペシャル “民主党政権で日本変わる?” センセイ教えて下さい 政権交代で大変だSP」という番組をやっていた。その中の経済対策に関するるやり取りの一部を紹介しよう。
  山本一太(自民党):「一番心配なのは、民主党のマニフェストの中に成長戦略、経済対策がないんじゃないか。これを我々は凄く心配していて。2万6千円の子ども手当をやって、景気対策になるかな、と。つまり、パイが大きくならない限り、雇用問題も上手く行かない。それが民主党の政策の中で一番心配」
松原仁(民主党):「子ども手当や農家の個別所得補償制度が景気対策になるというのが我々の認識です」
世耕弘成(自民党):「民主党は極めて壮大な実験をやろうとしている。要するに景気が悪いのは家計が潤っていないからだ。だから、そこに国のお金を入れて潤すことによって景気が良くなるだろう、と。我々の立場はあくまでも、企業経済にお金を入れていくべきだという立場です。これは両論あると思います。民主党は1万円あれば個人に直接渡しましょうと。我々は1万円の仕事を発注しましょうと。我々の考えは仕事を発注すれば、材料も動く、設備投資も動く、運輸も動くといういろんな形で効果が出るんじゃないかと思っています」
 まさにこの通り、「子供手当」が景気対策はよいが、その景気対策はどのような規模で企業まで反映するのか、企業しか相手いにしない下請け企業などの雇用はどのようにして守られるのかが全く説明されていないのだ。この番組の中でも、その後のことも全く説明がない。
  何よりも(すでに繰り返しになるかもしれないが)鳩山政権は、施政方針演説をしていない。自らの行っている政策に関して、国民に一切の説明をしていないのだ。いわゆる密室政治。その上記者クラブ開放もなければ、議員への自由な取材も許されない状態。これでよいのであろうか。
  私は常日頃「民主党政権は、情報操作と言論統制でできた政権」と言っている。結局のところ、言論を自由にしてしまえば、民主党内が意見が一致しえいないことが明らかになってしまう。また、情報を操作しなければ、小沢執行部(鳩山ではない)に対する反対派もさまざまな発言をする。民主党内が意見が一致していないという印象が最も選挙にマイナスである。自民党が支持を失ったのもテレビなどの出演議員による執行部批判が始まりである。民主党にそれらが出ないおは、それだけ執行部に対する反対派が多く、それを力で封殺しなければならないということである。この言論統制がいつ国民に適用されるかわからない。
  言論統制が発生してからでは、景気対策などは関係がない。閔中党一党独裁の共産主義国家になっているのだ。それで日本が守られるのであろうか。現在、民主党に関して何を言ってもよい。なぜならば彼らは、国会で施政方針演説も何もしていないのだ。マニフェストといっても、それを作成した背景やその具体的な内容も何も説明されていない。なぜ「子供手当」のために「扶養控除」が無くなるのか。説明を受けた人がいるのか。そして、それが「内需拡大」につながり、なおかつ景気対策につながるのか。もっと言えば、子供のいない派遣労働者の派遣雇用はどのように維持されるのであろうか。昨年派遣村で「派遣村は許さない」といった菅直人の発言は何だったのか。
  実際、「政府への信頼性」「政府の行った政策がいつ保護になるかわからない不安」ということと、同時に、「子供手当がどうして景気対策になるのか」という説明がない。またそれに対する審議もないのである。これでよいのであろうか。
 
  「蜜月期間」これは、新政権が発足後100日間は見守るというものである。しかし、100日以内にこれらの審議がされるのか否かに関しては、いまだ不明である。
  民主党の国会軽視は、ナチスドイツ型の独裁政治につながる可能性があるということを、国民は歴史を学びながら考える必要がある。

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夫婦別姓を来年通常国会目途に提出。これで日本の「名誉」は滅びるのか

夫婦別姓を来年通常国会目途に提出。これで日本の「名誉」は滅びるのか

 千葉景子法務大臣が9月29日に夫婦別姓に向けた法改正に言及した。
 当然、言及すると言うことは、夫婦別姓を推進し、それに向けた法改正をすると言うことである。
 時期は来年の通常国会を目指すという。

 「数の論理」から言えば、政権党がそういえばそのようになると言うものである。
 よって、法案(具体的には民法の親族編の改正案)ができれば、若干の修正の後に、そうなると言うことを意味する。

 本件に関し、「実利」ということに関しては、大きな差はないのかもしれない。
 法的には細かく決められるのであるから、別姓の子供のことなど、様々が配慮されるものと思う。
 特に直接的な権利関係なども、大差はないのかもしれない。
 法案ができていないので、その内容に関して議論するのは難しい。
 しかし、逆に観念的な部分で、様々な反論は発生する。
 そして、民主党政権、殊に千葉大臣をはじめとする左派勢力の考えることや基本理念が見え隠れするよい例なのかもしれない。

 夫婦別姓ということは、「家」という観念の排除だ。
 「家」とはもちろん建物に関することではない。家系に関する様々な伝統や因習の否定ともとれる。
 このことは、彼らの国家観や天皇家に関する問題に発展する。

 まず、日本人の名前は、「家」を現す苗字と「個」を現す名前で表される。
 古くは、その間に官職名や幼名が入った。
 有名な時代劇で有名な人物で、それをみてみよう。
 少し見づらいかもしれないが、三名の名前を部分ごとに縦に並べてみる。

「苗字・家名」 大岡   長谷川  大石
「官職・幼名」 越前守  平蔵   内蔵助
「名前」     忠相   宣以   良雄          

 たぶん誰でも知っている三人である。
 一人目は大岡政談などで有名な北町奉行「大岡越前」である。
 江戸幕府八代将軍吉宗の幼い頃からの友人で、信任篤く、江戸町奉行を任せられた人物だ。
 テレビドラマの時代劇でも有名である。
 二人目もテレビの時代劇ファンならば誰でも知っている人物だ。
 池波正太郎氏の小説でも有名な「鬼平」こと火付盗賊改の「鬼平」こと、「長谷川平蔵」である。
 そして、三人目は、これは舞台で有名な「忠臣蔵」の主人公、赤穂浅野家の家老「大石内蔵助」である。
 いずれも、苗字、そして官職(もしくは通称)そして個人の名前で構成されている。
 あえて、時代劇の主人公三名をここに出した。
 実際、誰もが親しみを込めて知っている名前は「苗字」と「官職」でしかない。
 たとえば、長谷川宣以と記載して、鬼平とすぐに気づく人は何人いるであろうか。
 大石良雄と書いてしまえば、現代の人物と誤解してしまう可能性がある。
 大変失礼だが、私の友人で「大石良雄」という同姓同名の人物がいるが、
大石内蔵助のような、危機に対する対処方法を身につけているとは思えない。

 苗字と官職名で人を呼ぶのは、当然に、一つには日本は伝統的に「家名」を重要視していたということを示している。
 一方で、平安時代以来の身分制であり、その官職で故障することが例となっていた。
 この慣例は、現代の日本でも延々と続いている。
 他社の人に向かい「部長」「社長」と会社内の役職で呼ぶのは覚えがあるであろう。
 社長の名前や苗字にさん付けで呼称する人は少ない。

 これは日本独自の慣習である。
 たとえば、オバマ大統領を呼ぶときに「ミスター・プレジデント」と呼ぶことはない。
 しかし、日本では「総理」と呼べば、それで誰かがわかるようになっている。
 呼称時のシチュエーションにもよるが、複数いる肩書き、たとえば「部長」「大臣」といったものでも、相手を特定できる。
 元々は、身分制でお互いに上下関係を保つために官職で呼称しているものが、いつの間にか個人の特定呼称になる。
 それだけ、日本国内において、特定呼称における個人特定のコンセンサスがとれているという事であろう。

 一方、名前の正式な呼び名から、官職を入れることはなくなった。
 基本的に明治以降であるが、完全に無くなったのは戦後なのかもしれない。
 明治以降も華族では、そのような慣習が残っていた場合もあるからだ。
 これは、完全に官職世界・身分社会が終了したことを意味する。
 日本人は、応用力があり、慣習としてこれらを吸収する能力に長けている。
 よって、制度として無くなった「官職呼称」を、上記のように個人呼称として昇華させたのである。

 一方、身分制が完全になくなったものの、家族性が無くなったものではない。
 結果的に、「苗字」と「名前」で故障する方式になった。これは現代でも通じている。
 たとえていえば、の名前は「宇田川敬介」であるが、「宇田川」という家の「敬介」という個人である。
 当然に苗字が家を現す。

 家とは当然に建物のことではない。
 家柄、要するに先祖から続く一族郎党の総称である。
 個人が現在ここにいるのは、当然に両親がいて生んでくれたからであり、育ててくれたからである。
 その両親とて同じ事だ。
 要するに個人は、「個」としての存在と「先祖から受け継いだ存在」という面がある。
 裏返せば、「子孫に受け継がせる」という意味もある。 

 「血は争えない」という言葉がある。
 遺伝子といえばそうかもしれないが、同じ人間の遺伝子で、十人十色、顔かたちから性格までよく変わるものだ。
 結局、家柄、そしてその家風に従った育てられ方や価値観がある。
 それらによって、個が決まる。
 個性は、個人の持つ性質と、遺伝子的な血筋の持つ情報、そして育つ環境によって形成される。

 さて、今回の選択制夫婦別姓は、「選択制」といえども、姓にかんして女性を拘束しないと言うことである。
 もちろん、上記のような身分制の喪失により官職名を間に入れるという制度を廃止するというのとは異なる。
 しかし、別姓夫婦の子供たちが、どのような伝統や習慣を継承するのかは疑問が残る。

 ここで、千葉景子という大臣にスポットを当ててみよう。
 千葉景子は、土井たか子のマドンナブームで出てきた「元祖マドンナ議員」ということができる。
 元職というよりは現在も弁護士である。
 その主張は日本では「左翼」といわれる思想に近い。
 北朝鮮の拉致を行ったとして、スパイ容疑で逮捕されたシン・ガンス被告人の釈放を求める署名もしている。
 小泉純一郎元首相が拉致被害者を帰国させるまで「拉致はなかった」とする意見を支持していた議員の一人である。
 この法務大臣で、拉致問題が解決するのかは非常に疑問が残る。
 しかし、今回は拉致問題ではないので、この件に関しては後日に回すことにする。

 さて、この大臣は、それ以外に「男女同権」を強く主張することでも知られている。
 テレビで一時よく出演していた田島陽子女史などと同様である。
 今回の夫婦選択制別姓という制度も、この「男女同権」から発送が行われている。

 要するに、この問題を議論するに当たっては、「結婚して姓が変わることは、男女同権に反する」と解釈されているということになる。

一方、「家」というものを守るとどのようになるのか。上記「忠臣蔵」の大石内蔵助はなぜ仇討ちをしたのか。
 答えは誰でもが知っているが「主君の仇討ち」である。
 ではその「仇討ち」はなぜ行われるのか。
 これの答えは「主君の家名が汚されたのを回復するため」である。
 「家名の回復」ということは、単純に、家柄を守ることそのものが、
そこに使える家臣たちを含むすべての人の「名誉」を守ることになるということになる。
 このほかにも歴史の小説や時代劇を見ていれば、「後世に名を残したい」などということがよく出てくる。
 「名を残す」ようするに立派なことで後世に語り継がれることは名誉なことであるという価値観があった。
 それは、そのまま自分の子孫が名誉な者の子孫であるということで良い扱いを受けるという実利的なものもあるかもしれない。
 しかし、大体の場合、名誉を残すことそのもののほうが、不名誉んまま生きることよりも貴いものとされてきていた。
 昔の人は、「体は五日滅びるが、名誉は永久に滅びない」という思想をもっていた。
 そのことが日本の価値観を作ってきたと言って過言ではない。
 この基本的な価値観が、地域社会の倫理観であり、同時に、犯罪抑止効果などということになっていたのである。
 そして、この名誉の考え方が、論語という学問と武士道という考え方によって、体系化し、
同時にその内容が徐々に民衆に広まって日本全体の不文律を作ってきた。
 日本人は「法律」で定めなくても「常識」という範囲である程度の秩序が守られる。
 西洋のように、宗教観や価値観の教養がなくても、規律が守られるのは、まさにこの「名誉」という感覚に他ならない。
 そして、その「名誉」の感覚は「家格」ということで、自分だけでなく、先祖から、
自分の子孫までもを運命づけるものとなっているのである。

  要するに、「家族性」を守ることそのものは、「日本人の倫理観を守る」ということいなる。

  端的にいえば「男女同権」と「日本人の倫理観」のどちらを優先するかということである。

 さて、結論として、私は当然のごとく「日本人の倫理観」というものが必要であると考える。
 昨今の犯罪の若年化などは、まさに幼少期からの倫理観の欠如によるものが大きい。
 そしてこれらは「軍国主義につながる」という不思議な理論によって、日教組が廃止した道徳教育と歴史教育の削減のたまものである。
 まさに歴史教育がなければ先祖や子孫に関する価値観が芽生えはずもない。
 ましてや「自分たちの先祖は近隣の国に戦争をした犯罪人だ」などと教育すれば、自分をも否定することになってしまう。
 また、道徳教育がなければ、規律ある競争社会が生まれない。
 当然に権利ばかりを主張し義務を履行しない国民性が出てくる。
 他人への責任転嫁ばかりが目立つようになってきてしまうのだ。
 まさにその社会の立役者が、今度は家族制まで廃止するというのである。
 それも男女同権ということだけでである。

何かが間違えているのではないだろうか。
 完全に歴史を否定し、自分たちの民族を否定し、そして国家間を否定する思想であるとしか思えない。
 民主党に政権になりそのような価値観が押し付けられるのはどうかしている。
 そのうえで犯罪の若年化や若者のマナーの欠如を嘆くのは、どうかしているのではないか。
 同時に、権利意識ばかりで義務意識がない状況そのものを作り出す。
 負担もなく子供手当をもらえるとか、高速道路が無料化する(本当は税金化であるが)
などと思っていて権利ばかりを主張する国民が出てくるようでは困るのだ。
 このような基本的な考え方そのものが、日本人の責任感や義務感を完全に欠如させてしまっているのである。

個人的には、夫婦別姓どころか、道徳養育や論語などの中国古典や歴史教育の必余生を感じている。
 実利的に何もないというのではなく、そのような基本的な考え方がどのようになっているのかということを考えながら政策を見てゆかなければならない。

 夫婦別姓を法案提出し、それを社会民主党の福島瑞穂党首が応援するという。
 この二人の女性閣僚が、これらの歴史や日本の監修、不文律女かで育ちながら、それを否定する姿を見て違和感を感じる。
 同時に、この二人が「大臣」と呼ばれて喜んで声のかかるほうに顔を向けるのは、この二人の歴史感覚や監修に関する考え方を疑わざるを得ない。

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鳩山内閣閣僚発言での一喜一憂・ダム・ジャル・為替・株安そして予算の行方

鳩山内閣閣僚発言での一喜一憂・ダム・ジャル・為替・株安そして予算の行方

 9月28日。谷垣禎一元財務大臣が自民党総裁に選ばれた。自民党総裁といえば、当然に総理大臣であった時代と違い、河野洋平氏に続き二人目の「総理でない総裁」が誕生した。河野太郎氏、西村康稔氏との争いで、300対144対54(無効1票)であった。谷垣自民党に関して、期待するという声と今まで通りで変わらないという声が拮抗する。私自身は、党三役といわれる執行部全体の総括でみなければならないと思っている。
 片方で自民党党本部が久しぶりの盛況出会ったのに対し、兜町は別な意味で騒然としていた。今年2月以来の日経平均株価10000円割れと、1ドル88円という円高水準である。これは、鳩山内閣における政策と、閣僚の相次ぐ発言が引き金である。まずは藤井財務大臣である。彼はもともと大蔵省の官僚であり、細川内閣の時も大蔵大臣を経験している。基本的に民主党の中では「財政通」といえる。その大臣が「為替に対する積極的な介入はしない」と発言した。それも、G20の金融サミットでの発言だ。国際社会は当然に敏感にこれに反応する。もともと、通過としてドル安傾向であることは否めない事実だ。これに対して各国政府が協調介入していたために、安定相場を維持してきていた。当然に通過相場の安定は、貿易の安定と企業収益の計画性を維持することを目的とする。企業収益の安定そのものは、それによる社会発展や雇用の安定を生み出し、生活者の平和を維持することになるのだ。
 藤井大臣の発言はこれを否定した。民主党は、マニフェスト、事に子供手当などの配布でわかるとおりに、消費者に資金を渡して内需拡大による景気の維持を目指している。当然に円高ドル安は、輸入促進と内需拡大にはよい。逆に輸出産業では大打撃だ。自動車で有名なトヨタは、1円円高になると年300億の損失になると言う。自動車工業は、一斉にそのようになるであろう。当然に北米・欧州をはじめとする自動車貿易が縮小する。ほかの産業も同じだ。貿易立国として存在する日本の産業そのものの「貿易」を完全に否定してしまう可能性があるのだ。
 このことは、昨年年末に同じ事があった。リーマンショックによる世界的なドル不信と、比較による円高によって、日本の各輸出産業が一斉に生産調整に入った。これにより、派遣労働者の解雇が相次ぎ、「派遣村」を作り出したのだ。民主党副代表(当時)の菅直人は、派遣村に出向いてこれを繰り返させないと行っていたが、民主党政権は、これに対して閣僚の発言で疑似的なリーマンショックを作り出したのである。
 円高ドル安の内容は、民主党の政策そのものである。「内需拡大」という政策そのものが、政治介入で為替に言及すれば、取り返しがつかない状況になる。私が著書「民主党の闇」で記載した「民主党不況」が、徐々に蔭を忍ばせていることに国民は気づかなければならない。
 これに追い打ちをかけたのが、いわゆる「亀井モラトリアム」である。亀井金融・郵政担当大臣は、個人や中小企業における金融債務の弁済を猶予するという。平成の徳政令といえばよいかもしれないが、企業会計原則がしっかりしていて、なおかつ企業会計を公開する義務のある上場会社(銀行を含む)は、貸付債権の貸し倒れや回収延期が発生する。端的に言えば、銀行における収入(貸付金利)が減ると言うことだ。金融機関の収益の悪化は、当該金融機関をメインとする企業組織全体の問題となる。要するに、当該金融機関から追加融資が得られなくなり、貸しはがしが行われる可能性がある。亀井金融大臣は、その辺に関する金融機関に対する補償措置を全く発表していないのが現状だ。これにより、金融機関は収益の大幅な悪化が予想される。最悪の場合、亀井モラトリアムによる平成拓銀ショックが発生する可能性があるのだ。
 貿易立国である日本の、極端な円高ドル安と、亀井モラトリアムによる金融機関への不信は、併せて株安という状況を作り出した。亀井モラトリアムに関しては、鳩山首相があわてて打ち消しているが、一方でそれが強調されれば閣内不一致という事も考えられるのである。これは政治の混乱による日本企業の安定感を疑問視する海外投資家からの投資意欲を削ぐ形にもなりかねない。
 実際に、民主党政権は政権運営になれるなれないという次元ではなく、自分たちの政策を国民に示していない。このことは、将来に対する不信感と、一方で不安定な観測を増大し、それによる経済混乱を招く。前回の、二酸化炭素削減に関しても同じであるが、マニフェストにとらわれて、一部の支持者からの意見しか聞かない政策が、より多くの一般大衆から見放される結果になっている。同時に、官僚組織を完全に切り離したことによって、過去の経験や幅広い意見聴取、分析もすべて民主党と閣僚が直接行わなければならない。少なくとも、それに耐えられるだけの政権基盤や政策理論は民主党にはない。
 このような大臣による発言で一喜一憂しているのが、八場ダムの建設工事の中止と、日本航空の経営再建問題だ。いずれも国土交通大臣である前原誠司の所管である。
 ダムに関しては、マニフェストそのものから、工事中止をうたっていた。前原大臣はその通り実行しただけである。しかし、官僚組織を使わない鳩山政権は、当然にそのための事前調整を政党もしくは前原氏周辺で独自に行わなければならない。ここで言う周辺とは大臣秘書などのことを言う。しかし、それらを全く行わずに「マニフェストに書いてあるから」という状況が生まれてしまうことになる。もっと言えば、マニフェストに書いてあれば、国、政府が何を事前に約束しても、覆してよいと言うことなのか。政府とマニフェストでマニフェストが優先すると言うことになる。逆に行えば、この大臣発言は、政府の信用を失墜させ、政府の公約を政党の公約が覆してよいという前例を作ることになるのだ。
 行政の継続性の問題である。政権交代は、当然に今後の政治の在り方や政策選択を行うものであり、混乱を招く行政の継続性を否定するものではない。検討中の案件の結論の左右は許されるが、国民及び外交上の日本国政府の公約を覆すことまで許されていないのだ。しかし、民主党は国家そのものを否定する政権であるために、その辺のことがわからない。未だに野党のつもりであるから、不都合は官僚や旧政権への責任転嫁をしようとする。しかしそれは許されるものではない。責任はすべて政権政党にあるのだ。
 特に諸外国にとって、政権が民主党であるか自民党であるかという事は関係がない。問題は、日本国政府が約束を守る国家かという事だ。たとえばアメリカであっても、共和党ブッシュ政権から民主党オバマ政権になって、約束を破ってまで選挙公約を守ると言うことはないのだ。イラク撤兵も、イラク政府と調整の上で、それを実行する。準備も何もなく、政権公約に拘束されることはしないのだ。
 では、政権公約にないことはどうであろうか。また国土交通相であるが、日本航空の経営再建の問題がある。日本航空は、空港使用料などの高騰、飛行機機材の仕入れだけで経営が悪化したのではない。そもそもは人件費の高騰が最大の問題である。人件費高騰は、何度か繰り返されるストライキが挙げられる。そのたびにただでさえ高い搭乗員の給与が引き上げられるという事になる。同時に、客室乗務員の派遣労働化など、様々な人権に関する挑戦がなされた。しかし、一方で手が着けられていない聖域がある。それが年金である。厚生年金、いわゆる厚生年金は、当然に過去の高い給与水準を元に計算されている。ストライキがあるという事は、当然に組合勢力が大きく、そのために給与水準や年金に手を着けてこなかった。そこに民主党政権である。民主党政権にとって年金問題は金看板だ。日本航空の経営再建のためといえども、年金に手を着けることはできない。前原大臣は、その板挟みから、空港利用料などの引き下げと言うことに踏み切ることを表明した。これにより公的資金導入を行い、同時にデルタ航空をはじめとする外資導入が見送られることになるのである。
 そもそも、年金は完全に企業経営を圧迫している。アメリカのGMも、極端な言い方をすれば年金で倒産した。組合に関するニュースや年金に関するニュースが連日放映された記憶を持っている方も少なくないであろう。企業にとって年金は、完全に生産性のない経費である。それでも年金基金で運用が成立している間がよいが、運用失敗などの場合は企業からの持ち出しになってしまう。そして、それは毎年退職者と同時に増加してゆくのだ。企業30年説という企業の寿命を言う論があるが、これも創業メンバーの退職年金による企業収益圧迫が大きな要因の一つに挙げられている。
 逆に行えば、前原大臣の発言から、空港利用料などの値下げになり、それは、空港運営会社の収益を圧迫するだけでなく、海外航空会社との競争力を阻害してしまう可能性もある。空港と言っても会社だ。その収益は、設備費(減価償却)や経費などから収益計画を出しているのだ。安易な発言で空港会社の収益が赤字になれば、それも問題となってしまう。
 これら閣僚の発言が、最終的にどのような政策になるのかは不明である。しかし、その内容から導き出される結論によっては、国民生活が大いに制限されてしまう。閣僚の中には、その発言が無責任でころころ変わる人も少なくない。そもそも首相自体、上記亀山モラトリアムに関しては発言が二転三転している。政治家としてそれでよいのであろうか。閣僚には慎重で、自分の発言の意味やその影響を考えて意見表明してもらいたい。もう彼らは野党ではないのだから。

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鳩山新首相の国連外交・二酸化炭素削減公約と生活の変化

鳩山新首相の国連外交・二酸化炭素削減公約と生活の変化

 9月中旬になって、今年は初めて「シルバーウィーク」という連休ができた。
 この連休は、敬老の日を第三月曜日とし、また祭日で挟まれた平日は、国民の休日として祝日とするためできた連休だ。
 もちろん、お盆休みから1ヶ月くらいしかないために、豊富な資金はない。
 しかし、どんな状態であっても「休日」はうれしいものである。この連休を当て込んで、様々なイベントが行われた。
 ショッピングセンターのオープンをあわせたところもある。もちろんセールも多く企画された。

 連休でもっとも「嫌い」な事は「行列」である。
 日本人は、行列を作るのが好きであるという。
 私は日本人であるが、行列はとにかく嫌いなのだ。
 基本的に、ラーメン屋で行列というのは、理解ができない。
 少し、時間や時期をはずして、行列に並ばないで食べたい。どうしても行列ならば、あきらめてしまう。
 小さい頃、昭和二年生まれの父に、「戦時中の配給を思い出すので、食べ物で並ぶのは嫌だ」と聞いて育った。
 私も、戦時中は関係がないが、阪神大震災の後で、「配給」の経験はある。
 家を失い、着の身着のままで非難してきた被災者になって、食糧の配給を待つのは、なるほど情けないものだ。
 それをしなければ食べ物がない、食べることができないのである。
 一方で、自分では何もできない無力さを感じる。
 体力的にも丈夫であるが、実際並んで食料を手に入れる以外、何もできないのだ。
 近親者が亡くなって悲しみに暮れている間はよいが、それだけでは生きていけない。
 何かをしなければならない。
 しかし、その何かができな状態。
 私は、すでに15年になろうとしているが、そのときの気持ちは忘れることはないであろう。
 あのとき、国民のために働いていた自衛隊隊員の姿は、これほど頼りになる人はいないと思った。
 人間は、何もしないで食べて寝ているだけではだめだと、思い知った瞬間であろう。
 もちろん、たまの休日や病気の時を否定するものではない。
 しかし、自分の無力さを感じると、やはり悲しいものがある。

 行列から話がそれてしまった。
 連休中の行列と言えば、何よりも高速道路の渋滞はひどい。
 どの国にも渋滞はあるが、通勤などのラッシュと違って果てしない渋滞が続く。
 今回も、高速道路1000円の渋滞がかなり大きくあった。
 30キロメートル以上の渋滞が全国で66回あったとのこと。
 これは、ゴールデンウィークよりも11回多い記録である。
 この渋滞によって、車1台あたりの排出する二酸化炭素は確実に増えている。
 高速道路1000円は、土日祝日だけの政策であり、民主党政権になっても当面継続するそうである。
 しかし、道路も渋滞し、行楽に行った先でも行列では、本当に困ったものだ。
 このときだけ、日本を見た人がいるとすれば、行列が好きな国民と思うであろう。

 日本には、時間に対する価値観が別枠であるのかもしれない。
 普段、これほどせっかちな国民もいないと思ったが、逆に行列を作り並ぶ事への抵抗感は極端に少ない。
 そこそこ、中流階級で、不況といえども食べるのに困っていないから、生活にゆとりがあるのであろう。
 当然に会社など仕事では、身内と違い他人と約束することであるから、守らなければならない。
 これは義務である。
 一方、身内は、ある程度融通がきく。
 このことが、余暇時間における行列につながっている。
 うまい言い方をすれば、日本人は「ON」「OFF」がしっかりとしているともいえる。
 しかし、せっかくの自分の時間に、わざわざ行列で待ち時間を作る必要もないのではないか。 

 連休のニュースをみるといつもそのように思ってしまう。

 さて、この連休は、政治的には大きな動きがあった。
 鳩山外交のスタートである。
 鳩山は、国連で行われた環境サミットに自ら出席し、1990年比25%削減を公約した。
 もちろん中期の努力目標としているが、実質的に数値を出し、
京都議定書のように各国で足並みをそろえての問題ではないので、実質的に公約と言われても仕方がない。
 この演説において、各国の反応はよかった。
 拍手喝采であろう。
 鳩山首相は、外交の第一歩を成功したかに見える。
 しかし果たして、素直に喜んでよいのであろうか。

 このときに中国もアメリカも、具体的な数字を出さずに削減の努力をすると言う。
 日本は、一見、独自に数値目標を出して積極的に取り組むかのように見える。
 しかし、上記にあるように「外部でした約束は守らなければならない」のだ。
 国連という場で約束した以上、国民のコンセンサスがあろうと無かろうと、それをしなければならない。
 つまり2020年までに1990年比25%二酸化炭素を削減しなければならないという事だ。

 さて、二酸化炭素の排出とは、簡単に言えば化石燃料の燃焼を減らすという事にほかならない。
 化石燃料の燃焼は、生活をそれだけ便利にしたということだ。
 新技術の開発をのぞけば、化石燃料の燃焼を少なくすることは、それだけ便利ではなくなると言うことを意味する。
 簡単に言えば、自動車が電車になり、それでもだめならば自転車などになると言うことだ。
 馬車というのも選択肢にあるが、現在の道路交通法上は非常に困難である。

 単純に、日本の物流の80%以上はトラック輸送だ。
 自動車の良を少なくすると言う、選択肢をとれば、物流がそれだけ停滞することを意味する。

 一方、節電にも限界がある。
 二酸化炭素の排出を25%少なくするとすれば、三日に一日の割合で、冷蔵庫を含むすべての電気を止める必要がある。
 現在電気発生は全体の33%が火力発電である。
 火力と行っても重油ばかりではなく、未だに石炭発電が大きい割合を占めている。
 沖縄で例を挙げれば、本島で5カ所の発電施設があり、そのうち1カ所が石油だ。
 逆に行えば残り4カ所が石炭による火力発電と言うことになる。
 現在の与党の中には、原子力アレルギーの方が少なくないが、原子力発電は、全体の36%(新潟などが稼働するという前提で)である。
 これも火力に直すと言うことになれば、相当な二酸化炭素排出と言うことになる。
 ましてや、二酸化炭素を発生させない水力発電に関し、八ッ場ダム・川辺ダムの中止を公約しており、水力による発電も増加は見込めない。

 これらの事を考え合わせれば、自動車と電気という、日本における重要なインフラ二つを完全に失うことになるのだ。

 産業界にも当然に影響が出てくることになる。
 現在の製造業は、機械化工場がメインである。
 機械は電力で動くが、それら電気を使わない工場は難しい。

 要するに、二酸化炭素の削減というのは、日本の産業構造及びインフラの制限ということを意味するのだ。

 「制限」とは、何もなくす、というものばかりではない。
 新技術の開発や植物燃料の多様化など、様々な方策も存在する。
 しかし、現在確立された技術がない状態での「制限」は、まさに、使用規制やコストアップということにほかならないのである。

 25%削減からは、二つの結論が導き出される。
 一つは、新技術の開発ということになる。
 これは、二酸化炭素排出を制限する新規事業を立ち上げるのだから、当然に各国に歓迎される。新規雇用にもつながるし、新産業の創設にも発展する。
 考え方によっては、日本が資源大国になることも考えられる。
 ソーラー電池や燃料電池、バイオ燃料、今挙げられているクリーンエネルギーは少なくない。
 しかし、いいことばかりではない。
 まず、「これから開発する」ということは、先行投資である。
 すでにある程度成果を上げているものでも、一長一短あり、正式採用には至っていない。
 バイオ燃料は、食料品の高騰を招き、またトウモロコシなどを使わなくても同じは竹における策付け面積が減ると言うことが挙げられる。
 また風力発電は、一機あたりの発電量が小さいこと、想定の風力や風向きが安定しないこと、
またあの風車を回す場合の騒音の問題など様々な問題を抱えている。
 当然に、開発に当たっては、新規開発費用がかかり、そしてそれが100%結実するとは考えられないのだ。
 これを公費で行うとなれば、それだけムダになる税金も少なくないということだ。
 また企業で行うとなれば、それだけのリスクを負う仕事ができるのかという事になる。
 よほど資金的・人材的・資源的に余裕がなければ、それはかなわないことであろう。
 税制の優遇措置なども考えられるが、そう単純なものではない。

 また、時間の問題もある。
 公約は2020年までだ。
 投資が完全にムダだとは言わないまでも、その期限までに成果が出ない可能性は少なくないのだ。
 そうなれば、新技術の開発というのは、「絵に描いた餅」でしかなくなってしまう。
 そうなればもう一つの方法しかないという事になる。

 そのもう一つは使用制限。具体的には環境税の創設だ。
 簡単に言えば、消費税はあげない代わりに環境税などほかの税を新設すると言うことになる。
 これにより二酸化炭素排出に関するすべての物品が値上がりする結果になる。
 実際、公約が果たせない場合の二酸化炭素排出権売買の財源にもなるであろう。
 一方で、インフラの値段の高騰は、そのまま便利さの制限と言うことになり、また産業の衰退を意味することになる。
 燃料を使う工場の海外移転や、会社の倒産が予想される。
 日本産業の至宝である中小企業の経営危機をあおることになる。
 それだけではなく、生活コストのアップが考えられる。
 インフラがあがると言うことは、単に電気ガスの値段が上がるだけでなく、それを使うすべての産業物があがると言うことだ。
 輸送コストが上がれば、すべての物流費が上がることになる。
 店でものを買えば、店の冷蔵庫や照明で電気を使うことになる。
 それら流通過程すべてのインフラコストと、環境税が商品値段に加算されるという事だ。

 鳩山政権は、この25%削減に関して、国連では非常に評判がよかったとしている。
 それはそうであろう。
 日本国の首相は、国民の生活を犠牲にして、新技術の開発を行い、
また、日本企業の海外工場移転を間接的に推進し、そして、地球環境のために日本の産業を破壊してもよいと言うことを、
数字を挙げて表明し、公約したのだ。
 他国にとっては、日本企業が衰退するだけでもありがたい話であるし、
その技術や工場が海外に移転してくれれば、自国の直接的な利益につながる可能性がある。
 新技術の開発投資を自国の税金でする必要はなく、日本が先に日本の税金で推進してくれる。
 その上、全て失敗すれば、二酸化炭素排出権を高値で買ってくれるのだ。
 この公約そのものは、日本以外の他国にとっては非常にありがたい話である。
 もしも、新技術がうまく行った場合も、それを分けてもらえ、その恩恵にあずかることができるのだ。
 何しろ鳩山首相は友愛なのだから。
 鳩山首相の演説を拍手で迎えたとしても、それは、地球環境を考えたものではない。
 単に日本の経済負担により、自国が負担しないでよくなる環境負担や、企業の国際競争力、経済進出、
海外への直接投資などを期待してのことである。

 関西の、経済界のことわざで「よい人、というのはバカと言われているのと同じ」という。
 日本では商売の神様は稲荷神社だ。
 もっと言えば、狐だ。
 狐は、人をだます。
 しかし、狐が人を食べたりはしない。
 生活に困らない程度に少し人をだまして自己の利益にする。
 これが商売繁盛の秘訣という。
 鳩山由紀夫氏のように、はじめからおぼっちゃま育ちの人には、そういうことはわからないのかもしれない。
 しかし、その感覚で国民全体が不便を強いられるのはいかがであろうか。

  さて、これらに関して、民主党は「マニフェストで挙げたとおり」という。
 しかし、その中には具体的なプロセスなどが書かれてはいない。
 要するに、環境税はないまでも、それらの内容の日本国民のコンセンサスはとれていないという事になる。
 マニフェストといえども、結局は子供手当のバラ巻きや高速道路の無料化(税金化)しか話題になっていない。
 しかし、今回の25%削減での国民の不利益や、企業の衰退、強いて言えば国力の削減は、すべて国民が選んだ政権交代の結果である。

 民主党のほかの政策でも、大きく日本を変えてしまう可能性は少なくない。
 しかし、それを選んだのは日本国民自身であるという事を肝に銘じるべきではないだろうか。

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鳩山新内閣組閣

 誤字が多すぎるという指摘のコメントをいただきました。誠に申し訳なく思っております。言い訳はよろしくなく、私の不徳の致すところでございます。ただ、一朝一夕に直るものでもなく、今後とも、「頭の体操」を含めお付き合いいただければ幸いでございます。また、これら苦情は、遠慮なくコメントにおいれください。

鳩山新内閣組閣

 新しい歴史という見出しで、鳩山由起夫が首班指名された。9月16日午後のことである。これにより、羽田内閣以来の自民党以外の連立政権が発生することになるのである。選挙期間中より言われていたのであるが、それが実際に現実に起きた瞬間である。
  何よりもまず閣僚名簿である。

  ▽総理 鳩山由紀夫(衆院) (鳩山グループ)
 ▽副総理・国家戦略局担当相 菅直人(衆院)(菅グループ)
 ▽総務相 原口一博(衆院)(羽田グループ)
 ▽法相 千葉景子(参院)(旧社会党グループ)
 ▽外相 岡田克也(衆院)(無所属)
 ▽財務相 藤井裕久(衆院)(鳩山グループ)
 ▽文部科学相 川端達夫(衆院)(旧民社)
 ▽厚生労働相 長妻昭(衆院)(無所属)
 ▽農林水産相 赤松広隆(衆院)(旧社会党グループ)
 ▽経済産業相 直嶋正行(参院)(旧民社党グループ)
 ▽国土交通相 沖縄北方・防災・海洋担当 前原誠司(衆院)(前原グループ)
 ▽環境相 小沢鋭仁(衆院)(鳩山グループ)
 ▽防衛相 北沢俊美(参院)(羽田グループ)
 ▽官房長官 平野博文(衆院)(鳩山グループ)
 ▽国家公安委員長 拉致問題担当 中井洽(衆院)(小沢グループ)
 ▽郵政・金融担当相 亀井静香(衆院・国民新党)
 ▽消費者・少子化担当相 福島瑞穂(参院・社会民主党)
 ▽行政刷新会議担当相 仙谷由人(衆院)(前原グループ)
 
  あえて、自民党の内閣のように、閣僚の所属する派閥を記載してみた。民主党の場合、一人で複数の政策研究会に参加している場合があり、異論がある可能性もある。さまざまな新聞報道の中で最も大き下記方をされたグループに分類した。
  一目で気づくのが、民主党内の最大派閥小沢グループから一人しか出ていないことだ。また、反小沢といわれる野田佳彦のグループも全く見えない。
  この内容に関する評価は様々である。いずれにせよ、今まで野党として攻撃に回っていた人が閣僚として官僚を統制できるのかが最大の問題ということになるであろう。
 
  顔ぶれ、そして、其の実力に関して未知数でるために、内閣としての特徴をまず考えてみたい。鳩山内閣は、次官会議を中止し、同時に事務次官による記者会見を廃止した。この組閣に関しても15日に決めながら緘口令を強いて情報の流出を防いだ。今回の内閣は徹底した「情報管理内閣」ということができる。逆にいえば「言論弾圧内閣」ということが可能だ。その「言論弾圧内閣」を裏打ちするのが、鳩山内閣の第一の政権公約違反である「記者クラブ制度の廃止」をしなかったことである。
  2009年09月16日19時51分 / 提供:THE JOURNALで週刊朝日の山口一臣氏が書いた記事からそのまま抜粋する。
『上杉氏は、鳩山氏の代表就任会見でも同様の質問をした。それに対する答えは、
(前略)わたしが政権を取って官邸に入った場合、(質問者の)上杉さんにもオープンでございますので、どうぞお入りいただきたいと。自由に、いろいろと記者クラブ制度のなかではご批判があるかもしれませんが、これは小沢代表が残してくれた、そんな風にも思っておりまして、私としては当然、ここはどんな方にも入っていただく、公平性を掲げて行く必要がある。そのように思っています」
 小沢前代表、鳩山現代表がここまでハッキリと打ちだした方針を、一官房長官の平野氏が自らの保身のために撤回してしまっていいのだろうか。

 ついでに、これはわたしは現場にいなかったので、あくまで取材記者からの報告だが、民主党のマニフェスト発表会見でも同じ質問が確認されている。質問したのは、たぶんTheJournal執筆者でもある神保哲生さんだと思う(違ったらゴメンなさい)。質問者が、マニフェストに「記者クラブ開放」が書かれていないことを指摘した。それに対して、鳩山代表はこういう趣旨のことを述べたという。
「マニフェストは国民のみなさんとの約束です。記者会見にどなたでもお入りいただくというのは、記者のみなさんとのお約束なのでそこには書いてありません。しかし、その方針自体はなんら変わることはありません」

 会見に出席した週刊朝日の記者の話によると、鳩山代表がこの発言をしたとたん、場内にざわめきが起こり、マニフェストに対して批判的な質問が急に飛ぶなど、それまでの和やかな雰囲気が一変、険悪なムードになったという。なんだかなぁ......。

 そもそも、いずれも重要な記者会見でのやりとりであるにもかかわらず、新聞、テレビがいっさい扱わないことからして異常ではないかと思う。鳩山代表の就任会見はNHKが生中継していたのだが、ある民主党関係者が後日、わたしに明かしたところでは、こんな信じられない工作がなされていたという。それは、中継の時間中は上杉氏が質問の手をあげても指名しないという密約がNHKと現場を仕切る党職員との間でできていたというのである。なにしろ「密約」なので真偽のほどは定かでない。ただ、事実として、上杉氏の質問は中継されることもなく、新聞記事になることもなかった。

 わたしや上杉氏(やたぶん神保さんも)がこのことにこだわるのは、単にフリーや週刊誌記者だから、会見に出られないからといった次元の話でないことは理解してもらえると思う。また、わたしは新聞社の子会社で働く者として、記者クラブ自体の存在を否定するものではない。既得権を持った者が既得権を維持しようと努力するのも理解できないことではない。残念なのは、民主党の職員や藤井氏、平野氏といった幹部までが既得権者の利益代表となり、歴代代表の方針を握りつぶしてしまったことだ。「公開と公正」(オープン&フェアネス)は民主党政権にとっての魂ではなかったか。』
<以上抜粋>
 情報の管理は悪いことではない。しかし民主党の場合はその体質上、言論弾圧の実質的言論弾圧の風潮があることを指摘する。
『 最後に、この事件に関する民主党の対応である。民主党鳩山幹事長及び、後日会見を行った小沢代表は、離党者に対する議員辞職を迫った。
 そもそも、比例代表選挙選出議員の離党について、明確な規定が存在しないのは、先の憲法の不備と同様に問題である。比例代表制度は民主党という政党を支持し、その民主党が指名した候補が議員になるという制度である。その支持外して、離党し、別な政党を立ち上げるのはいかがかと思う。
 とはいえ、では議員活動をしている人物に対して議員辞職を迫るというのは、言論の弾圧以外に何者でもないであろう。ねじれ国会の運営ではないが、自分の思い通りにならなければ、最も過激な方法で相手を困らせる小沢執行部のやり方に、民主主義という理念とは異なる権威主義、封建主義的な考え方を感じる。それだけ、民主党は不安定で、常にどこかを攻撃していなければならない政党なのであろうか。
 そもそも、小沢民主党は言論を弾圧する政党である。小沢氏は講談社と週刊現代に対して名誉既存の訴訟をしているし、岡田克也副代表は自民党の職員に対して、自分が謝罪会見をした内容を書籍に書かれたことで名誉既存の訴訟を起こしている。いずれも第一審は敗訴している。(岡田議員に関しては現時点で高裁控訴中)
 自分でも認めて、謝罪会見をしている内容で、訴訟を起こすなど、あまり感心できる内容ではない。結局、それだけ「公人」としての自覚もないし、そのようなところに勢力を割くことができるくらい暇な野党ということであろう。
 公人としての自覚がなく、言論やマスコミを弾圧するということは、悪くいえば戦前逆戻りでしかない。それで良いのだろうか。』
 これは2008年9月4日の私の文書(ブログ)からである。「政界の小沢アレルギー、民主党分裂のドタバタ喜劇」とした文書は改革クラブに同調しようとした姫井由美子議員に対する留意工作(強要)などにおいてこの文書を書いている(もちろん私自身が書いたのである)。民主党における栄誉棄損訴訟の異常さなどをみても、実質的に反対意見を封鎖する体質を感じられる。
 事務次官会議の打ち切り、事務次官による会見の禁止、官僚情報の国家戦略担当大臣一元化、いずれも情報をすべて一元管理すると言うことであり、また官僚や党員などによる自由な意見や執行部批判を許さないというものである。そして、これが公約違反であることは間違いがない。まさに、大政翼賛会の再来であり、政府発表は大本営発表と同じである。
 これに否定的な意見の方もいると思うが、では、あえていうが、大臣だけの会見で、批判的な意見と調和した双方意見の発表が期待できるのか。民主党というイデオロギーに支配された公報以外出てこないのではないか。これで行政の中立化が期待できるのか。
 一方で、民主党の攻撃に弱い体質もある。要するに、批判にさらされて解答できるだけの研究がなされていないという事だ。すでに小沢傀儡や二重権力がささやかれている内閣であるが、小沢は、守りに弱い。何しろ二世議員である。同時に、密室主義で秘密主義である。結局、自民党政権よりも密室で何をしているか不透明な内閣が発生することになったのである。
 その上で、顔ぶれをみてみよう。思想的に、元経世会から社会党左派まで幅広い人材である。幅広い人材とは、必ずしもほめ言葉ではない。選挙という求心力でつながっているものの、政策面での統一性はない。逆に言えば、権力と利権に向かって動き出してしまう。このことは、布陣を決めた鳩山政権の性格そのものである。
 実際、16日にすでに、国家戦略と外務と官房長官の間で、主導権争いが繰り広げられている。ある意味では当たり前である。もともと、行政府の長である内閣は、官僚・官吏を束ねて行政を執行する事が本分である。にもかかわらず、官僚を束ねて基本政策を行うのが国家戦略とすると、支配をはずされる官房長官は仕事がなくなってしまう。またどこまでが基本戦略かわからなければ、国家戦略が外交などにも口を出してくる。「一元化」「政治による行政」といっていれば、その境目が難しくなるのだ。その調整ができなければ、当然に官吏は仕事を行うことができず、そして行政サービスは低下する。一時的な「子供手当」ばらまき以上の損失が国民を襲うことになる。
 政策面の統一性がない場合、この主導権争いは政策論や基本概念の差として内閣を直撃する。当然に、閣議なども決まらず行政の意志決定がままならない状態ができる。統一した意識を持つ小沢民主党の意のままに操られることになるのだ。小沢は、当然にそこまで計算していると考えられる。たとえば、国土交通相の人事。前原誠司が大臣であるが、副大臣に社民党の辻本清美、そして民主党でも前原と遠くなった馬淵が就任する。同じ省庁の大臣の中でも、基本思想が異なり意見の統一が難しくなるのだ。 
 政局優先で政策を置き去りにした付けを国民が被ることになる。はじめのうちは、自民党の否定で一致する。国土交通相では、ダムの建築注しなど公共事業の中止でよいかもしれない。しかし、一段落した後に、「日本をどのような国にするのか」というところで、意見が一致しない。当然に、その時点で、行政の意志決定が空中分解する。国家戦略と、行政刷新会議と、そして官房長官での意見の食い違いが、これら調整も困難にしてしまう可能性がある。
 根本的な問題は「これから決める」とした政治姿勢だ。政局中心で行ってきた内容が、今の内閣に現れてしまう。もちろん可能性にすぎないが、壮大な政局論の中に国民不在が見えかくれする。
  もちろん、このような内閣と政権を望んだのは国民だ。国民は甘んじてこれらの選択の結果を受けなければならないのであろう。政局やマスコミの無責任報道ではなく、自分で考えて「政策」を見てゆかなければならないのではないだろうか。

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鳩山政権構想五つの原則の検証

鳩山政権構想五つの原則の検証

 いよいよ民主党政権が16日に誕生する。民主党政権そのものに関しては、読売新聞によると71%が期待しているそうだ。一方インターネットによると期待しているのは30%程度。このギャップに関しては、前得地や、媒体によってさまざま異なると思うが、一概にアンケートを信用してはならないというものではないだろうか。「支持率」という数字で一喜一憂していた自民党の諸先生方に関しては、いかがなものかと考えます。簡単に考えれば、参考意見ではあるがそれに拘束される必要はないというものではないかと考えるのです。
  国民はわがままである。このことは完全に明らかになっている。鳩山民主党連立政権に関しては、「今までと変わる」という期待感があることは事実であろう。しかし、実際に「どう変わるか」ということはない。最近ではその政策の検証が進められているが、誰もが「自分に都合の良い変化」を期待しているのに対し、政策は一つしか選択できない。のこ地の取り残された国民は「裏切られた」という感覚が強くなり、反対に回ることになる。とはいえ「財政」も「税収」も「政策」も限られているので、それらをすべてとることはできない。選挙時に「バラ色」の理想を掲げても、そのようにならないということが出てくるであろう。ぎゃくに「バラ色の理想」を上げればあげるほど、跡が苦しくなるということではないだろうか。「いいとこどり」は「悪いとこどり」になるというのは、過去にいくらでもある話だ。
  このことを検証するのに、民主党の政権公約をまずは、検証してみよう。自民党の総裁選が終わるまでは、本格的な国会運営も少なくなり政策論もそんなに進まないであろう。今ある資料でそれらを考えてみるのは大事なことでる。
  今回は、総論として「鳩山政権の政権構想5原則」を総論的に取り上げてみたい。今回はあくまでも総論的に取り上げるものであり、個別の政策、たとえば話題になっている子供手当や、高速道路無料化に関して細かく行うものではない。
  まず、その政権構想を見てみよう。

鳩山政権の政権構想
5原則
原則1 官僚丸投げの政治から、政権党が責任を持つ政治家主導の政治へ。
原則2 政府と与党を使い分ける二元体制から、内閣の下の政策決定に一元化へ。
原則3 各省の縦割りの省益から、官邸主導の国益へ。
原則4 タテ型の利権社会から、ヨコ型の絆(きずな)の社会へ。
原則5 中央集権から、地域主権へ。

 以上が、民主党の選挙時の政権公約に掲げた原則である。今までの政治は「官僚の丸投げ」「政府と与党の二元体制」「各省縦割り」「タテ型利権社会」「中央集権」であったとしている。しかし、政治主導で内閣の下に一元化しながら地方分権とはどのような論理で行われるのか。「絆社会」とはどのようなものであるのか。そもそも「地方主権」ではなく日本国憲法では「国民主権」ではないのか。かなり法律的な「小学校で習う日本の姿」とは違う内容になっているのはなぜであろうか。選挙用スローガンといえばそのものであるが、これを期待している国民は、憲法などとのギャップと日本の成長の歴史の否定にどのように対処するのであろうか。
 
  さて、ひとつづついてゆこう。
 
  原則1 官僚丸投げの政治から、政権党が責任を持つ政治家主導の政治へ。
 
  まず、この手の原則論をし、過去と現在の比較を行う時には、カkのものが何が悪いのかということを明確にしなければならない。民主党は「自民党は悪い」「自公政権は良くない」とはいうが何が悪いのかを明らかにしていない。完全なスローガン選挙を戦ったものであり、論理的な考え方をしなければならない。雰囲気で政治をされて、最も困るのは我々国民である。
 さて、その上で、まず「官僚丸投げ」は何が悪いのか。イメージ的に官僚政治というと余りよいイメージはない。そもそも、国家公務員は選挙で選ばれているわけではないので、行政において国民の意見を羽石手以内という批判だ。この批判が、今回の総選挙で鳩山由紀夫に「国民の勝利」といわしめた内容であろう。しかし、考えるまでもなく「公務員も日本国民」なのである。全国28万の国家公務員は、国民として勝った選挙が、仕事として負けたということになるのだ。一人の人格で、選挙結果で勝ち負けが分かれるというのもどうか。
 官僚政治の悪さは、その良さや特徴と裏腹である。
 選挙によって選ばれていないーイデオロギーに左右されない
 政権が変わってもそのままであるー行政の継続性が担保される
 長期間同じ仕事ばかりしているー高い専門性が得られる
 利権が集中しているー行政上実行力がある
 身内意識で腐敗が大きいー身内が多いので技術・知識の継承がある
 無責任体質であるー否定的な考えなく仕事ができる
などなど。逆に「政治主導」ということは、政権交代ごとに、行政が変わると言うことを意味する。当然に行政の継続性は失われ、専門性燃えられない状況になってしまう。要するに、上記にあげた官僚政治のよいところをすべて否定することになる。
  さて、それでも腐敗がなくなるなどの利点はあるであろう。一部官僚による犯罪は目に余るものがある。しかし、そのことだけで、ほかの利点を失わさせてよいのかという事だ。数名の犯罪者のために全体を巻き込むことがどれほど迷惑か。至近な例では、振り込め詐欺の横行により、ATMの利用が制限された。昨今では、環境問題でコンビニの24時間営業を問題視する議論もあった。一つをたてれば一つがなくなる。世の中の仕組みだ。当然に、今まで通りの専門性の高い、経験則に従った、イデオロギーに左右されない行政が期待できなくなる。
 特に、行政においては、政治的中立性が必要である。現在政治家と言われる立法府の代議員は、一種のイデオロギーと、そのイデオロギーに支配された背景団体の指示や資金提供を受けて当選している。当然に、経済的な見返りや権利に関する内容を要求する。それがなければ、政治とか変わる必要がないのだ。今まで、官僚という、一般からは隔絶された官僚社会の中で、行政が行われていたので、一般との関わりがなかった。その関わりがあり不正の温床となるから「天下り」は国民に指示されないのだ。一方で、政治家が政治資金・企業献金や団体献金を受けていながら、行政を行うことに関して、天下り以上の不正の温床にならないのか。天下りは、いろいろあっても、官僚を退職した後の話である。一方で、政治家が行政を行えば、その所属政党や政治家本人にたいする企業・団体・組織献金と、行政が関わりがないという事をどのように担保するかの問題となる。個人献金であっても、その個人が団体の代表など役職のある人間であれば、同様の効果が疑われる。
 この、行政の中立化という問題と、一方で、政治献金に関する問題を担保できなければ、単に「民主党は官僚の利権を奪っただけ」という結論になりかねないのではないか。
 残念ながら、現時点において、それらの担保は語られていない。日本人の大好きな「勧善懲悪物語」「水戸黄門症候群」に入ってしまっている。また、それに絶えられないほど、官僚組織がゆるんでいたことも事実なのかもしれない。そもそも、選挙期間中に官僚の業務姿勢を肯定した人がいないのが、悲しむべき事だ。しっかりとメリットとデメリットを把握して行わなければならない。
 いずれにせよ、この問題は、権力とその中にいる人の清廉さの問題だ。制度化するためには、民主党は閣僚(副大臣・政務官を含む)すべてに、すべての献金の禁止を実行し、裁判官と同じくらいの社会的隔絶を実現しなければならないであろう。そうでなければ、この政策・この原則が完遂されることはない。というよりは、利権の略奪でしかなくなる危険がある。
 
原則2 政府と与党を使い分ける二元体制から、内閣の下の政策決定に一元化へ。

 二元体制から一元化という。今までの自民党・公明党が、政党と政府とダブルスタンダードがあったということを意味している。そして、民主党はそれをしないという事であろう。
 そもそも、日本国憲法にあっては、三権分立という崇高な理念によって成り立っている。三権とは「立法」「行政」「司法」である。この件に関しては、これまで何度も言ってきた。小学校の教科書にも書いてある話だ。では、今「政治家」といわれる人は、どこに属する人なのか。答えは、「立法」である。残念ながら「行政」ではない。簡単にいえば、民主党のこの原則は「憲法の三権分立を破棄する」という解釈もできなくはない。
  現在の三権分立の中においては、国会は国権の最高機関であり唯一の立法機関である。一方、行政権は内閣に属するのである。内閣は、行政権の行使において国会に連帯責任を負う。内閣は、その行政組織化における公務員及び管理を使って、行政を行う。日本の場合、議院内閣制であるために内閣の過半数は国会議員によって組織される。しかし、その内閣は「分立した行政府」であることには間違いがない。決して立法府たる国会議員が「一元化」できるものではないのである。
  当然に、政権党は、「内閣」という行政府の部分と、国会で立法もしくは財政(予算を決める)ために、可決する過半数の意思決定政党である「立法府の主導権」の二面性を持つことになる。そして、「立法」から「行政」へは財政や内閣への不信任決議などで監視することが予定されている。一方で、「行政」から「立法」へは衆議院の解散という方法で監視を行うのである。このように相互にチェック機構ができているために、三権分立が成立する。
  国会議員には、当然に「立法府の代議員」と「行政府の内閣構成員」という二面性が存在する。一元化した場合は、当然に、この二面性を否定することになるのである。
  現在官僚政治の打破とか政治主導の行政と言っているが、これが行政の独立性を否定する行為に他ならないのである。逆な言い方をすれば、本来チェック機能である解散総選挙や財政も、恣意的に「政治主導で」行うことになるということを自ら表明しているにすぎない。
  憲法改正なく、憲法の基本原理を変更する「原則」を打ち上げてどうするつもりなのか。二つの方法しかない。ひとつは、行政が完全に「民主党に飲み込まれる」。もう一つは、「民主党の議員税院が行政組織にすべて入り込む」。要するに、いずれかが吸収し一体化する以外にはないのである。
  しかし、実際そうなっていないのは明らかである。現に小沢一郎そのものが内閣に参加せず「党務に専念する」として幹事長を就任が内定している。すでに「政務と党務」というh二元性が存在しているのである。やっていることとと減速が完全に分離している最も顕著な例ではないだろうか。

原則3 各省の縦割りの省益から、官邸主導の国益へ。

 この原則を「省益から国益へ」と読むのはいかがか。そもそも「省益」とはどのようなことをいうのであろうか。
  まず、現象としては縦割り行政経たいする批判が存在することは明らかである。縦割り行政は、行政の無駄と行政サービスを受ける国民のタライ回しが存在することになる。このことに関しては小泉行政改革でも様々に行われてきた。その具体的な方策が「小さな政府」と「民営化」であった。政府の権限を少なくし、国民へのサービスを民営化することによって、国が必要とする経費を最小限にし、財政再建を行う。そのことによって、民間の競争力をつけ、同時に、「民間でできることは民間に」ということで国家の経費を削減することである。これが構造改革である。
  たとえば郵政民営化に関してである。日本の郵便制度は、前島密が逓信大臣として整備した制度だ。当然に、それまでは「飛脚」しかなかったのを誰もがポストに入れるだけで通信を行うことができるという便利さを、国家権力が保証して行わなければならなかった。時代的な背景としては、それまでは、幕藩政治で、廃刀令・廃藩置県があったのちも封建領主的な考え方をする人が少なくなかった。また、戸籍や住民票も整っていない状況では、行政などによって個人を識別しなければ郵便制度は成立しない。当然に明治時代の中期ぐらいまでの期間は、都会は別にして日本全国とすれば、国家権力による通信の保証が必要であったのだ。これは時代や、科学技術的な背景だけではなく、個人の識別や領主意識、人の支配の有無(日本には奴隷制はなかったが、小作人制度などは存在した)など、さまざまな社会的な背景も存在する。それらを超越するのは国家権力による通信の保障である。よって、日本では通信の妨害に関しては「刑法」で罰せられる。刑法という一般ほうに通信の保護がかかれていおり、郵便法などの特別法でないことが、国家による通信の保護を積極的に行っている証拠になるであろう。しかし、逆に国による通信だけを保護する必要はない。宅配便なども保護する必要があるし、郵便局だけを特別扱いする必要はない。法的な保護などを充実させれば、特に、郵便局を温存させ、そこに税金を多く投入する必要はないのである。ましてや、郵便は郵政省(旧)で他の会社が産業であるから通産省や運輸省(旧)など、管轄省庁を変える必要はないのである。
  このように、省庁の変遷や、政府における事業は、このような歴史的背景が存在する。旧専売公社(現在の日本たばこ産業)や、日本交通公社(現JTB)、日本航空、JRなど、いずれも発足当初には国家が資本や環境を整えなければならなかったものばかりだ。たとえば、日本交通公社などは、日本国内の旅行だけでなく日本が固定相場制で、一定の預金がなければ海外旅行ができなかった時代には、海外での安全な旅行の保障のために情報を集約する必要があった。また、日本航空などは、海外との定期便の権利や航空機の安全な運行のため、そもそも航空機の購入には莫大な費用と信用が必要であった。ことに、敗戦国である日本は、飛行機で体当たりする「特攻隊」という方法を戦術的に使用したのであり、その国に大型航空機を持たせることそのものに、世界的な警戒感があったということも忘れてはならない。これらは、社会の発展や日本の世界的な信用の高まりなど、資金的な事情や環境、人的な新翔などによって、徐々に民間にして問題がなくなったのである。これを行うことによって、競争力のあるサービスが発生するのである。
  しかし、これを「省益」と言ってしまうのは、いかがなものか。縦割りであるのは縦割りである理由と歴史があった。当然に、そこに利権が存在し、その利権を話したくない人も少なくない。しかし、それらを改革しなければならないのではないか。
  実際、今回の鳩山政権は、このような理念によって行われた「郵政民営化」を見直すとして国民新党と連立政権を樹立する予定になっている。「旧態依然とした国営のサービス機構が縦割り行政と利権の象徴である」と言いながら「改革を見直す」ということそのものが矛盾しているのではないか。
  同じことは事務次官会議の廃止ということでもうかがえる。事務次官会議が官僚支配のしょうちょうということであるが、官僚のトップが横のつながりを持って意見を調整するのは、何が悪いのであろうか。本来であれば、その会議に政治家や大臣が入ればよいことで、事務次官会議を廃止するものではない。もっといえば省庁間の横のつながりを断ち切り、すべて民主党の政治家(大臣)経由にする必要はないのではないか。言っていることと行っていることが完全に正反対になっている。「原則1」、「原則2」に合わせて考えれば、この原則も当初より実現不能な「掛け声だけ」ではないだろうか。

原則4 タテ型の利権社会から、ヨコ型の絆(きずな)の社会へ。

 タテ型の利権社会。これは、現在の官僚政治に関してそれを言っているのだと思う。そもそも「横型の絆社会」というものがあまりよくわからないので、何とも言えないのであるが、「均分的な平等」を目指しているとすればこの文言こそ「共産主義の実現を目指した」原則であるといえるのではないか。
  利権、つまり行政権の行使によって発生する利益が存在する。その利益の享受が国民に向かっていれば「行政サービス」という単語を使用する。しかし、日本は自由主義であり同時に資本主義であるために、努力した人が努力に見合った配分を受けることができる「配分的平等」の国である。よって、努力または結果(運で結果を得る人もいるので)によって、配分が異なる。それが常習化すれば、当然に上下関係が存在する。たくさんの仕事をする人にはたくさんの権利が付着する。権限が大きければ、それだけ大きな仕事ができる。国家クラスになれば、それは大きな権限になるであろう。そしてその権利を配分的に得ることができる。働かない人も働く人も同じ配分であれば「楽をしたほうが得」ということになる。
  これは、障害者などに働けと言っているのではない。行政のサービスはそのような「身体的な障害で働けない人を保護する」プログラムは必要である。しかし、「なにも辞ない人」「働いてはいたが、すべて娯楽に使用して貯蓄がない人」までを保護する必要はない。昨年末の派遣村の時のように、離職と同時に貯蓄もなく一文無しというのはいささか異常であるように思える。それらの個別の事情が分からないので、何とも言えないが、逆にすべてが税金を使用して救済しなければならない対象であるのかは疑問である。同情すべき事情のある人も少なくないと思うが、自分の税金がそこに使われても保護すべきということを考えるであろうか。
  しかし、「共産主義的均分的平等」をいうのであれば、すべてを保護しなければならないということになる。当然に競争社会はなくなるが、同時に競争の原理はなくなり、誰もが楽をするようになる。「究極の楽」は、働かないこと。他人のために何もしないことである。ここでいう「他人」は親子関係も含まれる。要するに、「均分的平等で成果ができるのであれば、苦しい思いをして結婚し子供を産む必要はない」「子育てをする必要はない」という結論になる。極論ではなるが、バラマキを継続し常習化すれば、少子化は拍車がかかることになる。
  共産主義そのものの批判は、歴史が出してくれている。当然に人間心理、簡単にいえば勤労意欲を奪うということが最大の問題である。絆社会はきれいな言葉かもしれないが、資本主義、自由主義経済の否定を意味している。国民のコンセンサスをそこまでとったつもりでいるのであろうか。

原則5 中央集権から、地域主権へ。

 最後に、中央集権から地方分権という。しかし、この言葉そのものが「内閣の下の政策決定に一元化へ」というものと矛盾している。地域主権が内閣と違う結論をした場合にはどのような調整をするのか。それとも地域の首長まですべて民主党で一元化できると思っているのであろうか。
  ここまで来るとこまごま反論する気は少なくなってくる。極論でいえば「合衆国」にするのであろうか。今まで行ってきた官僚批判や政治の一元化は、この時点で二元政治になってしまっている。
 
  このように、鳩山政権は、「原則」という時点ですでに、日本の歴史や憲法を踏まえることなく、矛盾に満ちた政策をあげているのである。
  すべてが不可能と言っているのではないが、調整をつけるのは非常に難しいであろう。ましてや支持者をすべて納得させるような調整は不可能といってよい。それだけ希望を持たせすぎたとも言える。
  次回からは、個別の政策について、見てみることにするが、この原則が息づいていることを忘れてはならない。要するに「不可能な原則の上に、どのような砂上の楼閣を気づくか」ということを、国民は学ぶ必要があるのではないだろうか。

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