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マスコミ批判に関する一考(341)「素人の代表」として芸能人が何の知識もないの政治や経済についてコメントをしていることを公共の電波で垂れ流していることの問題点

マスコミ批判に関する一考(341)「素人の代表」として芸能人が何の知識もないの政治や経済についてコメントをしていることを公共の電波で垂れ流していることの問題点
 このマスコミ批判では、いつも話題にしているのが「コメンテーター」という人々である。まあ、あるテレビ関係者にその話をしたら「売れない芸人や知識人といわれる人々の救済策」というが、そのようなことで、訳の分からないことを垂れ流されては、はっきり言って迷惑この上ないのである。
  そもそも、「解説者」というのは、「専門的なこと」を「専門家の立場から」話をするものであり、当然に、「公共の電波」であるから、「自分の専門の立場からの意見」をいうことができるとは思うが、しかし、専門家であれば、当然に「双方の意見を述べて、そのうえで、自分の意見を言う」ということができる。まあ、日本の学者などというのは、海外の学者とはレベルがあまりにも違うので、なぜか政治的な話をすることが普通になってきているが、そもそも科学者が政治的な話をしたり、経済の話をすること自体がおかしいのであり、自分の専門分野について話してもらいたいものだ。もちろん、個人的な領域で何を話してもよいが、科学者が、政治を話すのは、今からはなす芸能人という「素人のコメント」と全く変わらないということになるのである。
  さて、専門家というのは、「両論をよく理解したうえで、自分の意見を言う人」であるのに対して、素人というのは、「聞きかじりの生半可な意見しかないのに、それを、双方の意見様々いるにもかかわらず、公共の電波を使って片方の生半可な意見だけを放出している」人でしかない。もちろん、アンケートなどで、多数の中の一人であれば良いが、なぜか芸能人が、芸能人というだけで、「素人の代表」であるかのような話をすることに、非常に強い違和感を感じる。
  まず、単純に「公共の電波」であること。つまり、その電波を受け取る人は、極右から極左までいる。場合によっては外国でもそれを受け取るのである。当然に、すべての少数意見まで全てを出すことは時間的にできないであろうが、一つの意見と、それに反対する意見を双方上げることぐらいはできる。要するに、専門家がいて、その専門家に対して、素人が質問をしているというのであれば、それはまだ理解できるが、素人が素人だけで意見を言って垂れ流しているのは、「その人の意見に洗脳している」ものとしか言いようがない。オウム真理教の時に、「サブリミナル」ということが話題になったが、基本的に片方の意見しかやらないのであれば、それに近いものでしかない。
素人代表としてのTVコメンテーター 外国人には奇妙に映る
 テレビの情報番組やワイドショーをつけると、様々な肩書きの「コメンテーター」たちが政治から芸能ニュースまでアレコレと意見を述べている。しかし専門的でもなければ意外性があるわけでもない、どーでもいい“うす~い”コメントばかり聞かされて、視聴者もいいかげんウンザリしてきているのではないだろうか。
 舛添要一・前東京都知事の問題以降、情報番組やワイドショーでは政治を扱うことも増えている。ところが、「森友学園」問題では、取材は菅野完氏のようなフリージャーナリストに頼るばかり。
 スタジオではコメンテーターたちがわいわいと騒いでは、「国有地払い下げ」への関与が疑われる政治家、国有地を売却した近畿財務局や、小学校設置を認可した大阪府などにはあまり向かずに、籠池泰典・前理事長を批判したり茶化したりするような発言ばかりが目立った。
 そうなってしまう背景を、ネット番組「ニューズオプエド」のプロデューサー・アンカーを務めるメディアアナリスト上杉隆氏はこう推測する。
「記者やディレクターらが面倒な取材に出るよりも、コメンテーターを使うほうが制作費、経費が安く済みます。つまり、ギャラの安い事務所のお笑い芸人や、番組で顔を売って講演で稼ぐ評論家だと廉価でベストというわけです」
 そんなテレビ局と出演者がもたれ合う関係の末に、「51年間の人生の中で国会中継初めて見ましたね」と『モーニングショー』(テレビ朝日系)で言い放つ長嶋一茂氏が、コメンテーターとして森友問題を語るような不思議な事態が起きてしまうのではないか。
“素人代表として必要”との声もあろうが、保育所の待機児童問題を取り上げた『スッキリ!!』(日本テレビ系)では、“2児の母”の松嶋尚美が、
「(収入が)大丈夫な層からは月2000円でも3000円でも上げて、先生たちのお金に回すことができないのかな」
 と発言したことが、所得によって保育料が変わる制度を知らないまま意見していると批判を呼んだ。本当に彼らが素人代表と言えるのか。
 そうした日本の番組は外国人からは奇妙に映っているという。英字サイト「トウキョウ・リポーター」のブレット・ブル編集長もこう話す。
「政治や経済ニュースを扱う番組にコメディアンが出てきたり、経済専門家が芸能ニュースにコメントしたりするのは、欧米では受け入れられないでしょう。
 米国では、ニュースにしっかりとした分析を提供するために、コメンテーターは基本的にはその分野の専門家が担当する。そうすることで視聴者はニュースを正しく、深く理解できます」
 では“専門家”にコメントさせればいいかといえば、そうならないのも日本のテレビの不思議なところ。森友問題では、「専門家」として政治ジャーナリストや政治評論家たちも登場したが、こんな違和感があった。
 時事通信社特別解説委員で政治評論家の田崎史郎氏は、『ひるおび!』(TBS系・3月13日放送)で、
「(土地の)ゴミ処理にどのくらいかかるか“ある人”が試算したんです。そしたら10億円かかると言う。(値引きした)8億円で済まない。財務局から見るとうまく売り抜けた」
 と、“ある人”の試算をソースに、“珍解釈”を披露。
 情報番組に引っ張りだこだった元TBS政治部記者の山口敬之氏も、昭恵夫人が籠池夫人と交わしていたメールについて、
「最後のメールは昭恵夫人なりのお別れのメッセージ」(テレ朝系『モーニングショー』・3月20日放送)
 昭恵夫人付きの職員が籠池氏に送っていたファックスについては、
「谷(査恵子氏)さんのファックスは非常に完璧な答えだったよね、というのが内閣府と官邸の受け止めなんですね」(フジ系『直撃LIVE グッディ!』・3月29日放送)。
 まるで政府の代弁者かのように昭恵夫人や内閣府、官邸の感情を語るのだ。
※週刊ポスト2017年4月21日号
2017.04.12 16:00 ポストセブン
https://www.news-postseven.com/archives/20170412_509024.html
 さて芸能人のコメンテーターの問題点は、まさに、非常に大きな問題だ。まずはそのコメンテーターがどのような出自であり、どのような思想を持ち、どのような背景を持って発言しているのかよくわからない。そのよくわからないということは、どのような危険思想を持っているかもしれないし、また、外国に利することを発言する可能性もある。そうではないという保証はないし、また、普段は芸能人なのであるから、その問題や関連する問題に関して、真実を話すとも限らない。
  そもそも芸能人というのは、私も何度かテレビに出てわかっているが、カンペをどれほど真実らしく読むか、ということであり、芸人などといえどもディレクターの台本道理に話をすることが仕事である。つまり、芸能人を使うということ自体「本人の真実の意見」なのか、あるいは「やらせ」なのか、わからないということになるのだ。
  さて、上記の記事は上杉隆氏に関して書いているが、まあ、政治的な対t場などは彼とは理解できない部分もある者の、マスコミ批判ということに関しては、上杉氏と一致するところは少なくない。
 スタジオではコメンテーターたちがわいわいと騒いでは、「国有地払い下げ」への関与が疑われる政治家、国有地を売却した近畿財務局や、小学校設置を認可した大阪府などにはあまり向かずに、籠池泰典・前理事長を批判したり茶化したりするような発言ばかりが目立った。<上記より抜粋>
  まさに、この中である「茶化したり」という言葉がすべてである。要するに「誰かが言ったような薄っぺらいコメント」ばかりで、なぜ視聴者は怒らないのであろうか。いや、怒っているから、テレビを見なくなってしまっているのではないだろうか。
  最近ネットで「テレビでこう言っている」などということ自体が「バカではないか」「テレビを信用しているなど大丈夫ですか?」などと書き込まれてしまう時代になった。マスコミは、このようなことばかりをしていては、ダメになってしまうのではないか。

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マスコミ批判に関する一考(275) ドラマの視聴率の低さやドラマ人気の欠如を主演タレントに後始末させるNHKの悪辣さ

マスコミ批判に関する一考(275) ドラマの視聴率の低さやドラマ人気の欠如を主演タレントに後始末させるNHKの悪辣さ
 マスコミ批判も275回になった。300回まであと少しである。
  さて、今回は、報道から少し離れて、というのも、朝日系列を二回連続で批判したのであるが、ある先輩から「朝日は批判すればそれが逆に宣伝になってしまうから、適当なところで見ていればよいよ。だって、多くの人が朝日がおかしいということをわかっているのだから。慰安婦訴訟などで、朝日の息の根を止める以外、ネットでの批判は、やめるのではなく、適当に間隔を置いて行うべきである」というようなアドバイスを戴いたのである。そのために、今回は「朝日新聞」からも「報道番組」からも離れて、まったく違う分野でテレビのことを批判してみようと思う。
  その中において、今回記事になったのが「NKK」の「大河ドラマ」である。
  さて、今年の大河ドラマはあまりにも評判が悪かった。
  私が「庄内藩幕末秘話」を書こうと思った時、そのきっかけとなったのは、取材しているときに庄内の人に言われた言葉である。「日本人は人が死なないとドラマにならない。庄内は強くで誰も死ななかったから、あまり語られないんだ」という話しは、庄内藩の話をする時に必ず行う話である。
  さて、その庄内藩の幕末の話ではないが、今年の大河ドラマの『花燃ゆ』は、大河ドラマでワーストの記録ではないかというような言われようをしている。実際に、幕末・戊辰戦争まではそれでも何とかなったが、その後はさすがに地味である。もちろん、明治初期の殖産興業が起きるまでというのは様々な内容があり、また紆余曲折や元武士のプライドなど、さまざまな子ことの葛藤を欠くことができるので、それはそれでよい。しかし、今回のように前半で「幕末・戊辰戦争」を行い、派手な映像を流してしまった後、後半に心の葛藤を描くというのは、さすがに「退屈」になってしまう恐れがあるのだ。
  それがうまく台本や、演出でカバーできればよい。本来ならば、「吉田松陰」など志半ばにして斃れてしまった幕末の志士を、再度「回想シーン」や「夢」などで出して、うまく演出する。しかしそれにはギャラが必要になり、うまくつなげない。それならばセリフなどでうまくつなげばよいが、それもうまくゆかないということになる。
  当然に、視聴率は落ちてしまう。
  もちろん、この内容は主演女優井上真央さん一人の責任ではない。もちろん、井上真央さんがずば抜けた演技力を持っていれば、また変わったかもしれないが、一人の力で何とかなるのは、限界がある。
  当然に、これはスタッフだけでなく、そもそもこの題材を選んだところから、すべての責任が発生している。そして、その「責任」に関して、NHKは逃げまくっているのである。
視聴率ワースト危機『花燃ゆ』 井上真央が後始末させられる
 幕末維新の吉田松蔭の妹・文を井上真央(28才)が演じ、幕末から明治までの激動の時代を描いてきたNHK大河『花燃ゆ』も、12月13日の最終回(第50話)を残すのみ。
 49話までの平均視聴率は11.9%。最終回の数字次第では、『平清盛』(2012年)の12.0%を抜いて大河史上ワースト記録を更新するかもしれないという瀬戸際だ。
「吉田松蔭の妹という無名の女性が主人公なので、その足跡の記録もあまり残されておらず、どんなストーリー展開にするかが難しかった。序盤は脚本家2人でスタートしましたが、視聴率が低調なこともあって、テコ入れで1人追加されて3人に。それでも復調しないので、秋以降は3人とも外れて、新しい脚本家1人に変わったんです。
 それだけに脚本の方向性がブレて定まらず、しかも、その場しのぎでお笑いコンビや人気アイドルを突然ゲスト出演させるなど、最後まで迷走が続いてしまいました。そんななかで取り返しのつかない大騒動が起きてしまって…」(NHK関係者)
 ドラマの迷走に大きな被害を受けたというのが、文にゆかりのある山口県防府市だ。長州(山口県)出身の文と夫の楫取素彦(大沢たかお・47才)は、富岡製糸場のある群馬で活躍した後、防府市で30年以上の余生を過ごし、ふたりの墓もここにある。そこで市は1億2000万円をかけて『ほうふ花燃ゆ大河ドラマ館「文の防府日和。」』を作り、ドラマ初回に合わせてオープンした。
 JR防府駅近くの複合商業施設内にあるドラマ館には番組関連のパネルや撮影衣装がズラリ。ドラマの舞台となり、知名度がアップして市民や観光客が多数来場―と見込んでいたのだが、雲行きが怪しくなった。
「当初、最終回までの数話は防府市がドラマの舞台になり、この地に日本初の仏教系の幼稚園を設立した文が園児らにおにぎりを作るシーンなどがあるはずでした。ところが、序盤の長州編の視聴率がイマイチで、群馬に舞台を移すとやや上向きになったので、脚本を変更。最終回は東京にある鹿鳴館で文と楫取がダンスを踊る華やかなシーンになり防府市でのシーンは一切なくなってしまったんです。ドラマ後のナレーションで触れる程度でしょう」(前出・NHK関係者)
 その結果に、防府市の市民は困惑しきり。大河の舞台にならないのにドラマ館があるなんて前代未聞だと批判の声が上がった。
「最後まで登場しないことがわかり、市民からは『税金の無駄遣いじゃないか』との声も上がり、市長も『約束が違うんじゃないか』とNHKに抗議したそうです。おかげで市民の“大河熱”もさっぱり盛り上がらず、ドラマ館はいつも閑散としていて、年間30万人の入場予定が11月末にようやく5万人を達成した程度ですから」(防府市役所関係者)
 防府市はドラマ館運営のため、NHKに企画料などを支払っている。そこで、市長の抗議もあって急きょ決定したのが、あるイベントだった。
「12月13日の最終回放送日、防府市公会堂に井上真央さんを呼んで、防府市民と一緒にドラマを鑑賞する会が催されることになりました。事実上の“お詫びイベント”です。市長は『大沢たかおさんも呼んでほしい』とNHKに伝えたが、映画の海外ロケ中ということでNG。大河の責任者であるチーフ・プロデューサーも出席しない。結局、責任を取っていらっしゃるのは、井上真央さんだけ。後始末を丸投げされてかわいそうですよ」(前出・市役所関係者)
 防府市産業振興部はこう説明する。
「防府市がドラマの舞台になることを期待していたので、正直、残念です。イベントは市の企画ではないので、詳細はNHKに聞いてください」
 NHKはこう回答した。
「制作過程についてはお答えしていません」
 井上はただ1人責任を取って防府市民とともに最終回を見る。
※女性セブン2015年12月24日号
2015年12月13日 16時0分 NEWSポストセブン
http://news.livedoor.com/article/detail/10947980/
 私のブログの中では、主に「権利」と「責任・義務」のバランスということを善く書く。
  その内容に関しては報道や情報番組でも当たり前のことだし、民主主義においては当然に政治も何も民主主義の責任の範囲内になる。これは「ドラマ」であっても同じ枠組みである。
  しかし、残念ながら、NHKの場合は、それをすべて主演女優に押し付けてしまう癖がある。例えば、依然の大河ドラマ「江」では、主演の上野樹里さんが、主役であったが、これもまたひどいできであった。この酷い出来が問題となり上野さんはあまり芸能界でも注目されなくなってしまう。女性ばかりではない。「平清盛」では、やはり「汚い」などのクレームが来て松山ケンイチ氏がバッシングを受けることになる。
  さて、本来これらは演出・脚本・制作の人々の責任である。実際に出演者・俳優・女優は、すべて脚本の通りに忠実に行っているのであり、その内容に反してしまえば、監督などが編集してしまう。にもかかわらず、出来上がった内容にクレームがつくと、今度は編集権のない女優が「最も目立つ」という理由で責任を取らされる。まさに、その人が「すべて悪い」かのごときで、結局、ほかの人日は「編集権」「制作権限」があるにも関わらず、それに伴った「責任」を負うことなく、完全に逃げてしまうのである。
  では、「視聴率が悪いから脚本家や演出家、監督などが責任を取らされた」というような話を聞くであろうか。その様なニュースは全くない。これは紅白歌合戦でも同じで、そもそものメンバー機目からスタートし、出演交渉がうまくゆかなくてもだれも責任を取らない無責任体質になる。
  そのうえ、NHKの大河ドラマくらいになると、「男女平等」が激しく、毎年主演が「男女交互」になる。しかし日本史は、そのようにはなっていない。例えば家系図などを見ても「男性の名前」はしっかりと書いてあっても、女性の場合は「女」と書かれるだけである。当然い女性で名前が残っているのは「通常ではない場合」でしかなく、それを歴史としてドラマで残すことが良いのか、というような問題もある。そのように考えれば、そもそも男女平等ということ自体が問題である。女性が、主役になれば、「想像で埋める部分」が非常に多くなり、その分、創作色が強くなり歴史をよく知っている人からすれば「作り物」というような感覚が強くなる。要するに「歴史時代ドラマ」ではなく「NHKの考えるファンタジー」になってしまうのである。そのうえ、それが、現代の風刺などになっていれば、当時の価値観とは全く異なることになり、「安っぽい」感じがしてしまうのである。
  このように考えれば、そもそも「男女平等」ということ自体が最大の問題であり、NHKの歴史認識や、その歴史に女性を無理やり主人公に持ってこようとする「歴史的価値観のゆがめ方」が問題となるのである。
  その様な反省も、結局NHKの人々が責任を全く感じずに、主演女優に押し付けてしまうので、いつまでたっても治らない。要するに、将来有望な女優や俳優のNHKの無計画と歪んだ歴史認識からの犠牲者が増えるのである。
  日本の「公共放送」が、歴史が苦手という、何とも悲劇的滑稽の最たるものである。
  NHKは、いつになったら誤った価値観を捨て、行き過ぎた女性上位の感覚を捨てることができるのか。歴史をありのまま受け入れることができないから、現代の内容も偏向報道になってしまうのである、ということをそろそろ気づいてもよいのではないか。

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アンドロイドが落語の高座に!? 文化と科学の融合か!!

アンドロイドが落語の高座に!? 文化と科学の融合か!!

 先週・今週はなんとなく中国の薄氏に関することであわただしい二週間であった。そのために、なんとなくあわただしくて、方々に御迷惑をおかけしている。
 このようなときこそ、心に余裕を持たなければならないのであるが、やはり様々な部分で忙殺されてしまう部分が少なくない。このために、なんとなく行き違いなどもあり、なかなか大変な部分が存在するのである。実際に、このブログでも報告したように、私に直接インタビューもしないで勝手な推測や妄想を書く人が少なくないのも事実。嘘だとかねつ造だとか言っていただいてありがたいことであるが、実際に「根拠がないから嘘」と言うその言葉にそもそも「根拠がない」のであるから、いったい何の基準なのかとも思う。
 単純に考えて、彼らの頭の中の妄想の範囲を超えた場合は、すべてがウソになってしまう。しかし、日本のことわざには「事実は小説より奇なり」という言葉があるように、実社会においてはわれわれの想像をはるかに上回る、妄想の世界をはるかに超えた「想定外」が少なくない。もちろん犯罪や危機管理など政治に関しては「想定外」はその存在自体が「不作為の作為」として非難されるが、実社会における「妄想を超える想定外」は、実は日常の中にたくさん潜んでいるのではないか。とくに「うれしい誤算」と言うのは、非難されることもなく、日常にいつでも存在するものである。
 私にとって「妄想を超えた想定外」のニュースが飛び込んできた。もちろん「想定外」が許されるうれしいニュースである。意外と私について知らない人が多いので、予めここで断わっておくと、私はそれほど重度ではないが「落語好き」であり、特に人間国宝の「桂米朝師匠」の大ファンである。もちろん大ファンであるといっても、実際に会ってお話ししたことやインタビューなどをしたことはない。しかし、マイカル時代は関西に住んでいたので、毎年サンケイホールで正月に行われた「桂米朝一門会」などは欠かさず足を運んだ。最近ではなくなったカセットテープの桂米朝落語全集は、擦り切れるまで聞いたほどである。
 東京生まれの東京育ちの私にとって、マイカル(当時はニチイ)に就職し、関西の本社に転勤になった時、この桂米朝師匠の優雅で高貴な関西弁がどれほど私のことを支えてくれたのかわからない。しかし、この米朝師匠の噺(落語の場合は口に新しいと書く「はなし」)を、東京でも気軽に聞くことができないか、何か悩んだときや困った時に米朝師匠の落語を聞きながら、いつも思うことであった。
 その夢が「アンドロイド」でかなうという。とりあえず、少々興奮気味であるが、その産経新聞の記事を見てもらいたい。

米朝さんそっくりのロボットが高座再現も 米寿記念の行事発表

 今年11月、87歳を迎える落語家で人間国宝、桂米朝さんの数え年での米寿を祝う行事「米朝一門夏祭り」と「桂米朝展」の概要が21日、発表された。米朝さんそっくりの精巧なロボットが米朝さんの高座を再現するユニークな試みも予定されている。
 会場は大阪市北区のサンケイホールブリーゼで、夏祭りは8月1~3日と9日の4公演。米朝展は1~9日。夏祭り初日は「淀の鯉」「一文笛」など米朝作品、2日目は米朝十八番「地獄八景亡者戯(もうじゃのたわむれ)」のリレー落語。3日目は枝雀さんら一門の故人の高座を映像で再現、最終日は永六輔さんや小沢昭一さんらがトーク企画に駆けつける。
 劇作家、平田オリザさんと共同でロボットと人との演劇公演を行うなど世界的なロボット研究の権威、大阪大学の石黒浩教授の協力で、現在、米朝さんそっくりのロボットを制作中。米朝展で展示される。チケット発売は26日から。問い合わせはブリーゼチケットセンター((電)06・6341・8888)へ。

2012.5.21 22:30  産経新聞
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/120521/ent12052122310014-n1.htm

 ふだん伝統文化と言うと皇室や貴族、華族のことばかりを言っている。今日は、土曜日で軽い話題の日なので、その辺の難しい話は少し失礼させていただいて、落語について語ってみたい。
 落語なども重要な日本の文化だ。とくに米朝師匠の「地獄八景亡者戯(もうじゃのたわむれ)」は、絶品。実際に学生時代に聞いたことがある。何しろ1時間にわたる長丁場の落語。お囃子なども様々取り入れられた実にすばらしい。「落語」という「大衆文化」ではなく、これは一種の芸術品に近いものではないか。いや、大衆文化がある意味で芸術に変化する瞬間がこの落語の中に隠されているような気がする。もちろん、異論はある。そんなことはファンにとってはどうでもよいことだ。最近では長く高座であまりやられなくなったこの題目を、一度見てみればだれでもわかる話であると思う。
 落語は、儀式ではない。逆に、大衆文化出るからそれだけ良いことがある。時流を取り入れ、またその時に流行した内容をいくらでも出すことが可能だ。大衆と言うものはそのようなものだ。基本的な流れの中に、風刺や流行を取り入れて、その時その時に形を変えてゆく。しかし、基本的な形は変えない。それが落語の「オチ」の部分だ。決めどころは変えず、笑いを執りながら興味を引き付けてゆく。まさにこの技法こそ、今の政治にも経済にもすべてに必要なものではないのか。今の政治やマスコミは、この「基本の部分」までぐらついてしまうか、あるいは全てを基本通りにまじめに再現してしまって、風刺や流行からかけ離れてしまう。そのために両極端に進んでしまい、どうしてもその双方の良さを両立することができない部分が少なくない。桂米朝師匠のこの落語は、まさに、その良さをしっかりと体現する内容になっているのではないか。
 私にとっては、その米朝師匠の落語がアンドロイドであっても再現できるという。なんと素晴らしいことであろう。私の頭の中では妄想だにしていなかった「うれしい想定外」である。もちろん「想定外」であっても批判する対象ではない。逆に大歓迎である。これこそ科学が日本の伝統や文化を守るという話なのではないか。
 ふだん、どうしても政治や文化や伝統と言うと難しく考えてしまう。しかし、少しブレイクして笑いと政治、そしてその中から我々が何を学ぶことができるのか。そのような話をしっかりと考えてみるのも良いのではないか。
 なんとか、チケットを手に入れて「地獄八景亡者戯(もうじゃのたわむれ)」を見たいと、予定の調整などを考えているところである。

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